Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

南京、幻の投降勧告 まとめ


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南京攻撃戦は自然、同地官民に幾多の犠牲を来すべく、尚、孫中山陵、明の高陵其の他、南京城内外の文化的史跡等の損害を招くことあるべきを慮り、各軍に令じて、先づ南京城外に於て其の隊伍を整へ、正々堂々、秩序ある入城を行はしめんと欲し、夫々懇切なる諭示を与ふると共に、南京敵軍に対し懇切なる勧降文を散布し、努めて平和的手段に依り南京攻略の目的を達せんことを欲したるも、敵軍の態度之に適はず、飽く迄南京城の防衛を行ひたるを以て、遂に南京城内外に於て相当なる戦斗を惹起し、自然、戦禍の及ぶ処甚大なるに至りしは遺憾の至なり。尚、敗走せる支那兵が其の武[✕器✕]<装>を棄て所謂「便衣隊」となり、執拗なる抵抗を試るるもの少からざりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明かにすること難く、自然、一般良民に累を及ぼすもの少からざりしを認む。

松井石根 昭和二十年十二月 支那事変日誌抜萃(防衛省防衛研究所 支那-支那事変日誌回想-309)

 

四、私は12月8日、軍司令官に同行蘇州の司令部陣営に赴きました。
 蘇州に着任せる松井大将は、南京攻略に当たり出来得る限り無血入場、また中国首都の破壊を極力回避する主旨のもとに、12月9日、降伏勧告文を作成、飛行機を以て南京場内に投下し、更に12月9日前後と思いますが、松井大将は日本軍の各部隊が先陣を競い支離滅裂のまま南京攻略が行はるれば自然、首都の破壊、良民の受難を一層悲惨ならしむる事を憂え、日本軍の全部隊に対し総攻撃停止の命令を発せられ、各部隊は南京城周囲の各部処に整頓し、総攻撃の命令を待機していました。しかして大将は中山陵その他の文化施設や外国権益の保護、および軍紀·風紀の粛正等につき全部に訓示しました。
 12月8日夜半(午前2時頃)突然私は参謀室に呼ばれ、次の如き意味の文章を中国語に翻訳させられました。
「勧告文に対する回答は12月10日正午、中山門外大句容道上の歩哨線において受領すべし。もしも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣するときは、該処において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂ぐる準備あり。もしも該指定時間に何等の回答に接し得ざれば、日本軍は已むを得ず南京城攻略を開始すべし」
 右の文章は12月9日、飛行機により投稿勧告文とともに南京城内に投下せられました。
 私は12月9日早朝、蘇州より塚田参謀長、公平参謀、中山参謀の3名と共し自動車に分乗、南京郊外に至り、その夜は某部隊に1泊、12月10日午前11時、前期塚田参謀長、公平参謀、中山参謀、私の4名、中山門外に至り、敵軍使の来るを午後1時に至る2時間待ちたるも、遂に敵軍使は姿を見せず、塚田参謀長以下私たち3名は中山門外を引揚げましたが、その後直ちに総攻撃の命が下ったのだと思います。

↑極東國際軍事裁判速記録. 第310號 (昭和22年11月7日)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269566/11
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269566/12

 

 大将は前述の南京攻略に関する命令訓令地図等を十二月八日参謀長外参謀二人をして上海派遣軍司令部に携行伝達せしめ、別に第十軍に対しては他の参謀を派遣して全軍に徹底する様に処置したのである。
 猶ほ大将は、予ねて東京より伴ひ行きたる、中国通岡田尚に命じて次の如き意味の文章を中国語に翻訳せしめた。
 「投降勧告文に対する回答は、十二月十日正午中山門外大句容道上の歩哨線に於て受領すべし。若しも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣する時は、該所に於て本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂ぐる準備あり、若しも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば、日本軍は已むを得ず南京攻略を開始すべし」、
 右の文章は十二月九日飛行機により投降勧告文と共に南京城内に投下された。
 十二月十日午前十一時より中支那方面軍の塚田参謀長、中山参謀長岡田通訳官等は中山門外に到り、中国軍使の来るのを午後一時迄約二時間待ち居りたるも、遂に姿を見せざるにより、午後二時より南京城の攻撃は開始せられたのである。

↑A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.3.22~昭和23.4.16(第398~416号) https://xn--www-x83b.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340253 p.218
(速記録第411号所収、松井石根弁護側最終弁論から)

 

Def. Doc. No.1345-A
   証 明 書

一、昭和十二年八月 上海派遣軍編成の時に与へられたる命令原本

二、同年十月 第十軍編成のときに与へられたる命令原本

三、同年十一月 中支那方面軍編成のときに与へられたる命令原本

四、同年十一月 中支那方面軍に与へられたる作戦地域指定の命令原本

五、同年十ニ月一日 中支那方面軍に与へられたる南京攻撃命令原本

六、同年十二月二日 松井司令官の発したる命令原本
右に付属せる訓令、地図の原本

七、同年十二月九日 支那軍に対する投降勧告文の原本

右の文書は調査の結果、現在当局に保存しあらざることを証明す。

   昭和二十二年五月一日
       第一復員局文書課長 美山要蔵

右署名捺印は立会人の面前にてなされたることを証明す。

   同日於同所     立会人 上代琢禅

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.83)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340149 p.7

 

5/5 Rejected
Def. Doc. #1075

   南京最期の日来る
    けふ正午の期限!
     敵軍に投降を勧告す
      回答なければ断乎進撃

「上海本社特電」(9日発)
上海軍9日午後7時発表、松井最高指揮官は本日正午、飛行機により南京防衛司令官に対し投降勧告文を投下し、10日正午までに回答を要求せり。

「投降勧告全文」

   城は正に我包囲下
    今後の戦一利なし

「上海本社特電」(9日発)
南京総攻撃を前に日正午、松井司令官は南京防衛司令官康生智に対し、二十四時間の期限を付け、10日正午迄に降伏する様、飛行機より勧告文を投下せしめた。その全文、左の如し。

     △△△△△△△△△△△△△△△△

日軍百万、既に江南を席巻せり。南京は正に包囲の中に在り。戦局の大勢よりみれば今後の交戦はただ百害あつて一利なし。惟ふに江寧の地は中央の旧都にして民国の首都なり。明の孝陵、中山陵等、古蹟名所蝟集し、宛然、東亜文化の精髄の観あり。日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆及び敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てし、之を犯さず。東亜文化に至りては之を保護保存するの熱意あり。而して貴軍交戦を継続せんとするならば、南京は勢ひ必ずや戦禍を免れ難し。而して千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営は全く泡沫とならん。仍つて本司令官は日本軍を代表し貴軍に勸告す。即ち南京城を平和裡に開放し、而して左記の処置に出でよ。

       大日本陸軍総司令官 松井石根

本勧告に対する回答は、12月10日正午、中山路、句容道上の歩哨線に於て受領すべし。若しも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣する時は、該処に於て本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂行するの準備あり。若しも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば、日本軍は已むを得ず南京城攻略を開始せん。

 

Def. Doc. #1075
    文書成立に関する証明書

私は帝国図書館長の職に在るものなる処、茲に添付せる日本語にて書かれたる「南京最期の日来る」と題する新聞記事は、本館の保管に係る昭和12年12月10日付国民新聞に揭載せられあり、同紙の正確なる抜粋なることを証明す。
      於東京  帝国図書館長 岡田温
      第26号 昭和22年4月4日

右署名捺印は私の面前に於てなされたるものなることを証明す。
      同日於同所  立会人 上代琢禅

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.84)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340150 p.12-p.17

 

○伊藤弁護人 次に弁護側文書1075号を証拠として提出いたします。本書は1937年12月9日 支那側南京守備軍に対して、松井司令官の名において撒布されたる投降勧告文でありまして、これによつて南京を戦火より免れしめんとした日本軍の措置を立証いたします。

MR. ITO: Next we will produce defence document No. 1075 in evidence. This document is the text of the surrender recommendation distributed in the name of the Commander, MATSUI, among the Chinese garrison troops in Nanking on December 9, 1937. This testifies to the measures taken by the Japanese forces to save Nanking from war disaster.

THE PRESIDENT: Brigadier Nolan.

○裁判長 ノーラン代将

BRIGADIER NOLAN: May it please the Tribunal, this is an attempt to prove an advice to surrender through the medium of the newspaper dispatch. It is submitted that it should be proved by production of the statement.

○ノーラン検察官 これは降伏勧告を新聞の電報によつて立証しようとする試みであります。これはその文献を提出し、そうして立証すべきであります。

○伊藤弁護人 弁護側はこの原文を求めるために第一復員局に問い合わせたのでありますが、第一復員局においては現在この文書がないということを証明してまいりました。

MR. ITO: In an effort to find this original the defence inquired the First Demobillization Bureau and received from the said Bureau that it at present does not have such a document.

THE PRESIDENT: The Tribunal by a majority upholds the objection and rejects the document.

○裁判長 多数決により法廷は異議を容認し、文書を却下いたします。

↑極東國際軍事裁判速記録. 第210號 (昭和22年5月5日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269466/8

↑A級極東国際軍事裁判速記録(英文)
昭和22.4.30~昭和22.5.5
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340314
p.359-p.360

 

In some cases a peculiar form of treachery was practiced to persuade men to admit that they had been soldiers. Using the proclamation issued by General MATSUI before the Japanese Army took Nanking, and distributed widely by airplane, the proclamation which declared that Japanese Army had only good will for peaceful citizens of China and would do no harm to those who did not resist the Imperial Army, Japanese officers tried to persuade many Chinese to come forward as voluntary workers for military labor corps. In some cases Japanese officers urged Chinese men to come forward, saying, "If you have previously been a Chinese soldier, or if you have ever worked as a carrier or laborer in the Chinese Army, that will all now be forgotten and forgiven if you will join this labor corps." In that way, in one afternoon, two hundred men were secured from the premises of the University of Nanking and were promptly marched away and executed that evening along with other bodies of men from other parts of the safty zone.

或る場合に於ては彼等が以前兵隊であつたと云ふことを認めさせる為に、一つの裏切り行為がなされたのであります。
〔林モニター 卑怯なる手段を以て。〕
日本軍が南京を占領する以前に、松井大将の布告せる文書、是は飛行機に依つて広く分布されたのでありますが、此の布告の文書の要旨は、日本軍は中国の平和的な臣民に対しては唯友好を以て臨むのであつて、抵抗せざる者には害を加へないと云ふやうなものでありますが、之に依つて日本の将校は、中国人に自ら進んで日本軍を援助する労働者団体を作ることを説いたのであります。
〔林モニター 訂正、其の前の証人の答の所を訂正致しましたが、其の訂正を又訂正致します。卑怯なる手段と申しましたが、それは特殊なる方法を以てと訂正して戴きます。〕
或る場合では日本の将校が中国人に向かつて斯う云ふことを云ひました。若し君達が以前支那の兵隊であり或は中国軍隊の為に労役に服したことがあるにせよ、若し此の労働奉仕団体に進んで参加するならば、さう云ふことを総て忘れて上げようと言つたのであります。斯くの如くして一日の午後で南京大学校内より二百名の健康な人間を拉致し、直ちに何処かへ伴れて行つて、同日夕方安全区内の他の地域から同様な手段を以て拉致した人間と共に射殺したのであります。

↑A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和21.7.29~昭和21.7.31(第2616~2947頁)
1946年7月29日 ベイツ証言より
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340262 22-23

↑極東國際軍事裁判速記録. 第36號 (昭和21年7月29日)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269324/4
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269324/5

 

Wir sind ununterbrochen von 6 Uhr früh
unterwegs, um uns über diese Untaten genau zu informieren. Han wagt sich nicht aus dem Haus heraus. Die japanischen Offiziere sind alle mehr oder weniger höflich und korrekt, aber die Mannschaft ist zum Teil verheerend in ihrem Auftreten. Und dabei werfen die Leute Propagandamaterial von den Aeroplanen, in dem sie der Zivilbevölkerung ankündigen, daß sie jeder Hinsicht human behandert werde

私たちはこれらの凶行について詳細な情報を得るために早朝6時から休みなしに出歩いている。ハン[韓]は怖くて家から出て来られない。日本の将校は多少とも礼儀正しく几帳面だが、一部の兵卒の素行は破壊的だ。その傍らこの人たちは、あらゆる観点から人間的な扱いをすることを一般市民に告知する宣伝物を、飛行機から投下するのだ。

We have been under way without rest since six this morning, trying to gain exact information about these depredations. Han doesn’t dare leave the house. The Japanese officers are all more or less polite and correct, but the behavior of some of the rank and file is disastrous. Meanwhile these people are dropping propaganda material from airplanes announcing that the civilian population will be treated humanely in all respects.

↑安全区国際委員会委員長ジョン·ラーベの日記(12月13日)から

 

大陸指[大本営陸軍部指示]第九号
   指示
[前略]
三、宣伝、謀略及一般諜報は方面軍司令部附少将をして実施せしむべし。
 但、報道は「報道部発表」の形式に依る。謀略に関しては別に指示する所に拠る。
四、瓦斯並催涙筒の使用に関しては更めて指示を待つべし。
  昭和十二年十二月一日

↑指 巻2 第9号~31号
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14060925900 p.1-p.2

 

  12月4日  晴

[前略]

《南京外郭攻撃命令下付》

 仍て軍は両軍をして更に南方[ママ]城外郭の線に向ひ攻撃を命じ、南京城攻略を準備せしむ。蓋し、南京城の占領は両軍部隊の随意攻撃に放任せず、方面軍に於て之を統制し、秩序ある占領を遂げんとの意なり。又、入城前、蔣介石又は守城者に対し投降勧告を与へ、可成南京城を破壊せず、住民の被害を避けて之を占領せん予の意なり。

松井石根 戦陣日誌 昭和12.11.1-13.2.28(防衛省防衛研究所 支那-支那事変日誌回想-308/偕行社 南京戦史資料集Ⅱ )

 

【極秘】

【受付 12年12月7日 参1課】
中支方面軍司令部 印刷

  南京城攻略要領

一、両軍は中方作命第27号に示す線に進出して、爾後の攻略を準備す。

二、南京守城司令官若くは市政府当局、尚残留しある場合には、開城を勧告して平和裡に入城することを図る。
此際、各師団は各々選抜せる歩兵1大隊を基幹とする部隊を先づ入城せしめ、城内を地域を分ちて掃蕩す。

三、敵の残兵、尚城壁に拠り抵抗を行ふ場合には、戦場に到着しある全砲兵を展開して砲撃して城壁を奪取し、各師団は歩兵1連隊を基幹とする部隊を以て城内を掃蕩す。
 右以外の主力は城外適宜の地点に集結す。

四、城内掃蕩に於ては作戦地域を指定し、之を厳に確守せしめ、以て友軍相撃を防ぎ、且、不法行為に対する責任を明かならしむ。

五、城内に於ける両軍の作戦地境、左の如し(二万五千分の一南京市街近傍図に依る)。
 共和門―公園路―中正門―中正路―漢中路

六、各軍に対する配当城門
 派遣軍  中山門、太平門、和平門
 第10軍 共和門、中華門、水西門

↑第10軍作戦指導に関する参考資料 其3(2)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111743600 p.28-p.31

 

  12月8日 晴 東墅鎮

 夕刻、師団は当面の敵を撃破し、一挙、南京城を屠るべく、之を急追す。
 当時、南京附近の状況は全く不明なり。
 之より先き軍より、南京城頭壁の一番乗は直ちに大本営に電報し、大元帥陛下に奏上すべきを以て、至急報告すべしとの要求あり。
 之が為、各兵団各団隊の競争心理を動かせし事、言語に絶するものあり。
 此夜、左追撃隊たる歩兵第18旅団副官より電話あり、曰く
「/35i(右追撃隊本隊)は歩兵第36連隊の直後を前進しあり、連隊長は左追撃隊の地境内を前進せる斯くの如き部隊は之を斬捨つべきと極度に憤慨しあり。追撃地境を厳守する如く師団に於て注意せられ度し」
と。当時に於ける両追撃隊の追撃地境は済化鎮西北約1500米、明鎮典曲線高地─山下方村南側高地─南京城東南端(中山門南方約2粁)を連ぬる線とし、線上は右追擊隊に之を含ましめあり。
 然れ共、右追撃隊方面は山岳重疊、而も岩石地多く、夜間の追撃は頗る困難なるものあり。従て右追撃隊本隊の/35iは自然、本道方面に前進し来たりしものなり。即ち情報主任、作戦主任参謀、相次で其不心得を説く。参謀長自ら電話にかかり、更に之を強調し、飽く迄固執せば第二線に集結すべしと結ぶ。
 此の事件は更に歩兵第36連隊の突進に拍車を懸け、9日未明、南京城壁に到達するに至らしめたり。

↑機密作戦日誌(上海~南京) 第9師団
昭和12年9月28日~12月13日https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112007600 p.41-p.43

 

電報  12月9日 午前0時30分発
     同    午前4時50分着

中方作命第31号
    中支那方面軍命令

一、中支那方面軍は中華民國首都南京城を攻略せんとす。

二、上海派遣軍及第十軍は南京城攻略要領に準拠し南京城を攻略せしむる予定。
但し攻略実施の時機は別命す。

↑第10軍作戦指導に関する参考資料 其3(2)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111743600 p.25

 

電報  12月9日 午前2時0分発
         午前5時48分着
軍参謀長宛     方面軍参謀長発

中方作命第31号に関し左の件、承知相成度。

一、方面軍に於て10日正午迄に中山門─句容道上の敵軍歩哨線に軍使を派遣し、和平開城の勧告文を散布す。

二、派遣軍に於ては右の件を第一線の歩哨に徹底せしめ置かれ度。

三、南京城攻略要領第2項の○○に入場する場合に○より出す掃蕩隊の兵力、歩兵1大隊とありしを、各城門に対し歩兵3大隊に改む。

四、方面軍参謀長は和平勧告処理の為、軍司令官よりの命に依り遅くも10日朝迄には自動車搭乗、句容上海派遣軍司令部に到着の予定なり。
 之が為、司令部出初、先づ9日午後1時頃溧水着、第10軍司令部に到る。
 上海派遣軍より自動車2台、午後2時頃迄に派遣せられ度。

五、両軍は10日正午、敵軍使来らざる場合には直ちに攻撃開始し得り如く準備を完了されたし。

六、攻撃を開始するや和平入城するやは別命せられ、凡有方法を以て伝達を図る。

↑第10軍作戦指導に関する参考資料 其3(2)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111743600 p.26-p.27

 

  12月9日  快晴

 9Dの旅団司令部は高橋門に到着、砲兵も典開しあるも砲撃は為しあらず。第一線は正に飛行場を占領せんとする距離にあり。16Dの第一線は麒麟門付近に於て頑強に抵抗する敵を攻撃中。昨日三·三〇頃、中島師団長負傷。腰部軟部貫通銃創にて、約二週間にて治癒見込。殿下より御見舞のブドー酒、煙草を持ち小出軍医を派遣さる。
 芳村参謀より13Dを先に鎮江に渡河せしむるとの電報来る。変更せしむる要を認めず認可せり。
 本朝殿下より、殿下が皇太后陛下より下賜せられたる真綿チヨツキを賜はる。感泣の外なし。幕僚一同、皇太后陛下下賜の御菓子を分たる。中島師団長の負傷御見舞の為、武官を小出軍医に動向せしめらる。
 13Dに交代すべき11Dの民船数百隻は、13Dの受領遅しとして11Dは之を全部解放せしめ、爾後の計画に非常なる齟齬を来しあり。非常も甚し。幕僚勤ム上、大に注意を要す。
 芳村参謀、13Dの青津参謀と同伴帰部。江陰渡河及靖江攻略の概要を聞き、13D主力の爾後の渡江作戦等の打合を為す。青津参謀は其予想渡河地点(儀徴対岸付近)の偵察及準備の為、先行せるものなり。
 一·三〇より作戦経過を第一課長より御説明。9Dの第一線は城壁の前方約千米内外に近接しあり。16Dは城壁より二里乃至四里の線に進出しあり。南京市街には高射砲、機関銃を配置し、市内主要道路には30米間隔位に兵を配置しありとのこと。
 塚田少将一行来部。南京入城(攻略)法に就て方面軍にては勧降状とか統制入城とか平時的気分濃厚なる為、軍司令官殿下の御気に入らず。
 殿下の御意図として海軍に夜間の南京付近の支那船の爆撃要求(通信の関係上、間に合はざるべし)及16Dの有力なる部隊を以て下関の退路遮断を処置す。

↑飯沼守日記より

 

  12月9日 晴 山下方橋

 軍第1課長より電話あり、曰く、
「縦ひ奪取せらるるも可なるを以て、1名たりとも城壁を占領、日章旗を樹立せられ度し」と。
 第16師団の進出遅滞しある為、右翼隊の一部をして紫金山を占領せしむ。
 紫金山は師団作戦地域外なるも、南京直接防御線の最要点たり。南京城に於て真面目の抵抗を実施する現況に於て、 該高地を奪取するに非ざれば師団の攻撃は極めて困難なり。況や第16師団の進出遅れある現況に於て然り。

↑機密作戦日誌(上海~南京) 第9師団
昭和12年9月28日~12月13日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112007600 p.45

 

 連隊主力が上方鎮に進出するや、路上に巨体を横ふる敵戦車を見、将兵思はず快哉を叫ぶ。此の地において連隊長は直に清水大隊を本体に編入し、其兵力約300は上方鎮─光華門道を只一筋に南京城に向ひ突進し、旅団司令部は連隊本部に続行す。時に空は漆を流したる如く、南京方向に炎々たる火災を望む。待望の南京は指呼の間にあり、将兵の志気、大に振ふ。途中、敵兵三々伍々、列中に友軍と誤り混入し来るを、兵は之を不意に刺殺しつつ前進す。彼我混交し真に平行追撃の状態なり。
 尖兵中隊、高橋門に達するや、一部の敵は抵抗を試みたるも、不意に白兵を振ひ怒濤の如く一挙に突破し追撃を続行す。沿道の家屋には焚火赫々と燃残り、此処彼処火災を起し、支那兵の周章狼狽の跡、歴然たり。
七甕橋に迫る頃、支那軍兵営の方に当り盛なるラッパの音起る。非常召集なるべし。旅団司令部は左第一線たる歩兵第19連隊主力の関連上、七甕橋に停止す。連隊は遮二無二驀進し、敵をして抵抗の余裕を与へず、一挙に此の部落を突破突進し、敵の抵抗を殆んど受くることなく9日午前5時15分、終に光華門前に達す。天空に黒々と聳えて見ゆる大南京城壁を仰ぎ、将兵一同、血湧き肉踊る。

(註)本戦闘は機を失せず放胆なる夜間追撃を敢行したる良き戦例にして、連隊が天明後の後続部隊の如く高橋門、七甕橋附近両側一連の掩蓋陣地に依り大なる抵抗を受くることなく、速やかに城壁に進出し得たるは、実に之が賜なり。(戦208)

 此の時、道路一側の街灯は一斉に点火し、城壁上よりは盛に照明弾を発し、同時に熾烈なる一斉射撃を受く。連隊長は直に伊藤大隊を本道北側に展開し光華門の敵情地形を偵察せしめ、清水大隊の主力、及山下村南方にて一時集結し態勢を整へたる、やや遅れて追及せる檜皮部隊を防空学校に集結す。時に天明となり、城壁上よりの射撃は益々烈しく、後方七甕橋部落にも銃声熾んなり。
 連隊長は危険を冒し防空学校東北角の望楼に進出し、副官以下と共に自ら光華門の状況を偵察し、旅団副官中川少佐も又、軽装甲車に依り危険を冒し残敵中を突破し防空学校に至り、敵情地形を偵察すると共に第一線の状況を明にす。
 諸報告、偵察並に情報を綜合するに、当時、光華門は固く門扉を閉じ、外堀の幅約135米、水深約4米にして、城壁の高さ約13米、門に通ずる道路は対戦車壕並に5条の拒馬を以て阻絶し、道路両側は水際に至るまで5条の鉄条網を以て固め、城門西側並に城壁上には八十数箇の機関銃眼を設け、後に判明せる如く教導総隊の精鋭を以て極めて堅固に守備す。
 連隊長は先ず配属山砲2門に城壁の破壊射撃を命じ、爾後、副官並に砲兵大隊長芳賀砲兵少佐と共に観測所に位置し戦闘を指揮す。配属山砲兵大隊は2門を以て防空学校囲壁より直接照準に依り破壊射撃を実施し、門扉の一部を破壊したるも、内部には土嚢、木材を充実しあり、加ふるに補給を受くる暇なく急迫せる為、弾薬僅少にして突撃路を開設するに至らず。
 次で小坂工兵大尉の指揮する決死隊は、本道上に展開せる軽装甲車並に伊藤大隊の支援射撃の下に拒馬を引のけ城門に肉迫し、前後2回に亘り爆破を敢行せるも、薬量少きと爆薬埋填の暇なき為、効果少く、午后8時、更に薬量を増加し爆破せるも、完全に突撃路を開設するに至らずして、再び敵に填塞せらる。
 此の間、雨花台方向よりする敵の砲撃盛にして、人馬の死傷多きも物ともせず右第一線伊藤大隊は工兵の作業を支援し、且光華門に対する突撃を準備しつつ夜を徹し、又、左第一線檜皮大隊は通済門に対する攻撃を準備し、予備隊たる清水大隊は大隊長代理西森少尉の指揮の下に防空学校を西南方に対し警備す。
 午後1時頃より防空学校西端附近の無名部落に敵兵続々集結し、其の数、四乃至五百に達するを目撃するや、清水大隊は急襲的集中射撃に依り之に多大の損害を与へ西方に撃退す。午後10時頃、約200名の敵は協和橋及之に並行せる鉄橋に対し夜襲し来れるを以て、第9中隊及第3機関銃は之を猛射し、交戦約30分にして之を西南方に撃退す。本夕以降特に、各方面より圧迫せられ光華門に入らんとする敗残兵、連隊と旅団司令部の間に充満し来る。

 

↑南京城攻撃之記 自昭和12年12月5日至昭和12年12月13日 脇坂部隊[歩兵第36連隊]
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111968600 p.14-p.20

 

  12月8日、9日  晴

 両軍の第一線部隊は紫金山を占領し、又、雨花台附近を占領し、漸次、城廓に迫る。
 此日、飛行機により予の署名する投降勧告文を城内外に散布し、明10日正午に回答を俟つ。
 第18師団は蕉湖を占領し、国崎支隊は太平を占領す。

 

松井石根 戦陣日誌 昭和12.11.1-13.2.28(防衛省防衛研究所 支那-支那事変日誌回想-308/偕行社 南京戦史資料集Ⅱ )
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2234110960252863&id=100009619413810

 

    12月9日  快晴

一、本日の戦闘経過、別紙附図第4の如し。

二、連隊は駄馬も通ぜざる岩山を1列側面縦隊を以て暗夜にも拘らず一夜中、前進を続行し、連隊本部、第2大隊は午前9時、汁新街西方約千米に到着せしも、旅団及第1大隊の所在判明せず、依て同地到着と共に連絡に努む。午前9時過、O.S無線電話により第1大隊及歩兵砲中隊は午前8時30分頃、高橋門附近に進出せるを知る。依て同大隊に該地に於て連隊の進出を待つべきを命ず。三、連隊本部は第2大隊と共に午後1時、汁新街西北約1粁ノ地点を出発、高橋門に向ひ前進す。恰もよし此時、旅団と無線連絡漸く取れ、左記要旨の旅団命令を受く。

   左記

1. 南京城外には一連の敵陣地あり。歩兵第35、36連隊及歩兵第7連隊の第3大隊は目下、該敵を攻擊中なり。
2. 歩兵第7連隊主力は直に兵営北側地区より中山門方向の敵を攻擊すべし。

四、午後1時30分 、連隊長は高橋門に達し、第一大隊及歩兵砲中隊を掌握し、右旅団命令に基き別紙歩7作命甲第100号の3を下達す。

五、午後3時頃、第2大隊は高橋門北方約1粁 橋梁附近に前進するや、該地附近は敵砲弾の掃射地帯にして敵砲弾、盛に落下す。依て大隊長は無益の損害を減少せんが為、高橋門東北側地区より迂回し、攻撃準備につくべき意見を具申す。連隊長、之に同意す。

六、第2大隊は午後午後5時、石山村(范家営南方約700米)に、連隊本部、第1大隊、歩兵砲中隊は10日午後2時、石山村南方約五百米、無名部落に到着し、同地に休止す。

七、これより先、連隊副官中野少佐、旅団と連絡し、昨日来の連隊の状況を報告し、別紙6作命第132号を受領、午後5時頃、転進中の連隊本部に帰還す。
依て之に基き別紙歩7作命甲第101号を下達す。
当夜、連隊は転進中なるを以て、遂に第2大隊との連絡取れず。同隊に右命令の伝達せられたるは10日午前6時頃なり。

極秘
歩7作命甲第100号の3
歩兵第7連隊命令 12月9日午後1時
         於高橋門連隊本部
一、敵は南京城外一連の陣地により尚、抵抗を続けあり、歩兵第36、第35大隊及歩兵第7連隊第3大隊は目下、該敵を攻擊中なり。
二、連隊は兵衛北側地区より中山門方向の敵を攻撃せんとす。
三、第2大隊及歩兵砲中隊は直に現地出発、范家営(陸軍兵衛東北方約800米)附近に前進し中山門方向の敵に対し攻撃を準備すべし。攻撃前進の時機は別命す。
四、第1大隊は第2大隊の後方を先づ紅土山(陸軍兵営東南方約200米)に向ひ前進すべし。
五、予は第1大隊の先頭を先づ紅土山に向ひ前進す。
             連隊長 伊佐大佐
下達法 各隊長を集め口達す。

極秘
6作命第132号
右翼隊命令 12月9日 午後4時0分
      於陸軍兵営南側旅団司令部
一、紫金山附近の敵は尚、頑強に抵抗しあり。
 左翼隊は光華門南側クリークの線に近迫し城壁占領を準備しあり。
 第16師団は午後3時、下麒麟門附近を通過、西進せり。
 師団は本夜暗を利用し南京城壁占領を企図す。
二、右翼隊は日没迄に城壁近く近接し、本夜暗を利用し、中山門南方城壁を占領せんとす。
三、歩兵第35連隊(土田支隊を復帰せしめ、配属部隊、故の如し)は右第一線となり、国道南側地区より本9日日没迄に中山門東方、水西関、楊家庄附近に進出し、南京城壁を占領すべし。
 紫金山占領部隊たる第3大隊は、第16師団の進出に伴ひ逐次、該師団の部隊と交代し、原所属に復帰すべし。
四、歩兵第7連隊(第12中隊を欠き、配属部隊、故の如し)は左第一線となり、日没迄に南部三庄西方クリークの線に進出し、南京城壁を占領すべし。
 国道附近に進出しある第3大隊は、第16師団の進出に伴ひ、逐次戦闘地域内に移動すべし。
五、第一線両連隊の戦斗地境、左の如し。
 紅土山西側十字路、中山門南方約六百米点線路突端(図上3の字部落西方)を連ぬる線。
六、第一線両連隊は城壁占領の為、爆破並長梯子、土嚢の壘積による等、城壁攀登の各種手段を講ずべし。
七、予備隊は依然、陸軍兵営を占領しあるべし。
八、予は陸軍兵営南側、張家巷にあり。
     右翼隊長  秋山義兊
下達法 要旨を各別に伝へ、後、印刷交付す。

極秘
歩7作命甲第101号
 歩兵第7連隊命令 12月9日午後6時
          於謝涇鎮連隊本部
一、旅団は右翼隊となり城壁近く近接し、速に中山門南方城壁の占領を企図す。
二、連隊(第12中隊を欠き、山砲兵1中隊、工兵1小隊を属せらる)は左第一線となり、南部三庄西方クリークの線に進出し、城壁の占領を準備せんとす。
 右連隊との戦闘地境、左の如し。
紅土山西側十字路と中山門南方約六百米鉄道線路突端(図上の3の字西方)を連ぬる線。
三、第1大隊は右第一線となり、明10日早朝、東土衛より北部孩子里に至る間に展開し、先づ工兵学校を掃蕩したる後、速にクリークの線に進出し、城壁の占領を準備すべし。

四、第二大隊(第8中隊欠)は左第一線となり、明10日早朝、北部孩子里に至る間に展開し、成可速にクリークの線に進出し、城壁の占領を準備すべし。
 第三大隊の到著後、第8中隊を其所属に復帰せしむ。
 両大隊の戦闘地境、左の如し。
北部孩子里中央─光華東街北側三叉路を連ぬる線。
五、歩兵砲中隊は明10日、第一線の進出後、工兵学校西側高地附近に陣地を構築し、第一線両大隊の城壁占領に協力すべし。
六、山砲兵中隊は明10日、第一線大隊の進出後、工兵学校東北側附近に陣地を占領し、敵重火器の制圧に任ずべし。
七、工兵小隊は予備隊の位置に於て第1大隊の為に城壁破壊並に攀登、クリーク渡河材料の準備に任ずべし。
八、第3大隊(第12中隊欠)は予備隊となり、第16師団の部隊と交代後、先づ橋家廠に位置し、第一線のクリークの線に進出と共に孩子里に向ひ前進すべし。
九、予は明10日早朝、橋家廠に至る。

     連隊長  伊佐大佐

下達法 命令受領者を集め口達筆記せしむ。

↑2期作戦第2次(7号) 自昭和12年12月7日 至昭和12年12月24日 南京附近及城内掃蕩戦闘詳報 歩兵第7連隊
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1805531013110862&id=100009619413810

 

  12月9日

 闇夜、山を切り立つたような急坂を、登つては降り、降りては登る。連続して繰り返すこの苦痛を、何う書き表したら良いのか、言語に絶する苦しみの強行軍は、休むことなく続けられた。
 山を下り切つた夜明け前、敵部隊らしいものに遭遇して凍りついた路上に停止。斥候を出して偵察中、、、汗に濡れた体を持て余しながらも、何時とはなく深い眠りに陥つていた。
 前方遙かな部隊は、友軍砲兵部隊である事が判明して、直に前進に移る。 
 午前7時、南京を隔たる2里の、南京道路上に於て休止。凍てついたぼろぼろの朝食をとる。これは昨日の夕食分だ。
 次の食事の準備に米を洗いに行く途中、敵の敗残兵が、血でべたべたになって出て来て出て来て、俺に向つてしきりに何かを話しかける。頗る早口で意味なんか分かりつこないし、聞こうとしない。こんな奴に関り合う元気もない。
「おーい、残敵だぞ。」
 誰に言うでもなく俺が声を立てた。朝も早いし昨日来の甚だしい疲労で、きつく者は誰もなかつたが、それでも元気な奴が、銃を持って出て来て1発お見舞いした。
 再び行軍に移る。
 道路は立派だが、地雷が沢山布設してある。
 後から来た戦車隊のサイドカーが、地雷にやられた。工兵の地雷探知機で、埋設された箇所毎に、白墨の丸で囲って表示してあつたが、慎重な注意が必要だ。
上海方面から飛来して、空爆に行く友軍機に、敵の高射砲弾が集中し、弾幕で覆つてしまつた。ハツと思わせる場面だつたが、友軍機は雄々しく、悠々と侵入して行つた。
 敵の迫撃砲弾が盛んに飛来する。
 数分前まで敵の居た部落を、次々と抜いて進む。52隊9時5分等として、矢印で移動方向を示す、民家の壁に書かれた白墨の、敵の退却時間と、我々の通価する時間には僅か数分の差よりない。敵の最後尾に接続しての強行軍だ。俺達はこの状况に更に意気軒昂、痛みも辛さも忘れて、歩度を速めていた。
 何時だつたろうか、休息が発せられて、皆よく眠った。それは泥沼に踏み込んだ程に、深いしばしの眠りだつた。
 夕方、出発命令に依つて後方へ引き返す。この道路からずーっと北に入つて支那軍の兵舎に行くとの事だ。それは攻撃退の為か、それ共野営の為かはわ分からなかつた。
 8時頃、既に道路を外れた途中の部落に於いて炊さん。又出発だ。田の中、畑の中と歩き続けた。
足が痛む。眠い。頭が痺れる。足元がふらつく。

支那事変 戦塵 南京戦線 歩兵第七聯隊第一中隊
防衛省防衛研究所 支那支那事変上海南京─350)
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2231952743802018&id=100009619413810

 

  12月9日

 敵は51師の撤退に乗じ、また87師も僅かに兵力2ヶ団に過ぎず、陣地占領が未完だったため、これに乗じて追躡し来り、高橋門、七瓮橋、中和橋はいずれも破壊の暇なく、遂に敵が占領、払暁光華門外に進出し、まさに大行飛行場、通信営を占領(敵歩兵約二千、戦車十余輛)しようとした時、光華門付近にあった教導総隊の小数の兵が情勢緊急であると見て城門をシッカリと閉鎖した。敵は野山砲を高橋門付近に推進して光華門を砲撃し、2ヶ所を破壊、敵の小部隊が突入したが、我が軍に殲滅された。この後、諸所が破壊され、危機に陥ること3~4回に及んだが、87師の後続部隊の反攻と直属特務部隊の増援によって、午後4時、大行飛行場の敵を撃退するかに見えたが、通光営房内と城門洞内の小数の敵はなお頑強に抵抗した。
 この日、牛首山方面の58師は敵と終日激戦、88師派遣の右側支隊が過早に撤退したので、敵の一部は大勝関を占領し、かつ江北に侵入し、我が58師の陣地は孤立の形となったので、夜に入り撤退させ、51師と連繋して双澗鎮から宋家凹に至る守備を担任させた(88師右翼の延長線上)。

↑南京保衛戦戦闘詳報(1937年12月)
偕行社 南京戦史資料集から

 

9. Dezember

Wir sind immer noch dabei, Reis hereinzutransportieren von außerhalb der Stadt. Leider ist einer unserer Trucks dabei beschädigt worden. Einer unserer Wagenkulis verlor ein Auge und wurde ins Hospital geschafft. Es wird von Komitee für ihn gesorgt werden. Die restlichen Amerikaner und auch Dr. Rosen mit Scharffenberg und Hürter sind auf die Hulk gegangen, wollen aber, wenn die Luft »dünn« ist, heute abend zur Konferenz an Land kommen.

十二月九日

私たちは相変わらず城外からここに米を運び込むのに立ち合っている。残念ながらその際私たちのトラックが一台故障してしまった。私たちの車両苦力の一人が片目を失い病院に搬送された。委員会が面倒を見るだろう。残余のアメリカ人とそれからローゼン博士にシャルフェンベルクとヒュルターは廃船に乗り込んだが、空気が「薄い」場合は、今晩上陸して記者会見に出るつもりだ。

9 DECEMBER

We are still busy transporting rice from outside the city. Unfortunately one of our trucks was damaged in the process. One of our transport coolies lost an eye and was taken to the hospital. The committee is seeing to it that he is cared for. The rest of the Americans, along with Dr. Rosen, Scharffenberg, and Hürter, have gone on board the Hulk, but if the air is “clear” this evening they want to return to land for our conference.

12月9日

【空袭从一大清早就持续不断。中国的飞机已经不再来这里,但是高射炮还在射击。城南落下了大量的炸弹,可以看见那儿升起了巨大的烟柱,一场大火正在南面蔓延。】我们仍然忙着将大米从城外运进来,遗憾的是我们的一辆卡车损坏了,我们的一个卡车搬运工失去了一只眼睛,被送进了医院。委员会将负责照料他。剩下的美国人以及罗森博士、沙尔芬贝格和许尔特尔(罗森的两个随从)也上了船。但他们又表示,如果空气不紧张,今天晚上还要上岸来参加新闻发布会。

Die Besatzung eines anderen Trucks kommt heulend vom Südtor zurück, das bomardiert wurde. Die Torwachen wollten den Wagen nicht herauslassen, ließen aber schließlich mit sich reden. Als der Wahen zurückkam war von der ganzen Torwache - etwa 40 Mann - keiner mehr am Leben.

別のトラックの乗員たちが、爆撃された南門から、泣きわめきながら帰って来る。門番の衛兵たちは車が門外に出ることを許そうとしなかったが、しまいには話し合いに応じた。車が帰って来たとき、全部で40人位の衛兵たちのうち、だれ一人命のある者はもういなかった。

The crew of another truck arrives back sobbing and weeping. They were at the South Gate, which is being shelled. The guards there didn’t want to let the truck out, but were finally talked into it. When the truck returned, of the still alive.

另外一辆卡车的押车员从南门回来时惊恐万状,南城门遭到了轰炸。城门的守军开始不放他们出城,后来通过协商还是同意了。当这辆车从城外返回的时,全体城门守军,共40人已全部被炸死。

Um 2 Uhr nachmittags gehe ich mit Dr. Bates, Sperling, Mills, Lung und einem Oberst vom Generalistab die von General Tang beamstandete Linie unserer Safety Zone ab (Südwest-Grenze). Von den Hügeln aus sehen wir die Vorstädte, die die Chinesen in Brand gesteckt haben, um Operationsfeld zu haben, in Flammen und Rauch gehüllt vor uns liegen. Die ganze Stadt ist von einem Rauchgürtel umgeben. Wir stellen fest, daß innerhalb der Südwest-Lenie unserer Zone eine Reihe von Flakbatterien stehen. Während der Inspektion tauchen drei japanische Bomber über uns auf, die von den etwa zehn Meter vor uns aufgebauten Batterien heftig beschossen werden. Wir müssen uns allersamt auf dem Boden werfen. Mit dem Gesicht nach oben liegend konnte ich das Flakfeuer gut verfolgen, es wurde leider immer danebengeschossen; oder sagen wir lieber: glücklicherweise immer danebengefeuert. Ich erwartete jeden Augenblick einige Bomben auf uns niederfallen zu sehen. Aber wir hatten Glück. Da der Oberst vom Generalistab betreffs der Grenzlinie nicht nachgeben will, droche ich mit Rüctritt und teile mit, daß ich dem Führer telegraphieren werde, daß die Flüchtlingszone infolge Wortbruchs des General Tang nicht zustande kommen konnte. Der Oberst und Lung gehen sehr nachdenklich nach Hause. Inzwischen haben wir uns entschlossen, einen ganz großen Schachzug zu machen, zu dem ich allerdings wenig Vertrauen habe. Wir wollen nochmal an Tang herantreten, und verschuchen, ihn zu bewegen, auf eine Verteidigung der inneren Stadt zu verzichten. Zu meiner größten Überraschung ist Tang einverstanden, wenn wir die Erlaubnis des Generalissimo Chiang Kaishek einholen.

午後二時から、唐上将に異議を唱えられた私たちのセイフティ·ゾーンの境界線(南西側)を、ベイツ博士、シュペアリンク、ミルズ、ルン[龍]、そして参謀部から来た上校とともに辿り歩く。丘の上から見る城外は、作戦領野を作り出すため中国軍によって火の海にされ、炎と煙に包まれて私たちの前に広がっている。都市がまるごと煙の帯に取り巻かれている。私たちの区域の南西境界線の内側に一列に並ぶ高射砲を現認する。この検分の最中、頭上に三機の日本軍の爆撃機が現れ、私たちのいる所から十メートルほど先の砲列から激しく砲撃される。私たちはみな地面に突っ伏さなければならない。仰向けに寝転がると私は高射砲の砲火をよく目で追うことができたが、残念ながら弾道はいつも的を外れていた。あるいはむしろ幸運にも的を外れていたと私たちは言うべきか。いくつかの爆弾が私たちの上に落ちてくるのが見えるのを私は今か今かと待ち受ける。だが私たちは幸運だった。参謀部から来た上校が境界線に関して譲ろうとしないので、私は辞任すると脅かし、こう言ってやった。唐上将の約束破りのために安全区は実現できなかったと総統に電報を打つぞと。上校と龍はすっかり考え込んで司令部に帰って行く。その間に私たちは途轍もない一手を打とうと決意した。そうは言っても私はあまり見込みがあるとは思わないのだが。もう一度唐に働きかけてみよう。そして城内の防衛を放棄するように彼の心を動かそうというのだ。全く以て驚くことには、唐は私たちが蔣介石の許可を取り付けるなら同意するという。

At 2 o’clock this afternoon I am joined by Dr. Bates, Sperling, Mills, Lung, and a colonel from General Tang’s staff to walk the disputed portion of our Safety Zone’s border (the southwest section). From the hills we can see the suburbs below wrapped in the smoke and flames of the fires the Chinese have set in order to have a field of operation. We discover a row of antiaircraft batteries within the southwest border of our Zone. During our inspection, three Japanese bombers appear above us and come under heavy fire from the batteries, which are no more than 10 yards ahead of us. We all have to hit the ground. Lying face-up, I was able to follow the flak attack; unfortunately their aim was poor; or let’s say, fortunately they missed. I expected bombs to drop on us at any moment. But we were lucky. Since the colonel from the general staff refuses to yield, I threaten to resign and inform him that I will telegraph the Führer that our refugee zone cannot be established because General Tang has broken his word. The colonel and Lung head home in a very pensive mood. Meanwhile we have decided to try a major tactical move, although I put little trust in it. We want to approach Tang once again and try to persuade him to abandon any defense inside the city. To my great amazement, Tang agrees to do so, if we can get the permission of Generalissimo Chiang Kai-shek.

下午2时,我和贝茨博士、施佩林、米尔斯、龙和参谋部的一位上校巡视了唐将军不满意的安全区沿线(西南界线)。从山丘的顶上我们可以看见被火光和烟雾笼罩的城郊,中国人为了将那里辟作战场把房子都烧了。我们发现,在安全区西南界内有一排高射炮阵地。就在我们巡视的时候,3架日本轰炸机掠过我们的上空,距我们约10米远的高射炮阵地进行了猛烈的射击。我们都卧倒在地上,扬起脸朝上观察着高射炮的炮火。可惜的是炮火总是打偏,或者应当这么说,幸运的是总是打偏了。我时时刻刻都在担心上面会有炸弹投下来,但是我们很走运,【日本人越过扬子江朝浦口飞去了。】

上校在安全区的界线的问题上不肯让步,于是我威胁说要甩手不干,并说我将致电元首,由于唐将军的失信,难民区无法继续存在。上校和龙先生忧心仲仲地回去了。这个时候我们拿定主意,走出重大的一着,当然对这一着棋我们自己也没有多大把握。我们想再面见唐将军一次,力争说服他放弃对内城的保卫。令我们感到十分意外的是,唐将军竟然表示同意,但条件是我们必须征得最高统帅蒋介石的同意。

Deschalb begab sich John Rabe zusammen mit zwei Amerikanern und Chinesen an Bord des amerikanischen Kanonenbootes Paney. Sie schickten zwei Telegramme ab, eins über den amerikanischen Botsbhafter in Hankow an Generalissimo Chiang Kaishek und ein anderes über Schanghai an die japanischen Militärbehörden. In dem Telegramm an den amerikanischen Botschafter, der das Telegramm Chiang Kaishek übermitteln solte, schreibt John Rabe, das internationale Komitee wünsche von den japanischen Militärbehörden die Zusicherung zu erhalten, daß sie keinen Angriff auf die umauerte Stadt Nanking unternähmen, in dem das Komitee eine Sicherheitszone eingerichtet hatte. Wenn sie diese Zusicherung erhalten hätten, bittet das Komitee die chinesischen Behörden aus humanitären Gründen innerhalb der ummauerten Stadt Nanking keine militärischen Operationen vorzunehmen. Das Komitee schlägt für alle Streitkräfte in der Nähe Nankings einen Waffenstillstand von drei Tagen vor, in denen die japanischen Truppen in ihrer gegenwärtigen Stellung verharren, während die chinesischen Truppen sich gleichzeitig aus der ummauerten Stadt Nanking zurückziehen. Die Telegramme waren unterschrieben: John Rabe, Vorsitzender.

──そのためジョン·ラーベは二人のアメリカ人と中国人とともにアメリカの砲艦パナイ号上に赴いた。彼らは二つの電報を発送した。ひとつはハンコウ[漢口]のアメリカ大使を介して蔣介石大元帥へ。もう一つは上海を経由して日本の軍当局へ。蔣介石に渡してもらうはずのアメリカ大使館宛の電報に、ジョン·ラーベは書いた。城壁都市南京の内部に国際委員会が安全区を設置しているので、城壁内にはいかなる攻撃も企てないことを日本軍当局は委員会に確約してほしいと。もしその確約が得られるならば、委員会は中国当局に人道上の理由から城壁都市南京の内部ではいかなる作戦行動も控えることを求める。委員会は南京付近のすべての軍勢に三日間の停戦を提案する。その間に日本軍の部隊はその現在の位置を頑として動かず、一方中国軍の部隊は同時に城壁都市南京から撤退するものとする。電報には「委員長ジョン·ラーベ」と署名されていた。──

And for that purpose John Rabe, along with two Americans and Chinese, boarded the American gunboat Panay. They sent two telegrams, one by way of the American ambassador in Hankow to Generalissimo Chiang Kai-shek and another by way of Shanghai to the Japanese military authorities. In the telegram to be forwarded to Chiang Kai-shek by the American ambassador, John Rabe writes that the International Committee hopes to receive assurances from the Japanese military authorities that they will launch no attack against the walled city of Nanking, inside which the committee has established a Safety Zone. If such assurances are forthcoming, the committee requests that for humanitarian reasons the Chinese authorities undertake no military operations within the walled city. The committee proposes a three-day armistice for all forces in the vicinity of Nanking, with the Japanese holding their present position while the Chinese withdraw from the walled city of Nanking. The telegrams are signed: John Rabe, Chairman.

【我和米尔斯牧师,还有贝茨博士在龙上校和一名士兵的陪同下来到了美国炮艇帕奈号上,通过美国大使馆的艾奇逊先生发出了下列电报:

致美国大使馆汉口 1937年12月9日

国际委员会从卫戍司令唐生智处得到许可传递以下电报中所涉及的内容。唐将军请我们通过您将一号电文传给最高统帅蒋介石。二号电文我们将通过艾奇逊先生传给东京和上海的日本当局。请将该建议内容通知其他大使馆。国际委员会希望这些建议也能得到这些大使馆的同意。

  签名:约翰?拉贝
  主席

(以下是电文)

一号电文

在国际委员会能成功地得到日本军事当局在可能的情况下放弃对城墙内南京城的进攻这一保证的前提下,已经在南京城设立了安全区的国际委员会将出于人道主义的考虑向中国当局建议,在城内不采取军事行动。为了达到这个目的,委员会建议南京附近的所有武装力量停火3天,在这3天内,日军在现有阵地按兵不动,中国军队则从城内撤出。考虑到大量受到危害的平民的困境,委员会请求立即对此建议表态。

  签名:约翰?拉贝
  主席

二号电文

在国际委员会能成功地得到中国军事当局在可能的情况下不在城墙内南京城采取军事行动这一保证的前提下,已经在南京城设立了安全区的国际委员会将出于人道主义的考虑,向日本当局建议放弃对城内的进攻。为了达到这个目的,委员会建议南京附近的所有武装力量停火3天,在这3天内,日军在现有阵地按兵不动,中国军队则从城内撤出。考虑到大量受到危害的平民的困境,委员会请求立即对此建议表态。

  签名:约翰?拉贝
  主席】

Später

Der Rückweg von der Panay durch die brennende Vorstadt Hsiakwan ist phantastisch. Wir kommen noch gerade vor Schluß der Pressekonferenzわま um 7 Uhr abends wieder zu Hause an. Inzwischen sind, wie wir h ören, die Japaner schon bis zu den Stadttoren Nankings vorgerückt oder stehen kurz davor. Man hört Kanonendonner und Maschinengewehrfeuer vom Südtor und Goa Hoa Men herüberschallen. Im Dunkel der Nacht, die Straßenbeleuchtung ist abgeschaltet, sieht man, wie sich Verwundete über das Straßenpflaster schleppen. Niemand hilft ihnen, es sind ja keine Ärzte und keine Pfleger und kein Sanitätskorps mehr hier. Nur das Kulou-Hospital mit seinen paar braven amerikanischen Ärzte hält durch. Die Straßen der Safety Zone sind von Flüchtlingen, hochberackt mit Büdern, überschwemmt. Das alte Verkehrsministerium (Waffenamt) ist für Flüchtlinge freigegeben und im Nu bis zum Dach gefüllt. Wir sperren zwei Zimmer ab, weil wir waffen und Munition darin Vorfinden. Unter den Flüchtlingen sind Deserteure, die ihre Uniformen und Waffen abgeben.

その後

帰途に通り抜けた燃える郊外のシャークワン[下関] はこの世のものとも思われない。私たちが午後7時頃、再び事務所に戻ると丁度、記者会見が終わるところだ。私たちが出かけている間に、聞くところによると、日本軍はすでに城門まで進んだかまたはその近くまで来ている。鳴り響く砲声と機関銃射撃音が南門と光華門からここまで聞こえる。街灯は消されて夜の闇の中に見えるものは、負傷兵たちが舗装道路に体を引きずる姿だ。彼らに手を貸す者はない。だってここにはもう医者も看護師もいないし、衛生隊もいないのだ。踏みとどまっているのは、健気なアメリカ人の医者のいるクロウ[鼓楼]病院だけだ。セーフティ·ゾーン内の街路は沢山の包みを背負った避難民でごった返している。旧交通部(武器装備部)は避難民に解放され、一瞬にして屋根まで一杯になる。私たちは二つの部屋を立ち入り禁止にする。その部屋の中に武器弾薬が見つかったからだ。避難民の中には武器と軍服を譲り渡す脱走兵が雑じっている。

LATER

Our trip back from the Panay through the burning suburb of Hsiakwan is incredible. We arrive home at 7 p.m. just before the conclusion of the press conference. We hear that in the meantime the Japanese have advanced to the gates of Nanking, or just outside them. You can hear thundering cannon and machine-gun fire at the South Gate and across from Goan Hoa Men. The streetlights have been turned off, and in the dark you can make out the wounded dragging themselves over the cobblestones. No one helps them; there are no doctors, no nurses, no medics left. Only Kulou Hospital with its couple of brave American doctors still carries on. The streets of the Safety Zone are flooded with refugees loaded down with bundles. The old Communications Ministry (arsenal) is opened to refugees and in no time fills to the rafters. We cordon off two rooms because our weapons and ammunition are in them. Among the refugees are deserters, who hand over their uniforms and weapons.

我们从帕奈号上岸,穿过燃烧的下关回城简直不可思议。晚上7时,在新闻发布会结束前,我们刚好赶回家。我们听说,日本人在此期间,已经推进到城门前,或者是离城已经没多远了。我们可以听到南城门和光华门上的炮火的轰鸣声和机枪扫射声。路灯熄灭了,在夜幕中,可以看见伤员在街道上蹒跚,没人去帮助他们,已经没有医生、卫生员和护理人员了,只有鼓楼医院的几个正直的美国医生还在坚持着。安全区的街道上挤满了带着大包小包的难民。原来的交通部(武器装备部)已经对难民开放,仅仅一会儿的时间,里面就挤满了人。我们关闭了两个房间,因为在里面发现有武器弹药。难民中也有逃兵,他们扔掉了自己的军服和武器。

【供中国报界专稿 1937年12月9日晚

  安全区安全措施

1.战争期间没有任何地方是绝对安全的。 (即使在上海的国际租界也有1000多人死于流弹、高射炮弹片、炮弹片和日本飞机及中国飞机误投的炸弹。)

2.我们要记住,日本人从来没有保证过,不对我们的安全区进行炮击或轰炸。

3.日本人仅仅保证在安全区内不存在中国士兵和军事设施的前提下不蓄意进攻安全区。

4.为此我们紧急呼吁居民,空袭期间进入防空洞或地下室。(瓦房同样也能保护不受高射炮弹片的伤害。)

5.一旦城市开始遭炮击或轰炸,只要可能人人都应当进入防空洞或地下室。

6.即便只是听到城里有步枪或机枪声,也应当进入防空洞或地下室,或以围墙作掩护。射击时,在砖结构房子里的人不应当停留在门窗旁边。

7.空袭、炮击、步枪或机关枪射击时,如果有人正好在街道上,而且无法很快找到安全的地方,如有可能,应当在坑里或围墙附近掩护自己。

8.如果在城内或周围地区爆发战斗,行人不应成群结队,而应尽可能散开。

9.伤员可以送到鼓楼医院,要救护车请拨打电话31624。

10.发生火情请打下列电话:
大方巷消防站:31058
鼓楼消防站:31093

           南京安全区国际委员会】

↑ジョン·ラーベの日記  

 

[第16]師団注意事項

(六)南京攻撃に関し、支那軍降伏の意志在らば、本日午後1時迄に中山門より我が軍に向ひ白旗を掲ぐる軍使を派遣すべき事になし在り。
 右軍使来る時は、其の方面の部隊は一時戦闘を中止し、軍使を待つ事。

江蘇省句容縣 東流鎭附近戦闘詳報 第9号
自昭和12年12月9日 至昭和12年12月10日 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111200200 p.14

 

 翌10日、敵は続々兵力を光華門附近に集中し、敵の銃砲火益々熾烈にして、又、背後方たる雨花台並紫金山方向よりする敵の集中射撃に人馬の死傷続出す。
 在七甕橋旅団司令部と連隊との間は残存陣地並に充満せる敗残兵の為、命令受領者土田軍曹戦死し、通信兵も戦死し或は負傷し、為に中川副官連絡以来、僅かに無線電信を以て連絡する状態なりしが、10日午前8時頃、旅団副官武田大尉は旅団長の命に依り山砲弾薬500及機関銃弾薬補充を兼ね、軽装甲車に乗じ中間の敵陣地を突破しつつ連隊本部に到着、旅団長の意図を伝へ連隊長を補佐し、且午前10時、連隊通信班の決死的作業に依り3回線目、終に連絡に成功せるを以て、爾後、電話に依り密に旅団司令部と連絡す。当時、敵は既に城壁上に対戦車砲を配置しあり。為に旅団副官武田大尉を送りし装甲車は、防空学校門前に出づるや直に射撃を受け破壊し、搭乗者は戦死せり。連隊長は山砲弾薬を補充されたるを以て午後3時、再び配属山砲に城壁破壊を命じ、爾後、山砲観測所に在り、芳賀砲兵大隊長、鈴木副官と共に戦闘指揮に任ず。午後3時、山砲2門は直接照準により釣瓶打に破壊射撃を開始すれば、城門上部並に土嚢は漸次崩れ落ち急峻なる斜坂を形成し、午後5時、辛ふじて突撃路を開設す。
 此の時、敵の重迫撃砲弾十数発は観測所附近に集中し、轟々たる爆音に屋根は崩れ、耳は聾し、烈しき閃光に目も眩み、濛々たる砲煙に呼吸も困難となり、一時、戦闘指揮も砲撃も中断す。砲煙漸く撤し城門の方を見れば、伊藤大隊の一部は既に城門に突入し、斜坂上に打ち降る日章旗、翩翻たり。将兵、思はず万歳を叫ぶ。時に午后5時なり。
 之即、敵の砲撃が我が戦闘司令所に集中したる好機に乗じ、独断、伊藤少佐が突入を命ずるや、敢然、山際少尉の率ゆる第1中隊、突撃を発起すれば、葛野中尉の指揮する第4中隊、之に続き一挙に城門内に突入し、之を占領したるなり。
 戦況益々悲惨なるも将兵の志気旺盛なり。連隊長は直に「伊藤大隊は全滅を賭して光華門を確保すべし」の要旨命令を下達せり。伊藤少佐は薄暮を利用し壮烈なる決意を以て予備隊たる第3中隊を率ゐ城門に前進し、城内よりする機関銃の縦射と城門上よりする手榴弾の投下に依り戦死傷続出する極めて困難なる戦況中に在り、沈着豪胆、部下を激励指揮中、午后9時、終に敵手榴弾の為、右額部に受傷し、城門確保を命じつつ壮烈なる最後を遂ぐ。

↑南京城攻撃之記 自昭和12年12月5日至昭和12年12月13日 脇坂部隊
[歩兵第36連隊]
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111968600 p.20-p.23

 

丁集作命甲第61号
 丁集団命令 12月10日正午
       於 秣陵関

一、第6、第114師団は南京南方至近の距離に進出し、鋭意攻擊を続行中なり。

二、国﨑支隊は丁集作命甲第50号に基き速に浦口に進出すべし。
 歩兵2中隊を和県に残置し同地の警備及物質蒐集援助に任ぜしむべし。
 前命令に依る太平府残置部隊の任務を解除す。

集団司令官 柳川平助

下達法 印刷命令を交付す。

↑第10軍作戦指導に関する参考資料 其3(2)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111743600 p.38~p.39

 

中方作命第34号
  中支那方面軍命令

              12月10日午後1時

              於蘇州 方面軍司令部

一、支那軍は我勧告を容れずして依然抵抗を続けつつあり。

二、上海派遣軍並に第10軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし。

三、予は蘇州、方面軍司令部に在り。

支那方面軍司令官 松井石根

伝達法
 上海派遣軍には電話
 第10軍には通信筒にて投下す。

↑第10軍作戦指導に関する参考資料 其3(2)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111743600 p.42

 

  12月10日(晴)

 此日、正午に至るも支那軍の回答なし。依て午後より両軍に対し南京城の攻撃を命ず。敵軍の頑迷、真に可惜。已むなき事なり。然れども最早、所謂最後の気持丈の抵抗に過ぎず、其実効なきは勿論なり。聞く。蔣介石は昨日既に南昌に去り、唐生智、守城せる如し。
 此日国崎支隊は長江対岸に渡河を準備し、第十三師団も鎮江附近に進出し、渡河を準備す。

《第百一師団は杭州攻撃前進》

 第百一師団(三大隊欠)を第十軍司令官の指揮に属し、本日出発、松江を経て杭州に向ひ前進し、第十軍後備隊と協力して之を攻略せしむ。

《第9師団 光華門占領》

 第9師団は敵を追撃して此日、光華門を占領す。

松井石根 戦陣日誌 昭和12.11.1-13.2.28(防衛省防衛研究所 支那-支那事変日誌回想-308/偕行社 南京戦史資料集Ⅱ )
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2234110960252863&id=100009619413810

 

  12月10日  曇り

 9Dの36iは城壁外クリークの線に達しあるも、河幅広く壁高く、遂に昨夜は突撃準備できず。其他の正面は尚、城外の陣地攻撃中。
 勧降状は昨日正午頃撒き、本日正午が期限なり。
 午前、第二、三課長の後方状況報告。
 正午に至るも軍使来らず、方面軍より攻撃命令下る。
 Ⅲ/35iは33iと共に中山陵高地のトチカに拠る敵を攻撃、之を奪取したるも、同大隊長及中隊長戦死せりと。
 五・〇〇、36i第1中隊、城門に突入せり。更に電話あり、第4中隊も突入し日章旗を振りつつあり。
 三日間許り押田大尉と共に常州飛行場に到り、押田の操縦にて偵察に従事したる大内大尉[大佐]帰来、南京付近の彼我の状況、及江北の地形、敵情を聞く。11D等の第五軍戦闘序列の命令下る(書簡)。
 夜、衆議院慰問団十一名来り、殿下に拝謁仰せ付けらる。
 9Dの南京城門に日章旗を樹たる御喜を殿下に申し上げ、思はず感泣す。西原大佐をも呼ばせられ祝杯を賜はる。

上海派遣軍参謀長『飯沼守日記』より
松井石根 戦陣日誌 昭和12.11.1-13.2.2(偕行社 南京戦史資料集Ⅱ )脚注。

 

  12月10日 晴 山下方橋

 両翼隊、就中左翼隊は終夜、城壁の占領を企図せるも、遂に奏功するに至らず。此処に於て作戦主任参謀は正攻、奇襲、強襲の3方法の併用に依る攻撃計画案を作成せるも、第一線の状況、未だ十分明かならざるものあり、工兵隊長の意見具申を俟つて命令すべしと保留す。
然るに左翼隊長より夕刻、城壁占領の報告あり。
 沈痛なりし司令部の空氣は忽ち爆発して明朗の感激に一変す。
 即ち直に軍に報告する所あり。
 軍司令官宮殿下より折返し祝電あり。
 此夜、大坪参謀より電話あり、曰く、
「第9師団は既に光華門を占領せるを以て、中山門を第16に譲られ度し」と。
 第16師団との作戦地境は二堅橋、土橋鎮、辺山、南京市政府に定められあり。但、南京市政府は軍の誤りにて、12月8日大坪参謀、師団司令部に来りたる時、国民政府と訂正せり。
 従て中山門は当然、師団の作戦地境にして、該地附近を第16師団に譲ることは地形の関係上、右翼隊の攻撃をして著しく困難ならしむるに至る。此処に於て参謀長対第一課長の電話により、中山門の中央を両師団の作戦地境と定むる事に協議成立し、一段落を遂ぐるに至れり。

↑機密作戦日誌(上海~南京) 第9師団
昭和12年9月28日~12月13日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112007600 p.47-p.48

 

  12月10日

 敵は雨花台、通済門、光華門、紫金山第3峰に向かい同時に攻撃、戦闘は9日に比べさらに激烈で、光華門は敵のため二回突破されたが、城内に突入した敵百人は全員殲滅された。156師を通済門と光華門の城壁守備に増援し、かつ域内の緊急工事に当たらせる。と同時に159師を以て明故宮付近に控置して156師の作戦に策応せしめた。別に新たに鎮江を撤退して南京に戻った103師は中山門付近城壁の守備に任じ、桂総隊長の指揮下に入った。この夜156師は決死隊を選抜して城壁から降りて、城門洞内に潜伏中の小数の敵を焼き殺した。通光営房に蟠踞中の敵を殲滅、光華門と通済門方面は小康状態となる。ただし雨花台88師陣地の右翼はやや動揺中で、陣地前の要点3~4ヶ所は敵に取られた。第2軍団方面は、この日は状況やや緩やかであった。これは41師が孟塘方面を攻撃して挫折し、現在撤退収容中のためである。

↑南京保衛戦戦闘詳報(1937年12月)
偕行社 南京戦史資料集から

 

  12月10日

 不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。
 金誦盤氏から力になりたいとの申し出があった。金氏は医者で、ドイツ語を話す。安全区の外にある八つの野戦病院の責任者だとのこと。そこには軽症者しか入っていないのだそうだ。「患者のけがの大半は狂言なのですよ。病院に入っているほうが安全ですからね」。重傷者を安全区に連れてきたいという。本来ならこれは協定違反だ。だが、日本軍はなにもいわないのではないかという希望的観測のもとに、金先生に鼓楼病院のトリマー氏を訪ねるように言った。彼は委員会の医学班のリーダーだ。先生は、中国人の医者をあと八十人ほど集められます、と請け負った。この人たちのことは全然しらなかった。
 医者の数は多ければ多いほどいいのだから、もしそれが本当で、ここに来てもらえるならこんなにありがたいことはない。ここ二日間で、千人もけが人が出ているのだから。
 マギー師は、ここに赤十字の欧州部を作ろうとしている。資金はあるのだが(黄上校から二万三千ドルうけとった)、いっこう進展しない。赤十字からの返事がないのだ。同意がないと、話を進めにくいらしい!残念だ!私ならさっさとやってしまうんだが。良いことをするのだから、ためらうことはないのに。同意なんか、あとからもらえばいいのだから。
 それはそうと、日本政府と蒋介石はなんといってくるのだろう。一同、固唾をのんで待っている。なにしろ、この町の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。
 安全区の道路は、非難する人たちでごったがえしている。道路で寝ている人がまだ大ぜいいる。それから----軍人もだ。龍上校、周上校の両人と最終的に次のような取り決めをした。

 1. 唐司令長官は、安全区の南西の境界線を全面的に承認する。
 2. 龍上校は五台山の公営給食所がこれ以上兵隊たちにあらされないよう責任を持つ。
 3. 軍司令部の代表三名は、委員会の三人と共に安全区を視察し、見つけ次第兵士を追い出す。
また、唐司令長官の代理として、この指示をその場で命令、実行させる権限をもつ。

 下関で兵士たちが我々の米を燃やそうとしている、と韓が知らせにきた。日本軍が身を隠せないようにしようというのだろう。それを聞いた龍はやめさせると約束した。私は軍事パスを受け取り、下関に通じるもんを通れるようにしてもらった。
 東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。
このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!
 欧州の記者たちが報道規制されているのが、残念無念だ! 中国軍のやつら、あいつらの首をしめあげてやりたい。軍隊を立ち退かせるという約束はいったいどうなったんだ? いまだに果たされてないじゃないか!
 ああ、なんということだろう! たった今、漢口のジョンソン・アメリカ大使から連絡があった。大使は、蒋介石にあてた我々委員会の電報を転送しただけでなく、個人的にも同意し、支持した旨伝えてきた。だが、それとは別に極秘電報がきた。そこに、外交部で口頭で伝えられたという正式決定が記されていたのだ。それによると、三日間の停戦と中国軍の撤退に唐将軍が同意したというのは誤りだとのこと。しかも蒋介石は「そのような申し出には応じられない」といったという。しかし、われわれはぜったいに思い違いなどしていない。いまここでそれをもう一度確認した。龍と林は電報を打つときに居合わせたが、二人とも、たしかに唐将軍は同意したと口をそろえている。そう簡単にひきさがらないぞ! われわれは蒋介石にもう一度電報を打った。同時に私はドイツ大使トラウトマンにも電報を打って、支援を頼んだ。

  正午

 朝からひっきりなしの攻撃だ。窓ガラスがガタガタいいっぱなしだ。紫金山では家が燃えている。城壁の外の町も燃え続けている。安全区にいる人たちは安心しているのか、あまり爆撃機を気にしていない。
日本のラジオが、南京は二十四時間以内に陥落するだろうと伝えている。中国軍はすでにいいかげん士気を阻喪している。南京一のホテル、首都飯店も軍隊に占領されてしまった。兵士はバーでよっぱらい、クラブの安楽椅子でくつろいでいる。ま、兵隊だってたまには楽しみたいのだ。
 今夜のうちに南京が陥落してもすこしも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。

  深夜二時半

 服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまざしい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤あかと照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、ふたたび床についた、というより、うとうとした。こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。

15年戦争資料 @wiki ラーベの日記
rabe12月10日
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/177.html

 

…午後十一時四十分、聯隊は旅団命令に基き左記の命令を下達す。

    歩兵第百五十隊命令
         十二月十日午後十一時十分
         於燕子根寺院
一、敵は我勧降を入れず南京城外に於て辛ふじて最後の抵抗を保持しつつあり。
二、師団は当旅団方面に重点を保持し、夜に入るも攻撃を続行し、待望の南京入城を企図す。歩兵第百二十七旅団は周家凹以西の地区を攻撃す。砲兵隊は主力を以て朱家楼附近に陣地を占領し敵砲兵制圧、南京城壁の破壊射撃に任じ、主として右翼隊の戦闘に協力す。
[中略]
旅団(野砲兵第百二十聯隊一ヶ中隊及工兵第百十四聯隊(二中隊欠)配属)は師団の右翼隊となり、依然、攻撃を続行し周家凹東側地区に進出す。
三、聯隊(1/4Pを配属)は依然、重点を右翼に保持し夜に入るも攻撃を続行し、先ず曽家門北側地区に進出し明払暁の攻撃を準備せんとす。
[以下略]

 

↑南京附近戦闘詳報 (第6号) 昭和12年12月10日~12月13日 歩兵第150連隊(1)

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111559100 p.10

 

22時30分,据上海海员电台报道,南京今天下午已经被日本人占领。由于唐将军在中午12时之前没有将他的部队撤出去,所以日本人现在正在忙于将中国军队的残部清理出城市(肃清残敌)。当然这里面没有一句话是真实的。但是现在距离以前曾经提到过的艰难的时刻却是没有多远了。

↑拉貝日記 12月10日
http://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/435.html