地方における訛伝の一節として、埼玉県入間[川]町分会長の口頭報告したるもの、左のごとし。
九月一日午後七時ごろ警察署は警鐘を乱打し、警察官は和服に日本刀を帯び、自転車に乗じて町民に左のごとく警告せり。
「爆弾·凶器を有する鮮人十一名、当町に襲来し、内一名捕縛さる。この者は六連発短銃と短刀を携帯す。全町は灯を減じ戸締をせよ。」
午後九時頃、「約八十名の鮮人、小川方面に現はれ、爆弾を投じて小川駅停車場に放火す。」(この報に接し入間川町老人婦女は森林に避難す。)
「鮮人八百名が五里を去る地点を襲来し、その一部は金子村において消防組と格闘中なり。当町在郷軍人分会、消防隊は格闘の準備をなすべし」と。
その間、さらに左の報伝はる。
「約六十名の[朝]鮮人は、三ヶ島附近の民家に襲来し、同村消防組は全滅せり。当町へ応援五十名を要求し来たる。」
午前二時、左の報あり。
「敵は解散して行衛不明なり。」
九月三日夜、「約四十名の鮮人、当町附近の山林に集中し、焚火をなしあり。また、あるいは川原において灯火信号をなしつつあり」と。 (これを偵察すれば山林集中は事実無根、灯火信号は一人の漁師が角灯を持して鯰を取り居たるなり。)
九月三日午後十時、警察署へ町内の各団体役員を招致し、当町附近には鮮人の居らぬことを言明し、かつかかる蜚語を放つものは爾後、厳罰に処せらるべき旨を諭し、凶器の携帯を禁ぜり。
ここにおいて町民は憤慨して、「一日以来の風説は、ことごとく分署長自身および警察官より出でたるにあらずや。警察は須くまづその責に任ずべし」と。また一部の者は「入間川分署長は社会主義者にあらずや」と呼ばはり、紛擾を極めたり。ようやく有志家の調停によりて事なきを得たり。入間川警察署は本署、すなはち所沢警察署の命によりたるものと弁明せり。警察および鉄道省の電話が以上同一の言を伝達したるは奇といふの他なく、その根源のいづれにあるやつまびらかならず。
以上の次第にて、今や警備等は全然、在郷軍人会分会およびその他の自警団によりて維持せられつつある状況なりと。(九月十日報告)
地方に於ける訛伝の一節として埼玉縣入間[川]町分會長の口頭報告したるもの左の如し、
九月一日午後七時頃、警察署は警鐘を亂打し、警察官は和服に日本刀を帶び自轉車に乘じて町民に左の如く警告せり。
爆弾兇器を有する鮮人十一名當町に襲來し内一名捕縛さる、此者は六連發短銃と短刀を携帶す、全町は燈を減し戸締をせよ。
午後九時頃約八十名の鮮人小川方面に現はれ爆彈を投じて小川驛停車場に放火す(此報に接し入間川町老人婦女は森林に避難す)。
鮮人八百名が五里を去る地點を襲来し、其一部は金子村に於て消防組と格鬪中なり、當町在敏軍人分會消防隊は格闘の準備を爲すべしと。
其間更に左の報傳はる。
約六十名の鮮人は、三ヶ島附近の民家に襲來し、同村消防組は全滅せり、當町へ應援五十名を要求し來る。
午前二時左の報あり。
敵は解散して行衞不明なり。
九月三日夜 約四十名の鮮人當町附近の山林に集中し焚火をなしあり、又或
は川原に於て燈火信號を爲しつゝありと。
(之を偵察すれば山林集中は事實無根、燈火信號は一人の漁師が角灯を持して鯰を取り居たるなり)
九月三日午後十時警察署へ町内の各団体役員を招致し、当町附近には鮮人の居らぬことを言明し、且つ斯かる蜚語を放つものは爾後嚴罰に處せらるべき旨を諭し兇器の携帶を禁ぜり。
是に於て町民は憤慨して、一日以來の風說は悉く分署長自身及警察官より出でたるにあらずや。警察は須く先づ其責に任ずべしと、又一部の者は入間川分署長は社會主義者にあらずやと呼はり紛擾を極めたり、漸く有志家の調停によりて事なきを得たり。
入間川警察署は本署卽ち所澤警察署の命に依りたるものと辯明せり。警察及鐵道省の電話が以上同一の言を傳達したるは奇といふの他なく其根源の何れにあるや詳ならず。
以上の次第にて、今や警備等は全然在郷軍人會分會及其他の自衞團によりて維持せられつつある狀況なりと(九月十日報告)
↑『東京震災録 別輯』東京市 編 1927年 p.294
第三章「東京市民の活動」 第二節「団体の活動」 第三款「帝国在郷軍人会」 其一「本部の活動」より末尾
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448465/161