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松井石根 昭和二十年十二月 支那事変日誌抜萃 1945.12

 

日 曜 11.30

天 候

  昭和20年12月

支那事変日誌抜萃

      松井石根

 

   1.大命拝受

 昭和12年8月、富士山中静養中、同月14日、陸軍大臣の召電を受け上京。翌15日、宮中において上海派遣軍司令官親補の勅を拝し、翌16日、参謀総長より派遣軍に関する奉勅命令ならびに参謀総長の指示を受く。

 即ち派遣軍の任務は、

上海付近の敵軍を掃蕩し、その西方要地を占領して上海居留民の生命を保護するにあり。

 蓋し当時における我が政府の政策は、中支は勿論、北支においても努めて事局を局地的に解決し、事件の不拡大を根本主義とせるをもつて、上海付近においても成るべく昭和7年列国の間に協定せる(1932年)停戦協定の精神ならびにその取極めに遵ひ、時局の一時的解決を企図せしものなり。従つて派遣軍の任務は上記のごとく極めて消極的に上海付近の防御と我が居留民の消極的保護をその目的とし、派遣軍の兵力も第3、第11師団(2連隊欠)の2個師団弱の微弱なるものなりしなり。

    2.詔勅拝受ならびに奉答

 8月17日午前10時、予は宮中において謁を賜ひ、左の勅語を拝す。

「朕、卿に委するに上海派遣軍の統率をもつてす。宜しく宇内の大勢に鑑み、速やかに敵軍を戡定し、皇軍の威武を中外に顕揚し、もつて予の倚信に応へよ。」

 よつて左のごとく奉答す。    「臣石根、上海派軍官司令官の大命を拝し、優渥なる勅語を賜ひ、恐懼感激の至りに堪へず。畏みて聖旨を奉戴し、惟れ仁、 惟れ威、克く皇軍の本領を発揮宣揚し、もつて宸襟を安んじ奉らむことを期す。」

 次いで陛下より、

「今後派遣軍の任務を達成するため方針いかん」

と御下問ありたるにより、予は直ちに、

「派遣軍はその任務上、密接に我が海軍と協同し、所在我が官憲、特に列国外交団ならびに列国軍との連絡を密にし協力、もつて速やかに上海付近の治安を回復せむことを期す」

と奉答せるに、陛下は御満足気にこれを嘉納せられたり。

    3.上海付近戦闘の経緯

 以上の我が政府および統率部の方針に遵ひ、予は上海付近の戦闘に際し特に左記方針を探り、部下各隊に対しても常時この方針の徹底に努力せり。即ち、

1. 上海付近の戦闘は専ら我に挑戦する敵軍の戡定を旨とし、所在支那官民に対しては努めてこれを宣撫愛護すべきこと。

2. 上海付近の戦闘により列国居留民およびその軍隊に累を及ぼさざることに専念し、特に列国官憲およびその軍隊と連絡を密接にし、彼我の誤解なきを期すること。

 然るに上海付近の支那官民は、蔣介石多年の抗日·侮日の精神相当に徹底せるにや、至るところ我が軍に対し強き敵愾心を抱き、直接間接居留民が敵軍のために我が軍に不利なる諸般の行動に出でたるのみならず、婦女子すらも自ら義勇軍員となり、または密偵的任務に当たれるものあり。自然、作戦地域は極めて一般に不安なる状勢に陥り、我が作戦の進捗を阻害せしことすくなからず。殊に蔣介石は、漸次、支那各地よりその軍隊を江南地方に集結し、我が軍の作戦初期においてこれを撃攘するの計画を有せしごとく、所在支那軍は屡々夜襲その他の方法をもつて我が軍に向かひ攻勢を採るに努めたり。

 ちなみに9月17日頃における支那軍の江南地方に集中せる兵力は既に43師に及び、なお西支那各地より約20師を集結しつつありたり。

 かくて上海付近の我が居留民を保護せんとする当初の消極的方針は容易にこれを達成すること難く、速やかに我が陸海兵力を増強して江南附近一帯を掃蕩するにあらざれば我が軍派遣の目的を達成すること能はざるに至り、自然、作戦は漸次にその局面を展開し、遂に第10軍の派遣となり、更に上海方面軍の編組となり、進んで敵を江南以西に駆逐するの必要を認め、遂に南京攻略に進展するに至れり。しかも最も遺憾なりしことは本作戦に対する列国軍の態度なり。けだし支那に権益を有する列国が本作戦に少なからざる寒心を有するは勿論なりといえども、彼等は1932年における列国の停戦協定(昭和7年協定)を協力支持して事件の発展を阻支[→止?]するの方針に出でずして、支那政府およびその軍隊に対し同情を有するの余り、直接間接に支那軍の作戦に便宜を与へ、時にはこれを援助するの行動もすくなからず。殊に英、仏軍隊の行動は我が軍の作戦に許多の不便を与へたり。しかも我が軍は隠忍、ただただ列国官憲およびその軍隊との諒解を得るに努め、我が作戦をして列国官民に被害なからしめんため、あららゆる不便を忍びて事態の国際的紛糾を招くに至らざることを期したり。

    4.南京攻略に至る作戦

 我が軍が上海付近作戦は、派遣軍兵力の増派により頑強なる敵の抵抗を排除しつつ、多大の困難と犠牲を冒して10月25日、漸く大場鎮付近の敵を駆逐して上海市およびその西方地域を占領し、上海在住我が居留民および海軍を救ふを得たり。しかれども上海西地域にはなほ相当の敵軍、抵抗を持続しあるのみならず、浙江省方面より新たにその兵力を上海方面に派遣·増強しつつあり、また蘇州、常熟付近には予て準備せる陣地あり、南京との間に3重の陣地を構築して江南地方の防備を急ぎ、さらにその兵力を増強しつつあるの模様なるをもつて、我が統率部は江南地方を確守して同地方の治安を保持するの必要なるを認め、ついに11月中旬に至り上海方面軍をして南京攻略を決行するに決し、さきに浙江東北岸に上陸中なりし第10軍(柳川中将の率ゆ[→ゐ]る3師団)および元上海派遣軍(朝香宮中将の率ゆ[→ゐ]る5個師団)を上海方面軍司令官たる予の統率に属し、11月上旬より江南 及 東浙地方に現在せる敵軍を駆逐して南京を攻略することとなれり。

 ここにおいて予は直ちに部下両軍に命令し、おのおの当面の敵を駆逐して南京東方紫金山の線に進出するに決して、それぞれ追擊を電署せり。然れども本作戦はもとより我が政府本来の政策を脱逸するのみならず、上海付近作戦の経緯に鑑み、今後江南地方に於けるの大基[→規]模なる作戦の実行が、今後に於ける日支両国の関係に大なる影響を及ぼすべきを憂慮し、右追撃命令に対し充分なる考慮を払ひ、特に我が軍の軍紀·風紀を厳粛ならしめんため懇切なる訓示を与へたり。本訓示中、特に予自ら加筆せる末文、左のごとし。

 敵軍といへどもすでに抗戦意志を失ひたるものに対しては最も寛容慈悲の態度を採り、なほ一般官民に対しては常にこれを宣撫·愛護するに努め、皇軍一過、所在官民をして皇軍の威徳を仰ぎ、欣んで我に帰服せしむるの概あるを要す。

 しかのみならず南京攻撃戦は自然、同地官民に幾多の犠牲を来すべく、なほ孫中山陵、明の高陵その他、南京城内外の文化的史跡等の損害を招くことあるべきを慮り、各軍に令じて、まづ南京城外においてその隊伍を整へ、正々堂々、秩序ある入城を行はしめんと欲し、それぞれ懇切なる諭示を与ふるとともに、南京敵軍に対し懇切なる勧降文を散布し、努めて平和的手段により南京攻略の目的を達せんことを欲したるも、敵軍の態度これに適はず、飽くまで南京城の防衛を行ひたるをもつて、ついに南京城内外において相当熾烈なる戦闘を惹起し、自然、戦禍の及ぶところ甚大なるに至りしは遺憾の至りなり。なほ敗走せる支那兵がその武[✕器✕]<装>を棄て、いはゆる「便衣隊」となり、執拗なる抵抗を試むるものすくなからざりしため、我が軍のこれに対する軍民の別を明かにすること難く、自然、一般良民に累を及ぼすものすくなからざりしを認む。

    5.我が軍の暴行·奪掠事件

 上海付近作戦の経過に鑑み、南京攻略戦開始に当り、我が軍の軍紀·風紀を厳粛ならしめん為め、各部隊に対し再三の留意をせしこと、前記の如し。図らざりき。我が軍南京入城に当り、幾多、我が軍の暴行·奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならざるに至れるや。

 これ思ふに、

1. 上海上陸以来の悪戦苦闘が著しく我が将兵の敵愾心を強烈ならしめたること、

2. 急劇·迅速なる追撃戦に当たり我が軍の給養その他における補給の不完全なりしこと

などに起因するも、また予始め各部隊長の監督到らざりし責を免る能はず。よつて予は南京入城翌日(12月17日)、特に部下将校を集めて厳にこれを必責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るべき旨を厳命せり。しかれども戦闘の混雑中惹起せるこれらの不祥事件を尽く充分に処断し能はざりし実情はやむなきことなり。

 ちなみに本件に関し各部隊将兵中、軍法会議の処断を受けたるもの将校以下数十名に達せり。また上海上陸以来、南京占領までにおける我が軍の死者は実に21,300余名に及び、傷病者の総数は約5万人を超へたり。

 ちなみに我が軍の南京攻略に関しては予は最初先づ軍を蘇州~湖州の線に停止せしめ、隊伍の整頓と補給の進捗を図り、徐々に正々堂々の攻撃再挙を行はんことを欲したりしが、我が大本営全般の作戦計画上、上海方面軍の一部を他方面に転用するの計画なりしと、敵軍の江南地方にその隊伍の整理する遑を与へざるを有利とする関係上、遂に急劇·快速の追撃を決行するに決せり。

 なほ本作戦間、江陰付近における我が海軍飛行隊の米国軍艦パネー号爆擊、および南京上流における我が陸軍部隊(橋本砲兵連隊)の英国軍艦および商船砲撃事件等を惹起せるは遺憾なりしも、 こは敗退する敵軍は多く英米等の艦船を利用せるものすくなからざりし事実と、追撃戦闘間避くべからざる我が部隊の興奮とにより、その過誤を招来するに至りたる次第にて、予は本件に対しても各部隊に対し厳重なる警告を与へたり。

 また我が軍の南京入城直後における奪掠行為に対しては、特に厳重なる調査を行ひ、努めてこれを賠償·返還せしむるの方を講じたり。特に英米仏其の他列国官民に対する賠償に関しては、我が外交官憲を介して努めて友誼的に本件の善処を図れるも、戦場内にある列国人の財産·生命が自然、戦禍の累を受けたることはやむなき次第といはざるを得ず。

   6.作戦の前後列国軍民との交渉の大要

 上海上陸以来の作戦間、我が軍は常時、爾後の作戦に伴ひ一般居留官民に予告を与へ、戦禍を避くべき事を警告するとともに、我が外交官憲をして屡次、在上海列国軍官憲に懇切なる予告と警告を与へ、更に協力的治安の維持に努めたり。ことに英国艦隊司令長官リットル大将および同陸軍司令官スモーレット少将との間には、予自ら11月10日および同17日の両日にわたり親しく会見して彼我の意志疎通を図り、作戦間、英軍およびその官民に与へたる不幸の出来事につき遺憾の意を表せるのほか、11月24日および12月25日の両回、仏国大使および仏国海軍司令長官と会見し、仏国租界および南市に関する諸問題につき意見を交換し、さきに南市における居留民保護に尽力せる牧師、ジャキノウ氏の行動に対し厚く感謝の意を表し、金若干を寄付してその運動を協助せり。

 米国海軍司令長官ヤーネル提督に対しては、12月24日、同25日の両回にわたり親しく会見してパネー事件に関し遺憾の意を表するとともに、本作戦に関する予[の]苦衷を左のごとく開陳せり。曰く、

 予はもとより上海付近における日本居留民の生命·財産保護の任を享け渡来し悪戦苦闘。その上、我が軍の将兵2万有余を失へるほか、上海付近にある邦人の諸工場等の多くは少からず被害を免る能はざりしが、英米その他列国のものに対しては個人的、零細なる被害を別とし、大工場、大建築等は全くその戦禍より免れしむるを得たり。これ作戦の終始、予が部下諸部隊に厳命し、我が作戦上の不利を忍びて列国に戦禍を及ぼさ[ざ]る様、取計ひたる結果にして、今更ながら予は邦人の保護をほかにし、列国の利権の擁護に全力を致したるの結果に陥り、我が朝野に対し深く相済まざる義なりと苦悶しつつあり。云々。

 右に対しヤーネル提督は能く予の意中を解したるごとく、また英国リットル提督にも同様の義を申述べたるも、彼は充分これを理解し、英国政府に対し予の苦衷を伝逹すべしと約したり。

 かくして予は上記屡次の英米両国海軍長官との間に十分に意志の疎通を遂げたるのみならず、今後、両国政府の態度いかなるべきも、われら軍事当事者は上海地方は勿論、あまねく太平洋の平和に関し協力的態度を採るべき旨を誓ひたる次第なり。

 右のほか、予は機会を捉へて在上海列国新聞通信員との連絡を図りつつありしが、10月10日、ロンドン·タイムス通信員フレザー氏およびニューヨーク·タイムス通信員アベンドを軍司令部に招き懇談の機会を与へ、先づ予自ら右の要旨の談話をなせり。曰く、

 予は三十余年来、日支提携ために微力を尽くし来りたるものにして、その多年の信念に鑑み今においても支那を膺懲するといふよりもいかにして四憶民衆を救済すべきかといふ考に充たされあり。支那は今、共産主義勢力よりこれを救脱すること緊急にして、これ支那自身のためのみならず東亜全般のため真に喫急の事項なり。ここにおいて予は日本固有の国民精神と東洋伝来の道徳の根基に立ち、日本人得意の犠牲的行動を発揮し、東亜百年の平和に貢献せんことを冀ひつつあり、願くば欧米諸国の官民が我等のこの信念に信倚し、しばらく日本のなすところを静観せんことを望む。

 なほ両氏の質問に答へて曰く、

 上海地方におけるこの種の事件は、最早再びこれを繰り返さざる様、この度こそ完全に善処すること必要なりと考ふ。ことに上海の特殊地位に鑑み、予は出発前より列国の協力によりこれを遂行せんことを期しありしが、その後、内外一般の状勢および現地の状况を体験し、いささか従来の希望を失ひたるの感あり。すなはち列国が1932年の停戦協定を支那に遵守せしむるの義務を執らざりしのみならず、その後、本事件に関する態度が列国の協力の上に自信を失はしめたるを遺憾とす。云々。

 これに対しフレザー氏は敢てこれを論弁せず、いかにせばその協力を遂げ得べしやと反問せるにより、予は、

右は列国が日本の行動を侵略的か救済的なるかの根本観察を改むること先決要件なり

と答へたるに、彼は答へず、さらにまたアベンド氏は、右は米国においても同様なりやと問へるにより、予は、

 上海地方米国官民の態度は特に今日直ぐ指摘すべきほどのものなきも、最近米国における大統領の演説の内容については不満足のものなりと答へたり。

 なお11月30日、再び右両通信員と会見し、上海占領における我が軍の態度·方針を説明し、上海付近における列国の権益を保護するため予の執りたる苦心の程を開陳せるに、彼等は我が軍の公正なる態度につき感謝を表明せり。

 右のほか、11月10日 在上海AP、DP、ルーター、ハヴハスその他、各国の主要なる通信員と会見し、上記同様、軍の方針ならびに将来における企図等につき説明を与へ、特に左の要旨を述べたり。

 比次海事件の発端は、支那軍の江南方面における排日行動に対し列国が日本と協同して1932年の停戦協定の維持に尽くさざりしことに原因せり。しかも列国が事変勃発後、支那側に同情するの余り、日支の抗争に対し中正なる態度を保持せず、中立的義務を実行せざりしことは甚だ遺憾とする所にして、その結果、戦禍の及ぶところついに列国官民もこれを免れ能はざりしは、已むを得ざる所なり。云々。

 これに対しては各通信員は何人もあへてこれに対し反駁的態度に出づるものなく、これを肯認せるの風ありしを認めたり。

   付記

 これらの消息は、当事通訳の任に当たれる岡崎外務書記官の詳知する所なり。

                    了


付記
   上海派遣軍司令官拝命等時の所感

              (日記より抽出)

 予は陸軍尚身以来、先輩の志を継ぎ在職間終始、日支両国の提携による亜細亜の復興に微力を致せり。その支那の南北に駐在すること10有余年、常時、支那の官民との間に親睦を図り、相互民族の融和·提携を祈念せり。 満州事件起るや予は自ら感ずる所あり、我が朝野同志を糾合して「大亜細亜協会」を組織し、我が同胞に対し反省を促し、亜細亜の大局に善処すべき国民運動の勃興を図るとともに、一面、支那有識者に対し孫文の所謂「大亜細亜主義」の精神に覚醒し、真摯なる日支提携の実を挙げんことを勧誘せんとし、昭和9~10年の間、両度、支那南北を歴遊しての朝野の知友に檄するなど、1日未だ30年来の信念を革むることなかりしが、今や不幸にして両国の関係はかくのごとく破滅の運命を辿りつつ、予自ら支那軍膺懲の師を率ひて支那に向ふに至れるは真に皮肉の因縁といふべく、顧みて今昔の感に禁ぜざる次第なるが、事態は如何とも致し難く、須らく大命を奉じ、聖旨の存する所を体し、惟れ仁、惟れ威、 いはゆる破邪顕正の剣を揮つて馬謖を斬るの慨、深からしめたり。


10月10日、ロンドン·タイムス、フレザア、ニューヨーク·タイムス、アベンド会見

10月15日、死傷数

10月16日、割鴉機会

10月28日、死傷数

11月 4日、中支那方面軍司令官ならびに上海派遣軍司令官

11月20日、大一期会戦完成。

11月23日、訓示

11月28日、参本、南京攻略決定。

11[→12?]月1日、参謀次長、南京攻撃の伝宣命令携来。

11[→12?]月22日、上海帰還。

12月26日、12月29日、中山参謀、南京強姦を戒む。

12月30日、李択一を香港、宋子文に遣はす。

1月13日、国民政府を相手にせず。

1月24日、16師の掠奪品を検査せしむ。岡田尚返る。

2月6日、南京に行く。

2月7日、或飾 8日、上海帰還、遺骨2万

                   8


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日 曜 11.30

天 候

  昭和二十年十二月

支那事変

 [✕出征×]日誌抜萃

      松井石根

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 一、大命拜受

昭和十二年八月 富士山中静養

中 同月十四日 陸軍大臣ノ召電ヲ

受リ[ケ?]上京 翌十五日 宮中ニ於テ

上海派遣軍司令官親補ノ

勅ヲ拜[✕ス✕]<シ> 翌十六日参謀總長

ヨリ派遣軍ニ關スル奉勅命令

幷 参謀總長ノ指示ヲ受ノ[ク?]

即 派遣軍ノ任務ハ

 上海附近ノ敵軍ヲ掃蕩シ

 其西方要地ヲ占領シテ上海居

 畄民ノ生命ヲ保護スルニアリ

蓋シ當時ニ於ケル我政府ノ政策ハ

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中支ハ勿論 北支ニ於テモ努メテ事

局ヲ局地的ニ解決シ 事件ノ不拡

大ヲ根本主義トセルヲ以テ 上海

附近ニ於テモ可成 昭和七年列國ノ

間ニ協定セル(一九三二年)停戰協定

ノ精神 幷 其取極ニ遵ヒ 時局ノ

一時的解決ヲ企圖セシモノナリ従

テ派遣軍ノ任務ハ上記ノ如ク極メ

テ消極的ニ上海附近ノ防禦ト我

居畄民ノ消極的保護ヲ其目的ト

シ 派遣軍ノ兵力モ 㐧三、㐧十一師

団(二聯隊欠)ノ二個師團弱ノ微弱ナ

ルモノナリシナリ

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 二、詔勅拜受 幷 奉答

八月十七日午前十時 予ハ宮中ニ於テ

謁ヲ賜ヒ左ノ勅語ヲ拜ス

 朕 卿ニ委スルニ上海派遣軍ノ

 統率ヲ以テス 宜シク宇内ノ大勢

 ニ鑑ミ速ニ敵軍ヲ戡定シ 皇

 軍ノ威武ヲ中外ニ顕揚シ 以テ

 予ノ倚信ニ應ヘヨ

仍テ左ノ如ク奉答ス  臣石根

 上海派軍官司令官ノ大命ヲ

 拜シ 優渥ナル勅語ヲ賜ヒ 恐懼

 感激ノ至ニ堪ヘス 畏ミテ聖旨

 ヲ奉戴シ 惟レ仁 惟レ威 克ク

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 皇軍ノ本領ヲ發揮宣揚シ

 以テ宸襟ヲ安シ奉ラムコトヲ期ス

次テ陛下ヨリ 今後派遣軍ノ任

務ヲ達成スル为メノ方針如何ト

御下問アリタルニ依リ 予ハ直ニ

 派遣軍ハ其任務上 密接ニ我

 海軍ト協同シ 所在我官憲 特

 ニ列國外交団 幷 列國軍トノ

 連絡ヲ密ニシ協力 以テ速ニ上海

 附近ノ治安ヲ恢復センコトヲ

 期ス

ト奉答セルニ 陛下ハ御満足氣ニ之

ヲ嘉納セラレタリ

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 三、上海附近戰斗ノ經緯

以上ノ我政府 及 統率部<ノ方針>ニ遵ヒ 予

ハ上海附近ノ戰斗ニ際シ 特ニ左

記方針ヲ探リ 部下各隊ニ對

シテモ常時 比方針ノ徹底ニ努

力セリ 即

 一、上海附近ノ戰斗ハ 專ラ我ニ挑戰

   スル敵軍ノ戡定ヲ旨トシ 所在

   支那官[✕軍✕]<民>ニ對シテハ 努メテ之ヲ

   宣撫愛護ス可キコト

 二、上海附近ノ戰斗ニ依リ列國居

   畄民 及 其軍隊ニ累ヲ及ホサ

   ヽルコトニ專念シ 特ニ 列國官

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  憲 及 其軍隊ト連絡ヲ密接ニ

  シ 彼我ノ誤解ナキヲ期スルコト

然ルニ上海附近ノ支那官民ハ 蔣介石

多年ノ抗日侮日ノ精神 相當ニ徹底

セルニヤ 至ル處 我軍ニ對シ強キ

敵愾心ヲ抱キ 直接間接 居畄民

カ敵軍ノ为メニ我軍ニ不利ナル

諸般ノ行動ニ出テタルノミナラス

婦女子スラモ自ラ義勇軍員トナリ 又ハ

密偵的任務ニ當レルモノアリ

自然 作戰地域ハ極メテ一般ニ不

安ナル状勢ニ陥リ我作戰ノ進捗

ヲ阻害セシコト尠カラス 殊ニ蔣

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介石ハ 漸次 支那各地ヨリ其軍隊

ヲ江南地方ニ集結シ我軍ノ作戰

初期ニ於テ之ヲ擊攘スルノ計畫

ヲ有セシ如ク 所在支那軍ハ屡々夜

襲 其他ノ方法ヲ以テ我軍ニ向ヒ

攻勢ヲ採ルニ努メタリ

[上余白加筆]

『因ニ

九月十七

日頃ニ於

ケル支那

軍ノ江

南地方ニ

集中セル

兵力ハ既

ニ四十三

師ニ及ヒ 尚

西支那各地

ヨリ約二十師

ヲ集結シ

ツヽアリタリ』

[加筆終わり]

此クテ上海附近ノ我居留民ヲ保護

セントスル當初ノ消極的方針ハ[✕遂✕]<容易>

ニ之ヲ[✕維持✕]<達成>スルコト難ク 速ニ我陸

海兵力ヲ増強シテ江南附近[✕ノ□✕]<一帯>

ヲ掃蕩スルニ非レハ我軍派遣ノ

目的ヲ達成スルコト能ハサルニ至リ

自然 作戰ハ漸次ニ其局面ヲ

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展開シ 遂ニ㐧十軍ノ派遣トナリ

更ニ上海方面軍ノ編組トナリ 進テ

敵ヲ[✕南✕]江南以西ニ駆逐スルノ

必要ヲ認メ 遂ニ南京攻畧ニ

進展スルニ至レリ

而カモ最モ遺憾ナリシコト[✕ヲ✕]ハ本作戰

ニ對スル列國軍ノ態度ナリ 蓋シ

支那ニ権益ヲ有スル列國カ本作戰 

ニ尠カラサル寒心ヲ有スルハ勿論ナリト

虽 彼等ハ一九三二年ニ於ケル列國ノ

[上余白]

「昭和七年

協定」

停戰協定ヲ協力支持シテ事

件ノ発展ヲ阻支スルノ方針ニ出テ

スシテ[✕軍ハ✕]支那政府 及 其軍隊

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ニ対シ同情ヲ有スルノ餘リ 直接

間接ニ支那軍ノ作戰ニ便宜

ヲ与ヘ 時ニハ之ヲ援助スルノ行動

モ尠カラス<殊ニ>英、佛軍隊ノ行

動ハ我軍ノ作戰ニ許多ノ不便

ヲ与ヘタリ 而カモ我軍ハ隠忍

只々列國官憲 及 其軍隊ト

ノ諒解ヲ得ルニ努メ 我作戰ヲ

シテ列國官民ニ被害ナカラシメン

为メ 有ラユル不便ヲ忍ヒテ事態

ノ國際的紛糾ヲ招クニ至ラサ

ルコトヲ期シタリ

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四、南京攻畧ニ至ル作戰

我軍カ上海附近作戰ハ派遣軍

兵力ノ増派ニヨリ頑強ナル敵ノ抵

抗ヲ排除シツヽ多大ノ困難ト

犠牲ヲ冒シテ十月二十五日 漸ク

大場鎮附近ノ敵ヲ驅逐シテ上

海市 及 其[✕東✕]西方地域ヲ占領シ

上海在住我居畄民 及 海軍[✕ノ✕]ヲ

救フヲ得タリ 然レトモ上海西南

地域ニハ尚 相當ノ敵軍 抵抗ヲ

持続シアルノミナラス 浙江省方面ヨリ

新ニ其兵力ヲ上海方面ニ派遣

増強シツヽアリ 又 蘓州、常熟

f:id:ObladiOblako:20200913193653j:image

附近ニハ豫テ準備セル陣地アリ

南京トノ間ニ三重ノ陣地ヲ構

築シテ江南地方ノ防備ヲ急

キ 更ニ其兵力ヲ増強シツヽアルノ

模様ナルヲ以テ 我統率部ハ

江南地方ヲ確守シテ同地方ノ治安

ヲ保持スルノ必要ナルヲ認メ 遂ヽ[→ニ?]

十一月[✕二✕]<上>旬ニ至リ上海方面軍ヲシテ

南京攻畧ヲ決行スルニ決[✕ス✕]<シ>

曩ニ浙江東[✕南✕]<北>岸ニ上陸中ナリ

シ㐧十軍(桺川中将ノ率ユル三師

団)及 元上海派遣軍(朝香宮

中将ノ率ユル五個師団)ヲ上海方面

f:id:ObladiOblako:20200913194854j:image

軍司令官タル予ノ統率ニ属シ

十一月上旬ヨリ江南 及 東浙地方

ニ現在セル敵軍ヲ駆逐シ[✕ツ✕]<テ>南

京ヲ攻畧スルコトトナレリ

於比 予ハ直ニ部下両軍ニ命令

シ各々當面ノ敵ヲ駆逐シテ南京

東方紫金山ノ線ニ進出スルニ決シ

テ夫々追擊ヲ電署セリ、然レトモ

本作戰ハ固トヨリ我政府本来ノ政

策ヲ脱逸スルノミナラス 上海附近作

戰ノ經緯ニ鑑ミ 今後 江南地

方ニ於ケルノ大基模ナル作戰ノ実

行カ 今後ニ於ケル日支両國ノ関

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係ニ大ナル影響ヲ及ホスヘキヲ憂

慮シ 右追擊命令ニ對シ充分ナル

考慮ヲ拂ヒ 特ニ我軍ノ軍紀

紀ヲ厳粛ナラシメン为メ懇切ナル

訓示ヲ与ヘタリ 本訓示中 特ニ予

自ラ加筆セル末文 左ノ如シ

 敵軍ト雖 既ニ抗戰意志ヲ失ヒタル

 モノニ對シテハ最モ寛容慈悲ノ態

 度ヲ採リ 尚 一般官民ニ對シテハ常ニ

 之ヲ宣撫愛護スルニ努メ 皇軍

 過 所在官民ヲシテ[✕仰ヒテ✕]皇軍

 威徳ヲ仰キ 欣テ我ニ歸服セシムル

 ノ概アルヲ要ス

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加之 南京攻擊戰ハ自然 同地官民

ニ幾多ノ犠牲ヲ来スヘク 尚 孫中山

明ノ髙陵 其他 南京城内外ノ[歴史

的×]文化的史跡等ノ損害ヲ招クコト

アルヘキヲ慮リ 各軍ニ令シテ 先ツ南

京城外ニ於テ其隊伍ヲ整ヘ 正々堂々

秩序アル入城ヲ行ハシメント欲シ 夫々

懇切ナル諭示ヲ与フルト共ニ[✕主✕]南京

敵軍ニ對シ懇切ナル勸降文ヲ散

布シ 努メテ平和的手段ニ依リ南

京攻略ノ目的ヲ達センコトヲ欲シタ

ルモ 敵軍ノ態度 之ニ適ハス 飽迠

京城ノ防衛ヲ行ヒタルヲ以テ

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遂ニ[✕挙ノ目的ヲ✕]南京城内外ニ於

テ相當熾烈ナル戰斗ヲ惹起シ

自然 戰禍ノ及フ処 甚大ナルニ

至リシハ遺憾ノ至ナリ 尚 敗走セ

支那兵カ其武[✕器✕]<装>ヲ棄テ 所謂「便

衣隊」トナリ 執拗ナル抵抗ヲ試ムルモ

ノ尠カラサリシ为メ 我軍ノ之ニ對

スル軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク

自然[✕其✕]一般良民ニ累ヲ及ホスモノ

尠カラサリシヲ認ム

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 五、<我軍ノ>暴行、奪掠事件

上海附近作戰ノ経過ニ鑑ミ 南京

攻畧戰開始ニ當リ 我軍ノ軍紀

風紀ヲ[✕維✕]嚴粛ナラシメン為メ 各

部隊ニ對シ再三ノ畄意ヲ促セシコト

前記ノ如シ 図ラサリキ 我軍南京入

城ニ當リ 幾多 我軍ノ暴行、奪

掠事件ヲ惹起シ[✕我✕]<皇>軍ノ威德

ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ

是レ思フニ

 一、上海上陸以来ノ悪戰苦閗カ著

   ク我將兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラ

   シメタルコト

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 ニ、急劇迅速ナル追擊戰ニ當リ

   我軍ノ給養 其他ニ於ケル補給

   ノ不完全ナリシコト

等ニ起因スルモ 亦 予始メ各部隊長

ノ[✕厳✕]监督到ラサリシ責ヲ免ル能

ハス 因テ予ハ南京入城翌日(十二月十七日)

特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ

必責シテ善後ノ措置ヲ要求シ

[✕タリ✕] 犯罪者ニ對シテハ嚴格ナル

處断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命

セリ 然レトモ 戰閗ノ混雑中惹起セル

是等ノ不祥事件ヲ 尽ク充分ニ處

断シ能ハサリシ実情ハ 已ムナキコトナリ

[余白加筆]因ニ本件ニ関シ各部隊将兵中 軍法會議ノ処断ヲ

受ケタルモノ将校以下数十名ニ達セリ 又 上海上陸以来

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南京占領迠ニ於ケル我軍ノ戰死者ハ実ニ二萬千三百余名ニ及ヒ

傷病者ノ總数ハ約五萬人ヲ超ヘタリ[加筆終わり]

因ニ[✕南✕]<我>軍ノ南京攻略ニ関シテハ

 予ハ最初 先ツ軍ヲ蘇州、湖州

 ノ線ニ停止セシメ 隊伍ノ整頓ト

 補給ノ進捗ヲ図リ 徐々ニ正々堂

 々ノ攻擊再挙ヲ行ハンコトヲ欲シ

 タリシカ 我大本営全般ノ作戰

 計畫上 上海方面軍ノ一部ヲ他

 方面ニ轉用スルノ計画ナリシト<敗退セル>敵軍

 ノ江南地方ニ其隊伍ノ[✕恢✕]整理スル

 遑ヲ与ヘサルヲ有利トスル関

 上 遂ニ急劇快速ノ追撃ヲ決

 行スルニ決セリ

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尚 本作戰間 江陰附近ニ於ケル我海

軍飛行隊ノ米國軍艦パネー号

爆擊 及 南京上流ニ於ケル我陸

軍部隊(橋本砲兵聨隊)ノ英國

艦 及 商船砲撃事件等ヲ惹

起セルハ遺憾ナリシモ コハ 敗退スル敵

軍ハ多ク英米等ノ艦船ヲ利用セ

ルモノ尠カラサリシ事実ト 追擊

戦斗間 迯ク可ラサル我部隊

ノ興奮トニ因リ 其過誤ヲ招来ス

ルニ至リタル次㐧ニテ 予ハ本件ニ対

シテモ各部隊ニ對シ厳重ナル警

告ヲ与ヘタリ

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又 我軍ノ南京入城直後ニ於ケル

奪掠行爲ニ対シテハ 特ニ厳重

ナル調査ヲ行ヒ 努メテ之ヲ賠償

返還セシムルノ方ヲ講シタリ 特ニ英

米佛其他列国官民ニ対スル賠

償ニ関シテハ 我外交官憲ヲ介

シテ努メテ友誼的ニ本件ノ善処

ヲ図レルモ 戰場[✕ノ✕]内ニアル列國人ノ

財產生命カ自然 戰禍[✕ニ✕]<ノ>累ヲ

受ケタルコトハ已ムナキ次㐧ト云ハ

サルヲ得ス

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 六、作戰ノ前後[✕ニ於ケル×]列國
   軍民トノ交渉ノ大要

海上陸以来ノ作戰間 我軍ハ常時

爾後ノ作戰ニ伴ヒ一般居畄官民

ニ豫告ヲ与ヘ 戰禍ヲ迯クヘキコトヲ

警告スルト共ニ 我外交官憲ヲシテ

屢次 在上海列國軍官憲ニ懇切

ナル豫告ト警告ヲ与ヘ 更ニ協力

的治安ノ維持ニ努メタリ 殊ニ英

國艦隊司令長官リットル大将

<及 同陸軍司令官スモーレット少将>トノ間ニハ

予 自ラ十一月十日 及 仝七日ノ両日ニ亘

リ親ク會見シテ彼我ノ意志疎通

[✕ト協✕]ヲ図リ作戰間 英軍 及 其官民

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ニ与ヘタル不幸ノ出来事ニ就キ遺憾

ノ意ヲ表セルノ外 十一月廿四日 及 十二月

廿五日ノ両囬 佛国大使 及 佛国海軍司令長

官ト會見シ 佛国租界 及 南市ニ関

スル諸問題ニ付 意見ヲ交換シ 曩ニ南

市ニ於ケル居畄民保護ニ尽力セル牧師

「ジャキノウ」氏ノ行動ニ対シ厚ク感謝

ノ意ヲ表シ 金若干ヲ寄附シテ其

運動ヲ協助セリ

米國海軍司令長官ヤーネル提督

ニ対シテハ 十二月廿四日 仝廿五日ノ両囬ニ

亘リ親ク會見シテ「パネー」事件ニ

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関シ遺憾ノ意ヲ表スルト共ニ本作

戰ニ関スル予苦衷ヲ左ノ如ク開

陳セリ 曰ク

予ハ固トヨリ上海附近ニ於ケル日本居畄

民ノ生命財產保護ノ任ヲ享ケ

渡来シ悪戦苦斗 其上 我軍ノ

将兵二萬有餘ヲ失ヘ[✕リ✕]ル外 上海附

近ニ在ル邦人ノ諸工場等ノ多クハ少

カラス被害ヲ免ル能ハサリシカ

英米其他列國ノモノニ対シテハ 個人

的零細ナル被害ヲ別トシ 大

工場、大建築等ハ全ク其戰

禍ヨリ免レシムルヲ得タリ 是レ

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作戰ノ終始 予カ部下諸部隊ニ

厳命シ 我作戰上ノ不利ヲ忍ヒテ

列國ニ戰禍ヲ及ホサル様 取計

ヒタル結果ニシテ 今更乍ラ予ハ

邦人ノ保護[✕ノ为メカ✕]<ヲ外ニシ>、列國ノ利

権ノ擁護ニ全力ヲ致シタルノ結

果ニ陥リ 我朝埜ニ対シ深ク

[✕申訳✕]相済マサル義ナリト苦悶

シツヽアリ云々」

右ニ対シ「ヤーネル」提督ハ能ク予

ノ意中ヲ解シタル如ク 又 英国

リットル提督ニモ同様ノ義ヲ申述ヘ

タルモ 彼ハ充分 之ヲ理解シ 英國

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政府ニ對シ予ノ苦衷ヲ傳逹ス

ヘシト約シタリ

此クシテ予ハ上記 屡次ノ英米

両国海軍長官トノ間ニ十分ニ意

志ノ疎通ヲ遂ケタルノミナラス

今後両国政府ノ態度如何ナル

ヘキモ 吾等軍事當事者ハ上海

地方ハ勿論 汎ク太平洋ノ平和

ニ関シ協力的態度ヲ採ルヘキ

旨ヲ誓ヒタル次㐧ナリ

右ノ外 予ハ機會ヲ捉ヘテ在上海列國

新聞通信員トノ連絡ヲ図リ

ツヽアリシカ十月十日 倫敦タイムス

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通信員「フレザー」氏 及 紐育タイムス

通信員「アベンド」ヲ軍司令部ニ招

キ懇談ノ機會ヲ与ヘ 先ツ予自ラ

右ノ要旨ノ談話ヲナセリ 曰ク

 予ハ三十餘年来 日支提携ノ为

 ニ微力ヲ尽シ来リタルモノニシテ 其

 多年ノ信念ニ鑑ミ 今ニ於テモ

 支那ヲ膺懲スルト云フヨリモ如何

 ニシテ四憶民衆ヲ救済スヘキカ

 ト云フ考ニ充タサレアリ 支那ハ今

 共産主義勢力ヨリ之ヲ救脱スル

 コト緊急ニシテ 是レ支那自身

 ノ爲ノミナラス東亜全般ノ为

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 真ニ喫急ノ事項ナリ

 於比 予ハ日本固有ノ國民精神ト

 東洋傳来ノ道徳ノ根基ニ立

 チ 日本人得意ノ犠牲的行動

 ヲ発揮シ 東亜百年ノ平和ニ

 貢献センコトヲ冀ヒツヽアリ

 願クハ欧米諸国ノ官民カ我等

 ノ比信念[✕ヲ✕]ニ信倚シ 暫ク日本ノ

 为ス所ヲ静觀センコトヲ望ム

尚 両氏ノ質問ニ答ヘテ曰ク

 上海地方ニ於ケル比種ノ事件ハ

 最早再ヒ之ヲ繰返サヽル様

 比度コソ完全ニ善処スルコト

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 必要ナリト考フ 殊ニ上海ノ特殊

 [✕性格✕]地位ニ鑑ミ 予ハ出発前ヨ

 リ 列國ノ協力ニヨリ之ヲ遂行セン

 コトヲ期シアリシカ 其後 内外一

 般ノ状勢 及 現地ノ状况ヲ体験

 シ 聊カ従来ノ希望ヲ失ヒタルノ

 感アリ 即 列國カ一九三ニ年ノ停戰

 協定ヲ支那ニ遵守セシムルノ

 義務ヲ執ラサリシノミナラス 其

 後 本事件ニ関スル態度カ列

 國ノ協力ノ上ニ自信ヲ失ハシメ

 タルヲ遺憾トス 云々

之ニ対シ「フレザー」氏ハ敢テ之ヲ論

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弁セス 如何ニセハ其ノ協力ヲ遂ケ得

ヘシヤト反問セルニヨリ 予ハ

 右ハ列國カ日本ノ行動ヲ侵畧

 的カ救済的ナルカノ根本觀

 察ヲ改ムルコト先決要件ナリト

答ヘタルニ 彼ハ答ヘス 更ニ又

「アベンド」氏ハ 右ハ米國ニ於テモ同

様ナリヤト問へルニヨリ 予ハ

 上海地方米國官民ノ態度ハ

 特ニ今日 直 指摘スヘキホドノ

 モノナキモ 最近米国ニ於ケル

 大統領ノ演説ノ内容ニ就テハ

 不満足ノモノナリト答ヘタリ

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尚 十一月三十日 再ヒ右両通信員ト會見

シ 上海占領ニ於ケル我軍ノ態度

方針ヲ説明シ 上海附近ニ於ケル列

國ノ権益ヲ保護スル为メ予ノ執

リタル苦心ノ程ヲ開陳セルニ 彼等

ハ我軍ノ公正ナル態度ニ就キ

感謝ヲ表明セリ

右ノ外 十一月十日 在上海AP、DP、

ルーター、ハヴハス、其他 各国ノ主要

ナル通信員ト會見シ 上記同様

軍ノ方針 幷 將來ニ於ケル企

図等ニ就キ説明ヲ与ヘ<特ニ>左ノ

要旨ヲ述ヘタリ

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 比次上海事件ノ発端ハ 支那

 ノ江南方面ニ於ケル排日行動ニ

 対シ列國カ日本ト協同シテ一九三二

 年ノ停戰協定ノ維持ニ尽サヽリ

 シコトニ原因セリ 然カモ列國カ事

 変勃発後 支那側ニ同情スル

 ノ餘リ日支ノ抗争ニ對シ中正ナル

 態度ヲ保持セス中立的義務ヲ

 [✕恪守✕]実行セサリシコトハ甚タ遺憾

 トスル所ニシテ 其結果 戰禍ノ及フ

 所 遂ニ列國官民[ニ×]モ之ヲ免レ能

 ハサリシハ 已ムヲ得サル所ナリ 云々』

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之ニ対シテハ各通信員ハ何人モ敢

テ之ニ對シ反駁的態度ニ出ツ

ルモナク之ヲ肯認セルノ風アリシ

ヲ認メタリ

  附記

 是等ノ消息ハ當事 通訳ノ任

 ニ當レル岡崎外務書記官

 ノ詳知スル所ナリ

             了

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附記

  上海派遣軍司令官拜命
  當時ノ所感(日記ヨリ抽出)

予ハ陸軍尚身以来 先輩ノ志ヲ

継キ在職間 終始 日支両国ノ提携

ニ因ル亜細亜ノ復興ニ微力ヲ致セリ

支那ノ南北ニ駐在スルコト十有餘

年 常時 支那ノ官民トノ間ニ親

睦[✕提携✕]ヲ図リ相互民族ノ融和

提携ヲ祈念セリ 満州事件起

ルヤ 予ハ自ラ感スル所アリ 我朝

野同志ヲ糾合シテ「大亜細亜協會」

ヲ組織シ 我同胞ニ對シ反省ヲ

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促シ 亜細亜ノ大局ニ善処スヘキ

國民運動ノ勃興ヲ図ルト共ニ

一面 支那有識者ニ対シ孫文
所謂「大亜細亜主義」ノ精神ニ

覚醒シ眞摯ナル日支提携

ノ実ヲ挙ケンコトヲ勧誘セントシ

昭和九、十年ノ間 両度 支那南北

ヲ歴遊シテ其ノ朝野ノ知友ニ檄

スルナト 一日未タ三十年来ノ信念

ヲ革ムルコトナカリシカ 今ヤ不幸

ニシテ両國ノ関係ハ如此 破滅ノ

運命ヲ辿リツヽ 予 自ラ支那

軍膺懲ノ師ヲ率ヒテ支那

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ニ向フニ至レルハ真ニ皮肉ノ因

縁ト云フ可ク 顧ミテ今昔ノ

感ニ禁セサル次第ナルカ 事態ハ

如何トモ致シ難ク 須ク大命

ヲ奉シ聖旨ノ存スル所ヲ體

シ 惟レ仁 惟レ威 所謂 破邪

顕正ノ剣ヲ揮ツテ馬謖

斬ルノ慨 深カラシメタリ

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十月十日、<倫敦タイムス>

     フレザア、紐育タイムス、アベンド會見

十月十五日、死傷数 十月十六日、割鴉?機會

十月廿八日、死傷数 十一月四日、中支那方面軍司令官、

上海派遣軍司令官、十一月廿日、㐧一期會戦完成

十一月廿三日、訓示、十一月廿八日、参本、南京攻畧決定

十一月一日、参謀次長、南京攻撃ノ傳宣命令携来

十一月二十ニ日、上海帰還 <十二月廿九日、中山参謀>

             十二月二十六十日、南京强姦ヲ戒ム

十二月三十日、李擇一ヲ香港宋子文ニ遣ス 一月十三日、囗民

政府ヲ相手ニセス。一月二十四日、十六師ノ掠奪

品ヲ検査セシム、岡田尚返ル。二月六日、南京ニ行ク

二月七日 或?飾 八日 上海帰還、遺骨二万

                  八

 

松井石根大将 支那事変日誌抜萃 昭和20.12

防衛省防衛研究所 支那-支那事変日誌回想-309