Ob-La-Di Oblako 文庫

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支那事変 戦塵 南京戦線 歩兵第7連隊第1中隊(水谷荘上等兵の日記)より 1937.12.7~26

【1208】

支那事変
戦塵 南京戦線
歩兵㐧七聯隊㐧一中隊

防衛研究所図書館

【1209】

複製資料経歴表  防衛庁 防衛研究所戦史部
表題:戦塵 南京戦線
戦史部が複製した経緯:複製 昭和60.12.
借用先:〒503 大垣市□□□○○─○
氏名:水谷 荘
複製要求者:原 剛(印)
支那事変における、歩兵第7聯隊㐧1中隊(第9師団)の南京付近における戦闘について、水谷上等兵が毎日綴った日記である。
昭和12年11月13日~12月26日の間のものである。

昭和60.12.19 戦史部所員 原 剛(印)

資料保管の最高責任者:戦史部長 防衛庁教官 小岩井 千里

【1265】
 十二月六日

 朝タバコ一個と、キントン飴一個が下給された。久し振の甘味品の下給だ。タバコはま【1266】だ、先日常州に於て、式班内で分配された二十五個入り一箱が、背嚢に詰め込んである。
 午前八時四十分整列。
 中谷伍長と多々見と俺は、挑発の馬を引いて部隊の前方を先行する。
 午後三時、何時間も待たされた揚げ句、白河に架けられた工兵の手に依る仮橋の、修理が出来たので、危かしい落ちそうな橋を渡る。馬匹、自動車、砲車等重量のあるものは、まだ渡る事を許されない。
 部隊の五〇〇〇米、南京道路から左に岐れる小路に、部隊の通過を示す進行方向の標識が示してあつたが、部隊が行軍するにしては、余りにも細い田舎道である爲、若し間違いではないかと、この位地で部隊の到着を待つ。
 後から来た兵隊の話では、其の後再び橋が落ちて部隊は渡れないから、現地で炊さんして、夜行軍に移るらしいとの事だつた。
 日没近くなつても視界に部隊は現れない。【1267】夕暮近く寒さの加わる中で、動かずに待ち続ける事は辛いものだ。
 南京道路上を前方から、新聞社旗を樹てた自動車が走つて来たので、これを止めて、
「白河の橋が落ちて渡れない。大部隊が修理の出来るのを待つているから、とてもこの自動車では行けないだろう。」
と敎えてやると、
「それでは句容へ引き返そう。
句容は直ぐ近い。今㐧百十四师団が交戦中だ。」
と言って今来た道を戾つて行つた。
 その後には、南京道路上に兵隊の姿は、全く無くなつた。
 中谷伍長と多々見一等兵と俺の三人は、表示に従って南京道路を左に岐れた小道伝いに、最も近く、南京道路のよく見える小部落に入つた。
 炊さんして置こうか、然し橋の修理が終れば、何時部隊が前進して来るかも知れない。果して時間が許されるか何うか。俺たちは決し【1268】兼ねた。夜は刻々更けて行く。
 空腹と寒さを凌ぎに、土間に取込んであつた薩摩芋を煮て食べた。
 七時頃、服部二等兵と泉谷一等兵の二人が連絡に来てくれた。最初俺達は敵かと思つた。寒い夜間二人で、よくもこんな遠い所を探し当てゝくれたものだ。「話は後で良い。」先ずこれを喰えと、まだ温かい芋を食べさせた。
「部隊はその位置に露営するか、槗の修理の出来次㐧夜行軍で移るか、未定の爲、次の命令を待つている現状だ、」と言う。中隊は俺達三名の事を心配しているから、早く帰つて知らせてやりたい。と言い残し、寒い夜の闇に消えて行くつた。
 俺達は取り急ぎ、指揮班全員と明日の食事を炊さんして、部隊がこの位置に到着した折、渡すことに決め、馬につけて来た現品で二食分を炊きあげた。
 後は部隊の到着を待つばかり。
 小さな部屋に藁を部厚く敷きつめ、火をた【1269】きながら眠つてしまつた。

 十二月七日

 午前六時、後方の部隊は既に前進を開始していた。
 部隊の先頭は、南京道路から左に岐れて、この部落に通ずる道を辿って来る。
 俺達は馬の準備も終え、部落を出て小道の線で联隊隊本部後に割り込んだ。南京道路から岐れたこの道は、道巾も狭く極端に悪くなつた。
 正午指揮班の昼食を渡す爲、土橋鎭に於て最後尾の中隊を待つも、一時間経つても到着しない。小道を廻りくねつて行軍している爲、延々と隊列は続くが、中隊はなかなか到着しない。今日の行軍序列は建制逆順らしい。
 西方に二〇〇〇米の部落で小休止、此処で漸く中隊に合流することが出来た。
 昼食後直に、索野鎭に向け出発。
 【1270】銃声が大部多く、近くなつて来た。南京迄後七里。
 索野鎭に着くや、直に背嚢を集積、天幕と背負袋にして戦闘準備。
 大隊長より「南京城壁は高い。これの占領には諸士の一層の奮闘を期待する。障壁一番乗は城壁上で最初に日章旗を振った者をこれと認める。」との訓示を受け三十分後に出発。」

 田と畑の中を通つて、暮色の漂い始めた遙な山麓に向う。山を越えれば南京だ。南京占領は明日か?
 前進は建制順大隊長が先頭を行く。これに続くは副官、中隊長、稲垣上等兵、俺だ。
「おい水谷、大隊長先頭では、後が五月蝿いから俺達が行こう。」
稲垣上等兵が俺にさゝやいた。俺は勿論一も二もなく同意した。
「危険ですから、我々が先行します。」
大隊長に断つて、二人は大隊長をすり拔け【1271】て先頭に立つた。
 大隊長が滿足そうに髭[下は武]の中で笑つた。
「おい兵隊。
 前方部落の清涼巷で今夜は露営だぞ。」
と至極御機嫌で敎えてくれた。
 前進一〇〇米、こゝも迂廻ばかり繰返す道だ。索野鎭で、破れた靴下に編上靴を穿いて来た爲、足を痛めた。
 大隊長の命令で、㐧一小隊から斥候が出され、前の部落が清涼巷か否かを偵察に行つた。
 戾つて来た斥候の、「前の部落は清涼巷でない。」旨の報告を受けた大隊長は、
「よし!
 その向うの部落だ。」
と前の部落より稍々大きな繁みの部落を指した。附近に敵の居る気配もなく、順調に前進を続けた。
 目的部落迠の距離三〇〇米附近。
 突如! 前方から猛烈な銃擊を受けた。重軽機、小銃の弾道は低い。
 【1272】大隊長が左手に軍刀の柄を握り、左へ土堤を駈け降りた。
 射擊は前方の山かららしい。豫め照準をきめ、我軍の有効射程距離に入るまで、引きつけて置いての一斉射擊だ。足元に連続的に敵銃弾が突き刺って、鋭い砂煙を上げる。後方からは次々と負傷者の報告も入つて来た。
 四辺が全く暗くなった頃、「敵射擊の間断を利用して、各個に清涼巷に到達すべし。」との命令を受け、中隊は損害もなく清涼巷に入つた。
 その後命令が出ないまゝに、軒下に入つたり、入れない者は稲架に体を埋め、顔だけ出して連絡に努めながら寒さを凌いだ。空腹に生の落花生を囓つては、震えつゝ時を過していた。時間を見て、炊さんの爲米を洗いに行つて、クリークに転落(※)、下半身ずぶ濡れとなり、更に寒さが身に染みてやり切れない。

※ この辺の土民は家財の焼かれるのを恐れて、皆池の中に投げ込んでいた。奇麗な水を汲もうとして、机らしいものに片足をかけた途端、机は池の底にめり込んで、水中に転落。

【1273】
 十二月八日

 誰しも今日は南京入場を夢見ていただろう。
 然し前の山には敵が居る。
 午前二時、命令に依って前方山麓の部落 許庄に入り、ここで攻擊命令を待つ。
 夜の明けるに隨つて、山の様子がよく見える。頂上近くに一連の散兵壕を堀り巡らし、各所に散在する掩蓋に連絡されている。
 敵が迫擊砲を射ち込んできたのは意外だつた。予想以上の装備持つ敵だ。
 昼食を過ぎても攻撃命令は出ない。
 敵が焼き拂つた家屋の土壁を利用し、火災で灼けた大豆を喰つたり、長面が燃え、中程が具合良く焼け、次に生の部分のある薩摩芋を食つて命令を待つ。
 爲す事もない儘に、壁の蔭で近くに見える【1274】民家を写生していたら、恰度画面に落下した数発の砲弾が炸裂した。これは記念だと思つて画面に画き込んだ。
 敵は山頂近く、陣地付近を悠然と歩いている。
 夕方も近くなり、夜営の準備に桐の生木を倒し藁を集めて、小屋を出る。
 五時三十分、大隊長が中隊の位置に到着。直に架線した通信兵に依つて、大隊に配屬となつた山砲一ヶ小隊の到着を報告する。
「山砲一ヶ小隊は、其の位置に於て直に山上の敵を砲擊すべし。」
 大隊長の命令が後方に送られる。
 何分経つたろうか、轟然一発。頭上を唸つて飛び越して行つた山地榴弾は、物の見事に敵掩蓋に命中した。続いて砲弾は休む事なく敵陣に射ち込まれた。我々の志気は盛り上がつた。
「攻擊前進!」
 大隊長の命令一下、一斉に攻擊を開始した。
 㐧一二小隊火線、㐧三小隊援隊、敢然と地【1275】を蹴って発進した。今迠の遮蔽物を飛び出したが最後、山頂に至る迠身を遮る何者もない。
 一望且々たる裸山だ。敵の掃射の好餌になるか。
 俺と多々見一等兵は銃を持たない。銃も持たずにこんな戦闘に遭遇する等とは、思いもよらない出来事だつた。足を痛めた俺は、杖をつき短剣を拔いての前進だ。
 身を遮蔽するに一切もない山腹、一気に敵陣に突入するのみだ。敵弾は愈々激しくなる。
 歩度は極端に鈍つてきた。眞近かに見える敵陣がなか〱近づかない。気ばかり焦る。
 足は進まない。糞!もどかしい。敵弾が身をかすめる。当らば当れ。
「坂本がやられた!」後方でそんな声が聞えた。
 先頭は見事敵陣に迫つた。
「ワーツ ワーツ」
 精一杯の喊声を上げての突撃だ。
 敵が手榴弾を投げた。敵が逃げる。
【1276】
 俺は取りついた壕の中に倒れている敵兵の、モーゼル銃を執つて逃げる敵の背に射ち込んだ。片付等している暇はない。皆腰だめのまゝで射ちに射つた。
「皆前に出て射て!」
 小村隊長の声が聞えた。
 斯くて三七〇髙地は、あつ気なく占領出来た。
 陣地を捨てた敵は、向う斜面を降りて、次の山に逃げ込む。
 小村隊長がこれを追擊する。
 俺は小村小隊に合せて、中隊との中間を進んで連絡に当る。足は痛くともこれは指揮班の任務だ。
「㐧二十隊! 引き返せ!」
 中隊からの指示を、小村小隊長に伝達する。干れた喉、切れそうな息の中で、俺は最大限の声を上げていた。
 小村小隊も引き返し、山頂の寒風に吹かれたら、中隊は集結を終る。
【1277】
 左翼攻擊の第二中隊も共に集結した。第二中隊はこの攻擊で、四十数名の戦死傷者を出した。戦死二十二名と聞く。中隊は僅か負傷者一名のみだつた。第二中隊は敵の防禦正面を攻撃したものだろう。
 斃れている敵の中に、チェッコ式軽機を持つた奴がある。俺は早速手にしたモーゼル銃を捨てゝ、この軽機を取つた。敵の肩から保弾板も外して肩にした。人の良い服部上等兵が重いだろうと保弾板を持つてくれた。
「南京では、二人でこの軽機を射とう。」
と言うと、
「俺は射つ事知らんから、お前射て。」
「こんなもの直ぐ分る。敎えたる。」
 射つのはお前だ、と、人の良い服部は、重い保弾板を持つてくれた。
 第一小隊の軽機分隊に、銃のないことを知つて、この軽機は彼等にやつて、又小銃を拾つた。
 大隊は集合を終えると、直に前進した。
【1278】
 どれだけ山を越えた事か。峻嶮な山が多く、滑り落ちる急峻な個所も各所にあつた。早くなつたり、遅くなつたり、止まることのない前進は続けられた。
 逃げ遅れた奴だろうか、それとも自軍と間違えたものか、彼方でも此方でも、敵兵が隊列に紛れ込んで行進していた。敵味方入り乱れての行進だ。
 暗夜山嶽地帶悪路の行軍、歩くことにのみ精一杯の各兵達は、他人に注意を払う余裕もなくつい発見が後れ、気がついて「この野郎!」等と隊列から弾き出して行進を続ける。こんなものに関り合つて、時間を費していては、後々迠も追及するのに、苦まなければならないからだ。
 足の痛みは増々募る。困つた。
 南京は近い。頑張ろう。

【1279】
 十二月九日

 闇夜、山を切り立つたような急坂を、登つては降り、降りては登る。連続して繰り返すこの苦痛を、何う書き表したら良いのか、言語に絶する苦しみの強行軍は、休むことなく続けられた。
 山を下り切つた夜明け前、敵部隊らしいものに遭遇して凍りついた路上に停止。斥候を出して偵察中、、、汗に濡れた体を持て余しながらも、何時とはなく深い眠りに陷つていた。
 前方遙かな部隊は、友軍砲兵部隊である事が判明して、直に前進に移る。 
 午前七時、南京を隔たる二里の、南京道路上に於て休止。凍てついたぼろぼろの朝食をとる。これは昨日の夕食分だ。
 次の食事の準備に米を洗いに行く途中、敵の敗残兵が、血でべたべたになって出て来て出て来て、俺に向つてしきりに何かを話しかける。頗る早口で意味なんか分かりつこないし、聞こう【1280】としない。こんな奴に関り合う元気もない。
「おーい、残敵だぞ。」
誰に言うでもなく俺が声を立てた。朝も早いし昨日来の甚だしい疲労で、きつく者は誰もなかつたが、それでも元気な奴が、銃を持って出て来て一発お見舞いした。
 再び行軍に移る。
 道路は立派だが、地雷が沢山布設してある。
 後から来た戦車隊のサイドカーが、地雷にやられた。工兵の地雷探知機で、埋設された箇所毎に、白墨の丸で囲って表示してあつたが、愼重な注意が必要だ。
 上海方面から飛来して、空爆に行く友軍機に、敵の高射砲弾が集中し、弾幕手で覆つてしまつた。ハツと思わせる場面だつたが、友軍機は雄々しく、悠々と侵入して行つた。
 敵の迫擊砲弾が盛んに飛来する。
 数分前まで敵の居た部落を、次々と拔いて進む。五二隊九時五分等として、矢印で移動方向を示す、民家の壁に書かれた白墨の、敵【1281】の退却時間と、我々の通過する時間には僅か数分の差よりない。敵の最後尾に接続しての強行軍だ。俺達はこの状况に更に意気軒昂、痛みも辛さも忘れて、歩度を速めていた。
 何時だつたろうか、休息が発せられて、皆よく眠った。それは泥沼に踏み込んだ程に、深いしばしの眠りだつた。
 夕方、出発命令に依つて後方へ引き返す。この道路からずーつと北に入つて支那軍の兵舎に行くとの事だ。それは攻擊の爲か、それ共野営の爲かはわ分からなかつた。
 八時頃、既に道路を外れた途中の部落に於いて炊さん。又出発だ。田の中、畑の中と歩き続けた。
 足が痛む。眠い。頭が痺れる。足元がふらつく。

 十二月十日
【1282】
 午前二時三十分、漸く目的地の部落に着いたが、其処に支那軍の兵舎はなかつた。
 火を焚いて少しでも眠る。
 五時三十分、联隊総攻撃の命を受け、中隊も出て行つた。
 俺は川﨑軍曹の命で、事務整理の理由で川﨑軍曹と共に、この部落に残る。
 南京城を目前にして、攻擊にも参加せず、現状下の書類整理はうなづけない。何うにも気が進まない。内心大きな不満を抱いて、不承不承仕事をしていた。報告、上申書類の整理等急を要するものでもないのに。
 何分隊か、鶏を一羽残して行つたので、副食には困らない。味噌は残つているし、部落の畑には葱も菜つ葉もふんだんにある。
 川﨑軍曹、N上等兵、との三人で野営する。

十二月十一日
【1283】
 朝からドンドンバリバリやつている。
 昨日は南京城の占領は出来なかつたらしい。今日も不服滿々で、書類の整理に一日を送る。
 敵主都南京攻擊に参加。全軍で何れだけの兵隊が、この光栄に浴する事が許されるのか、この千才一遇の好機に、むざむざと戦列を離れ、現時点での必要も認められない、不要不急の書類整理等とは、何うしても俺の心が許さない。
 心中深く抱いた大きな不滿に、事務にも專念出来ないまゝに、切歯扼腕しつゝ一日が終つた。
 こんな所でぐづぐづしていては、南京が陷ちてしまうではないか。

 十二月十二日

 昨夜も中隊に帰るよう言い出したが、川崎【1284】軍曹もN上等兵も、戦列復帰を避けているようだ。
 今日も朝から度々繰返した揚句、俺は俺なりに決心して
「水谷一人で、中隊に帰っても良いですか。」
と最後の意見を申し述べた。
「水谷、
 お前一人が参加しても、南京攻擊に何れだけの影響があるか。」
全く意外な返事だった。これが現役下士官の言葉だろうか。俺はこの言葉を一生忘れる事はないだろう。俺のあせりはさげすみに変り、この人が、哀れにも思えた。
 然し結果的には、憤然たる俺の意見は、他の二人を説き伏せた形になり、□つてこの部落を発つた。
 午後三時、中山門外の工兵学校跡に大隊本部を見出し、更に弾雨下壕伝いに挺身、工兵学校演習場の中隊に帰り着く事が出来た。
 【1285】南京城壁は随分近く感じられた。
 城壁寄り左前方二〇〇米の地点の、洋館の陰から敵の重機が、激しい射擊を浴びせて来る。
 「彼奴を叩かないかんですね。」と中隊長に言ったら、お前の所は火を着けるのが上手[ウマイ]から、お前のとこで火を着けて来い。」と笑われたとの事だった。

 昨日の戦闘で、同年兵の朝田と谷内(西村?)が戦死した事を聞く。
 夜に入って、敵の十五榴らしい砲弾が、盛んに射込まれる。
 これで俺も、直接南京攻擊に参加できたのだ。
 もう何時間も、城壁を目標に射ち出す、友軍の重砲弾が、城壁附近に炸裂し続けている。

【1286】
 十二月十三日

 午前三時三十分起床。
 㐧一中隊南京総攻擊に備え、㐧一中隊は前方六〇〇米の部落後庄を目標に、渋黒の工兵学校練習場の中程まで前進。
 木越中隊長、小村小隊長、川崎軍曹等が、地上に拡げた地図を囲んで、空を背景に透すようにして、周囲の地形を偵察して後庄の位置を探しているが、なか〱決定しそうにない。
 俺達指揮班は、傍二掘り下げられた土の階段を見つけて下りて見た。降りきつた処には、上空から遮蔽して三米四方もある大きな井戸が掘られていた。四方に地下壕が通じ 各散兵壕からも、容易に水を運んだらしいこの井戸は、流石に工学学校だけのことはあると、工事の出来映に感心しながら、冷たい夜風を避けていた。
 俺達が寒風を除けているにも抱らず、幹部が身を切る寒風に、吹き晒しである事は、心【1287】に咎めるものがあつて、階段を登つた。何も言わなかつたのに、多々見もついて来た。
 幹部はまだ決し兼ねている様子。
 程なく議決された。
「あれが後庄だ。
 よし、行こう。」
小林小隊長の声だ。その方向に藪か林か、そんな影で部落らしいものが微かに認められた。
「中隊後庄到着と、大隊本部に報告しましょうか。」
俺が言った。此処から報告に出た方が、現地に到着してからよりは、遙かに早いのだ。
「そうだな。よし。」
そう返事を受けたが、此処に居るのは俺と多々見二人だけだ。
 二人は直に大隊本部に至り、命令受領者のM班長に報告して引き返した。
 出発時に後庄だと指示された部落に、帰り着いたものゝ、中隊はいない。此処に入つて【1288】いるのは㐧二中隊だ。
「㐧一中隊は居りませんか。」
「㐧一中隊か、
㐧一中隊は、此処が後庄だと思つとつたが、後庄はこの北の部落だから、そちら    に入つている。」
 俺達が尋ねた㐧二中隊の将校の方は、親切に敎えてくれた。
 これでは中隊は居ない筈だ。北の部落に行くも、こゝは猫の子一匹いない無人部落だつた。
 しまつた。中隊は南京城に入つたのか。残念だ。突嗟にそう判断した。やるせない気持で、二人は城壁に通じる道を探した。
 周囲はまだ暗い。幾條もの道はあつたが、池のようなもので遮られていて、城壁の下に出る事は出来ない。漸く探し求めた一本の道が、城壁眞下の道に出るこ事が出来た。眞近かに見る城壁は、更に巨大で小山を切り立つたような威圧感を覚えた。
【1289】
 此処から左手僅かな距離に、連日友軍重砲弾を射ち込んだ、破壊口が見えた。
 不思議に今日に限つて、敵からの射擊はなかつた。
 中隊はこの破壊口から入つたのだろう。二人はこの破壊口をよじ登つた。
 此の時彼方から、城壁直下の道を此方へ接近して来る一団が見受けられた。敵か、見方か、三十名の一団だ。身を隠すにも場所がない。
 素早く城壁の中程から駆け下りて反対側の道端の葺の繁みに身を秘めた。
 接近したその一団は紛れもない敵だつた。俺達二人の目前を通過して、城壁の破壊口を登り、音もなく城内に消えて行つた。
 若しこの背後から手榴弾を投げ込んで、先制攻擊をしていたら、恐らく相当の戦果を上げたことだろうに、俺達は中隊に帰ることのみ念頭にあつて、これに気づかなかつたのは迂活千万であり、返す〱も残念だつた。
 敵が音もなく城内に入つたのは、城内に未【1290】だ中隊が入つていない証拠だ。
 再び引返して中隊を探す。猫の子一匹居なかつた無人部落の、その北の部落に中隊はいた。中隊が後庄に到着を、大隊本部に報告した旨を復命
「今、敵三十名程、あの破壊口から城内に入りました。あそこに道があります。」
と報告した。これを聞いた附近の兵隊が、ざわめき発進の動きを見せた。
 他の奴等に先を越されて堪るか。多々見と俺は、その場からまつしぐらに、城壁に向つて駆けた。
 右手の中山門は既に落ちた。
 敵が居ようが居まいが、問題ではない。
 全勢力を傾注して、破壊口をよじ登つた。
 一番多々見一等兵。何うしても拔く事が出来なかつた。二番水谷。三番常光衛生上等兵。後は数珠つなぎに登つて来た。
 時七時二十分。
 城壁に立つて、銃をかざし、東の空に向い、喉も裂けよと、有らん限りの声で万才と【1291】叫び続けた。俺は兄から贈られた日章機を思い出し、銃に結びつけて万才を繰返した。
 皆、感激の涙で、顔はくしや〱だ。
 嗚呼、待望の南京城頭、全軍この感激に浸ることの叶えられた者は、我々を含めて、極めて少数でしかないのだ。
 武人の本懐、万感胸を埋め、幸福感は全身に溢れ漲つた。よくぞ日本男児に生れけりだ。
    ◇
 中山門外北方丘陵の中山陵が、雄大な姿で暁の明るみに浮び上がつて来た景観は、殊の外强く印象つけられた。
 城壁の背面は、切り立つた前面とは対照的に、なだらかになつていて、降りきつた所に一軒家があつた。人影もないこの一軒家の中央に、三杯の大鍋がかけられてあり、蓋を取つて見ると、パツと湯気が上つて煮えたばかりの眞白な飯が顔をのぞかせた。
 俺達は敵の残して行つたこの思わぬ贈り物に、我も我もと、手近な木片や木の枝で、掻き【1292】込みにかゝつた。
「襲擊されたら何うするか。皆警戒線につけ!」
小村小隊長は叱り飛ばした。だが皆ありついた飯から離れそうにない。
「言うことを利かん奴はブツタ切るぞ!」
小隊長は拔身の軍刀を構えている。
 敵前抗命で本当にブツタ切られないとも限らない。未練を残しつつ、家外に出て警戒線についた。

この場の小村小隊長の、威厳のある凜たる命令は、指揮官の頼母しさを感じさせられた。

    ◇

直に駆けつけた大隊長の記念撮影があるというので、再び城壁上で万才をして撮影を受ける。

続いて前進、迫擊砲弾二百発、銃弾数千発を鹵獲する。

前に見る飛行場に三機が残されている。一斉に発進殺到した。飛行場中央に侵入し【1293】た時、前方五〇米に爆弾十数発が炸裂した。

上空髙々度に爆擊機三機の編隊を見る。この編隊により投下されたものだ。

機体の標識は丸く、日の丸とも青天白日とも判別出来ない。友軍機が南京入城を知らず俺達を敵と誤認しているのだと、日章機を水平に振り続けて占領を知らせる。

旋回した編隊は又数発を投下した。これは一〇〇米前方に爆発した。大隊の無線連絡で、上空飛行中の爆擊機は敵である事が知らされ、早々日の丸を巻いて遮蔽した。

敵機は他の城門らしい箇所の附近を、二三爆擊して引き上げて行つた。

程なく上海方面上り、友軍機隊が猛速で飛来し、敵機を追跡して西の空に姿を消して行つた。

左前方一〇〇米、破壊された建物の影に敵を発見、曽野と二人だけで攻擊したが、捕獲したのは一人だけ、俺が発砲、曽野が刺した。

【1924】[上余白]市内掃蕩

引き続いて市内の掃蕩に移る。市内と言つても大都市南京、ほんの一部の取りついた附近の小範囲に過ぎないが、夥しい若物を狩り出して来る。

色々の角度から調べて、敵の軍人らしい者二十一名を残し、後は全部放免する。

  十二月十四日

朝、㐧一公園近くに、我軍の空襲で屋根を落されている家屋が、宿舎にあてられた。

昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩に当り若い男子の殆んどの、大勢の人員が狩り出されて来る。

靴ずれのある者、面タコのある者、極めて姿勢の良い者、等よく検討して残した。昨日の二十一名も射殺する。

敵の鹵獲小銃で鳥を射つたら、見事一発で命中した。敵の小銃モーゼルは性能が良いのだろうか。公園に出て鳥を射つて見たが、全然駄目だつた。先刻の命中は紛れだつたかも知れない。

夕方になつてから、近くの少し程度の良い宿舎に移る。

この宿舎に入つてから、多々見と二人で、自転車で菓子や砂糖の徴発に行く、夜遅くなつたものゝ、収穫多々で帰る。

後方の湯水鎭に於て、南京攻擊司令官朝香中将の宮殿下等司令部が、敵の包囲下に在り急據出動を命ぜられ、発進したが、再度の命令で取り消された。

  十二月十五日

今日も大移動。昼食携行で日本領事館の方向、難民区に行く。

【1296】経路は中山路だろうか、広い道路はぎつしり路面を覆いつくして、逃走の際脱ぎ捨てられたものゝ如く、支那軍の軍装で埋め盡されていた。弾薬も多数放置され散乱してはいたが、兵器の類はその割合に少く感じられた。

行けども行けども、何處迠歩いても衣服は道を埋め盡し、これを踏みつけては歩き通した。よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。その膨大な数量にも驚いたが、この軍服を脱ぎ捨てた敵将兵が、悉く市内に潜伏しているとしたら、城内には夥しい残敵が、便衣をまとつて好機を狙つているのかも知れない。この奌は特に充分な警戒が必要であろう。

難民区

今日も夕方になつて漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入つた。

【1297】

  十二月十六日

午前、中隊長と二人だけで、宿舎北方の山寺に行く。由緒ある古寺らしく、その規模の壮大さに先づ圧倒された。

此処は敵の憲兵㐧二団が置かれた跡である事が、慰留された書類や物品で判明した。憲兵隊らしからぬ、戦闘部隊用の兵器、弾薬等が夥しく集積されていて、水冷式重機関銃一挺を発見する。其の他被服類の梱包等数えきれない物資が、年輪を經た巨木の繁みの影に積み上げられていた。

午後中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。

目につく殆んどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行して来る。

各中隊共何百名も狩り出して来るが、㐧一中隊は目立つて少ない方だつた。それでも百数十名を引立てゝ来る。その直ぐ後に続いて、【1298】家族であろう母や妻らしい者が、大勢泣いて放免を頼みに来る。

市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方ない。眞実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだろう。

多少の犠牲は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。

酒井曹長が中隊に到着。

  十二月十七日

昨夜十二時頃、非常呼集があつて、㐧一機関銃部隊は揚子江岸に一二〇〇名の銃殺に行つていたが、夜に入り、それ迠死体を装つていた多数の相手に、包囲され苦戦中との事。急據出動し【1299】たが、途中で大隊本部よりの命令で、概ね鎮圧した由、長以下一〇名が応援に行き、他は帰る。

今日は五時起床。厂史に残る南京入城式だ。指揮班からは伍長、I、Gが参加する。

宿舎の直ぐ裏にドイツ人の住宅があり、何となく親近感を持つて遊びに行く。此の家の主人シハイリン氏は居ないが、中国人の給仕が居て葉巻を出してくれた。たど〱しい日本語を話せるものも居たので、正午迠遊んで帰る。

午後は近くの池に、支那軍の手榴弾を投げ込んで魚をとつた。六〇粁以上もある大きなのが五匹も取れ、それ以下のものも十数匹取れたので、早速天ぷらや塩焼にして食う。

夜昨日の裏の山寺に行つて、魚をとる爲の手榴弾二箱を取つて来る。

【1300】

  十二月十八日

この頃時々、中隊が鹵獲した小柄の馬に乗る。よく落馬する者があるが、何かの本で兩膝に力を入れて馬を挟むようにして乗馬する。と読んだように思うので、そのように努めた爲か、俺はまだ一度も落ちた事がない。

戦友達の間で、近々蘇州に帰るとか、漢口へ進むとか、上海に退つて警備につく等、いろ〱の噂が流れている。蘇州の警備なら頂好(テンハオ)だがなあ。

十月二十四日付の、家からの手紙を受取り、直に返事を書く。

  十二月十九日

全員集合が掛り、小村小隊長からの訓話がある。

「諸士本当によくやつてくれた。

戦史に残る南京攻擊に成功した光栄を【1301】よく噛みしめて、この名誉を傷つける事のないよう、慎重な上にも慎重な行動をとるように心掛けて慾しい。

家郷に残る家族にも思いを馳せて、いやしくも法に触れるような事のないよう、例え一人の行爲と謂も、全軍の威信を傷つける事になると言う事を、忘れないように。

特に放火、强姦等破廉恥行爲は、厳に慎んでもらいたい。これ等の行爲は、住民の最も大きな反感を買うもので、今後の宣撫工作にも悪影響を及ぼし、占領政策上に大きな支障を来すものである。

結婚していた者は別として、独身者は自制できない筈はない。若し辛棒出来ない者は、何時でも良い、遠慮なく俺の所に相談に来て慾しい。必ず処理してやるから。」

若しそんな場合、何んな処置をしてくれるのかは知らないが、この厳しい注意と要望には、温か味を感じ聞き入つていた。

中隊に僅かではあるが、新品の編上靴が廻【1302】つて来た。服部が取り扱つたが、度々の靴傷で苦労した俺の事を気にかけて、最初に、

「水谷、
お前に合うのを一足取れ。」

と言つてくれたので、有難く十文半の靴をもらつた。

  十二月二十日

㐧二中隊の渡辺がひよつこり尋ねてくれた。

嬉しい限りだ。此奴の人なつこい笑顔は、全く魅力がある。南京城内で、二人笑顔で再会出来る等、夢にも思つた事がなかつたのに、共に留守家族に戦死の通知を出すことなく、今日を迎えられたのは、二人にとつても大いに惠まれた再会だつた。

彼の消息を気にかけながらも、今日に至つてしまつた。俺の肩の荷も下りた。

【1303】

  十二月二十一日

戦闘もなく、弾雨下降時の命等と、緊迫した空気の中での生活でもないので、つい日記を書かなくなつてしまつた。

何うせ俺がやらねばならない仕事だから、戦死者の現認証明書の、資料を集め始める。

だが、まだ本格的に事務を執る訳ではないから、気の向くままにやつている。

  十二月二十二日、

俺は勤務につく事もなく、近くを遊び歩いたり時には裏のシハイリン氏の家に寄つたり、全く気まゝな日々だ。

単身人気のない民家に入り、二階に上る、半開きの扉から落花生がなだれ出している。

【1304】占めた。大好物の落花生、南京に於ての南京豆か、大分永らく口に入つた事がない。持つて帰ろうと思つて扉を開いた。農家でもないのに此処は穀物屋か、部屋の中には大量の落花生の山だ。だがその眞中には、仰向けに大の字になつたしなへいの屍体がある。全く意外でもあり、一瞬ぎよつとした。物音一つ聞えない小部屋の、薄暗さは不気味にも感じられた。入り口を塞がれでもしたら、単身、それこそ万事休すだ。

大量の落花生も見捨てゝ、早々に退散した。

とれにしても、何うして正服の支那兵がこんな所で死んでいるのだろうか、此処迠逃げ込んで死んだものか、それ共此処で発見されて殺されたものか、

恒一からと、田中清一郎からの手紙を受取る。

【1305】

  十二月二十三日、

朝、馬鞍山砲台の衛兵交替があるというので、これについていく。相当の距離ではあつたが、中隊鹵獲の自動車に乗せてもらつての行軍だから、楽なものだつた。

岩山をくり抜いて、幾門もの榴弾砲が据え付けられている。前面は何れも頑丈な防壁で保護され、砲口は前方眼下の揚子江(だろう)に向けられている。内部は弾薬庫、兵器室等能率的に配置された、完全装備の砲台だ。

面白半分に砲を捜査して見る。一奌の曇りもない程に手入れも行き届き、塗装部以外は鋭く光っていて、上下左右自由自在に滑かな操作ができた。盃洗の支那軍と謂も矢張り軍人、兵器の手入のよく出来ているのには、いたく感じ入つた。

午後、城壁に、伊佐部隊木越隊一番乗の記念柱を建てたゝ置くべきだと思い立つ。附近に適当な用材も見当らないいまゝ、長さ一・五米、巾二〇糎の角材を充てる事にして、表に、

京城壁一番乗 伊佐部隊木越隊

裏面に

昭和十二年十二月十三日午前七時二十分

と墨書した。

予備校の下士官や先輩達始め、皆の戦友が快よく協力をかつて出てくれ、ガソリンの補給の見込もないのに、自動車を使つて、城壁突入口の下迠乗せてくれた。

城壁上に、小円匙で穴を掘つて建てた。

附近の景観が余りにも雄大過ぎて、この標柱は如何にも見すぼらしく、マツチ棒位の感じよりしない。残念だと思つた。もつと大きな材料を探す努力をすべきだつた。

「小さ過ぎた。
残念だなあ。」

と俺が悔しがると、

「良いよ。良いよ。これでよくわかるよ。」

と皆が慰めてくれた。

【1307】

  十二月二十四日

愈々後方移動が決定された。

午後、数名で縄や紙、ドンゴロス等梱包材料を徴発に行き、とある民家で、珍しい饅頭の、格別美味しいものを御馳走になつた。

  十二月二十五日

午前は專ら明日の出発に備えて、携行品以外の梱包等の移動準備。

午後中隊の軍装検査がある。

明日の出発予定は午前六時の爲、日夕点呼は一時間早く、七時に終る。

一時間早い点呼だつたが、班に帰つてからは、南京最後の一夜を惜んで、次から次へと上海上陸以来の、思い出話に花が咲いて、止る処もなく、夜も更けてから、いつとはなく寝【1308】入る。

  十二月二十六日、

愈々出発だ。待望久しく憧れであつた南京を後にする日、

午前四時起床。途中囗民政府の前を通つて中山門に向う。先日建てゝ来た城壁上の記念柱を、遠く右に眺めながら聯隊は整列。

行軍は開始された。

遂に中山門を出る。ぎつしり土嚢を詰めて、固く閉鎖されていた中山門も、一部通れるようになっていた。

[×あの分隊、この分隊にも、戦友の胸に抱かれた白布の白さが胸を打つ、白布に包まれた飯盒の中で、国の礎となつた戦友が無言の×]

[上余白]飯盒に納めた遺骨はなかつたと思う 誤り

ままで南京城を後にした。

只管南京を目標に勇戦奮闘、立派な最期ではあつたけれど、一歩でも良い、彼等にもこ【1309】の城壁を踏ませてやりたかつた。だが兄等の犠牲があつたればこそ、中隊は南京城壁を占領出来たのだ。依つて瞑せよ。偉大なる不朽の功績は君達にあるのだ。安らけき瞑福を祈るや切。

彼方に遠ざかり行く城壁を、そして突入口を、幾度も幾度も振り返りながら、終生忘れる事のないよう、眼底に、胸の奥に、深く焼きつける思いで、何度も振り返つていた。

京城を遠く離れた頃から、急に遺棄された敵の屍体が数を増した。無数とも言える屍体の連続だ。道路中央寄の者は、既に多くの車輌にひかれ、軍靴に踏みつけられて、見るも無惨な煎餅状になつている。俺達も避けようもないままに、その屍体を踏みつけて歩き続けた。

道側に斃れた者は、冬の寒さで腐敗することもなく、様々な姿態で折り重なつていた。概して童顔の兵士が多く、一部には女子兵士の屍体も可なり混つていた。これを娘子軍と呼ぶのか。今迄見たこともなかつたゞけに、これは驚きだつた。

友軍後方部隊の心ない輩の仕業か、袴をずり下して、白日の下、下半身を露にしたものが数々見受けられた。友軍の行為だけに、名状し難い憤りと共に、情けなくなつた。

そんな状態は、歩けど歩けど続いた。

恐らく地上部隊の攻擊を受けたものではなく、退却中を空軍に依つて繊滅された者であろう。

湯水鎭で宿営の予定であつたが、既に他部隊が充滿していて、附近部落にも入りきることが出来ず、四〇〇〇米も前に出て、更に右に三〇〇〇米も入つた小部落に宿る。

行軍途中、余り喉が干いたので、土民の居る家に入つて、快々的大急ぎで湯を湧かせて飲む。

今日の行軍は三十粁か。

 

支那事変 戦塵 南京戦線 歩兵第七聯隊第一中隊
防衛省防衛研究所 支那支那事変上海南京─350)