Ob-La-Di Oblako 文庫

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南京城攻撃之記 脇坂部隊(歩兵第36連隊) 1937.12.5-13

自昭和十二年十二月五日
至昭和十二年十二月十三日
   南京城攻撃之記
         脇坂部隊

 井出少将の指揮せらるる第九師団追撃隊主力たる歩兵第三十六連隊主力は、十一月二十日午後一時、蘇州を出発し、陰雨霏々たる中を鉄道線路に沿い追撃、前進す。途中、泥濘と弾雨を冒し望亭、無錫の敵を撃破し、続て連日、諸障碍物を除去し、又、残敵を掃蕩しつつ常州、金壇、天王寺と、糧食の欠乏、累加する労苦、寒気を克服しつつ、一路南京に向ひ驀進し、早くも十二月五日午后三時、湢化鎮東側を南北に流るる丘陵線上に堅固に陣地を占領せる敵前に達す。

 此の陣地は南京東方大葉山々系に連なる南京要塞本防御線の一部にして、三線より為るトーチカ陣地線を骨幹とし、其の間を掩蓋を有する野戦陣地を以て連結し、陣地前には二線の屋根型鉄条網を張り囲らし、又、一連の対戦車壕を有し、極めて堅固なり。

 連隊長は前兵長たる伊藤少佐の報告並に自らの偵察に依り、陣地は極めて堅固なるも配兵少なしと判断し、新に山崎大尉の指揮する清水大隊を伊藤大隊の右に展開し、一挙に之を突破し南京に突進せんと企図せるも、接敵と共に敵火益々猛烈となり、其の第一線は一部を突破せるも死傷続出し、終に前進困難となりたるを以て、同一地に位置する旅団長の認可を得て、爾後逐次、攻撃陣地を推進し、六日薄暮、終に第一線陣地を占領す。

 連隊長は直に檜皮大隊を清水大隊の右に増加、戦果を拡張し、更に第二線陣地に対し突撃陣地を推進す。此の間、敵は続々兵力を増加し、抵抗益々頑強なり。第一線将兵は携帯口糧、疾に尽き果て、予備隊より前送する僅少なる握飯と芋とに依り飢餓を凌ぎつつ、肌を刺す師走の寒風も物かは、不眠不休、掘進作業を続行す。

 七日、師団主力も追及し、追撃隊は新に左翼隊となり、八日朝より師団砲兵の主火力を以て協力せらるることとなれるを以て、連隊長は旅団長の企図に鑑み、八日午后二時を期し総攻撃敢行を決意し、着々準備する所あり。

 翌八日早朝、連隊長は副官以下を帯同し迫撃砲の集中火を冒し大平橋側高地に進出、戦況を黙視しつつ、協力砲兵観測所と密接に連繋し戦闘を指揮す。旅団長自ら副官、及連絡の為到れる松沢参謀を帯同し、大平橋西南側高地同線上に進出し、連隊の戦闘を指導す。

(逸話)七日夜、連隊長は、八日、優勢なる砲兵協力の下に総攻撃強行に関し、第一線大隊長の意見を徴するや、伊藤大隊長は「敵陣地、極めて堅固なる故、攻撃を強行するは徒に損害を続出し、爾後の突進力を減少し、結局、南京攻略遅滞すべし。故に正攻法に依り九日払暁、突入するを可とす」との、強行不可の意見具申をなす。

 然るに連隊長は旅団長の意を体し、全般の情況に基き、断乎八日の総攻撃を命ずるや、伊藤大隊長は部下中隊長を本部塹壕に集め之を下達す。此時、某隊長が縷々理由を挙げ不可なるを力説せんとするや、日頃、温厚を以て聞ゆる少佐は顔面、朱をそそぎ「黙れ!! 連隊長の命令だ」と叱咤し、次いで顔色を和げ静かに「今は連隊長の心になり、如何にして其の決心を達成せしむべきにつき最善の方法を選び最大の努力をなすこそ、部下の道である」と諭されしとぞ、

 真に床しき武人の心掛なり。

 八日午後一時五十分、予定の如く配属協力山砲兵は一斉に火蓋を切り、銃砲声殷々として耳を聾するばかりなり。吾弾着は極めて正確なり。

 午後二時稍前、友軍飛行機、淳化鎮部落の爆撃を開始するや、轟々たる爆音に天地は鳴動し、砲煙は敵陣地を覆ひ、敵の射撃は次第に衰微す。午後二時、砲兵の射程延伸の発煙弾射撃に膚接して檜皮部隊、先づ猛然突撃を発起すれば、之に後れじと清水部隊も軽装甲車の突入に連繋し敢然突入し、伊藤部隊の一部又之に続き、手榴弾を乱投する敵に白兵を振ひ肉迫し、壮烈なる白兵戦を交へ、終に午後二時三十分、之を占領す。檜皮、清水両大隊は機を失せず、敗退する敵に尾接急追し、之を友軍砲兵、阻止弾幕に圧倒殲滅し、午後二時五十分、淳化鎮西端に進出す。

(註)本戦闘は歩砲飛協同の最も適切なる戦例にして、之が主なる原因を列挙すれば次の如し。(戦二六、戦四〇)

1. 師団長、旅団長の部署並に指導、適切なりしこと。

2. 長期戦闘間、常に協力し、相互の精神的結合と、其性能に関する理解、充分なりしこと。

3. 旅団長、歩兵連隊長、砲兵連隊長と共に同一地に位置し、連隊の戦闘指揮に即応し得たるのみならず、特に自ら敵火を冒し砲兵観測所に進出し、常に緊密なる連絡をなしたること。

4. 敵陣地に平行せる稜線を占領しありて、展望自在にして地形、我に有利なりしこと。

5. 第一線部隊の最終弾に膚接し突入するの気概の充満せると、砲兵の最終弾標示の発煙弾に依り極めて明瞭なりしこと。

 連隊長は、血戦三日の猛攻に部下の死傷多く、疲労困憊、其の極に達したるにも拘らず、断乎清水、檜皮両大隊に現態勢を以て先づ上方鎮に向ひ戦場追撃を命じ、左第一線とし敵に突入し、続て前進せる第一大隊を掌握し直に本道上を果敢なる縦隊追撃に移り、旅団司令部も之に続行し、敵をして後方陣地に拠るの余裕を与へず、午後四時、早くも湢化鎮西方約四粁の高管頭に進出す。

(註)本戦闘は連隊長が部下に対し断乎疲労を顧みず、機を失せず戦場追撃を敢行したる戦例にして、之が為、敵をして淳化鎮西側稜線のトーチカを有する堅固なる既設陣地に拠るの余裕を与へずして撃破し得たり。若し此の際、姑息なる部下愛情の情に駆られ果敢なる追撃を躊躇せんか、再び多大の損害を払ひ此の陣地を攻撃するの已を得ざるに至りたるべし。(戦二〇二)

 此の時、前面山下村西方高地にチエツコ五、六を有する敵約三百は掩蓋陣地に拠り本道両側地区を猛射す。此の為、檜皮、清水両部隊の一部は射撃を開始し、主力又攻撃を準備中なり。連隊長は第一線の報告を受くるや、自らも此の情況を視察し、此の陣地正面たる本道正面より力攻するは徒に損害多く、且時日を要すべしと判断し、伊藤大隊長に命じ、第一中隊を以て高管頭の本道を扼守せしめ、檜皮、清水両大隊に本道南方地区を迂回転進、上方鎮に向ひ追撃を命じ、之が実施中、午後五時頃、突如、戦車二輛を有する約三百の敵は本道に沿ふ地区より逆襲し来る。連隊長は直に第一大隊、独立機関銃大隊に命じ之を攻撃せしむ。
 敵歩兵は我猛射に依り北側山地に向ひ潰走す。
 敵戦車は尚も後方に突入し後続部隊に相当の損害を与へたるも、旅団司令部附近に在りし山砲の適切なる射撃に依り撃退せらる。
 旅団長は第一大隊に命じ、第一、第四中隊をして本道を扼守せしめ、自ら旅団長に戦況を報告すると共に、旅団長の企図を承知し爾余の部隊は旅団司令部と共に高管頭に待機し、転進せる両大隊の成果を待つ。午後八時頃、約二百の敵は本道南側より第四中隊正面に逆襲し来るも、第四中隊は独立機関銃大隊と共に勇戦、終に之を撃退す。

 爾後、敵は尚、陣地に拠り乱射を続けありしが、八日夜十時頃より銃聲漸次減少せると共に、旅団副官よりも注意を受け、寺田、大橋将校斥候を派遣、捜索の結果、敵は退却と判断し、旅団長と直に意見一致し、直に第一大隊主力を前兵とし以て果敢なる夜間追撃に移る。旅団司令部も又続行す。時に午後十一時三十分なり。之より先、転進せる清水大隊は上方鎮に進出し、待機中の敵を撃破し自動貨車二輛及糧食を鹵獲し該地を占領し、山下村方向の敵の退路を遮断す。檜皮部隊の尖兵中隊たる第七中隊も又続いて上方鎮に向ひ突進し、途中、該地南方約千米本道三叉路に於て、高管頭方向より反転し来る敵サイドカーを要撃し、将校一、兵一を倒し之を鹵獲す。第七中隊は更に上方鎮に急行し、既に該地に進出しある山崎大尉の区処に依り、上方鎮の南側及西側に陣地を占領し警戒に任ず。此の時、先に高管頭に突入し来れる敵戦車三輛は轟々と本道上を反転し来る。即ち第七中隊及清水大隊の一部は、夜暗を利用し好機に乗じ肉薄攻撃を敢行して乗員を刺殺し其の二台を鹵獲、更に続行せる自動貨車一輛を奪取す。此頃、山下村方向より三々伍々、上方鎮部落に向ひ退却し来れる敵は、該地を占領せる清水部隊を友軍と誤り不用意に接近するを、将兵は不意に襲ひ、或は刺殺し或は斬殺し、約八十名を倒し、山下村の敵を殲滅す。

(註)本戦闘は、追撃に当り徒に敵の一部の抵抗に抑留せらるることなく、主力を以て速に其の側方より突進し、敵の退路を遮断し之を撃滅したる戦例なり。(戦二〇五)

(逸話)連隊本部が高管頭に於て待機中、伝令及軍旗中隊の兵力、夕食の準備に着手せんとするや、連隊長は次級副官菅原少尉を呼び「飯は二食分を炊け」と命ず。通常は夕食一食分を炊き、食事後、朝飯と昼飯を同時に炊く習慣なりしも、此の時に限り特に命じたり。之の細密なる準備が後の急遽なる夜半の追撃開始、並に九日未明よりの光華門攻撃開始に極めて有利なりき。

 連隊主力が上方鎮に進出するや、路上に巨体を横ふる敵戦車を見、将兵思はず快哉を叫ぶ。此の地において連隊長は直に清水大隊を本体に編入し、其兵力約三百は上方鎮─光華門道を只一筋に南京城に向ひ突進し、旅団司令部は連隊本部に続行す。時に空は漆を流したる如く、南京方向に炎々たる火災を望む。待望の南京は指呼の間にあり、将兵の志気、大に振ふ。途中、敵兵三々伍々、列中に友軍と誤り混入し来るを、兵は之を不意に刺殺しつつ前進す。彼我混交し真に平行追撃の状態なり。

 尖兵中隊、高橋門に達するや、一部の敵は抵抗を試みたるも、不意に白兵を振ひ怒濤の如く一挙に突破し追撃を続行す。沿道の家屋には焚火赫々と燃残り、此処彼処火災を起し、支那兵の周章狼狽の跡、歴然たり。

 七甕橋に迫る頃、支那軍兵営の方に当り盛なるラッパの音起る。非常召集なるべし。旅団司令部は左第一線たる歩兵第十九連隊主力の関連上、七甕橋に停止す。連隊は遮二無二驀進し、敵をして抵抗の余裕を与へず、一挙に此の部落を突破突進し、敵の抵抗を殆んど受くることなく九日午前五時十五分、終に光華門前に達す。天空に黒々と聳えて見ゆる大南京城壁を仰ぎ、将兵一同、血湧き肉踊る。

(註)本戦闘は機を失せず放胆なる夜間追撃を敢行したる良き戦例にして、連隊が天明後の後続部隊の如く高橋門、七甕橋附近両側一連の掩蓋陣地に依り大なる抵抗を受くることなく、速やかに城壁に進出し得たるは、実に之が賜なり。(戦ニ〇八)

 此の時、道路一側の街灯は一斉に点火し、城壁上よりは盛に照明弾を発し、同時に熾烈なる一斉射撃を受く。連隊長は直に伊藤大隊を本道北側に展開し光華門の敵情地形を偵察せしめ、清水大隊の主力、及山下村南方にて一時集結し態勢を整へたる、やや遅れて追及せる檜皮部隊を防空学校に集結す。時に天明となり、城壁上よりの射撃は益々烈しく、後方七甕橋部落にも銃声熾んなり。

 連隊長は危険を冒し防空学校東北角の望楼に進出し、副官以下と共に自ら光華門の状況を偵察し、旅団副官中川少佐も又、軽装甲車に依り危険を冒し残敵中を突破し防空学校に至り、敵情地形を偵察すると共に第一線の状況を明にす。

 諸報告、偵察並に情報を綜合するに、当時、光華門は固く門扉を閉じ、外堀の幅約百三十五米、水深約四米にして、城壁の高さ約十三米、門に通ずる道路は対戦車壕並に五条の拒馬を以て阻絶し、道路両側は水際に至るまで五条の鉄条網を以て固め、城門西側並に城壁上には十数箇の機関銃眼を設け、後に判明せる如く教導総隊の精鋭を以て極めて堅固に守備す。連隊長は先ず配属山砲二門に城門の破壊射撃を命じ、爾後、副官並に砲兵大隊長芳賀砲兵少佐と共に観測所に位置し戦闘を指揮す。配属山砲兵大隊は二門を以て防空学校囲壁より直接照準に依り破壊射撃を実施し、門扉の一部を破壊したるも、内部には土嚢、木材を充実しあり、加ふるに補給を受くる暇なく急迫せる為、弾薬僅少にして突撃路を開設するに至らず。次で小坂工兵大尉の指揮する決死隊は、本道上に展開せる軽装甲車並に伊藤大隊の支援射撃の下に拒馬を引のけ城門に肉迫し、前後二回に亘り爆破を敢行せるも、薬量少きと爆薬埋填の暇なき為、効果少く、午后八時、更に薬量を増加し爆破せるも、完全に突撃路を開設するに至らずして、再び敵に填塞せらる。此の間、雨花台方向よりする敵の砲撃盛にして、人馬の死傷多きも物ともせず右第一線伊藤大隊は工兵の作業を支援し、且光華門に対する突撃を準備しつつ夜を徹し、又、左第一線檜皮大隊は通済門に対する攻撃を準備し、予備隊たる清水大隊は大隊長代理西森少尉の指揮の下に防空学校を西南方に対し警備す。午後一時頃より防空学校西端附近の無名部落に敵兵続々集結し、其の数、四乃至五百に達するを目撃するや、清水大隊は急襲的集中射撃に依り之に多大の損害を与へ西方に撃退す。午後十時頃、約二百名の敵は協和橋及之に並行せる鉄橋に対し夜襲し来れるを以て、第九中隊及第三機関銃は之を猛射し、交戦約三十分にして之を西南方に撃退す。本夕以降特に、各方面より圧迫せられ光華門に入らんとする敗残兵、連隊と旅団司令部の間に充満し来る。翌十日、敵は続々兵力を光華門附近に集中し、敵の銃砲火益々熾烈にして、又、背後方たる雨花台並紫金山方向よりする砲兵の集中射撃に人馬の死傷続出す。

 在七甕橋旅団司令部と連隊との間は残存陣地並に充満せる敗残兵の為、命令受領者土田軍曹戦死し、通信兵も戦死し或は負傷し、為に中川副官連絡以来、僅かに無線電信を以て連絡する状態なりしが、十日午前八時頃、旅団副官武田大尉は旅団長の命に依り山砲弾薬五百及機関銃弾薬補充を兼ね、軽装甲車に乗じ中間の敵陣地を突破しつつ連隊本部に到着、旅団長の意図を伝へ連隊長を補佐し、且午前十時、連隊通信班の決死的作業に依り三回線目、終に連絡に成功せるを以て、爾後、電話に依り密に旅団司令部と連絡す。当時、敵は既に城壁上に対戦車砲を配置しあり。為に旅団副官武田大尉を送りし装甲車は、防空学校門前に出づるや直に射撃を受け破壊し、搭乗者は戦死せり。連隊長は山砲弾薬を補充されたるを以て午後三時、再び配属山砲に城壁破壊を命じ、爾後、山砲観測所に在り、芳賀砲兵大隊長、鈴木副官と共に戦闘指揮に任ず。午後三時、山砲二門は直接照準により釣瓶打に破壊射撃を開始すれば、城門上部並に土嚢は漸次崩れ落ち急峻なる斜坂を形成し、午後五時、辛ふじて突撃路を開設す。

 此の時、敵の重迫撃砲弾十数発は観測所附近に集中し、轟々たる爆音に屋根は崩れ、耳は聾し、烈しき閃光に目も眩み、濛々たる砲煙に呼吸も困難となり、一時、戦闘指揮も砲撃も中絶す。砲煙漸く撤し城門の方を見れば、伊藤大隊の一部は既に城門に突入し、斜坂上に打ち降る日章旗、翩翻たり。将兵、思はず万歳を叫ぶ。時に午后五時なり。

 之即、敵の砲撃が我が戦闘司令所に集中したる好機に乗じ、独断、伊藤少佐が突入を命ずるや、敢然、山際少尉の率ゆる第一中隊、突撃を発起すれば、葛野中尉の指揮する第四中隊、之に続き、一挙に城門内に突入し

之を占領したるなり。

 戦況益々悲惨なるも将兵の志気旺盛なり。連隊長は直に「伊藤大隊は全滅を賭して光華門を確保すべし」の要旨命令を下達せり。伊藤少佐は薄暮を利用し壮烈なる決意を以て予備隊たる第三中隊を率ゐ城門に前進し、城内よりする機関銃の縦射と城門上よりする手榴弾の投下に依り戦死傷続出する極めて困難なる戦況中に在り、沈着豪胆、部下を激励指揮中、午后九時、終に敵手榴弾の為、右額部に受傷し、城門確保を命じつつ壮烈なる最後を遂ぐ。

(逸話)伊藤大隊長は「全滅を賭して光華門を確保すべし」の連隊命令を受領するや、連隊副官、旅団副官武田大尉に電話して云へるよう「誓ツテ城門を確保す。連隊長殿、旅団長閣下に宜しく」と、其の声、従容として笑を含みたり。聞く者皆、感激せざるはなし。薄暮、決死、城門に進出するや大音声「大隊長は此処に在り。汝等が忠勇は既に天聴に達したるぞ!! 大隊は全滅を賭し光華門を確保せよ」と。為に将兵の志気、大に振ふ。少佐自ら手榴弾の落下する最も危険なる城門入口の土嚢に厳然、腰打かけ、続行する部下を内部の安全なる位置に入れ、身を以て庇はんとするや、伝令林上等兵以下、少佐を安全なる位置に引下さんとする一刹那、飛来りし二箇の手榴弾は少佐の側に爆発し、少佐の右肩、右大腿部に命中し、伝令林の左目を潰し、一兵の胸を刳りたり。林上等兵は鮮血淋漓たるをも物ともせず、直に少佐の応急手当を為さんとすれば、少佐は「今は其れに及ばず」と押止め、間断なき機関銃の雨、手榴弾炸裂する暗黒の城門内に凛たる声を以て幹部の呼名点呼を始め、葛野中尉以下、杉山、山際少尉の健在を確かむるや、大に嬉ぶ。少佐は更に伝令林を顧て軍刀を取り脱し「吾遺品を」と託し、汝は後退して負傷の手当を為すべしと命ずるも、林は死なば隊長の下にと熱願して聞かず、少佐は終に之を許す。少佐は側らの兵重症するや、左手に之を抱き「おお良くやつた!! /\ 俺も後から行くからな」と慰めありしが、午後九時頃、又もや飛来りし手榴弾は少佐の側に炸裂し、破片は右額部に命中す。少佐は尚も「確保々々」と命じつつ、終に光華門の花と散りたり。此の豪勇、此の人情味、実に武人の亀鑑なり。伝へ聞く者、皆々感涙せざるはなし。

(註)本戦闘は指揮官が率先躬行、剣電弾雨の間に立ち、勇猛沈着、部下をして富嶽の重きを感ぜしもたる戦例なり。(戦一〇)

 爾後、城門内の将兵大隊長の遺命を確守し、土嚢、石塊及び木材の流れ落ち生じたる内斜面に三段の掩体を設け、死傷の続出するを物ともせず該地を確保す。午後十時半頃、約百名の敵兵は工兵学校方向より第一大隊の背後に向ひ夜襲し来れるも、当時現所属に復帰せる竹田中尉は部下中隊及第一機関銃を指揮し善戦、之を撃退し、且一部を以て光華門内に突進、増援せしめ、爾後逐次、兵力を門内に補充すると共に、城内外第一大隊各中隊の兵を統一指揮し該地を確保す。十日夜十二時頃、敵は催涙性瓦斯を城門内に投じ、又、戦車一輛を以て前後数回に亘り至近距離に肉薄し門内を猛射し、又、午前一時頃より城門上より材木を投下し、之に石油を注ぎ火を放ち、終夜、焔を以て我兵を苦しめたるも、守兵は克く之に耐へ光華門を確保す。

 此間、連隊本部は城壁直下の防空学校屋内に在り、投下す熾烈なる敵火の下に夜を徹し戦闘指導すると共に、後方よりする弾薬の補給、意の如くならざるを以て、予備隊の弾薬を集め第一線に補充し、又、本部当番を以て握飯を作り前送す。

 夕刻、野戦重砲兵大隊及独立野戦重砲兵中隊は旅団に協力を命ぜられ、飛行場附近に陣地を占領するや、旅団長は直に之と連絡し、且脇坂連隊長の意見を徴し、翌十一日の戦闘に関し綿密に歩砲の協定をなす。翌十二[一?]日天明、連隊長は先づ配属山砲一門を以て城門両側、及城壁の帽堡を直接照準に依り逐次破壊し、敵兵の遮蔽して城門に近接し内部の我兵に手榴弾を投ずるを困難ならしむると共に、一門を以て城門右側約五〇米城壁の破壊射撃を実施し、協力十加の為、破壊位置を明示するや、協定に基き飛行場にありし十加は俄然、猛烈なる射撃を開始す。弾着、極めて正確にして、城壁は逐次崩れ、午前九時三十分、友軍飛行機の爆撃と相俟つて附近の敵を圧倒震駭す。

 此の好機を利用し、小銃分隊、軽機二、重機一は光華門内より城門上に攀登り之を占領せるも、我爆撃、砲撃中止するや敵は大挙逆襲し来り、我弾薬忽ち尽き果て白兵を振ひ突入するも、敵は手榴弾を乱投し、遠巻に猛射す。為に我兵の大半は負傷、加ふるに手榴弾の為、梯子は折れ、後方続かず、終に涙をのみ門内に後退せり。

(逸話)連隊長は早朝より、迫撃砲弾連続炸裂し小銃機関銃弾雨下するを物ともせず、城壁直下の戦闘指令所にあり戦闘を指導中なりしが、吾兵門上を占領するを見るや、直に連隊騎手中根少尉を呼び、伊藤少佐の遺髪と軍刀を速に門上に上ぐるべく区処を命ず。中根少尉は直に瀧波上等兵に遺髪及軍刀を奉じ城内に急行せしめたるも、門上の戦闘、意の如くならず、終に実現に至らず。然れ共、少佐の霊は定めし此の麗しき武将の愛に感涙したるべし。

 午後二時三十分、連隊長は城門外第一大隊の残部を以て竹川集成中隊を編成し、第二大隊長檜皮少佐に命じ、併せ之を指揮せしむ。檜皮少佐は直に第七中隊を以て集成中隊を増援し、且弾薬及糧食の補給を計りたるも、通路縦射され行く者皆倒れ不成功に終り、城門内の将兵は困苦欠乏に耐へ死力を尽し該地を確保す。此の間、清水部隊は主力を以て防空学校を警備し、且一部を以て旅団との中間の残敵を掃蕩す。連隊長を補佐し旅団との連絡に任じありし武田大尉は、旅団長の命令に基き午後四時帰還す。翌十二日、協力十加は更に破壊射撃を続行し、配属山砲又、敵の工事を妨害し、終に午後四時頃、急斜坂突撃路を完全に開設す。

 協力十五榴は此の間、城壁内側の敵を猛射し、強大なる偉力に依り敵を圧倒震駭す。檜皮大隊は機を失せず城門内の我兵に対し弾薬糧食の補給を敢行し、終に成功す。為に城門内の我兵の志気、大に振ふ。午後五時三十分頃、通済門方向より敗残兵約二百の城壁に沿ひ光華門方向に移動するを発見し、砲兵及歩兵の主力を以て之を射撃し、多大の損害を与へ西方に潰走せしむ。十二日夜半頃より敵の銃声、手榴弾の投擲、次第に減少し、十三日午前四時頃、全く止みたるを以て、竹川集成中隊及檜皮大隊より直に斥候を城壁上に派遣せし所、敵兵の大部、既に退却せるを知り、竹川集成中隊は城門内の部隊と呼応し、伊藤大隊長の遺骨を奉じ、城門アーチ右側の破壊斜面より、檜皮大隊は第七中隊を先頭に右破壊斜面より一挙に城壁上に踏上り、両側城壁上を掃蕩し、該地を確保す。
 午前五時、連隊長は軍旗を奉じ城壁上に上り、東の方、皇居を遥拝し、旅団長は連隊の戦闘に関し旅団副官武田大尉をして師団に報告せしむ。
 敵地上陸以来、奮戦又奮戦、終に待望の首都一番乗の栄誉は燦然として我等が軍旗に輝けり。
 嗚呼、神去りましし一千二百六十五名の英霊も又、冥すべし。

(逸話)連隊長は死屍累々たる城門上に翩翻たる日章旗を仰ぎ感慨転々無量、涙と共に詠みて曰く、

亡くなりしつはものたちに栄えあれと
  勝利のかげに祈るかなしみ

 之を要するに、本戦闘に於て敵国首都に一番乗りを行ひ、益々光栄ある軍旗に光彩を添へ奉るを得たるは、誠に感激に堪へざる所にして、之、一に大元帥陛下の御稜威の然らしむる所にして、又、朝香宮殿下を軍司令官に仰ぎ奉り志気益々揚り、将兵一同、軍旗の下に一致団結、湢化鎮に於ける血戦三日の猛攻撃に引続き、万難を排し放胆なる夜間追撃を敢行し、肉弾に続く肉弾を以て猛攻したる賜なり。後日、連隊は感状を受領し、又、先頭を以て光華門に突入せし山際少尉は宮殿下より畏くも其の佩刀を賜れり。
 湢化鎮攻撃以来、南京城攻略迄の戦死者は伊藤少佐以下二百六名、戦傷者は小川大尉以下四百十五名なり。

 

↑南京城攻撃之記 自昭和12年12月5日 至昭和12年12月13日 脇坂部隊
[歩兵第36連隊]
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111968600 p.14-p.23