Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

投降勧告について 極東国際軍事裁判速記録 第310号 弁護側文書2670号、法廷証3409号、岡田尚の宣誓口供書より 1947.11.7

四、私は12月8日、軍司令官に同行蘇州の司令部陣営に赴きました。
 蘇州に着任せる松井大将は、南京攻略に当たり出来得る限り無血入場、また中国首都の破壊を極力回避する主旨のもとに、12月9日、降伏勧告文を作成、飛行機を以て南京場内に投下し、更に12月9日前後と思いますが、松井大将は日本軍の各部隊が先陣を競い支離滅裂のまま南京攻略が行はるれば自然、首都の破壊、良民の受難を一層悲惨ならしむる事を憂え、日本軍の全部隊に対し総攻撃停止の命令を発せられ、各部隊は南京城周囲の各部処に整頓し、総攻撃の命令を待機していました。しかして大将は中山陵その他の文化施設や外国権益の保護、および軍紀·風紀の粛正等につき全部に訓示しました。
 12月8日夜半(午前2時頃)突然私は参謀室に呼ばれ、次の如き意味の文章を中国語に翻訳させられました。
「勧告文に対する回答は12月10日正午、中山門外大句容道上の歩哨線において受領すべし。もしも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣するときは、該処において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂ぐる準備あり。もしも該指定時間に何等の回答に接し得ざれば、日本軍は已むを得ず南京城攻略を開始すべし」
 右の文章は12月9日、飛行機により投稿勧告文とともに南京城内に投下せられました。
 私は12月9日早朝、蘇州より塚田参謀長、公平参謀、中山参謀の3名と共し自動車に分乗、南京郊外に至り、その夜は某部隊に1泊、12月10日午前11時、前期塚田参謀長、公平参謀、中山参謀、私の4名、中山門外に至り、敵軍使の来るを午後1時に至る2時間待ちたるも、遂に敵軍使は姿を見せず、塚田参謀長以下私たち3名は中山門外を引揚げましたが、その後直ちに総攻撃の命が下ったのだと思います。


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四、私は十二月八日、軍司令官に同行蘇州の司


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令部陣營に赴むきました。
 蘇州に着任せる松井大将は南京攻略に當り出来得る限ぎり無血入場又中国首都の破壞を極力囘避する主旨の下に十二月九日降伏勸告文を作成飛行機を以つて南京城内に投下し更に十二月九日前後と思ひますが松井大將は日本軍の各部隊が先陣を競ひ支離滅裂のまま南京攻略が行わるれば自然首都の破壞、良民の受難を一層悲慘ならしむる事を憂へ日本軍の全部隊に對し總攻擊停止の命令を發せられ各部隊は南京城周圍の各部處に整頓し總攻擊の命令を待機してゐま


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した。而して大將は中山陵其他の文化施設や外國權益の保護及軍紀風紀の肅正等に付き全部に訓示しました。
 十二月八日夜半(午前二時頃)突然私は參謀室に呼ばれ次の如き意味の文章を中國語に翻訳させられました。
「勸告文に対する囘答は十二月十日正午中山門外大句容道上の歩哨線に於て受領すべし、若しも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣する時は該處に於て本司令官代表者との間に南京城接收に關する必要の協定を遂げる準備あり。若しも該指


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定時間に何等の囘答に接し得ざれば日本軍は已むを得ず南京城攻略を開始すべし」
 右の文章は十二月九日、飛行機により投稿勸告文と共に南京場内に投下せられました。


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 私は十二月九日早朝蘇州より塚田參謀長、公平參謀、中山參謀の三名と共し自動車に分乘南京郊外に至り其夜は某部隊に一泊、十二月十日午前十一時前期塚田參謀長、公平参謀、中山参謀私の四名中山門外に至り敵軍使の來るを午後一時に至る二時間待ちたるも遂に敵軍使は姿を見せず塚田参謀長以下私たち三名は中山門外を引揚げましたが其後直ちに總攻擊の命が下つたのだと思ひます。

 

↑極東國際軍事裁判速記録. 第310號 (昭和22年11月7日)