内閣情報部編集 写真週報
昭和十三年三月三十日発行 第七号
八紘一宇
神武天皇日向より御東征の途に上り給いしより六年の間、幾多の困難と闘い給い、皇兄五瀬命を失い給う程の御悲痛にも屈せられず、天神の御子としての御信念と天業恢弘の御精神とに依って、遂にその大業を成し給い、已未の年、即ち紀元前二年三月七日、都を大和の橿原の地に奠[さだ]め給ふた。その時の詔勅に
「六合(くにのうち)を兼(か)ねて以(もっ)て都(みやこ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いへ)と爲(せ)む」
と仰せられ、
皇祖の神勅に基き、ここに我が国体永遠不変の大本を明らかにし給うたのである。
橿原神宮
内閣情報部編輯 寫眞週報
昭和十三年三月三十日發行 第七號
八紘一宇
神武天皇日向より御東征の途に上り給ひしより六年の間、幾多の困難と鬪ひ給ひ、皇兄五瀬命を失ひ給ふ程の御悲痛にも屈せられず、天神の御子としての御信念と天業恢弘の御精神とに依つて、遂にその大業を成し給ひ、已未の年卽ち紀元前二年三月七日都を大和の橿原の地に奠め給ふた。その時の詔勅に
「六合(くちのうち)を兼(か)ねて以(もつ)て都(みやこ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いへ)と爲(せ)む」
と仰せられ、
皇祖の神勅に基きここに我が國體永遠不変の大本を明らかにし給うたのである。
橿原神宮
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006061520102456314 p.2