Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

中曽根康弘 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものが出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。」 『終りなき海軍』より 1978.6.15

 

二十三歳で三千人の総指揮官

              衆議院議員
              中曽根康弘
              (海軍主計大尉)

 喜びは任務遂行の瞬間にある

「中曽根主計中尉は至急呉鎮守府へ着任すべし」
 私は三か月の艦上生活を送った巡洋艦「青葉」に別れをつげ、九州南部に上陸して、再び呉に戻ってきた。昭和十六年十一月二十六日である。そこで早速、鎮守府の参謀長に着任の挨拶にいくと、
「設営隊の主計長を命ず」
という。設営隊といわれてもピンとこなかった。そこで私は、
「設営隊とは、なんでありますか」
と問い返した。
「敵の飛行場を占拠して、それを整備し、味方の飛行機を飛ばす任命をもった部隊だ」

 

と、参謀長は厳粛な顔をして説明した。
 いよいよ戦争だな──と私はそのとき悟った。
「どこへいくのでありますか」
と勢いこんでたずねる私に、
「極秘でいえない!」「十一月二十九日に出港しろ」
という。私は驚いた。あと一週間しかない。
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に終結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それひ零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
 このときは、昼も夜もなく、不眠不休、文字通り「寝食を忘れ」て働いた。私はこれまでに人を率いた経験はなかったのである。
 このとき私は、二十二、三歳であった。この年の三月に大学を卒業して、内務省に入り「東京府属」となったが、役所には、一週間通っただけで、二年現役の海軍主計士官を志願して、築地にあった海軍経理学校に入港した。そこで私は、第六期補習学生として、四か月の速成訓練をうけた。

 

 ここを八月に卒業して、「海軍主計中尉」に任官し、第六艦隊の旗艦「青葉」に乗組みを命ぜられたのである。
 いよいよ、大多忙であった一週間はすぎ、十一月二十九日の出航の日がきた。
 しかし、まだ行先が「極秘」ということで知らされていない。私は参謀長のところにいき、こういった。
「大部隊を引き連れていくには、金がいります。工員の給料も、支払わねばなりません。現地でも物資を調達する軍票の用意しなければならないのに、行先が不明では準備ができません」
 これには参謀長もカブトを脱いで、
「そうだ。軍票の用意があったなあ。しかし、これは軍機事項であるから、死んでも他へもらすな!」
 そういって、一枚の紙切れに、“フィリピン三か月” “蘭印(インドネシア)三か月”と書くと、それを私に見せ、その場ですぐ燃やしてしまった。
 私はただちに経理部にすっとんでいき、七十万円分の軍票をうけとってきた。現在の金額にすると数十億円くらいのものだ。しかし私はこの大金の保管場所に困った。そこで、行李くらいの箱を七個作らせ、それに詰めこんだ。この“万両箱”の上に戸板を渡し、毛布をひいてベット代わりにして、そこに寝た。おまけに、剣付鉄砲の従兵二人を、毎晩交代で護衛に立たせた。あとにもさ

 

きにも、護衛付きで“万両箱”の上に寝たのはこの時だけだ。悪い気持ちはしなかった。
 かくて二十九日、われわれの輸送船団は出航した。船や兵隊は、みんなデッキに上がり、初冬の闇のなかに遠ざかっていく祖国の灯に、ある者は手をふり、ある者は歌をうたって、てんでに別れを惜しんでいた。しかし私にはそんな余裕も、感傷もなかった。ただ一人、士官室のソファーにどっかと座ると、ボウダとして落ちる熱い涙を抑えきれなかった。「おれは最大の力を発揮したのだ」──義務を完全に果たした者だけが知る、あの法悦感が私の全身を捉えていたのだ。

 「民衆の一人として生き抜け!」

 さて、私の仕事は、輸送船に弾薬や糧食を積み込むだけで終わったわけではない。これから、三千人の大部隊をいかに編成し、いかに指導していくかという、大事な仕事が残っている。しかし、どうして、どこから手をつけてよいのか、未経験の私には見当もつかなかった。この三千人の中には、医学生もいれば、三文文士もいる。大工もいれば八百屋もいる。また前科者のすごいのも沢山いた。さながら“独立愚連隊”だ。かれらの履歴書を名簿と照合するだけでも大仕事だった。
 そこで私は、いろいろ思案をめぐらした。最後に考えついたのが、もっともあばれん坊の前科者を集めて、かれらを使うことだと思った。まず前科者を甲板に整列させて、人相見をやった。これが八十人ばかりいた。なかに古田正夫(仮名)というすごいのがいた。呉の近くの出身で、年齢は四十歳で傷害の前科八犯だ。ミケンには大きな傷がある。そして、全身はクリカラモンモン(倶利伽羅

 

紋紋)という勇ましい男だ。私は、さっそく古田を士官室に連れていってざっくばらんに少しキザだったが、ナニワ節調で頼みこんだ。
「おれは大学を出たばかりの若僧で、軍隊のことはなにも知らん。しかし、おれは群馬県は上州の生まれで、国定忠治の流れをくむものだ」「お前をみこんで頼むから、ひとつ子分になってくれ。お前もこれまで、天皇陛下にもだいぶご迷惑をかけたろう。ここらでご恩返しをしようじゃないか」
 私のこの話に、古田正夫も感激したらしく、
「よござんす。子分になりやす!」
「そうか。なるか。ではおれのサカズキをうけてくれ」
 そこで私は、従兵に命じて一升ビンを持ってこさせて、ありあわせの茶碗に酒をついですすめた。
「親分が先に飲むものでさあ」
 古田は真面目な顔をして教えてくれた。私は、茶碗の酒を飲みほすと、改めて一升ビンをさした。古田は私の酒をいただいた。しかし、驚いたことに、やにわに三歩さがると、
「おひかえなすってくだせえまし。おひかえなすって……」
 片膝をつあて古田は、勇ましい仁義をはじめた。
 こうしたいきさつがあって、古田班長は誕生したのである。
 次に、大阪出身の紙芝居屋の岩田を伝令にした。弁がたつから、伝令にはもってこいと思ったか

 

らだ。同じように、最年少の旋盤工の佐々木を従兵にした。若いから動作は敏捷だ。かくて、“独立愚連隊”も、どうやら形だけは整ってきた。
 平穏な海の航海の後、我々の船団はパラオに着いた。南の陽がまぶしい緑の島で、しばらく“待機”の日を過ごしていた。そして、十二月八日──開戦と同時にフィリピンのダバオに突入したのである。
 さっそく、飛行場設営の仕事がはじまった。その明け方から、敵のB17の来襲攻撃がはじまった。古田は、と見ると、彼は舷側にあぐらをかいて、ねじり鉢巻をしめ、敵機を見上げて、にらんでおる。こうなっては、“中曽根主計中尉”が逃げだすわけにはいかん。私は顔面蒼白になって、がたがたふるえながら、古田と並んであぐらをかいて、敵機をにらんだ。
 古田班長はびくともしておらん。こういうときに度胸がすわっている男はたいした奴だ。それから三千人の炊飯も大変であった。その火がもれると、そこをめがけて爆弾がくる。古田班長は、昼間の疲れも忘れて、夜は火の監視にあたっていた。一週間たつと、酒の配給がある。しかしかれは手を出さない。自分の分は同僚の年配者にやっておる。私の見込みどおり古田班長は、実によくやってくれた。
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。狭い湾内に二十隻に近い日本船団がひしめい

 

ていたから、同士打ちをおそれて、味方は応戦もできない。たちまち、四隻の輸送船が、私の左右で轟沈していった。ブリッジに立つと、目の先五十メートルくらきのところを、敵の駆逐艦が、大砲と機関銃をぶっ放しながら全速でかけ抜けていく。私に敵の号令がハッキリと聞こえたくらいの近さだ。私の乗船にも、たちまち四発の直撃弾が命中した。あまり近い距離だったため、弾は喫水線の上にあたった。そうでなければ、私も轟沈のうき目にあっていたにちがいない。
 しかし、四番船倉から火の手が上がった。私がかけつけてみると、ハッチのなかは阿鼻叫喚の地獄図だ。腕をもがれたもの、頭を割られたもの、壁にはりつけられて死んでいるものや、血と硝煙の匂いのなかで、うめき苦しんでいるものがいた。実に凄惨をきわめていた。
班長がやられた」
という絶叫が起こった。私はその方にかけ寄っていった。懐中電灯で照らすと、古田は戦友に背負われて、激しい息をしておった。片足がぶらぶらになり、皮一枚でくるぶしの下がぶらさがっている。全身が血まみれだ。かれは私がきたと気がつくと、ただ一言、
「隊長すまねえ」
「しっかりしろ、傷は浅いぞ」
 私は大至急軍医のところに運ぶよう命令した。私には、上陸の命令が待っていたので、ひん死の古田班長を部下に託して。後髪を引かれる思い

 

で船をおりたのである。あとから聞いた話によると、彼は痛みに泣きわめく負傷者に、「バカヤロー、そのくらいの傷でなんだ、おれの傷をみろ!」
こういって、叱咤激励したそうだ。軍医が手当にかけつけると、
「俺はいいから、若いみんなを先にみてやってくれ」
 そういって治療を受け付けつけなかったという。そして、軍医が最後に手当にきたときは、もう手遅れであった。こうして古田正夫は、南の海で壮烈な戦死をとげたのである。
   大きな波 黙禱の列の 足に来ぬ
   戦友(とも)を焼く 鉄板をかつぎ 浜に出ぬ
 私は、古田班長や戦友の遺体を浜でダビに付したとき、深い感慨をこめて、この句を詠んだ。
 また、従兵だった十八歳の徴用工員の佐々木は、敵前上陸のとき、いつも私の五十メートル先を走った。
「おい、危ないからひっこめ!」
 そのたびに私は声をからして追いかけたが、彼は聞かない。ダバオでもバリクパパンでも、私の前を走る。
「隊長が地雷にかかってはいけません」身をもって守るために、私の先をかけているのである。
 こうした民衆の姿に接するたびに、私はなんともいえぬ尊敬と愛情を覚えたものだ。

 

 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものが出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。しかしこれら民衆も、悲劇のクライマックスでは、古田班長のように、あるいは、従兵の佐々木のように、人間の尊厳をまざまざと見せつけてくれる尊い存在だったのである。タライのなかで、イモのようにもまれながら、私の心は不思議にすがすがしかった。それは、毎日、死と直面した生活のなかで、私が悟った貴重な教えがあったからである。
「自分も民衆の一人として生きぬけ!」
 民衆を不幸にしてはいかん。かれらを裏切ってはならん。この気持ちが、後になって、政治家としてスタートする大きな精神的動機となったし、いまでも、私のバック·ボーンであると信じているのである。私が“首相を国民投票で選ぼう”という国家機構の改造を提言している思想的根底はここにある。

〔大正七年、群馬県高崎市生まれ。東京大国大学卒業、内務省、第六期二年現役主計科士官、巡洋艦「青葉」乗組、フィリピン、インドネシア設営隊主計長、海軍主計大尉。衆議院議員科学技術庁長官、運輸相、防衛庁長官通産相自民党幹事長、自民党総務会長〕

↑松浦敬紀編『終りなき海軍』文化放送出版部、1978年6月15日発行、p.90~p.98