Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

早尾乕雄『戦場に於ける特異現象と其対策(戦場心理の研究 各論)』より「十七、性欲と強姦」 1937.11~1939.11

   十七、性欲と強姦
 出征者に対して性欲を長く抑制せしめることは、自然に支那婦人に対して暴行することとなろうと、兵站は気をきかせ中支にも早速に慰安所を開設した。その主要なる目的は、性の満足により将兵の気分を和げ、皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐのにあった。

 慰安所の急設は、確かにその目的の一部は達せられた。然しあの多数の将兵に対して慰安所の女の数は問題にならぬ。上海や南京などには慰安所以外に其の道は開けてるから、慰安所の不足した地方へ、或は前線へと送り出されるのであったが、それでも地方的には強姦の数は相当にあり、亦、前線にも是を多く見る。是は尚女の供給の不足してることに因るは勿論のことだが、やはり留学生が西洋女に興味持つと同様で、支那女という所に好奇心が湧くとともに、内地では到底許されぬことが敵の女だから自由になるという考えが非常に働いて居るために、支那娘を見たら憑かれたようにひきつけられて行く。従って検挙された者こそ不幸なんで、陰にはどれ程あるか解らぬと思う。

 憲兵の活躍のなかった頃で、而も支那兵により荒らされず殆んど抵抗もなく日本兵の通過にまかせた市町村あたりは、支那人も逃げずに多く居ったから、相当に被害があったという。加之、部隊長は兵の元気をつくるに却って必要とし、見て知らぬ振りに過ごしたのさえあった位である。

 然るが故に支那土民は日本兵を見ると、娘は何処かへ隠されて了う。上海に残留した日本人は支那人、西洋人の前に、日本の軍人は非常に礼節を重んずるから支那婦人を冒すなんてことは断じてないと、予め吹聴したものだった。然るに事実は是に相違したので、支那良民の日本兵を怖るること甚しく、若い女は悉く隠されて影もない様になったと言われる。

 然るに一方、南京の避難民区からは糊口の道を得るために、昔の夜鷹の如くに若き支那婦人が枕になるもの、下敷きになすものだけを携えて昼夜兵舎にあらわるるようになったので、風儀の紊された事もあった。
 こうなると憲兵の方も強姦か和姦かの区別を考えねばならなくなり、若し其の場所に敷物代用品があったり、支那婦人が日本貨を持っておった事実が認められたら、和姦として取り扱って見るようになり、強姦の数は実際よりは少なくなったという。敵国人という感の働くために無償にて行い、要求されたときにこれを追い払ったりするために、自治委員会からの告訴に会って恥をかく例も少くないのである。

 勝利者なるが故に、金銀財宝の掠奪は言うに及ばず、敵国婦女子の身体迄汚すとは誠に文明人のなすべき行為とは考えられない。東洋の礼節の国を誇る国民として慚愧にたえぬ事である。昔、和倭[寇?]は上海に上陸し南京に至る迄此の様な暴挙に出た為めに非常に野蛮人として卑められたというが、今に於ても尚同じ事が繰り返さるるとは、何とした恥辱であろう。憲兵の活躍は是を一掃せんとし、皇軍の名誉回復に努力しつつあることは感謝にたえぬ。

 次に強姦事件の実例を列挙する。

(一)或る兵は兵站病院を退院、原隊へ復帰の途次、飲酒酩酊の上、所属隊宿舎の付近の支那家屋へ侵入し、同家二階に居合わせた支那婦女(当二十一才)を強姦した。

(二)二人の兵(A・B)は他の一人(C)を誘いて外出した。Aは支那婦人(当二十一年)を見ると劣情を起し強姦を志し、Cをして同女を付近の空家へ連れ行かしめ、Cをして所携の小銃を一発発射せしめ、更に着剣の上、剣先を同女に突付けて脅迫せしめ、同女が恐怖するを見ると付近の民家内へ引き入れ強姦した。BはAの目的を達したのを知ると、Aの立ち出た後へ入り込んで同女を強姦した。

(三)或る兵は或る支那民家へ立ち寄ると、同家の娘(当十六年)が兵を見て怖れ、逃げ去ろうとすると、是を捕えて強姦したばかりでなく、翌日も到って再び強姦した。

(四)或る兵は飲酒酩酊の上、無断外出をし、支那婦人支那婦人某(当四十九年)方へ進入し、所携の軍刀を抜いて脅迫した上、強姦した。

(五)或る兵は加給の酒に酔い戦友と共に外出し、支那婦人某(四十二年)を認め是を姦淫せんと思い、同家内に進入して同女に性交を要求した。同女は日本兵を怖れて抵抗の出来ないのに乗じて姦淫した。

(六)或る兵は支那酒に酔いつつ支那店に立ち寄り焼鳥を食する時、其の傍に居た支那少女(当六年)を見ると、同女が十三歳未満の少女であることを認識しながら姦淫せんと思い、同女を抱きながら室内へ入り同女の父に銃剣をつきつけ退去を命じ置き、同女を姦淫せんとせるも少女の為め目的を達し兼ね、指頭を以て押し開かんとして負傷せしめた。

(七)或る兵は武装、街頭に出で、支那民家の表戸を蹴外し家内に進入し、隠れて居た支那女(当十六年)を発見し、同女に銃口を差向け脅迫の上、姦淫した。次に同女を宿坊に連れ行き、「帰宅すれば殺すぞ」と脅迫して不法監禁をした。その間、無抵抗なのに乗じて姦淫した。其の翌々日、同女の宅へ侵入し、怖れ隠れ居るを発見し強姦した。

(八)或る兵は戦友二人と共に支那酒やビールを飲んだ上、支那婦人を捜し求めた上、輪姦した。

(九)或る兵は歯科治療に行った帰途にビールを飲み、酔に乗じ支那家庭へノックして入った。男が茶を出してくれた。外に話し声がするので着剣で警戒に出ようとする時に辷った。其の折に支那女に触れたかも知れぬと話したが、是は偽りで強姦未遂であった。

(十)或る兵は街上の支那家屋へ入ると、母親と娘とが居た。娘へ要求をすると、承知した母親は是を見て出て行ったので、其の娘を姦淫せんとしたが、発育して居らなくて出来なかった。(娘は十才位)其のまま帰った。娘へ、隊へ来れば残飯をやるからと隊名を書き置いたことから、憲兵隊に捕らえられた。

 

 以上述べた様な例は尚沢山に挙げる事が出来る。強姦をやっても容易に発覚しないだろうと考えることは大変な誤りで、こんなに知れ易き事柄はないのであると法務部当局は兵達を戒めて居ったが、全く其の通りである。

 日本の軍人は何故に此の様に性欲の上に理性が保てないかと、私は大陸上陸と共に直ちに痛嘆し、戦場生活一ヶ年を通じて終始痛感した。然し軍当局は敢て是を不思議とせず、更に此の方面に対する訓戒は耳にした事がない。而も軍経営の慰安所を旺んに設けて軍人の為めに賎業婦を提供した。そして娼婦から性病を軍人間に蔓延せしめた。そして遂に其れのみを収容する兵站病院を作る必要を生じた。尚性病のある間は帰還を停止した。兵にのみかく厳にしながら、将校間に却って性病が多かった。若い将校どころか、上長官の間にも患者はあり、軍医に秘密治療を受けて居る。性病を支那人から得ぬ様に慰安所を設け、内地、内鮮人を娼妓として使用しながら、皮肉にも彼女等が性病を広げた。

 軍当局は軍人の性欲は抑える事は不可能だとして、支那婦人を強姦せぬ様にと慰安所を設けた。然し強姦は甚だ旺んに行われて、支那良民は日本軍人を見れば必ず是を怖れた。

 将校は率先して慰安所に行き、兵にも是をすすめ、慰安所は公用と定められた。心ある兵は慰安所の内容を知って軍当局を冷笑して居おった位である。然るに慰安所へ行けぬ位の兵は気違いだと罵った将校もあった。 

 要之、戦場生活は殺風景だから気が荒くなる。是を抑える為めには兵に女を抱かせるより善い策はないとしたのは尤もである。

 然し日本人が戦争に来て、大きな顔をして慰安所へ暇さえあれば通う姿を見て、支那人は笑って居った。

 上海へ上陸した其の日に、何処へ行ったら女が買えるかと在留日本人に聞くと言うので、日本の兵隊さんは戦争にきたのじゃないのかと反問しているのを聞いた。

 上海でも南京でも日本服姿の婦人を見るとゲラゲラ笑って恥しさも知らずに揶揄する。それが家庭婦人たると売笑婦たるとの区別がない。慰問に来た女子学生や婦人に向かっても平気で無作法な動作をしたり言葉で話しかける。どうして軍人は此の様に性欲にかつえて居り、亦その抑制がないのかと思われる。海軍軍人は決して此の様な風を見せないのは、海軍軍人の平常の教育が宜しいた為と考えられる。

 此の様に陸軍軍人は性欲の奴隷の如くに戦場を荒して居るのであるから、強姦の頻発も亦、止むを得ぬことと思われた。

 宣撫班も一方には大きな成果を挙げつつ、一方から是を破壊する様な破廉痴な行為が行われてる。即ち強姦と金品の恐喝とである。是は其の職を利用する無頼の徒が通訳として入り込んで居るからである。此の様な不徳行為のために大切な宣撫事業が妨害される事一方ならずと、私は話し聞かされた。

 

↑早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象と其対策(戦場心理の研究各論)」

不二出版 十五年戦争極秘資料集 補巻32『戦場心理の研究』第1冊 p.247~p.255