Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

歩兵第36連隊 中支方面に於ける行動概要 自昭和12年9月9日 至昭和14年7月11日 より 4 南京付近の会戦 1937.12.5~12.13

4 南京付近の会戦

 連隊は11月12日、第9師団右追撃隊の主力となり高家湾を出発、連日の冷雨の中を泥濘を踏破しつつ高家湾~黄渡鎮太倉~周壁鎮~昆山道を急追せるに、不幸、敵と戦闘を交うるに至らざるも、崑山付近の敵に対し側背脅威を与え得たり。

 連隊は17日、更に師団本隊となり崑山を出発、19日蘇州に進出し、ここにおいて第9師団追撃隊の主力となり、11月20日午後1時蘇州を出発し、陰雨霏々たる中を鉄道線路に沿い無錫に急追す。途中、望亭および李巷土付近に相当堅固に陣地を占領しある敵に対し、弾雨泥濘を冒し猛攻突破し更に敵を急追し、23日午後4時30分、無錫南門を占領、午後、城内旅団長完全に掃蕩す。

<[上余白書き込み]12月1日退院、向井中尉追及中、自動車転覆のため右眼下に負傷、引き続き追及続行。軍刀、戦帽、食

向井中尉、連隊復帰、中隊長代理。>

 続いて連日、諸障碍物を除去し旅団長また残敵を掃蕩しつつ、常州金壇天王寺と、糧食の欠乏、累加する労苦、寒気を克服しつつ、一路南京に向かい驀進し、早くも12月5日午後3時、淳化鎮東側を南北に流れる丘陵線上に堅固に陣地を占領せる敵前に達す。この陣地は南京東方大葉山々系に連なる南京要塞本防御線の一部にして、3線よりなるトーチカ陣地線を骨幹とし、その間を掩蓋を有する野戦陣地をもって連結し、陣地前には2線の屋根型鉄条網を張りめぐらし、また一連の対戦車壕を有し、極めて堅固なり。

 連隊長は前兵長たる伊藤少佐の報告ならびに自らの偵察により、陣地は極めて堅固なるも配兵少なしと判断、新たに山崎大尉の指揮する清水大隊を伊藤大隊の右に展開し、一挙にこれを突破し南京に突進せんと企図せるも、接敵とともに敵火ますます猛烈となり、その第1線は一部を突破せるも死傷続出し、ついに前進困難となりたるをもって、同一地に位置する旅団長の認可を得て、爾後、逐次攻撃陣地を推進し6日薄暮、ついに第1線陣地を占領す。

 連隊長は直ちに檜皮大隊を清水大隊の右に増加、戦果を拡張し、さらに第2線陣地に対し突撃陣地を推進す。この間、敵は続々兵力を増加し、抵抗ますます頑強なり。第1線将兵は携帯口糧、疾に尽き果て、予備隊より前送する僅少なる握飯と芋とに依り飢餓を凌ぎつつ、肌を刺す師走の寒風も物かは、不眠不休、掘進作業を続行す。

<[上余白書き込み]TK、ⅠおよびⅢに協力。途中Ⅱにも協力。佐藤大尉戦死。>

 7日、師団主力も追及し、追撃隊は新に左翼隊となり、8日朝より師団砲兵の主火力を以て協力せらるることとなれるをもって、連隊長は旅団長の企図に鑑み、8日午後2時を期し総攻撃敢行を決意し着々準備する所あり。

 翌8日早朝、連隊長は副官以下を帯同し迫撃砲の集中火を冒し大平橋側高地に進出、戦況を黙視しつつ、協力砲兵観測所と密接に連係し戦闘を指揮す。旅団長自ら副官および連絡のため到れる松沢参謀を帯同し、大平橋西南側高地同線上に進出し、連隊の戦闘を指導す。

 8日午後1時50分、予定の如く配属協力山砲兵は一斉に火蓋を切り、銃砲声殷々として耳を聾するばかりなり。わが弾着は極めて正確なり。

 午後2時やや前、友軍飛行機、淳化鎮部落の爆撃を開始するや、轟々たる爆音に天地は鳴動し、砲煙は敵陣地を覆い、敵の射撃は次第に衰微す。午後2時、砲兵の射程延伸の発煙弾射撃に膚接して檜皮部隊まず猛然突撃を発起すれば、これに後れじと清水部隊も軽装甲車の突入に連係し敢然突入し、伊藤部隊の一部またこれに続き、手榴弾を乱投する敵に白兵を振るい肉迫し、壮烈なる白兵戦を交え、終に午後2時30分、これを占領す。檜皮、清水両大隊は機を失せず、敗退する敵に尾接急追し、これを友軍砲兵、阻止弾幕に圧倒殲滅し、午後2時50分、淳化鎮西端に進出す。

 連隊長は、血戦3日の猛攻に部下の死傷多く、疲労困憊、其の極に達したるにもかかわらず、断乎清水、檜皮両大隊に現態勢をもってまず上方鎮に向かい戦場追撃を命じ、左第1線とし敵に突入し、続いて前進せる第一大隊を掌握し、直ちに本道上を果敢なる縦隊追撃に移り、旅団司令部もこれに続行し、敵をして後方陣地に拠るの余裕を与えず、午後4時、早くも淳化鎮西方約4kmの高管頭に進出す。

 この時、前面山下村西方高地にチェッコ5、6を有する敵約300は掩蓋陣地に拠り本道両側地区を猛射す。このため檜皮、清水両部隊の一部は射撃を開始し、主力また攻撃を準備中なり。連隊長は第1線の報告を受くるや、自らもこの状況を視察し、この陣地正面たる本道正面より力攻するは徒に損害多く、かつ時日を要すべしと判断し、伊藤大隊長に命じ、第1中隊を以て高管頭の本道を扼守せしめ、<[上余白書き込み]TK攻撃し来たる>檜皮、清水両大隊に本道南方地区を迂回転進、上方鎮に向かい追撃を命じ、これを実施中、午後5時ごろ、突如、戦車2両を有する約300の敵は本道に沿う地区より逆襲し来たる。連隊長は直ちに第1大隊、独立機関銃大隊に命じ、これを攻撃せしむ。敵歩兵は我が猛射により北側山地に向かい潰走す。

 敵戦車は尚も後方に突入し、後続部隊に相当の損害を与えたるも、旅団司令部付近にありし山砲の適切なる射撃により撃退せらる。旅団長は第1大隊に命じ、第1、第4中隊をして本道を扼守せしめ、自ら旅団長に戦況を報告するとともに、旅団長の企図を承知し、爾余の部隊は旅団司令部とともに高管頭に待機し、転進せる両大隊の成果を待つ。午後8時ごろ、約200の敵は本道南側より第4中隊正面に逆襲し来たるも、第4中隊は独立機関銃大隊とともに勇戦、ついにこれを撃退す。

 爾後、敵はなお陣地に拠り乱射を続けありしが、8日夜10時ごろより銃声漸次減少せるとともに、旅団副官よりも注意を受け寺田、大橋将校斥候を派遣、捜索の結果、敵は退却と判断し旅団長と直ちに意見一致し、直ちに第1大隊主力を前兵とし果敢なる夜間追撃に移る。旅団司令部もまた続行す。時に午後11時30分なり。これより先、転進せる清水大隊は上方鎮に進出し、待機中の敵を撃破し自動貨車2両および糧食を鹵獲し該地を占領し、もって山下村方向の敵の退路を遮断す。

 檜皮部隊の尖兵中隊たる第7中隊もまた続いて上方鎮に向かい突進し、途中、該地南方約千米本道三叉路において、高管頭方向より反転し来る敵サイドカーを要撃し、将校1、兵1を倒しこれを鹵獲す。第7中隊は更に上方鎮に急行し、すでに該地に進出しある山崎大尉の区処により、上方鎮の南側および西側に陣地を占領し警戒に任ず。

 このとき、先に高管頭に突入し来たれる敵戦車3両は轟々と本道上を反転し来たる。すなわち第7中隊および清水大隊の一部は夜暗を利用し、好機に乗じ肉薄攻撃を敢行して乗員を刺殺し、その2台を鹵獲、さらに続行せる自動貨車1両を奪取す。<[上余白書き込み]山崎大尉負傷>このころ山下村方向より三々五々、上方鎮部落に向かい退却し来たれる敵は、該地を占領せる清水部隊を友軍と誤り不用意に接近するを、将兵は不意に襲い、あるいは刺殺し、あるいは斬殺し、約80名を倒し、山下村の敵を殲滅す。

 連隊主力が上方鎮に進出するや、路上に巨体を横ふる敵戦車を見、将兵思わず快哉を叫ぶ。この地において連隊長は直に清水大隊を本体に編入し、その兵力約300は上方鎮─光華門道を只一筋に南京城に向かい突進し、旅団司令部は連隊本部に続行す。時に空は漆を流したる如く、南京方向に炎々たる火災を望む。待望の南京は指呼の間にあり、将兵の志気、大いに振るう。途中、敵兵三々五々、列中に友軍と誤り混入し来たるを、兵はこれを不意に刺殺しつつ前進す。彼我混交し、真に平行追撃の状態なり。

 尖兵中隊、高橋門に達するや、一部の敵は抵抗を試みたるも、不意に白兵を振るい怒濤のごとく一挙に突破し追撃を続行す。沿道の家屋には焚き火、赫々と燃え残り、ここかしこ火災を起し、支那兵の周章狼狽の跡、歴然たり。

 七甕橋[→七橋甕?]に迫るころ、支那軍兵営の方に当たり盛んなるラッパの音起る。非常召集なるべし。旅団司令部は左第1線たる歩兵第19連隊主力の関連上、七甕橋に停止す。連隊は遮二無二驀進し、敵をして抵抗の余裕を与えず一挙にこの部落を突破突進し、敵の抵抗を殆んど受くることなく9日午前5時15分、終に光華門前に達す。天空に黒々と聳えて見ゆる大南京城壁を仰ぎ、将兵一同、血湧き肉踊る。

 この時、道路一側の街灯は一斉に点火し、城壁上よりは盛に照明弾を発し、同時に熾烈なる一斉射撃を受く。連隊長は直ちに伊藤大隊を本道北側に展開し光華門の敵情地形を偵察せしめ、清水大隊の主力、および山下村南方にて一時集結し態勢を整へたる、やや遅れて追及せる檜皮部隊を防空学校に集結す。時に天明となり、城壁上よりの射撃はますます烈しく、後方七甕橋部落にも銃声熾んなり。

 連隊長は危険を冒し防空学校東北角の望楼に進出し、副官以下とともに自ら光華門の状況を偵察し、旅団副官中川少佐もまた軽装甲車により危険を冒し残敵中を突破し防空学校に至り、敵情地形を偵察するとともに第1線の状況を明らかにす。

 諸報告、偵察ならびに情報を総合するに、当時、光華門は固く門扉を閉ざし、外堀の巾約135m、水深約4mにして、城壁の高さ約13m、門に通ずる道路は対戦車壕ならびに5条の拒馬をもって阻絶し、道路両側は水際に至るまで5条の鉄条網をもって固め、城門西側ならびに城壁上には十数個の機関銃眼を設け、後に判明せるごとく教導総隊の精鋭をもって極めて堅固に守備す。連隊長はまず配属山砲2門に城壁の破壊射撃を命じ、爾後、副官ならびに砲兵大隊長、芳賀砲兵少佐とともに観測所に位置し戦闘を指揮す。砲兵大隊は2門をもって防空学校囲壁より直接照準により破壊射撃を実施し、門扉の一部を破壊したるも、内部には土嚢、木材を充実しあり、加ふるに補給を受くる暇なく急迫せるため弾薬僅少にして、突撃路を開設するに至らず。次いで小坂工兵大尉の指揮する決死隊は、本道上に展開せる軽装甲車ならびに伊藤大隊の支援射撃の下に拒馬を引きのけ城門に肉迫し、前後2回にわたり爆破を敢行せるも、薬量少なきと爆薬埋填の暇なきため効果少なく、午後8時、さらに薬量を増加し爆破せるも、完全に突撃路を開設するに至らずして再び敵に填塞せらる。

 この間、雨花台方向よりする敵の砲撃盛んにして人馬の死傷多きも物ともせず、右第1線伊藤大隊は工兵の作業を支援し、かつ光華門に対する突撃を準備しつつ夜を徹し、また左第1線檜皮大隊は通済門に対する攻撃を準備し、予備隊たる清水大隊は大隊長代理西森少尉の指揮の下に防空学校を西南方に対し警備す。午後1時ごろより防空学校西端附近の無名部落に敵兵続々集結し、その数400~500に達するを目撃するや、清水大隊は急襲的集中射撃によりこれに多大の損害を与え西方に撃退す。午後10時ごろ、約200名の敵は協和橋およびこれに並行せる鉄橋に対し夜襲し来たれるをもって、第9中隊および第3機関銃はこれを猛射し、交戦約20分にしてこれを西南方に撃退す。本夕以降特に、各方面より圧迫せられ光華門に入らんとする敗残兵、連隊と旅団司令部の間に充満し来る。翌10日、敵は続々兵力を光華門付近に集中し、敵の銃砲火ますます熾烈にして、また背後方たる雨花台ならびに紫金山方向よりする集中射撃に人馬の死傷続出す。

 在七甕橋旅団司令部と連隊との間は残存陣地ならびに充満せる敗残兵のため、命令受領者土田軍曹戦死し、通信兵も戦死し、あるいは負傷し、ために中川副官連絡以来、わずかに無線電信をもって連絡する状態なりしが、10日午前8時ごろ、旅団副官武田大尉は旅団長の命により山砲弾薬500および機関銃弾薬補充を兼ね、軽装甲車に乗じ中間の敵陣地を突破しつつ連隊本部に到着、旅団長の意図を伝え連隊長を補佐し、かつ午前十時、連隊通信班の決死的作業により3回線目ついに連絡に成功せるをもって、爾後、電話により密に旅団司令部と連絡す。当時、敵はすでに城壁上に対戦車砲を配置しあり。ために旅団副官武田大尉を送りし装甲車は、防空学校門前に出づるや直ちに射撃を受け破壊し、搭乗車[→者]は戦死せり。連隊長は山砲弾薬を補充されたるをもって午後3時、再び配属山砲に城壁破壊を命じ、爾後、山砲観測所にあり芳賀砲兵大隊長、鈴木副官とともに戦闘指揮に任ず。午後3時、山砲2門は直接照準により釣瓶打ちに破壊射撃を開始すれば、城門上部ならびに土嚢は漸次崩れ落ち急峻なる斜坂を形成し、午後5時、辛うじて突撃路を開設す。

 この時、敵の重迫撃砲弾十数発は観測所付近に集中し、轟々たる爆音に屋根は崩れ、耳は聾し、烈しき閃光に目を眩み、濛々たる砲煙に呼吸も困難となり、一時、戦闘指揮も砲撃も中断す。砲煙漸く散し城門の方を見れば、伊藤大隊の一部はすでに城門に突入し、斜坂上に打ち降る日章旗翩翻たり。将兵、思わず万歳を叫ぶ。時に午後5時なり。

 これすなわち敵の砲撃が我が戦闘司令所に集中したる好機に乗じ、独断、伊藤少佐が突入を命ずるや、敢然、山際少尉の率ゆる第1中隊突撃を発起すれば、葛野中尉の指揮する第4中隊これに続き、一挙に城門内に突入しこれを占領したるなり。

 戦況ますます悲惨なるも将兵の志気旺盛なり。連隊長は直ちに「伊藤大隊は全滅を賭して光華門を確保すべし」の要旨命令を下達せり。伊藤少佐は薄暮を利用し壮烈なる決意を以て予備隊たる第3中隊を率い城門に前進し、城内よりする機関銃の縦射と城門上よりする手榴弾の投下に依り戦死·傷続出する極めて困難なる戦況中にあり沈着豪胆、部下を激励指揮中、午後9時、ついに敵手榴弾のため右額部に受傷し、城門確保を命じつつ壮烈なる最後を遂ぐ。

 爾後、城門内の将兵大隊長の遺命を確守し、土嚢、石塊および木材の流れ落ち生じたる内斜面に3段の掩体を設け、死傷の続出するを物ともせず該地を確保す。午後10時半ごろ、約100名の敵兵は工兵学校方向より第1大隊の背後に向かい夜襲し来たれるも、当時現所属に復帰せる竹田中尉は部下中隊および第1機関銃を指揮し善戦、これを撃退し、かつ一部を以て光華門内に突進、増援せしめ、爾後逐次、兵力を門内に補充するとともに、城門外第1大隊各中隊の兵を統一指揮し該地を確保す。10日夜12時ごろ、敵は催涙ガスを城門内に投じ、また戦車1両をもって前後数回にわたり至近距離に肉薄し門内を猛射し、また午前1時ごろより城門上より材木を投下し、これに石油を注ぎ火を放ち、終夜、焔をもって我が兵を苦しめたるも、守兵はよくこれに耐え光華門を確保す。

 この間、連隊本部は城壁直下の防空学校屋内にあり、打ち下す熾烈なる敵火の下に夜を徹し戦闘指導するとともに、後方よりする弾薬の補給、意のごとくならざるをもって、予備隊の弾薬を集め第1線に補充し、また本部当番をもって握飯を作り前送す。

 夕刻、野戦重砲兵大隊および独立野戦重砲兵中隊は旅団に協力を命ぜられ、飛行場附近に陣地を占領するや、旅団長は直ちにこれと連絡し、かつ脇坂連隊長の意見を徴し、翌11日の戦闘に関し綿密に歩砲の協定をなす。翌11[→12?]日天明、連隊長はまず配属山砲1門をもって城門両側および城壁の帽堡を直接照準により逐次破壊し、敵兵の遮蔽して城門に近接し内部の我兵に手榴弾を投ずるを困難ならしむるとともに、1門を以て城門右側約50m城壁の破壊射撃を実施し、協力10加のため破壊位置を明示するや、協定に基づき飛行場にありし10加は俄然、猛烈なる射撃を開始す。弾着、極めて正確にして、城壁は逐次崩れ、午前9時30分、友軍飛行機の爆撃と相俟ちて付近の敵を圧倒·震駭す。

 この好機を利用し、小銃分隊、軽機2、重機1は光華門内より城門上に攀じ登りこれを占領せるも、我が爆撃·砲撃中止するや、敵は大挙逆襲し来たり、我が弾薬忽ち尽き果て白兵を振るい突入するも、敵は手榴弾を乱投し遠巻きに猛射す。ために我が兵の大半は負傷、加ふるに手榴弾のため梯子は折れ後方続かず、ついに涙をのみ門内に移る。

 午後2時30分、連隊長は城門外第1大隊の残部をもって竹川集成中隊を編成し、第2大隊長檜皮少佐に命じ、併せこれを指揮せしむ。檜皮少佐は直ちに第7中隊をもって集成中隊を増援し、かつ弾薬および糧食の補給を計りたるも、通路縦射され行く者みな倒れ不成功に終り、城門内の将兵は困苦欠乏に耐え死力を尽くし該地を確保す。この間、清水部隊は主力をもって防空学校を警備し、かつ一部をもって旅団との中間の残敵を掃蕩す。連隊長を補佐し旅団との連絡に任じありし武田大尉は、旅団長の命令に基づき午後4時帰還す。翌12日、協力10加はさらに破壊射撃を実施し、配属山砲また敵の工事を妨害し、ついに午後4時ごろ、急斜坂突撃路を完全に開設す。

 協力15榴は此の間、城壁内側の敵を猛射し、強大なる偉力に依り敵を圧倒震駭す。檜皮大隊は機を失せず城門内の我兵に対し弾薬糧食の補給を敢行し、終に成功す。為に城門内の我兵の志気、大いに振るう。午後5時30分ごろ、通済門方向より敗残兵約200の城壁に沿い光華門方向に移動するを発見し、砲兵および歩兵の主力をもってこれを射撃し、多大の損害を与え西方に潰走せしむ。12日夜半ごろより敵の銃声、手榴弾の投擲、次第に減少し、13日午前4時ごろ、全く止みたるをもって、竹川集成中隊および檜皮大隊より直ちに斥候を城壁上に派遣せしところ、敵兵の大部すでに退却せるを知り、竹川集成中隊は城門内の部隊と呼応し、伊藤大隊長の遺骨を奉じ城門アーチ右側の破壊斜面より、檜皮大隊は第七中隊を先頭に右破壊斜面より一挙に城壁上に踏み上り、両側城壁上を掃蕩し該地を確保す。午前5時、連隊長は軍旗を奉じ城壁上に上り東の方、皇居を遥かに拝し、涙とともに万歳し、到着せる旅団長に報告し、旅団長は連隊の戦闘に関し旅団副官武田大尉をして師団に報告せしむ。

 敵地上陸以来、奮戦また奮戦、ついに待望の首都1番乗の栄誉は燦然として我等が軍旗に輝けり。嗚呼、神去りましし1,265名の英霊もまた冥ずべし。

<[上余白書き込み]敵飛行機/空襲>

 これを要するに、本戦闘に於て敵国首都に1番乗りを行い、ますます光栄ある軍旗に光彩を添へ奉るを得たるは、誠に感激に堪えざるところにして、これ一に

大元帥陛下の御稜威の然らしむる所にして、また

朝香宮殿下を軍司令官に仰ぎ奉り志気ますます揚がり、将兵一同、軍旗の下に一致団結、淳化鎮における血戦三日の猛攻撃に引き続き、万難を排し放胆なる夜間追撃を敢行し、肉弾に続く肉弾をもって猛攻したる賜なり。後日、連隊は感状を受領し、また先頭をもって光華門に突入せし山際少尉は宮殿下より畏くもその佩刀を賜れり。

<[上余白書き込み]負傷/小川大尉 戰死/伊藤少佐 向井中尉/重傷内地送還 両脚砲彈/確?□創/重砲兵彈? ナベ木少尉/□中隊長代理>

 この間、連隊の損害は戦死、少佐伊藤義光以下257名負傷、大尉小川清以下546名なり。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:Banzai_on_Guanghua_Gate01.jpg

 

四 南京附近の會戰

联隊は十一月十二日第九師團右追擊隊の主力となり高家灣を出發 連日の冷雨の中を泥濘を踏破しつゝ高家灣─黄渡鎭─太倉─周壁鎭─昆山道を急追せるに 不幸 敵と戰斗を交ふるに至らざるも 崑山附近の敵に對し側背脅威を與へ得たり

联隊は十七日更に師團本隊となり崑山を出發 十九日蘇州に進出し 此處に於て第九師團追擊隊の主力となり 十一月二十日午後一時 蘇州を出發し 陰雨霏々たる中を鉄道線路に沿い無錫に急追す 途中望亭 及 李巷土附近に相當堅固に陣地を占領しある敵に對し 彈雨泥濘を冒し猛攻突破し 更に敵を急追し二十三日午後四時三十分 無錫南門を占領 午後 城内を完全に掃蕩す

<[上余白書き込み]十二月一日退院/向井中尉追及/中 自動車/轉伏ノ爲/右眼下ニ負傷/引續キ追及/續行

軍刀 戰帽/食糧 紛失

向井中尉/联隊復歸/中隊長代理>

續いて連日 諸障碍物を除去し 又 殘敵を掃蕩しつゝ 常州 金壇 天王寺と 糧食の缺乏 累加する勞苦 寒気を克服しつゝ一路南京に向ひ驀進し、早くも十二月五日午後三時 化鎭東側を南北に流れる丘陵線上に堅固に陣地を占領せる敵前に達す 此の陣地は南京東方大葉山山系に連なる南京要塞本防禦線の一部にして 三線より爲る「トーチカ」陣地線を骨幹とし 其の間を掩蓋を有する野戰陣地を以て連結し 陣地前には二線の屋根型鉄條網を張り圍らし 又一連の對戰車壕を有し 極めて堅固なり

联隊長は前兵長たる伊藤少佐の報告竝に自らの偵察に依り 陣地は極めて堅固なるも配兵少なしと判断 新に山崎大尉の指揮する清水大隊を伊藤大隊の右に展開し 一擧に之を突破し南京に突進せんと企図せるも 接敵と共に敵火益々猛烈となり 其の第一線は一部を突破せるも死傷續出し 終に前進困難となりたるを以て 同一地に位置する旅團長の認可を得て 尓後逐次攻擊陣地を推進し六日薄暮 終に第一線陣地を占領す

联隊長は直に檜皮大隊を清水大隊の右に増加 戰果を擴張し 更に第二線陣地に對し突擊陣地を推進す 此の間 敵は續々兵力を増加し 抵抗益々頑强なり 第一線將兵は携帶口糧 疾に尽き果て 予備隊より前送する僅少なる握飯と芋とに依り飢餓を凌ぎつゝ 肌を刺す師走の寒風も物かは 不眠不休 掘進作業を續行す

<[上余白書き込み]TK Ⅰ及Ⅲに協力/途中Ⅱにも/協力

佐藤大尉/戰死>

七日 師團主力も追及し 追擊隊は新に左翼隊となり 八日 朝より師團砲兵の主火力を以て協力せらるゝこととなれるを以て 联隊長は旅團長の企図に鑑み 八日午後二時を期し總攻擊敢行を決意し 着々準備する所あり

翌八日早朝 联隊長は副官以下を帶同し 迫擊砲の集中火を冒し大平橋側髙地に進出 戰況を联黙視しつつ協力砲兵観測所と密接に連繫し戰闘を指揮す 旅團長自ら副官 及 連絡の爲 到れる松澤参謀を帶同し 大平橋西南側高地同線上に進出し 联隊の戰斗を指導す

八日午後一時五十分 豫定の如く配属協力山砲兵は一齊に火蓋を切り 銃砲声殷々として耳を聾するはかりなり 吾彈着は極めて正確なり

午后二時稍前 友軍飛行機 淳化鎭部落の爆擊を開始するや 轟々たる爆音に天地は鳴動し 砲煙は敵陣地を覆ひ 敵の射擊は次第に衰微す 午后二時 砲兵の射程延伸の發煙彈射擊に膚接して檜皮部隊先つ猛然突擊を發起すれは 之に後れじと清水部隊も軽裝甲車の突入に連繫し敢然突入し 伊藤部隊の一部又之に續き 手榴彈を乱投する敵に白兵を振ひ 壮烈なる白兵戰を交へ 終に午后二時三十分 之を占領す 檜皮 清水両大隊は機を失せず 敗退する敵に尾接急追し 之を友軍砲兵 阻止彈幕に圧倒 殲滅し 午後二時五十分 淳化鎭西端に進出す

联隊長は血戰三日の猛攻に部下の死傷多く 疲労困憊其の極に達したるにも拘らす 断乎清水 檜皮両大隊に現態勢を以て先つ上方鎭に向ひ戰場追擊を命し 左第一線としさ 敵に突入し 續いて前進せる第一大隊を掌握し 直ちに本道上を果敢なる縱隊追擊に移り 旅團司令部も之に續行し 敵をして後方陣地に據るの餘裕を与へす 午後四時 早くも淳化鎭西方約四粁の高管頭に進出す

此の時 前面山下村西方髙地にチエツコ五、六を有する敵約三百は掩蓋陣地に據り本道両側地區を猛射す 之が為 檜皮 清水両部隊の一部は射擊を開始し 主力又攻擊を準備中なり 联隊長は第一線の報告を受くるや自らも此の狀況を視察し 此の陣地正面たる本道正面より力攻するは徒らに損害多く 且 時日を要すへしと判断し 伊藤大隊長に命し第一中隊を以て高管頭の本道を扼守せしめ <[上余白書き込み]TK攻擊シ来/ル>檜皮 清水両大隊に本道南方地区を迂回轉進 上方鎭に向ひ追擊を命し之が實施中 午后五時頃 突如 戰車二輌を有する約三百の敵は本道に沿ふ地區より逆襲し來る 联隊長は直ちに第一大隊 独立機関銃大隊に命し 之を攻擊せしむ 敵歩兵は我猛射に依り北側山地に向ひ潰走す

敵戰車は尚も後方に突入し後續部隊に相等の損害を与へたるも 旅團司令部附近に在りし山砲の適切なる射擊に依り擊退せらる 旅團長は第一大隊に命し 第一 第四中隊をして本道を扼守せしめ 自ら旅團長に戰況を報告すると共に 旅團長の企図を承知し 爾餘の部隊は旅團司令部と共に高管頭に待機し 轉進せる両大隊の成果を待つ 午後八時頃 約二百の敵は本道南側より第四中隊正面に逆襲し來るも 第四中隊は独立機関銃大隊と共に勇戰 終に之を擊退す

爾後 敵は尚 陣地に據り乱射を續けありしが 八日夜十時頃より銃聲漸次減少せると共に 旅團副官よりも注意を受け寺田 大橋將校斥候を派遣 搜索の結果 敵は退却と判断し 旅團長と直ちに意見一致し 直ちに第一大隊主力を以て前兵とし果敢なる夜間追擊に移る 旅團司令部も又續行す 時に午後十一時三十分なり 之より先 轉進せる清水大隊は上方鎭に進出し 待機中の敵を擊破し 自動貨車二輌 及 糧食を鹵獲し該地を占領し 以て山下村方向の敵の退路を遮断す

檜皮部隊の尖兵中隊たる第七中隊も又續いて上方鎭に向ひ突進し 途中 該地南方約千米本道三叉路に於て 高管頭方向より反轉し來るサイドカーを要擊し 將校一 兵一を倒し 之を鹵獲す 第七中隊は更に上方鎭に急行し 既に該地に進出しある山崎大尉の區處に依り 上方鎭の南側 及 西側に陣地を占領し警戒に任ず

此の時 先に高管頭に突入し來れる敵戰車三輌は轟々と本道上を反轉し来る 即ち第七中隊 及 清水大隊の一部は夜暗を利用し 好機に乗じ肉薄攻擊を敢行して 乘員を刺殺し其の二台を鹵獲 更に續行せる自動貨車一輌を奪取す <[上余白書き込み]山崎大尉/負傷> 此頃 山下村方向より三々伍々 上方鎭部落に向ひ退却し來れる敵は 該地を占領せる清水部隊を友軍と誤り不用意に接近するを 將兵は不意に襲ひ 或は刺殺し 或は斬殺し 約八十名を倒し 山下村の敵を殲滅す

联隊主力が上方鎭に進出するや 路上に巨體を横ふる敵戰車を見 將兵思はす快哉を叫ふ 此の地において联隊長は直ちに清水大隊を本体に編入し 其の兵力約三百は上方鎭─光華門道を只一筋に南京城に向ひ突進し 旅團司令部は联隊本部に續行す 時に空は漆を流したる如く 南京方向に炎々たる火災を望む 待望の南京は指呼の間にあり 將兵の志氣 大に振ふ途中 敵兵三々伍々 列中に友軍と誤り混入し来るを 兵は之を不意に刺殺しつつ前進す 彼我混交し 眞に平行追擊の狀態なり

尖兵中隊 高橋門に達するや 一部の敵は抵抗を試みたるも 不意に白兵を振ひ怒濤の如く一挙に突破し 追擊を續行す 沿道の家屋には焚火赫々と燃え残り 此処彼処 火災を起し 支那兵の周章狼狽の跡 歴然たり 七甕橋に迫る頃 支那軍兵營の方に當り盛なるラッパの音起る 非常召集なるへし

旅團司令部は左第一線たる歩兵第十九联隊主力の関連上 七甕橋に停止す 联隊は遮二無二驀進し 敵をして抵抗の餘裕を与へず一挙に此の部落を突破突進し 敵の抵抗を殆んと受くることなく九日午前五時十五分 終に光華門前に達す 天空に黒々と聳えて見える大南京城壁を仰き 將兵一同 血湧き肉踊る

此の時 道路一側の街燈は一斉に点火し 城壁上よりは盛に照明彈を發し 同時に熾烈なる一斉射擊を受く 联隊長は直に伊藤大隊を本道北側に展開し光華門の敵情 地形を偵察せしめ 清水大隊の主力 及 山下村南方にて一時集結し態勢を整へたる やゝ遅れて追及せる檜皮部隊を防空學校に集結す 時に天明となり 城壁上よりの射擊は益々烈しく 後方七甕橋部落にも銃聲 熾なり

連隊長は危険を冒し防空学校東北角の望楼に進出し、副官以下と共に自ら光華門の状況を偵察し、旅團副官中川少佐も又、軽装甲車に依り危険を冒し残敵中を突破し防空学校に至り、敵情地形を偵察すると共に第一線の状況を明にす

諸報告 偵察 竝に情報を綜合するに 當時 光華門は固く門扉を閉し 外堀の巾約百三十五米 水深約四米にして 城壁の高さ約十三米 門に通ずる道路は對戰車壕 竝に五條の拒馬を以て阻絶し 道路両側は水際に至るまて五條の鐵條網を以て固め 城門西側竝に城壁上には十数箇の機関銃眼を設け 後に判明せる如く敎導總隊の精鋭を以て極めて堅固に守備す 联隊長は先つ配属山砲二門に城門の破壞射擊を命し 爾後 副官 竝に砲兵大隊長 芳賀砲兵少佐と共に觀測所に位置し戰斗を指揮す 砲兵大隊は二門を以て防空学校圍壁より直接照準に依り破擊射擊を実施し 門扉の一部を破壞したるも 内部には土囊 木材 塡實しあり 加ふるに補給を受くる暇なく急迫せる為  彈藥僅少にして突擊路を開設するに至らす 次て小坂工兵大尉の指揮する決死隊は本道上に展開せる軽裝甲車竝に伊藤大隊の支援射擊の下に拒馬を引のけ城門に肉迫し 前後二回に亘り爆破を敢行せるも 藥量少きと爆藥埋塡の暇なき為 効果少く 午后八時 更に藥量を増加し爆破せるも 完全に突擊路を開設するに至らずして再び敵に塡塞せらる

此の間 雨花台方向よりする敵の砲擊盛にして人馬の死傷多きも物ともせす右㐧一線伊藤大隊は工兵の作業を支援し 且光華門に対する突擊を準備しつつ夜を徹し 又 左第一線檜皮大隊は通済門に対する攻擊を準備し 豫備隊たる清水大隊は大隊長代理西森少尉の指揮の下に防空学校の西南方に対し警備す 午後一時頃より防空學校西端附近の無名部落に敵兵續々集結し 其数 四~五百に達するを目擊するや 清水大隊は急襲的集中射擊に依り之に多大の損害を与へ西方に擊退す 午後十時頃 約二百名の敵は協和橋 及 之に並行せる鉄橋に対し夜襲し來れるを以て 第九中隊 及 第三機関銃は之を猛射し 交戰約二十分にして之を西南方に擊退す 本夕以降特に 各方面より圧迫せられ光華門に入らんとする敗残兵 联隊と旅團司令部の間に充満し來る 翌十日 敵は續々兵力を光華門附近に集中し 敵の銃砲火益々熾烈にして 又 背後方たる雨花台竝紫金山方向よりする砲兵の集中射擊に 人馬の死傷續出す

在七甕橋旅團司令部と联隊との間は残存陣地 竝に充満せる敗残兵の為 命令受領者土田軍曹戰死し 通信兵も戰死し 或は負傷し 為に中川副官連絡以来 僅かに無線電信を以て連絡する狀態なりしか 十日午前八時頃 旅團副官武田大尉は旅團長の命に依り山砲彈藥五百 及 機関銃彈藥補充を兼ね 軽裝甲車に乘じ中間の敵陣地を突破しつつ联隊本部に到着 旅團長の意図を傳へ 联隊長を補佐し 且つ午前十時 連隊通信班の決死的作業に依り三回線目 終に連絡に成功せるを以て 爾後 電話に依り密に旅團司令部と連絡す 當時 敵は既に城壁上に対戰車砲を配置し在り 為に旅團副官武田大尉を送りし装甲車は 防空學校門前に出づるや直に射擊を受け破壞し 搭乗車は戰死せり 联隊長は山砲彈藥を補充されたるを以て午後三時 再ひ配属山砲に城壁破壞を命し 爾後 山砲觀測所に在り芳賀砲兵大隊長 鈴木副官と共に戰闘指揮に任す 午後三時 山砲二門は直接照準に依り釣瓶打に破壞射擊を開始すれば 城門上部 竝に土囊は漸次 崩れ落ち急峻なる斜坂を形成し 午後五時 辛うして突擊路を開設す

此の時 敵の重迫擊砲彈十数發は觀測所附近に集中し 轟々たる爆音に屋根は崩れ 耳は聾し 烈しき閃光に目を眩み 濛々たる砲煙に呼吸も困難となり 一時 戰闘指揮も砲擊も中絶す 砲煙漸く撤し城門の方を見れは 伊藤大隊の一部は既に城門に突入し 斜坂上に打ち降る日章旗 翩翻たり 將兵 思はす万歳を叫ふ 時に午後五時なり

之即ち敵の砲擊が我戰斗司令所に集中したる好機に乘し 独断 伊藤少佐が突入を命するや 敢然 山際少尉の率ゆる第一中隊 突擊を発起すれは 葛野中尉の指揮する第四中隊 之に續き 一擧に城門内に突入し之を占領したるなり

戰況益々悲慘なるも將兵の志氣旺盛なり 联隊長は直ちに「伊藤大隊は全滅を賭して光華門を確保すへし」の要旨命令を下達せり 伊藤少佐は薄暮を利用し壯烈なる決意を以て豫備隊たる第三中隊を率ゐ城門に前進し 城内よりする機関銃の縦射と城門上よりする手榴彈の投下に依り戰死傷續出する極めて困難なる戰況中に在り沈着豪胆 部下を激勵指揮中 午後九時 終に敵手榴彈の為 右額部に受傷し 城門確保を命じつゝ裝烈なる最後を遂く

尓後 城門内の將兵は大隊長の遺命を確守し 土嚢 石塊 及 木材の流れ落ち生したる内斜面に三段の掩体を設け 死傷の續出するを物ともせす該地を確保す 午後十時半頃 約百名の敵兵は工兵学校方向より第一大隊の背後に向ひ夜襲し来れるも 當時現所属に復歸せる竹田中尉は部下中隊 及 第一機関銃を指揮し善戰 之を擊退し 且 一部を以て光華門内に突進 増援せしめ 爾後 逐次 兵力を門内に補充すると共に 城門外第一大隊各中隊の兵を統一指揮し該地を確保す 十日夜十二時頃 敵は催涙瓦斯を城門内に投し 又 戰車一輌を以て前後數回に亘り至近距離に肉薄し門内を猛射し 又 午前一時頃より城門上より材木を投下し之に石油を注き火を放ち 終夜 焔を以て我兵を苦しめたるも 守兵は克く之に耐へ光華門を確保す

此の間 联隊本部は城壁直下の防空學校屋内に在り 打下す熾烈なる敵火の下に夜を徹し戰闘指導すると共に 後方よりする彈藥の補給 意の如くならざるを以て 豫備隊の彈藥を集め第一線に補充し 又 本部當番を以て握飯を作り前送す

夕刻 野戰重砲兵大隊 及 独立野戰重砲兵中隊は旅團に協力を命せられ飛行場附近に陣地を占領するや 旅團長は直ちに之と連絡し 且 脇坂联隊長の意見を徴し 翌十一日の戰闘に関し綿密に歩砲の協定をなす翌十二日天明 联隊長は先つ配属山砲一門を以て城門両側 及 城壁の帽堡を直接照準に依り逐次破壞し 敵兵の遮蔽して城門に近接し内部の我兵に手榴彈を投ずるを困難ならしむると共に 一門を以て城門右側約五〇米城壁の破壞射擊を實施し 協力十加の為 破壞位置を明示するや 協定に基き飛行場にありし十加は俄然 猛烈なる射擊を開始す 彈着 極めて正確にして 城壁は逐次崩れ 午前九時三十分 友軍飛行機の爆擊と相俟ちて附近の敵を圧倒震駭す

此の好機を利用し小銃分隊 軽機二 重機一は光華門内より城門上に攀登り之を占領せるも 我爆擊砲擊中止するや敵は大擧逆襲し來り 我彈藥忽ち盡き果て白兵を振ひ突入するも 敵は手榴彈を乱投し遠巻に猛射す 為に我兵の大半は負傷 加ふるに手榴彈の為 梯子は折れ後方續かす 終に涙をのみ門内に移る 

午後二時三十分 联隊長は城門外第一大隊の残部を以て竹川集成中隊を編成し 第二大隊長檜皮少佐に命じ 併せ之を指揮せしむ 檜皮少佐は直ちに第七中隊を以て集成中隊を増援し 且 彈藥 及 糧食の補給を計りたるも 通路縱射され 行く者皆倒れ 不成功に終る 城門内の將兵は困苦缺乏に耐へ死力を盡し該地を確保す 此の間 清水部隊は主力を以て防空学校を警備し 且 一部を以て旅團との中間の残敵を掃蕩す 联隊長を補佐し旅團との連絡に任じありし武田大尉は 旅團長の命令に基き午后四時歸還す 翌十二日 協力十加は更に破壞射擊を實施し 配属山砲 又 敵の工事を妨害し 終に午後四時頃 急斜坂突擊路を完全に開設す

協力十五榴は此の間 城壁内側の敵を猛射し 強大なる偉力に依り敵を圧倒震駭す 檜皮大隊は機を失せず城門内の我兵に対し彈藥糧食の補給を敢行し 終に成功す 為に城門内の我兵の志氣 大いに振ふ 午後五時三十分頃 通済門方向より敗残兵約二百の城壁に沿ひ光華門方向に移動するを發見し 砲兵 及 歩兵の主力を以て之を射擊し 多大の損害を与へ西方に潰走せしむ 十二日夜半頃より敵の銃聲 手榴彈の投擲 次第に減少し 十三日午前四時頃 全く止みたるを以て 竹川集成中隊 及 檜皮大隊より直ちに斥候を城壁上に派遣せし所 敵兵の大部 既に退却せるを知り 竹川集成中隊は城門内の部隊と呼應し伊藤大隊長の遺骨を奉し城門「アーチ」右側の破壞斜面より踏み上り 両側城壁上を掃蕩し該地を確保す 午前五時 联隊長は軍旗を奉じ城壁上に上り 東の方 皇居を遙かに拝し 淚とともに萬歳し 到着せる旅團長に報告し 旅團長は联隊の戰闘に関し旅團副官武田大尉をして師團に報告せしむ敵地上陸以來 奮戰 又 奮戰 終に待望の首都一番乘の榮譽は燦然として我等が軍旗に輝けり 嗚呼 神去りましゝ一千二百六十五名の英靈も又 冥すへし

<[上余白書き込み]敵飛行機/空襲>

之を要するに、本戰斗に於て敵國首都に一番乘りを行ひ 益々光栄ある軍旗に光彩を添え奉るを得たるは 誠に感激に堪へざる所にして 之 一に

大元帥陛下の御稜威の然らしむる所にして、又

朝香宮殿下を軍司令官に仰き奉り志氣益々揚り 將兵一同 軍旗の下に一致團結 淳化鎭に於ける血戰三日の猛攻擊に引續き 万難を排し放胆なる夜間追擊を敢行し 肉彈に續く肉彈を以て猛攻したる賜なり 後日 联隊は感狀を受領し 又 先頭を以て光華門に突入せし山際少尉は宮殿下より畏くも其の佩刀を賜れり

<[上余白書き込み]負傷/小川大尉 戰死/伊藤少佐 向井中尉/重傷内地送還 両脚砲彈/確?□創/重砲兵彈? ナベ木少尉/□中隊長代理>

此の間 联隊の損害は 戰死 少佐伊藤善光以下二五七名 負傷 大尉小川清以下五四六名なり

 

中支方面に於ける行動概要 自昭和12年9月9日至昭和14年7月11日 歩兵第36連隊 より https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111793100 p.18~p.35