Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

樋口一彦 <研究ノート>国際人道法ノート(1)より 2011.9

 国際法に限らず、法はもともと慣習法として存在してきたものが多い。後に、近代になって各法分野において「法典化」が行われてきたのである。特に「大陸法」といわれるものにその傾向が強い。日本においても明治以来その大陸法の継受が行われた。国際法も、学説そして慣習法の形で存在してきたが、戦争法の分野において最も早く「法典化」が実現した。その先駆けとなったものが 1863 年の「リーバー・コード」である。アメリカの南北戦争中にリーバー(Francis Lieber)によって起草され、合衆国大統領リンカーンによって認可されたこの訓令は、国際条約ではないが、当時の戦争法規則の成文化として高く評価されている 。
 戦争法分野の「法典化条約」作成の試みは、1874 年のブリュッセル宣言に始まる。これより前に最初のジュネーヴ条約が 1864 年に、セント・ピータスブルグ宣言(サンクト・ペテルブルグ宣言が 1868 年に作成されているが、包括的な陸戦法の最初の条約作成はブリュッセル会議で試みられた。ロシア皇帝の提唱により会議が開かれ 15 カ国の参加でブリュッセル宣言は作成されたが、すべての政府がこれを拘束ある条約として受け入れるに至らず、批准されなかった。しかし、「ブリュッセル会議は、戦争の法規慣例( des usages et des lois de la guerre)の法典化のために 1874 年までになされた最も重要な試みである。討議の予定された問題には、戦争法のほとんどすべての問題が含まれていた。」1874 年 7 月 27 日に討議が始まり、ロシア軍とロシア外務省関係者により作成された 71 カ条からなる条約草案をもとに検討され、会議によって 56 条文の宣言案となり、8 月 27 日に閉会した。
 このブリュッセル宣言の改訂・条約としての発効は、1899 年のハーグ平和会議で試みられた。軍備制限の検討、新兵器の禁止・制限、1864 年ジュネーヴ条約規定の海戦への適用、紛争の平和的解決手段の利用などとともに、「1874 年にブリュッセル会議で作成されたが批准されていない戦争の法規及び慣習に関する宣言の改訂」がこの 1899 年会議の討議題目とされた。会議において「討議の基礎として 1874 年ブリュッセル会議宣言の条文が用いられた。」

http://hdl.handle.net/20.500.12000/22490

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/22490/1/No86p035.pdf&ved=2ahUKEwj4-amq_97sAhVQ7WEKHYlTDgEQFjABegQIARAB&usg=AOvVaw12aRMTixTdsdp9OeOT9UUL