Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

附録 石井極秘機関 岡村寧次の戦場体験記録から


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陸軍軍医学校の防疫研究室にて(1932年)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%9B%9B%E9%83%8E

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Shiro-ishii.jpg#mw-jump-to-license

 

 石井機関については、私は創設時から終戦後、石井四郎氏の晩年にいたるまで熟知している関係にあるので、本機関の内容史実は、永久に発表すべからざるものと思うが、念のため附録として書き残しておくことにした。

附録 石井極秘機関

 石井機関の創設については、本省では、大臣、次官、軍務局長、軍事課長、医務局長ぐらい、関東軍では小磯参謀長と[参謀副長の]私だけが知っているという極秘中の極秘とし、私だけが直接石井と密会して中央と連絡するということになっていたので、私が独り同機関の現況を知っていたのであった。しかし時日の経過に伴い、現地に秘密機関が現存しているため自然に、その所在を軍内の多くの者が知るようになった、その内容は熟知しないまでも。

 超極秘であったため、私の日記にも一切これに関しては書き留めてないので、記憶をたどって、その概要を述べることにする。

 石井四郎は千葉県の豪農の生れで、頭脳明晰の青年であったらしい。陸軍の委托学生として京都帝国大学に学んだが、石井四郎婦人は当時の京大総長の令嬢であったことからみても、最優秀の学生であったことを証するに足る。

 ときは昭和八年のある月ある日であったと思う。石井研究機関は、ハルピン東南方拉賓線の駅の近い背隠河に設置された。捕えた匪賊の収容所の隣である。機関長の石井軍医少佐には歩兵少佐の被服を着用させ、部下の軍医も階級相当の歩兵科被服を着用させ、下働きの大部分は、石井の郷村から選抜してきた青年で固め、一切の外出を禁止したので、石井はこれら青年に娯楽を与えるのに苦心していた。一ヶ月に一、二回石井は、新京の参謀副長官舎に来て必要の連絡を行った。私が差し出した菓子、果物など一切手をつけず、その代わりその全部を持ち去ったことを憶えている。

 何分モルモットの代りに、どうせ去りゆくものとは云え本物の人命を使用するのであるから、効果の挙がるのは、当然と云えば当然であった。着々と医学的の成果を挙げたがその内容は固より私はよく知らないが、終戦後石井の直接洩らしたところによれば、専売特許的の成果件数は約二百種に上るという。

 しかし、このように驚くべき成果を挙げた原因は、前述の本物試験資材の外、石井の頭脳明晰と熱意と勇気に加えるに、これを補佐した部下軍医の献身的努力に因るものと思う。

 当事者であった軍医大尉二名は、馬疽の実験其他のため殉職した。私は中央の諒解を得て、架空の戦況を設けてこの両名のため殊勲を申請したことをおぼえている。

 石井は、また極めて勇敢で、上司の許可を得て、屢々大戦闘に際し、歩兵の最前線まで進出して、戦死の有様などを撮影した。

 進級のためでもあるが、石井もときどき他の普通の軍務にも従事させられた。わたしが北支方面軍司令官時代にも、 隷下第一軍の軍医部長として山西省に来任した。 このときも本務の傍らその使命とする特別研究を行い、かずかずの成果を挙げた。特に凍傷の治療には、 C三十七度の湯に浸すのが最良の方法であるという結論を得た。これは本物の人体を使用して生かしたり、殺したり、再生させたりした貴重な体験に基づくものであった。しかし何の事実によるか知らないが、これを中央がなかなか採用しないので、私は北支軍限りにおいて、この方法を採用した。例えば討伐に行った歩兵小隊に凍傷患者が出た場合、取敢えず小隊全部の者の小便を集め、患者をこれに浴せしめて初療を完うすることができた。第二期に入り幹部が相当崩れ変形した患者でも、この方法を気ながに採用すれば全治することができた。

 戦後も石井は、多くの問題を残した。

 終戦前というよりも、私が第二師団長として昭和十二年春、ハルピンに着任したとき既にら石井機関はハルピン近郊に相当立派な建物によって存在していた。石井軍医中将は軍医学校教官をも兼務していたので、ソ軍がハルピンに迫り来るに先ち、研究資料のエキスを三個のカバンに容れて、飛行機に乗って帰京し、これを牛込戸山町の自宅に隠匿しておいた。

 終戦後、ソ米両国間に、この細菌戦の権威者たる石井の研究資料に対する激しい争奪戦が起ったのである。満洲に縁故の深いソ聯が、既に石井機関の存在を知っていたのは不思議ではないと思うが、米軍もこれを重視していたのには、その諜報の優秀性を物語るものと思う。

 終戦後のある時、占領軍司令部当局は、連絡官たる有末精三中将に対し、石井四郎軍医中将を連れて来いという。それは戦犯か、利用かと有末が質したところ、後者であるというので、有末は安心して石井を軍司令部に伴った。その後いろいろ折衝があり、石井に金子なども贈与されたこともあったが、結局、右の貴重な三箇のカバンは内容とも、悉く米本国に持ち去られた。その後米国は、押収した陸海軍の文書は大部返還してきたが、この三箇のカバンは遂に還らない。

 ソ聯側の石井に対する研究資料獲得の運動も猛烈を極めた。ソ聯将校の石井訪問は、最初は規定に従い占領軍司令部の係官が立ち会ったが、その後は深夜係官ぬきで石井を訪問する。当時石井は、自宅を以て旅館を経営していたので、来客を拒絶するわけにはゆかない。ソ聯将校は、脅したり哀願したり、資料の一部分でもよいと譲歩したり、あまり頻繁に訪問するので、石井は遂にノイローゼとなって郷里に移住したこともあった。

 米は勿論、ソも最初は、石井を戦犯に指定しなかったが、石井から何等資料を得られないと判明するやソ聯は一般の戦犯裁判から大に遅れて、昭和二十三年秋頃であったが、山田関東軍司令官等、石井機関関係者を戦犯裁判に附したのであった。

 わが医学界でも、伝染病研究所関係者を始め石井の研究を高く評価する者があり、既に結論は出ているのであるから、モルモットその他の動物で再試験して学会に公表すべしと石井を激励してくれる者もあり、石井は将来を楽しんでいたが病死したのは惜しいことであった。

 石井の直接部下であった者で、生活費を求めるため、研究資料を小出しにしていた者もあると石井は申していた。血液の決勝などその例であるという。

 

註 なお、石井ばかりではない。私の関東軍副参謀長在任のとき、某国立大学の外科担当教授二、三名が来訪し、陸軍省の諒解の下匪賊処分のとき、刀を以て首を切ったときの断面を実視したく、またとない好機であるからなるべくば、その機会を与えてくれと、窃かに頼み込まれたので、吉林の部隊に紹介したことがあった。

 

↑《明治百年史叢書》第99巻 岡村寧次大将資料 上巻 ──戦場回想篇──、1970年、原書房、p.387~p.390