Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

信夫淳平『戦時国際法講義』第2巻より 「私服狙撃者(便衣隊)」 1941.11.23

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第三項 私服狙撃者(便衣隊)

常人は敵対行為を行ふ資格を有せず

 822 交戦に従事するを得るものは交戦者たるの資格ある者、即ち前述の正規兵、及び特定条件を具備する民兵義勇兵団、並に民衆軍に限らるるのであるから、その資格を有せざる常人は敵兵殺傷その他敵対行為を行ふの権なく、その権なくして之を行へば、敵軍に捕へらられた場合には俘虜として取扱はれず、戦律犯として重刑に処せらるべく、自国法廷の審理の下に立つ場合には当該法律により処断される。米国の1863年の陸軍訓令には、第82条に「職権を有するに非ず、組織ある敵軍の一部を成すに非ず、又継続的に従事するに非ずして間隔的に自家に戻り家業に従事し、兵たるの性質又は外形を脱して平和的業務者の態様を時に装うが如き、凡そ斯かる人又は隊伍にして、その戦闘たると破壊又は掠奪の為にする侵害たると、その他何等種類の寇擾たると問はず、敵対行為に出づる者は公敵と認めず、随つて之を捕へたるときは俘虜の特権を享有せしめずして、一括的に山賊又は海賊を以て之に擬すべし。」とあるが、他の諸国の国内法規にも同様の規定を有するものが二三ある。

 1870年の普仏開戦と共に軍を仏国の領土内に進めた普王ウヰルヘルムが、檄を仏国民の間に飛ばし(1870年 8 月11日)、普軍の敵とする所のものは仏国の兵にして市民に非ずと高調したることは既に述べたが、この飛檄に関しビスマルクの秘書役のブッシュ(Dr. Moritz Busch)が公の意を体して記したる説

 

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明に、

「国王は戦は仏国の兵力に対して行ふもので、その平和的市民に対し行ふものでないと布告せるが、意は独逸の敵とする所のものは仏帝国で、その共和政ではなく、共和政に対しては独逸は武器を抛つことを義務とする意を含蓄せしめたものである。平和的市民とは云へ、かの自由狙撃隊なるもの及び之が支持者は勿論平和的市民を以て目すべきものでない。抑も平和的市民を優遇するのは、兵士と常人とを絶対に区別し、市民は兵士の義務に属する敵対行為を避止するといふ推定に基くことファッテルよりブルンチュリ及びハーラーに至るまで、総ての国際法学者の一致するところである。兵士の為さざる可らざる所のものは常人は之を為す可らずで、若し常人にして侵入外国人に対し敵対行為に出づるあらば、兵士の権利を獲ざると同時に常人の権利を喪ふのである。兵士は加害行為を為し得ざる状態に陥らば、穏便に取扱はれるべきことを要求するを得るが、常人にして兵士との区別を紊し、その義務なきに敵を殺す者は、死以外に免るるを得ない。常人には俘虜を以て遇するの道なく、宜しく人道のために之を鏖殺すべきである。」(F. E. Smit――後の Earl of Birkenhead――Int. Law, Appendix A, p. 336 に拠る)

とある。辞に多少強調の嫌はあるも、理はまさに然るべきである。

便衣隊とは何ぞ

 823 交戦者たるの資格を認められざる常人にして自発的に、又は他の示唆を受け、敵兵殺害又は敵物破壊の任に当る者を近時多くは便衣隊と称する。彼等は専ら私服を着し(便衣は制服に対する私服を意味する)、凶器は深くポケット内に蔵し、一見無害の常人を装ふて出没し、機を狙つて主として敵兵を狙撃するもので、その行動には多くは隊伍を組まず、概ね個々に潜行的に蠢動するものであるから、隊の字聊か妥当を欠くの嫌あり、私服狙撃者と称するを当れりとすべきが、便衣隊の語は簡であり、且昭和七年の上海事変当時より邦人の耳に慣れても居るし、且彼等の仲間には自ら一種の隊伍を組

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060837/60

 

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めるものと見れば見られぬでもない。故にこの点からして、便衣隊と称すること必ずしも不当ではあるまい。以下便宜この語を襲用する。

普仏戦役に於ける便衣隊

 824 便衣隊の活躍は、近代にありては普仏、南阿米西の各戦役、孰れもその例があつた。殊に之を最も大規模に使用したのは普仏戦役に於ける仏軍であつた。1870年 9 月、仏国に帝政倒れて共和政が成り、ガムベッタの国防政府を主宰するや、彼は謂ゆるゲリラ戦術を全国民の間に鼓吹し、前項に述べたる「自由狙撃者」なるものを編成して之に当らしめた。其の数は最も多きときに約三万七千五百名に達したとある。彼等は正規軍の制服では於ける仏軍であつた。1870年 9 月、仏国に帝政倒れて共和政が成り、ガムベッタの国防政府を主宰するや、彼は謂ゆるゲリラ戦術を全国民の間に鼓吹し、前項に述べたる「自由狙撃者」なるものを編成して之に当らしめた。其の数は最も多きときに約三万七千五百名に達したとある。彼等は正規軍の制服ではなきも、一種異様の制服類似のものを着し、しかも着脱自由とし、敵に見付かれんとするときは急ぎ農夫なり他の常人に化ける。此の「自由狙撃者」以外に「第二徴募の国民軍」なる便衣隊も編成せられた。普仏戦役の始まれる頃の仏国にありては、国民皆兵制は名のみで完全には行はれず、名門富豪の子弟は免役税を払つて入営を免除せらるるの道が開かれてあつた。国民兵役は齢四十歳迄で、之も二種に分ち、第一国民軍は或は戦線に、或は要塞守備に就かせられ、第二国民軍は国内に待機せるが、右の入営免除者は多く之に属したものである。この第二国民軍を今や便衣隊に振替へた。彼等は制服を着せざる全然便意の輩で、官給の銃器弾薬を帯びて多くは森林原野に潜み、随所に出没して敵を狙撃するの任に就かしめられた。

 これ等便意隊は前線にも多少は出没したが、主たる活動は独軍占領地にありて電線鉄道等を破壊し、守備兵を狙撃し、兵站連絡を妨ぐと等、専ら後方攪乱にあつた。独軍占領地といへば、普仏両軍の間に休戦の成れる頃には、仏国領土の約三分の一に亘り、そこに屯せる独軍は歩兵約四十六万五千、騎兵約五万六千

 

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を算したるも、多くは前線に在りて、その中の歩兵約十万、騎兵約五千七百が専ら占領地守備兵として兵站線その他後方の警備に当つたものである。仏国領土の三分の一といへば約十八万四千平方粁となるが、この広域に対し歩騎兵合して約十五万では、一平方粁を守備するに平均一名弱の割合であるから、便衣隊が後方を攪乱するのは格別六ヶしくなかつたであらう。故に便衣隊に依る独逸占領軍の被害の相当に大なりしは想像すべく、ただ占領軍は之に臨むに最重刑を以てし、殊に犯人を出したる都市村落には連座的に苛重の罰金を課し、又は之を焼払ひ、住民には一切武器の所有を禁じ、武器を手にする常人を見れば直ちに容赦なく銃殺する高圧手段に出でたので、都邑自身も管内より便衣隊を出しては大損といふことに気付き、自然進んで之を抑止するやうぬり、是と共に便衣隊の出没も漸次衰ふるに至つた。

日露戦役に於ける便衣隊

 825 日露戦役に於ても、その末期に皇軍が薩哈嗹を占領した折、ウラヂミロフカ邑には制服を纒はず指揮者もなく、普通の村民と識別し難き軍が村民の間に伍し、或は猟銃やピストルを放ちて我兵を狙撃し、或は鎗や斧を手にして山野に待伏せするなど、まさに露国式の応揚な便衣隊があつた。我軍の之を捕へたるもの百六十を算し、中にありて情状の重きもの百二十名は、交戦法則の許さざる、即ち交戦者たるの資格なきに敢て交戦行動を執りて我軍のに敵抗したとの理由の下に、軍事法廷に於て之を銃殺の刑に処した。

 しかも日露戦役の初期に於て露軍に捕へられて壮絶な最期を遂げたる我が横川、沖の両志士も、その性質に於てはやはり便衣隊であつたのである。勿論両志士の行動は憂国の至情赤誠に出でたる真に敬服すべきもので、専ら金銭で働く日雇いの支那式便衣隊とは発端に於て雲泥の差あること論を俟たぬぬが、法的性質に於ては均しくこれ便衣隊たるを失うかもはない。露軍の両志士を銃殺に処したのは間諜と認めたが故と記せる文書もある

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060837/61

 

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が、これは誤つた見方である。当時露軍にして果たして爾く判断したものとせば、そは誤断である。間諜の一条件――最も主要の条件――は情報収集、敵情偵察にある。然るに両志士の目的は鉄道破壊にあつた。敵情をも偵察する考も或はあつたであらうが、そは副たる任務で、主たる使命ではなかつた。鉄道破壊は敵対行為の一種で、それを交戦者たるの資格なき者が行へば便衣隊を以て論じ、戦律犯に問ふて概ね銃殺に処する。両志士の千古に伝はる忠烈義勇は別とし、その行動を法的に見れば、間諜ではなくして便衣隊たるものである。

昭和七年の上海事変支那便衣隊

 826 近代にありて最もうるさい便衣隊の出没を見たのは昭和七年の上海事変の際であつた。この事変の勃発したる当時、我が海軍陸戦隊の歩哨兵、通行兵、その他在留にして支那便衣隊のために不測の危害を受けた者は少なからずあった。彼等の中には学生あり、労働者あり、将た正規兵の変装せる者もありて、その或者は常時主として皇軍に対抗せる支那第十九路軍の指揮を直接に受け、或はその傍系に属し、或は軍外の特定団体の指嗾の下に行動するが如く、その系統は一様ではなかつた。該事変の初期に於て活躍したる便衣隊中には(一)十九路軍の下に行動するもの、(二)之と離れ各種抗日団体に参加して随時便衣隊の行動を執れるもの、(三)抗日団体には関係なく独自に同志相寄り便衣隊を組織せるもの、(四)隊を組織しないで独立独歩の行動を為せるもの等種々あつた。又右の(一)の中にありても、十九路軍幹部の直属の者、特定部隊に分属の者、軍所属には非ざるも軍の区処を承くる一種の義勇兵的のもの(例へば左傾学生及び及び労働者にて編成し便衣の儘正規軍中に混じて戦闘任務に服したる救国義勇軍と称せるものの如きで、これは殊に多く、実に七八千からありしと聞いた)、斯くその種類は一様でない。中には、必しも抗日団体とは云ふべか

 

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らざらんも、青幇[チンパン]その他種類の諸団体に属する臨時雇の便衣隊もあつた。青幇とは上海に於ける右傾的の、寧ろゴロ的の政治団体で、黄金栄、杜月笙、張蕭[→嘯]林などいふ侠客肌の親分その采配を取り、無頼者を麾下に抱羅し、賭博場や阿片窟を縄張りにそのカスリを取りて大名生活を為し、労働者を顎で指揮して隠然上海の裏面に君臨する梁山泊の集団である。青幇に対し紅幇[ホンパン]といふ大体似たやうなものもある。これ等臨時雇の給与は勿論一様でなく、日雇的の者にありては日当四五元のものもあり、或は銃の放射一発幾らといふ風に打殻の持参者にその数に応じて若干額を支給するのもあつたと聞く。

 上海事変の末期に同地にて彼我両軍首脳者間に開かれたる停戦会議に於て、我方は支那側の敵対行為停止に便衣隊の行動をも含むの意を明かにせしめんとしたるに、支那委員は中国軍隊には便衣隊なるもの無しと論じてその存在を否定した(昭和十二年三月二十六日の会議)。けれども斯かる否認の甚しき虚偽であつたことは反駁する迄もなかつたことで、現に我軍が戦場にて鹵獲したる十九路軍の六十一連隊所属の一中隊長の日誌に、便衣隊の活動すべき方面、便衣隊員の支那哨兵との間に用ゆべき合言葉等が麗々と記入されたのがあつた位である。故に便衣隊が夙に支那軍隊の董督の下に立つて活動したことは疑ふの余地なく、その存在を否認するなどは余りに空々しく思はれた。

支那事変に於ける便衣隊

 827 降つて支那事変にありても、上海方面には当初は便衣隊の出没は相当にあつたが、前回の事変の時ほど甚しくはなかつたやうである。然るに支那軍の敗績に敗績を重ぬるに及び、蔣政権は潜に、いや寧ろ公々然と、ゲリラ戦術に依りて後方攪乱に大に努力すべき命を下した。されば我が占領地域内殊に中支各地にありては昼は尋常の農夫や労働者を装ふ輩が夜は銃を手にして皇軍の比較的手薄の方面に襲撃を試むる

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060837/62

 

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こと屡々あり、その一部は上海の疎開内に巣を構へ、我が軍人及び常人、将た支那新政権の要人に或は短銃を放ち、或は手榴弾を投ずるの凶事を演じたることは頻々報道せられた所である。

西班牙内乱戦に於ける同上

 828 支那事変と略々時を同うし、西班牙の内乱戦に於ても便衣隊の活動は相応に伝へられた。殊に同内乱の二周年を迎へたる1938年の 7 月、共和軍の政治委員長ヘルナンデス(Gen. Jesus Hernandez)は、ヴァレンシアより管下の民衆に訴へたるラヂオ放送に於て「フランコ軍の当市への進軍は重大なる脅威を当市に与へつつある。我が民衆は、その鋤を田野に操る者たると工場に働く者たるとを問はず、悉く兵たるの心得を有すべし。今日は最早や従来の意義に於ける常人は存在しない。男女老幼共に悉く銃を手にして護国の任に当るを要す。」と力説した。これは管下に謂ゆる民衆軍の蜂起を促す勧告であつたか、将た民衆を挙げて便衣隊たらしむる命令であつたか詳ならざるも、蓋し後者で蓋し後者の意味であつたかと読まれる。この命令が如何なる程度に実現せられたかは承知せぬが、要するに何れの国も戦局不利とならば、兎角に力を便衣隊に元むるやうになるものと見える。

便衣隊は間諜よりも性質が悪い

 829 要するに便衣隊の出没は、古来累次の戦を通じ戦場附近又は広報地域に殆ど之を見ざるはなく、別して都市その他重要地方が侵入軍に奪はれ、戦局悲運を告げ、殊に正当政府が敗竄し事実的に崩潰するに至ると、残兵は侵入軍の後方に出没して余喘を謂ゆるゲリラ戦術の上に示すこと珍しくない。必ずしも正当政府が崩潰した後とは限らず、優勢の侵入軍に対して劣勢の国防軍は便衣隊を、使嗾して鉄道橋梁等の破壊、兵站線の襲撃、その他凡ゆる後方攪乱の挙に出でしむること屡々ある。便衣隊なるものは大体斯の如きもので、概言するに、即ち前に述べた横川沖両志士の如き真個に憂国の至情に出でたるものは別とし、その性質に於 

 

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ては間諜よりも遥に悪い(勿論中には間諜兼業のもある)。間諜は戦時国際法の毫も禁ずるものではなく、その容認する所の適法行為である。ただ問題は被探国の作戦上に有害の影響を与ふるものであるから、作戦上の利益の防衛手段として戦律犯を以て之を論ずるの権を逮捕国に認めてあるといふに止まる。 然るに便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戦法則違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正当防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦律犯に問ふこと固より妨げない。

常人の墜落敵機操縦士の殺害

 830 常人が敵を殺傷することはことは、従来は主として便衣隊としてのことであるが、今日及び今後にありては、空戦に従事する者が敵地に墜落し、それを敵地の常人が敵愾心の余りに殺害する場合の起ることもあらう。第一次大戦中の或時、巴里の郊外に墜落したる独逸航空来の操縦士にして仏国の労働者に殺された例めある(1914年 9 月8 日)。これは該操縦者が先づ拳銃を放つたが故とあり、果して然らば自業自得と論じ得べけんが、仮に操縦者よりの挑発あるに非ずして常人が之を殺傷すれば如何。

 之に関しては「仮に独逸の軍用航空機にして機械に故障を生じて英国内に着陸したとし、その場合に同機の乗員を常人又は兵が殺害することは適法なりや。」との質問的寄書が1917年 6 月19日のデイリー メール紙に出た。而して翌日の同紙には「王室顧問弁護士」(“King's Counsel”)の名に於て左の答書が掲げられたとある。

「英国の法律の下にありては、理論的には、英国の交戦中は凡そ兵は何時にても国王の敵を殺害するを得るのである。上官現場に居らば、兵はその指揮を受くるを要する。常人の場合も、英国法の関する限り、兵のそれと同一なり

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060837/63