Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

今村均回顧録より 『満州問題解決方策の大綱』と満州事変 1931.7~9

第三部 陸軍の中枢部に

   満州事変(参謀本部作戦課長)

 昭和五年の八月から六年七月までの一年間、陸軍省軍務局長内課長のひとりとして、兵役義務者待遇審議の仕事に没頭し、それが一段落をみたので、上司に対し、歩兵連隊長の職に充てられたい旨をお願いしてみた。当時宇垣大将は、朝鮮総督に転じ、南大将が陸相となっており、杉山中将は次官、小磯少将が軍務局長になっていた。すると、七月中旬、小磯局長が、

「審議会のほうで頭をつかったので、野外の勤務に気を転じたい気持はわからんことはない。が、だんだん深刻になってくる満州の排日行動に、何とか対処の途を講じなければならず、数ヶ月前から参謀本部の首脳者と協議の上、大綱の策案を立ててみた。それを基とし、陸軍としての具体的細目計画を立案する必要上、参謀本部は建川情報部長を作戦部長に廻し、君をその下の作戦課長にしたいといって来て、大臣、次官ともに同意してしまった。永田軍事課長も、君となら手を握りあって細目計画を樹て得ると熱望している。連隊長に出る時期を失なわせることは気の毒だが、ひとつ満州問題なの解決に努力してほしい。発令は八月一日のことになっている」

 こう内意を示された。

 私は、過去の一ヶ月間、各省次官以下の人々や衆参両院議員の幾人かと合議の仕事にたづさわり、私の如きは、政策めいた仕事には、不適当であると自覚しており、作戦のことは、軍人として、その本務に属するから、ふるってこれに当るべきだが、満州問題の如き大きな仕事は、陸軍省、外務省、とくに関東軍と頻繁な交渉を必要とし、満州の知識に乏しい私のなし得るところではないと考え、言葉をつくして、他の適材をその職に充て、やはり私を、中央より部隊に出してもらいたいとお願いしてみた。

「それなら、もう一度、大臣や次官に君の考えを伝え、参謀本部とも折衝してみよう」

 局長は骨折ってくれたが、どうしても参謀本部の同意が得られず、永田軍事課長(後の中将、二、二六事件前暗殺に遭われた人)は、直接私のところなかやって来て、

満州問題はそれこそ命がけの仕事だ。いっしょにこれに当る人のえり好みは避くべきだが、気心の知れている者同志なら遠慮なく意見も披瀝し合えるし、又力もあわせ得る。僕自身としても、外部の関係各所と折衝することなどには不向きと思っているが、難局を避けるのは、卑怯にもなる。君も進んで難局に当ってくれないか」

 真剣に説かれ、遂に分不相応な職を引受けることになってしまった。

 八月一日発令直後、参謀本部に出頭し、上司に就任の申告をした。総長は金谷範三大将、次長は二宮治重中将(後の大臣)作戦部長は建川少将(後の中将、ソ連駐在大使)であった。

 その日建川部長から「満州問題解決方策の大綱」という、五、六枚の書類を手渡され、

「これは、省部の局長部長以上の合同協議でまとまった要綱だが、研究の上、いかに、これを具体的に進めるかを、政策上のことは、永田課長のところで、作戦上のことは、君のところで立案し、それを部局長会議に出し、その検討に供するようにし給え。着任早々だが、八月いっぱいにそれを作りあげ、九月早々の会議で審議されるように準備したまえ」

 このように要求された。

 その日の日中は、関係各方面の挨拶廻りをし、夜分自宅で、関係上官たちの作られた「満州問題解決方策の大綱」をくりかえし、くりかえし読みつづけ、大臣総長の意のあるところを十分に諒解することが出来た。私は上司の人々の慎重な態度に敬服し、これならやれないことはあるまいと感じた。今なお記憶に残っているものは、次のようなもねである。

一、満州における張学良政権の排日方針の緩和については、外務当局と緊密に連絡の上、その実現につとめ、関東軍の行動を慎重ならしめることについては陸軍中央部として、遺憾なきよう指揮につとめる。

一、右の努力にもかかわらず、排日行動の発展を見ることになれば、遂に軍事行動の已むなきに到ることがあろう。

一、満州問題の解決には、内外の理解を得ることが、絶対に必要である。陸軍大臣は、閣議を通じ現地の情況を、各大臣に知悉せしめることに努力する。

一、全国民、とくに操觚界(ジャーナリズム方面)に、満州の実情を承知せしめる主業務は、主として軍務局の任とし、情報部はこれき協力する。

一、軍務局と、情報部とは、緊密に外務省関係局課と連絡の上、関係列国をして、満州で行われている、排日行動の実際を承知させ、万一にもわが軍事行動を必要とする事態にいたったときは、列国をして、日本の決意を諒とし、不当な反対圧迫の挙に出でしめないよう周到な工作案を立て、予め上司の決裁を得ておき、その実行を順調ならしめる。

一、軍事行動の場合、いかなる兵力を必要とするかは、関東軍と協議の上、作戦部において計画し、上長の決裁を求める。

一、内外の理解を求むるための施策は、約ヶ一年即ち来年春までを期間とし、実施の周到を期する。

一、関東軍首脳部に、中央の方針意図を熟知させ、来たる一年間は隠忍自重、排日行動から生ずる紛争にまきこまれることを避け、万一にも紛争が生じたときは、局部的に処理することに留め、範囲を拡大せしめないように努めさせる。

 満州問題に対する陸軍中央の方針は、右の通りであり、関東軍参謀長三宅光治少将は、去月、内密に東京に招致され、右の指令を、本庄司令官に伝達するよう命令されているとのことも、建川少将から聞かされた。
 私の任務は、万一、軍事行動を必要とするに至った場合、これに応ずる兵力運用を関東軍と連絡の上で計画することにあったが、私が安心したのは、陸軍中央の二長官以下の首脳部が、満州の実情即ち日清日露の両戦役で幾万先輩の犠牲によって得られた正当権益が、南京及び奉天の両政権によりいかにみじめに蹂躙され、幾十のわが外構機関の抗議折衝が、張政権によりまったく顧みられず、在満日本人の居住、営業、生命財産に対する圧迫は、日に日にその度を加え、満鉄さえその経営が困難に陥ってしまっていることを、全国民に、又列国に了解せしめた上で、はじめて強攻策に転ずることにし、これに一年の日子を費やそうとしている周到さであった。

 指示された一ヶ月間で、万一の場合に応ずる用兵計画を立案し、建川作戦部長の同意を得た。この計画で、私が最も大きな関心を払ったのは、満州における用兵時、北方よりするソ連邦の実力行動に対し、わが防衛に遺憾なからしめる準備の確率にあった。この点、即ちソ連邦をして起つことなからしめるためにも、列国の諒解を得てからの解決を、絶対必要と痛感したものである。

 右計画を次長、総長に報告。金谷総長は、その大体の構想を南陸相、杉山次官に説き、大きな反対はなく、結局これをもととして、関東軍と連絡をはじめようとしている時、満州事変は勃発してしまった。

 

↑『今村均回顧録』、1970年、芙蓉書房出版、pp. 187―189