Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

極東国際軍事裁判所 判決 第8章 通例の戦争犯罪 戦争、広東と漢口に拡大 1948.11.1


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 極東國際軍事裁判所

   判   決

     B部

     第八章

通例の戰爭犯罪

 (殘虐行爲)

          英文 一〇〇一〜一一三六

          一九四六年十一月一日

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  戰爭、廣東と漢口に擴大

 一九三七年十一月十二日に上海が陷落し、松井が南京への前進を始めたときに、蔣介石大元帥のもとにあつた國民政府は、その首都を放棄して重慶に移り、中間司令部を漢口に設置して抵抗を續けた。一九三七年十二月十三日に南京を攻略した後に、日本政府は北平に傀儡政府を設立した。
 この占領地區の住民を『宣撫』し、かれらを『皇軍に賴らしむべく』、また中國國民政府を『反省』させようという計畫は、上海と南京で採用され、南京で松井によつて布告されたものであるが、それは旣定方針を示すものであつた。一九三七年十二月に、京漢線の邢台[シンタイ]縣に駐在した日本の一准尉の指揮す


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憲兵隊は、中國遊擊隊の容疑者として、七名の一般人を逮捕し、三日の間これを拷問し、また食物を與えず、それから樹木に縛りつけ、銃剣で刺殺した。この軍隊からの兵たちは、これより前の一九三七年十月に河北省の東王家村落に現われ、殺人、强姦及び放火を行い、住民二十四名を殺害し、同村の家屋の約三分の一を焼き拂つた。王家坨という同省のもう一つの村落も、一九三八年一月に、日本軍の一部隊におそわれ、一般人である住民四十名以上が殺された。
 上海周邊地區の住民の多くは、南京とその他の華北の地方の者と同樣な憂目を見た。上海で戰鬪が終つた後に、上海郊外の農家の焼跡で、農民とその家族たちの死体がうしろ手に縛られて、背に銃劍の傷


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跡のあるものを發見した目擊者がある。松井の部隊は、南京への進軍中に、村落をあとからあとからと占據して、住民の物を掠奪し、かれらを殺害し、恐怖させた。蘇州は一九三七年十一月に占領され、進擊中の軍隊から逃げなかつた多數の住民が殺された。
 畑の部隊は、一九三八年十月二十五日に漢口に入り、この市を占領した。翌朝捕虜の大量虐殺が行われた。日本兵は税關埠頭に數百名の捕虜を集めた。それから、一度に三、四名づつを小さい組にして選び出し、河の深いところに突き出ている棧橋の末端まで行進させ、そこで河の中に突き落し、さらに射擊した。漢口前面の江上に碇泊していたアメリカの砲艦から目擊されていることを知ったときに、日本人はそれをやめ、違つた方法をとつた。かれらはい


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ままで通り少數を組にして選び出し、小艇に乘せて岸からずつと離れた方へ連れて行き、そこでかれらを水中に投げ込み、そして射殺した。
 中國の海南島の博文市で虐殺事件が起つたのは、第三次近衞内閣のてきであつた。一九四一年八月の討伐作戰中に、日本海軍の一部隊が抵抗を受けずに博文を通過した。その翌日、部隊の分遣隊が博文に引返したときに、死後數日間經過したと思われる日本海軍の一水兵の死体を發見した。その分遣隊は、この水兵が博分の住民によつて殺害されたものと想像して、住民の家屋と町の敎會を燒き拂つた。かれらはフランス人宣敎師と土民二十四人を殺し、その死体を燒き拂つた。この事件は重要である。なぜなら、この虐殺の報道は廣く知れ渡つたので、閣僚


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やその下僚は、日本の軍隊がいつも用いていた交戰の方法について知ったはずだからである。海南島における日本占領軍の參謀長は、陸軍次官木村にあてて、一九四一年十月十四日に、この事件の詳細な報告をした。木村は、參考のために、直ちにその報告を陸軍省の關係各局に回覽し、それからこれを外務省に送つた。これは陸軍の内外で廣く回覽された。
 日本陸軍の戰爭遂行の殘忍な方法が依然として續けられたという一例は、滿洲國にあつた梅津の軍隊の一分遣隊の行動に現れている。それは皇帝溥儀のもとにある傀儡政權に對するあらゆる抵抗を鎭壓するための作戰中のことであつた。一九四一年の八月のある夜に、この分遣隊は熱河省の西土地を襲つた。かれらは同村を占領し、三百以上の家の家族を


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殺し、全村を燒き拂つた。
 廣東と漢口の占領のずつと後でさえも、作戰をさらに奥地に進めている間に、日本側は同方面で大規模な殘虐行爲を犯した。一九四一年の末ごろに、日本軍は廣東省惠陽に入城した。かれらはほしいままに中國の一般人の虐殺にふけり、老幼男女の差別なく、銃劍で突き殺した。銃劍で腹部に傷を受けながら生きのびた一人の目擊者は、日本軍が六百四名の中國人を殺戮したことについて證言した。一九四四年七月に、日本軍は廣東省の台山縣に到着した。かれらは放火、强奪、殺戮、その他の數々の殘虐行爲を犯した。その結果として、五百五十九軒の店が燒かれ、七百名以上の中國の一般人が殺された。
 漢口から兩地方へ長沙に向つて、日本軍は戰鬪を進


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めて行つた。一九四一年九月に、第六師團の日本軍隊は、中国人捕虜二百人余を强制的に使つて、彼らに大量の米、麥、その他の物資を掠奪させた。日本軍は反轉するときに、これらの犯罪を蔽い隱すために、かれらを砲擊によつて虐殺した。日本軍は長沙を占領した後に、同地方の到るところで、殺人、强姦、放火及びその他數々の殘虐行爲をほしいままに行った。それから、廣西省の桂林と柳州へ向けて、さらに南下した。桂林を占領している間、日本軍は强姦と掠奪のようなあらゆる種類の殘虐行爲を犯した。工場を設立するという口實で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を强制した。一九四五年七月に、桂林から撤退する前に、日本軍隊は放火班を編成し、桂林の全商業區域の建築物に放火した。

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307600 180~183/303

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08071307600、A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163)(国立公文書館

 

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9884867/1/13

極東國際軍事裁判所
  判   決

     C 部
     第八章

 判   定

 

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9884867/1/24

    畑 俊六

 畑は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。

 

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9884867/1/25

  戰爭犯罪

 一九三八年に、また一九四四年まで、畑が中國における派遣軍を指揮していたときに、かれの指揮下の軍隊によつて、殘虐行爲が大規模に、しかも長期間にわたつて行われた。畑は、これらのことを知つていながら、その發生を防止するために、なんらの措置も取らなかつたか、それとも、無關心であって、捕虜と一般人を人道的に取扱う命令が守られているかどうかを知るために、なんらの方法も講じなかつたかである。どちらの場合にしても、訴因第五十五で訴追されているように、かれは自己の義務に違反したのである。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第五十五について、畑を有罪と判定する。訴因第三十五、第三十六及び第五十四については、かれは無罪である。

Judgement, IMTFE Part C (Chap. 9 [-10]) (文書名:GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section = 連合国最高司令官総司令部国際検察局文書 ; Miscellaneous International Prosecution Documents Used as Background in Preparation for the IMTFE, 1940-48) https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9884867