Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

【工事中】内田良平 著『皇国史談 日本の亜細亜』より「日韓合邦」 1932.12.10発行


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  日韓合邦

満洲は日本が没収すべきであつた》

 日露戦争の結果、我が国は韓国に於ける優越権と、満洲に於ける露西亜の敷設せる南満鉄道、並に大連旅順の租借権、及び樺太半部を割譲せしめしのみにて、満州の領土は清朝に引き渡してやつた。当時若し露清間に攻守同盟の密約があることを知つて居たならば、決して満洲清朝に返す必要はなかつたのである。如何となれぱ、支那は日露

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開戦の責任国であり、且つ露西亜と攻守同盟せる敵国なれば仮令軍事行動を為さずとするも、其の不義を攻め、満洲を没収すべきであつた。

《日本志士の計画》

清国は日本軍が破竹の勢を以て露軍を撃破したる威力に恐れ、中立を宣言して形勢を窺つて居たに過ぎず、若し日本軍が遼陽作戦或は奉天戦に失敗して居たならば、必ず露軍に応じ、日本攻撃に参加したに相違ない。日本の志士は、予め斯の如きことあるを期し、六年前より計画する所があつたので、清国政府が露軍に参加したる場合は、直に革命の火蓋が切らるることになつて居たのである。惜哉、露清密約の内容が攻守同盟なりしこと未だ世に知られず、清国政府も軍事行動に出でざりし為め、孫文の挙兵計画も延期せざる可からざることとなつたのである。此の間の事情は後段支那革命の条に説くこととする。

 抑も日露戦争の端は日清戦争に発し、日清戦争の端は朝鮮問題より起り、日露戦争も亦た朝鮮に関する処、重且つ大なるものがある。東洋発乱


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の禍根が常に朝鮮に在りしを以て、日露講和条約の成立するや、

《日韓の新協約と統監府の創設》

伊藤博文全権大使となり、三十八年[1905]十月京城に到り、日韓新協約を締結し、韓国の外交権を我が国に収め、内政も亦た我が指導に従はしむることとし、韓国統監府は創設せられ、伊藤博文は統監となつて赴任することとなつた。統監府は昔の任那府が三韓を統督せし如きもので、天智天皇の時代に於て任那府を撤退せしより、千二百余年にして祖宗の盛時に復旧したのである。伊藤統監は韓国の外交を行ひ内政の指導をなし、諸政の改革に着手せられたが、

《統監政治の困難》

数百年の積弊を除くは容易の業にあらず、韓国の内閣は容易の業にあらず、韓国の内閣は主権者と指導者の二頭を戴き、此の間に在つて進退両難の場合少なからず、宮中の雑輩は陰謀のみを事とし、統監の指導を妨げ、頑固の徒輩を煽動して内乱を起こさしむる等、奸計至らざる無き有様であった。然れども伊藤統監の威望は韓国の上下に重く、宮中の粛清を行ひ、指導啓発に全力を灌いで居られた。

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《日韓合邦の端緒となりし一事件》

 時は明治三十九年九月、極めて小なる一事件が起つた。而も夫れが日韓合邦の端緒となり、日韓一家を実現せしむる発芽となつた。其の事件と云ふのは、百万人の党衆を有する韓国唯一の大政党たる一進会の領袖宋秉畯なるものが、突然警務庁に拘引せられ、次で投獄せられたことである。宋の拘引は罪人隠匿罪と称するのであつて、実は投獄するにも当らない程の関係のことであった。宋の隠匿したとする罪人は、韓国皇帝の信用厚く智謀測る可からざる怪人物として知られた李逸植であつた。李逸植なるものは、嘗て洪鐘宇をして日本に亡命せる金玉均を上海に誘殺せしめ、自ら朴泳を生擒して朝鮮に送らんとし、発覚して日本を追放せられ、日清戦後、露西亜の勢力を韓国に導き、之に依つて李完用等を頤使し、皇帝を露西亜公使館に潜幸せしめた元凶である。日露開戦に及び、日本の歓心を得て身を完ふせんと欲し、予て親交ある京釜鉄道会社社員守部虎壽なるものの宅に来り、自己の本心


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が決して親露に非ざることを陳弁し、将来日本の為めに力を尽さんとする旨を誓つたので、

《李逸植利権を掲げて日本に接近す》

守部は之に答えて「弁解よりも実行なり。君にして親日の誠意あらば其の実を示せ」と云つた処、彼は諾して去り、皇帝の勅許を得たる二十余種の利権を持つて来た。此二十余種の利権は韓国に於ける重要なる鉱山、漁業、山林、未墾地等の一切を網羅して居るのであつて、殆んど韓国利権の大部分を日本に与へんとするものであった。守部は余り利権の大に過ぐるに驚くと共に、

《韓皇と李逸植との関係》

韓国の親露政策が皇帝と李逸植の合作に出て居り、李逸植の保身は皇帝の保身と連帯関係にあつて、恐怖心も共通せるが故に、斯の如き利権を勅許せられたるものなるを知り、之れは無名の守部如きが取り扱うべきものにあらず、天下に認められたる人格者に托して之を処置せしめざる可からずとなし、押川方義、巌本善治に委托したるも、我が公使の反対する所となり、李逸植は遂に玉璽を盗用せるものとしてその罪に問はるることとなり、

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統監府の創設されし頃、裁判確定して流刑に処せられ、未だ刑の執行を受けずして自宅に居たのである。

《宋秉畯投獄の経緯》

 馬鹿を見たのは李逸植であつて、得難き利権の勅許を得、之を日本人に与へて却つて日本公使の抗議に遇ひ、それが為めに罪を得て流人とならなければならぬ破目に陥入つたのである。併し窮境に処して尚ほ智術に窮せざる彼は、偶々政敵宋秉畯が日本人の経営する清華亭といふ料亭に遊べるを窺ひ知り、突然其の席に入つて救済を求めた。宋はこの窮鳥に飛び込まれて我が家に伴い帰つた為め、罪人隠匿罪に問わるることとなつたのである。未だ刑の執行を受けず自宅に在つた逸植が、宋の宅に二日や三日居たからとて、日本に対し尠なからざる功労のあつた宋秉畯をむざむざ投獄せしめたる如きは、裏面に李逸植問題以外何事か伏在して居らなければならなかつた。果せる哉、それは統監府の刑務部長及び韓国警務顧問府が、一進会を崩壊せしむる方針と、


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平常反目せる憲兵隊長小山某を陥れんとする陰謀を策し、宋と小山とが親交ある故、宋を捕えて証拠を握るべく計画したものであった。

東学党一進会の歴史》

 一進会日清戦争の動機となつた東学党の変形したもので、東学党儒教、仏教、道教を究極した総合的の教を立てた宗教団体であつた。東学と称した所以は、西洋の学に対する東洋学の意味より名付けられたものの由で、崔済愚と云ふ人が此の教を開いたのである。然るに開祖は邪教人を惑わすと云ふ廉にて、大邱府に於て斬殺せられ、高弟の崔時享が其の後を継ぎ、明治二十六七年頃には十万の教徒を作つて居た。其の教徒が積年の虐政に堪へかね、国王に訴願したのが発端となつて騒乱を起し、遂に大乱となつて全羅道全部及慶尚、忠精両道の一部も東学党軍に響応するもの多きに至つた。其の首領全琫準と云ふ傑物で、

《天佑侠の志士東学党を援く》

日本の志士十四名は天佑侠と称して東学党軍に投じ、彼等を援助して居た。後、日清戦争となり、日本が朝鮮の政治を指導

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するに及び、東学党は対外事情に暗き為め、誤つた行動に出づることとなつた。彼等は最も憎悪せる閥族政治が少しも改められず、日本人は閥族を擁護して人民を擁護せざるものと誤解し、再び兵を挙げたが、日本守備兵の為めに撃破せられ、全琫準は傷いて捕はれ、朝鮮政府は之を機として東学党の全滅を計り、数万人を殺戮した。崔時享も捕へられて刑死し、高弟孫秉凞は上海に逃れ、李容九は江原道より咸鏡道に入り、東学党を改めて天道教と称し、懸命に布教した結果、明治三十七年頃には五十万人に達する信徒を得て居た。

《宋秉畯と李容九の提携》

 日露開戦となるや、亡命して永らく日本に在留して居た宋秉畯は、長谷川軍司令官付通訳官と云ふ名義にて京城に帰つた。宋は韓国政府が日韓同盟協約を結びながら、首鼠両端を抱き、露国に志を通ずるもの多きを見て之を慨し、旧独立協会の残党を集め、維新会を組織せしめ、日韓同盟の実を挙げんと計画し、李容九と提携することとなつた。斯く


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て李容九は天道教徒を提げ進歩会を組織し、両派合同して一進会と改称し、断髪するを以て会員章とすることとなし、

一進会の活動と其貢献》

旧弊打破に邁進し、頑迷なる官吏と闘ひ、一面に於ては北韓輸送隊を編成して日本軍の咸鏡道に於ける軍事行動を援助し、又た六万四千七百人の会員を発して京義鉄道の工事速成を援助せしむる等、偉大なる実力を示した。日露戦後、伊藤全権の京城に来り新協約を締結せんとするや、韓廷は容易に之を許諾しなかつたが、一進会は其際裏面から成立に援助した。元来一進会は、韓国の階級制度、即ち文武両班の出にあらざれば文武の官途に就くを得ず、官吏は終身官にて、現官を辞するも地方に於て人民を搾取し、不法の権力を振つて人民を納税機械の如くに扱い、牛馬の如く使役する悪制度打破せんと欲し、東学党の前身時代から闘争し来ったものであるから、

両班階級の策謀》

韓国政府並に両班階級の者は、之を悪むこと蛇蝎の如く、機会あらば一進会を倒さんとして居たのである。斯の如き際に統

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監府が創立せられ、統監府員が韓国政界の事情に頗る疎きものあるに乗じ、彼等は盛んに一進会誹謗の宣伝をなし、遂に統監府員をして、韓国指導上妨げとなるものは一進会にあらずやとする懸念を抱かしむるに至つた。一進会にとりては不利なる空気の漂へる折しも、小山原平隊長に対する警務部の陰謀と李逸植問題とが起つて、宋秉畯は投獄せられたのである。此時一進会の有力なる幹部連は、創立以来大運動に要した党費を拠出して既に家産も蕩尽した後であり、一方宋秉畯の奇禍により、政敵の悪宣伝が盛んに行はれる有様で、地方党員の動揺漸く甚だしく、従来毎月五銭(日本貨の二銭五厘に当る)の党費を徴収して、半額は支部費に充て、半額は本部費に納入せしめ、其額六七千円を下らざりしものが、忽ち半減以下となり、財政的にも大危機に陥るに至つた。

 著者は天佑侠同志中の一人として、東学党に投じていたこともあり、韓国問題に就いては古き関係があるの故を以て、伊藤統監より招聘


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を受け、一嘱託となつて帷幕に参して居たのであるが、宋秉畯事件起こるや、一見小事件の如くして実は容易ならざる大事件なるを認め、窃かに統監に向つて説く所があつた。

《韓国指導の妙諦》

其の意見は、「統監にして韓国指導の目的を達せられんとするには、親日、排日の両派を駕御して統監の信用を得べく競争せしむる所に指導の妙諦あらんも、今、親日一進会を滅ぼして、親清派より親露派となり排日派と変化して来れるもののみを存在せしむるに至るは策の得たるものに非ざるべし」と云ふにあつた。統監は頗る之に同意せられたるを以て、

《日韓合邦史上の記念すべき重要会見》

九月二十六日、一進会に関する報告書を提出し置き、一進会会長李容九を招きて、「日韓の将来に対しては如何に考へらるるや。其目的にして一致するに於ては、宋秉畯の奇禍を救ひ、併せて一進会を援護せん」と延べしに、李容九は「自分の意見は丹方氏の所謂大東合邦にある」と答へた。

《樽井藤吉の大東合邦論》

丹方氏とは大和の人、樽井藤吉の雅号で、樽井は大東合邦論を著はし、「東方諸国力を一にして、

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西力に対抗すべき亜細亜連邦を結成すべし」といふ意見を発表したのであった。李容九は日進戦後、日本視察に来た時、此の書を得て深く共鳴したので、今、此の言を発したのである。予て樽井と親交ある著者は、李容九の言を聞いて直にその意を解し、大に喜んで「亜細亜連邦を成就するには先づ日韓連邦の一家を実現し、諸国をして之れに倣はしめねばならぬ」と云ふと、

《李容九日韓合邦の志を述ぶ》

李容九は「勿論」と答へ、著者が重ねて、「宋秉畯を始め一進会百万の大衆が之れに同意すべきか」と問ふと、彼は「一進会員は天道の宗教を奉じて居る。天道を行ふに当り、一人の異議あるべきものにあらず。況んや宋秉畯の志も亦た此の大業に在り。之4を達成する為めに吾人と血盟して居るのであるから、宋を失ふは大業建設の技士を失ふも同然なり。切に救助を乞ふ」と答へ、熱誠面に溢れ、人をして感動せしむるものがあつた。著者は即ち宋の救解に尽力すべき旨を答へ、共に倶に日韓合邦を実現せしめ、更に亜細亜連邦の大業を成


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さんと堅く誓ひて一進会の顧問となり、十月二十日に至りて宋秉畯を救ひ出し、次で一進会の財政を整理し、進んで朴齊純内閣を倒し、李完用一進会の連立内閣を組織せしむることとなり、新内閣には宋秉畯が入つて農商工部大臣となつた。

《合邦実現の実際的運動計画》

 日韓合邦に就いては、李容九、宋秉畯と屡々密議を凝らして実行計画を立てた。其の最も安全なる方法は、一進会内閣を組織し、閣議に於て決定実行すること。若し一進会内閣を組織すること能はざる場合は、一進会員を以て十三道の地方長官となし、地方官会議に於て発議せしむること。地方官も独占する能はざる時は、全国民の輿論として請願書を提出し、竹槍赤旗に訴へても実現せしむること。

《一死を以て大業を誓ふ》

而して先づ第一に確めざる可からざる必要あるは統監の意志如何の点で、統監さへ同意せらるるに於ては、一進会内閣の出現も可能となり、合邦は易々として実行せらるることとなるべきを以て、予め統監の意中を探り、若し反

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対なる時は、説得して同意せしめ置くにあらざれば、到底合邦の大事を成就することは能はざるべしとなし、三人は一死以て之に当るべき誓約を結び、其の運動に着手したのである。

 然るに統監は韓国指導の大任を負ひ、未だ幾何の年月も経ざる裡に合邦を断行する如き大問題に関し、容易に是非を言明せらるべき筈なく、著者や宋秉畯の主張する合邦論には耳を傾けざるにあらざるも、賛意を表明しないで、婉曲なる言葉を以て説諭せらるるに過ぎなかつたから、非常に焦慮苦心して居る際、

《韓国皇帝密使を海牙に派遣す》

偶々海牙に開催せられし万国平和会議に韓国皇帝が密使を派遣し、日本に委任したる外交権を蹂躙せんとした事件が現はれた。それは明治四十年七月二日の事で、此事実が暴露すると、韓国の大臣等は狼狽して為す所を知らず、

《譲位運動の凝義》

宋秉畯は李容九及び筆者を招き相談して曰く、「統監が合邦に賛成せられ之を実行する場合に至つても、李𠘑皇帝の在位中は、其の裁可を得ること困難な


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るは、新協約締結時の例に徴しても明かなり。故に今回の事件に乗じ、皇帝をして譲位せしめ置かば、合邦は自から容易ならん。両君の意見如何」と。

《重大運動の方策定まる》

李容九曰く、「夫れは予て必要を認めたる根本問題なるが故に一進会より譲位運動を開始せん」と。宋曰く、[「]待たれよ、余は先づ李完用総理を説き、閣議にて決定せしめん、若し閣臣にて断行する能はざる時は、一進会大衆の力を以て目的を貫徹しては如何」。李容九曰く、「可なり」。宋は更に曰く、「会長は直に地方に赴き、閣臣失敗の報を聞かば大衆を率ゐて入京せよ。連絡は内田に一任せん。而して譲位は統監に対し予め相談すべきことにあらざれば、其の賛否を保し難きも、内田は宜しく統監の意向を探つて内報することにせられたし」と。斯くして協議は一決し、李容九は一進会の幹部二十数名を随へ、三南地方に向つて出発した。時に明治四十年七月十三日であつた。

 宋秉畯は李完用をして譲位奏請の決心をなさしめ、閣議を纏めて最

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タイトル  日本の亜細亜 : 皇国史
著者    内田良平
出版者   黒竜会出版部
出版年月日 1932
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