22-5-[×6×]<5>(in 1 □)
支 那 事 変
(南京攻略と平和への努力)
EX.2548
Def Doc No. 1074
髙橋
極東國際軍事裁判所
亜米利加合衆國其他
對
荒 木 貞 夫 其他
宣 誓 供 述 書
供 述 者 塚 本 浩 次
自分儀我國ニ行ハルル方式ニ從ヒ先ヅ別紙ノ通リ宣誓ヲ爲シタル上次ノ如ク供述致シマス
宣誓口供書 塚本浩次
一、私は現在東京都武蔵野町吉祥寺二五四六番地に住んで居ります昭和十九年一月輕度の腦溢血に罹りそれ以來歩行不自由を感じ自宅で靜養して居ります
二、私は昭和十八年八月退官する迄陸軍法務官でありました
上海派遣軍に於ての職歴は大體左の通りであります
昭和十二年(一九三七年)八月十五日
第十號軍法務部長充用
同 年八月三十日
上海派遣軍法務官 同檢察官
昭和十三年(一九三八年)二月九日
中支派遣軍檢察官、豫審官、裁判官
昭和十四年一月
内地に歸還
三、昭和十二年(一九三七年)九月上海上陸の頃松井軍司令官の命令に法
務部長たる私も署名をして軍紀風紀の嚴守に關し麾下全部隊に注意をしたことを記憶して居ります然しその全文は今手許にありません
四、上海周邊の戰鬪が終了し中国軍の追擊に移つた頃から法務部長としての私の仕事は從來に比較して甚しく多忙となりました南京へ入城してからも同樣多忙でありました入場式の當日も四件位の事件を取調べたと思ひます
五、私は松井軍司令官の命令を帶し作戰用務令の指示する處二從ひ軍紀風紀を破る者に對しては嚴重に之を處斷し餘す處はなかつたと考へて居ります各部隊としては上海派遣軍法務部が餘り嚴罰を科し微細な罪をも糾明する態度を非難することもあつた程でありました
陸軍省の法務局員であつた大塚操中佐が當時現地に連絡に來た時に右の樣な非難のあることを私に聞かせたのであります
然し私は松井軍司令官の意のある處を汲み且軍刑法の指示する處に從ひ嚴重に法務を遂行しました
六、南京入城後日本兵による不法事件があり私は之を取調べたことを記憶
しております而して入城式の當日松井司令官は各部將校を集め不法事件の發生を語り軍紀風紀の維持を嚴守する樣申渡された事を記憶して居ります
七、私が處斷した人名で私の「雜記帳」に記載してあるものは末尾に記載してある通りであります然し此の外にも未だ記載漏れのものがあると思ひます兎に角上海派遣軍の法務部が取扱つた事件、人名、處罰は全て陸軍省法務局に報告しましたからそれによれば判明する筈であります此の記錄が凡て燒却された爲め詳細の事は今不明でありますが私の記憶では二十行罫紙に六枚位の報告はした筈でありますから少なくとも百二十件位は確實に處斷したと思ひます
八、右の處斷事件の中に將校は四人か五人だつたと思ひます其の他は兵卒による散發的な事件が大部分だつたと思ひます
罪種は主として掠奪、窃盗であり强姦、傷害は少くそれに起因する致死は極めて少かつたと記憶して居ります殺人も二三件あつたと思ひます然し放火犯を處斷した記憶はありません又集團的虐殺犯を取扱つ
たこともありません
九、法務部では犯罪の搜査權はなく軍司令部に直屬する憲兵が捜査したる上法務部へ送致して來ますそれに基いて證據蒐集をなし起訴するのであります
軍紀違反者人名表
(昭和十二年九月より
昭和十三年二月に至る)
[氏名略]
昭和二十二年(一九四七年)二月二十六日於
供述者 塚本浩次
右ハ當立會人の面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ證明シマス
同日 於東京
立會人 伊藤清
宣誓書
良心ニ從ヒ眞日ヲ述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ
(署名捺印)塚本浩次
診斷書
[略]
[書き込み]挿入不明(清瀬氏)
↑https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071296300 290/380
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08071296300、(国立公文書館 平11法務02152100)