Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

蘭・バタビヤ法廷事件番号25号 三警事件資料 1962. 8. 8

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蘭・バタビヤ法廷事件番号二五号
  三警事件資料

 供述者 ■■(A)■■
     (元海軍兵曹長

 調査者 豊田隈雄

 日 時 昭和三七年八月八日(水) 一四〇〇から
                   一五三〇まで

 場 所 大阪矯正管区、管区長室

(注)本調査は大阪矯正管区長松岡武四郎氏の調査の際、管区長の好意により、調査対象外なりしも、電話招致されたるにより、併せて聴取したものである。

一 現住所 大阪府■■■■……

  当時の職名、階級 バリ島海軍第三警備室、特別警察隊長海軍兵曹長

 

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二 略歴

昭和一六 一〇 応召、佐世保鎮守府佐世保第二特別陸戦隊

〃 一六 一一 パラオ進出、訓練

〃 一七 一、一一 メナド上陸、ついでケンダリー上陸掃蕩作戦後メナド警備隊勤務。後バリ島警備隊へ転勤、同地において終戦

〃 二一、三 八 陸軍の呼出を受け、そのままバリ刑務所入り(約二ヶ月)後スラバヤ刑務所移管、さらに約一ヶ月後実地検証のため、バリ刑務所に送還(約二ヶ月)ついで、スラバヤ刑務所を経てバタビヤ(グルドッグ)刑務所へ移監

〃   三一三 起訴

〃 二二 六 裁判(求刑十五年)

〃 二二 八 判決(十二年)

 

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三 取調

 昭和二十一年三月五日蘭軍入島。三月八日出頭を命ぜられ、そのままバリ島刑務所へ収監さる。(約一ヶ月)。ついで一度、スラバヤ刑務所に移管され、約一ヶ月の後、再びバリ島レンパツサル刑務所に送還され、実地検証を受く。

◯ 事件の調査はバリ島およびスンバ、ロンボツク、スンバワの四島、所謂小スンダ列島において生起した事件に関するもので、私にかかる事件はバリ島その他で行われた部下の原住民虐待事件約三百件にも及んでいた。

◯ 取調べは拘禁された当初、バリ島で約一ヶ月位の間連続して行はれた。取調官は、当初は営林省の技師とか云つていたが、極めて穏やかな取調べ振りであつた。私はかねて、このことあるを予想して、終戦と同時に南拓の職員で私の通訳をしていた者を、逸早くスラバヤに逃したが、私の取調べが始まつてから、外部と連絡

 

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をとり、私の部下隊員を全部逃亡させた。しかし、これらの部下達は、インドネシヤ独立軍に参加し殆んど殺された。

 その結果、現地で逸早く捕まつた私だけが単独裁判にかけられることとなつた。

 スラバヤでの取調べは拷問を伴い、常に生命の不安を感ずるようなひどいものであつた。

 私は、取調べを予期して、事件報告書を作成して持つていたが、幸い蘭側から要求もなく、また取調べの情況からも提出しない方がよいので遂出さなかつた。

 取調べ事件の関係者が、私一人となつたため、蘭側も事実の調べ様がなく、約三百件の中、私が知つており、認めたのは十三件位で、他は全部「知らない」で否認し通した。

 私の認めた事件中一番大きな事件は、長い間の悪政で、私服[ママ]を肥し、住民を苦しめていた酋長一人を捕えて、ロンボツク島へ目妾約一ヶ月四十人中の

 

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十人位を同伴させ、島流しにした件であつた。この逮捕のとき、その邸からトラツク一台の金品(評価七千万円)を押収し、民生部に渡したが、終戦後その金品の紛失しているのを私に補償せよと迫つたが、私はこれを拒否した。多分これは、後日、日本に賠償でも要求する種にしようとでも思つたものらしい。

 この酋長は蘭系であつたが、終戦後、バリ島に帰つて来て復讐のつもりで訴え出たものであつた。

 この酋長事件以外は、殴つた蹴つた程度のもの許りであつた。

 私の本当に恐れていたような大事件は遂に出ず幸であつた。

四 事件の真相

◯ 私は、終戦前から、この事件あるを予期したので、終戦直後の約三ヶ月位、気懸りになつた事件の揉み消し策に全力をつくした。

 戦中に使つていた腕利きの原住民スパイ約八百人を終戦とともに蘭軍側に協力させた。私の取調べについても、この八百人中の

 

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或者がやつて来たこともあり、そんな時には私から一寸目で合図すれば、私の意図をすぐ諒解してくれ好都合であつた。彼等に対して私は、「戦犯はおれ一人に止めるよう」申し聞かせてあった。

◯ 私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であつた。

 これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れて来た件である。

 下士官の妻君五人は、終戦後直ちに送り返したが、スラバヤ着と同時に原住民に殺されたとのことであつた。

 この外にも、戦中の前後約四ヶ年間に二百人位の婦女を慰安婦を真山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ。

 私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約七十万円を本件の工作費として貰い受け各損長を介して住民の懐柔工作に使つた。

 これが完全に効を奏したと見え、一番心配していた慰安所の件は一

 

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件も訴えが出なかった。

 原住民は一般に性的には風紀は紊乱しており、一応は慰安婦となることを嫌うが、一度連れて来られ衣料等の支給を受けるとまるで平気な素振りであつた。

 なお、バリ島住民は宗教的にヒンズー教徒で、親日的であり、この点ジャバ島のイスラム教徒と対日感情も異るようである。

 バリ島で重大事件が発覚しなかつた理由は、こんなところにもあつたかもしれない。

◯ バリ島では、宗教の関係上異端者の潜入はすぐ曝露する関係上検挙するような犯罪は殆んどなかつたが、ロンボツク島では、陰謀、密偵事件等あり検挙も相当あつた。

五 裁判について

 裁判長大(中)佐、陪席少佐一人、検事ファンデンベルグ、審理は三・四日間、

 

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弁護士松本清氏は、私の事件が最初の試練であつた。
 裁判地が、バタビヤで事件現地でないので殆んど宣伝もされず、幸せであつた。(スラバヤ辺では、戦犯は新聞等で広告宣伝され、戦犯の告訴を奨励されていた)。

六 その他

◯ 私は、初代のバリ島特別警察隊長であり、部下三十七人の外、現地人七・八百人を使用していた。第三警備隊司令は海軍大佐、奥山鎮雄氏であった。(会員約四百人)

 バリ島の占領は当初陸軍によりなされ、それを海軍部隊に引継がれたものである。

 バリ島海軍第三警備隊は二南遣麾下第二十一特根司令官に直属し、特根司令部の担任参謀は篠原中佐であった。

 終戦後、バリ島には奥山部隊(四百名海軍)、陸軍も前線から島づたいに引きあげていたのが、空爆等の為これ以上撤退出来な

 

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いで、憲兵六〇命、陸軍一〇〇〇名おり、陸軍病院喪あつた。その他義勇軍が三ヶ大団(一五〇〇名)海軍兵補(二・三百名)がおひ、アンボンにいた官吏も引揚げて滞在していた。

◯ 私は、前後八ヶ月に亘つて取調べを受けたが、最初スラバヤに送られたときの取調べでは、拷問(裸体のまま鉄の鎖で殴打、手錠で締め上げ絶食等)その他、随分ひどい目にあつた。そのため今でも顔に傷跡が残っている。その時は余りひどいので告訴した。

 蘭軍の看守兵によるリンチもひどく、生命の危険は常時つき纏つた。

 当時は連行されたまま行方不明になつた者も相当あり、問合わせると皆「自殺した」で問合わせると皆「自殺した」で片附けられていた。

◯ バリ島の刑務所は外出は出来るし、行動は全く自由で行刑の本質として「罪をおかしたからには労仂をさせてオランダに弁償さ

 

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せよう」という方針で行われていた。偶々所長の息子を日本軍占領当時、貯金引出しのことで援助してやつたことがあつたが、所長はこれを恩に着て、私には特によくしてくれ、蘭側の情報も筒抜けに知ることが出来た。

 私は特別警察隊員としての特別教育は、スラバヤ軍法会議で海軍警部から約一ヶ月間の講習を受けた。今考えると、これもまことに幼稚なものであつた。しかも、私の部下隊員は、私自身が教官で教育する外なかつた。随つて私共の特警隊としての行動は随分怪しげなものであつた。

 それでも、私は一応の特別教育を受けたが、ハルマヘラ等にあつた海軍の特警隊は何等特別の教育もなくやつたことを思うと冷汗の出る思いである。

 一番いけなかつたことは、民族の習慣を顧慮せず、日本式に考えて押し付けたことで、これが一番問題の種となつている。この

 

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ような任務につく部隊は予め十分教育する必要がある。

◯ バリ島は八ヶ州に分割されているが、その中でギャラリ州だけは和蘭が占領当時何等抵抗しなかつたので、酋長以下代々蘭側から優遇されていた。そのため統治者が漸次横暴となり、悪政を重ね、私服[ママ]を肥すに至り、日本軍占領により逮捕(酋長は子息に譲らせ)流島の処分をなされたものであつた。

 

https://wam-peace.org/ianfu-koubunsho/list/m-all-list.html
日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト
208 J_J_012
資料名:法務省職員の聞き取り
簿冊:BC級(オランダ裁判)バタビア裁判第25号事件