Ob-La-Di Облако 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

「朕は国務大臣に命じて 昭和十四年度 及 臨時軍事費の予算案を各般の法律案と共ち帝国議会に提出せしむ 卿等 其れ克く時局の重大に稽へ和衷審議 以て協賛の任を竭さむことを期せよ」 第74回帝国議会開院式勅語 1939

朕 茲に帝国議会開院の式を行ひ 貴族院衆議院の各員に告ぐ 帝国と締盟各国との交際は益々親厚を加ふ 朕 深く之を欣ぶ 朕が将兵は克く艱難を排して 己に支那の要域を戡定したり 然れども東亜の新秩序を建設して 東亜永遠の安定を確保せんが為には 実に国民精神の昂揚と 国家総力の発揮とに俟たざるべからず 朕は挙国臣民の忠誠に倚信し 所期の目的を達成せむことを期す 朕は国務大臣に命じて 昭和十四年度 及 臨時軍事費の予算案を各般の法律案と共に帝国議会に提出せしむ 卿等 其れ克く時局の重大に稽へ和衷審議 以て協賛の任を竭さむことを期せよ

第七十四回帝国議会開院式勅語
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000941300

原田 熊吉

大使館附武官 兼 上海派遣軍特務部長 原田熊吉

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/10/25/005745

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/01/14/000327

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/10/24/185421

 

司令官や福田さんとお別れしようとしているところへハラタ少将が入って来て、すぐに私たちに安全区を案内してほしいと願い出るので、街を車で一回りして彼に見せる。午後に下関の発電所を訪問することを申し合わせる。あいにく私は午後の訪問者たちを取り逃がす。武器を棄てて私たちの区域に逃げ込んだ元中国兵の一部を、一隊の日本兵が連行しようとするからだ。その逃亡者/難民たちを解放しても、もう戦うことはないはずだと、私は保証する。私たちの委員会本部事務所に帰り着いくやいなや、ボーイが悪い知らせを持ってやって来る。日本兵が引き返して来て、今度は1,300人の逃亡者/難民を拘束したというのだ。私はスマイズとミルズを伴って、再びこの人たちを解放させようとするが、徒労に終わる。彼らは約100人の武装した日本兵に取り囲まれ、縛られて、銃殺のために連行される。

(ラーベの日記 12月15日)

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/12/20/232338

 

ウィキペディア 原田 熊吉

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E5%90%89

宮崎 周一 

宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%91%A8%E4%B8%80

 

 宮崎註 岡村将軍は、武漢攻略作戦の秘密保持の関係で、着京されると、九段の偕行社新館最上階に宿泊、四谷の自宅には立寄られなかった。この頃で、私の印象に残っているのは、次の二つである。私は偕行社で将軍と密談した。話題になったのは、出征軍の軍、風紀紊乱の実例と、私が参謀本部幕僚と連絡した事柄、特に武漢攻略の作戦構想についてである。要談が了って私がいろいろ書いた紙片を丸めて傍らの火鉢の上へかざすと、将軍はすぐマッチをすって火をつけて下さった。私は一心同体の気分を強く味わった。

 [以下略]

『岡村寧次大将資料 上巻 ─戦場回想編─』1970年、原書房、p.289

萩原 直之

1939年4月当時、漢口軍特務部 陸軍歩兵大佐

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&ON_LYD=off&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E8%90%A9%E5%8E%9F%E7%9B%B4%E4%B9%8B&IS_TAG_S1=InD&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_KEY_S2=&IS_TAG_S2=InD&IS_MAP_S2=&IS_LGC_S2=AND&IS_KEY_S3=&IS_TAG_S3=InD&IS_MAP_S3=&IS_LGC_S3=AND&IS_KEY_S4=&IS_TAG_S4=InD&IS_MAP_S4=&IS_LGC_S4=AND&IS_KEY_S5=&IS_TAG_S5=InD&IS_MAP_S5=&IS_LGC_S5=AND&IS_KIND=detail&IS_START=1&IS_NUMBER=1&IS_TAG_S18=eadid&IS_KEY_S18=M2006090105271668519&IS_EXTSCH=F2006083118101851446+F2006083118133052046+F2006090105162460188+F2007102216051859202+F2007102216425659207+F2007102216562559215+F2006090105271368473&IS_ORG_ID=M2006090105271668519

 

1941年12月24日~1943年2月15日 仙台陸軍幼年学校長

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

 

 

【工事中】岡村寧次『陣中感想録』現代表記 1937.7.13~1945.11.21

1945年の日記から

    11月21日

 本日から鼓楼の日本総領事館の渉外部へ出務することにした。

 私は、北満出動の第2師団長に続き、第11軍司令官、北支那方面軍司令官、第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官と歴任し、その間書き留めた陣中所感録は、すでに11冊に及んでいる。しかし今次、連合軍から歴史的文献の輸送を禁止され、日記などもこれに触れるとの申し渡しがあった。甚だ惜しいので、戦史や作戦用兵の事項を除き、所感の一部を抜萃し、陣中感想録として残すこととしたい。また昭和16年から19年に至る日記も、人の往来、自己の行動ぐらいの部分だけを摘記して残すこととし、本日からその作業を始めた。

 註 これら摘記した書類(5部)は幸いに持ち帰ることができ、防衛庁戦史室に寄贈し、多少お役に立っている。

 

岡村寧次大将回想録

靖國偕行文庫 受入番号:80277 図書記号 請求記号:390,281オ、オ


[表紙]

一切転載ならびに公表を禁ず。

(特別資料)

戦史資料その3

    岡村寧次大将回想録

            昭和29年6月

            厚生省引揚援護局

 

[内表紙]

一切転載ならびに公表を禁ず。

(特別資料)

戦史資料その3

    岡村寧次大将陣中感想録

            昭和29年6月
            厚生省引揚援護局

【偕行社蔵書印】
        寄  平成10年9月28日

        贈  原 四郎 氏

 

[編集者(原四郎?)による註記]

 註

1.本書は昭和13年より大東亜戦争終戦に亘り中国戦線において第11軍司令官、北支那方面軍司令官、第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任せられた岡村寧次大将の陣中感想録を終戦後戦地において抜粋·摘記せられたものであって、誤植なきを保し難いが綴込および原文そのままの写しである。

 本書中、日付けの下方の英字符号の意味についての同大将の区分は、次の通りである。

A  戦場における軍紀·風紀

B  統帥(焼却せられあり)

C  統御

D  死生観

E  個人所見、他人評

F  日華関係

G  共産党関係

2.岡村大将軍歴の概要は次の通りである。

明治37,11 任 陸軍歩兵少尉

同         補 歩兵第1連隊補充隊附

明治38, 4 補 歩兵第49連隊附、

          日露戦役出征

明治43,12 陸軍大学校入校

大正 2, 8 補 歩兵第1連隊中隊長

大正 4, 2 補 参謀本部部員

大正 8, 7 補 兵器本廠附

大正11, 2 補 歩兵第14連隊大隊長

大正12, 3 補 参謀本部部員

昭和 2, 7 補 歩兵第6連隊長

昭和 3, 8 補 参謀本部課長

昭和 4, 8 補 陸軍省補任課長

昭和 7, 2 補 上海派遣軍参謀副長

昭和 7, 4 任 陸軍少将

昭和 7, 8 補 関東軍参謀副長

昭和10, 3 補 参謀本部第2部長

昭和11, 3 任 陸軍中将

同         補 第2師団長

昭和13, 6 補 第11軍司令官

昭和15, 3 補 軍事参議官

昭和16, 4 任 陸軍大将

昭和16, 7 補 北支那方面軍司令官

昭和19, 8 補 第6方面軍司令官

昭和19,11 補 支那派遣軍総司令官

 

A.戦場における軍紀·風紀

    昭和13.7.13(上海)

 中支戦場到着後、先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所によれば、従来、派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺するの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪·強姦多数ありしことは事実なるがごとし。最近湖口付近において捕獲せる中国将校は、我らは日軍に捕へらるれば殺され、後方に退却すれば督戦者に殺さるるにより、ただ頑強に抵抗するあるのみと言えりという。

 上海には相当多数の俘虜ありて苦役に就かしめあり、待遇必ずしも適良といい難し。

 予は討蔣愛民(註)の標語を設け、まつろわぬものは誅せるも、無辜の良民には仁慈をもってするの方針を立てたるも、右のごとき悪習に染まりたる部下将兵の統率には今後困難すべしと思う。断固方針を遂行せんのみ。

 〔註〕中国軍の骨幹は蔣介石直系軍にして、他の地方軍は戦力著しく劣るゆえに、この蔣直系軍を討滅するを主眼とせざるべからず、次いでの主眼は愛民にありとの、予の定めたる標語なり。

 

    昭和13.7.18(潜山)

 第6師団長稲葉中将は公正真率の士なり。自己師団の精神的欠陥を反省、指摘して曰く、「戦闘第一の主義に徹底し勇剛絶倫なるも、掠奪·強姦等の武徳損傷を軽視す。団結心強きも排他心強く、配属部隊に対し自己部隊と同様に遇するかごとき推量に乏し。云々」と。

 

    昭和13.8.6(九江)

 外国権益尊重は我が政府の屢〻声明し、軍においてもこれを下達し来たりし所なるが、未だ将兵に徹底せず、九江においても平然として英人所有家屋に宿営せるものあり、米人所有家屋に就宿せんとする連隊あり憲兵の制止により中止せり。本日、英米艦長等が我が承認の下に九江に上陸実視の結果、彼等の公私権益が大体維持せられあるを満足したる由なるが、憲兵の監視なかりせばその結果あるいは没常識のものありしならん。

 8.3記述の対外観念欠乏の一証なり。

 

    昭和13.8.3(九江)

 本日までに予の観たる日本軍将兵の精神的欠陥、概ね左のごとし。

(A) 掠奪·強姦等、神武精神に反する者なお後を絶たず。

(B) 事変の性質を弁えず、俘虜、良民に対しても敵意を有し、これを愛するの念に乏しき下士官·兵少なしとせず、予の方針たる愛民の実は挙がらず。

(C) 官物尊重心薄く、兵器·資材の欠損·放棄多く、携帯天幕は半年位にて破損、使用不可能となり、防毒面は枕代用とするため久しからずしてその機能を失う。

(D) 露営を厭い、家屋に入るを欲す。

 (A) (B) は我が国民が依然島国根性にして、国際観念、対外思想に貧弱にして、大陸発展の基礎性格の未完成を示すものなり。満州支那等における不良邦人の徒なる優越感もこれを証す。また (C) は国民性の従来よりの通弊たる公共道德の低劣なることを示すもの。(20.11.21追記、島国に閉じ込められたる日本人は今後益々島国根性となるべし。)

 

    昭和13.8.18(九江)

 本日、吉本参謀長が対岸巡視の結果によれば、小池口付近における台湾混成旅団(波田支隊)原田大隊は風紀紊乱し掠奪·強姦少からず、甚しきに至りては、付近村長を集めたるときその被服を奪い、これを着用して強姦せし者あり。また飛行場建設工事に従事中なる村長の妻娘を輪姦せしため、村長憤りて飛行場建設工事に一頓挫を来せることさへあり。飛行場工事苦力賃のあたまをはねしものもあり、九江にある兵にして窃かに渡江して対岸に到り暴状を働くものもあり、予の方針たる討蔣愛民の標語は到る処に揭けられあるも、その実は挙がらず。

 是において予は参謀長と協議し九江にある憲兵全部を対岸に派遣し、犯人を悉く逮捕して軍法会議に附せしめ、かつ九江特務機関の主力をも渡江して宣撫工事の立て直しをなさしめたり。

 

    昭和13.8.23

 五十嵐憲兵隊長来訪して曰く、小池口に於ける上等兵以下3名の輪姦事件を取調べたる所、娘は大いなる抵抗もせず、また告訴もなさざるにより申[→親]告罪たる強姦罪は成立せざるをもって、不起訴となすべき意見を述ぶ。軍法務部長も同一意見なり。

 予はこれに対し言を励して曰く、「強姦罪が申[→親]告罪なるがごときことは予もまたこれを知る。然れどもこれ平時内地における場合を予想せるものにして、戦場においては深く省慮せざるべからず。そもそも吾ら軍人は神武精神に徹するを要す。神武精神は戦場における軍人行為の根本たるべきものにして、断じて法律の上にあり。また被害者は後難を恐るるかゆえに、銃剣の前に心ならずも申告を敢てせざるなり。憲兵は須らく被害者の心情を洞察して申告せしむべし。しかして犯人は厳重に処分すべし」と。吉本参謀長も全く同一意見なり。南京攻略以来、いかに我が皇軍が愛民の徳を失いつつあるかを知り得べく、痛憤に堪えざるなり。名は聖戦というも、神武精神を失いたる聖戦いずくにかある。憲兵、法務官に至るまで大局的の神武精神を失しあり。

追記 15年2月、予は内地に帰還し、阿南陸軍次官に対し、強姦罪親告罪たるを改め戦地強姦罪(申[→親]告に関係なき)を設くべき意見を述べたるに、正義の士たる阿南次官は直ちに同意し、改正に着手すべきを約したり。その後、予の北支在任時代、陸軍刑法改正を見、戦地強姦罪制定せられたり、この間、実に2年を要したるは驚くべき不熱心と謂うべし。

 本日、予の宿舎に隣接せる丘阜に第九師団の部隊来たり、露営せるを見るに、先般、同じ場所に宿営せる波田支隊と比較し、北陸兵と南九州兵とかくも違うものかと驚く。すなわち後者は戦闘には頗る勇敢なるも、駐留間における軍風紀不良、掠奪·強姦少からず、背囊は遠く鎮江に残置したるまま、携帯天幕を背負袋に代用せるため、破損して雨露を凌ぐの用をなさず、防蚊帽は大部分破損、若しくは放棄し去りたれば、宿営は民家に入るを要し、しからざれば露天なり。

 しかるに前者は出征日数は後者より大なるも、軍·風紀、平時と大差なきまでに厳粛にして、修繕の跡正しき天幕を張りて露営し営中静粛·整然たること、また出発の行軍も整々たること等、到底前者の比にあらず。指揮官の措置によること勿論なるも、南九州と北陸との民情の差大なるを思う。

 戦場心理としては明日をも知れぬ命なれば、軍·風紀の厳粛を欠き、幹部もまた統率厳格ならず戦闘第一主義となり、犯罪を犯したる者も戦功ありたりとてこれを看過する悪習を生じ易き一般状態なるが、この間、依然として森厳なる軍·風紀を維持しある軍隊はまことに貴しというべし。

 

    昭和13.8.30

 6Dは剛勇、敵陣中にも轟き、その将兵の態度は厳然として敬礼も正しく、我が国最精鋭の一つなるには相違なきも、強姦罪の多きには困ったものなり。

 稲葉師団長、牛島旅団長等もこれが取締りに苦心しあり。兵の行衛不明の多くは、我が幹部の眼をのがれて付近の村へ女あさりに往きたるもの多しとのこと。またまず放火して人を騒がせ、しかして婦女子を求むるなど、悪辣の犯罪すらありとのことなり。

 同師団は30余名のいわゆる慰安婦を跟随せしめあり。慰安婦の跟随などは日露戦役時代には無かりしものなり。第1回上海事変の際、予は軍参謀副長たりしが、海軍の例に做[→倣]い慰安婦を設け(恐らく陣中公然これを設けたる最初ならん)、爾後、強姦罪皆無となりて喜びたることありしが、今の軍隊は慰安婦を同伴してなおかつ強姦罪少なからずいう有り様なり。慰安婦は第6師団に限りたることにはあらず、他の兵団も多くはこれを用いあり。

 本事変勃発後間もなく、満州にて聞きたる所によれば、北支の中国古老は団匪事件において歐米各国軍隊の掠奪·強姦·暴行の限りを尽くしたるに反し、独り我が日本軍が軍紀森厳·風紀粛然として秋毫も犯すところなきを感嘆·敬服せしことありしに、今次事変勃発後の日本軍将兵の行動は別人の感ありと嗟嘆する者ありとのことなり。

 

    昭和13.9.22

 憲兵報告に蚌埠における中国婦人(40歳)との問答の一節あり。曰く、

中国兵は掠奪するも強姦せず、日本兵は掠奪せざるも強姦す。可否いずれにかあらん。頼みとするはただ天主教会の神父あるのみと。

 日華両国民提携の前途は遼遠なり。宣撫工作を壊るものは日本の不良兵なり。
 

    昭和13.9.26

 憲兵総合報告によれば、刑罰の種目中、最も多きは上官暴行と強姦なり。しかして犯人の年齢別を見るに、33歳の者、最多数なり。この年輩の者は勿論、既教育兵なれば、その現役時代の軍隊教育不適当なりとの譏りを免れざるべきも、その軍を離れてすでに年久しきことにより推せば、社会の罪もまた免れざるべし。蓋し社会より召集せられて直ちに戦場に来たりしものなれば、軍の罪としてよりも国民の罪としてより反省するの要あり。

また甚だしきに至っては惨虐行為の写真を家郷に送付せるもの頻々これあるがごときは真に狂気の沙汰、神武の冒瀆というのほかなし。最近来陣せる中村軍務局長の言う所によれば、内地郵便局にて郵便法違反として没収せるこの種写真はすでに数百枚に達しありという。人の知らぬことを得意になって言ひたがる一種の好奇心はまた国民性の一つなり。批判好き、噂好きの性向もこれに同じ。誤れる自由主義の浸染、国民教育、社会教育の根本的改善を要すべし。

 

    昭和13.9.28

 戦地における郵便行囊の未回収総数四十万箇に及び、野戦郵便の配達に困難し、かつ新製にも至難なる旨、通牒あり。郵便は陣中最大の慰藉なりと称されながら、戦地各部隊の不仕末かくのごとし。

 公共心乏しき国民性の暴露、ここにも現わる。

 

    昭和13.10.2

 将兵の言動を観察·総合し、日露戦·北清事変当時に比し精神的に低下したりと思はるる点、概ね左のごとし。

 而して将兵の全部に近き大多数は非現役にして、召集後、直ちに出征したる者なれば、この事は軍隊の罪といわんよりは、むしろ国民の罪なりと断ぜさるを得ず。事実において刑·懲罰の大部は召集者なり。

(イ) 上官に対する服従心衰えたり。

   (犯罪統計、言語態度、敬礼等)

(ロ) 性道德の低劣。

   (強姦、慰安婦随伴)

(ハ) 公共心欠乏は元来の穴点なるが、益々甚だし。
   (貴重なる兵器を一寸の破損で遺棄し、これを修理補修機関へ送付せざるもの多し。他隊の馬を盗むこと流行。前送恤兵品等の途中紛失多し。)

(二) 幹部にして横領、収賄等の罪を犯すもの少なからず。

(ホ) 処置面倒なりとて俘虜を殺すの悪風あり。

 右の原因にも色々あるべきも、個人主義·自由主義の思想が悪用せられて国民道義が低下し、それが戦場にも反映したることが最大原因なりと思う。

 明治維新以来数十年にして一等国の斑に列し得たるは、欧米文化の輸入も確かにその一原因には相違なきも、余りに急ぎたる進展に伴い、輸入思想の弊害、その我が国情に適合せざるる部分をも咀嚼に暇なくしてこれを鵜呑みにし、我が伝統精神のごときは棚の上に放置したるの感なきに非ず、上世我祖先が輸入文化を克く咀嚼し我が伝統精神と融合せしめたるに比し、大いに劣れるものありと思う。

 政治道德、選挙道義を篤と呑み込ませずして選挙形式を作り、普通選挙を急ぎたるため、選挙を売品化せし嫌いなきや。

 性道德を重視せずして徒らに恋愛の自由を賛美せざりしや。対国家道徳、対家庭道徳においては、日本人は世界に冠絶するも、社会道徳、社会訓練においては大いに劣れり。社会的統制あり、社会的秩序あり、社会的組織ある所にデモクラシーを叫ぶは可ならんも、これなくして徒らに形式的にデモクラシーを強調せし学者·識者果たしてなかりしや。(20.11.24再記、本項は終戦後、今の内地の状況に対しても同一の感を懐かざるを得ず。)

 我が伝統精神を唱道する者といえども単に島国日本の優秀性を强調するのみにして、日本ならびに日本国民の欠陥を反省し、八紘一宇の大眼目の下に他民族愛慈を重視して子弟を教訓せしや否や。

 伝統精神、慣習、家族制度、米食、人口過剰等の我が特異性を顧みることなく、一向に輸入学問に基づきて政治、経済、文化を世界的に塗りつぶす傾向なかりしや。

 しかれども戦場にて視れば君国に対し、家庭に対し、郷土に対し、戦友に対する道義に至りては幸いに往時に比して決して低下しあらざるを認む故に、躍進日本はこれ等輸入思想と伝統精神とを再検討し、国民教育を改善し、社会教育を確立し、国民の自粛·自戒と国民道義の一大刷新とを必要なりとす。

 

    昭和13.10.10(第11軍司令部)

 星子の兵站司令官、友清大佐の言によれば、同地付近の村長連名にて殺戮、強姦、放火、牛掠奪の四件禁止を要請し、これら条件容れらるれば他の要求にはすべて応ずへき旨、嘆願書を提出せりという。誠に憐むべし。

 同方面へ憲兵を急派、取り調べしめたる所によれば、すでに強姦約二十件ありて犯人未検挙。たまたま強姦現行直後の者を捕えたるに、その所属隊長は該犯人が歴戦者なるを理由として寛大の処置、釈放を請いたりという。統率厳正ならさる幹部少なからず、後方部隊、老兵部隊はことにしかり。

(20.11.24追記)当時はかくも甚だしく强姦·掠奪等行われたり。畢竟、南京攻略後暴行事件の余波なり。しかして予が極めて厳格に取り締まりたるため、翌年頃よりは漸減せり。また二、三年後は南北を通し全軍この点については面目を一新し、事件は稀に発生せしのみ。これが重大の原因は、軍紀刷新の効果といわんよりも、むしろ下士官兵の素質が老兵は皆無となり、現役兵ならびに若年の補充兵に改善されたるに存す。すなわち前者は、前に述べたる如く、個人主義旺盛の時代に成人したるものなるに反し、後者は満州事変勃発以来、潜在せる神武精神が国内を風靡せる時代に成人したるものなるを以てなり。

 然るに物には利害はつき物にして、一方においては満州事変を契機として軍国主義は盛んとなり、民主·平和の思想が低下したることは事実なり。終戦後の現在、連合軍の必要を越えたる統制指導により、内地にてはまたも再転して軍国主義の絶滅、民主主義の彌漫を見るに至れり。共産党の横行さえも公然行はれあり、この風潮は、一面、当然のこととも思はるるが、前記、戦場に反映せる国民道義の変遷──日清、日露、北清戦時代最良、支那事変勃発時代最不良、その2~3年後やや良──につきて深省し、国民思想の急激なる変転に伴う余弊を発生せざらんことに、政府も国民も大いに留意するの要あるべし。

 

    昭和13.11.4

 今日までの総合観察によれば、三十五、六才以上の老兵は戦意必ずしも強からず、二十七、八才以下の現役兵·補充兵は勇敢なり。これが原因として予の見る所、左のごとし。

前者は、

成人時代にデモクラシー、自由主義、民主主義の流潮に浴し、朝野を挙げて国際主義に堕し、大陸発展など意に介せざりし時代に人と成り、すでに妻子を養い専らその家庭に引かれ易し。

後者は、

国体明徴運動以来、満州事変に伴い、日本精神に蘇み返り来れる時代に人と成り、未だ無妻なるか、または一、二人の児子あるも、意気旺盛なり。

 また非違行為の大部分が三十四、五才の者なることも右と併せ考うべきことなり。

 一両日前、武昌にて某兵站自動車中隊の兵某等は、閉鎖しある外国人家屋に墻を越えて浸入し、家具を掠取せる事件あり。同中隊長を取り調べたる所によれば、入城前夜しばしば訓示を与えたる由なるも、なお監督不十分の罪を免るること能わず。

 国民の対外観念に乏しきこと既述の通りなるが、ここにも一例を示せり。

 

    昭和13.11.19

 諸情報を総合するに、我が軍将兵にして敵に捕へられ、その捕虜收容所に週容せられある者、相当多数に上ること確実なり。多くは負傷者なるも、健全者もまた少からざるがごとし。
 俘虜の多きことも昔の戦役時代に比し異る所なるが、さらに思想上昔時と異ることは、捕へらるるも我が軍の内情等一切言明せざりしものが、現時俘虜となれる者は我軍の編成、位置、指揮官等を平然と述べて、法律上のいわゆる利敵行為を敢てする者、少なしとせざること、これなり。欧米思想の浸潤をここにも見る

 俘虜を濫りに殺す悪傾向は、予の累次に亘る厳飭といわんよりも、部隊自身が弱兵の背囊や荷物を運搬せしむるの必要上、大機動後の今日は俘虜を同伴する傾向に転じ来たれり。形而上的に覚醒せしにあらずして、形而下的の必要より生じたるなり。


    昭和13.11.20

 漢口占領当時、支那人および外国人は、南京攻略時の我が軍大暴虐より推察して、我が軍の暴行を予期せしが、案外に軍紀厳肅なりしかば、民心、大いに安定せり。しかるに入城後2~3日にして第6師団その他に強姦事件2~3発生し謡言次いで起こり、市中、不安を招きたるは遺憾とする所なり。

 予は、武漢入城に際しては極力兵力を減少し、漢口に入れたるは第6師団の2大隊のみ。また第6師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも、1年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず。燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり。

 被害者の多くは外人宣敎師の許に遁れて再難を防ぎたるため、これら外人より我が憲兵に告訴し来り、事件は世界的に喧伝せられるべし。予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み、改めてこれら非行厳戒の旨を訓示せり。

 

    昭和13.12.29

 戦場における公共心の欠乏、自分さえ良ければ他隊の迷惑など構わぬという利己的風習の横行少からざるはすでに述べたるが、なお最近におけるこれが実例を挙ぐれば左のごとし。

(イ) 馬盗多し。馬数欠乏すれば暗夜に乗じて他隊の馬を掠めるは、尋常茶飯事となれり。第2軍司令部にありては、軍司令官宮殿下の御乗馬正副二頭もまた盗まれ、厳に捜索中なるも未発見。軍紀全軍中最も厳然たる第9師団さえその馬廻嶺付近より他に転戦するに際しては第106師団の馬数頭を持ち去れり。甚だしきに至りては、兵力を以て馬監視兵を脅威して他隊の馬を強奪せるものあり。

(ロ) 小包、補給糧食品等の抜き取り多し。

(ハ) 通信隊は電柱に一本毎に「日本軍用」と札を掲げて、もって他隊の盗用を防ぎあるは、その例少なからざればなり。

(ニ) 警備体制に入りて以来、各部隊は宣撫愛民の必要上、自己分担区域内においては必要以上樹木抜採を慎しみあるも、一たび機動によりて他隊の区域に入る場合には遠慮なく樹木を採し、両部隊間に葛藤を生する例多し。

 要するに戦友愛は狭義的には美事なるも、広義的戦友愛には乏し。我が国民性の反映なり。

 

    昭和14.3.1

 米国のラッド博士は日露戦争後来朝し、華族会館において演説したる際、日本国民が戦時において発揮したる特質として、嘆賞すべき左の四点ありと指摘せり。

1. 勇気、殊に銃後の勇氣

2. 戦争に対する細心の準備

3. 国民全般の節制

4. 敵に対する寛容の精神

 右観察は当時に於ては概ね的中しあり。しかるに今日は如何。すなわち、

1は概ね変化なきも、多少の低下を認めざるを得ず。

2は準備不十分。

3節制はいかがかと思はる。

4この精神は大いに低下せり。


    昭和14.5.20(漢口第11軍司令部)

 5月17日、国民学校長団体、戦場訪問に来り、請はるるままに「戦場にて観たる国民精神」として、左の要旨を語る。

 内地にては、我が将兵が戦死に臨み、従容として天皇陛下万歳、日本帝国万歳を三唱すと一般にいわるるが、事実においては日本帝国万歳など叫ぶものはなく、ただ天皇陛下万歳のみなり。平時においては天皇陛下万歳も日本帝国万歳も同しことなるが、戦死の場合には必ず天皇陛下万歳のみなることを、深く認識せざるべからず。我が将兵はいよいよ総攻撃に向かうという前日には、郷土の父兄、校長さんらに最后の手紙を認め、戦前の一とき試みに今何を考へありやと問はば、郷里のことを考えありとほとんど全部は答う。しかして激戦の渦中に投ずれぱ最早郷土もなく家もなく、兵はただ上官を仰ぎ、上官はただ兵を視、夢中になって戦い、敢えて他事を思わず。しかして敵弾に中りていよいよ戦死に臨むや、自己に最近きものの代表たる天皇陛下の万歳を唱え、満足して死に赴くなり。

 右は日本人の血液に潜在せる伝統思想にして、科学的理論をもっては説明し得ず、国体明徴のごとき理論を戦わすよりも、この厳然たる一事実を再認識すれは足るなり。
 戦闘において我が将兵が勇敢にして、死を見る[ママ]帰するが如き精神を堅持しあることは、以前の戦役時代と毫も異らず、この点はあまり教育·指導せずとも心配なしと思わるる程なり。

 しかれども戦場に反映する国民道義に至りては、遺憾ながら、以前の戦役時代に比し著しく低下し来たりたることを認めざるを得ず。掠奪强姦の犯罪は昔はほとんど無かりしが今は頻々たり。まつろわぬ者は誅し、まつろう者は慈しむという神武以来の大精神は影を没せんとす。口には聖戦といい、八紘一宇というも、事実は神兵たるの実、毫も上がらず。敵は反抗する敵軍隊にして、住民は我が友とすべく、否、我が友とすべきための戦なりと言はるるも、この住民を虐ぐる行為に出づる者、比々たり。

 依然たる島国根性なり。大陸日本たるの精神的用意なくして、またこれが準備教育なくして、大陸に出動し来たりし将兵であり、居留民であるのである。

 昔からいわるる公共道德の欠乏は今もなお国民性の欠陥なり。否、却ってその程度を増加しあり。以上の悪傾向は軍隊内の事なりといえども、兵の大部分は郷土より直ちに出征せる召集者なれば、右のごときは軍隊の罪といわんよりも国民の罪なることに注意されたし。

 以上のごときはそもそも如何なる原因に出づるや、軽々に判断すべからずとするも、国民思想、国民教育にたずさわる人士の大いに考慮すべき問題なりと信ず。また我が国民の美点を助長する教導よりも、むしろその欠点を矯正し、かつ大陸雄飛準備の教導がさらに必要にならずやと考う。(後略)

 

    昭和14.5.6[ママ]

 前項に述べたると同様、小学校長団(前回は東部、今次は西部)来訪せしに由り、ほぼ前回と同じ説話を試みたるが、ただ前項美点の部分は少しく補正する所ありたり。即ち左のごとし。

(イ) 忠死の件、前に同じ。

(ロ) 協戮一体

 将と兵と一心同体、互助の精神強く現はることは平時と遥かに差異あり。その一例を挙ぐれば、漢口北方長軒嶺という部落にありし某部隊は郷土慰問演芸の到着を楽しみありしが、この当日の数日前、付近に敵の来攻あり、これが撃退に出動し、戦死者四名の遺屍を携えて当日帰還し来たりしところへ、慰問団到着す。部隊長は右の事情を述べて一旦は慰問演芸を謝絶したるが、暫くして戦死者に対し、生ける者に対するやうに謂って曰く、「お前達もこの慰問団を待ち焦がれていたのだから、矢張り行なって貰う」と。すなわちかねて準備せる粗末なる急造舞台にて慰問演芸を催したり。「永らく演芸に従事しあるも、死骸の前にてこれを演じたるは始めてなり」と慰問団の人々より後日、涙ながらの述懐を聴きたり。

(ハ) 誠意に徹したる虚言は多し。

 出征将兵は軽傷、病院等は家郷に報せずして、健全服務中なる旨を報す。家郷はまた近親の不幸等は出征者に報せず。互いに虚の吐き合いなり。尊き虚なる哉。顔容変調あり、受診を勧むるも、病なしと虚りて作戦目的地到達までは頑張る者、少なしとせず。

 右校長団にして帰国後予に礼状を寄せ感謝し来たりし者、僅かに1名のみ。
 

    昭和14.6.12

 前北平駐在AP特派員ハンソンがネーシヨン紙上に投稿せる記事の一節に、

支那人が遊撃隊として戦いおるは、国家を救うためにあらずして、彼らの村を自衛するためなり。自分は昨1938年の末に4ケ月間、北支ゲリラ隊とともに過ごし、何百人という者になぜ戦うかを訊ねたるに、せの答えは同じタイプのもので、例えば、

 自分の穀倉が掠奪された

 自分の村では女か强姦された

 牛が日本兵に掠奪された

といふがごときものなりき。

 もし日本軍が当初より人民の生命財産につき慎重なる注意を払ったならば、戦争の全過程は変わったものとなっていたであろう」

とあり、右の結論は全然、予と同一意見なり。もし我が軍にして民心把握を大作戦の計画実行と同様、否な、それ以上に重視して励行し来たらんには、事変は既に解決の緒につきありしやも知れずと思う。

 予は討蔣愛民を標榜し、聖戦本義に徹すべく部下を戒飭し来たれるも、未だ狂瀾を既倒に回すこと能わざるを深く恥ずるものなり。

 

    昭和14.6.16

 数日前来訪せし鹿児島県国民学校長連5名に対し、前述小学校長団に対して述べたると同様のこと、殊に中堅壮年者の道義の低下を申せしところ、彼らは共鳴して曰く、国民学校教員にありても大正7~8年ごろ風靡せしデモクラシー思想の青年で師範学校を卒業せし年輩の者どもが、現下、教員として最も不適当なる思想を持しありと。

 我が陸軍士官学校においても当時、一般世態の影響にや、一時、軟教育を行ないて失敗したることあり。

 要するに右の件は日本全般の国民思想上の問題なり。

 

    昭和14.6.30

 戦場においては、明日をも知れぬ生命観の下に人間性の実態を暴露し、従って我が国民思想の反映を観察するに便なり。

 以前の戦役時代と現時代と戦場における将兵の思想·道義にいかなる差異ありやは、すでにしばしば述べたる所なるが、さらに要点を総合比較すれば左のごとし。

(イ) 旧に比し優れる点

 文化の水準高くなりしにより、勇敢性のほか独断性の発達を見る。すなわち作戦に際し機宜の動作を敢行し、戦機を看破して独断、敵の一角に突入して功を奏し、地物を利用し潜行して我が突撃を妨ぐる敵の側防機関を奪取する等、下士官兵の活躍、見るべきものあり、これらは昔の下士官兵には極めて稀なるところなりき。統制下の自由主義の貴むべき一場面とも見るべし。

(ロ) 昔時に比し劣れる点

 既述の諸点(略)

 而して「不怖死」の忠誠心に到りては昔時に比し今の兵隊の方が少しく劣る感あるも、大体この点は民族性の美点として変化なしと断定し得べし。

 しからば一体、昔の兵と今の兵といずれが優れりやという問題に移ることとなるが、具に戦陣の実相を究明して結論すれば、今の兵は服従心、持久力、戦場内務において劣るも、個人戦力は優秀なるをもって、兵の強さにおいては大体、大差なきものと思う。されども勇敢性、剛毅性等の「狭義的强さ」においては、今の兵は昔の兵にやや劣るものありと認めらる。ことことは地方的性格上より見るも、東北兵、九州兵はやはり比較的強いと謂えるに似たり。

 

    昭和14.7.10

 七月号「文芸春秋牧野伸顕伯の松濤閑談の一節に曰く

 日本海海戦の済んた後、国際学士院委員会会長プロフェッサー、シューズという人大喜びでやってきて曰く、「日本の日露戦争における働きというものは実に予想以上にして、明治天皇は実に御偉い御方なり。欧米はキリスト教で愛が道徳観念の基になっているも、今後は日露戦争の経験によって愛のみでは不可。愛国心、パトリオチズムといふものを、少し今後の教育に浸み込ませなければならぬと考えさせられる。しかし自分はなお考えるに、日本はまだ封建時代より余り年数が経っておらぬから、日本の文武の指導者も献身的精神が極めて旺盛なることを示されたが、将来日本が物質的に一層の向上を見た暁には、この日本人の伝統的の志気、愛国心といふものがそのまま働くだろうか。物質的の進歩のためにそういうものが幾分、鈍るのじゃなからうかというようなことも考えさせられる云々」と。

 右観察の適否を現戦場において観るに、すでにしばしば述べたるがごとく志気、愛国心の点においては幾分、鈍った感はあるが、昔時と大差なしと認定し得るも、これら徳目と同等の価値を置くべき対住民道徳律においては、物質的進歩のために(多分それが最大原因ならん)大いに低下したと嘆ぜざるを得ず。

 

    昭和14.7.18

 去月中旬、我が南京総領事館において支配人ボーイが宴会開始の間際、酒の中に毒薬を投じて逃走し、これかため主客に死病者を出したる事件発生せしが、該ボーイが逃走先の上海より南京総領事に充てたる書信に、「自分は永年、日本総領事館に勤め、親切に取り扱われ感謝しあるものなるが、南京攻略戦のとき自分の家族らが強姦·暴行を受け、恨み骨髄に徹し、当日、日本軍司令官が来客中にあるを知りて報復せしものなり」云々とあり。

 

    昭和14.8.22

 神武天皇は御東征、大和に入らせ給ふに際し、国つ神をも天つ神とともに合祀せられ給えり。先住民族に対する差別感を持たせ給わざりしことを拝察すべし。また皇軍に抵抗したる饒速日命が一たび降伏するや、これを御許しになり、御親兵として採用せられ給えり。物部氏の先祖、すなわちこれなり。

 神皇功后の新羅征伐や、豊太閤の朝鮮役における戦地民心把握の制律は、聖戦本義の遵守と見るべし。

 中国の歴史を観るに、清の太祖[→ホンタイジ]は錦州招[→松]山の役に於て大いに明の大軍を破り明将洪承疇を捕へたるが誠意を以て之を説服し、後、大いにこれを用いて利あり、その他、清軍は不焚不犯不敎[→殺]の禁令に徹し、政治面に於ても多くの明人を登用し、民心を宣撫して王業を樹立せり。

 後漢光武帝前漢末の諸将を降し、赤心を推して人の服中に置きしかば、諸将も遂に心服して帝を補け、大業を成立せしめたり。

 また唐の太宗は至誠以て民心を把握し、王業燦として、白楽天をして即不独善戦善乗寺以心感人人心帰と詠はしむるに至れり。

 然るに今次の事変出兵は如何。民を敵とせず聖戦なりといいながら、民心把握に関する大経綸なく、伝統の神武精神も没却せられたり。大業の成り難き、宜なりと謂うべし。

 

    昭和14.11.23

 忠君は日本人の信仰なるの一例。歩第十三連隊某上等兵の手記の一節に曰く、「自分は何時も立哨する前、必す東は何方かと見廻し、暫く瞑目すると妙に心がせいせいする様だ。自分は信仰とては無いが、出征約二年これを続けて来て、東を拝することが信仰となつた。そして持場に立哨するときは、ここが墓場だ、いつも美しく潔めて置こう、そう心に決めてから、いつも陣地は清潔にしていた。云々」と。彼はその戦死に臨み、気息奄〻戦友に請い、東を拝ませて呉れ、俺は万歳を叫ぶぞとて、遂に瞑目せりという。


    昭和15.1.7

 来支那人居留民悪徳例(軍に跟髄せしもの)
 漢口にては勝手に支那商店を占拠し、その所有者帰還に際して保存料として多額の金を捲き上げ、あるいはせの金看板を隠し置き、三百元を受けて返戻せし者あり。

 上海虹口にても勝手に支那商店に浸入占拠し、一、二百円の雜作をなし、所有者帰来に際し数千元の雑作料を請求せし等の不法者少からず、各地にて恣に支那人住宅に入り込み、家主帰来後、極めて低廉なる家賃にて強制的にそのまま永く居住を継続せし者あり。

 かかる徒輩多くして聖戦本義に徹せんとするも得べからず。

 

    昭和一四、一一、一八

 新聞雑誌や内地より来訪せる人士の言を総合するに、内地における社会情勢裏面、概ね左のごとし。

(イ) 農村は一般に緊張しあるも、大都市においては戦時的緊縮を見ず。

【p.34→】

 百貨店、娯楽場、花柳界等は却って殷賑を極む。

(ロ) 経済統制物價価統制等により国民生活は相当窮屈となりしも、闇取引盛んにして、国家よりも自己の利に汲々たる奸商横行す。

(ハ) 戦争すでに二年半を経、財界、知識階級の内部には厭戦気分漸く盛んとなり、当局の事変解決能力を疑い、ノモンハン敗戦のデマと相俟って反陸軍風潮、漸く台頭し来たる。

(ニ) 国民の自主的結束運動は起こらず、国民精神動員の成果も挙がらず、政府が事の真相を国民に知らしめざるため、国民として協力の法無しと非難する者多し。

(ホ) 欧州戦勃発後の対外政策について、表面上はいまだ白紙状態なるも、裏面、底流としては英米接近を可とする伝統派と、ソ連と結んで事変を解決するに努むべしとする派と、独伊枢軸と合併せんと欲する派と、それぞれ対立しあり。

(ヘ) 各界、特に政界に卓越したる人物なく、内外情勢の緊迫に際しこれを打開すべき目途立たず、政治の現在ならびに将来を悲観する者多し。

 予ら第一線人として、まず下より盛り上がる国民の総団結を切望するものなるが、これなくしては困ったものと思う。

 

    昭和15.1.19

 満州事変以来、国民の表裏言論を通観するに、国民性欠陥の一つとして「批評好き」「当局者にけちをつけたがる」の弊あるを認めざるを得ず。而かもその批評は破壊的・悲観的にして、建設的のものなし。満州建国の際のごときも前途悲観の言論批評滔々たる有り様なりしも、事実、立派に建設せられたるにあらずや。

 本月号文芸春秋の「話の屑籠」の一節に、

最近海外から帰ってきた知人の話に、日本ぐらい新聞や雑誌が内閣のアラ捜しをやる国はないだろうといっていた。内閣がいくら変わってもそんなに有力内閣の出現しそうもない現状では、現在の内閣を支持鞭撻して事変の解決に当たる方が国策に順応する道ではないだろうか。事変中に内閣が幾度も変わることは、それ自体、日本の弱体を世界的にさらけ出すことではないだろうか。

とあり実に同感なり。


    昭和15.1.20

 上海渉外係、宇都宮中佐の報告によれば、最近上海において我兵の欧米人殴打四件に上り、対米折衝に悪影響を及ぼしありと。漢口においても数日前、我が歩哨が些々たる事にて日本留学出身の市政府建設局長を殴打し、同局長を憤慨せしめたる事件の発生あり。

 右は言語の不通、風俗習慣の差異等、多少斟酌すべき余地なきにあらざるも、要するに我が兵の国際観念の欠乏、神武精神の忘却によるものなり。第1回上海事変においても、毎日のごとく上海において我が兵の第三国人に対する不法事件起こり、我らをして日本兵は国際都市に駐屯するの資格なしと嘆ぜしめたることを回想す。

 そもそも軍隊の外征または邦人の海外進出に際しては、何を措きても神武以来の仁慈精神、敵国人愛撫、対第三国人心得等を十分に教育すること緊要なり。

 

【p.37→】
    昭和一五、二、二五(漢口㐧十一軍司令部)

 一昨廿三日師団参謀長会同の際某参謀長の報告に「縱令戦闘上の必要に基きたりとは云へ家屋を焚きたる土地にありては其后如何に宣撫に努むるも其効無く之に反し家屋を焚かす略奪强姦など皆無宣撫愛民の行き届きたる地方に在りては敵の攻勢作戦時と雖も住民は我に対する好意を続け我必要なる物資の運搬等手伝つてくれたり而して前者の場合には敵襲に際し住民は敵に通して作戦上我に不利を来せしこと勿論なり、今更ながら軍司令官の愛民方針を遵守すへき必要を痛感せり云〻」と

 昨廿四日某兵団に到りインテリ兵の感想談を聴く其結言に曰く斯くの如く戦つた一ケ月を顧みますと実に感慨無量であります純白なる雪に浄化された兵隊の心は戦友を思ふ涙ぐましい友情のみてありました私は一兵であります兵なるが故に総てを支へてゐる一分子であると思ひます厳粛なる使命の前には尊く逞しい日本人てあると思【p.38→】ひますどんな逆境にありとも出来ぬことはない神必す吾等を助け給ふといふ自信に似た信念を植え付けられた氣が致します 辛いとか悲しいとか嬉しいとか云ふ感情は無く唯一つの任務を終へますと心の底より湧き出る微笑を禁し得ませんでした幼稚な満足感かも知れませんがこれに十分満足していましたと

 

昭和一五、七、一二(東京)

 最近の某日東京駅にて出征兵を見送る二十数名の一団が軍歌を唱ひ萬歳を叫んで其行を壮んにする光景に接す然るに之を囲繞目撃する二、三百の民衆の態度は宛かも街頭の見世物を観るが如く唯見物するのみにして萬歳にも和せず軍歌にも加はらず眞に別世界の人間然たり、知らぬ顔の半兵衛なり、我国民性の缺陥たる公共道德社会道義の缺乏を如実に見せつけられたり

【p.39→】
    昭和一七、六、六(北京北支那方面軍司令部)

 頃日熟ら思ふに批判好き噂好きは実に日本国民性の欠陥の一つなり新聞雜誌は良い点のみ揚けあるは戦時なるが故に余儀なきことなるがそれ丈裏面に於ては事の眞相は斯〻なりとか、総理大臣の私行は斯〻だとか内地より来る旅行者の云ふ所は悉く一致しあり現地に於ても実相に通せさる者が知つたか振りに暗黒面のみ旅行者に語りて得〻たる有様なり斯くして内地のこと現地のこと悉く批判のために批判し噂は噂を生み広く伝播せられ為に国民の志氣は昂らぬといふ次㐧なり

一年此方来訪者の云ふ所は予に対し閣下には近く新京に御榮転の由と洩れ聞きたりとか南京御転任内定確実なりとか云ふ類のもの多し誠に片腹痛きことなり

批判は進歩に役立つものなるか故に批判殊に建設的批判は可なり然れとも批判せんがための批判、破壊的批判は取らさる所なり人誰か落度無からん、此国家の重大事に個人のことを一〻穿鑿するが如きは大国民の態度にあらず少しは抱容を必要とす批判にのみ傾けは対立を生す【p.40→】抱容に失すれは不公正になる大乗佛敎の平等即差別、差別即平等の理に倣ひて批判即抱容、抱容即批判の域に達せんことを必要なりと考ふ

本月廿五日毎日新聞に左の記事あり

十八春大行作戦の従軍を終へて太原に引上けるときのことある二等乗客が「さあ此列車はいつ太原へ着くかな、全く東潞線は乗つたら最后汽車任せだからね」から始まつて脱線は御手のものだとか、最后には歩いた方が早いとか云ひ出した、すると隣に雜誌を読んでゐた若い下士官が頭を上げて「そんなら歩いてお出てになつたらどうですか、この東潞線を日夜匪賊から守るために自分の戦友も死にましたし何人となく戦死者を出したことでせう、あまり悪口は云へないと思ひます」と静かに語つたそばに居た記者も内心はたと膝を打つた(中略)

悪口を言つた乗客はすぐ席から立つて「誠に相済まぬことを言ひました」と心から詫びて廻つてゐたが、その態度は実に立派だつた、汽車に乗るにも皆んな斯ういう事実を胸に秘めて感謝の氣持て乗る【p.41→】ならば旅は一段と明朗になるだらう

右と同類実例は枚挙に遑あらず

 

    昭和一九、六、六(北京北支方面軍司令部)E

 予は今次河南作戦開始后間も無く隷下に対し特に洛陽附近の古代文化を保護尊重すべきを命したるが戦后の視察に依れは洛陽城外の古蹟たる白馬寺、竜門石佛、古憤[ママ]等はみな無事なりしも洛陽城其者は敵将か我降伏勸告に応ぜず激戦を交へたる結果大破壊を蒙りありたり

 

    昭和一九、八、二五(北京北支方面軍司令部)A

 北支三年内地より来りし邦人より聞いたり新聞雜誌記事等を綜合するに今次大戦に於て暴露せられたる国民性の缺陥として指摘すべき点既に述へたると同様なるが再言すれば左の如し

(イ) 個人道德、家族道德は立派なり最近隣組組織に基つく隣組道德も先つ立派なり然れとも依然として大衆の構成分子としての道德は【p.42→】不良なり路傍の人に対する同胞愛は頗る薄し汽車電車内等に於ける公衆道徳は不十分なり闇の横行毫も改まず、国家の存亡を前にして自利を計るに汲〻たる者多し
(ロ) 噂好き批判好きの悪弊は依然たり小磯内閣成立し一時之を謳歌したるも忽ちにして木炭車内閣、短命内閣と噂す、此内閣を極力助けて国難を打開せんとする熱意あるもの極めて稀なり
(ハ) 鍊成ということ流行するも(予の意見)、鍊成とは日本精神の再鍛錬を目的とするが如く、若し日本人にして児童時代其儘の精神思想ならんには再鍛錬の必要なき道理にて汚れたるものを洗濯することあり即ち鍊成とは思想刑務所とも云ふへくか〻ることを表面堂〻乃至は自慢らしく表白するは寧ろ恥辱なりと思ふ

 

    昭和一九、一一、一〇(漢口㐧六方面軍司令部)A、E

 予の漢口着任后隷下指揮下部隊の軍紀、風紀上の失態頗る多きを聞きしが其状態は支那事変勃発以来の通弊的非違を繰り返しあるものなる【p.43→】に由り単なる訓示にては効果少しと思ひパンフレツト式標語式の訓示を印刷配布して座右に揭け毎日読誦せしむることとせり即ち左の如し

 統集団司令官五訓

一、 撃米愛民に徹し焼く犯す殺すを三戒とせよ

二、 衛生軍紀を守れ意到らすして病むは不忠なり

三、 行衛不明は最大の恥辱なり兵器を喪い鞍傷を作るも亦恥と知れ

四、 德義は無形の戦力なり友軍部隊には情誼を尽せ

ご、 資材弾薬を愛護節用せよ、强き部隊には無駄弾なし

 

    昭和二〇、九、一八 (南京総司令官)

 環境の激変に際会して暴露せらせるる日本国民性の缺陥とも云ふへきことを此頃考へさせられる

(イ) 日本国民は統制ある軍隊と雖も環境の激変に際してはパニツクの感受性相当大なり先月十五日乃至十七日内地陸軍に於ては米軍直に上陸し来るとの謠言盛んに起りて一大パニツクとなり大本營の【p.44→】衛兵憲兵等数百名は勝手に解散し(其大部分は后日帰来す)省部各課員はあわて〻極秘機密書類を焼きたる為後日復員等の為に必要なる兵籍等までをも消失す此パニツクが如何なる範囲に及ひしやは明らかならさるも確実に其影響を受けたるは㐧六航空軍なり即ち同軍参謀は急遽各地部隊に飛んて復員解散を命したるに由り騒きは一層甚しくなり将兵は勝手に自動車を操縱して帰郷し糧食被服の大量を同時に持去りしものもあり、飛行機の部分品を盗み出せるもののもあり各部隊は自然に解散し飛行場の機能は停止せられ一部堅確なる部隊長は敢然として耺に留まりしも其耺を続くること能はず、要するに航空軍なるものは命令に基かずパニツクに基きて自然に復員するに至れり
海軍側に於ても一部此パニツクによる自然解散ありしが如し

それにつけても関東震災に於ける所謂鮮人来襲云〻の大パニツクを囘想せさるを得す、当時予は東京戒厳司令部参謀なりしが九月二、三日頃より鮮人武装蜂起来襲の謠言横浜方面に起り忽ち関東【p.45→】一面に伝播して一大パニツクとなり東京市民は全く無秩序無統制となりめいめい勝手に武装し最寄の鮮人を捕へて殺傷し街頭到る処交通遮断して拔き身の刀を提けて夜警に当るといふ状態を予は目撃せり

世田ケ谷の市民は大挙して同地野砲兵旅団長を訪問し多摩川方面に対し鮮人拒止威嚇の目的のために空砲を発射し以て人心を安んせんことを迫り旅団長は再三拒絶したるも民衆の暴動的要求に堪へす遂に空砲を空射せり、然るに世田ケ谷附近の人心は是に由りて一安心したる代りに青山方面の人心は此砲声を聞いて鮮人来襲の謠言の眞実化となり騒ぎは一層甚しくなりしなり

軍部に於ても右の外立川航空隊の連絡将校が陸軍省に出頭して八王子方面より来攻する鮮人部隊に対し防禦するため兵隊の急援を眞顔にて請求するを見たり又習志野に在りし騎兵旅団長は「旅団は市川の線に於て敵を拒止せんとす」といふ作戦命令を下達せること后に至り判明せり

【p.46→】

予は九月四日市中巡視の結果事の容易ならさるを認め意見を具申し翌五日を以て市民の所有する一切の武器を一時警察に取上する戒厳命令を見るに至れり

警視庁は市中の善良なる鮮人二百名余をトラツクに乗せて遠く群馬県方面に避難せしめたるに埼玉、群馬両県境に於て群馬県警察官は県令により鮮人の入県を極力阻止し埼玉県側は東京府よりの転送を主張し荏苒時間を費やしある間、忽ち附近の農村は排鮮人暴動を起し手に手に鋤鍬その他の兇器を携へて此等鮮人を急襲し埼玉県警察官は之を制止すること能はず、激昂したる暴民は次て敵に加担したりとて熊ケ谷警察署を包囲するに至れり当時長野県方面より東京へ転送中なりし部隊の歩兵一中隊は偶〻熊ケ谷駅に達して以上の事実を知]→り急き電話を以て東京戒厳司令部に急報し来りしに由り電話に出てたる予は直に同中隊長に即時下車警察署を急援すへき旨を命したり、本件(詳細省略)は事余りに重大なるに付内務省、司法省と連絡したる上暗より暗に葬ることとせり

【p.47→】

戦場に於ても我軍は戦闘に大敗せること無きを以てパニツクの実例はなきも小パニツクは屢〻其例を見たり「敵襲」云〻のパニツクが暗夜部隊を混乱に陥れたる如きことは少しとせす

(ロ) 次に今次終戦に際する居留民の淺ましき態度に就きては数限りなく見聞きする所なるか今日までに知得せる主なる事項左の如し

(A) 満州より数百の居留民南京に引揚け来り金子に困るとの事なりしに由り総領事館より計数億元の儲備券を支給せしに此等居留民は内地へ送金手続開始と聞くや銀行、郵便局に殺到せり、持つてゐながら持たぬと言ふ者淺ましき者多し

(B) 軍より約三ケ月分の糧食其他を居留民に交付せしに之を市中に賣却せし居留民あり、現に上海虹口に於ては中国人にして街頭に我陸海軍需品たること明瞭なる物品を鬻くもの少なしとせすと云ふ

(C) 上海、南京の一流料理店に今尚ほ日本人の出入りする者相当あり、酔餘俗歌を高唱する故の如し、中国人中に日本人の誠意なきを【p.48→】罵るものあるは無理からぬ次㐧なり

(D) 最近上海の街頭にて傲然たる某日本人の態度を米兵に発見せられ裸にされて着用衣服を見物の中国人に頒与せられたる事例あり

(E) 在上海財界老先輩にして親日家たる周善培はその信頼せる某邦人に漏らして曰く終戦となるや日本の中小会社社長連 陸続として来訪しその会社を予の名義に書き換えて運営を継続し利益は之を折半せんと申し込む者多きも予は悉くこれを謝絶せり多年親日を標榜する予も今日ほど日本人を見下けたることなし云〻と

(F) 北京方面には邦人にして重慶側先遣の参謀、小役人等に運動して残留の耺を求め中には従来の我軍の措置を非難してまて中国人の甘心を買はんとするものあり

(G) 張家口を急遽撤退の際我公使館員は最先に脱出し而かも天津附近終結后尚ほ營業中なりし日本料理店に連夜此等館員が思[ママ]出したりとて引上居留民は大いに憤慨し形勢不利となり此等館員雲隠【p.49→】れするに至る

(H) 南京民団の相談所に来る居留民の相談事項は悉く利己一点張のことのみにして此際一銭にても損をせざる方法を相談に来るもののみなり之がため同所当局は聊か愛想をつかして誠意も乏しくなり又相談申込の居留民側は当局が不親切でありと罵り見苦しき泥仕合を演しあり

(I) 南京某妓楼主は商賣止みたりたりとて四名の妓を街に放逐し此際一食分の携行も許さず、忽ち路頭に迷いし妓等は総領事館、民団に泣付きたるもあまり相手にせられず乞食同様となるとの投書あり

(J) 航空会社南京出張員は終戦と共に会社の大型機にて家族、家具等を内地に運ふに専念し公務を怠りたり而して出張所宿舎建物を引払ふ最后の夜は痛飲放歌、借家なる家屋を破壊せり

(K) 南京居留民の一部 鉄道により上海へ引上げの際並残りの居留民全部か下関集中營へ移転の際の状況を見聞きするに公共道德は【p.50→】零にして「自己さへよければ」の態度に出つるも比〻として皆然り

 

原文:

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/09/07/135529

極東国際軍事裁判所判決より 南京暴虐と松井石根·武藤章 1947.11.

極東国際軍事裁判所 判決

B部 第五章 日本の中國に對する侵略

第四節 蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)から一九三八年一月十六日の近衞聲明まで より

    南京攻擊

 松井が上海派遣軍の司令官に任命され、戦地に向つて東京を出發したときに、豫定の上海を攻略した後には、南京に向つて兵を進める考えをかれはすでに抱いていた。東京を去る前に、上海派遣軍のために、かれは五箇師團を要請した。中國の首都に對する侵攻のために、現實の準備がなされた。というのは、かれはこれより前に上海と南京との附近の地形の調査を行つていたからである。一九三八年十月八日に、松井は聲明を發して、『降魔の利劍は今や鞘を離れてその神威を發揮せんとしている。また軍の使命は日本の居留民及び權益を保護する任務を完全に果し、南京政府及暴戾支那を膺懲するにある』と述べた。上海の周辺の戰鬪地域は擴大するものと思われたので、松井は中支派遣軍[ママ]司令官に任命された。

 一九三七年十一月下旬に、武藤章は松井の参謀副長に選ばれた。上海が攻略されてから一ヶ月を經て、日本軍は南京郊外に到着した。松井は、南京は中國の首都であるから、その占領は国際的事件であり、日本の武威を發揚して中國を畏服させるように、周到な研究をしなければならないという意味の命令を発した。日本側の降伏要求は、中國政府によつて無視された。爆撃が始まり、同市は一九三七年十二月十三日に陷落した。南京に入場した日本軍は、新編成の部隊ではあったが、經驗のある部隊から成り立つていた。一九三七年十二月十七日に、松井は意氣揚々と入場した。十二月十三日から後に『南京暴虐事件』として知られるようになつた事件がおこつた。これは追つて取り上げることにする。

 一九三八年一月一日に、臨時の自治団体が設立され、中國  の正式の國旗である靑天白日旗の代りに、廃止されていた昔の中國の五色旗を揭げた。

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.162) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307400 187~188/316

 

B部 第八章 通常の戰爭犯罪(殘虐行爲) より

    南京暴虐事件

 一九三七年十二月の初めに、松井の指市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に關連して、變態的と嗜虐的な行爲の事例が多數あつた。多數の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の一ヵ月の間に、約二萬の強姦事件が市内に発生した。

 日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪つた。兵が道路で武器を持たない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラツクで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあつた。最も重要な商店街である太平路が家事で焼かれ、さらに市の商業區域が一劃一劃と相次いで燒き拂われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は燒き拂つた。このような放火は、數日後になると一貫した計畫に從つているように思われ、六週間も續いた。こうして全市の三分の一が破壞された。

 男子の一般人に対する組織立つた大量の殺戮は、中國兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口實で、指揮官らの許可と思われるものによつて行われた。中國の一般人は一團にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によつてそこで集團ごとに殺害された。兵役年齢にあつた中國人男子二萬人はこうして死んだことがわかっている。

 ドイツ政府は、その代表者から、『個人ではなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行爲』についての報告を受けた。その報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。

 城外の人々は、場内のものよりややましであった。[「ややましであった」は誤訳。原文は “a little better” ではなく “little better” であるから、「あまりましとはいえなかった」「あまり変わらなかった」と訳すべきである。]南京から二百中國里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で彼らは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占據し、避難民に對して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで五萬七千人以上が追いつかれて收容された。收容中にかれらは飢餓と拷問に遭つて、ついには多數の者が死亡した。生き殘つた者のうちの多くは、機關銃と銃劍で殺された、

 中国兵の大きな幾團かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機關銃掃射によつて、かれらは集團的に射殺された。

 このようにして、右のような捕虜三萬人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の眞似事さえ行われなかつた强

 後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の總數は、二十万以上であつたことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の團体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって説明されている。これらの團体のはまた死体の大多數がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの數字は、日本軍によつて、死体を燒き捨てられたり、揚子江に投げ込まれたり、またはその他の方法で處分されたりした人々を計算に入れていないのである。

 日本の大使館員は、陸軍の戦闘部隊とともに、南京へ入場した。日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入場した。十二月十四日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻擊する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京國際安全地帶委員會に通告した。大使館員はまた委員に對して、同市を占領した當時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によつて配置された憲兵の數は、十七名にすぎなかったことを知らせた。軍當局への抗議が少しも效果のないことがわかつたときに、これらの大使館員は、外國の宣敎師たちに對して、宣敎師たちの方で日本内地に實情を知れわたらせるように試み、それによつて、日本政府が世論によつて陸軍を抑制しないわけに行かなくなるようにしてはどうかといつた。

 ベーツ博士の證言によると、同市の陷落後、二週間半から三週間にわたつて恐怖は極めて激しく、六週間から七週間にわたつては深刻であつた。

 國際安全地帶委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。

 松井は十二月十七日まで後方地區にいたが、この日に入場式を行い、十二月十八日に戰歿者の慰靈祭を催し、その後に聲明を發し、その中で次のように述べた。『自分は戰爭に禍せられた幾百万の江淅地方無辜の民衆の損害に對し、一層の同情の念に堪へぬ。今や旭旗南京場内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亞復興の曙光將に來らんとす。この際特に支那四億万蒼生に對しはんせいを期待するものである』と。松井は約一週間市内に滯在した。

 當時大佐であつた武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この日の入場式と占領に參加した。南京の陷落後、後方地區の司令部にあつたときに、南京で行われている殘虐行爲を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの殘虐行爲に對して、諸外国の政府が抗議を申し込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような效果的な方策は、なんら講ぜられなかつた。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業區域は燃え上つていたという證據が、一人の目撃者によつて、本法廷に提出された。この證人は、その日に、主要商業街だけで、十四軒の火災を目擊した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかつた。

 南京における外交團の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた殘虐行爲の詳細を報告した。

 中國へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行爲について、かれは南京の日本大使館、外交團の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣廣田に、その報告の大要を送つた。南京で犯されていた殘

虐行爲に關して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中國にいた日本の外交官から送られ、廣田はそれらを陸軍省に送つた。その陸軍省では梅津が次官であつた。これらは連絡會議で討議された。その会議には、總理大臣、陸海軍大臣外務大臣廣田、大藏大臣賀屋、參謀總長及び軍令部長が出席するのが通例であつた。

 殘虐行爲にていての新聞報道は各地にひろまつた。當時朝鮮爭督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で讀んだことを認めている。このような不利な報道や、新世界で巻き起された世論の壓迫の結果として、日本政府は松井とその部下の將校八十名を召還したが、かれらを處罰する措置は何もとらなかつた。一九三八年三月五日に日本に帰つてから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戰爭における「功労」によつて叙勲された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が殘虐行爲を犯したためではなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隱退したいと思つたからであると述べている。かれは遂に處罰されなかつた。

 日本陸軍の野蠻な振舞いは、頑强に守られた陣地が遂に陷落したので、一時手に負えなくなつた軍隊の行爲であるとして免責することはできない。强姦、放火及び殺人は南京が攻略されてから少くとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたつて、引續き大規模に行われたのである。

 一九三八年二月五日に、新任の首尾隊司令官天谷少將は、南京の日本大使館で外國の外交團に對して、南京における日本人の殘虐について報告を諸外國に送つていた外國人の態度をとがめ、またこれらの外國人が中國人に反日感情を煽動していると避難する聲明を行つた。この天谷の聲明は、中國の人民に對して何物にも拘束されない膺懲戰を行うという日本の方針に敵意をもつていたところの、中國在住の外国人に對する日本郡部の態度を反映したものである。

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307600 170~179/303

 

附屬書A─五 極東國際軍事裁判所條例 より

第五條 人並ニ犯罪ニ關スル管轄

本裁判所ハ、平和ニ對スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ團體員トシテ訴追セラレタル極東戰爭犯罪人ヲ審理シ處罰スルノ權限ヲ有ス。

左ニ揭グル一又ハ數個ノ行爲ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ屬スル犯罪トス。

 

(イ) 平和ニ對スル罪 卽チ、宣戰ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戰爭、若ハ國際法、條約、協定又ハ誓約ニ違反セル戰爭ノ計畫、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行爲ノ何レカヲ達成スル爲メノ共通ノ計畫又ハ共同謀議ヘノ參加。

(ロ) 通例ノ戰爭犯罪 卽チ、戰爭ノ法規又ハ慣例ノ違反。

(ハ) 人道ニ對スル罪 卽チ、戰前又の戰時中爲サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行爲、若ハ犯行地ノ國内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ屬スル犯罪ノ遂行トシテ 又ハ之ニ關聯シテ爲サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行爲。

上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計畫又ハ共同謀議ノ立案又ハ實行ニ參加セル指導者、組織者、敎唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上爲サレタル一切ノ行爲ニ付、其ノ何人ニ依リテ爲サレタルヲ問ハス、責任ヲ有ス。

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307800

 

付属書A─六 起訴状 より

  第一類 平和ニ對スル罪

下記訴因ニ付キテハ平和ニ對スル罪ヲ問フ

該罪ハ茲ニ記載セラレタル者及ビ其ノ夫々ガ極東国際軍事裁判所條例第五條特ニ第五條(イ)及ビ(ロ)並ニ國際法又ハ其ノ孰レカノ一ニヨリ個々ニ責任アリト主張セラレ居ル行為ナリ

    訴因 第一

全被告ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九二八年(昭和三年)一月一日ヨリ一九四五年(昭和二十年)ニ至ル迄ノ期間ニ於テ一個ノ共通ノ計畫又ハ共同謀議ノ立案又ハ實行ニ指導者、敎唆者又ハ共犯者トシテ參畫シタルモノニシテ斯カル計畫ノ實行ニ付キ本人自身ニヨリ爲サレタルト他ノ何人ニヨリ爲サレタルトヲ問ハズ一切ノ行為ニ對シ責任ヲ有ス

斯カル共同謀議ノ目的ハ日本ガ東「アジア」並ニ太平洋及ビ「インド」洋並ニ右地域内及ビ之ニ隣接セル凡テノ國家及ビ島嶼ニ於ケル軍事的及ビ經濟的支配ヲ獲得スルニ在リ而シテ其ノ目的ノ爲メ獨力ヲ以テ、又ハ同様ノ目的ヲ有スル他ノ諸國ト共同シテ、若クハ右計畫乃至共同謀議ニ誘致又ハ强制的ニ加入セシメ得ル他ノ諸國ト共同シテ、其ノ目的ニ反対スル國又ハ國々ニ對シ宣戰ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ制約ニ違反スル戰爭ヲ行フニ在リ

附屬書Aノ細目、附屬書Bノ條約條項及ビ附屬書Cノ誓約ノ各全部ハ本訴因ニ關係アリ

    訴因 第二十七

全被告ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ中華民国ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

訴因第二於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

    訴因 第二十九

全被告ハ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ「アメリカ」合衆国ニ對シ侵略侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

附屬書Aノ細目中下記節卽チ第四乃至第十並ニ訴因第二十ニ於ケルト同一ノ條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

    訴因 第三十一

全被告ハ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ全「イギリス」聯邦ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

附屬書Aノ細目中下記節卽チ第四乃至第十並ニ訴因第二十ニ於ケルト同一ノ條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

    訴因 第三十二

全被告ハ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ「オランダ」王国ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

訴因第十四ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

    訴因 第三十五

訴因第二十五ニ於ケルト同一ノ被告ハ一九三八年(昭和十三年)ノ夏期中「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

訴因第十七ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

    訴因 第三十六

訴因第二十六於ケルト同一ノ被告ハ一九三九年(昭和十四年)ノ夏蒙古人民共和国及ビ「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

訴因第十七ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

  第二類 殺人ノ罪

下記訴因ニ就キテハ殺人罪及ビ殺人ノ協同謀議ノ罪ニ問フ 該罪ハ茲ニ記載セラレタル者及ビ其ノ各自ガ個々ニ責任アリトセラレ居ル行為ナルト共ニ旣述ノ裁判所条例第五條ノ全項、國際法及ビ日本ヲ含ム犯罪ノ行ハレタル國々ノ国内法又ハ其等ノ一若クハ二以上ニ違反シタル平和ニ對スル罪、通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ對スル罪ナリ

    訴因 第四十五

被告荒木、橋元、畑、平沼、廣田、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木及ビ梅津ハ一九三七年(昭和十二年)十二月十二日及ビ其ノ後引續キ本件訴因第二記載ノ條約條項ニ違反シテ南京市ヲ攻擊シ且國際法ニ反シテ住民ヲ鏖殺スルコトヲ日本軍ニ不法ニ命ジ爲サシメ且許スコトニ依リ不法ニ目下其ノ氏名及ビ員數不詳ナル數萬中華民國ノ一般人及ビ武裝ヲ解除セラレタル兵員ヲ殺害シ殺戮セリ

  第三類 通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ對スル罪

下記訴因ニ付キテハ通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ對スル罪ヲ問フ該罪ハ茲ニ記載セラレタル者及ビ其ノ各自ガ極東國際軍事裁判所條例第五條特ニ第五條(ロ)及ビ(ハ)並ニ國際法又ハ其ノ孰レカノ一ニ依リ個々ニ責任在リト主張セラレ居ル行爲ナリ

    訴因 第五十三

被告土肥原、畑、星野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及ビ梅津ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ一個ノ共通ノ計畫又ハ共同謀議ノ立案又ハ實行ニ指導者、組織者、敎唆者トシテ參畫シタルモノニシテ斯カル計畫ノ實行ニ付気本人自身ニ依リ爲サレタルト他ノ何人ニ依リ爲サレタルトヲ問ハズ一切ノ行為ニ對シテ責任ヲ有ス

斯カル計畫又ハ共同謀議ノ目的ハ當時日本ガ從事セル諸作戦地ノ各々ニ於ケル日本陸海軍ノ最高司令官、日本陸軍省職員、日本領土又ハ其ノ占領地ノ俘虜及ビ一般收容者ノ收容所及ビ勞務班ノ管理當事者、並ニ日本ノ憲兵及ビ警察ト其ノ夫々ノ部下トニ「アメリカ」合衆國、全「イギリス」聯邦、「フランス」共和國、「オランダ」王國「フイリツピン」國、中華民國、「ポルトガル」共和国及ビ「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ノ軍隊ニ對シ並ニ當事日本ノ權力下ニ在リシ此等諸國ノ數千ノ俘虜及ビ一般人ニ對シ附屬書Dニ於テ述ベラレタル條約、誓約及ビ慣行中ニ含マレ且之ニ依リ證明セラレタル戰爭ノ法規慣例ノ頻繁ニシテ且常習的ナル違反行爲ヲ行フコトヲ命令シ授權シ且ツ許可スルコト、而カモ亦日本國政府

ニ於テ上記條約及ビ誓約竝ニ戰爭ノ法規慣例ノ遵守ヲ確保シ且其ノ違反ヲ防止スル爲メ之ニ準據シテ適當ナル手段ヲ執ルコトヲ差控フベキコトニ在リタリ

中華民國ノ場合ニ於テハ該計畫又ハ共同ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ニ始マリ上記指名ノ者ノ外下記被告モ亦之ニ參畫セリ

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南

    訴因 第五十四

被告土肥原、畑、星野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及ビ梅津ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ訴因第五十三ニ於テ述ベタル者ト同一ノ人々ニ同訴因中ニ於テ述ベタル違反行為ヲ行フコトヲ命令シ授權シ且許可シ以テ戰爭法規ニ違反セリ

中華民國ノ場合ニ於テハ該命令、授權及ビ許可ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ニ始マル期間ニ發セラレタルモノニシテ上記指名ノ者ノ外下記被告モ亦之ニ責任ヲ有ス

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南

    訴因 第五十五

被告土肥原、畑、星野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及ビ梅津ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ夫々ノ官職ニ因リ「アメリカ」合衆國、全「イギリス」聯邦、「フランス」共和國、「オランダ」王國「フイリツピン」國、中華民國、「ポルトガル」共和国及ビ「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ノ軍隊ニ並ニ當事日本ノ權力下ニ在リシ此等諸國ノ數千ノ俘虜及ビ一般人ニ關シ上記條約及ビ誓約並ニ戰爭ノ法規慣例ノ遵守ヲ確保スル責任ヲ有シタルモ、其ノ遵守ヲ確保シ違反ヲ防止スルニ適當ナル手段ヲ執ル可キ法律上ノ義務ヲ故意又ハ不注意ニ無視シ以テ戰爭法規ニ違反セリ

中華民國ノ場合ニ於テハ該命令、授權及ビ許可ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ニ始マリ上記指名ノ者ノ外下記被告モ亦之ニ責任ヲ有ス

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南

    [起訴狀]附屬書A

 檢察當局ガ本起訴狀第一類中ニ含マレタル數個ノ訴因ノ支持ノタメ依據セントスル主要ナル事實及ビ出来事ヲ表示セル要約的細目

    第二節

  中華民國ノ他ノ部分ニ於ケル軍事的侵略

 中華民國ニ對スル日本ノ侵略ハ一九三七年(昭和十二年)七月七日新ナル段階ニ入リタリ其ノ日日本國軍隊ハ長城以南ノ中華民国領土ニ侵入シ、日本政府モ亦右侵略ヲ採用シ、支持シ且繼續セリ其ノ後ノ日本政府ハ孰レモ同一政策ヲ踏襲セリ

 本段階ニ於ケル其後ノ主要ナル出來事ハ左ノ如シ

 一九三七年(昭和十二年)九月十九日ヨリ二十五日ニ至ル頃日本軍ハ南京及ビ廣東を爆撃シ故意ニ多数ノ一般人ヲ殺害セリ

 一九三七年(昭和十二年)十二月十三日頃日本軍ハ南京ヲ攻略シ、數萬ノ一般人ヲ鏖殺シ且其ノ他非道ナル行爲ヲ行イタリ。

[以下略]

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307800 126~127, 140~144, 155~156, 159, 161~162/240 

 

A部 第二章 法 (ハ)起訴状[について] より

 訴因第三十七と第三十八は、殺人の共同謀議を訴追している。裁判所條例第五條の(ロ)號と(ハ)號は、通例の戰爭犯罪と人道に對する罪を取扱つている。第五條の(ハ)号には次の一句がある。『上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計畫又ハ共同謀議ノ立案又ハ實行ニ參加セル指導者、組織者、敎唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上爲サレタル一切ノ行爲ニ付、其ノ何人ニ依リテ爲サレタルヲ問ハス、責任ヲ有ス。』

 ニユールンベルクの裁判所條例にも、同じような規定があつたが、そこでは、獨立した項になつており、本裁判所の条例のように(ハ)號のうちに入れられていなかつた。この規定の前後の關係からして、それは明らかにもつぱら(イ)號、すなわち平和に対する罪に關連しているものである。なぜなら『共通ノ計画又ハ共同謀議』が犯罪とされているのは、ただこの部類においてだけだからである。通例の戰爭犯罪と人道に対する罪を犯す共同謀議は、本裁判所の條例では、犯罪とされていないから、この規定はこれらの犯罪には適用されない。

[中略]

 訴因第四十四と第五十三は戰爭法規に違反する罪を犯す共同謀議を訴追している。すでに論じた理由によつて、平和に対する罪以外には、いかなる罪を犯す共同謀議に関しても、裁判所條例は管轄権を與えていないとわれわれは認定する。通例の戰爭犯罪を行う共同謀議の罪については、なんら規定されていない。この見解は、検察によつて受諾されており、これらの訴因の下に有罪の決定をすることは、まつたく求められていない。從つて、これらの訴因は無視することにする。

[中略]

 訴因第三十九ないし第五十二(すでに論じた訴因第四十四を除く)は殺人という起訴事実を含んでいる。これらのすべての訴因では、示された場所と日時において、戦争を不法に遂行した結果として、殺害行為が行われたというのが訴追の要旨である。ある訴因では、その日時は、示された場所において敵對行爲が開始された日時である。ほかの訴因では、その日時は、不法と主張される戦争がすでに進行している間に、その場所が攻撃された日時である。すべての場合に、殺害行為は戦争の不法な遂行から起つたものと主張されている。不法であるというのは、殺害行為が行われる前に宣戦が全然なかつた點においてであるか(訴因第三十九ないし第四十三、第五十一及び第五十二)、殺害行為が戰爭の繼續中に行われた場合に、それらの戰爭がある特定の條約に違反して起されたからである(訴因第四十五ないし第五十)。どの場合でも、もしその戦争が不法でなかつたと認定されたとすれば、殺人という起訴事實は、不法な戰爭の遂行という起訴事實とともに成立しなくなる。他方、なにかの特定の場合に、その戰爭は不法であつたと認められるとすれば、そのときは、それに伴つて、これらの訴因に示されている日時と場所だけでなく、戰爭地域内のすべての場所と、戰爭期間内のすべての時期とにおいて不法な殺害行為が生じることになる。殺人の訴因によつて、右の犯罪のこれらの部分を取扱うことは、我々の見解では、少しも有益な目的を果たすことにならない。というのは、これらの戰爭を不法に遂行するという罪全体が、このような戰爭の遂行を訴追する訴因において、問題となつているからである。

 以上の所見は、列挙されたすべての訴因、すなわち訴因第三十九ないし第五十二(第四十四を除く)に關連するものである。訴因第四十五ないし第五十は述べ方が曖昧である。これらの訴因は異つた場所で、示された日時において行われた殺人を訴追している。これらの殺人は、日本軍隊に對して、これらの場所を攻擊し、それによつて、一般人と武装解除された軍人を不法に殺害することによつて行われたものとされている。これらの訴因の言葉からは、不法な殺害という主張の基礎を、攻撃の不法性に置こうとするのか、その後における戰爭法規の違反に置こうとするのか、またはその両方に置こうとするのか、あまり明瞭でない。その意圖が前者にあるのならば、この類の始めの方の諸訴因の場合と事情は同じである。もし戰爭法規の違反に基礎を置くものとすれば、訴因第五十四と第五十五の起訴事實と重複している。これらの理由だけで、そして、このような事情のもとにおいて殺人の起訴事實の妥當性に関してどのような意見も表明する必要がないと認めて、われわれは、訴因第三十九ないし第四十三と訴因第四十五ないし第五十二について、判定を與える必要がないと決定した。

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307000 39~44/285

 

C部 第九章 起訴状の訴因についての認定 より

 訴因第五十四は、通例の戰爭犯罪の遂行を命令し、授權し、許可したことを訴追している。訴因第五十五は、捕虜と一般人抑留者に關する條約と戰爭法規を遵守し、その違反を防ぐために充分な措置をとらなかつたことを訴追している。われわれは、これらの兩方の訴因に含まれた犯罪が立證されている事例があつたと認定する。

 [中略]

 この判決の前の部分で擧げた理由によつて、われわれは訴因第六ないし第二十六と、第三十七ないし第五十三とについては、なんの宣告も下す必要がないと考える。

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307800 11/240

 

C部 第十章 判定 より

     松井石根

 被告松井は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。

 松井は日本陸軍の高級將校であり、一九三三年に大將の階級に進んだ。かれは陸軍において廣い經驗をもつており、そのうちには、關東軍と參謀本部における勤務が含まれていた。共同謀議を考え出して、それを實行した者と緊密に連絡していたこてからして、共同謀議者の目的と政策について、知つていたはずであるとも考えられるが、、裁判所に提出された證據は、かれが共同謀議者であつたという認定を正當化するものではない。

 一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戰爭の遂行と看做すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正當化するためには、檢察側の義務として、松井がその戰爭の犯罪的性質を知つていたという推論を正当化する證據を提出しなければならなかつた。このことは行われなかつた。

 一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復活した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて。かれは一九三年十二月十三日に南京市を攻略した。

 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であつた。それに續いて起つたのは、無力の市民に對して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい殘虐行爲の長期にわたる連屬であつた。日本軍人によつて、大量の虐殺、個人に對する殺害、强姦、掠奪及び放火が行われた。殘虐行爲が廣く行われたことは、日本人證人によつて否定されたが、いろいろな國籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的證人の反對の證言は、壓倒的に有力である。この犯罪の修羅の騷ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占據されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかつた。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万人以上の人々が殺害され、無數の財產が盗まれたり燒かれたりした。これらの恐ろしい出來事が最高潮にあつたときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自身の觀察と幕僚の報告によつて、かれはどのようなことが起つていたかを知つていたはずである。憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あつたと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に對して、これらの殘虐行爲に關する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。本裁判所は、何が起つていたかを松井が知つていたという充分な證據があると認める。これらの恐ろしい出來事を緩和するために、かれは何もしなかつたか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかつた。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に對して、行動を嚴正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかつているように、またかれが知つていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかつた。かれのために、當事かれは病氣であつたということが申し立てられた。かれの病氣は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの殘虐行爲が起つている間に、何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかつた。これらの出來事に對して責任を有する部隊を、彼は指揮していた。これらの出來事をかれは知つていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもつていたとともに、その權限をももつていた。この義務の履行を怠つたことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

 本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十ニ、第三十五、第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

 

      武藤章

  戦争犯罪

 武藤は、一九三七年十一月から一九三八年七月まで松井の參謀將校であつた。南京とその周縁で、驚くべき残虐行為が松井の軍隊によつて犯されたのたは、この期間においてであつた。多くの週間にわたてて、これらの残虐行為が行われていたことを、松井が知つと同じ趣旨のように、武藤も知つといたことについて、われわれはなんら疑問ももつていない。かれの上官は、これらの行爲をやめさせる充分な手段をとらなかつた。われわれの意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段をとることができなかつたのてまある。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307800 52~54/240

 

 

 

 

「実は酒もあったのですが、南京からここまで来る途中に、敵兵を乗せたジャンクが無数に浮いていたのを片っ端から撃ち沈めた。敗残兵が揚子江の鯰[なまず]の餌食になるのかと思ふと、痛快で仕方がないので、勝利祝いに酒をすっかり飲み乾して仕舞いました。」 橋本金五郎『革新の必然性』「兵に拝む──序に代えて」より 1940.12.31(1937.12.13)


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[前略]

   英艦砲擊   

 かくして杭州灣奇襲部隊は諸兵相ならんで南京へ南京へと急追撃を強行した。

 この一戦で将政権をぶつ倒さうといふ意氣で晝夜となく進軍また進軍。その間にも容易ならぬ辛苦があつた。兵站輸送を待つてはゐられぬから食ふ物がない。雨が降ってひどくぬかるむ。兵も馬も車も泥田に落ちて進めない。すべてが泥人形になつても遮二無二前進せねばならぬ。折しも太湖嵐は容赦なく吹きつけて骨を刺すその慘苦、言語を絕するものだつた。

 僕が附いてゐた部隊は、蕪湖に出て揚子江岸に沿うて南京に攻め入ることになつてゐた。ところが南京陷落の二日前に突如として命令が來て、「今南京から多數の支那兵が運送船で上流方面へ退却中だから、それらの船を全部砲擊せよ」と、いふのだ。

 そこで直に蕪湖へ引き返し、その江岸の路上へ野重砲、野砲、機関銃を並べ、蜒々一里餘にわたる砲列を布いた。時あたかも蕪湖下流數千メートルのところに敗殘兵を乘せた運送船らしいもの數隻が通りかゝつたから、これに砲撃を加へた。

 その船の中に圖らずも英國軍艦があつて、これに我が砲弾の數發が命中して問題になつたといふ話であるが、皇軍としては當然の處置を取つたに過ぎない。

   鯰の餌食

 その時おもしろい事には、英艦砲擊後南京が陷るとすぐ、蕪湖の前面へ日本の驅逐艦が上つて來た。自分は直にその停船を求めると、艦長の某少佐がランチで上陸して來たから、會見して色々情報を交換した。その末に僕は少佐に向ひ、「實は今までわれ〱は食はず飲まずで弱つてゐるから、米と酒があれば少し廻して呉れんか」と、云ふと、少佐はすぐ快諾して後から持参させると言つてくれた。

 これでよし、と喜んでいると、間もなく、海軍兵が米を積んで来て呉れたが、酒はないといふ。艦長の使者として、「實は酒もあつたのですが、南京からこゝまで來る途中に、敵兵を乘せたジャンクが無數に浮いてゐたのを片つ端から擊ち沈めた。敗殘兵が揚子江の鯰の餌食になるのかと思ふと、痛快で仕方がないので、勝利祝いに酒をすつかり飲み乾して仕舞ひました。上げられないで殘念です」と、いふ口上だ。よろしい。

 實は、英艦ですら蕪湖沖を通らうとすれば砲擊されるといふので、支那の運送船は蕪湖から上へは上れない。対岸もすでに日本軍が占領してゐる。そこで南京の敗殘兵は船へ乘り込んだものの、上流へも対岸へも逃げられない。まるで大蛇が象でも呑んだように、南京と蕪湖の間の江上に敵の船が動けずに密集してゐたのを、驅逐艦の砲で擊ちまくるのだから、定めし有効かつ痛快なことであつたらうと想像し、こちらも嬉しかつた。

[中略]

   兵に拜む

 出征以来、帰還まで戦場一年七ケ月の間に種々の場面を見て來たが、あらゆる場合に共通の感慨は「兵に拜む」の一語に盡きる。

 兵は忠烈とも悲壮とも實によく働いてくれる。ひと言も不平を言はず、苦痛を訴へず、黙々として難業を遂行し、笑つて死地に就く。その心栄えの淨らかさにはたゞ頭を下げて拜む外はない。

 兵には父母あり、妻子あり、たまに家族から手紙が來ると無性に喜ぶ兵士の容子を見ては、淚を催すほどいぢらしくなる。それほど愛する家族あるに拘らず兵は、いざ戰鬪となれば、家も忘れ、命も惜しまずにやる。たゞ陛下のため、そして新東洋建設の礎として喜んで死ぬるのだ。

 ところが、内地に歸つて見ると、どうだ。

 銃後はさほど緊張して居らぬ。巷には、むしろ、戦前よりよけいに遊蕩気分が漂うてゐる。

 内政も一向にハキ〱してゐない。政治經濟機構にも大戰時らしい、改革がほどこされず、國家總力を發揮しようにも、出來ぬような仕組みのまゝになつてゐた。

 政黨は事變も知らぬ氣に醜爭を繰り返してゐる。かういふのには卽時結社解散を食らはすのが國民精神を動員する所以ではないか。

 こんなことで東亜の新秩序がどうして出來るものか。日本自らの新秩序を何一つ作り得ないで、どうして東亜新秩序が出來るだらうか。

   外交方針有りや

 外交方面を見ても、然り。

 外交の巧拙はさて措いて、まづ外交方針が有るのか無いのか、若し有りとせば對英、對獨、對露、對米の方針は何所へ向いてゐるのか、といふやうな情ない問ひからして掛からねばならぬ狀態だ。

 現下の日本にとつて眞の敵国はどれか、といふことは夙くに分つてゐる筈だ。僕は出征前から言つてゐる、飛躍日本の行く手を遮る者は英國だ、と。

 まる二年にわたる事變の各段階ごとに、英國は決して第三國ではなく、まさしく正面の敵國であることが明證された。抗日蔣政權に武器與へ、金を與へ、法幣を指示するなどの傍ら、再三再四日本へ抗議を送ったり、その他のがいこうしゅんを弄したりした皇軍の活動を制肘する正眞正銘の敵と知りつゝ、之に敵愾心が起らぬといふのはどうしたことか。

 當面の問題としても支那事變が容易に片付かないのは、端的にいへば英國蒋介石の尻押しをしてゐるからだ。ロシアの尻押しなどは高の知れたものだ。現實に、具體的に抗日政權を助け、佛蘇米を誘ひ入れて、對日包圍戰を展開しつゝある元兇は英國だ。

 支那事変解決の第一義、東亞新秩序建設の要諦は極東から英國勢力を擊攘するにある。

 こんな自明の理も知らずに、何の外交があり得るか。

   仁義道

 今後の世界は、英米佛蘇を根幹とする自由主義的民主々義國家群と日獨伊を樞軸とする全體主義國家主義的國家軍との二大陣營に分れるのは不可避の現象であり、旣に、その對立は尖鋭な事實として進行中だ。

 英佛蘇と日獨伊の對峙、自由主義連衡と全体主義連盟との對立は決して單なる對立に留まらず、食ふか食はれるか、生か死かの決戦であり、血みどろの戰ひだ。二大陣營の中間にあつて日和見をしながら甘い汁を吸へるやうな中立地帶はない。白か黑かだ。宙ぶらりんでゐる國は踏み潰されてしまふ。

 獨伊の結盟は、日本でいはゆる仁義に基いてゐる。ヒツトラーとムツソリニは口の先や紙上の約束で共同してゐるのではない。男と男の仁義によつて堅く誓ひ合つてゐるのだ。

 若し獨伊のどちらかゞ仁義外れをやれば、英佛蘇連衡の手で獨も伊も共に打ちのめされることは明白だ。この両者は嫌応なしに仁義を守つて一團となり、積極的な體當りの戦法に出るしか途がない。舊秩序に從ふか、新秩序を創り出すか、衰亡か発展か、二途択一の絕對境に立つてゐる。

 日本はすでに防共協定の名によつてこの仁義仲間に入つた。入つた以上は仁義を徹底するのが男の道であり、生きる道だ。今さら尻込みする手はない。日獨伊協定は防共に限るとか何とかしみつたれを言ふな。結盟は速かに政治、經濟、文化、軍事にわたり最高度に强化さるべきだ。

 僕は戦地から歸ると、日獨伊樞軸の强化をやるかやらぬかが重大問題になつてゐると聞いて、むしろ不思議に思つたほどである。道義的にも戰略的にも日獨伊同盟は軍事をも含めて全面的に完成されねばならぬ。

   獨伊と結べ

 歐洲では今や獨伊が立ち上がつた。不退轉の勇猛心をもつて舊秩序の破碎にとりかゝつた。英佛蘇連衡の民主々義的舊秩序維持軍と獨伊結盟の國家主義的新秩序創建軍とは、旣に火蓋を切つた。獨伊の奮起は極東における皇軍が蔣介石を前衛とする英プラス佛、蘇の抗日群に對する聖戦を遂行しつゝえるのと相呼應する史的動向だ。世界新秩序への共同戦線だ。

 我も多忙を極めつゝありとはいへ、この時にこそ能ふ限りの具體的援助を獨伊に送つて仁義を盡すべきだ。仁義外れをやればやがては滅亡の運命に遇ふのは古今東西軌を一にして社會人情の示すところではないか。

 當面の支那問題を片付けるためのみにも、抗日の元兇英とこれに附隨する佛蘇を叩き出すのに絶好のチャンスではないか。オーケーと直ぐに言ふのが仁義だ。

 日本が洞ケ峠を決め込んでゐるため、萬一獨伊が敗れるやうなことでもあれば、次は直ちに英米佛蘇連衡が全力を極東に向けて日本打倒と來ることは目に見えてゐる。仁義外れをした者がどちらへ轉んてもいゝ子になれる筈はない。萬一、獨伊が叩かれた後には第二の三国干渉が日本に來るにきまつてゐる。これを防ぎ、いな積極的に極東から悪者を擊攘するために、唯一の最上の方法は獨伊との同盟を最高度に固くして敵に當ることだ。

 

 

 

 

橋本欣五郎 著『革新の必然性』1940年12月31日発行、大日本赤誠会出版局、p.15~p.17、p.20