Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

【リンク·メモ】 故小村侯爵伝記編纂事業ニ関スル最終報告 大正十五年十月八日 信夫淳平 1926. 10. 8

「12.故侯爵小村寿太郎伝 大正十五年十月」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080824100、https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B13080824100

諸修史関係雑件(7-2-1-6/外務省外交史料館https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KIND=summary_normal&IS_START=1&IS_NUMBER=20&IS_TAG_S51=iFi&IS_KEY_S51=F2013090216184812540

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/B13080824100 2/59 右

 

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【工事中】内田良平 著『日本の亜細亜 皇国史談』「日韓合邦」 1932. 12. 10 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1918943/1/158

《形勢良好 成算歴々》
 十一月十四日、著者は宋秉畯を訪ひ、京城より来りし報告書を示したるに、宋も彼の手に達したる報告書を出し、形勢の良好にして生産歴々たるものあるを喜び、翌日武田を京城に向け出発せしむるに決し、十五日、杉山を訪ひしに、杉山告ぐるに「山県公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進会は之を提出して合邦を請ふの手順となれるを語り、更に寺内陸相にも示し、陸相の質問に対し答解し置きたる」を以てし、其問答を覚書となし来り、之を著者に交付した。合邦運動は漸く此処迄進行し来りたるが、
《讒誣中傷に関する桂首相の注意》
之より先き京城に於ける統監曽禰荒輔の感情態度俄かに一変し、書を山県公に寄せて著者を非難し、又た岡喜七郎も統監の意を承け、公に対して盛んに著者を攻撃し来れる旨を桂首相に杉山に注意され、杉山は之に対し、合邦を遂行せんとするには必ず統監の賛同なかる可らず、然るに統監の感情彼が如しとせば、円滑なる進行を期すべからず。因て誤解を釈くの道を講ぜよと著者に勧告して来たので、著者は書を曽禰統監に贈って感情の融和に努めた。時に十一月四日のことであった。
《亀井総監の尽力》
 十一月二十八日、著者は愈よ合邦嘆願書を携へ、京城に出発することゝなり、二十六日桂首相、寺内陸相を訪問したが、生憎何れも留守中なりしを以て書画を両相に致し、又警視総監亀井英三郎を訪ふて発程を告げた。亀井は熱心なる合邦賛成者にして、首相に対する斡旋其他影に陽に力を致せること少なからず、其後に於ても終始尽力する所があつた。杉山は二十六日首相に展開することを得、著者の渡韓に関して述ぶる所があつた。
杉山茂丸首相を説く》
是より先き首相は合邦に賛成したるも、時期の点に於ては未だ確定診断居らざりしを以て、杉山はこの会見に於て、内田及び宋が此の機運に乗じ、合邦論者を統率して其の運動を実現せしむるとすれば、政府者に於て或は事情の不可なるものあらんも、四辺の形勢は今や一進

https://dl.ndl.go.jp/pid/1918943/1/159

会を駆りて苟も一日を緩ふすべからざるに至らしめたるものあり、内田等の渡韓にして遅延せば、彼等は動力事を挙げんとすとの電報頻々として来り居り、徒らに之を看過するに於ては、不測の変を生ずるを免かれざる勢となれるを以て、先づ内田を急行せしめ、次いで宋を派せんとする旨を報告し、且つ其の同意を求めたのである。
《桂首相断然同意を示す》
首相は一時決心を鈍らせ居りたるも、茲に至りては断然同意を表せられたる旨、二十七日の夜、烏森浜の家に於て、著者の送別と協議会とを兼ねて開きたる席上にて杉山から報告を受けた。
《上奏文及建議書提出の手続議定》
 著者は渡韓の途中、


内田良平 著『日本の亜細亜 : 皇国史談』,黒竜会出版部,1932. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1918943 (参照 2024-03-26)

統監府文書第8巻 2.韓日合邦関係書類より 1909. 12. 3 ~

寺内 正毅 1852−1919 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/137/

       十二月三日午後三時二十五分発
       同      六時三十五分著
 曽禰統監宛       寺内陸軍大臣

   電 文 訳
 この電報は榊原少将をして陸軍の暗号にて訳せしめらるべし。
 密報によれば、一進会員は日韓合併の請願をなすの決心をなし、明日にもこれを決行するやの様なり。
 この際における閣下の態度は、将来、国是遂行に大いなる関係を有するをもって、いささか卑見を述べ御参考に供したし。御聴許を得ば幸甚なり。
 もし一進会が前述のごとき請願をなしたる場合においては、統監は泰然としてこれを受領し、単に参考に供すべき旨を答え置かれ、一面、韓国政府に諭し、本件請願のごときは目下、韓国の情態において一つの政事的意見と見るのほかなきをもって、穏当にこれを受領せしむるの処置に執らしめられさかるべしと考う。またこの際、捕縛又はまた虐殺等、無謀なる処置に出でざるよう厳に韓国政府に注意を与えられたし。かつ憲兵警察機関を戒飭し騒擾を予防せしめられたし。また要すれば密かに軍隊を戒め不慮に備え置くの必要あるべし。
 以上は小生一巳 [→己] の私見を披瀝したるものなれども、大体において首相も異存なきことと信ずるをもって、幸いに右の趣旨をもって御処理あらんことを乞う。寺内手書す。

 

曽禰荒助 1849−1910 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sone_Arasuke.jpg

電送 統監:承知 総務長官:了 秘書官:花押 主任:花押 花押【中野】

明治四十二年十二月五日午后六時二十分発
 桂首相      曽祢統監

第36号
 日韓合邦に関する一進会上書の趣旨は、要するに、(一) 韓国皇室の尊栄を日本皇室と共に永遠不朽に垂?れんと欲すること、(二) 韓国をして世界一等国の班に列し、韓国民に日本人同様の権利、幸福を享受せしめんとするの二点に帰着し、合邦の意味は連邦なるがごとく、また合併なるがごとく見え、はなはだ不明なり。
 元来、かかる大事を一進会ごときものの行動に基づき今日に実行せんとするがごときは、徒らに平地に風波を起し、その局を結ぶことなきに終るべし。速成を欲して大成を壊るに至るは必然なるのみならず、延いて 我が陛下の御稜威を傷つけんことを恐る。

内田良平 1874−1937 https://otokojuku.grupo.jp/free698914

 ことに内田は韓人に対し、このことについては桂首相、寺内陸相の密旨を受け来たれることを声言しおれるがごとし。これ、最も憂うべきのことと存ず。本書訳文は閣下はじめ各大臣の御参考として郵送す。
 本官に提出したる右上書のほかに、韓帝および李総理に宛てたるもの弐通あり、その韓帝に対する分は内閣大臣の執奏を煩すとのことなるも、右は国体の変更に関し、古来の慣例に照らし謀反律に問わるべき筋のものなるにつき、これを執奏するは穏当ならずとし返却せんことを□しおれり。右に?取り計らわしめばいかがかな。御返電を乞う。

 

https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=jh_098_0020_0030 1/2 左

    十二月三日午後三時二十五分發
    仝      六時三十五分著
 曾禰統監宛    寺内陸軍大臣

   電 文 譯
此ノ電報ハ榊原少將ヲシテ陸軍ノ暗號ニ
テ譯セシメラルベシ
密報ニ依レハ一進會員ハ日韓合併ノ請願
ヲナスノ決心ヲ為シ明日ニモ之ヲ決行ス
ルヤノ様ナリ

 

https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=jh_098_0020_0030 2/2 右

此際ニ於ケル閣下ノ態度ハ將來國是遂行
ニ大ナル関係ヲ有スルヲ以テ聊カ卑見ヲ
述ヘ御参考ニ供シタシ御聴許ヲ得バ幸甚
ナリ
若シ一進會カ前述ノ如キ請願ヲナシタル
場合ニ於テハ統监ハ泰然トシテ之ヲ受領
シ單ニ参考ニ供スベキ旨ヲ答ヘ置カレ一
面韓國政府ニ諭シ本件請願ノ如キハ目下
韓國ノ情態ニ於テ一ノ政事的意見ト見ル
ノ外ナキヲ以テ穏當ニ之ヲ受領セシムル
ノ處置ニ執ラシメラレ然ルヘシト考フ又

 

https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=jh_098_0020_0030 2/2 左

此際捕縛又ハ虐殺等無謀ナル處置ニ出テ
ザルヨウ嚴ニ韓國政府ニ注意ヲ与ヘラレ
タシ且ツ憲兵警察機関ヲ戒飭シ騒擾ヲ豫
防セシメラレタシ又要スレハ密ニ軍隊ヲ
戒メ不慮ニ備へ置クノ必要アルヘシ
以上ハ小生一巳 [ママ] ノ私見ヲ披瀝シタルモノ
ナレドモ大体ニ於テ首相モ異存ナキコト
ト信スルヲ以テ幸ニ右ノ趣旨ヲ以テ御処
理アランコトヲ乞フ寺内手書ス

 

https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=jh_098_0020_0100 1/2 左

電送 統監:承知 總務長官:了 秘書官:花押 主任:花押 花押【中野】

明治四十二年十二月五日午后六時二十分發
 桂首相      曽祢統監
第三六號
日韓合邦ニ関スル一進会上書ノ趣
旨ハ要スルニ (一) 韓國皇室ノ尊栄ヲ
日本皇室ト共ニ永遠不朽ニ垂?レント
欲スルヿ (二) 韓國ヲシテ卋界一䒭国ノ
班ニ列シ韓國民ニ日本人同様ノ権利
幸福ヲ享受セシメントスルノ二奌ニ归

 

https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=jh_098_0020_0100 2/2 右

着シ合邦ノ意味ハ聨邦ナルカ如ク又合併ナ
ルカ如ク見エ甚タ不明ナリ元来此ル大事ヲ一進
会如キモノヽ行動ニ基キ今日ニ實行セントスルカ
如キハ徒ニ平地ニ風波ヲ起シ其局ヲ結フコトナキニ
終ルヘシ速成ヲ欲シテ大成ヲ壊ルニ至ルハ必然
ナルノミナラス延テ 我陛下ノ御稜威ヲ傷ケン
コトヲ恐ル殊ニ内田ハ韓人ニ對シ此事ニ付テ
ハ桂首相寺内陸相ノ密旨ヲ受ケ来レルコト
ヲ聲言シ居レルカ如シ是最モ憂フヘキノ事
ト存ス本書譯文ハ閣下始各大臣ノ御参

 

https://db.history.go.kr/common/imageViewer.do?levelId=jh_098_0020_0100 2/2 左

考トシテ郵送ス 本官ニ提出シタル右上書ノ
外ニ韓帝及李総理ニ宛タルモノ貮通アリ
其ノ韓帝ニ対スル分ハ内閣大臣ノ執奏
ヲ煩ストノ事ナルモ右ハ国体ノ変更ニ関
シ古来ノ慣例ニ照ラシ謀反律ニ問ハルヘキ
筋ノモノナルニ付キ之レヲ執奏スルハ穏當ナ
ラストシ返却センヿヲ□シ居レリ右ニ?取計
ハ [×レ□□×]
  <シメ> ハ如何哉 御返電ヲ乞フ

 

한국사데이터베이스 韓国史データベース
조선시대 사료 DB 朝鮮時代資料DB
駐韓日本公使館記録・統監府文書
統監府文書第8巻 2.韓日合邦関係書類

2021 年 10 月 18 日に閲覧した日本語ウイキペディア記事「韓日合邦を要求する声明書」より

(現在はすっかり書き換えられている。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%97%A5%E5%90%88%E9%82%A6%E3%82%92%E8%A6%81%E6%B1%82%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%9B%B8

 

“また声明書は、事前に山県有朋桂太郎首相、寺内正毅陸相の同意を得ていたという [10] [11] [12] [13] 。後藤新平逓信相の関与を述べた文書もある [13] [14] 。寺内陸相は声明発表直前 12 月 3 日、曾禰韓国統監に「一進会が請願を出すらしいので受領してほしい。桂太郎首相も同じ考えだろう」と知らせている [15] が、曾禰はこうした行動から 5 日には桂首相宛文書 [16] で「寺内は元々知ってたんじゃないか」と疑っている。”

“[10] 『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、286頁。「 [1909 年 11 月] 十五日、杉山 [茂丸] を訪ひしに、杉山告ぐるに「山県公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進会は之を提出して合邦を請ふの手順となれるを語り、更に寺内陸相にも示し、陸相の質問に対し答解し置きたる』を以てし」”

https://dl.ndl.go.jp/pid/1918943/1/158

内田良平 著『日本の亜細亜 : 皇国史談』, 黒竜会出版部, 1932. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1918943 (参照 2024-03-26)

“[11] 海野福寿『伊藤博文日韓併合』青木書店、2004年、178-179頁。「黒龍会編『日韓合邦秘史』によれば、伊藤の死後まもなく宋秉畯・内田良平・武田範之が合邦請願書の草案を作成し、山県・寺内・桂の同意を得たという。」”

“[12] “한국사데이터베이스 비교보기 > (10) [韓日合邦에 관한 一進會의 請願書 趣旨에 대한 請訓 件]”. https://db.history.go.kr/ 2021年9月6日閲覧。 “往電第三六號 明治四十二年十二月五日午後六時二○分發 曾禰統監 桂首相 …殊ニ內田ハ韓人ニ對シ此事ニ付テハ桂首相寺內陸相ノ密旨ヲ受ケ來レコトヲ聲言シ居レルカ如シ是最モ憂フヘキノ事ト存ス” 

 

“[13] “한국사데이터베이스 비교보기 > (32) 韓日合邦 문제에 관한 件”. https://db.history.go.kr/ 2021年9月6日閲覧。 “(32) 日韓合邦問題ニ關スル件 警秘第三四三號 天眞樓滯在中ノ內田良平ハ去四日來訪シタル大阪每日通信員山本光三ニ對シ語リタリト云フ談片ヲ聞クニ日韓合邦問題ニ關シ一進會カ活動ヲ開始シタルニ對シ世人或ハ突飛的ノ感情ヲ起スモノナキヲ保セサルモ同問題ハ旣ニ伊藤公生存中ヨリ萠芽シ來レル宿題ニシテ日本內閣員中桂總理·寺內陸相·後藤遞相等ノ間ニ於テ專ラ秘密ニ劃策セラレツゝアリテ…”

“[14] “한국사데이터베이스 비교보기 > (43) [韓日合邦에 대한 一進會의 성명서 등 대책에 관한 보고서 사본 송부 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月7日閲覧。 “[一進會 釀成事件의 系統 및 關係者에 관한 報告書 寫本] (憲機第二三六九號) 今回一進會ノ釀成事件ノ系統及關係者左ノ如シトノ說アリ 遞相後藤男爵ハ朝鮮硏究會ト結ヒ宋秉畯ハ後藤男ヨリ金五萬圓ヲ受ケ一進會ノ相談役タル杉山茂九及內田良平ヲ使嗾シタルモノニシテ內田ハ五千圓ヲ以テ渡韓シ當地ニ於テハ新橋榮次郞 (後備輜重兵少尉) 菊池謙讓等モ多少ノ金ヲ貰ヒ運動ヲナシツゝアリ內田良平ニ屬スル井上藤三郞·武田範之等ハ東京ノ相場士又ハ各通信員等ト結托シ米穀ノ騰貴ヲ計リ一儲セン爲メナリト云フ 明治四十二年十二月七日”

“[15] “한국사데이터베이스 비교보기 > (3) [一進會員의 韓日合邦 請願에 관한 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “密報ニ依レハ一進會員ハ日韓合倂ノ請願ヲナスノ決心ヲ爲シ明日ニモ之ヲ決行スルヤノ樣ナリ 此際ニ於ケル閣下ノ態度ハ將來國是遂行ニ大ナル關係ヲ有スルヲ以テ聊カ卑見ヲ述ヘ御參考ニ供シタシ御聽許ヲ得ハ幸甚ナリ 若シ一進會カ前述ノ如キ請願ヲナシタル場合ニ於テハ統監ハ泰然トシテ之ヲ受領シ單ニ參考ニ供スヘキ旨ヲ答ヘ置カレ一面韓國政府ニ諭シ本件請願ノ如キハ目下韓國ノ情態ニ於テ一ノ政事的意見ト見ルノ外ナキヲ以テ穩當ニ之ヲ受領セシムルノ處置ニ執ラシメラレ然ルヘシト考フ又此際捕縛又ハ虐殺等無謀ナル處置ニ出テサルヨウ嚴ニ韓國政府ニ注意ヲ與ヘラレタシ且ツ憲兵警察機關ヲ戒飭シ騷擾ヲ豫防セシメラレタシ又要スレハ密ニ軍隊ヲ戒メ卜慮ニ備ヘ置クノ必要アルヘシ以上ハ小生一己ノ私見ヲ披瀝シタルモノナレトモ大體ニ於テ首相モ異存ナキコトゝ信スルヲ以テ幸ニ右ノ趣旨以テ御處理アランコトヲ乞フ寺內手書ス”

“[16] “한국사데이터베이스 비교보기 > (46) [一進會의 善後策에 대한 總理大臣의 의견 조회 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “今回ノ事件ハ一面ハ陸軍大臣ヨリ請願提出ノ豫報モアリ兼ネテヨリ內容ニ於テ間接ニ御承知アリシ樣ニモ推察セラルゝモ”

 

案 聖断、遂に下れること 1945. 8. 10?

[ 「大本営陸軍部」 事務用箋]

    案

 聖断、遂に下れること。

 国体の絶対性と一億赤子の上とを思召さるる叡慮に順はざるべがらず。聖断、必ずしも吾人の信念において御結論を賜はらざりしこと、責任を感ず。この国難、正に吾人は死に勝る苦痛を共にせざるべからず。

 かかる時のためとも云ふべく陶冶せられたる軍紀、いよいよ鞏化すべき団結、真に統帥中央部の真価を表現すべし。

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12120338400 1/4

[ 「大本營陸軍部」 事務用箋]

   案
聖断遂ニ下レルコト
國體ノ絶對性ト一億赤子ノ上トヲ
思召サルル 叡慮ニ順ハサルヘカラス
聖断 必スシモ吾人ノ信念ニ於テ <御>
              結
[×ハレ×] <論ヲ賜ハラ>
     サリシコト 責任ヲ感ズ
此ノ國難、正ニ吾人ハ死ニ勝ル
苦痛ヲ共ニセサルヘカラス

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12120338400 3/4

[×此×] <斯ル>
   時ノ为トモ云フへ [×キ×] ク陶冶
セラレタル軍紀、愈〻鞏
化スヘキ團結
眞ニ統帥中央部ノ真
價ヲ表現スベシ

 

↑「案 聖断遂に下れること」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120338400、最高戦争指導会議に関する綴 其2 昭和20年4月16日~9月2日(中央-戦争指導重要国策文書-1196/防衛省防衛研究所

【工事中】厚生省引揚援護局資料室『終戦前後に於ける内外地第一線部隊の概観』

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010227200

終戦時における内外地㐧一線軍隊の概観

          昭和二十三、五、調整
          厚生省引揚援護局史料室

↑「表紙「終戦時に於ける内外地第1線軍隊の概観」」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15010227200

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010227300

終戦前後に於ける内外地㐧一線部隊の概観

          昭和三十三年 五 月
          厚生省引揚局援護資料室

↑「中表紙」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15010227300

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010227400

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010227400

↑「目次「終戦時に於ける内外地第1線軍隊の概観」」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15010227400

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010227500 1/2

     前  言
 本書は、 内地及外地に於ける㐧一線軍隊 の  終戦前と終戦時|に於ける態勢並実相  と  終戦后の動向並処理  に 関する概|
観 である。
 元々、方面別毎の終戦記録を整理する爲めの基礎的資料たらしめる|目的を以て、素案を整理し、爾後、逐次、加除修正を重ね、概成を期|したものである。
 素材は、状況報告其他当時の記録・陸軍省(㐧一復員省)の資料課|の整理した情報資料 等 であるが、之等は概して頗る貧弱で、一応|の史実とする為めには所謂資料保有者から色〻と聞かなければならな|いことが甚だ多いのが実情である。
 前述の如く、本書の内容については、逐次、補正し、且つ、拡張附|□しつつ、概成することにしたものであり、昭和三十三年度の当初に|於ては、支那派遣軍南方軍以外は、何れも作業中途で、従つて、詳

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010227500 2/2

細の度は、自ら甚だ区々となつて、南東方面(㐧八方面軍・㐧十七軍)・|中部太平洋(㐧三十一軍)、パラオ(㐧十四師団)、小笠原(㐧百九|師団)等 は、作業の関係上、誠に粗薄とならざるをえなかつた。
 が、之等は、万承知の上で、中間整理の意味を以て、昭和三十三年|度初頭に於ける資料を、取敢えず整理し、他日に於ける研究の材料た|らしめる意味を以て、纏めることとしたのである。
 支那派遣軍南方軍については、一応その史実の整理を了つたが、|茲には概貌を載録すると共に、その足らざる処を部分的に保備する如|く努めた。

↑「第1.諸言」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15010227500

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010231100 1/18

4 支那派遺軍の終戦処理

 支那派遺軍総司令官岡村寧次大将は、八月十日夜以来、放送傍受並|中央からの連絡示達によつて日本の終戦企図を承知し、十二日並十四|日、再度に亘り、国体護持に関し強硬なる意見具申の電報を発信した|が、更に、八月十四日午後六時頃、参謀総長を通じて、屈辱的平和を|排し徹底的戦争遂行に驀進すべく御聖断あらせられ度き意味の上奏電|報を発信した。

  注、之等意見具申並上奏電報の細部は、第一巻「終戦の経|緯」に記述する処の如くである。

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010231100 2/18

然し乍ら、八月十五日正午の玉音放送を拝聴するや、岡村大将は、 直|ちに、承詔必謹の態度を決定し、全軍将兵に対し宸襟を安んじ奉るべ|きことを訓示したのであつたが、派遺軍に於ては、 八月十五日、総司|令官名を以て、参謀総長宛て、

1. 新情勢に基く大陸命至急発令方取計われ度
2. 派遣軍は百万の大軍を擁し、然も、連戦連勝、戦争には破れたり|と 雖も、作戦には圧倒的勝利を占めあり。斯くの如き優勢なる軍|隊を 弱体なる重慶軍により、武装解除さるるが如きは、 有り得べか|らざることにして、然も支那に於ける治安の現況にては 、武装解|除后は、生命の保全をも期し難く、加之、ポツダム宣言に 於ける|日本軍の武装解除には、其の時期と場所とを述べあらずと思料せ|らるるに付、内地帰還后、又は、乗船地とする

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010231100 3/18

如く中央部に於て折衝あり度
 − − − − 後略 − − − −

と要請し、一方、大本営命令に基いて、十六日には積極的侵攻作戦の|中止すると共に一兵に至る迄光輝ある派遣軍の矜持と不抜の信念を堅|持して沈毅自重すべきことを命令し、次いで、仝夜、戦闘行動に関し、|即時停止を命じ、且つ、「命令既に茲に至る、忍び難きを忍び、も迅|速に一兵に至る迄徹底し、以て聖旨に副 [ひ奉] るべし、但し戦闘行動以外の現|任務は之を続行し停戦交渉成立に至る間敵の来攻に方りては已むを得|ざる自衛の為の戦闘行動は之を妨げず」と示逹した。
八月十七日、天皇陛下の御差遣になられた朝香宮鳩彦王大将殿下は、|南京総軍司令部に於て、畏き聖慮を欽逹せられた。
岡村総司令官は、承詔必謹誓つて聖旨に副ひ奉るべき旨奉答申上げる|と共に、左記の通り派遣軍の軍状を報告申上げた。
   軍状報告        臣寧次

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C15010231100 4/18

 


第6.終戦前及終戦時に於ける支那派遣軍の概況/4.支那派遣軍の終戦処理」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15010231100、「終戦時に於ける内外地第1線軍隊の概観」(中央-終戦処理-212/防衛省防衛研究所

参謀総長宛 支那派遣軍総司令官 電報 「臣寧次、謹みて奏上す」 1945. 8. 14

総長
極秘 機密親展 昭和20年8月14日配布
        8月14日 20:25発
        8月14日 21:59着
        8月14日 22:40受付
        8月14日 23・48提出

警急電報
 総 長 宛  発信者 支那派遣軍総司令官
総参一電第九二一号

          臣寧次謹みて奏°上°す。
 肇°国°以来、悠久三千年、尊厳無比なる我が国体護持の為には、全国民熱火一丸となり驕敵撃滅の一途に邁進あるのみ。
 しかして皇軍七百万は皇土および大陸に健在し、支那派遣軍勇躍、任務完遂に邁進中にして、必死敢闘する所、必ずや死中活を求め得べきを確信す。
 外電の伝ふるがごとき屈辱的平和は、光栄輝く帝国を抹殺するものに斉しく、帝国臣民として断じて承服し得ざるのみならず、かくのごときは支那派遣軍の実情上、絶対不可能に近し。今や皇国興亡の関頭に臨み、是非とも微衷を
上聞に達し、徹底的戦争遂行に驀進すべく御聖断あらんことを、伏して祈り上げ奉る。
 昭和二十年八月十四日
      支那派遣軍総司令官 岡村寧次

右、御執奏相成りたし。

 通電先:総長
 参 考:威、関東軍、二総、甲、登、波、統

(終)

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12120339100 1/4

總長           翻譯者:鎌田
極秘 機密親展 昭和二〇年八月十四日配布
        八月一四日 二〇・二五發
        八月一四日 二一・五九著
        八月一四日 二二・四〇受付
        八月一四日 二三・四八提出
警急電報
 總 長 宛  發信者 支那派遣軍總司令官
總参一電第九二一號

     臣寧次謹ミテ奏°上°ス
肇°國°以來悠久三千年尊嚴無比
ナル我ガ國體護持ノ爲ニハ全國民
熱火一丸トナリ
                   ↘

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12120339100 2/4

警急 機密親展
總参一電第九二一號其二
        八月一四日 二二・四〇著
             翻譯者:金子武

驕敵擊滅ノ一途ニ邁進アルノミ
而シテ皇軍七百萬ハ皇土及大陸ニ
健在シ支那派遣軍勇躍任務
完遂ニ邁進中ニシテ
                   ↘

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12120339100 3/4

警急 機密親展
總参一電第九二一號其三
        八月十四日 二二四〇著
             翻譯者:黒田
                 國枝

必死敢鬪スル所必ズヤ死中活ヲ求メ得ベキヲ
確信ス
外電ノ傳フルガ如キ屈辱的平和ハ光榮輝ク帝國ヲ
抹殺スルモノニ齊シク帝國臣民トシテ断ジテ承服シ
得ザルノミナラズ斯クノ如キハ支那派遣軍ノ實情上
絶對不可能ニ近シ 今ヤ皇國興亡ノ
關頭ニ臨ミ是非トモ微衷ヲ
                   ↘

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12120339100 4/4

警急 機密親展
總参一電第九二一號其五、六
        八月十四日 二二・四〇著
             翻譯者:宿沢

上聞ニ達シ徹底的戰爭遂行ニ驀進スベク
御聖断アランコトヲ伏シテ祈リ上ゲ奉ル
  昭和二十年八月十四日
 支那派遣軍總司令官 岡村寧次
右御執奏相成度

 通電先、總長
 参 考、威、関東軍、二總、甲、登、波、統
                  (終)

 

↑「昭和20年8月14日 参謀総長宛支那派遣軍総司令官電報」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120339100 、最高戦争指導会議に関する綴 其2 昭和20年4月16日~9月2日防衛省防衛研究所 中央-戦争指導重要国策文書-1196)