Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

バルフォア宣言 Balfour Declaration 1917. 11. 2

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Balfour_declaration_unmarked.jpg#mw-jump-to-license

        Foreign Office,
          November 2nd, 1917.

Dear Lord Rothschild,
  I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty's Government, the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations which has been submitted to, and approved by, the Cabinet

  "His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country"

  I should be grateful if you would bring this declaration to the knowledge of the Zionist Federation.

            Yours sincerely,
           Arthur James Balfour

 

          外務省
            1917 年 11 月 2 日

親愛なるロスチャイルド
 内閣に提出され、その承認を受けた、ユダヤシオニストの皆様の大望に共感を表す以下の宣言を、陛下の政府に代わって閣下にお伝えできますことは、私の大いなる喜びであります。

「陛下の政府はユダヤの人々のために国家的故郷をパレスチナに創設されることを好ましく考えており、最善の努力をもってこの目的の達成に便宜を図るであろう。その際、パレスチナに現存する非ユダヤの共同体の公民的および宗教的諸権利も、あるいは他のいずれの国に住むユダヤ人の諸権利および政治的地位も、損ねる様なことがあってはならないことは、明瞭に理解されなければならない。」

 この宣言をシオニスト連合会の知るところにしていただけると有り難く存じます。

       真心をこめて
      アーサー・ジェイムズ・バルフォア

 

https://avalon.law.yale.edu/20th_century/balfour.asp

https://www.y-history.net/appendix/wh1501-055.html

https://www.y-history.net/appendix/wh1501-055.html

 

【工事中】徐葆光 著『中山伝信録』巻一 1720. 7. 11

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 康煕庚子七月十一日熱河進
冊封琉球圖夲副墨
 中山傳信錄
 康煕六十年辛丑刊
      二友齋藏板

 

 康煕庚子 (1720 年) 七月十一日に熱河で進呈した琉球冊封の [報告] 図本ですの添付書
 中山伝信録
 康煕六十年辛丑 (1721 年) 刊行
      版木保管 二友齋

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/4764893 17/96

玻璃漏        針盤
  [図]       [図]

 更 (定更法)
海中船行里數皆以更計或云百里爲一更或云六
十里爲一更或云分晝夜爲十更今問海舶夥長皆
云六十里之說爲近

 

玻璃漏        針盤
  [図]       [図]

 更(更を定むる法)
海中船行の里数、みな更を以て計る。あるいは百里が一更をなすと云ひ、あるいは六十里が一更をなすと云ひ、あるいは昼夜を分ちて十更をなすと云ふ。海舶の夥長に今問はば、みな六十里の説を近しと云はむ。

 

玻璃漏        針盤
  [図]       [図]

 更(更の定め方)
海中を船で行く距離はみな「更」[の単位] で計る。百里で一更になるとする者もあれば、六十里で一更になるとする者もあり、一昼夜 [の移動距離] で十更になるとする者もある。海を渡る大船の舵取りに今尋ねれば、みな六十里の説が近いとするであろう。

19 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0123/bunko08_c0123_0001/bunko08_c0123_0001_p0019.jpg

玻璃漏        針盤
  [図]       [図]

 更 (更ヲ定ル法)
海中船行ノ里数。皆更ヲ以テ計ル。或ハ云フ百里ヲ一更ト為。或ハ云フ六十里ヲ一更ト為。或ハ云フ昼夜ヲ分テ十更ト為。海舶ノ夥長ニ今問フニ皆云フ六十里之説ヲ近ト。

 

舊錄云以木柹從船頭投海中人疾趨至梢人柹同
至謂之合更人行先於柹爲不及更人行後於柹爲
過更今西洋舶用玻璃漏定更簡而易曉細口大腹
玻璃瓶兩枚一枚盛沙滿之兩口上下對合通一線
以過沙懸針盤上沙過盡爲一漏卽倒轉懸之計一
晝一夜約二十四漏每更船六十里約二漏半有零
人行先木柹爲不及更者風慢船行緩雖及漏刻尚
無六十里爲不及更也人行後於柹爲過更者風疾
船行速當及漏刻已踰六十里爲過更也

 

旧録に云く、木柿 [板?] を船頭より海中に投じ、人疾く趨りて梢に至る。人、柿 [板?] 同じく至らば、これを合更 (更に合ふ) と謂ふ。人の行くが柿 [板?] に先だつを不及更 (更に及ばず) となす。人の行くが柿 [板] に後るゝを過更 (更に過ぐ) となす。今、西洋の舶、玻璃漏を用ゐて更を定む。簡にして暁し易し。細口大腹玻璃瓶両枚、一枚に沙を盛りてこれを満つ。両口上下対合し、一線を通じて沙を過ごす。針盤上に懸け、沙の過ぎ尽くるを一漏となす。即ち倒転してこれを懸く。一昼一夜を計るに約して二十四漏なり。更毎に船六十里、約して二漏半有零 [=有余] なり。人の行くが木柿 [板?] に先だつを不及更となすは、風の慢にして船の行くが緩く、漏刻に及ぶと雖も尚六十里なく、更に及ばざるためなり。人の行くが柿 [板?] に後るゝを過更となすは風の疾くして船の行くが速く、漏刻に及ぶに当り、已に六十里に踰るを過更となすなり。

 

旧い記録に言われているところでは、木柿 [板?] を船首より海面に投げ落とし、人が末端 [=船尾] を目がけて疾走する。人と柿 [板?] が同時に [船尾に] 達すれば、これを合更 (更に合う) と呼ぶ。人の進むのが柿 [板?] に先立てば不及更 (更に及ばない) と言う。人の進むのが柿 [板] に後れれば過更 (更を過ぎる) と言う。今の西洋の大船は玻璃漏 [=砂時計] を用いて更を定める。簡単であって明らかにしやすい。口が細く腹が大きいガラス瓶一対のうち、一つに砂を盛ってこれを満たす。両方の口を上下に向かい合わせて繋げ、砂に細い線を通過させる。羅針盤の上に吊り下げ、砂がことごとく通過するまでを一漏とする。即座に [上下を] 反転させて吊り下げる。一昼夜を計ると約二十四漏である。一更ごとに船は六十里 [進み]、[その間が] 二漏と余りがおよそ半漏である。人の進むのが木柿 [板?] に先立つことを不及更とするのは、風が弱くて船が進むのが遅く、一漏の刻限が来ても六十里に足らず、更に及ばないためである。人の進むのが柿 [板?] に後れることを過更とするのは、風が強くて船の進むのが速く、一漏の刻限が来た時点で、すでに六十里を超えていることを、更を過ぎたとするのである。

 

20 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0123/bunko08_c0123_0001/bunko08_c0123_0001_p0020.jpg

旧録ニ云ク。木柿ヲ船頭ヨリ海中ニ投シ。人疾ク趨テ梢ニ至ル。人柿同ク至ル。之ヲ合更ト謂フ。人行柿ニ先ツヲ更ニ及ハスト為。人行柿ニ後ルヽヲ更ニ過クト為。今西洋ノ舶。玻璃漏ヲ用テ更ヲ定ム。簡ニシテ暁シ易。細口大腹玻璃瓶両枚。一枚ニ沙ヲ盛テ之ヲ満ツ。両口上下対合シ。一線ヲ通シテ沙ヲ過ス。針盤上ニ懸ク。沙過キ尽スヲ一漏ト為。即倒シ転シテ之ヲ懸ク。計ルニ一昼一夜。約スルニ二十四漏。毎更船六十里。約スルニ二漏半有零。人行木柿ニ先ツヲ更ニ及ハスト為ハ風慢ニシテ船行緩ク。漏刻ニ及ト雖尚六十里無。更ニ及バザル為ナリ。人行柿ニ後ルヽヲ過更ト為ハ風疾クシテ船行速シ。漏刻ニ及ニ当テ。已ニ六十里ニ踰ルヲ過更ト為ナリ。

文部省著作/発行『初等科修身 二』 1942. 2. 19.

初等科修身 二

     文部省

 

  二  『君が代

 君が代
   千代に八千代に
       さざれ石の
 いはほをなりて
     こけのむすまで

 この歌は、
  「天皇陛下のお治めになる時代は、千年も万年もつづいて、おさかえになりますように。」
という意味で、国民が、心からおいわい申しあげる歌であります。

  『君が代』の歌は、昔から、私たちの先祖が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて来たもので、世々の国民のまごころのとけこんだ歌であります。

 祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を声高く歌います。しせいをきちんとた正しくして、おごそかに歌うと、身も心も、ひきしまるような気持になります。

 戦場で、兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かって、聲をそろえて、『君が代』を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすということです。

 また、外国で、『君が代』の歌が奏されることがあります。その時ぐらい、外國に行っている日本人が、日本国民としてのほこりと、かぎりない喜びとを感じることはないといいます。

 

昭和十七年二月十七日 印刷
昭和十七年二月十九日 発行 (非売品)

著作権所有 著作兼
      発行者 文部省

         東京市下谷区二長町一番地
         凸版印刷株式会社
      印刷者 井上源之丞

         東京市下谷区二長町一番地
      印刷所 凸版印刷株式会社

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1277119/1/1

初等科修身 二

     文部省

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1277119/1/8

   二  『君が代

 君が代
   千代に八千代
       さざれ石の
 いはほをなりて
     こけのむすまで
 この歌は、
  「天皇陛下のお治めになる時代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。」
といふ意味で、國民が、心からおいはい申しあげる歌であります。
  『君が代』の歌は、昔から、私たちの先祖が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて來たもので、世々の國民のまごころのとけこんだ歌であります。
 祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を聲高く歌

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1277119/1/9

ひます。しせいをきちんとた正しくして、おごそかに歌ふと、身も心も、ひきしまるやうな氣持になります。
 戦場で、兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かつて、聲をそろへて、『君が代』を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすといふことです。
 また、外国で、『君が代』の歌が奏されることがあります。その時ぐらゐ、外國に行つてゐる日本人が、日本國民としてのほこりと、かぎりない喜びとを感じることはないといひます。

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1277119/1/53

昭和十七年二月十七日 印刷
昭和十七年二月十九日 發行 (非賣品)

著作權所有 著作兼
      發行者 文部省

         東京市下谷區二長町一番地
         凸版印刷株式會社
      印刷者 井上源之丞

         東京市下谷區二長町一番地
      印刷所 凸版印刷株式會社

 

↑文部省 編『初等科修身』第2,文部省,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1277119 (参照 2024-02-20)

内閣官房総務課長『昭和十四年四月以降 国民精神総動員委員会』綴りより 「『一体主義』の概念について」 1939. 7. 11

   「一体主義」の概念について

 一体主義といふ言葉は未だわが国において成熟した概念ではない。しかし、わが国今後の政治、経済、思想、文化の諸般を貫いて高く揚げらるべき新指標が、今日ほど切実に要望されている時代はまたとあるまい。しかもかかる新世代的な指標が生まるべき現実の地盤はすでに成熟しつつあることを、われわれは明確に認知し得るのである。その意味で一体主義なる表現自体には多くの異論があろうけれども、かかる指標が切実に要望される機が熟しつつあることを念頭において、ここにいわゆる「一体主義」という言葉の下に意味し、また意味づけらるべき性格について、簡単なメモを綴って見ることにする。

(一)「一体主義」といふ言葉は未だ成熟した表現ではなく、その意味でも種々なる異論があるとは思われる。しかし「一体主義」という表現自体に余り拘泥することなく、「一体主義」なる名称の下にでも表現されざるを得ない現実の政治的社会的諸状勢は、すでに充分成熟しているということを、考えて見ることがまず重要なのである。

(二) 一国家一国民の生活を指導し決定するものは一国の政治であり、しかも政治は思想によって導かれ、思想は信念において結晶するであろう。われわれはここに速やかに今日のこの危機時代の政治をリードする新思想が確立され、これによって新建設に即応する政治が強力に運営され、日本国家の生存と繁栄のために国民各自の胸に迫り来る東亜新秩序の内容が具体的に明示されねばならないのである。

(三) 思想の貧困は政治の低調を露出する。東亜の新秩序を断固として闘わざるを得ない日本は、最も強力なる政治を待望し、しかも今日最も強力なる政治は新しき認識の上にのみ結実する。そして新しき認識は思想化され、政治において闘われることによりて更に強力化され、ここに初めて新秩序を闘う日本の世界史的な導標となり能うのである。一体主義なる言葉は、この努力の一つの現れと解する時においてのみ、その重要なる意義を見出し得るであろう。(したがって、より適切なる言葉が発見さるれば、それに超したことはない)。

(四) 前述の如く、一体主義は未だ成熟した言葉ではないが、ただ、従来も幾分かかる言葉が用いられなかったというわけではない。例えば土肥原賢二氏がその代表的な例で、氏によれば、「天皇は神ながらの御躬で祭事をされて、上御一人、現人神にあらせられる。かかるが故に、陛下は常に神として無限の御慈みを国民の上に垂れさせ給う。ここに国民が一体となって、また神として崇め、絶対の尊敬を捧げる。ここに君民一体が成り立つ所以ではないだろうか。それに日本の国民は彼の大化の改新、明治の御維新のごとく奉還的精神に一貫しているのも、その根底がここにあるのであろう。これが国体として上下が一つの体、即ち一体につつまれているのである。ところが、全体主義は平面的なるもので、われわれのいうところの一体主義は立体的である、それは上は下を視、下は上を見上げて、視るものを同じうし、下と上と向き合って離れざるところの根底がある。これを個人個人にしていへば、物心一如といふ訳で対立しない。飽くまで一つである。

 ところで、この日本帝国の一体主義というものは単に日本だけに限られたところの思想ではなく、宇宙の真理に一貫した不変なものである。しかして、この一体主義には対立はなく、闘争もない。真に世界に拡むべき性質をもっている偉大なものなのである。この一体主義の発展として、まずわれわれは東亜の生命を考えねばならぬ。黄色人種黄色人種で、黒色人種は黒色人種で、それぞれ同じ境涯、同じ特色をもつている。その境涯、特色を同じうするものが一つの団結、一つのグループ毎に一つの生命があるので、単に自分の民族のみでなく、黄色人種なり黒色人種なり、その各々の生命を盛んならしめ、その全体が各特色を発揮することを自他ともに許して、各々共通するところのものは相携えて各々共通するところの唯一の生命を盛んならしめる途をとることによって初めて団結が出来、一体となることが出来るわけで、それが共同体であり、本当の新秩序への道である。全体主義といふものは、この一体へ至る道程である。すなわち全体主義より、も一歩躍進したものが一体主義である」というのである。

(五) 一体主義に対する土肥原氏のこの説明には勿論議論の余地があるであろうが、しかし一体主義なる言葉の指示する方向に対して示唆される点があると思はれる。

(六) 一体主義といふ言葉は東亜共同体を裏付ける思想的な客観的な理念としての存在を容認し、新秩序を戦ふ日本の現実に照応する思想が、この中に具体的に結実されることを、切実な問題として要請されるのである。したがって一体主義といふ言葉は、個々の評論家等の理論と一応離れ、客観的な理念として、これを思想化し、具体化されるの努力が今後の重要な問題となってくるであろう。

(七) このように、一体主義という言葉は我国において未だ成熟した表現ではないが、今日までの理論的な経緯の中に現わにされ、明かに示された主要な性格は次の諸点において見られると思ふ。

(1) 一体主義は、一言で言えば 天皇帰一主義であり、皇道の本義に立脚した皇道の新世代的表現である。

(2) 一体主義は、東亜共同体の基礎観念として、今次事変の渦中から発見され、その発展において意義づけられるところに新しき役割がある。

(3) 一体主義は、民主主義、自由主義共産主義とは根本的に相容れず、全体主義とはその性格において類似しながら、しかもその前提において異なる観念である。敢えていえば一体主義は、全体主義を更に日本的に止揚·発展せしめたものである。
(4) 一体主義の政治的性格は、現代資本主義社会秩序に伴う弊害、その国内政治的表現として自由主義、民主主義の行き詰まりを止揚し、これを新日本建設の新指標として世界史的な必然において把握すべきものである。    

         (昭和十四年七月十一日)

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629289 1/4 右

   「一 [×体×] <體> 主義」の槪念に就て

 一体主義といふ言葉は未だ我國に於て成熟した槪念ではない。然し、
我國今後の政治、經濟、思想、文化の諸般を貫いて高く揚げらるべき
新指標が今日ほど切實に要望されてゐる時代は又とあるまい。しかも
かゝる新世代的な指標が生まるべき現實の地盤はすでに成熟しつゝあ
ることを我々は明確に認知し得るのである。その意味で一体主義なる
表現自體には多くの異論があらうけれども、かゝる指標が切實に要望
される機が熟しつゝあることを念頭において、こゝに所謂「一体主義」
といふ言葉の下に意味し、また意味づけらるべき性格について、簡單
なメモを綴つて見ることにする。

(一)「一体主義」といふ言葉は未だ成熟した表現ではなく、その意味で
 も種々なる異論があるとは思はれる。倂し、「一体主義」といふ表

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629289 1/4 左

 現自體に餘り拘泥することなく、「一体主義」なる名稱の下にでも
 表現されざるを得ない現實の政治的社會的諸狀勢はすでに充分成熟
 して來てゐるといふことを考へて見ることがまづ重要なのである。
(二) 一國家一國民の生活を指導し決定するものは一國の政治であり、而
 も政治は思想によつて導かれ、思想は信念において結晶するであら
 う。われわれは茲に速かに今日のこの危機時代の政治をリードする
 新思想が確立され、之によつて新建設に即応する政治が强力に運營
 され、日本國家の生存と繁榮のために國民各自の胸に迫り來る東亞
 新秩序の内容が具體的に明示されねばならないのである。
(三) 思想の貧困は政治の低調を露出する。東亞の新秩序を斷固として鬪
 はざるを得ない日本は、最も强力なる政治を待望し、しかも今日最
 も强力なる政治は新しき認識の上にのみ結實する。そして新しき認
 識は思想化され、政治に於て鬪はれることによりて更に强力化され、
 茲に初めて新秩序を鬪ふ日本の世界史的な導標となり能ふのである。

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629289 2/4 右

 一体主義なる言葉はこの努力の一つの現れと解する時においてのみ
 その重要なる意義を見出し得るであらう。(從つて、より適切なる
 言葉が發見さるれは、それに超したことはない)。
(四) 前述の如く、一体主義は未だ成熟した言葉ではないが唯、從來も幾
 分かゝる言葉が用ひられなかつたといふわけではない。例へば土肥
 原賢二氏がその代表的な例で氏に依れは、
 「天皇は神ながらの御躬で祭事を行されて、上御一人、現人神にあ
 らせられる。か [ゝ] るが故に、陛下は常に神として無限の御慈みを國
 民の上に垂れさせ給ふ。こゝに國民が一體となつて、また神として
 崇め、絶対の尊敬を捧げる。こゝに君民一體が成り立つ所以ではな
 いだらうか。それに日本の國民は彼の大化の改新、明治の御維新の
 如く奉還的精神に一貫してゐるのも、その根底がこゝにあるのであ
 らう。これが國體として上下が一つの體、卽ち一體につゝまれてゐ
 るのである。ところが、全體主義は平面的なるもので、われわれの

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629289 2/4 左

 いふところの一體主義は立體的である、それは上は下を視、下は上
 を見上げて、視るものを同じうし、下と上と向き合つて離れざると
 ころの根底がある。これを個人々々にしていへば、物心一如といふ
 譯で對立しない。飽くまで一つである。

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629289 3/4 右

  ところで、この日本帝國の一體主義といふものは単に日本だけに限
 られたところの思想ではなく、宇宙の眞理に一貫した不變なものであ
 る。而して、この一體主義には對立はなく、鬪爭もない。眞に世界に
 擴むべき性質をもつてゐる偉大なものなのである。この一體主義の發
 展として、まづ我々は東亞の生命を考へねばならぬ。黄色人種は黄色
 人種で、黒色人種は黒色人種で、それぞれ同じ境涯、同じ特色をもつ
 てゐる。その境涯、特色を同じうするものが一つの團結、一つのグル
 ープ毎に一つの生命があるので、單に自分の民族のみでなく、黄色人
 種なり黒色人種なり、その各々の生命を盛んならしめ、その全體が各
 特色を發揮することを自他共に許して、各々共通するところのものは
 相携へて各々共通するところの唯一の生命を盛んならしめる途をとる
 ことによつて初めて團結が出來、一體となることが出來るわけで、そ
 れが共同體であり、本當の新秩序への道である。全體主義といふもの
 は、この一體へ至る道程である。卽ち全體主義より、も一歩躍進した

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629289 3/4 左

 ものが一體主義である」と云ふのである。
(五) 一體主義に對する土肥原氏のこの說明には勿論議論の餘地があるであら
 うが、しかし一體主義なる言葉の指示する方向に對して示唆される點
 があると思はれる。
(六) 一體主義といふ言葉は東亜共同體を裏付ける思想的な客觀的な理念
 としての存在を容認し、新秩序を戰ふ日本の現實に照應する思想が、
 この中に具体的に結實されることを、切実な問題として要請されるの
 である。從つて一體主義といふ言葉は、個々の評論家等の理論と一應
 離れ、客觀的な理念として、之を思想化し、具體化されるの努力が今
 後の重要な問題となつて來るであらう。
(七) このやうに、一體主義といふ言葉は我國に於て未だ成熟した表現で
 はないが、今日までの理論的な經緯の中に現わにされ、明かに示され
 た主要な性格は次の諸點において見られると思ふ。

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629289 4/4

(1) 一體主義は、一言で言へば 天皇歸一主義であり、皇道の本義に立
 脚した皇道の新世代的表現である。
(2) 一體主義は、東亞共同體の基礎觀念として、今次事變の渦中から發
 見され、その發展において意義づけられる所に新しき役割がある。
(3) 一體主義は、民主主義、自由主義、共產主義とは根本的に相容れず
 全體主義とはその性格において類似し乍ら、而もその前提において
 異る觀念である。敢ヘて云へば一體主義は、全體主義を更に日本的
 に止揚發展せしめたものである。
(4) 一體主義の政治的性格は、現代資本主義 社會秩序に伴ふ弊害、その國
 内政治的表現として自由主義的、民主主義の行詰りを止揚し、これ
 を新日本建設の新指標として世界史的な必然に於て把握すべきもので
 ある。    

         (昭和十四年七月十一日)

 

↑「一体主義の概念に就て」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15060379600、国民精神総動員(資00334100 国立公文書館

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629110 1/4

昭和十四年四月以降
【秘】
國民精神總動員委員会

   内閣官房総務課長

↑「表紙・目次」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15060379600、国民精神総動員(資00334100 国立公文書館

国民精神総動員委員会決定『昭和十五年における国民精神総動員運動実施方針』1939. 12. 7

 昭和十五年における国民精神総動員運動実施方針
         (昭一四・一二・七
          国民精神総動員委員会決定)

 昭和十五年における国民精神総動員運動は、さきに国民精神総動員委員会において決定せられた各種方策の具体的実践をさらに一層強化·拡充すべきことは勿論であるが、この年はまた支那事変の処理と国際情勢の転移とをめぐって帝国国運の隆替を決する重大なる時機に直面し、国民の日常生活には一段の困難の加はるべきことが予想せられるので、本運動の飛躍的進展を図る必要がある。

 加うるに、あたかも光輝ある紀元二千六百年に相当するをもって、この意義ある年を期していよいよ強力日本態勢の強化を図り、東亜新秩序の建設を推進するため、強力政治を断行するとともに、ますます堅忍持久の精神を振起し、挙国不動の決意をもって事変目的貫徹に邁進すべきである。

 これがためには特に左の諸点に力を注ぎ本運動を実施する必要がある。

一、肇国の大理想と光輝ある国史に基づき、東亜新秩序建設の世界史的意義を強調して、ますます勇往邁進の気魄を昂 [たか] めること。これがためには現下世界情勢の推移と日本を中心とする東亜の歴史、文化等に対する国民の認識を一層深める方法を講ずるとともに、新東亜建設の意義の闡明に努めること。

二、挙国一体たるの国民的信念をますます昂揚するとともに、皇運扶翼の奉公精神を国民の日常生活の間に具現するに努めること。

 特に戦時重大事局の意義を忘却せる非国民的行為の潜行および一切の不健全現象を根絶し、戦時国民道徳の確立により、東亜の指導的立場にある大国民的道徳の具現を期すること。

三、経済統制の強化に伴い国民の経済生活に及ぼす影響ますます大なるべきをもって、不撓不屈、いかなる困苦欠乏にも耐えるの精神力を振起するとともに、公私生活の全面的かつ徹底的刷新を断行するため、興亜生活運動 (仮称) を強力に展開すること。

四、事変処理の進展に伴い思想国防の重要性ますます加わるべきをもって、言論機関、社会教育機関等の活動を促進し、国論の統一強化を図るとともに一層民意を暢達し、真摯なる国民の声を十分政府の施策に反映せしめ、官民一体難局の打開に邁進する様、方策を講ずること。

五、事変の長期化に伴い銃後の熱意、漸次減退するおそれあるをもって、この際、一層これに対する国民の関心を深め、前線銃後一体たるの国民的信念を昂揚して軍事援護の完璧を期すること。

六、国民精神総動員運動の実施を一層効果的ならしめるため、地域別、職場別、団体別の実践網?/綱?を整備強化して、極力その活動を促進すること。

 特に各種の同種団体の統合整理を断行すること。

七、都市における国民精神総動員運動の実績は未だ不充分なるものあるをもって、他の方面に及ぼす影響の甚大なるに顧み、特别なる徹底対策を講ずること。なお社会の指導的立場にある者ならびに殷賑産業関係者に一段の注意と実践とを促すこと。

 

https://www.digital.archives.go.jp/img/1629297 1/102

 

昭和十五年に於ける國民精神總動員運動實施方針
         (昭一四・一二・七
          國民精神總動員委員會決定)

昭和十五年に於ける國民精神總動員運動は、曩に國民精神總動員委員會に於て決定せられた各種方策の具體的實踐を更に一層
强化擴充すべきことは勿論であるが、此の年は又支那事變の處理と國際情勢の轉移とをめぐつて帝國國運の隆替を決する重大
なる時機に直面し國民の日常生活には一段の困難の加はるべきことが豫想せられるので、本運動の飛躍的進展を圖る必要があ
る。
加ふるに恰も光輝ある紀元二千六百年に相當するを以て、此の意義ある年を期して愈々强力日本態勢の强化を圖り、東亞新秩
序の建設を推進する爲、强力政治を斷行すると共に益々堅忍持久の精神を振起し擧國不動の決意を以て事變目的貫徹に邁進す
べきである。
之がためには特に左の諸點に力を注ぎ本運動を實施する必要がある。
一、肇國の大理想と光輝ある國史に基き、東亞新秩序建設の世界史的意義を强調して、益々勇往邁進の氣魄を昂めること。之
 がためには現下世界情勢の推移と日本を中心とする東亞の歷史、文化等に對する國民の認識を一層深める方法を講ずると共
 に、新東亞建設の意義の闡明に努めること。
二、擧國一體たるの國民的信念を益々昂揚すると共に、皇運扶翼の奉公精神を國民の日常生活の間に具現するに努めること。

 

 特に戰時重大事局の意義を忘卻せる非國民的行爲の潛行及び一切の不健全現象を根絕し、戰時國民道德の確立により、東亞
 の指導的立場にある大國民的道德の具現を期すること。
三、經濟統制の强化に伴ひ國民の經濟生活に及ぼす影響益々大なるべきを以て不撓不屈如何なる困苦缺乏にも耐へるの精神力
 を振起すると共に、公私生活の全面的且徹底的刷新を斷行するため興亞生活運動 (假稱) を强力に展開すること。
四、事變處理の進展に伴ひ思想國防の重要性益々加はるべきを以て、言論機關、社會敎育機關等の活動を促進し國論の統一强
 化を圖ると共に一層民意を暢達し眞摯なる國民の聲を十分政府の施策に反映せしめ官民一體難局の打開に邁進する樣方策を
 講ずること。
五、事變の長期化に伴ひ銃後の熱意漸次減退する虞あるを以て、此の際一層之に對する國民の關心を深め前線銃後一體たるの
 國民的信念を昂揚して軍事援護の完璧を期すること。
六、國民精神總動員運動の實施を一層效果的ならしめる爲地域別、職場別、團體別の實踐網?を整備强化して極力其の活動を促
 進すること。
 特に各種の同種團體の統合整理を斷行すること。
七、都市に於ける國民精神總動員運動の實績は未だ不充分なるものあるを以て、他の方面に及ぼす影響の甚大なるに顧み特别
 なる徹底對策を講ずること。尙ほ社會の指導的立場に或る者竝に殷賑產業關係者に一段の注意と實踐とを促すこと。

 

↑「昭和一五年国民精神総動員運動実施方針(昭和一四.一二.七精動委決定)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15060381000、国民精神総動員国立公文書館 資00334100)

【工事中】小松緑著『朝鮮併合之裏面』 1920 .9. 20

[表紙]

松緑

朝鮮併合之裏面

 

[内表紙]

松緑

朝鮮併合之裏面【慶應義塾圖書館】

 

[奥付]

大正九年九月十五日印刷
大正九年九月二十日発行(定価金弐円五拾銭)

著 作 者  小松 緑

発行兼印刷人 東京市芝区愛宕町二丁目二番地
       荒井徳次郎

印 刷 所  東京市芝区愛宕町二丁目二番地
       旭光印刷所

発行所 東京市芝区愛宕町二ノ二
    振替東京三六五〇〇番  中外新論社

 

    第二章 霊南坂の三頭会議

 朝鮮併合の廟議は、何時確定したる乎といふに、それが、正式の閣議を経て、天皇陛下の御裁可を得たのは、明治四十二年七月六日であるが、此の時より約三箇月以前の四月十日に、当時の総理大臣桂太郎と、外務大臣小村壽太郎とが、相与に統監伊藤博文と赤坂霊南坂の官邸に会見し、朝鮮併合の実行方針を協議した時を以て、廟議が確実に決定したことと認むべきである。此の事実は、当時無論極秘に付せられてゐたから、従来世間に知られなかつた。それ故へ、伊藤公が、若し哈爾賓に於て変死しなかつたならば、朝鮮併合は、爾かく急速に実現しなかつたであらうなどと言ふ人が、今尚ほ内外に少くない。それは、全然誤解であるが、世間にかういふ感想を抱く者の少くないのは、必ずしも無理ではない。桂首相や小村外相でさへも、霊南坂会見の

 

時までは、伊藤公が飽くまで漸進主義を固辞して居られたやうに思ひ込んだのである。
 此の隠れたる会見事情は、今日に於ける誤解を釈く為めにも、又後世史家の参考資料としても、精確に語る価値あるものと、吾輩は信ずる者である。
 霊南坂会見の当日が、明治四十二年四月十日とすると、伊藤統監の辞職に先立つこと約二箇月、併合実行の時から一年四箇月以前になる。吾輩は、此の時京城に居つたので、此の会見の事を知らなかつたから、其の内容と時日とを確むる為めに、其の後ち単に伊藤統監及小村外相から聞いた断片的の直話のみに満足せず、更に後日の確証を得て置きたいと思つて、当時の政務局長後ちの外務次官倉知鉄吉から覚書を手に入れた。この覚書は、吾輩の私信に対する回答である上に、今日では、秘密文書の性質を失つて、却つて有力なる史料と認むべきものとなつたから、其の全文を本章の末尾に添付するこ

 

とにした。其の中には、霊南坂会見の内容及時日のみならず、併合という文字を創作した苦心談も述べてある。
 元来、朝鮮の併合は、独り内政上の重大事件なるのみならず、或は容易ならぬ外交問題の起るべき可能性を持つてゐたものである。随つて要路の責任者中異論があつては、到底円滑に其の目的を達することができない。当時山縣有朋は、枢密院議長として、初から朝鮮併合の議に与かり、賛成者といふよりも、寧ろ主唱者であつた。肝心の伊藤統監は、由来温和主義の政治家で何時も急激の政策に反対する性格を持つてゐた。故に朝鮮併合の提案に対し縦 [よ] し主義に於て反対しないとしても、其の時機や、順序や、条件などに就ては、必ず種々の議論を持つて居られるであろうとは、桂首相及小村外相が、心窃かにキタイした所であつた。そこで、両相が相携へて、当時恰も辞職の意を決して上京されてゐた伊藤統監を訪ふ時には、公と大議論を闘はす積りで

 

朝鮮併合の万止むを得ざる理由及事情を立証すべき書類を充分に取り纏め、斯く問はれたらば、斯く答へむ、爾かく難詰せられたらば、爾かく弁明せんなどと、千々に心を砕いたといふことである。愈々伊藤統監に面会して、桂首相先づ口を開いて、朝鮮問題は、同国を我国に併合するより外に解決の途がない旨を告げると、伊藤統監は、案外にも、それは至極御同感ぢやと言はれる。そこで、小村外相から、実行方針として、条約の締結や、王室の処分法等を述べて、公の意見を叩かれた。伊藤統監はそれを傾聴し、説明も求めず、質問も発せず、其れも好し、此れも可也とて、悉く同意を表せられた。是に於て、桂首相も小村外相も、今まで緊張した力も抜けて、意外の感に打たれた。同じ拍子抜けでも、これは、失望ではなく、得意の方であつたから、両相は、伊藤公の大量に敬服して退出したといふことである。此の事実は、吾輩が小村外相より親しく聞いた所であり、又倉知次官の記した覚書の語

 

句に徴しても、誤りのないことが判る。
 吾輩は、伊藤公からも又小村侯からも、久しい間、眷顧を蒙つていたが、両者の間柄は、余り親密でなかったやうに思はれる。それといふのも、小村侯は、山県公の信任を得て、引き立てられた人であり、その性格も、寡言断行の点に於て、伊藤公よりも山県公の方に投合してゐた。小村外相は、山県公が親露策を抱いて、露国に入らんとするを引留めもせずに、突如として日英同盟を締結して、公の鼻を明かせた人である。「小村は、底意の判らぬ男ぢゃ、人の言ふことを只聞くのみで、一向それに拘らず、自分で極めた通りを実行する。学問が嫌ひだから、議論ができぬ。此の間『フォートナイトリー·レヴュー』に載ってゐた巴爾幹論を読んだかと尋ねたら、読まぬといふ、それで外務大臣が勤まるかと威したら、流石の渠 [かれ] も、閉口して了った」などと、伊藤公がはなされた事などを思ひ浮べると、意気が余り合ってゐなかったに相

 

違ない。依って思ふに、霊南坂会見の際に、伊藤統監が一言半句の議論を交へずに、併合実行案に同意せられた訳は、小村外相を相手に議論をしても、何の効能もあるまいと諦められたのか、或は衷心から賛成して居られたのか、その相間に多少の疑がないでもない。伊藤統監が、此の会見後、京城に帰られた時に、公が吾輩に親しく語られた話の中に「如何に強い常陸山でも梅ヶ谷でも、五人も十人も一度に掛かって来られては、かなふものぢゃない」と云ふ述懐があった。その時、公が心に思って居られた事が、統監から枢密院議長に祭り込まれた事であったか、但しは、朝鮮併合の実行問題の方であったか、今尚ほ推断に苦しむ所であるが、公が少くとも、此時分に於て、朝鮮併合の止むべからざることを悟つてゐたことだけは、疑を容れざる所である。但だ其の一国存廃の問題たる性質上、公としては、表面上、殊更に温和説を装はねばならぬ事情もあつたであらう。伊藤公ばかりでなく、何人でも、始

 

から併合の考を起してはゐなかつたに違ひない。伊藤公は三年有の間、韓国の指導に最善の力を尽された。併し公は慈心計りでなく、炯眼も具へてゐた。少くとも、保護政治の晩期に至つて、韓国の病膏肓に入り、到底政治の策なきことを看破されたのである。死病と知りつゝも、患者の治療に丹精を傾けるのが、名医の常である。併し時期が来れば、名医も匙を投げざるを得ない。伊藤公が統監の職を去つたのが、正しく其の時期であつたに違ひない。さうして、公をして早く匙を投げさせやうと腐心した者がある。それは、桂首相でも小村外相でもなかつた。伊藤統監が自ら韓国内閣に推挙した内務大臣宋秉畯とであつた。韓国併合の導火線は、実は此処から伝はつてゐる。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

[表紙]

小松綠著

朝鮮併合之裏面

 


[内表紙]

小松綠著

朝鮮併合之裏面【慶應義塾圖書館】

 

[奧付]

大正九年九月十五日印刷
大正九年九月二十日發行(定價金貳圓五拾錢)

著 作 者  小松 綠

發行兼印刷人 東京市芝區愛宕町二丁目二番地
       荒井德次郞

印 刷 所  東京市芝區愛宕町二丁目二番地
       旭光印刷所

發行所 東京市芝區愛宕町二ノ二
    振替東京三六五〇〇番  中外新論社

 

    第二章 靈南坂の三頭會議

 朝鮮併合の廟議は、何時確定したる乎といふに、それが、正式の閣議を經て、天皇陛下の御裁可を得たのは、明治四十二年七月六日であるが、此の時より約三箇月以前の四月十日に、當時の總理大臣桂太郞と、外務大臣小村壽太郞とが、相與に統監伊藤博文と赤坂靈南坂の官邸に會見し、朝鮮併合の實行方針を協議した時を以て、廟議が確實に決定したことゝ認むべきである。此の事實は、當時無論極祕に付せられてゐたから、從來世間に知られなかつた。それ故へ、伊藤公が、若し哈爾賓に於て變死しなかつたならば、朝鮮併合は、爾かく急速に實現しなかつたであらうなどと言ふ人が、今尙ほ內外に少くない。それは、全然誤解であるが、世間にかういふ感想を抱く者の少くないのは、必ずしも無理ではない。桂首相や小村外相でさへも、靈南坂會見の

 

時までは、伊藤公が飽くまで漸進主義を固辭して居られたやうに思ひ込んだのである。
 此の隱れたる會見事情は、今日に於ける誤解を釋く爲めにも、又後世史家の參考資料としても、確に語る價値あるものと、吾輩は信ずる者である。
 靈南坂會見の當日が、明治四十二年四月十日とすると、伊藤統監の辭職に先だつこと約二箇月、へ合實行の時から一年四箇月以前になる。吾輩は、此の時京城に居つたので、此の會見の事を知らなかつたから、其の內容と時日とを確むる爲めに、其の後ち單に伊藤統監及小村外相から聞いた斷片的の直話のみに滿足せず、更に後日の確證を得て置きたいと思つて、當時の政務局長後ちの外務次官倉知鐵吉から覺書を手に入れた。この覺書は、吾輩の私信に對する囘答である上に、今日では、祕密文書の性質を失つて、却つて有力なる史料と認むべきものとなつたから、其の全文を本章の末尾に添付するこ

 

とにした。其の中には、靈南坂會見の內容及時日のみならず、併合という文字を創作した苦心談も述べてある。
 元來、朝鮮の併合は、獨り內政上の重大事件なるのみならず、或は容易ならぬ外交問題の起るべき可能性を持つてゐたものである。隨つて要路の責任者中異論があつては、到底圓滑に其の目的を達することができない。當時山縣有朋は、樞密院議長として、初から朝鮮併合の議に與かり、贊成者といふよりも、寧ろ主唱者であつた。肝心の伊藤統監は、由來溫和主義の政治家で何時も急激の政策に反對する性格を持つてゐた。故に朝鮮併合の提案に對し縱し主義に於て反對しないとしても、其の時機や、順序や、條件などに就ては、必ず種々の議論を持つて居られるであらうとは、桂首相及小村外相が、心竊かに期待した所であつた。そこで、兩相が相携へて、當時恰も辭職の意を決して上京されてゐた伊藤統監を訪ふ時には、公と大議論を鬪はす積りで

 

朝鮮併合の萬止むを得ざる理由及事情を立證すべき書類を充分に取り纏め、斯く問はれたらば、斯く答へむ、爾かく難詰せられたらば、爾かく辯明せんなどゝ、千々に心を碎いたといふことである。愈〻伊藤統監に面會して、桂首相先づ口を開いて、朝鮮問題は、同國を我國に併合するより外に解決の途がない旨を吿げると、伊藤統監は、案外にも、それは至極御同感ぢやと言はれる。そこで、小村外相から、實行方針として、條約の締結や、王室の處分法等を述べて、公の意見を叩かれた。伊藤統監はそれを傾聽し、說明も求めず、質問も發せず、其れも好し、此れも可也とて、悉く同意を表せられた。是に於て、桂首相も小村外相も、今まで緊張した力も拔けて、意外の感に打たれた。同じ拍子拔けでも、これは、失望ではなく、得意の方であつたから、兩相は、伊藤公の大量に敬服して退出したといふことである。此の事實は、吾輩が小村外相より親しく聞いた所であり、又倉知次官の記した覺書の語

 

句に徵しても、誤りのないことが判る。
 吾輩は、伊藤公からも又小村侯からも、久しい間、眷顧を蒙つていたが、兩者の間柄は、餘り親密でなかつたやうに思はれる。それといふのも、小村侯は、山縣公の信任を得て、引き立てられた人であり、その性格も、寡言斷行の點に於て、伊藤公よりも山縣公の方に投合してゐた。小村外相は、山縣公が親露策を抱いて、露國に入らんとするを引留めもせずに、突如として日英同盟を締結して、公の鼻を明かせた人である。「小村は、底意の判らぬ男ぢゃ、人の言ふことを只聞くのみで、一向それに拘らず、自分で極めた通りを實行する。學問が嫌ひだから、議論ができぬ。此の間『フォートナイトリー·レヴュー』に載つてゐた巴爾幹論を讀んだかと尋ねたら、讀まぬといふ、それで外務大臣が勤まるかと威したら、流石の渠 [かれ] も、閉口して了つた」などと、伊藤公がはなされた事などを思ひ浮べると、意氣が餘り合つてゐなかつたに相

 

違ない。依つて思ふに、靈南坂會見の際に、伊藤統監が一言半句の議論を交へずに、併合實行案に同意せられた譯は、小村外相を相手に議論をしても、何の效能もあるまいと諦められたのか、或は衷心から贊成して居られたのか、その相間に多少の疑がないでもない。伊藤統監が、此の會見後、京城に歸られた時に、公が吾輩に親しく語られた話の中に「如何に强い常陸山でも梅ヶ谷でも、五人も十人も一度に掛かつて來られては、かなふものぢゃない」と云ふ述懷があつた。その時、公が心に思つて居られた事が、統監から樞密院議長に祭り込まれた事であつたか、但しは、朝鮮併合の實行問題の方であつたか、今尙ほ推斷に苦しむ所であるが、公が少くとも、此時分に於て、朝鮮併合の止むべからざることを悟つてゐたことだけは、疑を容れざる所である。但だ其の一國存廢の問題たる性質上、公としては、表面上、殊更に溫和說を裝はねばならぬ事情もあつたであらう。伊藤公ばかりでなく、何人でも、始

 

から併合の考を起してはゐなかつたに違ひない。伊藤公は三年有の間、韓國の指導に最善の力を盡された。併し公は慈心計りでなく、炯眼も具へてゐた。少くとも、保護政治の晚期に至つて、韓國の病膏肓に入り、到底政治の策なきことを看破されたのである。死病と知りつゝも、患者の治療に丹精を傾けるのが、名醫の常である。併し時期が來れば、名醫も匙を投げざるを得ない。伊藤公が統監の職を去つたのが、正しく其の時期であつたに違ひない。さうして、公をして早く匙を投げさせやうと腐心した者がある。それは、桂首相でも小村外相でもなかつた。伊藤統監が自ら韓國內閣に推擧した內務大臣宋秉畯とであつた。韓國併合の導火線は、實は此處から傳はつてゐる。

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【工事中】桂太郎覚書

 宇佐川へ一進会のこと
   第一
皇室の件、合意
統監府廃止し、総督府を置くこと
韓国内閣を廃止、法部を復活のこと
元老始末、合意
一、皇太子将来の始末
一、憲法は無用
一、地方官衙は三ヶ所模範的に設置
一、市税は廃止、[併合] 実行前に実施
一、地方警察は憲兵
一、[併合] 実行前に増兵
一、韓国警察を東京に出張せしむること
  ただし在東京韓人取締

https://dl.ndl.go.jp/pid/3947474/1/1

桂公手書朝鮮併合䖏分案覺書

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/3947474/1/2

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/3947474/1/3

 宇佐川ヘ一進會ノコト
   㐧一
皇室之件
   合意
統監府廃止シ
総督府ヲ置クコト
韓国内閣ヲ廃止
法部ヲ復活
ノコト
元老始末
   合意
一 皇太子將來ノ
  始末
憲法ハ無用

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/3947474/1/4

一 地方官衙
  三ヶ所模範
  的ニ設置
一 市税ハ廃止
  実行前ニ実施
一 地方警察
  ハ憲兵
一 実行前ニ增兵
一 韓国警察ヲ
  東京ニ出張
  セシムルコト
  但在東京韓人
  取締

 

 

明治43年
桂太郎関係文書 112
国立国会図書館
dl.ndl.go.jp/pid/3947474/1/1