Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

2020-01-01から1年間の記事一覧

ラーベの日記 12月12日 1937.12.12

12. Dezember Meiner Erwartung, daß die Japaner die stadt in aller Stille genommen aben, bestätigt sich nicht. Man sieht immer noch die mit gelben Armbinden versehenen chinesischen Truppen in unsere Zone, bis zum Hals bewaffnete nit Gewehre…

ラーベの日記 12月11日 1937.12.11

11. Dezember, 8 Uhr früh Wasserleitung und Licht versagen. Die Beschießung dauert immer noch an. Hin und wieder schwächt der Lärm etwas ab, um dann von neuem auszubrechen. Unser »Peter« scheint das zu lieben. Er singt dazu, was die Kehle h…

ラーベの日記 十二月十五日 1937. 12. 15

15. Dezember Um 10 Uhr früh erhalten wir den Besuch des Marineleutnants Sekiguchi. Wir geben ihm Kopien unserer Briefe an den Oberkommandierenden der japanischen Armee. 十二月十五日 午前十時頃、委員会は関口海軍少尉の訪問を受ける。日本陸軍…

ラーベの日記 十二月十四日 1937. 12. 14

Dokument 10 14 Dezember 1937: Wichtige Mitteilumg an die Flüchtlinge in der Flüchtlingszone 1. Es wird allen Leuten dringend geraten, sich nach Möglichkeit nicht auf der Straße aufzuhalten. 2. Im Augenblick der grõßten Gefahr ist es ratsam…

ラーベの日記 十二月十三日 1937. 12. 13

13. Dezember Die Japaner haben in der letzten Nacht nur einige Stadttore besetzt, sind aber in das Innere der Stadt noch nicht vorgedrungen. 十二月十三日 【夜も明けやらぬうちから再び空襲を受けて飛び起きるとき、私は胸の内に失望を感じる。爆…

天皇裕仁、関東軍に勅語下賜「さきに満洲において事変の勃発するや、自衛の必要上、関東軍の将兵は…速やかにこれを芟討せり。爾来…各地に蜂起せる匪賊を掃蕩し…その禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり。朕深くその忠烈を嘉す。」 1932.1.8

8.関東軍に勅語下賜 大元帥陛下には、畏くも極寒の満洲の山野に日夜奮戦努力している我が在満部隊に対し先に侍従武官を御差遣、御慰問あそばされたが、さらに1月8日、このほど暴虐なる兵匪を関内に撤退せしめたる在満将兵の労苦をいたわらせられる思し召…

ラーベの日記 12月10日 1937.12.10

10. Dezember Die Nacht war sehr unruhig. Kanonendonner, Gewehr- und MG-feuer von 8 Uhr gestern abend bis etwa 4 Uhr früh. Wie ich höre, hätten die Japaner um ein Haar die Stadt bereits gestern früh in ihrem Besitz gehabt; sie waren bis zum…

上海派遣軍作戦命令 12月10日正午「第16師団は紫金山東北麓より東南麓の線に、第9師団は中山門東方地区より中和橋北側を経てその西南方地区にわたる線に進出し、各々当面の敵を攻擊中なり。軍は主力をもつて依然、南京攻撃を続行せんとす。」 午後1時30分「軍は速やかに南京を攻略し、引き続き城内の残敵を掃蕩せんとす。」 独立飛行第4中隊戦闘詳報より 1937.12.10

軍命令の要旨 (上軍作命甲第256号 12月10日正午 於 句容軍司令部) 1. 第16師団は紫金山東北麓より東南麓の線に、第9師団は中山門東方地区より中和橋北側を経てその西南方地区にわたる線に進出し、各々当面の敵を攻擊中なり。 2. 軍は主力をもつて依然、南…

12月9日午後7時の上海派遣軍作戦命令 「第16師団は麒麟門およびその西南方地区に、第9師団は南京城南側地区に進出し、当面の敵を攻擊中なり。」「軍は主力をもつて依然、南京攻略を続行するとともに…」 独立飛行第4中隊戦闘詳報より 1937.12.9

軍命令の要旨 (上軍作命甲第255號 12月9日午後7時 於 句容軍司令部) 1. 第16師団は麒麟門およびその西南方地区に、第9師団は南京城南側地区に進出し、当面の敵を攻擊中なり。 第13師団は常州~金壇城~天王寺道を天王寺付近に向かひ前進中なり。 2. 軍…

「遂に対米英蘭開戦の御聖断下れり。真に世界歴史の大転換なり。皇国悠久の繁栄はここに発足せんとす。百年年戦争、何ぞ辞せん。一億国民、鉄石の団結をもつて、勝利の栄光を見るまで邁進せんとす。」 戦争指導班『機密戦争日誌』 1941.12.1 

機密戦争日誌 第二十班 昭和 16 年 12 月 1 日 一、午後二時より四時にわたり御前会議開催。正に歴史的御前会議なり。遂に対米英蘭開戦の御聖断下れり。真に世界歴史の大転換なり。皇国悠久の繁栄はここに発足せんとす。百年戦争、何ぞ辞せん。一億国民、鉄…

「かくて全国民の血は湧き肉躍る。」「しかれども戦争の終末をいかに求むべきや、これ本戦争最大の難事、神人一如の境地において始めてこれが完きを得ベきかな。」 戦争指導班『機密戦争日誌』 1941.12.8

機密戦争日誌 第十五課 昭和16年12月8日 一、午前七時、臨時ニュースをもつて帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れる旨、大本営陸海軍部発表あり。 二、第二十五軍の南タイ急襲上陸、海軍のハワイに対する大戦略奇襲成功。…

「海軍側は手薄のため在郷軍人団および一時青年団または自警団を閘北占領地内の治安維持に用ひたる行き懸かりもあり、彼らの行動は、便衣隊に対する恐怖および憎悪とともに、あたかも大地震当時の自警団の朝鮮人に対する態度と同様なるものあり、支那人にして便衣隊の嫌疑をもつて処刑(殺戮)されたるもの既に数百に達せるもののごとく」 在上海重光公使より芳沢外務大臣あて電報 1932.2.2

昭和7年2月2日 在上海重光公使より芳沢外務大臣あて電報 上海帰任以後の状況について 上海 2月2日午後発 本省 2月2日午後着 第61号 本使着任以後の当方面状況、左の通り。なほ総領事電報参照ありたし。 1.我が陸戦隊はその占領地域を死守し居り、兵…

日本外交文書 満州事変 第2巻より 第1次上海事変における「便衣隊」と「自警団」 1932.2

在昭和7年2月1日 上海重光公使より芹沢外務大臣あて電報 上海 2月1日午後発 本省 2月1日午後着 第56号 本使、帰任後直ちに現下の実情を子細に観察せるところ(一般情勢は上海閣下あて電報第158号によりご承知の通り)予想外に急迫せる事態と認めらる…

松井石根『戦陣日誌』から(新漢字ひらがな表記) 1937.11.1~1938.2

昭和12年 11月1日 《周宅に軍司令部移転》 昨夜来、雨なりしも、今朝以来、漸次霽[は]る。 午後1時、楊家宅司令所出発。新に大場鎮南方約2キロの周宅に移る。 《新司令部は上海市政府公立の助産教育学校および児童健康部にて、さきの呉淞水産学校はともに…

松井石根『出征日誌第2巻』から(新漢字ひらがな表記) 1937.9.23~10.31

9月23日(敵兵毒ガス使用?) 本日、霖雨なほ霽れず、時々小雨あり。陰鬱極まりなし。 1.第11師団の情況 師団主力は昨日に続きて攻撃を力行し、羅店鎮南端よりまた坑道作業と相まつてその南方奚家宅付近を占領するを得たり。その中央および左翼方面は依然…

帝国日本軍/同盟通信の「支那軍毒瓦斯使用」宣伝 1937.7-12

同盟旬報 第1巻 第04号(通号004号)P.0259 https://www2.i-repository.net/contents/myc/chosakai/A01_0104_004.pdf 南京政府、毒ガス製造 天津【7.28】塘沽に工場を有する水利化学公司は、南京政府の密命により毒ガス製造のため中間製品たる塩素およびアル…

「昨日の声明で言いたいことはすべて言ひ尽くしている。」「昨日はじめてああいう声明を出し、自分とし今後の作戦に当たる心持ちを発表したわけである。」 松井最高指揮官談 1937.10.9

同盟旬報 第1巻 第11号 (昭和12年・10月上旬号) 839(31) 支那事変 松井最高指揮官談 上海【10・9】秋雨煙る○○部隊本部に最高指揮官松井大將を訪う。大将は着任以来1ヶ月半、兵馬倥偬の間にあって、疲労の色もなく元気に語る。 昨日の声明で言いた…

「軍は素より一般民衆を敵とせずといへども、いやしくも我に抵抗加害するものは、その軍民のいづれたるを問はず、寸毫も仮借することなかるべし。」「遺憾ながらその排日・抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除するの要がある。」 松井石根/同盟通信 1937.10.8

同盟旬報 第1巻 第11号 (No. 11) (昭和12年・10月上旬号) 836(27) 支那事変 【 帝 国 】 松井最高指揮官声明 上海【10・8】(8日午後5時○○報道部発表)松井陸軍最高指揮官は本日午後5時、左のごとき声明を発表せり。 △声明本職大命を拝して閫外…

「占領地域内における現地物資たる水稲は今や収穫時期にあるも、住民逃亡しありて徒に腐朽せんとす。軍は直接これを軍糧に充当するの目的をもつて徴発を実施し、特別手段により刈り取り·収穫を実施…」「作業に必要なる農夫は主として台湾または朝鮮より召致す。」「軍より陸軍省、拓務省を経て台湾または朝鮮総督府に召致委託の手続きをなすものとす。」 上海占領地域内稲刈り取りに関する件 1937.10.10

決裁指定:【次官委任】 決行指定:【櫛淵】 受領番号:支密第3335号 起源庁:上海派遣軍 件名:上海占領地域内稲刈り取りに関する件 大臣:【委】 次官:【梅津】 高級副官:【櫛淵】 主務副官:【小薗江】 主務局長:【印】 主務課長:【印】 主務課員…

敵陣地に毒ガス弾発見 上海【10·16】(○○報道部午後4時発表) 1937.10.16

同盟旬報 第1巻 第20号(No.12) 【昭和12年・10月中旬号】 922(24) 支那事変 敵陣跡に毒ガス弾発見 上海【10.16】(○○報道部午後4時発表) 大平橋付近において敵陣地へ奇襲せる際、敵の砲兵陣地跡に特殊の塗料を施した数個の迫撃砲彈を発見せるによ…

「遠征軍総司令官の松井石根大将は本日、部下司官たちに〝皇軍の威信宣揚〟のため配下部隊の規律を引き締めるよう訓示…日本軍部隊の威信に影響する各種報道に終止符を打つ必要性について、隷下将兵に注意を呼びかけた。」 南京、2月7日、同盟·松本重治電報 1938.2.7

Japanese Army Dicipline to Be Tightened General Matsui Issues Order at Nanking Service PRESTIGE TO BE CLOSELY GUARDED IN FUTURE Nanking, Feb. 7. In the solemn atmosphere following a memorial service for Japanese officers and men killed in …

松井軍司令官より隊長全部に対する訓示「南京入城の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの50日間に幾多の忌まはしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するに至りたればなり。何をもつてこの英霊に見えんやと言ふにあり。」 飯沼守日記より 1938.2.7

2月7日 曇夜晴 1:30より派遣軍慰霊祭。終つて松井軍司令官より隊長全部に対し次の要旨の訓示あり。南京入城の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの50日間に幾多の忌まはしき事件…

「今日はただただ悲哀その物に捉はれ、責任感の太く胸中に迫るを覚えたり。けだし南京占領後の軍の諸不始末とその後地方自治、政権工作等の進捗せざるに起因するものなり。」 松井石根『戦陣日誌』より 1938.2.7

午後、慰霊祭に参列す。予は去年、南京入城翌日、最初の慰霊祭を自ら祭主として営み、今日また50日祭ともいふべきこの祭事に遭ふものなれど、さきのものは戦勝の誇と気分にて、むしろ忠霊に対し悲哀の情少なかりしも、今日はただただ悲哀その物に捉はれ、…

同盟通信 松井最高指揮官訓示「今後における軍紀振刷により皇軍武威の宣揚と、長期持久に対処すべき将兵の覚悟につき、厳に訓示を与へた。」 中支の敵産をわが軍管理 1938.2.7

同盟旬報 第2巻 第4号・2月12日発行(No.23) 【昭和13年2月上旬号】 259(5) 支那事変 松井最高指揮官訓辞 ○○【2·7】松井最高指揮官は7日、各隊長を○○に集合せしめ、今後における軍紀振刷により皇軍威武の宣揚と、長期持久に対処すべき将兵の覚悟…

松井最高指揮官「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった。何たることを、おまえたちは、してくれたのか。皇軍として、あるまじきことではないか。おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。それが、また戦病没者への供養となるであろう」 松本重春『上海時代(下)─ジャーナリストの回想─』より 1937.12.18(1975)

日中和平工作の渦中で 松井最高指揮官の訓戒 …翌十八日朝、南京に着いた。「同盟」の従軍記者が、あらゆる苦労をしてきたのに、私らの場合は、当時の情況からみれば全くの大名旅行であって、相済まんと思った。着く前に、今日は陸海軍の合同慰霊祭があると深…

「捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、14,777名を得たり。斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり。」「捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。」「捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す。」 山田栴二日記より 1937.12

山田栴二日記(歩兵第百三旅団長、少将) 十二月八日 晴 又従来の如き田舎道を六里、夏野鎮に出て更に常州よりの本道に出で商家村に宿営す。ますますの田舎なり、宿営力も乏し 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる作業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸…

外務省「慰安婦問題についての我が国の取組」 2020.10.21

外務省ホームページ(日本語)よりhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/ 外務省 Ministry of Foreign Affairs of Japan 外交政策https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/index.html その他の分野https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/others/index.html 歴史関連https:…

「御国を守る我らの健康」「娘身売りの場合は当相談所においで下さい」 1934.10

御国を 守る 我らの 健康 !!! 健康週間 自10月12日 至10月18日 山形県衛生課 娘身売りの場合は 当相談所においで下さい。 伊佐沢村相談所 画像:http://shakainomado.blog.jp/archives/20202989.html 御國を 守る 我等の 健康 !!! 健康週間 自十月十…

日本側の毒ガス使用説に対する[外務省]情報部長談話 1937.10.11 

支那側の非戦闘員襲撃に関する情報部長談話(十月十五日)[「日本側の毒瓦斯使用説に対する情報部長談話(十月十一日)」の間違い] STATEMENT BY THE DIRECTOR OF THE INFORMATION BUREAU TO THE PRESS October 11, 1937. The Chinese Foreign Office issu…

上海大使館附武官「上海派遣軍報道部は小官の統制下において諸施設漸く整備せられ活動中につき」 1937.10.15

【陸軍省受領/陸支密受第3292号】 【陸軍省/大臣官房/昭和12.10.15】 【陸軍省/軍務課/12.10.15/情1143特】 昭和12.10.15 秘 電 報 10.14 後9:00発 第770号 9:22着 次 官 次 長 宛 上海大使館附武官 北平発ルーター電として、日支事…