Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

小松緑著『朝鮮併合之裏面』より第二章「霊南坂の三頭会議」附 倉知鉄吉『覚書』 1920 .9. 20

[表紙]

小松緑

朝鮮併合之裏面

 

[内表紙]

松緑

朝鮮併合之裏面【慶應義塾圖書館】

松緑 1865−1942 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E7%B7%91#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AKomatsu_Midori.jpg

[奥付]

大正九年九月十五日印刷
大正九年九月二十日発行(定価金弐円五拾銭)

著 作 者  小松 緑

発行兼印刷人 東京市芝区愛宕町二丁目二番地
       荒井徳次郎

印 刷 所  東京市芝区愛宕町二丁目二番地
       旭光印刷所

発行所 東京市芝区愛宕町二ノ二
    振替東京三六五〇〇番  中外新論社

http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/minato-reinanzaka.htm

  第二章 霊南坂の三頭密議

 朝鮮併合の廟議は、いつ確定したるかというに、それが、正式の閣議を経て、天皇陛下の御裁可を得たのは、明治四十二年七月六日であるが、この時より約三ヶ月以前の四月十日に、当時の総理大臣桂太郎と、外務大臣小村寿太郎とが、あいともに統監伊藤博文と赤坂霊南坂の官邸に会見し、朝鮮併合の実行方針を協議した時をもって、廟議が確実に決定したことと認むべきである。この事実は、当時無論極秘に付せられていたから、従来世間に知られなかった。それゆえ、伊藤公が、もし哈爾賓 [ハルビン] において変死しなかったならば、朝鮮併合は、しかく急速に実現しなかったであろうなどと言う人が、今なお内外に少くない。それは、全然誤解であるが、世間にこういう感想を抱く者の少くないのは、必ずしも無理ではない。桂首相や小村外相でさえも、霊南坂会見の時までは、伊藤公が飽くまで漸進主義を固辞しておられたように思い込んだのである。

伊藤博文 1841−1909 Prince Ito and Crown Prince of Korea.jpg https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Prince_Ito_and_Crown_Prince_of_Korea.jpg#mw-jump-to-license

 この隠れたる会見事情は、今日に於ける誤解をとくためにも、また後世史家の参考資料としても、精確に語る価値あるものと、吾輩は信ずる者である。

 霊南坂会見の当日が、明治四十二年四月十日とすると、伊藤統監の辞職に先立つこと約二ヶ月、併合実行の時から一年四ヶ月以前になる。吾輩は、この時京城におったので、この会見のことを知らなかったから、その内容と時日とを確むるために、そののち単に伊藤統監および小村外相から聞いた断片的の直話のみに満足せず、さらに後日の確証を得て置きたいと思って、当時の政務局長、のちの外務次官、倉知鉄吉から覚書を手に入れた。この覚書は、吾輩の私信に対する回答である上に、今日では、秘密文書の性質を失って、かえって有力なる史料と認むべきものとなったから、その全文を本章の末尾に添付することにした。その中には、霊南坂会見の内容および時日のみならず、併合という文字を創作した苦心談も述べてある。

桂太郎 1847−1913 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/2007_01/taro_katsura/

 元来、朝鮮の併合は、独り内政上の重大事件なるのみならず、あるいは容易ならぬ外交問題の起こるべき可能性を持っていたものである。したがって要路の責任者中異論があっては、到底円滑にその目的を達することができない。当時山県有朋は、枢密院議長として、初めから朝鮮併合の議にあずかり、賛成者というよりも、むしろ主唱者であった。肝心の伊藤統監は、由来、温和主義の政治家で、いつも急激の政策に反対する性格を持っていた。ゆえに朝鮮併合の提案に対し、よし主義において反対しないとしても、その時機や、順序や、条件などについては、必ず種々の議論を持っておられるであろうとは、桂首相および小村外相が、心ひそかに期待したとこころであった。そこで、両相が相たずさえて、当時あたかも辞職の意を決して上京されていた伊藤統監を訪う時には、公と大議論を闘わす積りで朝鮮併合の万やむを得ざる理由および事情を立証すべき書類を充分に取りまとめ、かく問はれたらば、かく答へむ、しかく難詰せられたらば、しかく弁明せんなどと、千々に心を砕いたということである。いよいよ伊藤統監に面会して、桂首相まず口を開いて、朝鮮問題は、同国を我が国に併合するよりほかに解決の途がない旨を告げると、伊藤統監は、案外にも、それは至極御同感じゃと言われる。そこで、小村外相から、実行方針として、条約の締結や、王室の処分法等を述べて、公の意見を叩かれた。伊藤統監はそれを傾聴し、説明も求めず、質問も発せず、それもよし、これも可なりとて、ことごとく同意を表せられた。ここにおいて、桂首相も小村外相も、今まで緊張した力も抜けて、意外の感に打たれた。同じ拍子抜けでも、これは、失望ではなく、得意の方であったから、両相は、伊藤公の大量に敬服して退出したということである。この事実は、吾輩が小村外相より親しく聞いたところであり、また倉知次官の記した覚書の語句に徴しても、誤りのないことが判る。

小村寿太郎 1855−1911 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/83/

 吾輩は、伊藤公からもまた小村侯からも、久しい間、眷顧をこうむっていたが、両者の間柄は、余り親密でなかったように思われる。それというのも、小村侯は、山県公の信任を得て、引き立てられた人であり、その性格も、寡言断行の点に於て、伊藤公よりも山県公の方に投合していた。小村外相は、山県公が親露策を抱いて、露国に入らんとするを引留めもせずに、突如として日英同盟を締結して、公の鼻を明かせた人である。「小村は、底意の判らぬ男じゃ、人の言うことをただ聞くのみで、一向それに拘らず、自分で極めた通りを実行する。学問が嫌いだから、議論ができぬ。この間『フォートナイトリー・レヴュー』に載っていた巴爾幹 [バルカン] 論を読んだかと尋ねたら、読まぬといふ、それで外務大臣が勤まるかと威したら、流石のかれも、閉口してさまった」などと、伊藤公が話されたことなどを思い浮べると、意気が余り合っていなかったに相違ない。よって思うに、霊南坂会見の際に、伊藤統監が一言半句の議論を交えずに、併合実行案に同意せられた訳は、小村外相を相手に議論をしても、何の効能もあるまいと諦められたのか、あるいは衷心から賛成して居られたのか、その間に多少の疑いがないでもない。伊藤統監が、この会見後、京城に帰られた時に、公が吾輩に親しく語られた話の中に「いかに強い常陸山でも梅ヶ谷でも、五人も十人も一度に掛かって来られては、かなうものじゃない」という述懐があった。その時、公が心に思って居られたことが、統監から枢密院議長に祭り込まれたことであったか、ただしは、朝鮮併合の実行問題の方であったか、今なお推断に苦しむところであるが、公が少くとも、この時分において、朝鮮併合のやむべからざることを悟っていたことだけは、疑いを容れざるところである。ただその一国存廃の問題たる性質上、公としては、表面上、ことさらに温和説を装わねばならぬ事情もあったであろう。伊藤公ばかりでなく、何人でも、はじめから併合の考えを起してはいなかったに違いない。伊藤公は三年有半の間、韓国の指導に最善の力を尽くされた。しかし公は慈心ばかりでなく、炯眼もそなえていた。少くとも、保護政治の晩期に至って、韓国の病膏肓に入り、到底救治の策なきことを看破されたのである。死病と知りつつも、患者の治療に丹精を傾けるのが、名医の常である。しかし時期が来れば、名医も匙を投げざるを得ない。伊藤公が統監の職を去ったのが、正しくその時期であったに違いない。そうして、公をして早く匙を投げさせようと腐心した者がある。それは、桂首相でも小村外相でもなかった。伊藤統監が自ら韓国内閣に推挙した内務大臣宋秉畯一進会長李容九とであった。韓国併合の導火線は、実はここから伝わっている。

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外務省政務局長 倉知 鉄吉 Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 https://archive.org/details/japantodaysouven00mochrich/page/n28/mode/1up

(参照)
    覚  書

 明治四十二年春、曽禰子爵の伊藤公爵に代わりて統監に任ぜらるる内儀 [→議] ある際、右更迭に先だち韓国問題に関する我が [国の] 大方針を確立し、かつこれを文書となし置くことを必要なりとし、小村外相より自分 (当時政務局長) に右文案の起草を命ぜられ、かつ本件に関する外相の意見の大要を指示せられたり。自分が右指示に基づき立案し、さらに同外相の意見によりこれに修正を加え、ついに確定草案となりたるもの、すなわち別紙第一号方針書および施設大綱書なり。

 該案は三月三十日をもって外相より桂首相に提出せられたるも、当時、右は最機密として取り扱われ、これに関しなんら記録の残留するものなし。しかれども小村外相の自分に語られたるところによれば、外相は右に対し桂首相の同意を得たる後、相携えて伊藤公 (当時統監) を訪問し、本件に関する熟議を遂げんことを欲し、四月初め毛利公爵邸園遊会の折、同公と訪問の約をなし、尋ねて四月十日、桂、小村両相、伊藤公に会見し意見を述べ、ひそかにあるいは同公より議論の出づべきことを期したるに、公は意外にも右に対し同意の旨を名言せられ、両相は格別の議論をなさずして同公邸を辞せられたりという。

 しかるに該案はなお久しく之を極秘に付せられ、同年七月六日に至り、始めてこれを閣議に付して各大臣の署名を得、かつ同日、陛下御裁決を経たりと記憶す。

 因みにいう。当時、我が官民に韓国併合の論少なからざりしも、併合の思想未だ十分明確ならず、あるいは日韓両国対等にて合一するがごとき思想あり、またあるいは墺匈国 [オーストリア·ハンガリー帝国] のごとき種類の国家を作るの意味に解する者あり。したがって文字もまた合邦あるいは合併等の字を用いたりしが、自分は韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明かにすると同時に、その語調の余りに過激ならざる文字を選まんと欲し、種々苦慮したるも、ついに適当の文字を発見すること能わず。よって当時一般に用いられおらざる文字を選む方、得策と認め、併合なる文字を前記文書に用いたり。これより以後、公文書には常に併合なる文字を用いることとなれり。ついでながら附記す。

 かくて対韓政策の大方針すでに確定したるをもって、小村外相はあらかじめ併合の方法順序等の細目を講究し置くを必要と認められ、講究の資に供するため、これが基礎案を作らるることに決し、自分にその立案を命ぜられ、かつこれに関する外相の意見の大要を自分に指示せられたり。よって自分は右指示に基づき、自分の考えをも附加して一案を作り、同案につき外相の考慮を請い、さらに外相の意見によりこれに修正を加え、一つの基礎案を作れり。別紙第二号すなわちこれなり。その起草の月日はこれを記憶せざるも、外相よりこれを首相に提出せられたるは四十二年七月のこととす。

 自分の記憶するところによれば、外相は右基礎案写しを桂首相のほか、伊藤公にも提出せられたるかごとく、その後伊藤公の満州に向け出発せられるる前、自分は公に対し、韓国処分案は自分の執筆したるものなるが、右に対する公の意見はいかがなるべきやと尋ねたるに、公は第一号案のことと思われその意味の答ありしにつき、自分は否「細まい方のこと」(即ち第二号の意味なり) といいたるに、公は『まー大体はあんなものなるべし』と答えられたることを覚へおれり。しかるに小村外相は伊藤公薨去後、自分に向かい韓国王室処分に関する伊藤公の考えの全然外相の考えと一致し、しかも王家を大公殿下となすことまで一致しおれる由を聞かれたりとて、大いに不審し居られたり。よって自分は前記の旨を談じたるに、外相は該案を伊藤公に送付せしことは確とはこれを記憶せずといわれたり。同外相の記憶は最確実なるを例とするがゆえに、あるいは事実送付なかりしものなるやも知れず。しかれども自分は確かに伊藤公に送付せられたるか、または同公の閲覧に供せられたるものなりと考えおれり。しばらく疑いを存す。

 別紙第二号起草のころまでの事実は前記のごとし。その後の成り行きは寺内統監において諸事御通知のはずにつき、これを略す。

    以上

  大正二年三月十日  倉 知 鉄 吉

 

(著者曰 本文中第一号方針書及施設大綱書並に第二号細目書は其の後の協議 に於て改正せられたる個条もあるから、関係各章に於て記述するこ とゝし、茲には省いて置く)

 

[表紙]

小松綠著

朝鮮併合之裏面

 


[内表紙]

小松綠著

朝鮮併合之裏面【慶應義塾圖書館】

 

[奧付]

大正九年九月十五日印刷
大正九年九月二十日發行(定價金貳圓五拾錢)

著 作 者  小松 綠

發行兼印刷人 東京市芝區愛宕町二丁目二番地
       荒井德次郞

印 刷 所  東京市芝區愛宕町二丁目二番地
       旭光印刷所

發行所 東京市芝區愛宕町二ノ二
    振替東京三六五〇〇番  中外新論社

 

 第二章 靈南坂の三頭密議

 朝鮮併合の廟議は、何時確定したる乎といふに、それが、正式の閣議を經て、天皇陛下の御裁可を得たのは、明治四十二年七月六日であるが、此の時より約三箇月以前の四月十日に、當時の總理大臣桂太郞と、外務大臣小村壽太郞とが、相與に統監伊藤博文と赤坂靈南坂の官邸に會見し、朝鮮併合の實行方針を協議した時を以て、廟議が確實に決定したことゝ認むべきである。此の事實は、當時無論極祕に付せられてゐたから、從來世間に知られなかつた。それ故へ、伊藤公が、若し哈爾賓に於て變死しなかつたならば、朝鮮併合は、爾かく急速に實現しなかつたであらうなどと言ふ人が、今尙ほ內外に少くない。それは、全然誤解であるが、世間にかういふ感想を抱く者の少くないのは、必ずしも無理ではない。桂首相や小村外相でさへも、靈南坂會見の

 

時までは、伊藤公が飽くまで漸進主義を固辭して居られたやうに思ひ込んだのである。
 此の隱れたる會見事情は、今日に於ける誤解を釋く爲めにも、又後世史家の參考資料としても、確に語る價値あるものと、吾輩は信ずる者である。
 靈南坂會見の當日が、明治四十二年四月十日とすると、伊藤統監の辭職に先だつこと約二箇月、併合實行の時から一年四箇月以前になる。吾輩は、此の時京城に居つたので、此の會見の事を知らなかつたから、其の內容と時日とを確むる爲めに、其の後ち單に伊藤統監及小村外相から聞いた斷片的の直話のみに滿足せず、更に後日の確證を得て置きたいと思つて、當時の政務局長後ちの外務次官倉知鐵吉から覺書を手に入れた。この覺書は、吾輩の私信に對する囘答である上に、今日では、祕密文書の性質を失つて、却つて有力なる史料と認むべきものとなつたから、其の全文を本章の末尾に添付するこ

 

とにした。其の中には、靈南坂會見の內容及時日のみならず、併合という文字を創作した苦心談も述べてある。
 元來、朝鮮の併合は、獨り內政上の重大事件なるのみならず、或は容易ならぬ外交問題の起るべき可能性を持つてゐたものである。隨つて要路の責任者中異論があつては、到底圓滑に其の目的を達することができない。當時山縣有朋は、樞密院議長として、初から朝鮮併合の議に與かり、贊成者といふよりも、寧ろ主唱者であつた。肝心の伊藤統監は、由來溫和主義の政治家で何時も急激の政策に反對する性格を持つてゐた。故に朝鮮併合の提案に對し縱し主義に於て反對しないとしても、其の時機や、順序や、條件などに就ては、必ず種々の議論を持つて居られるであらうとは、桂首相及小村外相が、心竊かに期待した所であつた。そこで、兩相が相携へて、當時恰も辭職の意を決して上京されてゐた伊藤統監を訪ふ時には、公と大議論を鬪はす積りで

 

朝鮮併合の萬止むを得ざる理由及事情を立證すべき書類を充分に取り纏め、斯く問はれたらば、斯く答へむ、爾かく難詰せられたらば、爾かく辯明せんなどゝ、千々に心を碎いたといふことである。愈〻伊藤統監に面會して、桂首相先づ口を開いて、朝鮮問題は、同國を我國に併合するより外に解決の途がない旨を吿げると、伊藤統監は、案外にも、それは至極御同感ぢやと言はれる。そこで、小村外相から、實行方針として、條約の締結や、王室の處分法等を述べて、公の意見を叩かれた。伊藤統監はそれを傾聽し、說明も求めず、質問も發せず、其れも好し、此れも可也とて、悉く同意を表せられた。是に於て、桂首相も小村外相も、今まで緊張した力も拔けて、意外の感に打たれた。同じ拍子拔けでも、これは、失望ではなく、得意の方であつたから、兩相は、伊藤公の大量に敬服して退出したといふことである。此の事實は、吾輩が小村外相より親しく聞いた所であり、又倉知次官の記した覺書の語

 

句に徵しても、誤りのないことが判る。
 吾輩は、伊藤公からも又小村侯からも、久しい間、眷顧を蒙つていたが、兩者の間柄は、餘り親密でなかつたやうに思はれる。それといふのも、小村侯は、山縣公の信任を得て、引き立てられた人であり、その性格も、寡言斷行の點に於て、伊藤公よりも山縣公の方に投合してゐた。小村外相は、山縣公が親露策を抱いて、露國に入らんとするを引留めもせずに、突如として日英同盟を締結して、公の鼻を明かせた人である。「小村は、底意の判らぬ男ぢゃ、人の言ふことを只聞くのみで、一向それに拘らず、自分で極めた通りを實行する。學問が嫌ひだから、議論ができぬ。此の間『フォートナイトリー·レヴュー』に載つてゐた巴爾幹論を讀んだかと尋ねたら、讀まぬといふ、それで外務大臣が勤まるかと威したら、流石の渠 [かれ] も、閉口して了つた」などと、伊藤公が話された事などを思ひ浮べると、意氣が餘り合つてゐなかつたに相

 

違ない。依つて思ふに、靈南坂會見の際に、伊藤統監が一言半句の議論を交へずに、併合實行案に同意せられた譯は、小村外相を相手に議論をしても、何の效能もあるまいと諦められたのか、或は衷心から贊成して居られたのか、其の間に多少の疑がないでもない。伊藤統監が、此の會見後、京城に歸られた時に、公が吾輩に親しく語られた話の中に「如何に强い常陸山でも梅ヶ谷でも、五人も十人も一度に掛かつて來られては、かなふものぢゃない」と云ふ述懷があつた。その時、公が心に思つて居られた事が、統監から樞密院議長に祭り込まれた事であつたか、但しは、朝鮮併合の實行問題の方であつたか、今尙ほ推斷に苦しむ所であるが、公が少くとも、此時分に於て、朝鮮併合の止むべからざることを悟つてゐたことだけは、疑を容れざる所である。但だ其の一國存廢の問題たる性質上、公としては、表面上、殊更に溫和說を裝はねばならぬ事情もあつたであらう。伊藤公ばかりでなく、何人でも、始

 

から併合の考を起してはゐなかつたに違ひない。伊藤公は三年有半の間、韓國の指導に最善の力を盡された。併し公は慈心計りでなく、炯眼も具へてゐた。少くとも、保護政治の晚期に至つて、韓國の病膏肓に入り、到底救治の策なきことを看破されたのである。死病と知りつゝも、患者の治療に丹精を傾けるのが、名醫の常である。併し時期が來れば、名醫も匙を投げざるを得ない。伊藤公が統監の職を去つたのが、正しく其の時期であつたに違ひない。さうして、公をして早く匙を投げさせやうと腐心した者がある。それは、桂首相でも小村外相でもなかつた。伊藤統監が自ら韓國內閣に推擧した內務大臣宋秉畯と一進會長李容九とであつた。韓國併合の導火線は、實は此處から傳はつてゐる。

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(參照)
    覺  書

明治四十二年春曾祢子爵ノ伊藤公爵ニ代リテ統監ニ任セラルル內儀 [ママ] アル際右更迭ニ先チ韓國問題ニ關スル我大方針ヲ確立シ且之ヲ文書トナシ置クコトヲ必要ナリトシ小村外相ヨリ自分(當時政務局長)ニ右文案ノ起草ヲ命セラレ且本件ニ關スル外相ノ意見ノ大要ヲ指示セラレタリ自分カ右指示ニ基キ立案シ更ニ同外相ノ意見ニ依リ之ニ修正ヲ加ヘ遂ニ確定草案トナリタルモノ卽チ別紙第一號方針書及施設大綱書ナリ
該案ハ三月三十日ヲ以テ外相ヨリ桂首相ニ提出セラレタルモ當時右ハ最機密トシテ取扱ハレ之ニ關シ何等記錄ノ殘留スルモノナシ然レトモ小村外相ノ自分ニ語ラレタル所ニ依レハ外相ハ右ニ對シ桂首相ノ同意ヲ得タル後相携ヘテ伊藤公(當時統監)ヲ訪問シ本件ニ關スル熟議ヲ遂ケンコトヲ欲シ四月初メ毛利公爵邸園遊會ノ折同公ト訪問ノ約ヲナシ尋テ四月十日桂小村兩相伊藤公ニ會見シ意見ヲ述ヘ竊カニ或ハ同公ヨリ議論ノ出ツヘキコトヲ期シタルニ公ハ意外ニモ右ニ對シ同意ノ旨ヲ名言セラレ兩相ハ格別ノ議論ヲナサスシテ同公邸ヲ辭セラレタリト云フ
然ルニ該案ハ尙久シク之ヲ極祕ニ付セラレ同年七月六日ニ至リ始メテ之ヲ閣議ニ付シテ各大臣ノ署名ヲ得且同日陛下御裁決ヲ經タリト記憶ス

 

因ニ云フ當時我官民ニ韓國倂合ノ論少ナカラサリシモ倂合ノ思想未タ十分明確ナラス或ハ日韓兩國對等ニテ合一スルカ如キ思想アリ又或ハ墺匈國ノ如キ種類ノ國家ヲ作ルノ意味ニ解スル者アリ從テ文字モ亦合邦或ハ合倂等ノ字ヲ用ヰタリシカ自分ハ韓國ガ全然廢滅ニ歸シテ帝國領土ノ一部トナルノ意ヲ明カニスルト同時ニ其語調ノ餘リニ過激ナラザル文字ヲ選マント欲シ種々苦慮シタルモ遂ニ適當ノ文字ヲ發見スルコト能ハス依テ當時一般ニ用ヰラレ居ラサル文字ヲ選ム方得策ト認メ倂合ナル文字ヲ前記文書ニ用ヰタリ之ヨリ以後公文書ニハ常ニ倂合ナル文字ヲ用ユルコトトナレリ乍序附記ス

斯クテ對韓政策ノ大方針既ニ確定シタルヲ以テ小村外相ハ豫メ倂合ノ方法順序等ノ細目ヲ講究シ置クヲ必要ト認メラレ講究ノ資ニ供スル爲之カ基礎案ヲ作ラルルコトニ決シ自分ニ其立案ヲ命セラレ且ツ之ニ關スル外相ノ意見ノ大要ヲ自分ニ指示セラレタリ依テ自分ハ右指示ニ基キ自分ノ考ヲモ附加シテ一案ヲ作リ同案ニ付キ外相ノ考慮ヲ請ヒ更ニ外相ノ意見ニ依リ之ニ修正ヲ加ヘ一ノ基礎案ヲ作レリ別紙第二號卽チ之ナリ其起草ノ月日ハ之ヲ記憶セサルモ外相ヨリ之ヲ首相ニ提出セラレタルハ四十二年七月ノコトトス
自分ノ記憶スル所ニ依レハ外相ハ右基礎案寫ヲ桂首相ノ外伊藤公ニモ提出セラレタルカ如ク其後伊藤公ノ滿州ニ向ケ出發セラレルル前自分ハ公ニ對シ韓國處分案ハ自分ノ執筆シタルモノナルガ右ニ對スル公ノ意見ハ如何ナルヘキヤト尋ネタルニ公ハ第一號案ノコトト思ハレ其意味ノ答アリシ

 

ニ付自分ハ否『細マイ方ノコト』(卽チ第二號ノ意味ナリ) ト云ヒタルニ公ハ『マー大體ハアンナモノナルヘシ』ト答ヘラレタルコトヲ覺ヘ居レリ然ルニ小村外相ハ伊藤公薨去後自分ニ向ヒ韓國王室處分ニ關スル伊藤公ノ考ノ全然外相ノ考ト一致シ而カモ王家ヲ大公殿下トナスコト迄一致シ居レル由ヲ聞カレタリトテ大ニ不審シ居ラレタリ依テ自分ハ前記ノ旨ヲ談シタルニ外相ハ該案ヲ伊藤公ニ送付セシコトハ確トハ之ヲ記憶セスト云ハレタリ同外相ノ記憶ハ最確實ナルヲ例トスルガ故ニ或ハ事實送付ナカリシモノナルヤモ知レス然レトモ自分ハ確カニ伊藤公ニ送付セラレタルカ又ハ同公ノ閱覽ニ供セラレタルモノナリト考ヘ居レリ姑ラク疑ヲ存ス
別紙第二號起草ノ頃迄ノ事實ハ前記ノ如シ其後ノ成行ハ寺內統監ニ 於テ諸事御通知ノ筈ニ付之ヲ略ス
   以上
 大正二年三月十日  倉 知 鐵 吉

(著者曰 本文中第一號方針書及施設大綱書竝に第二號細目書は其の後の協議 に於て改正せられたる個條もあるから、關係各章に於て記述するこ とゝし、茲には省いて置く)

 

Google Book 鮮併合之裏面 著者: 小松緑

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