日本外史巻四
源氏後記
北條氏
卽日上皇詔二五畿七道一討二義時一°召二將士一°問曰°東人黨二義時一者°有レ幾°胤義對曰°不レ過二千許人一°莊家定者進曰°不レ然°彼收二人心一°有レ年レ於レ此°願二爲レ之死一者°不レ可レ勝レ計°使三臣等在二東国一°亦被二籠‾牢一耳°上皇弗レ懌°彌益聚レ兵°遣レ善走者押松一齎レ誥°歷二‾說東國諸豪一°特使下胤義作レ書以二重賞一陷中義‾村上°義村以示二義時一°義時曰唯子意所レ嚮°義村誓レ無二貳心一°義時哂曰°吾預知レ有二此事一久矣°因大索二鎌倉一°獲二押松一°奪レ誥燒レ之°啟三狀於二政子一政子乃大會二諸將于簾下一使二安達景盛傳一レ命曰°吾今日將レ訣レ於二諸君一也°先將軍破レ堅執レ鋭闢二草萊一以創二大業一°諸君所レ知也°今讒諛之徒°詿二‾誤人主一°欲傾二‾危關東之業一°諸君苟不レ忘先將軍之恩一°則協レ心戮レ力°誅二‾除讒人一°以全二舊圖一°即欲二應レ詔西上一者°即今決レ之°諸將皆感激°願レ效レ力°莫二敢異一レ辭°
↑頼山陽『校刻日本外史 22巻』[3],弘化1 [1844]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2562368 (参照 2024-04-29)
その日のうちに [後鳥羽] 上皇は [北条] 義時を討てとの詔を五畿七道に発し、将士を呼び集めて、東国人で義時の側に与する者はどれくらいいるかと問うた。これに対して [三浦] 胤義は、千人ばかりに過ぎないでしょうと言った。荘家定が進み出て言った。それは違います。彼はこれまで何年も人心をつかんできました。彼のために死ぬことを願う者のは数え切れないでしょう。臣下の私どもを東国に行かせてもやはり牢に囚われるだけでしょう。上皇は面白くなかったが、いやますに兵を集め、よく走る男、押松を遣わして詔を伝えさせ、東国の諸々の豪族たちを説得して回らせた。特に胤義には書状を作らせ、重く褒賞するとして [兄の三浦] 義村を落とさせようとしたが、義村はその書状を義時に見せた。義時が、ただあなたの意の向くままにと言うと、義村は二心はないと誓った。義時はせせら笑って、こういうこともあるだろうてはかなり前から予想していたと言ったのである。そのため鎌倉中を大捜索して押松を捕らえ、詔を奪って焼き、事情を政子に知らせた。政子は簾の下に大勢の武将を集め、安達景盛に次の様な命を伝えさせた。今日私は諸君にお別れしようと思う。先の将軍が鋭い手立てを執って堅い殻を突き破り、荒れ野を切り開いて大きな仕事を成し遂げたことは諸君の知る通りである。今我らを誹謗して朝廷に取り入ろうとする奴らが人を欺き主を誤らせ、関東の偉業を危殆に瀕させようと欲している。諸君は少なくとも先の将軍の恩を忘れていないならば、協心戮力 (心を一つに力を合わせて) 誹謗家を討ち取り、はじめの意図を完徹しなさい。詔に応じて西に上ろうと欲する者がいるなら、今すぐそうと決めなさいと。武将たちは感激して力を捧げることを願い、異なる意見を言える者はなかった。
即日、上皇、五畿、七道に詔して義時を討たしむ。将士を召し、問ひて曰く、「東人の義時に党する者、幾ばくありや」と。胤義対へて曰く、「千許の人に過ぎず」と。荘家定 [しょうのいえさだ] 進みて曰く、「然らず。彼人心を収むること此 [ここ] に年あり。之が為に死せんことを願ふ者、計 [かぞ] ふるに勝 [た] ふ可からず。臣等をして東国に有らしめば、亦籠牢せられんのみ」と。上皇喜ばず。
↑頼山陽 著 ほか『邦文日本外史』上巻,大洋社出版部,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1030516 (参照 2024-04-29)