Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

日本外交文書別冊 小村外交史 上(大正十年代、信夫淳平 著)第四款 韓国併合の決行 より 1921−1926 

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-1_00.pdf

外務省蔵版
日本外交文書別冊

 小村外交史 上

     新聞月鑑社

 

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    例  言

一、外務省編纂の「日本外交文書」は、目下明治二十七年度分を了り、とりいそいで続刊するよう進めているが、しかし明治時代を完了するには、なお両三年を要する。また右は極めて専門書であるので、一般読者にとつては恰好なものとは言い難い。そこでこゝに、信夫淳平博士の旧稿「侯爵小村寿太郎伝」を補訂のうえ、「日本外交文書」別冊『小村外交史』として刊行することにした。

一、「侯爵小村寿太郎伝」は大正十年代の稿になるが、種々の理由から、外務省に秘蔵しきたつたものである。
今般発刊にあたつては、改めて信夫淳平博士に一覧をねがい、更に青木新元公使、佐藤信太郎元参事官に閲読および添削を願つた。

一、しかし、本書の最終的補訂および年表の作成は、臼井勝美事務官が主として苦心をはらつた。その際「外務省記録」のほか、「日英外交史」 「日露交渉史」 「通商條約と通商政策の変遷」 (何れも外務省編纂) 等を主に参照した。

 

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なお本書には必要な索引を欠き、また用字、用語、かなづかい等の不備、或いは構文ならびに見解の不統一な箇所が見られるが、史実を伝えることを主旨として、そのまゝ出版することにした。この点特に御了承を願いたい。
なお敬称は殆んど之を省略した。

  昭和二十八年二月

      編 者 誌

 

↑日本外交文書デジタルコレクション 小村外交史 下巻https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/komura-1.html

 

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-2_00.pdf

外務省蔵版
日本外交文書別冊

 小村外交史 下

     新聞月鑑社

 

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下巻 目次

 

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第十章 第二次外務大臣時代
 第二節 動画問題の処理
  第四款 韓国併合の断行

 

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    第四款 韓国併合の決行

 抑も明治三十八年十一月の日韓協約の結果として、我国は在韓の日本公使館及び領事館を撤廃して新たに統監府及び理事庁を設置し、伊藤枢相出でて初代の監となり、韓廷を指導して内政の改革を行い、鋭意韓国の安固及び進歩を計るに努め、百事次第に旧態を改め、日韓の関係また面目を一新するに至つたが、しかも内にあつては韓廷内外に反日的風潮が瀰慢し、日本の保護指導に慊たらず、やゝその事情を弁知するものは、統監政治に帰順すれば韓帝の御覚え芽出度からず、宮室政治を謳歌すれば日本の猜疑心を招く虞ありとし、両頭統治の間に立つて去就向背に惑うの状であった。そして外を見れば、東亜形勢の推移は長えに統監政治の現状維持を許さゞるものがある。こゝに至つて保護政治は、早晩併合に一進展を為すべきは自然の数であつた。保護条約成りて一年有半、明治四十年の六月、第二回平和会議のハーグに開催された際、韓帝の全権委任状を有すと称せる前議政府参賛李相卨、判事李俊、及び前在露韓国公使館書記官で露人を妻とする李瑋鐘の三名は潜かにハーグに往き、日本の横暴虐圧を訴え、日本の保護離脱に力を藉らんとする目的で同会議に参列を要求した。蘭国外務大臣は日本公使の紹介あるにあらざれば、引見せずとて面会を謝絶し、同会議の議長は、各国代表者を招集するは蘭国政府であるから、同政府からの通牒なき限り韓国委員として接遇する能わずと跳付け、他の各国代表もまた斥けて顧みなかつた。しかも彼等はハーグにあつて、恰も前後して到着した強烈の排日家として洽く知られた米人ハルバートと相提携して新聞に、演説に、過激の論調を以て我が対韓関係を盛に攻撃した。

 この報一たび我国に伝わるや、韓帝の措置は我国に対する背信であるとして非難の声一斉に強まり、相当の手段を

 

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執るべしとの論は期せずして一致し、中には急激なる韓国処分論を力説するものもあつた。伊藤統監は、事は明らかに日韓協約を無視し、明らかに日本に対し公然敵意を発表したもので、その責任一に韓帝にありと認むる旨を首相李を通じて奏陳せしめたところ、韓帝は朕の与り知る所にあらずと弁疏したので、伊藤は更に、もはや虚言を弄して取り消すべきにあらず、ハーグに於て陛下の派遣委員は委任状を所持することを公言し、かつ新聞紙上に日本の対韓関係を誹謗したる以上は、彼等の陛下よりより派遣せられたることは世界の熟知する所であると明確に言上せしめた。宮中俄に狼狽し、廷臣を伊藤の許に派してかつ慰め、かつ詢わしめた。伊藤は答えなかつた。我が政府にあり ては伊藤の禀議に基き、元老閣臣慎重熟議の末、大体の方針を決定 して七月十二日に聖裁を得、十五日林外務大臣は急速帝都を発して 京城に到り、直ちに伊藤と密議に入つた。韓帝我が国論の激昂と林 の渡韓を聞いて驚愕為す所を知らず、閣員また鳩首連日に亘つて善 後の策を討議した。農商工大臣宋秉畯率先して曰く、事茲に到る、 社稷を全うするの道は独り皇帝の譲位あるのみ、我が方自ら進んで 之を決行せずんば、災禍の来ること測る可からずと、 議遂にこれに決し、十六日首相李は闕下に付してこの意を諌奏した。韓帝これを斥け、却つて李等の不臣を責めた。翌夜各大臣一同参内し、一同力諌したが、帝激怒して裁納せず、別に侍従院卿李道宰を統監邸に遣わし、伊藤の参内を求めた。伊藤は応じなかつた。十八日勅使輿を継いて相迎うるに及び、伊藤は枉げて参内したるに、韓帝は密使事件を一応弁疏し、譲位の要請に関し意見を求めた。伊藤は励声応えて曰く、かゝることは貴皇室に係る件である。陛下の臣僚にあらざる自分の是非を奉答し若くは干与すべき筋合いでないと。直ちに辞して退厥した。韓帝は愈々惑うた。諸大臣交々参内し、日本外務大臣既に着韓し時局頗る切迫して、瞬時を緩うせば宗廟の祭祀また明日を期すべからずと奏し、短兵急にその処決を促した。韓帝遂に意を決し、譲位の詔勅を発し、二十日儲君李坧に対する皇位授与の礼を行つた。民衆は譲位を強圧の結果と信

 

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じて激昂し、韓兵またこれに加わりて暴動を惹起し、李総理の邸宅は焼討ちに遭う等の騒動を見た。

 実を言えば韓帝の譲位は、前述の密使事件なしとしても韓廷大官の陰謀により、早晩行わるべき手筈であつた。すなわち多年韓帝に慊らなかつた国内の有志者中には、密かにその機運を促成せんと欲し、同四十年の初めこれを時の参政朴斉純に諷説する所があつたが、朴は䠖跙して決しなかつた。同年四月に小政変あり、朴が退いて学部大臣李完用が新たに内閣首班となつたのは、一はその辺の事情もあつたので、李内閣の成立にて、譲位の問題は早晩擡頭しないとも限らぬ情勢となつた所、測らずも密使事件が突如として起り、ためにその機会は予期よりも早く来たのである。ともあれ右の密使事件により、譲位のことは遂に断行を見、局面はそれにて一段落を告げたがしかもこの際韓国の政治を根本より改め、韓国の内政の実験を我手に収めて宿弊の根絶を計るのは必須の要件であつた、ここに於いてか伊藤は二十四日を以て李総理に対し、これに関する我が政府の要求條件を含んだ協約案を提出した。その紹介文の要に云う。

 日本帝国は去明治三十八十年一月の日韓協約締結以来益々両国の交誼を尊重し、誠実に条約上の義務を遂行するに拘らず韓国屢々背信の行為を敢えてし、之がため頗る帝国の人心を激昂せしめ、且つまた韓国の施設改善を阻礙すること甚しきを以て、将来斯かる行動の再演を確実に阻止すると共に韓国の富強を図り、韓国民の幸福を増進せんとするの目的より、茲に韓国政府に対して別紙協約書の通り約定を要求す云々

 伊藤はこの協約案を李に交付すると同時にその趣旨を詳細に説明し、これに対する迅速の応諾を求めたので、李は閣僚と審議し、多少の異論もあつたが結局これに同意せざるを得ず、同夜直ちに記名調印を了した。これが第三次の日韓協約である。我が政府は在外使臣に対しこの新協約を各任コク政府に公然通告するよう訓令を発したが、当時駐英大使たりし小村よりは、本協約は単に我が保護権の実行に過ぎないので、韓国と列国との関係に対し何等影響を及

 

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ぼすものでないから、公然これを列国に通告することはその必要なきのみならず、却つて将来のために不利なるべく随つて単に参考としてその全文を内示し置く方然るべしとの意見であつたが、林外相は本協約を以て三十八年十一月の日露協約の追加的性質を有するものとし、隨つて前協約の例を追い本協約を通告するに決した次第であると回訓し、公然これを任国整膚に通告せしめた。列国はいづれもこれを以て韓帝の自業自得とし、本協約を我が保護権の当然の結果と予期していたようで、その内容に対し是非の論を加えるめのとては幾くもなかつた。

 韓国政府はこの協約により、施設改善に関して一に統監の指導を受くべく、立法及び重要なる行政上の処分は予め統監の承認を経べく、また統監の推薦する日本人を韓国官吏に任用することゝしたので、韓国の政治は名実ともに統監の権掌に帰するに至つた。伊藤は日韓関係のこの一進展ありし後、なお暫くは韓国の政務を指導したが、翌々四十二年六月統監の職を退いて枢密院議長に転じ、副統監曽禰荒助が陞つてこれに代つた。程なく伊藤は、韓帝への退職挨拶旁々一時渡韓し、その際新任の曽禰統監を輔け、韓国の司法及び監獄事務を日本政府に委任せしむる取極を韓廷との間に協定せしめた。これは他日韓国に於ける領事裁判制を撤去せしむる必要準備として、小村と伊藤とその所見を一にした結果で、また一は伊藤の対韓政策としてその末尾を飾ら占めあものである。しかも一葉落ちて天下の秋を知るで、韓国問題の最終の解決期が一歩は一歩より近づいて来たことへ察するに難からずである。

 これより先き曾禰の統監陞任の内議ありし頃、小村はもはや予め韓国問題に関する今後の大方針を確立し置くの要あるを認め、私 [ひそか] に倉知政務局長に要旨を授けて意見書を起草せしめ、その成案に更に自ら加筆の上、対韓大方針及び施策大綱の二編として同四十二 (1909) 年三月三十日を以て之を首相桂に提出した。

 

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 其の要旨は、先づ対韓方針に於て

帝国の韓国に対する政策の我が実力を同半島に確立し之が把握を厳密ならしむるに在るは言を俟たず、日露戦役開始以来韓国に対する我が権力は漸次其の大を加え、殊に一昨年日韓協約の締結と共に同国に於ける施設は大に其の面目を改めたりと雖も、同国に於ける我が勢力は尚ほ未だ十分に充実するに至らず、同国官民の我れに対する関係も亦未だ全く満足すべからざるものあるを以て、帝国は今後益々同国に於ける実力を増進し、其の根底を深くし、内外に対し争うべからざる勢力を樹立するに努むることを要す。而して此の目的を達するには此の際帝国政府に於て左の大方針を確定し、之に基き諸般の計画を実行することを必要とす

第一 適当の時機に於て韓国の併合を断行すること

第二 併合の時機到来する迄は併合の方針に基き充分に保護の実権を収め努めて実力の扶植を図るべきこと

 次に対韓施設大綱として

韓国に対する帝国政府の大方針決定せられたる上は同国に対する施設は併合の時機到来する迄大要左の項目に依り之を実行することを必要なりと認む

第一 帝国政府は既定の方針に依り韓国の防衞及秩序の維持を担任し之が為に必要なる軍隊を同国に駐屯せしめ、且出来得る限り多数の憲兵及警察官を同国に増派し十分に秩序維持の目的を逹すること

第二 韓国に於ける外国交渉事務は規定の方針に依り之を我手に把持すること

第三 韓国鉄道を帝国鉄道院の管轄に移し同院監督の下に南満洲鉄道との間に密接なる連絡を結び我が大陸鉄道の統一と発展を図ること

第四 成るべく多数の本邦人を韓国内に移殖し我が実力の根底を深くするとと同時に日韓間の経済関係を密接ならしむること

第五 韓国中央政府及び地方官庁に在任する本邦人官吏の権限を拡張し一層敏活にして統一的の施政を行ふを期すること

 

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長文の意見書なるも、その眼目は適当の時期に於て韓国の併合を断行することの一句にあった。これを断行すべきいわゆる適当の時期なるものは、小村の最も苦慮したところであった。その第一は列国の思惑である。小村は往年ポーツマスを引揚げて後、病を冒して大統領ローズヴェルトを訪い、韓国の将来に就てその諒解を得た。けれども他の関係列国の態度は当時なお不明で、よしんばポーツマス条約、対韓保護権の設定、ハーグ密使事件に伴える第三回日韓協約は次第に韓国の命脈を縮め、その終局の運命の帰着する所は列国夙にこれを諒解しないではなかったけれども、愈々併合を断行するとなっては、これに関する外交の運用にはよほど慎慮を要するものがあった。殊に列国中には、当時我が満洲経営を以て、曾て声明した門戸開放の主義に反するものとする声も高く、旁同我が極東政策上併合決行のことには格段の留意を払わせるべからさるは論を俟たない。第二には日清戦役以来我が政府が韓国に関して為した累次の宣明である。我が政府は韓国の独立扶翼、独立維持等を幾たびか宣明した。よしんばこれ等の宣明は、各その時代に於ける当該自体に応ぜしめたもので、時勢の変遷は政策の変遷を要すること論なしとするも、我方より進んで併合を決行することは聊か面白からざる関係もあるので、小村は主義としては併合断行の決意は疾く四十二年の初めに於て既に牢乎として抜くべからざるものがあったが、これ良機微の関係に鑑み、寧ろ満を持して適当の時期の到来を俟つの方針であった。

 小村の対韓案については、桂は公然同意を表したので、小村と桂は追ってこれを閣議に諮るに先だち、当時なお統監の職にあった伊藤と予め熟議を遂げ置かんと欲し、四十二年四月十日相携えて伊藤を訪い、交々意見を陳べた。その際伊藤から多少異議が出るであろうと予想していた小村と桂は、伊藤が即座に同意を表したのにはやゝ意外の感

 

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