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くさぐさ つだそうきち 三  「掩八紘而為宇」という語の意義とその出典 1947. 4. 15

昭和二十二年四月発行
東洋史会紀要 第五冊
東洋史会編纂

 くさぐさ
             つだ さうきち

一 漢文とラテン語[略]

二 「中・今」 という語[略]

三 「掩八紘而為宇」 という語の意義とその出典

 日本紀神武天皇紀の己未の年三月丁卯にかけて記してある 「令」 というものに 「兼六合以開都、掩八紘而為宇、」 という二句があって、このうちの 「為宇」 がいつのころからか 「宇となさん」 とか 「宇とせん」 とかよみならわされているようであるが、これは 「宇をつくらん」 とよむべきものであって、その意義は 「宮殿をたてよう」 ということである。「宇」 は、このばあい、家屋そのものをさすのであり、「為」 は造作の義である。「為宇」 は前の句の 「開都」 に、従って 「宇」 は 「都」 に、対することばであることからも、そう解しなければならない。この二句よりも前のほうに 「恢廓皇都、規摹大壮、」 ということがあって、 宮室の義である 「大壮」 を 「皇都」 に対することばとして用いてあるが、「宇」 と 「都」 との関係もそれと同じである。 易の繋辞伝に 「上古穴居而野処、後世聖人、易之以宮室、上棟下宇、以待風雨、蓋取諸大壮」 と説いてあるので、そこから易の卦の名の 「大壮」 ということばを宮室の義に用いることが行われるようになったが、この繋辞伝に 「上棟下宇」 とある 「宇」 がこのことばのもとの意義である 「家ののき」 をさしていることをも、考え合わすべきである。この令にはなお、民の習俗として 「巣棲穴住」 ということもいってあり、そうして、この 「穴住」 とそれに対することばとしての 「宮室」 ということをも、また繋辞伝の説から来ているのであり、そうして、この 「経営宮室」 が即ち 「規摹大壮」 であり、従ってまたそれは 「為宇」 に応ずることになる。「巣棲穴住」 は、集解にも引いてある如く、礼記の礼運論の 「昔者先王、未有宮室、冬則居営窟、夏則檜巣、」 からとられたものらしいが、上に引いた繋辞伝の辞句もまた参考せられたであろう。この令には、易の卦の名の屯と蒙とが用いてあり、蒙の彖辞の 「蒙以養正、聖功也、」 からとられた 「養正」 ということばも使ってあるのみならず、「義必随時」 も随の卦の彖辞の 「随時之義、大矣哉、」 によったものであるように、易から取られたことばの多いことを、考え合わすべきである。この 「令」 と対応するように書いてあるヒムカでの天皇のことばとしてあるものに、既に 「蒙以養正」 とあり、そうしてそれから類推すると、同じところにある 「草昧」 もまた屯の卦の彖辞の 「天造草味、宜建侯、」 によったものであろう。(これらは集解にも記してあって、世に既に知られていることである。屯と蒙の卦の名とその彖とを用いたのは、この二つの卦が、易の乾坤二卦の次にあって、六十四卦の始に置かれているのと、屯にも蒙にも草創聖功の義があるように説かれているのと、のためであるらしい。)

 もともとこの令の全体の主旨は、六年間の征討によってヤマトの地 ( 「中洲」 ) が平定せられたから、皇都を定め宮殿を建て、皇位に即位して民衆を治めることにしよう、ヤマトの外の地方はまだ平定せず、また民 衆は巣棲穴住の状態であるが、今のばあい、民のために、ともかく も宮室は造らねばならぬ、さて其の宮室に於いて皇位についた後 ( 「然後」 )、ヤマトの外のすべての地方を平定してオホヤシマの全体の統一を成就し ( 「兼六合」、「掩八紘」 )、そのとき更に大に都を開き宮殿をたてること ( 「開都」、「為宇」 )、にしよう、しかしそれは後のこととして、今はまづ 「国之墺区」 であるカシハラを都とし、急いでそこに宮殿をたてるように、 というのである。「然後」 の語の意義にはやや解しがたいところがあるようであるが、「恭臨宝位、以鎮元々、……」 をうけて、「その後」 といったものには違いなく、そうしてその 「臨宝位」 「鎮元々」 は 「辺土未清、余妖尚梗、」というありさまの下に経営せられる宮室においてのことであるから、その後のこととして 「兼六合」 といい 「掩八紘」 といってあるのは、辺土をしずめニホンの国土のすべてを平定するという意義と、解するほかはあるまい。 しかしこの 「兼六合」 も 「掩八紘」 も、そのことをいうのが主旨で はなく、「開都」 をいい 「為宇」 をいうのが本意であるので、そう見なければ前後の文義が通じない 。この 「開都」 と 「為宇」 とは、前にいってある 「恢廓皇都」 と 「規摹大壮」 とに対応するものでなくてはならぬからである。皇都を開き宮室を建てることをいうのが、この令の全体の精神である。この令を承けてすぐに 「是月、即命有司、経始帝宅、」 とあるのは、それが実行にうつされたことをいったのであり、辛酉の年正月朔日にかけて 「即帝位於橿原宮」 と記してあることによって、その結末がついている。己未の三月から始められたカシハラの宮の建築工事が翌庚申の年の終にはできあがったことになっているのである。そうしてこのことは、東遷の前の天皇のことばとして、「東有美地、青山四周、……蓋六合之中心乎、……何不就而都之乎、」 に応ずるものであって、ここの 「六合」 のことばが令の 「兼六合」 でくりかえされ、また 「六合之中心」 は令の 「国之墺区」 とつながりがある。青山四周するヤマトの地を我が国 (六合) の中心とし、またカシハラをそのヤマトの中心 ( 「国之墺区」 ) と見てのいいかたであるように見える。東遷そのことがヤマトを平定してそこに都を遷すことであり、都を遷すというのは、新しい都に宮殿をたててそこで位につかれることである。令というものにはこの意味がまとめて述べてあるので、そのすべてが都と宮殿とについてのことであり、その他のことは何もいってない。「為宇」 が宮殿を作る義であることは、これでいよいよ明らかになった。(古事記には、この令というようなものは無いが、はじめヒムカで 「坐何地者、平聞看天下之政、猶思東行、」 といい、それから東行になってヤマトを平定せられ、「如此、言向平和荒風琉神等、退撥不伏人等而、坐畝傍白檮原宮、治天下也、」 で、すべてが終っているように記してあるから 、話の始末は日本紀と同じである。)

 ところが、この 「開都」 と 「為宇」 とは、文選巻十一にある王延寿の魯霊光殿賦に 「荷天衢元享、廓宇宙而作京、敷皇極以創業、協神道而大寧、…… 錫介珪作端、宅附庸而開宇」 とある 「作京」 と 「開宇」 とから来ているので、「京」  ( 「都」 ) についていわれた 「作」 ( 「為」 ) が 「宇」 についていわれ、「宇」 についていわれた 「開く」 が 「都」 についていわれることに、変えてあるのみであり、「開都」 についていわれている 「兼六合」 さへも、「作京」 についていわれた 「廓宇宙」 のいいかえられたものである。(これは、かの雄略天皇の遺勅となっているものに、原文である隋高祖の遺勅の 「率土之人」 を 「普天之下」 と変えてあるのと同じようなしかたによったものである。)そうしてこの 「開宇」 の 「宇」 が宮殿の義であることは、いうまでもない。 「開宇」 の文字は 「詩」 の魯頌の閟宮の 「大啓爾宇」 によったものであり、この 「宇」 も宮室の義であるから、「為宇」 も間接にそれとつながりがある。但し 「宇宙」 の 「宇」 はそれとはちがって、転化した意義に用いられている。「宇」 が家ののきを示す語であるために、形とはたらきとの似ている船車のおおいの義である 「宙」 と結びついて 「宇宙」 という一つの熟語となり、そのはじめは、たぶん、天をさす語として用いられたものであろうが、それがさらに転化して今用いられているような意義の語となったのである。賦の 「宇宙」 がこの意義のであることも、また明かである。( 「御宇」 という語の 「宇」 が宇宙の義であることは、いうまでもあるまい。)さて、ここに引いた賦のことばの 「大寧」 までは漢の王室のことであり、「錫介珪」 からは魯王のことであるが、日本紀では、そのことにはかかわりな しに、賦の文字をとってある。ただ賦には 「開宇」 について 「宅附庸」 といってあるが、これは王族の一人たる魯王のことだからであって、ジンム天皇のばあいにはあてはまらないから、それがために 「兼六合」 と同じ意義の 「掩八紘」 にそれを変えたのである。これだけは賦の文字と意義とをかえてあるが、全體から見て、日本紀の文字が霊光殿賦から来ていることは明らかであるといわねばならぬ。「兼六合以開都、掩八紘而為宇」 といふいいかたが 「荷天衢以元享、廓宇宙而作京、敷皇極以創業、……宅附庸而開宇、」 とあるいいかたと全く同じであり、「以」 と 「而」 とをかたみがわりに用いてあることさえも、かわっていない。宮殿建築のことをいうのであるから、霊光殿賦の文字が用いられたのである。なお賦に 「創業」 の文字のあるのもカシハラ奠都のことを叙するばあいにこの賦の思い出された助けとなったでもあらうか。さらにいおうなら、賦に 「坤霊」 の語があるので、令に 「乾霊」 の文字の用いてあるのは、或はそれに導かれた所があるかとも思われる。しかし 「乾霊」 の語そのものは別に出典があるから、こう思うのは、思いすごしかもしれぬ。それはともかくとして、令の 「開都」 と 「為宇」 との文字が霊光殿賦の 「作京」 と 「開宇」 とから来ていることは、もはや疑があるまい。そうして、この令と対応するようになっているヒムカでの天皇のことばとしてあるうちの「鴻荒」の語が、集解に記してあるように、やはり同じ賦の 「鴻荒朴略」 から来ていることによって、一層それが確かめられるであろう。この語は李善の注しているごとく、揚雄の法言に既に用いてあるが、日本紀には文選から取られた語の少ないことを思うと、これは霊光殿賦のを用いたものであることが、推測せられる。ただ 「鴻荒」 は遠い上古の世のことを後世からいうことばであるのに、天皇のことばとして、あるものには 「是時運屬鴻荒」 とあって、天皇がこういわれたその時の世、いいかえるとその時での今の世、のことになっているのは、甚だおかしいが、これは日本紀の編纂せられた時代から見ると、ジンム天皇の世のころは上古であるところから、生じた錯覚のためであって、編者の時代から上古をさしていうべき此の語を、その上古の天皇の言葉として用いたのであろう。ついでにいいそえておく。「為宇」 の 「為」 に造作の義のあることは、あらためていうまでもないが、論語の先進篇の「魯人為長府」、 礼記の学記篇の 「為裘」、「為箕」、または史記の文帝紀の景帝の詔の 「無昭徳之舞、」 漢書芸文志の 「賈誼……為左氏傳訓故」、などの例によっても、それは明らかである。書をあらわし文をつくることについて、それを 「為」 の語でいいあらわしている例は、いくらもある。

 「魯人為長府」、 礼記の学記篇の 「為裘」、「為箕」、または史記の文帝紀の景帝の詔の 「無昭徳之舞、」 漢書芸文志の 「賈誼……為左氏傳訓故」、などの例によっても、それは明らかである。書をあらわし文をつくることについて、それを 「為」 の語でいいあらはしている例は、いくらもある。

 「掩八紘而為宇」 は、 八紘を一家とするということではない。第一に、そのような場合には 「家」 の語を用いるべきであって 「宇」 と書くべきではない。「家」 は、もとは建築物としての家屋の義であったらうが、後にはその家屋に住む血族集団をさすことにもなり、そういう用いかたのほうが廣く行われているが、「宇」 はどこまでも建築物としての屋宇の義であり、「宇宙」 という語の作られたのも、其の屋宇を形の上から天に擬したからのことである。第二に、八紘を一家とするというのならば、「以八紘為家」 というようないいかたをするのが自然であるので、礼記の礼運篇の正義に 「用天下為家」 という語のあるのを参考にすべきである。これは帝王が天下を我が家とするという意義に用いてある。

 

昭和二十二年四月十五日 発行

          東洋史会紀要 第五冊

               pp. 225−231

 

日本書紀·巻第三 神武天皇》:

“及年卌五歲、謂諸兄及子等曰、昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰、東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。”

“三月辛酉朔丁卯、下令曰、自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未淸餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山 畝傍山、此云宇禰縻夜摩 東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。

是月、卽命有司、經始帝宅。

庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰、事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。天皇悅之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。”

古事記·中つ巻·1 神武天皇》:

“神倭伊波禮毘古命 自伊下五字以音 與其伊呂兄五瀬命 伊呂二字以音 二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。”

“故、如此言向平和荒夫琉神等 夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。”

周易·繫辭下》:

“上古穴居而野處,後世聖人易之以宮室,上棟下宇,以待風雨,蓋取諸大壯。” 

“In the highest antiquity they made their homes (in winter) in caves, and (in summer) dwelt in the open country.  In subsequent ages, for these the sages substituted houses, with the ridge-beam above and the projecting roof below, as a provision against wind and rain. The idea of this was taken, probably, from Da Zhuang (the thirty-fourth hexagram).

禮記·禮運》:
“昔者先王,未有宮室,冬則居營窟,夏則居橧巢。”

“Formerly the ancient kings had no houses. In winter they lived in caves which they had excavated, and in summer in nests which they had framed.”

周易·屯

彖傳: 屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。

Tuan Zhuan:  In Zhun we have the strong (Qian) and the weak (Kun) commencing their intercourse, and difficulties arising. Movement in the midst of peril gives rise to 'great progress and success, (through) firm correctness.' By the action of the thunder and rain, (which are symbols of Kan and Zhen), all (between heaven and earth) is filled up. But the condition of the time is full of irregularity and obscurity. Feudal princes should be established, but the feeling that rest and peace have been secured should not be indulged (even then).

周易·蒙》:even then).

彖傳: 蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙亨,以亨行時中也。匪我求童蒙,童蒙求我,志應也。初噬告,以剛中也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。

Tuan Zhuan:  In Meng we have (the trigram for) a mountain, and below it that of a rugged defile with a stream in it. The conditions of peril and arrest of progress (suggested by these) give (the idea in) Meng. 'Meng indicates that there will be progress and success:' - for there is development at work in it, and its time of action is exactly what is right. 'I do not seek the youthful and inexperienced; he seeks me:' - so does will respond to will. 'When he shows (the sincerity that marks) the first recourse to divination, I instruct him:' - for possessing the qualities of the undivided line and being in the central place, (the subject of the second line thus speaks). 'A second and third application create annoyance, and I do not instruct so as to create annoyance:' - annoyance (he means) to the ignorant. (The method of dealing with) the young and ignorant is to nourish the correct (nature belonging to them); - this accomplishes the service of the sage.

周易·隨》:

彖傳: 隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞,无咎,而天下隨時,隨時之義大矣哉!

Tuan Zhuan: In Sui we see the strong (trigram) come and place itself under the weak; we see (in the two) the attributes of movement and pleasure: - this gives (the idea of) Sui. 'There will be great progress and success; and through firm correctness no error:' - all under heaven will be found following at such a time. Great indeed are the time and significance indicated in Sui.

文選巻十一賦己·◎宮殿·魯靈光殿賦 (並序)》:

魯靈光殿者,蓋景帝程姬之子,恭王餘之所立也。初,恭王始都下國,好治宮室,遂因魯僖基兆而營焉。遂因魯僖基兆而營焉。遂因魯僖基兆而營焉。遭漢中微,盜賊奔突。自西京未央、建章之殿,皆見隳壞,而靈光巋〔丘軌〕然獨存。意者豈非神明依憑支持,以保漢室者也。然其規矩制度,上應星宿,亦所以永安也。予客自南鄙,觀蓺於魯,睹斯而眙曰:嗟乎!詩人之興,感物而作。故奚斯頌僖,歌其路寢,而功績存乎辭,德音昭乎聲。物以賦顯,事以頌宣,匪賦匪頌,將何述焉?遂作賦曰:粵若稽古帝漢,祖宗濬哲欽明!殷五代之純熙,紹伊唐之炎精。荷天衢以元亨,廓宇宙而作京,敷皇極以創業,協神道而大寧。於是百姓昭明,九族敦序,乃命孝孫,俾侯於魯。錫介珪以作瑞,宅附庸而開宇。乃立靈光之秘殿,配紫微而為輔。承明堂於少陽,昭列顯於奎之分野。

群書治要·巻三·毛詩·魯頌》:
王曰叔父,建爾元子,俾侯于魯,大啓爾宇,為周室輔,王,成王也。

 

昭和二十二年四月發行
東洋史會紀要 第五册
東洋史會編纂

 くさぐさ
             つだ さうきち

一 漢文とラテン語[略]

二 「中・今」 といふ語[略]

三 「掩八紘而爲宇」 といふ語の意義とその出典

 日本紀の神武天皇紀の己未の年三月丁卯にかけて記してある 「令」 といふものに 「兼六合以開都、掩八紘而爲宇、」といふ二句があつて、このうちの 「爲宇」 がいつのころからか 「宇となさん」 とか 「宇とせん」 とかよみならはされてゐるようであるが、これは 「宇をつくらん」 とよむべきものであつて、その意義は 「宮殿をたてよう」 といふことである。「宇」 は、このばあひ、家屋そのものをさすのであり、「爲」 は造作の義である。「爲宇」 は前の句の 「開都」 に、從つて 「宇」 は 「都」 に、對することばであることからも、さう解しなければならない。この二句よりも前のほうに 「恢廓皇都、規摹大壯、」 といふことがあつて、 宮室の義である 「大壯」 を 「皇都」 に對することばとして用ゐてあるが、「宇」 と 「都」 との關係もそれと同じである。 易の繋辭傳に 「上古穴居而野處、後世聖人、易之以宮室、上棟下宇、以待風雨、蓋取諸大壯」と說いてあるので、そこから易の卦の名の 「大壯」 といふことばを宮室の義に用ゐることが行はれるようになつたが、この繋辭傳に 「上棟下宇」 とある 「宇」 がこのことばのもとの意義である「家ののき」をさしてゐることをも、考へ合はすべきである。この令にはなほ、民の習俗として 「巢棲穴住」 といふこともいつてあり、さうして、この 「穴住」 とそれに對することばとしての 「宮室」 といふことをも、また繋辭傳の說から來てゐるのであり、さうして、この 「經營宮室」 が卽ち 「規摹大壯」 であり、從つてまたそれは 「爲宇」 に應ずることになる。「巢棲穴住」 は、集解にも引いてある如く、 禮記の禮運論の 「昔者先王、未有宮室、冬則居營窟、夏則檜巢、」 からとられたものらしいが、上に引いた繋辭傳の辭句もまた參考せられたであらう。この令には、易の卦の名の屯と蒙とが用ゐてあり、蒙の彖辭の 「蒙以養正、聖功也、」 からとられた 「養正」 といふことばも使つてあるのみならず、「義必隨時」 も隨の卦の彖辭の 「隨時之義、大矣哉、」 によつたものであるように、易から取られたことばの多いことを、考へ合はすべきである。この 「令」 と對應するように書いてあるヒムカでの天皇のことばとしてあるものに、旣に 「蒙以養正」 とあり、さうしてそれから類推すると、同じところにある 「草昧」 もまた屯の卦の彖辭の 「天造草味、宜建侯、」 によつたものであらう。(これらは集解にも記してあつて、世に旣に知られてゐることである。屯と蒙の卦の名とその彖とを用ゐたのは、この二つの卦が、易の乾坤二卦の次にあつて、六十四卦の始に置かれてゐるのと、屯にも蒙にも草創聖功の義があるように說かれてゐるのと、のためであるらしい。)
 もと/\この令の全體の主旨は、六年閒の征討によつてヤマトの地 ( 「中洲」 ) が平定せられたから、皇都を定め宮殿を建て、皇位に卽位して民衆を治めることにしよう、ヤマトの外の地方はまだ平定せず、また民衆は巢棲穴住の狀態であるが、今のばあひ、民のために、ともかくも宮室は造らねばならぬ、さて其の宮室に於いて皇位についた後 ( 「然後」 )、ヤマトの外のすべての地方を平定してオホヤシマの全體の統一を 成就し ( 「兼六合」、「掩八紘」 )、そのとき更に大に都を開き宮殿をたてること ( 「開都」、「爲宇」 )、にしよう、しかしそれは後のこととして、今はまづ「國之墺區」であるカシハラを都とし、急いでそこに宮殿をたてるように、といふのである。「然後」 の語の意義にはやゝ解しがたいところがあるようであるが、「恭臨寶位、以鎭元々、……」 をうけて、「その後」 といつたものには違ひなく、さうしてその 「臨寶位」 「鎭元々」 は 「邊土未淸、餘妖尙梗、」 といふありさまの下に經營せられる宮室においてのことであるから、その後のこととして 「兼六合」 といひ 「掩八紘」 といつてあるのは、邊土をしづめニホンの國土のすべてを平定するといふ意義と、解するほかはあるまい。 しかしこの 「兼六合」 も 「掩八紘」 も、そのことをいふのが主旨で はなく、「開都」 をいひ 「爲宇」 をいふのが本意であるので、さう見なければ前後の文義が通じない。この 「開都 」と 「爲宇」 とは、前にいつてある 「恢廓皇都」と 「規摹大壯」 とに對應するものでなくてはならぬからである。皇都を開き宮室を建てることをいふのが、この令の全體の精神である。この令を承けてすぐに「是月、卽命有司、經始帝宅、」 とあるのは、それが實行にうつされたことをいつたのであり、辛酉の年正月朔日にかけて 「卽帝位於橿原宮」 と記してあることによつて、その結末がついてゐる。己未の三月から始められたカシハラの宮の建築工事が翌庚申の年の終にはできあがつたことになつてゐるのである。さうしてこのことは、東遷の前の天皇のことばとして、「東有美地、靑山四周、……蓋六合之中心乎、……何不就而都之乎、」 に應ずるものであつて、こゝの 「六合」 のことばが令の 「兼六合」 でくりかへされ、また 「六合之中心」 は令の 「國之墺區」 とつながりがある。靑山四周するヤマトの地を我が國 (六合) の中心とし、またカシハラをそのヤマトの中心 ( 「國之墺區」 ) と見てのいひかたであるように見える。東遷そのことがヤマトを平定してそこに都を遷すことであり、都を遷すといふのは、新しい都に宮殿をたててそこで位につかれることである。令といふものにはこの意味がまとめて述べてあるので、そのすべてが都と宮殿とについてのことであり、その他のことは何もいつてない。「爲宇」 が宮殿を作る義であることは、これでいよ/\明らかになつた。(古事記には、この令といふようなものは無いが、はじめヒムカで 「坐何地者、平聞看天下之政、猶思東行、」 といひ、それから東行になつてヤマトを平定せられ、「如此、言向平和荒風琉神等、退撥不伏人等而、坐畝傍白檮原宮、治天下也、」 で、すべてが終つてゐるように記してあるから、話の始末は日本紀と同じである。)
 ところが、この 「開都」 と 「爲宇」 とは、文選卷十一にある王延壽の魯靈光殿賦に 「荷天衢以元享、廓宇宙而作京、敷皇極以創業、協神道而大寧、…… 錫介珪作端、宅附庸而開宇」 とある 「作京」 と 「開宇」 とから來てゐるので、「京 」  ( 「都」 ) についていはれた 「作」 ( 「爲」 ) が 「宇」 についていはれ、「宇」 についていはれた 「開く」 が 「都」 についていはれることに、變へてあるのみであり、「開都」 についていはれてゐる 「兼六合」 さへも、「作京」 についていはれた 「廓宇宙」 のいひかへられたものである。(これは、かの雄略天皇の遺敕となつてゐるものに、原文である隋高祖の遺敕の 「率土之人」 を 「普天之下」 と變へてあるのと同じようなしかたによつたものである。)さうしてこの 「開宇」 の 「宇」 が宮殿の義であることは、いふまでもない。 「開宇」 の文字は 「詩」 の魯頌の閟宮の 「大啓爾宇」 によつたものであり、この 「宇」 も宮室の義であるから、「爲宇」 も閒接にそれとつながりがある。但し 「宇宙」 の 「宇」 はそれとはちがつて、轉化した意義に用ゐられてゐる。「宇」 が家ののきを示す語であるために、形とはたらきとの似てゐる船車のおほひの義である 「宙」 と結びついて 「宇宙」 といふ一つの熟語となり、そのはじめは、たぶん、天をさす語として用ゐられたものであらうが、それがさらに轉化して今用ゐられてゐるような意義の語となつたのである。賦の 「宇宙」 がこの意義のであることも、また明かである。( 「御宇」 といふ語の 「宇」 が宇宙の義であることは、いふまでもあるまい。)さて、こゝに引いた賦のことばの 「大寧」 までは漢の王室のことであり、「錫介珪」 からは魯王のことであるが、日本紀では、そのことにはかゝはりな しに、賦の文字をとつてある。たゞ賦には 「開宇」 について 「宅附庸」 といつてあるが、これは王族の一人たる魯王のことだからであつて、ジンム天皇のばあひにはあてはまらないから、それがために 「兼六合」 と同じ意義の 「掩八紘」 にそれを變へたのである。これだけは賦の文字と意義とをかへてあるが、全體から見て、日本紀の文字が靈光殿賦から來てゐることは明らかであるといはねばならぬ。「兼六合以開都、掩八紘而爲宇」 といふいひかたが 「荷天衢以元享、廓宇宙而作京、敷皇極以創業、……宅附庸而開宇、」 とあるいひかたと全く同じであり、「以」 と 「而」 とをかたみがはりに用ゐてあることさへも、かはつてゐない。宮殿建築のことをいふのであるから、靈光殿賦の文字が用ゐられたのである。なほ賦に 「創業」 の文字のあるのもカシハラ奠都のことを叙するばあひにこの賦の思ひ出された助けとなつたでもあらうか。さらにいはうなら、賦に 「坤靈」 の語があるので、令に 「乾靈」 の文字の用ゐてあるのは、或はそれに導かれた所があるかとも思はれる。しかし 「乾靈」 の語そのものは別に出典があるから、かう思ふのは、思ひすごしかもしれぬ。それはともかくとして、令の 「開都」 と 「爲宇」 との文字が靈光殿賦の 「作京」 と 「開宇」 とから來てゐることは、もはや疑があるまい。さうして、この令と對應するようになつてゐるヒムカでの天皇のことばとしてあるうちの「鴻荒」の語が、集解に記してあるように、やはり同じ賦の 「鴻荒朴略」 から來てゐることによつて、一層それが確かめられるであらう。この語は李善の注してゐるごとく、揚雄の法言に旣に用ゐてあるが、日本紀には文選から取られた語の少ないことを思ふと、これは靈光殿賦のを用ゐたものであることが、推測せられる。たゞ 「鴻荒」 は遠い上古の世のことを後世からいふことばであるのに、天皇のことばとして、あるものには 「是時運屬鴻荒」 とあつて、天皇がかういはれたその時の世、いへかえるとその時での今の世、のことになつてゐるのは、甚だをかしいが、これは日本紀の編纂せられた時代から見ると、ジンム天皇の世のころは上古であるところから、生じた錯覺のためであつて、編者の時代から上古をさしていふべき此の語を、その上古の天皇の言葉として用ゐたのであらう。ついでにいひそへておく。「爲宇」 の 「爲」 に造作の義のあることは、あらためていふまでもないが、論語の先進篇の「魯人爲長府」、 禮記の學記篇の 「爲裘」、「爲箕」、または史記の文帝紀の景帝の詔の 「無昭德之舞、」 漢書藝文志の 「賈誼……爲左氏傳訓故」、などの例によつても、それは明らかである。書をあらはし文をつくることについて、それを 「爲」 の語でいひあらはしてゐる例は、いくらもある。
 「掩八紘而爲宇」 は、 八紘を一家とするといふことではない。第一に、そのような場合には 「家」 の語を用ゐるべきであつて 「宇」 と書くべきではない。「家」 は、もとは建築物としての家屋の義であつたらうが、後には其の家屋に住む血族集團をさすことにもなり、さういふ用ゐかたのほうが廣く行はれてゐるが、「宇」 はどこまでも建築物としての屋宇の義であり、「宇宙」 といふ語の作られたのも、其の屋宇を形の上から天に擬したからのことである。第二に、八紘を一家とするといふのならば、「以八紘爲家」 といふようないひかたをするのが自然であるので、禮記の禮運篇の正義に 「用天下爲家」 といふ語のあるのを参考にすべきである。これは帝王が天下を我が家とするといふ意義に用ゐてある。

 

昭和二十二年四月十五日 發行

          東洋史會紀要 第五册

               pp. 225−231