Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

麻生徹男撮影 写真集『戦線女人考』より 1938.1~5

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身体検査 昭和十三年一月二日、私は軍命令にて、新しく上海に来た婦女子、約百名の身体検査を行った。場所は共同租界、其美路に近い小学校の校舎にて。

 

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身体検査にむかう慰安婦 昭和十三年一月二日、上海市内、其美路、市立沙涇小学校に集められた一団百余名の彼女たち、その服装にて出身地が判明す。(左の写真は一部拡大したもの)

 

陸軍慰安所の立札 楊樹浦路のはずれ、呉淞に向かう工路の土手を、新市街敷地の方へ下ると、楊家宅と云った部落の跡があった。この地に陸軍慰安所が、兵站司令部の経営で開業した。その立札。

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 昭和十三年三月十一日、楊家宅慰安所より慰安婦八人来訪し、次の事を私に訴える。今回老人の軍医見習士官が来て慰安所の管理は自分がする、検査は週一回とする旨、そして麻生は手を引いてくれ、と。かの女らの言外の意味は現在の兵站業務の多忙に乗じた彼の私物命令らしく、現に彼はこの数日慰安所に居続をを決め込んでいて、慰安所を私物化している。甚だ迷惑と。即ち監督医師の個人的登楼にて、リール事件そのもので事重大。

 

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慰安所規定 昭和十三年の検診に次いで二月七日、第二回目の検診が、江湾鎮と楊家宅にて行われた。楊家宅にては立派な建物が軍の手にて建てられ、この様な慰安所規定が掲げられてあった。一方、江湾鎮では既設の民家その物を利用した。

 

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楊家宅慰安所 上海から呉淞に向かう軍工路に近く、地理的にも自由に上海に行ける所であった。慰安所開設後間もない二月二十四日夜、一人の慰安婦が脱走して軍工路の立哨に捕らえられ、その身柄引取に、命により麻生は現地に赴いた。

 

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民営の軍慰安所 これは江湾鎮、北四川路の奥にある民営の軍慰安所である。無人となった民家を慰安所として使用したのか、前から在ったこの種の建物を利用したのか判らない。三人の女性は現地雇いの看護婦であり前列の兵は衛生兵、奥に居る人は河合軍医。

 

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慰安所入口 江湾鎮にある民間人経営の慰安所。その衛星管理に問題が多い。場所は日本疎開の奥、北四川路の北端、海軍陸選対本部より更に進む、部落民家の跡。但し海軍とは何ら関係なし。

 

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慰安婦服毒未遂の朝 昭和十三年五月十一日、夜中に楊家宅慰安所より憲兵の村井君と金田隊の武井軍曹が慰安婦が毒を飲み死にかかっている、と私に注進。さて慰安所には老医師もいるので何事かと思ったが事は急、人命に係わると、私はおっ取り刀、現場に胃洗の道具、小脇に抱え馳せ参じた。早くて良かった。胃の中よりモルヒネ錠三十個出てきたいったい誰から手に入れた品か、そんな事より命救えたことを一同喜んだ。この日の朝の太陽は特に輝いた。早速嬉しい私の顔をカメラにおさめた。米国のフォーセット先生にでも送ろう。軍事郵便では駄目。川向こうの中国郵便局にでも行こう。

 

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診察台 陸軍野戦建築中隊金田隊の手に成る、麻生の考案による婦人科診察台である。

註 この写真と「慰安所入口」「衛生サック『突撃一番』」の三枚は私家版の写真集「戦線女人考」には収録されていなかったが、慰安所関係の写真十枚として一括してここに入れた。

 

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慰安所入口 楊家宅慰安所入口に立っている河合軍医見習士官(松山市出身)と、上海在住、軍に協力した看護婦二人である。写真の中に在る切符売場の壁に、例の慰安所規定が掲げてあった。

 

衛生サック・「突撃一番」 昭和十二年末、支那事変出征より同十五年頃に至るまで、兵員間で話題となり、又実際に使用されていた衛生サックは、当時、名の通った商品、例えばハート美人の様な物であった。

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 所が昭和十六年の太平洋戦争開始を前にした企業統制、軍需用品指定などのからくりの中に、サックのメイカー「國際ゴム」より軍需品として野戦貨物廠、各師団、各聯隊、大隊→中隊→各兵員へと流通する一つの品物が出来上った。

 その名は「突撃一番」である。

 

↑麻生徹男撮影 写真集『戦線女人考』より

麻生徹男 著『上海から上海へ 兵站病院の産婦人科医』1993年、石風社

 

[以下、画像からの読み取り]

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   慰安所規定
一、本慰安所ニハ陸軍々人軍屬(軍
 夫ヲ除ク)ノ外入場ヲ許サス
 入場者ハ慰安所外㞮證ヲ所持スルコト
一、入場者ハ必ズ受付ニオイテ料金ヲ
 支拂ヒ之ト引替ニ入場券
 及「サツク」一個ヲ受取ルコト
一、入場券ノ料金左ノ如シ
 下士官兵、軍屬金貮圓
一、入場券ノ効力ハ當日限リトシ若シ入室セサル
 トキハ現金ト引替ヲナスモノトス
 但シ一旦酌婦ニ渡シタルモノハ返戾セス
一、入場券ヲ買ヒ求メタル者ハ指定セラレタル
 番號ノ室ニ入ルコト 但シ時間ハ三十分トス
一、入室ト同時ニ入場券ヲ酌婦ニ渡スコト
一、室内ニ於テハ飲酒ヲ禁ス
一、用濟ミノ上ハ直ニ退室スルコト
一、規定ヲ守ラサル者 及 軍紀風紀ヲ

 紊ス者ハ退場セシム
一、「サツク」ヲ使用セサル者ハ接婦ヲ禁ス

一、入場□□□□守スルコト
兵      自午前十時
          至午後五時
下士官、軍屬   自午後一時
       至午後九時
1 本□□部ニ依リ時間ノ変更ヲナス
2 三、八ノ日ハ検診日ニ付午前ハ休業ス
昭和十三年二月三日
  東兵站司令部

慰安所規定
一、本慰安所には陸軍軍人・軍属(軍夫を除く)のほか入場を許さず。入場者は慰安所外出証を所持すること。
一、入場者は必ず受付において料金を支払い、これと引替えに入場券およびサック一個を受け取ること。
一、入場券の料金 左のごとし。
下士官兵、軍属 金二円
一、入場券の効力は当日限りとし、もし入室せざるときは現金と引替をなすものとす。ただし一旦酌婦に渡したるものは返戻せず。
一、入場券を買い求めたる者は指定せられたる番号の室に入ること。ただし時間は三十分とす。
一、入室と同時に入場券を酌婦に渡すこと。
一、室内においては飲酒を禁ず。
一、用済みの上は直ちに退室すること。
一、規定を守らざる者および軍紀・風紀を紊す者は退場せしむ。
一、サックを使用せざる者は接婦を禁ず。
一、入場[時間を厳?]守すること。
兵 自午前十時 至午後五時
下士官軍属 自午後一時 至午後九時
1 本[司令?]部により時間の変更をなす。
2 三、八の日は検診日につき午前は休業す。
昭和十三年二月三日
  東兵站司令部