Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

昭和十三年中における在留邦人の特種婦女の状況およびその取り締まりならびに租界当局の私娼取り締まり状況(在上海総領事館警察沿革誌による) 1938.

昭和十三年中における在留邦人の特種婦女の状況およびその取り締まりならびに租界当局の私娼取り締まり状況(在上海総領事館警察署沿革誌による)

一、芸妓

 上海における芸妓の保護·取締および待遇の改善等に関しては、常に細心の注意を払ひをれるところ、さきに昭和四年五月、当業者をして株式組織の検番を設置せしめ、検番、料理店置屋および抱主、芸妓間における貸借契約、稼業期間、収得金の分配、給与等に関し、命令をもって芸妓の待遇改善を図るとともに、さらに客年末、一部命令内容を改善し今日に及びたるが、芸妓に対する待遇等の実情はむしろ内地のそれに比し遥かに改善の域に達しをるといひ得べし。昭和十二年八月、日支事変の戦禍、上海に波及するや、一時、全部の避難引き揚げを見たるが、同年十二月頃より漸次復帰し、現在、料理店置屋二十七軒、芸妓数二百五十七名にして、前年末に比し四件の増加、数において六十名の増員となれり。
 また芸妓の総稼高は前年事変引き揚げの関係上、二十三万一千余ドルなりしが、本年十二月末日現在においては八十五万九千八百余円[→ドル]に上れり。
 これら料理店、置屋および芸妓等に対しては、常に保安·風俗·衛生上の取り締まりを励行し来たりたるが、支那事変による当地情勢は、従来の漸減策を持続し得ざる事情あるに顧み、設備その他の条件を附し増加を認許することとし、三十二月末現在、料理店および置屋二十七軒、芸妓二百五十七名に上り、前年に比し六十名の増員を見たり。

二、酌婦

 在留邦人経営の貸席は、内地公娼制による乙種芸妓(娼妓)を抱へ、明治四十年七月、貸席を開業したるものなるが、昭和四年六月、上海公安局は管下全般にわたり支那人公娼廃止を佈布するとともに、支那街にありし邦人業者に対しても閉鎖を強要する等の態度を示し、一方、これに呼応して本邦人をもって組織する婦人矯風会上海支部公娼制に極力反対を唱へ、外務省に陳情する等の運動をなし社会問題として取り挙げられたることあり、国際都市における邦人の体面と社会風教上、常に問題視せらるるに顧み、当館においても同年、公娼廃止に代るべき弁法として料理店酌婦制度を設け、爾来、抱酌婦の改善を計り来たりたるところ、昭和七年、上海事変勃発とともに我が軍部隊の当地駐屯増員により、これら兵士の慰安機関の一助として海軍慰安所(事実上の貸席)を設置し現在に至りたり。しかるに本業者も今次事変勃発とともに一時内地に避難したるが、客年十一月頃には常態に復し、その後在留邦人の激増とともに滬月、末広の貸席を増し、十二月末日現在、事実上の貸席十一件(うち海軍慰安所七軒を含む)抱酌婦百九十一名(内地人七十一名、朝鮮人二十名)となり、前年に比し七十三名の増員となれり。しかして一般貸席四軒はほとんど居留法人を顧客とし、他の海軍慰安所七軒は海軍下士官·兵を専門に、絶対、地方客に接せしめず、かつ酌婦の健康診断も陸戦隊および当館警察官立ち会ひの上、毎週一回、専門医をして実施せしめをるものなり。なほその他、当館管内に陸軍慰安所臨時酌婦三百名あり。

五、私娼

 上海は魔都の称あるがごとく、遊客の好奇心を誘ふ歓楽場随処に存在し、就中、一般人をして顰蹙せしむるものは私娼にして、特に共同租界繁華街たる南京路両側のごときは支那人私娼またはいかがはしきダンサー等、野鶏と称して出没し、猥褻極まる言辞を弄し、または赤露の革命により本国を逃れ流浪せる白系露人の私娼はその数に五、六百名を算し、彼らは常に取り締まりの隙に乗じ各処に出没して行客を曵き、支那事変後の現在においても邦人居住地区虹口および楊樹浦方面のみにても約百五十名の多きに達しをれり。これに次ぐ本邦人私娼も事変前二百五十名内外と称せられたりしが、事変後、戦時景気の好況により正業に転じ、その数著しく減じ、現在、百五十名内外と認めらる。しかしてこれら私娼は、その大半は朝鮮人にして、内地人私娼の大部分は一戸を構へ、支那人車夫等を客引きに使用、あるいは租界内に慰安機関のなき陸軍兵士を対手に語学教授、主人が第一線に勤めをる留守宅、またはその他正業を装ひ、密かに売淫行為をなしをれるが、転々居所を替へ、これが取り締まり上の苦心少なからざるものあり。
 

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昭和十三年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ狀況及其ノ取締竝ニ租界當局ノ私娼取締狀況(在上海總領事館警察署沿革誌ニ依ル)

一、藝妓

上海ニ於ケル藝妓ノ保護取締及待遇ノ改善等ニ關シテハ常ニ細心ノ注意ヲ拂ヒ居レル處曩ニ昭和四年五月當業者ヲシテ株式組織ノ檢番ヲ設置セシメ檢番料理店置屋及抱主藝妓間ニ於ケル貸借契約稼業期間收得金ノ分配給與等ニ關シ命令ヲ以テ藝妓ノ待遇改善ヲ圖ルト共ニ更ニ客年末一部命令內容ヲ改善シ今日ニ及ビタルガ藝妓ニ對スル待遇等ノ實情ハ寧ロ內地ノ夫レニ比シ遙ニ改善ノ域ニ達シ居ルト謂ヒ得ベシ昭和十二年八月日支事變ノ戰禍[×ノ×]上海ニ波及スルヤ一時全部ノ避難引揚ヲ見タルガ同年十二

 

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月頃ヨリ漸次復歸シ現在料理店置屋二十七軒藝妓數二百五十七名ニシテ前年末ニ比シ四件ノ增加數ニ於テ六十名ノ增員トナレリ
又藝妓ノ總稼高ハ前年事變引揚ノ關係上二十三萬一千餘弗ナリシガ本年十二月末日現在ニ於テハ八十五萬九千八百餘圓[ママ]ニ上レリ
此等料理店置屋及藝妓等ニ對シテハ常ニ保安風俗衞生上ノ取締ヲ勵行シ來リタルガ支那事變ニ由ル當地情勢ハ從來ノ漸減策ヲ持續シ得ザル事情アルニ顧ミ設備其ノ他ノ條件ヲ附シ增加ヲ認許スルコトトシ三十二月末現在料理店及置屋二十七軒藝妓二百五十七名ニ上リ前年ニ比シ六十名ノ增員ヲ見タリ

二、酌婦

在留邦人經營ノ貸席ハ內地公娼制ニ依ル乙種藝妓(娼妓)ヲ抱ヘ

 

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明治四十年七月貸席ヲ開業シタルモノナルガ昭和四年六上海公安局ハ管下全般ニ亘リ支那人公娼廢止ヲ佈布スルト共ニ支那街ニ在リシ邦人業者ニ對シテモ閉鎖ヲ强要スル等ノ態度ヲ示シ一方之ニ呼應シテ本邦人ヲ以テ組織スル婦人矯風會上海支部公娼制ニ極力反對ヲ唱ヘ外務省ニ陳情スル等ノ運動ヲ爲シ社會問題トシテ取リ擧ゲラレタル事アリ國際都市ニ於ケル邦人ノ體面ト社會風敎上常ニ問題視セラルルニ顧ミ當館ニ於テモ同年公娼廢止ニ代ルベキ辨法トシテ料理店酌婦制度ヲ設ケ爾來抱酌婦ノ改善ヲ計リ來リタル處昭和七年上海事變勃發ト共ニ我ガ軍部隊ノ當地駐屯增員ニ依リ此等兵士ノ慰安機關ノ一助トシテ海軍慰安所(事實上ノ貸席)ヲ設置シ現在ニ至リタ[×ル×]<リ>然ルニ本業者モ今次事變勃發ト共ニ一時

 

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內地ニ避難シタルガ客年十一月頃ニハ常態ニ復シ其後在留邦人ノ激增ト共ニ滬月、末廣ノ貸席ヲ增シ十二月末日現在事實上ノ貸席十一件(內海軍慰安所七軒ヲ含ム)抱酌婦百九十一名(內地人七十一名朝鮮人二十名)トナリ前年ニ比シ七十三名ノ增員トナレリ而シテ一般貸席四軒ハ殆ド居留法人ヲ顧客トシ他ノ海軍慰安所七軒ハ海軍下士官兵ヲ專門ニ絕對地方客ニ接セシメズ且酌婦ノ健康診斷モ陸戰隊及當館警察官吏立會ノ上每週一囘專門醫ヲシテ實施セシメ居ルモノナリ尙其ノ他當館管內ニ陸軍慰安所臨時酌婦三百名アリ

 

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五、私娼

上海ハ魔都ノ稱アルガ如ク遊客ノ好奇心ヲ誘フ歡樂場隨處ニ存在シ就中一般人ヲシテ顰蹙セシムルモノハ私娼ニシテ特ニ共同租界繁華街タル南京路兩側ノ如キハ支那人私娼又ハ如何ハシキ「ダンサー」等野鷄ト稱シテ出沒シ猥褻極マル言辭ヲ弄シ又ハ赤露ノ革命ニ由リ本國ヲ逃レ流浪セル白系露人ノ私娼ハ其ノ數ニ五、六百名ヲ[×出沒×]<算>シ彼等ハ常ニ取締ノ隙ニ乘ジ各處ニ<出沒>シテ行客ヲ曵キ支那事變後ノ現在ニ於テモ邦人居住地區虹口及楊樹浦方面ノミニテモ約百五十名ノ多キニ達シ居レリ之ニ次グ本邦人私娼モ事變前二百五十名內外ト稱セラレタリシガ事變後戰時景氣ノ好況ニ由リ正業ニ轉ジ其ノ數著シク減ジ現在百五十名內外

 

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ト認メラル而シテ此等私娼ハ其ノ大半ハ朝鮮人ニシテ內地人私娼ノ大部分ハ一戶ヲ構ヘ支那人車夫等ヲ客引ニ使用或ハ租界內ニ慰安機關ノナキ陸軍兵士ヲ對手ニ語學敎授主人ガ第一線ニ勤メ居ル留守宅又ハ其ノ他正業ヲ裝ヒ密カニ賣淫行爲ヲ爲シ居レルガ轉々居所ヲ替ヘ之ガ取締上ノ苦心少ナカラザルモノアリ

 

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