Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

【工事中】桂林攻撃に関わった諸部隊のその後動き 1944. 11. 8〜1945. 8. 15

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12122443600 12/48

第58師団司令部略歴

昭17. 3. 3
一、軍令陸甲第 8号 第58師団編成下令
 1. 第58師団司令部編成業務着
  漢口編成完結
 2. 師団長陸軍中将下野一霍以下 将校29名、下士官43名、兵68名

[中略]

19. 3. 1
師団長交代 陸軍中将 毛利末広

19. 3. 15
司令部増加配属として将校12名、下士官29名、兵255名補充す。

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12122443600 13/48

 

自 昭19. 5. 1  至 19. 6. 20
一、長沙攻略作戦に参加す。
 1. 死没者 将校 2名、下士官 3名、兵 6名

自 19. 6. 21  至 19. 8. 8
一、衡陽攻略作戦に参加す。
 1. 死没者 下士官 2名、兵23名

自 19. 8. 9  至 19. 9. 20
一、全県作戦に参加す。
 1. 死没者56名

自 19. 10. 23  至 19. 11. 11
一、桂林攻略作戦に参加す。
 1. 死没者、下士官 2名 兵25名

19. 11. 11
一、中華民国広西省臨桂県桂林に移駐。

20. 3. 9
一、師団長交代 陸軍中将 川俣雄人

20. 3. 20
一、司令部増加配属として将校 3名、下士官 6名、兵36名補充。

自 20. 7. 26  至 20. 8. 14
一、桂林全県附近の戦闘に参加す。
 1. 死没者なし

20. 8. 14
停戦詔書

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12122438400 45/49

第40師団司令部

昭14. 6. 30
軍令陸甲第21号に依り編成下令
初代師団長に陸軍中将 大谷直次郎 親補せらる。

[中略]

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C12122438400 48/49

昭19.4
主力を以て湘桂作戦第一次、第二次および南部粤漢打通作戦に参加す。

8
師団長参謀本部附に補せられ、新たに陸軍中将宮川清三、師団長に補せらる。

昭20. 4
広東西方地区に集結、同地附近の警備に任ず。

6.7
三南作戦に参加す。

7
贛州を出発、贛江に沿う地区を北上し、南昌南方地区に集結す。

8. 15
同地に於て終戦の大命を拝受す

 

戦史叢書第42巻

昭和二十年の支那派遣軍

    <1>

   ー三月までー 

 

防衛庁防衛研修所 戦史室 著

朝雲新聞

 

p. 45

第一章 南部粤漢鉄道打通作戦

 四 第二十軍の作戦準備

  各兵団、部隊の状況

 主題に入るに先だって、まず本作線に関係のある各兵団の、部隊の状況を述べ、特に昭和十九年十二月におけるその態勢を明らかにすることにする。

 [中略]

 

 第四十師団 第四十師団は「ト」号第一期作戦においては湘江左岸地区を行動し、第十一軍主力の衡陽攻略に際しては湘桂公路方面において重慶軍の衡陽解囲軍に対し反撃、よく軍主力の作戦を容易にした。八月下旬第六方面軍の設立にあたり、その戦闘序列に編入されたが、引き続き第十一軍の指揮下にあり、「ト」号第二期作戦においては第五十八師団と共に桂林の攻略に任じた。この

 

間師団は大陸命第千百五十五号(一〇・一九)により十月三十一日零時をもって第十一軍隷下に復帰していた。

 十一月十日桂林攻略後、桂林北一三粁義寧付近一帯の敗残兵掃蕩を命ぜられ、針支隊(第三十四師団歩兵第二百十八聯隊基幹)と共に十一月十四日行動を開始した。十七日には主力をもって長安(桂林西六七粁)、和陸圩(長安南三七粁)方向に突進して十八日桂林南西側に帰着し集結した。この間一部をもって中渡(桂林南西七五粁)、鹿塞墟(中渡南東二〇粁)、榴江(中渡東南東四〇粁)等の確保警備に任じた。師団長宮川淸三中将は桂林帰着後、軍から「一部ヲ以テ零陵附近、主力ヲ以テ道縣任ニ向ヒ前進シテ第二十軍指揮下ニ入リ南部粤漢打通作戦二従事ス」べきを命ぜられた。師団は一部を零陵、道縣へ先導するとともに転進を準備したのち、十二月五日桂林南西側を出発し、大圩(桂林南東二〇粁)―茅竹市(大圩東四三粁)―灌陽(桂林東北東二五粁)経由、十四日道縣二集結し、次期作戦を準備した。桂林を出発のとき第四十師団には独立山砲兵第二聯隊(長 森野二郎中佐)と独立無線第九十四小隊が配属されていたが、軍の指示により山砲兵聯隊の全力、独立無

 

線小隊は一部(二分隊)を柳州に向かい前進させられた(独立無線小隊は第十一軍中枢通信所勤務とす)。なお無線小隊の主力は、小隊長以下四一名、二号乙、三号甲各一機、馬二五頭から成り、小隊長は山本五郎少尉である。

 

第三章 昭和二十年初頭支那派遣軍の状況

第十一軍の状況

 第五十八師団(鯨)の状況 第五十八師団(師団長 毛利末廣中将、参謀長 高原篤重大佐、参謀 鈴?木□□武中佐

 

参謀 中村浩少佐)は、桂林攻略直後(十一月十二日)「桂林ヲ確保警備スルト共ニ一部ヲ桂江二沿フ地区ニ派遣シ大圩(桂林南東一九粁)、陽朔(桂林南南東五九粁)附近ニ進出シ第三十七師団ト交代セシムヘキ」軍命令を受領した。よって十五日独立歩兵第九十四大隊および迫撃第十六大隊を第圩に派遣した。師団は歩兵第五十二旅団(独立一〇五大を欠き歩兵三大隊基幹)を義寧(桂林北西一四粁)に位置させて桂林北方湘桂公路を含む桂林北西方地区の警備に、同第五十二旅団(独歩九四大を欠き歩兵三大隊基幹)を湘桂公路以南地区の警備に、独立歩兵第百六大隊を直轄して桂林の直接警備に任じさせた。二十五日軍参謀長中山少将を迎えて慰霊祭を行ない、また団隊長会同を行って、占拠体制への転移、自活自戦態勢の強化等について指示した。その後二十八日軍からの指示により、師団の警備地区が拡張され、平榮(桂林南東八二粁)、荔浦(平榮南西二二粁)、古化(桂林西四二粁)も師団の担当とされた。師団は歩兵第五十一旅団長野溝少将を陽朔に進出させ、新たに平榮、荔浦をふくむ桂江に沿う地区の警備に任じさせた(歩兵九五大を欠き、在大圩、独歩九四大をその指揮二復す)。独立歩兵第九十五大隊は師団直轄とし

 

て、柳州北東方□容(桂林南南西九〇粁)に至る間の湘桂公路を警備させた。また歩兵第五十二旅団の警備地区に古化をいれた。