Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

研究論文 第二次世界大戦期のハワイにおける軍隊と性 ーーホテル・ストリートの繁盛が意味するものーー 島田法子 より

1.  ホノルルにおける赤線地区の繁栄

 第一次世界大戦後に軍事基地の急速な拡大が図られていたホノルルでは,早くも 1928 年頃から軍によって兵士の性病対策と士気高揚のために管理売買春システムが構築され始めた。すなわち兵士を相手にする娼家では,性病感染源調査,性交直後の娼婦による性病感染防止処置,娼婦の定期的身体検査が軍の主導下に導入されていった。娼婦·娼家の管理は,軍の医療部隊や,憲兵隊,沿岸警備隊との協力の下に,ホノルル市警察の風俗取締班にまかされた。7)   すなわちハワイでは開戦前から軍事的管理売買春の原形がすでにできあがっていたのである。軍隊と性の問題に関し,平時と戦時とで線を引くことはできない。

  1941 年 12 月 7 日の日本海軍による真珠湾奇襲直後に,準州知事ジョゼフ・B・ポインデクスターは政権を軍に明け渡し,ハワイは戒厳令下におかれた。戦前から繁栄していた赤線地区の娼家は一時的に閉鎖されたものの,数週間後には軍事政権の下で軍当局によって再開され,ホノルル警察の風俗取締班は憲兵隊長フランク・スティア少佐の指揮下に置かれることになった。陸海軍基地が急激に拡張されるにともなって,アメリカ本土からの兵士と軍事労働者が急増したために男性人口が圧倒的に多くなり,確かな統計はないもののハワイ人口の男女比は 500 対 1 にまでなったといわれる。8)   この男女比の大きな相違が一因となり,ホノルルはアメリカ最大の売買春センターとなった。

 売買春は軍政当局の大きな関心事であった。民政復活を求めてハワイ軍指令部と闘ったハワイ準州司法長官J・ガーナー・アンソニーの記録によると,軍は特に売買春に関する司法権を握り続けることに固執した。アンソニーは,  「ハワイの軍当局が,売買春にかかわる犯罪の裁判権と,売買春そのものの管理にかかわる管轄権を保持することにいかに固執したかは奇異なことである。売買春が軍事上の安全とは無関係であることは確かなのに,ハワイで指揮権をふるう彼等の目には,この問題が大問題であると写っていた。」 と述べている。9)   軍隊の維持のために娼家制度は必要とされ,結局軍政が 1944 年秋に民政移管される間際まで,娼家の営業は軍の管理下で公然と続いたのである。

 ホノルルにおける売買春の実態はベイリーとファーバーの研究が詳しい。他の資料を補いつつ考察を加えながら短くまとめておこう。10)   軍隊相手の娼婦はカリフォルニアからハワイに出稼ぎに渡ってきた白人女性が多

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かった。娼家への娼婦の手配には地下組織が絡んでいたが,彼女たちはハワイに強制的に連れて来られたわけではなく,また 「廃業の自由」 もあった。しかし,彼女たちに対する警察の管理は威圧と暴力による専制であった。ホノルル市警察が長年にわたり白人娼婦に強制した管理上の差別的慣行とは以下のようなものである。まず彼女たちが本土から到着すると,まるで囚人のように港からホノルル警察に連れていかれた。そこでは指紋を採られ,写真を撮られて,登録させられた。警察における手続きが済むと,保険所で 3 回の淋病の塗抹標本検査と梅毒の血清学的検査を受けさせられ,5 日目に検査結果が陰性なら営業が許可になった。営業が始まると,風俗取締班の警官は日々巡回してまわり,管理下にある娼家のマダム (女将) から巨額の不正利得を徴収した (ある証言によれば,戦争中警察は娼婦 1 人につき毎月 50 ドル,一時は値上げして 100 ドルを徴収したという)。11)   警察は娼婦を厳格に管理するために人権を無視した 「娼婦の守るべき慣行」 をみっちりと 「教育」 した。例えばワイキキビーチに行ってはならない,どこのバーにも高級カフェにも行ってはならない,不動産や自動車を所有してはならない,軍関係者と結婚してはならない,ダンスに行ってはならない,タクシーの前部座席に座ったり,男性と一緒に後部座席に座ってはならない,所属娼家を変えてはならない等々。また娼婦は民間アパートには住めず,マダムに部屋代を払って娼家内に住まなければならない慣行であった。警察は娼婦の私生活が地元民 (特に白人支配層) の目に触れないように細心の注意を払い,娼婦はいわば 「見えない存在」 にされていた。

 ホノルルの赤線地区は,リヴァー,ベレタニア,ヌアヌ,そしてホテル・ストリートに囲まれた数ブロックの狭い地区で,第二次世界大戦下この 「ホテル・ストリート地区」 には兵士専用の 20 軒ほどの娼家が集中していた。警察に登録された娼婦は約 250 人で,マダムが経営している娼家に所属する者と,娼家内の部屋を 1 日 25 ドルから 75 ドルで借りて個人営業する者とがいた。娼婦は 「エンターテイナー」 として警察に登録され,ライセンス代に年 1 ドルを支払い,収入を報告してその額に対して税金を支払った。娼家前には毎日 2 時間待ちの兵士の行列ができ,毎月 25 万人近くの軍関係者が娼家を利用した。売春業は一大産業となり,その総売り上げは年 1 千万ドルから 1 千 5 百万ドルにも達し,戦前のホノルルの観光業の総売り上げに匹敵した。料金は 1 回が 3 分間で 3 ドル。そのうち 1 ドルがマダムの取り分であった。ほとんどの娼家ではマダムが娼婦に月 20 日以上の労働と 1 日に 100 人の相手をするという割り当てを課したという。12)   娼婦の平均年

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収は 2 万 5 千ドルから 4 万ドル,マダムの年収は約 15 万ドルにもなった。13)   当時の最高給で働く女性の年収が 2,000 ドル位であったから売春がいかに高収益であったかが分かる。しかし長く続けられる仕事ではなかった。辛い仕事だったので,娼婦を長時間働かせるためにモルヒネ等の麻薬を与えるマダムがいたことが指摘されている。14)   たとえこの職業が女性の 「自由選択」 であったとしても,軍専用娼家制の基盤は性暴力であり,娼婦は軍,警察,保険所,マダムに管理され従属と従順を強いられていたのである。

7) Eric A. Fennel, "Venereal Disease Control: A Bedtime Story," Hawaii Medical Journal (November-December 1942), 68-9.

8) Bailey and Farber, The First Strange Place, 43. Cf. Honolulu Star-Bulletin, September 26, 1941.

9) J. Garner Anthony, Hawaii under Army Rule (Stanford: Stanford University Press, 1955), 23.

10) Bailey and Farber, The First Strange Place, 100-9.

11) Joe Rossi, "An Interview with Harriet Kuwamoto, "April 1 and 8, 1992, An Era of Change (Honolulu: Center for Oral History, University of Hawai'i, 1994), I,335; Jean O'Hara, My Life as a Honolulu Prostitute, mimeographed (Honolulu; self-published, 1944), 27.

12) Vivien Lee, "An Interview with Adeline Naniole, "March 2, 1979, Women Workers in Hawaii's Pineapple Industry, (Honolulu; Ethnic Studies Oral HistoryProject, University of Hawai'i, 1979), II, 770.

13) Honolulu Council, "Prostitution in Honolulu," 3.

14) O'Hara, My Life, 20-21; Bailey and Farber, The First Strange Place, 107

 

2.  ホノルルにおける性病管理

 ではなぜハワイではアメリカ本土と違って,売買春が公然と営業され続けたのであろうか。ハワイの売買春事情には本土とは異なる様相がいくつかあるが,その一つ,ハワイにおける性病管理について考察を加えよう。売買春容認の鍵となった背景として当時ハワイ防衛地区では軍隊内の性病感染率が全米で最も低かったという事実と,ハワイの性病感染率が低いのは管理された売買春制度のおかげであるという 「常識」 とがあった。ハワイ準州の性病部長であった医師サミュエル・アリソンのように,この 「常識」 は誤っていると主張する人もいたが,ホノルルでは少数派であった。

 性病がうまく抑制されている以上,将軍も提督も太平洋戦線に出ていく兵士の士気高揚に役立つとされた娼家の閉鎖を必要とは考えなかった。15)   アリソンは売買春に反対の立場から次のように証言している。「開戦後,軍政の下では性病管理は軍医総監の責任となったが,軍は国の方針を無視し,かえって売買春抑制を妨害した。しかし他方で軍は性病管理に関しては非常に協力的だった。軍医の多くは娼婦が兵士の士気のために必要だと思い,ハワイの性病感染率が低いうちは売買春抑制は必要ないと考えたのである」。16)

 軍の視点からは,最重要課題は性病の管理であり,感染源の摘発であった。ハワイではここ独特の感染防止対策がとられた。第 1 は,徹底した感染源の調査のために,軍,準州性病部,保険所,民間医療機関,娼家マダムの緊密な協力システムをつくることであった。第 2 は,感染源調査に協力してもらうために,兵士に対してだけでなく娼婦やマダムに対しても,懲罰的対応をとらないことであった。しかし以下に述べるように,娼婦を抑圧して兵士を保護しようとする構図に変わりがなかったことを忘れてはならない。

 感染源調査は準州性病部の重要な機能であった。性病部長アリソンが民

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間の責任者で,その下に性病看護婦と感染源調査官が配置されていた。 1937 年から戦中にかけて準州の性病看護婦として働いたハリエット・クワモトの証言が残っているので検証しておこう。17)   その証言からは,軍への協力が優先され,娼婦の人権への配慮はなかったことが窺える。患者 (主として軍人) が出たという報告を受けると感染源調査が始まった。流しの街娼から感染した場合には,その兵士が娼婦をひろったという場所へ出向き,娼婦を特定し,検査を受けさせなければならなかった。娼婦が集まるバーへの対策も行った。クワモトは,  「戦争中は性病の分野で軍と緊密な協力をしました。軍は娼婦がひろえるバーを全部取り払いたがっていました。…私は軍の懲戒班の会議によく招かれて,ある特定のバーから感染した民間人の患者があるかどうか,我々の情報を報告しました。すると軍はそのバーを軍人立ち入り禁止にしまた。…立ち入り禁止になった場所が沢山ありました。立ち入り禁止措置になると,軍人が中に入れないように歩哨が立ちました。それは[軍が]兵士を性病から守る方法の一つでした。」 と述べている。18)   それに対して娼家で働く娼婦に関してはマダムが調査の当事者になった。クワモトの記憶によると,  「私はマダムに電話して,名前は分からないがそこの娼婦の 1 人が感染源に挙げられたと連絡しました。その情報源の男性は娼婦の外見を,金髪,黒髪,背が低い等々というのです。」 するとマダムたちは大変に協力的で,外見が該当する 5・6 人の娼婦を医者にみせたという。19)   「マダムは一般に女たちをできる限り清潔に保とうと努めていました。それが自分たちの利益でもありました」。 20)   また性病は報告義務のある病気だったので,民間の開業医も感染者を発見したら報告を義務づけられていた。 兵士はアメリカ本土と同様に政府の保護の対象だった。軍は性病感染予防のためにホテル・ストリート地区に 5・6 箇所の洗浄消毒センターを公然と設置し,無料で事後の処置が受けられる体制をつくった。各センターは 1942 年には毎月平均 5 万人の男性を処置している。21)   また軍は娼家内にポスターを張り,娼婦と接触した兵士はすぐに洗浄消毒センターに駆けこんで処置を受けるように呼びかけた。感染発病した兵士を罰することもなく,むしろどこの娼婦から感染したのか等々を隠さずに報告させて感染源調査に協力させた。そして感染した兵士は,軍医が配属されている診療所で無料で治療を受けた。22)    結局抑圧されたのは娼婦であった。アメリカ本土におけるような娼婦たちの逮捕・拘留といった懲罰的な取り締まりはなかったものの,定期的な

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毎週の淋病塗抹標本検査と,3 ヵ月毎の梅毒の血清学的検査とが義務づけられていた。検査に医学的価値があるかどうかは疑問視されていたが,娼婦たちの費用負担で続けられた。23)   感染源とされた娼婦は強制入院させられた。これも感染予防手段の 1 つであった。「安全な性」 を兵士に提供するために,あらゆる方法で娼婦をコントロールしたのである。

 戦時中は民間人で感染した人は,娼婦を含めて全てクアキニ病院に入院させられたという。これは旧 「日本人病院」 であるが,戦争勃発により軍に接収されて名称変更させられたものである。ハワイの日本人移民の健康を支えてきた病院で,戦争中もその全患者の 90 % が日系人であった。24)   クワモトの証言によると,  「感染した患者は全員入院しなければなりませんでした。なぜならペニシリンが出たばかりで,病院でしか扱っていなかったからです。患者はクアキニ病院に隔離されました。そこは軍に接収され管理されていて,安全でした。患者はみな民間人です。…娼婦もそうでない人も,当時感染者はみなクアキニに入院しました。」 という。25)   軍が管理するのに便利であったためもあろうが,日本人の病院が一般から蔑まれ 「見えない存在」 であるはずの娼婦の性病治療施設に指定されたことは,人種差別の側面からも興味深い。

 アメリカ本土とは異なり,兵士とつきあう地元の 「ローカル 社会の女性たちが 「潜在的な性病感染者」 として逮捕されるというような事態は起きなかった。もちろんハワイの娘たちが性的に禁欲であったということではない。事実,様々の性的問題が起きた。娼婦ジーン・オハラは,多くのローカルの娘たちが大金に魅せられて,あるいは好奇心から,あるいは斡旋人の甘言にのせられて,売春 (娼家以外の場所で) を始めたことを証言している。26)   またローカルの娘たちが社交上手な白人兵士に誘われてデートを楽しみ始めたため,自分たちの女性を奪われたローカルのアジア系男性と白人兵士とのいざこざがおきたり,娘たちと兵士とのあいだに多くの私生児が生まれたりした。27)   共同体の規制が強くて性的自由が最も限定されていた日系の娘たちの間でさえ,多くの私生児が生まれた。クアキニ病院の看護婦の証言によると,  「私が気付いた大きなことで明らかに社会問題だと思うことは,ここで生まれる私生児の大変な増加ぶりです。ときには一遍にこのフロアの出産の 25 % までが私生児になります。…私生児のケースのほとんどは母親が日系人のウェイトレスかメイドで,父親が白人の軍事労働者か兵士です。」 という状況であった。28)   ハワイ系の社会では私生児は伝統的拡大家族制度 「オハナ」 によって大切に受け入れられた。また日

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系社会でも一世が若い娘の 「性的奔放」 に苦言を呈することはあっても,敵性外国人である一世はもはや二世を規制することはできなかった。このようにハワイでは,人手不足から社会進出した女性たちはもちろんのこと,性的に自由に振る舞った女性たちをも,警察や公衆衛生官吏が抑圧することはなかった。ハワイでは,ローカルの女性と外部から来た娼婦との間で線引きがなされ,娼婦だけが管理抑圧されたのである。

15) Costello, Virtue under Fire, 216.

16) Samuel D. Allison, "The Honolulu Myth," Soclal Protection in Hawaii:  How the City of Honolulu Closed Its Red-Light District, The American Social Hygiene Association Publication No. A-661 (Honolulu, u.d.), 17. RASRL.

17) Rossi, "An Interview, "333-38.

18) Ibid., 333.

19) Ibid., 334.

20) Ibid., 337.

21) Costello, Virtue under Fire, 216.

22) Rossi, "An Interview," 345.

23) Femel, "Venereal Disease Control," 70.

24) Mrs. Lam, "An Interview with a Nurse at the Obstetrical Dept. of Kuakini Hospital," March 16, 1943. RASRL.

25) Rossi, "An Interview," 356.

26) O'Hara, My Life, 10.27) H.E. Hasty, "An Interview with Miss B.E.M., a Public Health Nurse," July 18,1943. RASRL.

28) Lam, "An Interview."

 

3. 娼婦の 「人権」 と女性による売買春 「支配」 の意味

 ハワイの状況を,性病感染率の低さだけでは説明しきれない。確かに,アメリカ本土でも性病さえ抑制できるなら売買春を認めてよいとする世論があったように,性病感染率の低さは売買春容認の大きな要因である。しかし総力戦体制下のハワイにおいては,軍はただ単に売買春を容認するにとどまらず,地元社会の抵抗を振り切って,娼婦を戦争のための有用なある種の 「軍事労働者」 として保護することになった。なぜそのようなことが起こり得たのであろうか。地元社会はどのように対応したであろうか。ここではまずそのプロセスを検証し,次いでその意味するところに考察を加えたい。

 真珠湾奇襲後に起こった娼婦と軍と警察の 3 者をめぐる興味深い力関係は,ハワイ以外のアメリカでは起こりえないことであった。この問題を取り上げているベイリーとファーバーの論文によると,事のなりゆきは以下のようである。29)   上述のように,開戦とともに軍政下に憲兵隊長スティア少佐が娼家・娼婦を管理する権限を握った。彼は地元社会の人種関係や慣行に関心が無く,娼婦をホノルル警察の規制から解放し,ホテル・ストリート地区できちんと娼婦として働く限り住居や行動を制限することをやめてしまったのである。その結果 「自由な市民」 として解放された娼婦はホノルル中で自分の家を買い,盛んにパーティーをして自由を満喫した。このように白人娼婦が公衆の目に触れるようになったので,ハワイの白人支配層が主張する 「白人の道徳的優越性やハワイの多数を占める有色民族を統治するある種の『自然な』権利」 という欺瞞が暴かれたのであった。30)   このような娼婦の 「解放」 に納得がいかないのはホノルル警察であった。警察は,白人支配の構造を保持したいという地元白人社会の利益を代弁していた。軍と警察が娼婦をめぐって対立する構図となった。警察署長ウィリアム・A・ゲイブリエルソンは軍に対する不満を隠そうとせず,風俗取締班の警官に赤線地区の監督から一切手を引くように命令を出した。こうなれば

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軍は赤線閉鎖を命令するほかなくなる。しかし,ゲイブリエルソンが予期したように,エモンズ将軍は閉鎖を望まず,ホノルル警察に以前のように赤線地区の管理を行うことを命令した。ゲイブイエルソンは喜んで管理を再開した。しかし今度は元の状態に戻ることを拒否した娼婦がストライキに訴,約3週間ホノルル警察の前でピケを張るという前代未聞の事態となった。彼女たちは住居と行動の自由を 「市民としての十分な権利」 として要求したのである。結局エモンズ将軍の働きかけで妥協が成立し,娼婦の 「住居の自由」 と 「外出の自由」 を認めること,その代わり面倒な娼婦の性病管理と娼家の衛生管理は軍が引き受けること,警察は他の規則を執行する権利を持つことで決着したのである。娼婦は歓声をあげてストライキを終えた。地元の新聞はこの騒ぎを一切報道せず,無視した。戦争中も地元社会は娼婦を 「見える存在」 として認めることを拒み続けたのである。

 娼婦たちが手にした 「市民としての権利」 は,総力戦体制下で娼婦の有用性が軍に認知されたために起こり得たというベイリーとファーバーの解釈は正当である。しかしベイリーとファーバーのように娼婦の 「権利」 を強調することには疑問が残る。むしろ継続する娼婦差別こそ強調されるべきであろう。なぜなら警察力によって女性の体をコントロールし,それによって兵士の性欲の結果である性病感染をコントロールした力の構図に変わりはなかったからである。娼婦が手にいれた 「市民としての権利」 はあくまでも括弧つきの限定的なものであった。一般の女性が,あるいは黒人やアジア系などの少数民族の男性が,総力戦下に職場や軍隊に進出し,軍事労働者あるいは市民として社会的に認知され徐々に主流社会に受け入れられていったことと並行した点があるものの,ホノルルの娼婦の場合は社会的に認知されることはなく,あくまでも非合法で 「見えない存在」 として扱われた点では根本的に異なるのである。それを実証するのが娼婦オハラである。1944 年初頭に廃業したオハラは,同年 8 月に警察の横暴と暴行を告発する手記を公表した。彼女は強い納税者意識を持ち,堂々とした権利の主張をした。例えば警察署長に 「私は自分がしたいことをするわ。私は市民で納税者よ」 と言い返し,警官に向かって 「私が市民で納税者である以上,どこに住もうと勝手でしょ」 と言う。31)   彼女も戦争中は高級住宅地に住んでホテル・ストリートに出勤する自由を得た。しかし決して市民として社会的に認知されたのではない。警察は市民としての権利を主張して警察に対抗するオハラを追い回し,彼女を無実の嫌疑で逮捕し,オハラが盗難にあっても相手にしてくれなかった。32)

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またベイリーとファーバーのように女性によるホテル・ストリート売春の 「支配」 を強調するなら,女性が支配さえすれば基地売買春は是認されるのかという疑義を招く。また真の支配構造を見落とすことになる。ベイリーとファーバーは,戦時中の売買春が完全な売手市場であったことを,そして行儀の悪い男性や酔っ払いは娼家への立ち入りを入口で拒絶され,性病の兆候のある男性は娼婦に拒否されたことを指摘し,娼家の所有,管理,運営に関して全面的に女性の支配下にあったことを強調する。「女性の体は商品であった。しかしシステムが,女性による男性支配を強調する仕組になっていた。[男性は]行列に並び,入口番[女性]にチェックされ,その日の 100 人という割り当ての無名の行為に加わる。このような経験は男性の力とか支配の感覚を強めるのにまったく役立たなかった。…大戦中のホテル・ストリートでは,支配を手にしたのは女性であった」 と。33) しかし,むしろ娼婦による「支配」は表面のみであったことを強調する必要があろう。売手市場で性の供給側の女性が個々の兵士より優位に立っているように見えても,その真の買手は独占的に軍隊であり,この市場自体は完全に軍の支配下にあったことを忘れてはならない。すなわち外見上の女性(娼婦とマダム)の優位は軍隊に裏書きされた脆いものに過ぎなかったのである。軍政当局が売買春をめぐる司法権や管轄権に固執したことが示すように,軍隊が売買春を必要と考えたので存続が許されたのである。さらに,娼婦とマダムを 「女性」 として一括することも誤りである。ベイリーとファーバーの論文は,娼婦とマダムの間に,対立関係ではないにせよ支配関係があったことを隠してしまっている。マダムは性病感染予防のシステムの一端を担い,麻薬で娼婦を支配し,日に 100 人の兵士を相手にすることを課し,  「怠け者」 に圧力をかけた。娼婦が客を支配したと考えるのには無理がある。V・ブーローとB・ブーローが主張するように,娼婦は社会的地位を失うことによって,つまり一定の市民としての権利を放棄して主流社会から外れることによって収入を得てきたのであり,ハワイの大戦中の娼婦も例外ではなく,警察の監視と定期的性病検査の辱めを受け,性病と麻薬中毒に脅かされつつ,稼げるだけ稼いだにすぎない。34)   そして,たとえ娼婦が大金を手にしたとしても,最大の受益者が軍隊であったことに変わりはない。娼婦オハラが手記の冒頭と結論で若い女性たちにこの商売につかないように警告を発していることは象徴的である。35)

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29) Bailey and Farber, "Hotel Street," 64-68.

30) Ibid., 64.

31) O'Hara, My Life, 30, 45.

32) Ibid., 45.

33) Bailey and Farber, "Hotel Street," 63.

34) Bullough and Bullough, Women and Prostitution, 293.

35) O'Hara, "Dedication" and "Conclusion," My Life.