Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

正義のために 尋問調書 イエ・ベールマン、旧姓バレホーイエン 1946.5.16

                 E1725

                DOC P5770

正義のために

      尋問調書

 本日(木曜日)1946年/昭和21年5月16日、私、すなわち汽船ニユ・ホーラント号輸送指揮官の命による戦争犯罪調査係、予備歩兵中尉、准男爵、法学士ウエ・ア・バウトの面前に左記の者出頭す。

 氏名 イエ・ベールマン、旧姓バレホーイエン

 職業 無し・・・・・・

 この後の住所 ヘーグ市リアウ街183

 年齢 27歳

 ここにおいて出頭人は、宗教的信念に従い全く真実を述べ、真実以外の何事をも述べざることを誓言す。 

 私は一般被抑留者としてムテラン収容所に抑留されました。1944年/昭和19年/1月28日、私はわが婦人部指導者レイツスマ婦人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にといわれました。ここで私はジャワ人の一警視を見ました。彼は私を他の6人の婦人や少女らと一緒に連れて、収容所の外側にあつたニ警察署へ連れて行った。連行された人々の名前はアンニホーマンス、ゼイリストラ夫人、ブレツカー夫人、クラウト夫人、ケイコーブ夫人およびデウ・レーヘ夫人でありました。

  ・・・・・・・・・・・・

 私らがジャワ人警視に案内されて収容所へ帰って鞄に所持品を充めた後に、その警視は私らを日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。ここで私らは3人の日本人に引き渡されて、3台の私有自動車でマゲランへ輸送され午後4時に到着しました。われわれはテウグランと称せられ、14の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。1944年/昭和19年/1月25日、私たちの収容所から連行された婦人や少女らの一団とここで会いました。

  ・・・・・・・・・・・・

 1944年/昭和19年/2月3日、私たちは再び日本人医師によって健康診断を受けました。この回は少女らも含んでいました。そこで私たちは日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。その日の晩に娼楼が開かれるはずでした。帰宅後、ブレッカー婦人と私はあらゆる戸や窓を閉め

ました。午後9時ごろ戸や窓を叩く音がありました。私たちは戸も窓も開け、閉ざしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を鍵で閉ざして、私はそこへ閉じ籠りましたが、他はその通りにしました。私はこれを2月5日、日曜日まで継続しました。その日にもまた日本軍兵卒らが収容所へ入って来ました。(以前は日本軍将校のみでした。)これらの兵士の幾らかが這入って、その中の一人は私を引っ張って私の部屋へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。その憲兵は私たたては日本人を接待しなければならない。なぜかといえぱ、もしわれわれか進んで応じないならぱ、居所が判っているわれわれの夫が責任を問われると私に語りました。この様に語った後、憲兵はその兵士と私とだけを残して立ち去りました。その時ですらも私はなお抵抗しました。しかし事実上、私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後ろに捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私はこの兵卒は誰であったか、またその憲兵将校の姓名も知りません。

 この状態が3週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士たちのために開かれ、日曜日の午前は兵卒らのために保留されました。娼家には時々、一般日本人が来ました。私は常に拒絕しましたが無効でありました。

 1944年/昭和19年/2月の終りごろか3月の始めごろに私は事務所に出頭する様に命じられました。そこにはタキグチという日本の一将校がいました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴えを根拠として事件を調査すると約束しました。彼はまた私たちを□□者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士や一般日本人に諭して娼家を閉鎖して、私たちのために直ちに情況を改善してくれました。

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 出頭人は本調書を読み聞かされた後、その陳述を主張する旨、宣言した後、出頭人および調書作成人は本調書に署名す。

 調書作製人 ウエ・ア・バウト

 出頭人 旧姓バレホーイエン・イエ・ベールマン

 1946年5月16日、汽船ニユ・ホーランド号にて本調書を作製す。

 調書作製人 ウエ・ア・バウト(署名)

 

          Doc5770(cert)

    証明書

 下記署名蘭印軍陸軍大尉、オランダ軍情報部戦犯課長チャールス・ヨンゲネールは、まず正式に宣誓の上、添付陳述書は左記標□の和蘭原本全文の真正、完全かつ正確なる写しにして、なお右原本はオランダ軍情報部の公式記録の一部なることを証明す。

           記

1946年/昭和21年/5月16日付、蘭印軍陸軍中尉ウエ・ア・バウト准男爵によって作成せられたる、旧姓フアン・バレホーイエン、すなわちイエ・ベールマン夫人の宣誓陳述書(NO.OM/565/Ⅱ)

 署名 チャールズ・ヨンゲネール

    (オランダ軍情報部官印)

     1946年/昭和21年/

              8月29日バタビヤ

 余、オランダ領東インド検事総長事務局附先任官吏、蘭印軍砲兵少佐、法学士カ・ア・デウ・ウエールトの面前にて署名し、かつ宣誓せり。

 署名 カ・ア・デウ・ウエールト

     (バタビヤ・セントルム検事総長官印)


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1.               E1725

                DOC P5770

正義ノ爲ニ

      尋問調書

本日(木曜日)一九四六年/昭和二十一年五月十六日私卽チ汽船「ニユ・ホーラント」號輸送指揮官ノ命ニヨル戰爭犯罪調査係豫備歩兵中尉准男爵法學士「ウエ・ア・バウト」ノ面前ニ左記ノ者出頭ス

 氏名 イエ・ベールマン舊姓バレホーイエン

 職業 無シ・・・・・・

 此後ノ住所 ヘーグ市リアウ街一八三

 年齢 二十七才

コヽニ於テ出頭人ハソノ宗敎的信念ニ從ヒ全ク眞實ヲ述ベ眞實以外ノ何事ヲモ述ベザルコトヲ誓言ス。 

 私ハ一般被抑留者トシテ「ムテラン」收容所ニ抑留サレマシタ。一九四四年/昭和十九年/一月二十八日、私ハ吾ガ婦人部指導者「レイツスマ」婦人カラ日本軍俘虜收容事務所ヘ出頭スル樣ニト云ハレマシタ。此處デ私ハ爪哇人ノ一警視ヲ見マシタ。彼ハ私ヲ他ノ六人ノ婦人ヤ少女等ト一緒ニ連レテ收容所ノ外側ニアツタ警察署ヘ連レテ行ツタ。連行サレタ人々ノ名前ハ「アンニホーマンス」


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2.             Doc5770

「ゼイリストラ」夫人・「ブレツカー」夫人・「クラウト」夫人・「ケイコーブ」夫人及ビ「デウ・レーヘ」夫人デアリマシタ。

  ・・・・・・・・・・・・

 私等ガ爪哇人警視ニ案内サレテ收容所ヘ歸ヘツテ鞄ニ所持品ヲ充メタ後ニ其警視ハ私等ヲ日本軍俘虜收容所事務所ヘ連レテ行キマシタ。此處デ私等ハ三人ノ日本人ニ引渡サレテ三臺ノ私有自動車デ「マゲラン」ヘ輸送サレ午後四時ニ到着シマシタ。我々ハ「テウグラン」ト稱セラレ十四ノ家屋カラ成ツテヰタ小サイ收容所ヘ連レテ行カレマシタ。一九四四年/昭和十九年/一月二十五日、私達ノ收容所カラ連行サレタ婦人ヤ少女等ノ一團ト此處デ會ヒマシタ。

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 一九四四年/昭和十九年/二月三日、私達ハ再ビ日本人醫師ニ依ツテ健康診斷ヲ受ケマシタ。此囘ハ少女等モ含ンデ居マシタ。其處デ私達ハ日本人向キ娼樓ニ向ケラレルモノデアルト聞カサレマシタ。其日ノ晩ニ娼樓ガ開カレル筈デシタ。歸宅後「ブレツカー」婦人ト私ハ凡ユル戶ヤ窓ヲ閉メ


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3.             Doc5770

マシタ。午後九時頃戶ヤ窓ヲ叩ク音ガアリマシタ。私達ハ戶モ窓モ開ケ、閉サシテハナラヌト命ゼラレマシタ。寝室ダケハ戶ヲ鍵デ閉シテ私ハ其處ヘ閉ヂ籠リマシタガ他ハ其通リニシマシタ。私ハ是ヲ二月五日 日曜日マデ繼續シマシタ。其日ニモ亦日本軍兵卒等ガ收容所ヘ入ツテ來マシタ。(以前ハ日本軍將校ノミデシタ)是等ノ兵士ノ幾ラカガ這入ツテ其ノ中ノ一人ハ私ヲ引張ツテ私ノ部屋ヘ連レテ行キマシタ。私ハ一憲兵將校ガ入ツテ來ルマデ反抗シマシタ。其憲兵ハ私達ハ日本人ヲ接待シナケレバナラナイ。何故カト云ヘバ若シ吾々ガ進ンデ應ジナイナラバ、居所ガ判ツテヰル吾々ノ夫ガ責任ヲ問ハレルト私ニ語リマシタ。コノ樣ニ語ツタ後、憲兵ハ其兵士ト私トタケ殘シテ立去リマシタ其時デスラモ私ハ尚ホ抵抗シマシタ。然シ事實上私ハヤラレテシマイマシタ。彼ハ衣服ヲ私ノ身体カラ裂キ取リマシタ。ソシテ私ノ兩腕ヲ後ニ捻リマシタ。ソコデ私ハ無力トナリ、ソノ後デ彼ハ私ニ性交ヲ迫リマシタ。私ハ此ノ兵卒ハ誰デアツタカ又其憲兵將校ノ姓名モ知リマセン。

 此ノ狀態ガ三週間繼續シマシタ。労働日ニハ娼


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4.             Doc5770

樓ハ日本將校ノタメニ日曜日午後ハ日本下士達ノタメニ開カレ日曜日ノ午前ハ兵卒等ノタメニ保留サレマシタ。娼家ニハ時々一般日本人ガ來マシタ。私ハ常ニ拒絕シマシタガ無效デアリマシタ。

 一九四四年/昭和十九年/二月ノ終リ頃カ三月ノ始頃ニ私ハ事務所ニ出頭スル樣ニ命ジラレマシタ。其處ニハ タキグチト言フ日本ノ一將校ガ居マシタ。彼ハ私ガ受ケタ待遇ニ關シテ私ノ訴ヲ根據トシテ事件ヲ調査スルト約束シマシタ。彼ハ亦私達ヲ□□者收容所ヘ送還スルタメニ極力努力スルコトヲ約束シマシタ。彼ハ兵卒ヤ下士ヤ一般日本人ニ諭シテ娼家ヲ閉鎖シテ私達ノタメニ直ニ情況ヲ改善シテ呉レマシタ。

  ・・・・・・・・・・・・

頭人ハ本調書ヲ讀ミ聞カサレタ後、其陳述ヲ主張スル旨宣言シタ後出頭人及調書作成人ハ本調書ニ署名ス。

 調書作製人 ウエ・ア・バウト

 出頭人 舊姓バレホーイエン・イエ・ベールマン

一九四六年五月十六日汽船「ニユ・ホーランド」號ニテ本調書ヲ作製ス

 調書作製人 ウエ・ア・バウト(署名)


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          Doc5770(cert)

    證明書

 下記署名蘭印軍陸軍大尉和蘭軍情報部戦犯課長「チャールス・ヨン ゲネール」ハ先ヅ正式ニ宣誓ノ上添附陳述書ハ左記標□ノ和蘭原本全文ノ眞正完全且正確ナル寫シニシテ尚右原本ハ和蘭軍情報部ノ公式記錄ノ一部ナルコトヲ證明ス

           記

一九四六年/昭和二十一年/五月十六日附、蘭印軍陸軍中尉「ウエ・ア・バウト」准男爵ニ依ツテ作成セラレタル、舊姓「フアン・バレホーイエン」卽チ「イエ・ベールマン」夫人ノ宣誓陳述書(NO.OM/565/Ⅱ)

 署名 チャールズ・ヨンゲネール

    (和蘭軍情報部官印)

     一九四六年/昭和二十一年/

            八月廿九日「バタビヤ」

余、蘭領東印度檢事總長事務局附先任官吏蘭印軍砲兵少佐、法學士「カ・ア・デウ・ウエールト」ノ面前ニテ署名シ且宣誓セリ

 署名 カ・ア・デウ・ウエールト

     (バタビヤ・セントルム檢事總長官印)

 

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.53) https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/3290668 第17~21画面