Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

福沢諭吉ほか『品行論』より 1885. 12

 芸妓社会を去りて娼妓の境界を見れば純然たる売婬の営業にして、彼の遊廓と称するは即ち売婬の巣窟なり。尋常一種の人間世界にはあらざるなり。そもそも娼妓の利害については今さらこれを論ずる者も少なく、いはゆる道徳家の所望に任すれば、なき方が宜しといふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界にあらず。人類の身もこれを二様に分つときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。近く喩へを取れば人の衣服を着けたる所は人類にして、その裸体たる所は禽獣なるがごとし。道徳家の注文通りに自身の人心をもって自身の獣心の働きを制伏し得れば誠に目出たき仕合ひなれども、世界古今その例を見ず。されば獣心の働き果して止むべからざるか。しからば即ちその止むべからざるに従ってこれを許し、これよりもさらに大いなる害を防ぐこそ利益なれとて、今日に至りてはいかなる偏屈論者も世の中に娼妓の種を除かんなどいふ者は絶へてあることなし。ことに文明の進歩して貧富の差の甚だしきをいたす。その割合に準じて虚飾もまた甚だしきをいたし、貧人は貧なるがために妻を養ふを得ず、富人は虚飾の慾に忙はしくして婚するの暇を得ず、世界いたる処に無数の独身者を生じて、我輩の情慾を満足せしむるためには是非とも娼妓の方便なきを得ず。実を申せば社会貧富の差、かくのごとく甚だしからずして上流も下流も相応に労働して相応に銭を儲け、もって一家を保つべきの仕組みならば、娼妓の要も大に減じて好き都合なるべしと雖ども、実際においてそのしかるを得ざるは社会全体の大勢に妨げらるるものといはざるを得ず。一人の働きをもって日に二三十銭より四五十銭 (これは都会の話にして、田舎はこの半ばに及ばざるもの多し) の銭を取り、一月中に休日もあり、また天気に妨げらるるもありて、これを平均すれば毎月の所得十円に上るを得ずして五六円に居る者を多数とす。わずかに一身の衣食に足るのみにして酒さへ呑むを得ず、妻を養はんなどは思ひも寄らぬ事にして、もしも無理に妻帯して不幸にして子を産むこともあれば一家ただ餓死を待つのほかなし。また上流の人の虚飾も止むを得ざるは世間の風潮にして、ことに欧米諸国にてはその弊、最も甚だしく、美衣美食して外面を装ふにあらざれば世間の交際を許されず、なかんづく男女婚姻は生涯の一大事にして即時に銭を費すのみならず、婚姻の後は家の面目を改めて平生の暮し向きに費用の崇むこと以前に幾倍するが故に、容易に企つべき事柄にあらず、まづもって独身を辛抱するのほか手段あることなく、また近来のごとく教育の方法の上進するについては、男女ともに大いに精神を発達して俗にいはゆる気位はいたって高き処に止まれども、さて銭の一段にいたりては紛れもなき貧乏人にしてこの貧乏人が婚姻を求むればその相手もまた貧乏人ならざる得ず、かつて何れかの大学校を卒業して文才技芸抜群なりと称する学士学女にても、その才芸をもって現に銭を得て豊かなる者にあらざれば婚姻の相手は裏店の娘か横町の職人たるに過ぎず。我が教育の品格を以ては、まさか彼の殺風景なる娘に細君の地位を授るを得ず、彼の荒々しき下郎を良人として親しむに忍びず、我が身に銭こそ無けれども人品は則ち君臣の差もただならずとて、その状、あたかも銭もなく智恵もなき貴族が爵位と勲章とをもって人のこれを顧みるものなきがごとし。これまた独身を守るのほかにせん方なき者なり。故に文明開化の次第に進歩するに従って人心漸く肉体の慾を去って精神の快楽を重んずるの痕跡はいささか見るべきに似たりといへども、同時にこの開明のために世に独身者の数を増し、その始末は誠に当惑の次第にして、ただ一線の血路は窮策にも醜策にも娼妓に依頼して社会の安寧を保つのほかあるべからざるなり。仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡をもなきに至らしめんか、その影響は実に恐るべきものならん。例へば近く東京において新吉原を始めとして幾箇所の遊廓を禁じ、かねて市中売婬の取締を厳にして之を封鎖したらば、いかなる事相を呈すべきや。数月を出でずして満都の獣慾おのづから禁ずること能はず、発しては良家の子女の婬奔となり、伏しては孤枕の寡婦の和姦となり、密通強姦となり、勾引欠落となり或は大に破裂して諸処の争闘となり、社会の秩序もこれがために紊乱せられて、また収むべからざるにいたるや疑を容るべからずといへども、古今幸にしてかかる惨状を見ざるはこれを娼妓の効力といはさるを得ざるなり。そもそも娼妓の業は最も賤しく最も見苦しくして、本人の心身ともに最も苦しきものなりといへども、今の人間社会の組織においては万々これを廃すべからざるのみか、わずかにこれに依頼して秩序を維持し来たり、この者あらざれば秩序たちまち紊乱するとあるからには、本人のこの業をとるその目的はともかくも、社会よりこれを論じその人と業とのいかんを問はずしてその業の成跡を見れば、娼妓もまたこれ身を苦しめて世に益する者と評せざるを得ず。比喩は少しく奇なりといへども、ある西洋の学士が娼妓を評して濁世のマルタルと名づけたることあり。けだしマルタルとは法教の主義のために生命を犠牲にする者の名にして、即ち身を捨てて衆生済度に供するの仁者なり。日本にて云へば親鸞聖人、日蓮聖人の流が草を席にし石を枕にして法を説き、甚だしきは流罪の苦痛を嘗め斬首の座に就くまでにしたるも、みな法のため、衆生安楽のために身を犠牲に供したるものよりほかならず、マルタルの功徳大なりといへども今娼妓がこの濁れる世の中に居てその容易に起こるべき惨状を未だ起こらざるに救ふの有様を評論すれば、その人物、その事業、その目的こそ異なれども社会の事跡に現はれたる功徳の大小軽重は、これを親鸞日蓮の功徳に比して差異なきものといふべし、いかんとなれば、身を苦しめて世の安楽幸福を助くる者、これをマルタルと名づくればなり。わが輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却ってこれを保存せんとこそ願へどもそのこれを保存するの方法について説あり。これを次に陳べん。

 娼妓の今の世に要用にして欠くべからざる次第は、前にこれを痛論して読者も多分異議なきことならんといへども、その業たる最も賤しむべく、最も悪むべくして、しかも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりといふのほかなし。これを業とする者はすでに女子たるの栄誉を失ひ、これを弄ぶ者はすでに男子たるの面目を棄て、共に与に人非人の境界に陥りて畜生道に戯るる者なれば、いやしくも文明の人間世界においては、千百の事情のためにこれを禁ずること能はざるも、深くこれを隠すの注意なかるなかるべからず。前節の比喩に人の衣服は醜体を掩ふものなりといへり。衣服は人心の醜体を除く者にあらざれども、これを掩ふときは外見醜なきに等し。故に娼妓売淫の醜体もこれを隠せばとてその実を除きたるにはあらざれども、隠すと隠さざるとは人の身体に衣服を着ると着ざるとの相違にして、最も大切なる事と知るべし。西洋諸国においても娼妓は最も多くして、これを弄ふこと最も盛んなれども、同時に文明の装飾最も厳重にして人の目に触るることなし。たとへこれに触るるもこれを口にしまた耳にする者なくして、その社会の外見の美なること、貴女子が衣装を着飾りて優然たるもののごとし。あるいはその内実を探り衣装をはいで内部を見たらば、意外の瘡痕も現はれて見るに堪へざるの醜体あるべしといへども、文明の眼はただ衣装の美悪を評するのみにして衣装内の物を問はず。これ即ち文明社会の美なる所にして、娼妓多くして娼妓なく、遊所繁昌して遊所を見ざる由縁なり。しかるに今眼を転じて日本社会を見れば、事体全く反対にして娼妓遊廓ほど世に現はれて人の耳目に著しきものなきがごとし。例へば東京にても各所の遊廓争ふてその外見を張り、これを示しこれを吹聴してなほ足らざれば、門前に特に花樹を植へて灯を点し、また時としては 「にはか」 と称し衆妓女の行列舞楽を設けて廓内の街道を押し廻はり、唄の文句に花の江戸町京町といへば、歌人は三十一文字を読んで情の濃なるを愛で、詩客は四七の竹枝を作って風流を詠ずる等、その騒々しきこと実に言語に絶へたる始末にして、これを隠すはさて置きただ人に知られざるをこれ怖るるもののごとし。遊廓の仕組みすでに公然として騒々しけれど、遊人のここに遊ぶ者もまた公然として憚る所なし。徳川政府の初年には大名氏族が夥多の従者を従へて、馬に騎し乗輿に乗りて遊廓に往来したりとの話は、人の記憶する所ならん。今日は流石に文明簡易の日なれば娼妓を買ふに同勢を召供する者はなかるべしといへども、歴々たる紳士、飄々たる書生、車を飛ばして奔走出没、北州の濃情、南海の快遊、これを語り、これを説き、他の失敗を嘲けり、己が得意を語り、背中を敲かれて肩を脅し、目を細くして涎を流し、喋々喃々その騒々しきこと、傍よりにはかにこれを聞けば、血気の壮士が前日遊猟の楽事を再演して語るものかと疑はるるばかりなり。かくのごとく遊廓の遊は日本の天地に公明正大のものなるが故に、往々これを人事の交際に利用し、商用の懇談、さ、争論不和の調和、または旧相識再会の饗応、文人墨客の集会、また時としては政治上の談論、自分出処の内和等、これを彼の仙境に催したらば一人の興を添へて談また熟することならんとて、真面の人品は衣服を正しうし半白の故老は杖を携へ正々堂々、悠々閑々としてここに会合する者あり。また地方の人物が都下の見物に月余滞在のその中に、銀座通りの煉瓦屋、芝、上野、浅草、向島などはすでにこれを見物して、諸官省裁判所などもその外面よりこれを一覧したり、この上は諸工場諸学校なれども、たとへ工場学校は後にするも吉原の遊興は生涯の話の種に一たび試みざるべからず、多年の宿題に出京してこの一興を欠いでは故郷に土産を忘るるに等しとて、そのこれを重んずるは上野、浅草、向島の景勝にならび立って遥かに工場学校の上にあるがごとし。遊廓の名声高くしてそな公然たること推して知るべし。

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/758187/1/19

芸妓社会を去りて娼妓の境界を見れば純然たる売婬の営業にして彼の遊廓と称するは即ち売婬の巣窟なり尋常一種の人間世界には非ざるなり抑も娼妓の利害に就ては今更之を論ずる者も少なく所謂道徳家の所望に任すれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども人間世界は道徳のみの世界に非ず人類の身も之を二様に分つときは一方は人にして一方は禽獣に異ならず近く喩を取れば人の衣服を着けたる所は人類にして其裸体たる所は禽獣なるが如し道徳家の注文通りに自身の人心を以て自身の獣心の働を制伏し得れば誠に目出度き仕合なれども世界古今その例を見ず左れば獣心の働果して止むべからざる歟然らば即ちその止むべからざるに従て之を許し是れよりも

https://dl.ndl.go.jp/pid/758187/1/20

更に大なる害を防ぐこそ利益なれとて今日に至りては如何なる偏屈論者も世の中に娼妓の種を除かんなど云ふ者は絶てあることなし殊に文明の進歩して貧富の差の甚だしきを致す其割合に準じて虚飾も亦甚だしきを致し貧人は貧なるがために妻を養ふを得ず富人は虚飾の欲に忙はしくして婚するの暇を得ず世界到る処に無数の独身者を生じて我輩の情欲を満足せしむるためには是非とも娼妓の方便なきを得ず実を申せば社会貧富の差、斯の如く甚だしからずして上流も下流も相応に労働して相応に銭を儲け以て一家を保つ可きの仕組ならば娼妓の要も大に減じて好き都合なるべしと雖ども実際に於て其然るを得ざるは社会全体の大勢に妨げらるゝものといはざるを得ず一人の働を以て日に二三十銭より四五十銭 (是れは都会の話にして田舎は此半に及ばざるもの多し) の銭を取り一月中に休日もあり又天気に

妨げらるゝもありて之を平均すれば毎月の所得十円に上るを得ずして五六円に居る者を多数とす僅に一身の衣食に足るのみにして酒さへ呑むを得ず妻を養はんなどは思ひも寄らぬ事にして若しも無理に妻帯して不幸にして子を産むこともあれば一家唯餓死を待つの外なし又上流の人の虚飾も止むを得ざるは世間の風潮にして殊に欧米諸国にては其弊最も甚だしく美衣美食して外面を装ふにあらざれば世間の交際を許されず就中男女婚姻は生涯の一大事にして即時に銭を費すのみならず婚姻の後は家の面目を改めて平生の暮向に費用の崇むこと以前に幾倍するが故に容易に企つべき事柄にあらず先づ以て独身を辛抱するの外手段あることなく又近来の如く教育の方法の上進するに就ては男女ともに大に精神を発達して俗に所謂気位は至て高き処に止まれども扨銭の一段に至りては紛れもなき貧乏人にして此

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貧乏人が婚姻を求れば其相手も亦貧乏人ならざる得ず曾て何れかの大学校を卒業して文才技芸抜群なりと称する学士学女にても其才芸を以て現に銭を得て豊なる者にあらざれば婚姻の相手は裏店の娘か横町の職人たるに過ぎず我が教育の品格を以ては、まさか彼の殺風景なる娘に細君の地位を授るを得ず彼の荒々しき下郎を良人として親しむに忍びず我が身に銭こそ無けれども人品は則ち君臣の差も啻ならずとて其状恰も銭もなく智恵もなき貴族が爵位と勲章とを以て人の之を顧みるものなきが如し是亦独身を守るの外に詮方なき者なり故に文明開化の次第に進歩するに従て人心漸く肉体の慾を去て精神の快楽を重んずるの痕跡は聊か見る可きに似たりと雖ども同時にこの開明のために世に独身者の数を増し其始末は誠に当惑の次第にして唯一線の血路は窮策にも醜策にも娼妓に依頼して社会の安寧を保

つの外あるべからざるなり仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡をもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん例へば近く東京に於て新吉原を始めとして幾箇所の遊廓を禁じ兼て市中売婬の取締を厳にして之を封鎖したらば如何なる事相を呈すべきや。数月を出でずして満都の獣慾自から禁ずること能はず、発しては良家の子女の婬奔と為り、伏しては孤枕の寡婦の和姦と為り、密通強姦と為り、勾引欠落と為り或は大に破裂して諸処の争闘と為り、社会の秩序もこれがために紊乱せられて復た収む可らざるに至る也疑を容る可らずと雖ども古今幸にして斯る惨状を見ざるは之を娼妓の効力と云はさるを得ざるなり抑も娼妓の業は最も賤しく最も見苦しくして本人の心身共に最も苦しきものなりと雖ども今の人間社会の組織に於ては万々これを廃す可らざるのみか僅にこれに依頼して秩序を維持し来り、

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此者あらざれば秩序忽ち紊乱するとあるからには本人のこの業を執る其目的は兎も角も社会より之を論じ其人と業との如何を問はずして其業の成跡を見れば娼妓も亦是れ身を苦しめて世に益する者と評せざるを得ず比喩は少しく奇なりと雖ども或る西洋の学士が娼妓を評して濁世のマルタルと名けたることあり蓋しマルタルとは法教の主義のために生命を犠牲にする者の名にして即ち身を捨てゝ衆生済度に供するの仁者なり日本にて云へば親鸞聖人日蓮聖人の流が草を席にし石を枕にして法を説き甚だしきは流罪の苦痛を嘗め斬首の座に就くまでにしたるも皆法のため、衆生安楽のために身を犠牲に供したるものより外ならずマルタルの功徳大なりと雖ども今娼妓がこの濁れる世の中に居て其容易に起るべき惨状を未だ起らざるに救ふの有様を評論すれば其人物、其事業、其目的こそ異なれども社会の事跡に現

はれたる功徳の大小軽重は之を親鸞日蓮の功徳に比して差異なき者と云ふべし如何となれば身を苦しめて世の安楽幸福を助る者これをマルタルと名くればなり我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず却て之を保存せんとこそ願へども其これを保存するの方法に就て説あり之を次に陳べん
娼妓の今の世に要用にして欠く可らざる次第は前に之を痛論して読者も多分異議なきことならんと雖ども然りと雖ども其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし之を業とする者は既に女子たるの栄誉を失ひ之を弄ぶ者は既に男子たるの面目を棄て共に与に人非人の境界に陥りて畜生道に戯るゝ者なれば苟も文明の人間世界に於ては千百の事情のために之を禁ずること能はざるも深く之を隠すの注意なかるなかる可ら

https://dl.ndl.go.jp/pid/758187/1/23

ず前節の比喩に人の衣服は醜体を掩ふものなりと云へり衣服は人心の醜体を除く者にあらざれども之を掩ふときは外見醜なきに等し、故に娼妓売淫の醜体も之を隠せばとて其実を除きたるには非ざれども、隠すと隠さゞるとは人の身体に衣服を着ると着ざるとの相違にして最も大切なる事と知るべし西洋諸国に於ても娼妓は最も多くして之を弄ふこと最も盛なれども同時に文明の装飾最も厳重にして人の目に触るゝことなし仮令へ之に触るゝも之を口にし又耳にする者なくして其社会の外見の美なること貴女子が衣装を着飾りて優然たる者の如し或は其内実を探り衣装を褫で内部を見たらば意外の瘡痕も現はれて見るに堪へざるの醜体あるべしと雖ども文明の眼は唯衣装の美悪を評するのみにして衣装内の物を問はず是れ即ち文明社会の美なる所にして娼妓多くして娼妓なく、遊所繁昌して遊所を見ざる由縁

なり然るに今眼を転じて日本社会を見れば事体全くして娼妓遊廓ほど世に現はれて人の耳目に著しき者なきが如し例へば東京にても各所の遊廓争ふて其外見を張り、之を示し之を吹聴して尚ほ足らざれば門前に特に花樹を植へて灯を点し又時としては 「にはか」 と称し衆妓女の行列舞楽を設けて廓内の街道を押し廻はり唄の文句に花の江戸町京町と云へば歌人は三十一文字を読んで情の濃なるを愛で詩客は四七の竹枝を作て風流を詠ずる等その騒々しきこと実に言語に絶へたる始末にして之を隠すは扨置き唯人に知られざるを是れ怖るゝ者の如し遊廓の仕組既に公然として騒々しけれど遊人のこゝに遊ぶ者も亦公然として憚る所なし徳川政府の初年には大名氏族が夥多の従者を従へて馬に騎し乗輿に乗りて遊廓に往来したりとの話は人の記憶する所ならん今日は流石に文明簡易の日なれば娼妓を買ふに

https://dl.ndl.go.jp/pid/758187/1/24

同勢を召供する者はなかるべしと雖ども歴々たる紳士、飄々たる書生、車を飛ばして奔走出没、北州の濃情、南海の快遊、これを語り、これを説き他の失敗を嘲けり、己が得意を語り、背中を敲かれて肩を脅し、目を細くして涎を流し、喋々喃々その騒々しきこと傍より遽に之を聞けば血気の壮士が前日遊猟の楽事を再演して語るものかと疑はるゝばかりなり斯の如く遊廓の遊は日本の天地に公明正大のものなるが故に往々これを人事の交際に利用し商用の懇談、争論不和の調和、又は旧相識再会の饗応、文人墨客の集会又時としては政治上の談論、自分出処の内和等これを彼の仙境に催したらば一人の興を添へて談亦熟することならんとて真面の人品は衣服を正うし半白の故老は杖を携へ正々堂々悠々閑々としてこゝに会合する者あり又地方の人物が都下の見物に月余滞在の其中に銀座通りの煉瓦屋、芝上野浅草向島等は既に之を見

物して諸官省裁判所等も其外面より之を一覧したり此上は諸工場諸学校なれども仮令へ工場学校は後にするも吉原の遊興は生涯の話の種に一度び試みざる可らず多年の宿題に出京してこの一興を欠いでは故郷に土産を忘るゝに等しとて其これを重んずるは上野浅草向島の景勝に并び立て遥に工場学校の上に在るが如し遊廓の名声高くして其公然たること推して知るべし
習慣既に成れば其の力は向ふ所に敵なし正を圧して邪と為し理を掩ふて非と為すべし況んや正邪理非の不分明なる醜を変して美と為すに於てをや我日本国人が娼妓の業を醜とせず遊廓の遊興を公けにして愧ぢざるは戦国より封建の時代に由来したる習慣に圧しられて然るものなりと雖ども一旦応機を転じて世界の文明を通覧し我日本国は此文明に対して如何なる関係に在るものかと思案したらば今日の日

 

本は戦国封建の日本に非ずして文明の日本たるを発明すべし若しも我文明に足らざるものならば国民の分として之を補ふの義務あることも亦自から明白なるべし然らば則ち娼妓の一事も他の文明諸国に於て人事の秘密に属することならば我国に於ても其風に倣ふて之を秘密にせざるべからず試に思へ彼の遊廓に花々しく楼を築き、花樹を植へ、灯を点し、妓女 「にはか」 の行列を催して楼上楼下戸内戸外絲竹管絃の賑ひに遠近の耳目を引くは醜体を隠すには非ずして鬼畜道の極楽の此処に在り四方の貴客即ち無数の獣類はこゝに来りて獣戯を戯れ獣欲を逞うせよと声高らかに吹聴して案内するに異らず西洋東洋禽獣甚だ

 

福沢諭吉 著 ほか『品行論』,時事新報社,明18.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/758187 (参照 2025-01-01)