Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

金子文子 大審院公判準備調書(第2回) 1925.11.21

   公判準備調書

             被告人 金子文子

右 刑法第七十三條ノ罪 並 爆發物取締罰則違反被告事件ニ付 大正十四年十一月二十一日 市ヶ谷刑務所ニ於テ 大審院第一特別刑事部 受命判事 板倉松太郎ハ 裁判所書記 戸澤五十三 立會ノ上 右被告人ニ對シ訊問スルコト左ノ如シ

検事 小原直 弁護人 山崎今朝弥 上村進 田坂貞雄 立會ヒタリ

問 金子文子ナルカ

答 左様テス

問 前回 思想ニ付キ疑ヲ抱キ居ル如ク申タルカ ソレハ如何ナル点ナルカ

答 ソレニ付テハ書テ来タカラ ソレニ基テ申シマス

此時 被告人ハ添付ノ書面(十八枚)ヲ提出シ 其書面ト同一ニ陳述シタリ

私は、人間社会に於ける凡ゆる現象を、只、所有慾、即ち、持たうとする力によつて説明したい。そして、説明出来ると思ふ。

必要に於ける所有慾、つまり持たうとする慾求に、一切はかゝつて居る。さやう、善い物も悪い物も一切が。其処で、昔から夛くの人が其の所有慾の問題に就いて悩んだ。キリストは其の所有慾の轉換を夢み、老子は其れを否定するユートピヤの実現を思ふた。かと思うと、スチルネルは其れを飽迠満足させる処に、人間の幸福を見やうとした。

其処で、其の三つの行き方に就いて私の批判を加へると……第一、キリストの敎へに從ふには、人間は余りにも現実的に、即ち物質的に造られ過ぎて居る。第二、老子の考へ方は徹底して居る。其れは立派に理論の上にユトピヤを建設する。而し、要するに理論の上であつて、実際には成立たない。何となれば、老子が否定しやうとした所有慾こそは、生命慾のほとばしりであり、生命慾其ものであるから。即ち、人間に於ける生きやうとする力が、其の領分からあふれて、盲目的ながらも「よりよく生きやう」ともがく姿が、地上に於ける爭闘である。だから、老子の思想を実際に引き下して、さらに徹底させるなら、其れは、権力や家庭を否定する前に、先づ、生きやうとする慾其のものを否定すべきである。此処で、老子の所有慾否定の思想は人間の上に成立たないと私は云ふ。第三に、スチルネルの所有慾満足……。

私は、此の最後のと同じ考へ方をして居る。其処で、此の所有慾なるものゝ解釋をすると、所有慾とは、生命慾が域を越えて人間生活の上に溢れ出でたものゝ別稱である。そして、其れは、人間にあつて、自愛、卽ち己を利する、と云ふ形を以て現はれる。私は云ふ──人は決して他を愛し得ない。愛するものは常に自分である。凡ての人はエゴイストである──と。而し、其の自分は決して固定しては居ない。自我は伸縮する。或る時は、国家とか、又は人類とか云ふ処までも拡大され、又或る時は、此の自分一個の個体の裡に於てさへ、自他の対立を見るので、人間間に於ける所謂社会的結合は、只、此の自身の伸縮性の上に保たれて居る。

其処で、此の自我の伸縮性から二つのものが生れる。即ち、一つは、謂ゆる愛他的道德の彼方にユートピヤの実現を豫想しやうとするキリスト敎其の他夛くの人の考へ方、とも一つは、徹底的利己主義の彼岸に其れを探らうとする人たち。が、何故同じ事から斯ふして全く相反したものが生れて来たか──を私は以下のやうに批判する。

即ち、前の方の思想は、「人が他を愛し得るもの」と云ふ仮定の上に立つて居る。が、果して人は他を愛し得るものであるかどうか? 私は思う──人が若し他人を愛し得るものであるなら、人の心に憎しみと云ふものが有らう筈はない。起きる筈もない。成程、人は形の上に於て他人を愛する事がある。而し、愛されて居るものは、他人ではない。自分である。他人の中に見出し得た自分である。即ち、其れは自我の拡大に他ならないと。が、若し、其の愛を享くる対象が他人であると云い張るなら、よろしい、私は云はう──人が他人を愛する時、其の愛を享くる対象が他人であるとするなら、其の愛は、自分に対する愛と衝突しあふ処にばかり有り得るもので、一たび、他人に対する愛と自分に対する愛てが衝突したなら、前のは後のゝ足にたやすく踏みにじられて了ふのである。即ち、人は、自分を侵さぬ事を條件としてばかり、他人を抱き得るのである──と。其処で、謂ゆる愛他の彼方にユートピアを夢想する事は全くスタートを間違へて居り、そして、よしんば実現し得るとしても、其のユートピアにはしつかりした根據がない、即ち、確実性がない──と。

第二の、利己主義の彼岸にユートピアを思う思想に就いては、今私が云つた、全く反した思想への批判で私の考へは説明されて居る、と思ふ。即ち、私は利己を髙□する、と。

凡ての人はエゴイストである。誰でもが皆、よりよい物を自分の物としやうとしてもがいて居る。そして、人間其者が、本質に於て同じ姿して造られて居る以上、求めやうとする物も略〻同じである。処で、人は何を獲やうとするか? 私は今し方、キリストの敎へに從ふて、此の現実の生活と、死後の天国とを取り替へやうとするには、人は余りにも現実的に造られ過ぎて居る、と云つた。さふだ。人が求めやうとするものは、現実の生活である。地上の生活である。人の足が地の上を歩んで行くやうに、人は又地の上の生活を生きて行く事を慾する。処で、人の間に於ける地上の生活を保證すべく、恩恵は充分であるか? 私はノオと答へる。人間の所有慾には限りがなく、地上の物質には限りがある。……と斯ふ云つたら、共産主義者は云ふだらう──いや、其れは、私有財産制度が悪いのだ。分配方法が悪いのだ──と。而し、私は云ふ──人間が空気でも吸って生きて居れるやうな事が発明されない限り、仮に貨幣制度と云ふものがなくなつたとしても、何等かの形に於て、私有財産制度は維持されるであらう。即ち、限りなき人の所有慾は、必ず、何等かの形に於て、私有財産制度を保持するであらう──と。

其処で、其処に、爭闘が生れる。そして、其の爭闘に解決を与えるものは、力である。其の力とは、即ち、腕力に基礎を置く力、謂ゆる暴力である。さやう、私は云ふ──国家の尊嚴も、天皇の神聖も、只、此の力に護られて始めて、尊嚴であり神聖であり得る、と。

此の考へ方をも一つ、自然界の法則から説いて行く。手っ取り早く云ふと、人間が居て、動物が居て、植物がある。そして、生物全体から見た時、其れは孤立しては居ない。皆連つて居る。而し、其自身に於ては独立した存在である。植物は只其自身の爲に生き、動物も亦其の同じ目的の爲に生きて居る。が而も、事実はどうであるか? 動物が其の生を保つ爲には、植物の生を奪はねばならぬ。そして其の動物は、人間の生を保證する爲のいけにえにされる。地上の生きとし生けるものの凡ては、只、生きんが爲にのみ殺し合ひ、殺し合ふと云ふ事実によつてばかり僅に生きて居る。 即ち、私等の眼に触れる生の凡ては、殺りくの上に立つた生であり、そして其の生は、自分と等しき生に対して、いけにえたらん事を要求する。

誰の罪か? 私は知らない。自然の悪戯とでも云つて置かふか。が、兎も角、之れが、弱肉強食が、生きて行く者の凡てが、服従を余儀なくされる処の、只一つの法則である。私は此の法則を以て人間の関係を觀る。

其処で、善とは何であるか? 人類社会に於ける善とは、各人が共存共栄の状態である。而し、生存の法則は其れを蹂躙する。優勝劣敗の必然は、其れを許さない。此処に於て私は叫ぶ──叛逆せよ叛逆せよ!凡ての力に叛逆せよ! 強い力に制肘を加へる事は、其れは善である。即ち、壓制者に反逆する事は、被壓制者にとつて善であると同時に、其れは全人類の善である。而して、其れのみが只、人間がする事のうちに只一つの善であり、美である──と。

私は今し方、人が求めやうとするのは、現実の生活である、と云つた。そして、飽まで所有しろ、持てるだけ持て、と云つた。而し、私は今、其の「持たうとする生活」を批判してお目にかける。

処で、まず第一に、人は「持たう」とする。だが、何を持たうとするのか? 即ち、人生の目的は何であるか? 私は答へる──人生の目的は幸福の追求にある──と。よしんば其の幸福がどんな形をとらうとも。

其処で、其の幸福とはどんなものか? 私は存在てふものに対して定義する──即ち、形有るものも無いものも、凡ては、全く相反した二つのものから成り立つて居る。そして其の二つは、存在てふ條件の前に、不可璃[離?]──璃[離?]すべからざる交渉を持つて居る──と。

解り易く云ふと──此処に一つの或る物がある。其れを獲る事によつて人は幸福を感ずる。つまり、其の或る物とは幸福と云ふ事であるとする。すると、其れが、幸福であるが故に、幸福であると見るが故に、其れを得やうとして得られないものゝ上に、不幸が生ずる。そして、不幸のない処に、幸福はなく、幸福のない処に不幸はない。つまり、存在は凡て相対的である──と。私の云ひたいのは是までだが、而し、オ役人方に、他人の書物でも鵜呑みにして、受け賣りしてるのではあるまいか、との疑問を起す面倒を省いて上げる爲に、も一段、突つ込んで置く。

成程、哲学的に云つても科学的に云つても、存在は凡て全く相反したものゝ上にのみ保たれて居る。故に、不幸に禍ひされる幸福、其れは真の幸福ではない。却つて、幸福を獲やうとしない処に、不幸がない。そして、其の不幸のない処に幸福がある。つまり、その不幸のないと云ふ状態こそ、真の幸福である──と。もっと説明すると、其れは謂ゆる存在ではなく、存在の因果関係を越えた彼方、即ちニヒルの境にこそ、真の幸福、真に人間の求めるものはあるのだ──と。

私は斯かる考へ方を大体として肯定する。其れが、精神的なものである時、人は、その存在の法則を越えてニヒルの境に生きる事が出来る。而し、凡ての人間、物質から成り立つて居る人間対しては、其れは当て嵌らない。私は、再び云ふ──謂ゆる形而上的な思想に堕落するには、人は余りにも物質的に造られ過ぎて居る──と。例を引くと、謂ゆる偶像崇拝──精神的礼拝の対象にさへも、人は何かしら形を求めたがる。偶像崇拝とは、一口に云へば、形のないものには満足し得ない、何となく物足りなさを覚える 人の心の現れに他ならない──と。

其処で元へ戻つて、存在の上に立つて、私は人生と云ふものを批判する。

即ち、人生の目的は幸福の追求にある。私等の行手に一つの幸福が、竿頭高く掲げられて居る。人は其れを獲やうとしてもがく。そして、もがく処にこそ、幸福と不幸とはある。が、愈〻〻獲た時、其れは已に幸福としての性質を失って居る。即ち、其れは幸福ではない。其処で人は又或る別の幸福を求める。斯くして人は不断に幸福を幸福をと追ふて行く。而し、其の幸福は真の幸福ではない。

成程、私等の上には、悦びがあり、幸福があり、光がある。而し、其等は皆、かなしみを伴ふた悦びであり、不幸を伴ふた幸福であり、闇を伴ふた光明である。いや、もつと突きつめて云へば、其等は、かなしみや闇や不幸があつてこそ、其の存在は保證されて居るのである。即ち、人生に普遍の形を以て存在するものは、只、不幸ばかりであると。

私は、宇宙意志なんて物は認めない。つまり、目的だの使命なんてものは認めない。而し、若し、仮に、至上意志と云ふやうなものが、我々を司つて居るとするなら、彼は、此の不完全な状態に因つて、我々に絶えざる努力と向上とを課して居る。不完全な処にばかり完全は予想され得る。即ち、幸福とは、獲やうとして、得られぬものと云ふ事である。彼は、斯ふした状態の幸福を我々の前に見せびらかす事によつて、人を何処かへ連れて行かうとして居る──若し、意志があると云ふなら──一方人間は其の幸福を幸福をと追ふて行く。而し、其の幸福は、人を嘲りつゝ先へ先へと遁げて行く。

其処で、人生とか云ふものゝ姿は、ちやうど、荒野に日が暮れた旅人が、行手に人家の灯を見つけて、腕を上げて馬にむち打てども、疲れ切つた馬は、車の重荷にたえかねて、只、から足ばかり踏んで、一歩も先へ出ない──と云ふ活動に似て居る。

私は云ふ──人生の目的は幸福の追求にある。而し、其の幸福は真の幸福ではない。其処に或るものは不幸ばかりである。そして、其の不幸を追ふ、追はねばならぬやうに宿命づけられて居る人生こそは、此の上もなく、愚にして、暗い悲しいものである──と。

 ───

と、以上二つの考へ方が、私に謂ゆる理想と云ふやうな物を持たせない。

此処で、謂ゆる理想主義と、現実主義との相違を、時間関係でちよつと説明する。

時は連つて居る。時は、革のベルトのやうに、滑らかに、私達の前を過ぎて行く。而し、明日と云ふのが何処にある。昨日と云ふのが何処にある。私等が知り得る時は、今ばかりである。さやう、時は常に、「今」の姿して我々の前に現れる。で、私は云ふ──今に於ける自分をみつめたい。自分に於ける今をみつめたい。さふして今の自分、自分の今を充実に生きたい。今を充実に生きる事ばかりが、凡ての時を充実に生きる所以である)──と。とは云ふものゝ、而し、今と云ふ時は決して孤立しては居ない。其れは、過去に支へられ、未来を予想する事によって許り、今であり得る。即ち、今に、今としての現実性が加る。抽象的な今でなく。

此処に一つの理想がある。理想とは、慾しいけれども、手の届かん処にあるもの、と云ふ事である。そして、其の理想は、実現を予想されえてこそ、始めて理想で有り得る。故に、客観的に云つてこそ、謂ゆる理想と空想との区別がつかふが、主観的にそんな区別はつけられない。つまり、アイデアリズムとリアリズムの区別は、現実其の者にはない。

私は今、自分の今を充実に生きたい、と云つた。では、其の行爲の基礎を何処に求めるか? 私等の行爲は、此と同じやうに、過去に背景づけられ、將来を想ふ事によつて、始めて確実性が備はる。そして、私等の目が、前について居、前に歩んで行くやうに、私等の行爲は常に、時間的に、前へ前へと進んで行く。

其処で、將来が一つの一つの理想を認める。が、どんな理想も、其れが現実に於て行爲される爲には現在の慾求と合致する事が必要である。其れは、誰でも同じである。只、相違する処は、アイデアリストは、將来に理想を掲げる事によつて現在を行為し、リアリストは、現在の爲に行爲する──と私は解釈して居る。

其処で、何故、私が、或る理想は否定し、或る理想は肯定するのか? 其れを撰択するものは、すなわち、私の思想である。

 ───

長くなつた。大がい私の考へて居る事は解つたらうと思ふから、此の辺で切り上げる。として、一つ云ふ事がある。私がやらうとしたのは、テロであつた。而し、其れは、謂ゆるテロリズム運動ではない。ニヒリズムに根を置いた運動である。そして、謂ゆるテロリズム運動は、一つの政治運動であるが、ニヒリズム運動は哲学運動である─と私は思ふ。そして、其の事を、娑婆に運動して居る夛くの同志たちの爲にも、オ役人の前に明にして置く。

其処で、も一つ。私は嘗て「生を否定する」と云つた。科学的に云つたらさふである。而し、あなた方お役人は、私の調書に現れた理屈が貧弱だとか云つて、私の思想をカリ物ではないかと疑つた。で、さふした物解りの好い御親切なお役人方に対しては、充分に思想のスヂ道を立てゝ置く必要があると思へるので、私が上に、ニヒリズムを哲学だと云つた以上、終まで哲学的に解釈する。

即ち、「生を否定する」と云ふ事は、哲学的には成り立たない。何となれば、生のみが、一切現象の根本である。生を肯定してのみ、凡ては意義を持ち得るから。さやう、生を否定した時、其れは凡てが無意味である。否定から否定は生れない。より強い肯定にのみ、より強い否定は生れる。即ち、より強く生を肯定してこそ、其処に、より強い、生の否定と、反逆とは生れるのである。

だから私は云ふ。私は生を肯定する。より強く肯定する。そして生を肯定するが故に、生を脅かさうとする一切の力に対して、奮然と叛逆する。そして、其れ故に、私の行爲は正しい──と。

斯ふ云つたらオ役人サマ方は、ぢやなぜ、自分の生を破かいしやうとするやうな真似をしたのだ? と云ふだらう。

私は答へる──生きるとは、只管動く、と云ふ事ぢやない。自分の意 志で動く、と云ふ事である。即ち、行動は生身一つの事⬜全部では⬜⬜しない。そして單に生きると云ふ事には何の意味もない。行爲があつて始めて、生きて居ると云へる。從つて、自分の意志で動いた時、其れがよしんば肉体の破滅に導かうとも、其れは、生の否定ではない。肯定である──と。

問 肯定スル理想トハ何ヲ云フカ

答 强イ力ニ反逆セントスル理想ヲ云フノテアル

問 否定スル理想ハ

答 強イ力ニ反逆スル以外ノ理想ヲ指スノテアル

問 人生ノ目的ハ幸福ノ追求ニアリ云々ト云フハ ソレハ如何ナルコトカ

答 人生ノ追求スル幸福ハ得ラレナイモノテアル 得ラルナイモノヲ追求スルハ 結果ニ於テ 不幸ヲ見ル 故ニ之ヲ裏面ヨリ見レハ 人ハ不幸ヲ追求スルモノニ當ルト思ハル

問 共存共栄ハ被告ノ理想トスル所ナリヤ

答 然リ

問 舊権力ニ反逆スルコトモ亦 理想ナリヤ

答 然リ

問 権力ニ反逆スルコトハ即チ善ナリヤ

答 善ナリ

問 共存共栄ノ理想ト権力ニ反逆スル理想ノ関係 如何

答 共存共栄ハ目的ニシテ 権力ニ反逆スル理想ハ目的ヲ達スルノ手段ナリ

問 共存共栄トハ何ニカ

答 現実的ノ共存共栄ヲ意味スルノテアル

問 共存共栄ハ現実的ノモノナリトセハ 萬類ヲ絶滅スルト云フ観念ト相容レサルカ 如何

答 萬類ヲ絶滅スルト云フ考ハ 今日テハ間違テ居リタリ 先ニ疑アリト云ヒタルハ此点ナリ

問 共存共栄ノ目的ニ抵触セサル権力アリトセハ 其の権力ニ反逆スル必要ナキニ非スヤ

答 左様云フモノナキモ 若シアリトセハ 反逆スル必要ナシ

問 現在ノ社会状態ヲ観察シテ 所謂 権力ト称スルモノハ 所謂 共存共栄ノ目的ニ反スルモノト考ヘ居ルヤ

答 然リ

問 皇室ヲ権力ト思ヒ居ルカ

答 権力ノ総帥ト見テ居リマス

問 権力ノ総帥トシテ、其他ニ仁慈ノ府トシテ皇室ヲ認ムルヲ得ムヤ

答 之ヲ認ム 但シ侮蔑ヲ以テ認ムルノテアル

問 被告ハ自分ヲ害セサル他人ヲ殺ス考ヲ認め持チ居ルカ

答 左様云フ考ハ持チ居ラス

問 皇室ヲ侮辱スル考ハ如何ナル理由ナルカ

答 外出スルトキ鹵簿ヲ嚴粛スル等ヲ見ルト侮蔑ノ念ヲ生ス

問 現実的ノ共存共栄ノ考ヲ持チ居ルカ

答 持チ居レリ

問 此歌ハお前ノ云フ共存共栄の思想ト反セサルカ
年月はわか日の本の栄ゆくは
いそしむ民のありはなくなり

答 斯様ノモノハ嘘テス 之ニアル栄フルモノハ有産階級ノ者ノミナリ

問 被告ハ生ヲ否定スル觀念ヲ有スルカ

答 生ハ強ク肯定シマス

問 生ヲ強ク肯定スレハ虚無主義ト両立セサルコトニナラサルカ

答 自分ノ抱テ居ル思想カ虚無主義ト云ヘルナラ 生ト両立シマス

問 被告ノ虚無主義ハ生ノ肯定ト両立スルト云フハ 虚無思想ハ手段ノ思想ニシテ目的ノ思想ニ非ザルニヨルヤ

答 生ヲ否定スル虚無思想カ手段ノ思想ナルト同シ様ニ

問 權力ハ社會善ノ為ニ少シモ善キ結果ヲ見出シ得サルモノナリヤ

答 全体ヨリ見テ 自我ノ伸縮性ヲ認ムル意味ニ於テ 其ノ結果ヲ生シ得ルコトモ有リ得ヘシ

問 㐧一階級ニ対スル反逆心ヲ満足セシメントスル考ヘハ 抽象的ナルカ 具体的ナルカ

答 私等ノ嘗テ遣ロウトシタコトカ ソレヲ説明シテ居ルト思ヒマス

問 権力ニ反抗スルト云フ言葉カ見ヘテ居ルカ ソレハ抽象的テアロウカ 如何

答 私ノ嘗テノ行為カ ソレモ説明シテ居ルト思フ

問 御成婚式ノ時ニ挙行スルコトヲ話シ合ヒタル旨 申シテ居ルカ ソレハ誰ニ対シテ如何ナル方法テ遣ルノカ 詳シイコトハ極ツテ居ラヌノテナキヤ

答 其ノ時 㐧一ノ対象トシテ皇太子ヲ狙ツテ居タコトハ極リ居タルモ 爆彈カ這入テ居ラヌ故 私共の思想トシテ 何處ニドウスルト云フ様ナ具体的ノコトニ付 細カイ相談ハ為シ居ラサリシナリ

問 弁護人ハ 面会シタトキ 皇室ニ関スル考ヘカ未熟テアツタ様ノコトヲ申シタソウテアルカ 如何

答 皇室ニ対シ未熟ナリト云ヒタルコトナシ、生ノ否定ヨリ皇室ヲ狙フトシタト云タノハ間違タノテ 生ノ肯定ヨリ出ツヘキコトテアリ ソレヲ云タノテアル

問 大正十二年 秋 擧行セントシタ計画カ 間ニ合ハナクナリ 更ラニ具体的ノ計画ヲ立テタルコトアリヤ

答 無シ

右 讀聞タル處 相違ナキ旨 述ヘタルヲ以テ 左ニ署名セシメタリ

       金子文子

 大正十四年十一月二十一日

  大審院苐一特別刑事部

   裁判所書記 戸澤五十三

   受命判事 板倉松太郎