Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

【工事中】韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編『証言集 Ⅰ強制的に連行された朝鮮人従軍慰安婦』より『思い出すことさえ嫌な記憶』 キム·ハクスン 韓国挺身隊問題対策協議会·挺身隊研究改編 証言集 Ⅰ 『強制的に連行された朝鮮人従軍慰安婦』

韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編

証言集 Ⅰ

強制的に連行された朝鮮人従軍慰安婦

より

f:id:ObladiOblako:20210510235914j:image

https://twitter.com/MarymondJapan/status/1247314413553618944

 

  思い出すことさえ嫌な記憶

          キム·ハクスン

1924年中国吉林で出生。生後百日にもならないうちに父親が死亡し、母親と平壌にやって来た。その後、養父の下で成長して15歳に平壌の妓生券番に通い、17歳で卒業した。しかし歳が幼く営業が不可であったので、中国へ渡っていったが、北京到着と同時に軍部隊に引っ張っていかれ、慰安婦生活をすることになった。

   吉林で生まれ

 私が生まれた所は満州吉林省である。母から聞いた話では、母は15歳で父と結婚して平壌で暮らしていたが、日本人がうるさいので中国に避身したという。母が私を中国で1924年に産み、その後百日にもならずに父は亡くなったという。どうして亡くなったのかについてははっきりと分からない。知り合いもない他郷で女一人で生活するのが難しく、母は2歳になった私をつれて再び平壌へ帰ってきたと言っていた。

 平壌に帰っても、幼い私をつれて母の実家に行ってほとんど物乞いの如くかろうじて暮らしていた模様である。母は頼るところがなくてか、熱心に教会に通った。幼い頃に母について熱心に教会に通ったことを思い出す。教会に行くと賛美歌を歌うのが楽しく、協会の牧師が可愛がってくれるのも嬉しくて熱心に通った。

 私は幼いころから意地っぱりで、言うことをきかないと母からよく叱られた。私が言うことをきかないと母は私をひどく叱りつけながら嘆いたものであった。平壌にある教会で運営する学校に4年ほど通ったが、学費が無料であった。11歳まで学校に通ったと思う。学校に行くと勉強もし、駆けっこもし、友達とも遊んだりして楽しかった。私は駆けっこが早くて「リレー」選手もやった。私が人生を生きてきて、その時の記憶が一番楽しいものとして残っている。勉強したければ勉強し、遊びたければ遊んだりしたからである。

 母は他人の家の奉公もし、朝に弁当を持って出かけて他人の家の畑仕事をしたり洗濯もしてやったりしていた。そうこうして私が学校に通う頃には、靴下を織る機械を借りてきて家で靴下織りの仕事をした。私は、学校から帰ってくると母の仕事を手伝ったりした。

 私が14歳になった年、母は再婚した。新しい父は、私より年上の息子一人と娘一人を連れてきた。兄は20歳ほどで姉は16歳であったが、その姉は一緒に暮すようになってから幾らもせずにお嫁に行った。新しい父とは一緒にいたくなかったが、その兄とはよく遊んだ。

   妓生の家の修養娘に出され

 母と私二人で住んでいたところに父という人と一緒に住むようになったので、非常に窮屈であった。お父さんという言葉も出てこず、彼の前に出ていきもしなかった。母に対する情も離れ、反抗をしたりもしたので母とも仲がまずくなった。

 母は私を妓生を育てる家に修養娘として出した。その時私は15歳であった。母と一緒にその家に行って歌を歌うと合格した。そうして母が修養父から40ウォンを貰い、何年かの契約で私をその家で暮すようにしたものと覚えている。家にいるのがたまらなく嫌であったので、その方がむしろすっきりすると思った。

 私が修養娘として行った家は、平壌キョンジェリ133番地であった。その家には、私より先に来ていた養娘が一人いた。私はその家でクムホァと呼ばれた。その娘と私は平壌の妓生券番(注、妓生(キーセン)を大勢置き、歌舞を教えるなどして養成し料亭などへ仲介した組合)に一緒に通った。その券番は2階建ての家であったが、門に大きな看板もあり、生徒も300名もいた。私は2年ほど券番に通いながら踊り、パンソリ、詩調等を懸命に習った。

 券番で卒業証を貰うと、正式の妓生となって営業をすることができた。ところが、年が19歳にならないと官から妓生の許可を出してくれなかった。卒業した年、私は17歳であったので卒業しても営業をすることができなかった。それで養父は、私をつれてあちこち訪ねながら許可を得ようと非常に苦労した。私が年より体が成熟しているので養父は年をごまかして話をしたが、官では実際の年が17歳であるので駄目だと言った。

 国内で私たちをつれて営業をすることができなかった養父は、中国に行けばお金を稼げるだろうと言った。それでその家で一緒に妓生修行を受けていた娘と私は、養父について中国に行くことになった。その時が1941年、私が17歳の年であった。養父は中国に発つ前に母に連絡をして中国に行くことを許してもらった。出発の日、母は黄色いセーターを買って平壌駅まで見送りに来てくれた。

   日本軍に奪われた処女

 平壌から汽車に乗ってシンウィジュからアンドンリを経、サンヘグァンに行く時、養父が日本の憲兵に検問を受けた。養父は憲兵哨所に入って何時間かぶりで出てきた。それから再度汽車に乗って何日間か進んだ。進みながら汽車で眠りもし、旅館で眠りもした。北京に行けば商売がうまくと言って養父は私たちをつれて北京まで行った。
 北京に着いてある食堂で昼食を食べて出てきたとき、日本軍人が養父を呼んだ。何人かがいる中で、階級章に星が二つついている将校が父に「あんたたちは朝鮮人だろう?」と尋ねた。養父が、私たちは中国にお金を稼ぎに来た朝鮮人だと話した。するとその将校は、お金を稼ぐというのならおまえらの国で稼げばいいだろう。なんで中国に来たのかと言いながら、「スパイだろう? こっちに来い」と言って養父を連れて行った。

 私ともう一人の娘は、別途軍人たちに引っ張って連れて行かれた。路地を一つ超えると覆いのないトラックが一台止まっていた。そこには軍人がおよそ4・50人程乗っていた。私達は、そのトラックに乗るように言われて、いやだと言うと、両脇から抱え上げられるように乗せられた。

 暫くすると、養父を連れて行った将校が戻って来て、すぐにトラックは動き出した。その将校は運転席の隣に座っていた。私達は、あまりの驚きと恐怖のためにトラックの中でしゃがみ込んで泣いていた。後ろを見ると、同じ様なトラックがもう一台ついて来た。

 午後捕まってからは、トラックの中で一晩を過ごした。行く途中で銃弾の音がすると、皆降りてトラックの下に潜り伏せた。トラックの中では一度おにぎりをくれた。軍人が乾パンを渡してくれたが、しゃがみ込んで泣いていたので振り向くことさえできなかった。翌日薄暗くなった頃、トラックに乗っていた全員が降りることになった。軍人何人かが私達をある家へ連れて入った。後に分かったことだが、中国人が逃げ出したあとの空き家だった。

 暗くて、また気も動転していたので、その日はそこがいったい何処なのか見当もつかなかった。姉と私は部屋に入って、これからどうなるのか分からないままお互いの顔を見つめていた。暫くすると、昼養父を連れて行った将校が部屋へ入ってきて、私をたれ幕で仕切られた隣の部屋へ連れて行った。 姉と離れるのだけでも怖くて、行きたくないと必死で拒んだ。その将校は、力で無理やりに隣の部屋へ連れてこられた私に抱きついては服を脱がそうとした。抵抗したので、服が全部破けてしまった。結局その将校に私は処女を奪われた。その夜、私はその将校に2回も犯された。 

 翌日夜が明ける前にその将校は部屋を出て行った。私は破けた服でなんとか体を包んで泣いた。その将校は出て行く時に、もうそんな服はここでは着れないと言った。将校が出て行った後、私は隣の部屋に姉がいるかと思い、たれ幕を上げ覗いてみた。黄色い軍服を着た軍人が横になっていて、姉も破けた服で身を包んで座って泣いていた。私はびっくりしてたれ幕を下ろした。夜が明け軍人が去った後、姉がたれ幕を押しのけて私の所へ来た。

 二人はあまりにも情けなく抱きあってただ泣きじゃくっていた。姉も必死に抵抗したが、体のあちこちを殴られたと言った。私は自分のことで精一杯で、必死に将校に抵抗していたために、隣の部屋で何が起こっていたのかも知らなかった。 

   地獄の様な慰安婦の生活

 暫くすると外で女の人の声が聞こえた。朝鮮語だった。
 そのなかのひとりがドアを開けて入り、「ここにはどうやって来たの・・・」と尋ねた。姉が事情を話しこれまでの経緯を話したら、「来た以上はどうしようもないよ。ここから逃げることは無理よ。運命だと思っておとなしく暮していくしかない。」と言った。その日、軍人たちは木で作ったベッドを部屋に持って来た。私達は一部屋ずつ指定され、そこで暮すことになった。
 私達が居た家は、入り口が二つある赤い煉瓦作りの家だった。その家の隣には部隊が駐屯していた。 後で軍人から聞いた話によると、そこはチョルビョクジンという所だった。私達が居た所は中国人の村だったが、日本の軍隊のためか中国人はひとりも見えなかった。 

 

[中略]

 

 私達を直接管理する人はいなかったが、部隊がすぐ隣にあったために、私達がちょっとでも外出しようとすると歩哨兵がどこやな行くのかと尋ねた。知っている所もないので何処へも行けなかった。軍人たちが来るとそれぞれの好きな部屋へ入った。一か月位経ったところ、来る軍人はいつも同じで新しい人のいないことがわかった。私達はこの人達の専属なのかと思った。