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【工事中】極東国際軍事裁判所 判決 A部 第1章【原文】 1948.11.

JUDGMENT, I.M.T.F.E.
PART A, CHAPTER Ⅰ
Japanese Translation by
Language Division, IMTFE

 

   極東國際軍事裁判所

     判   決

        A 部

        第一章

 

   極東國際軍事裁判

アメリカ合衆國、中華民國、グレート・ブリテン北アイルランド連合王國、ソビエツト社會主義共和國連邦、オーストラリア連邦、カナダ、フランス共和國、オランダ王國、ニユージーランド、インド及びフイリツピン國

    對

荒木貞夫土肥原賢二橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎廣田弘毅星野直樹板垣征四郎賀屋興宣木戸幸一木村兵太郎、小磯國昭、松井石根松岡洋右、南次郎、武藤章永野修身岡敬純大川周明大島浩佐藤賢了重光葵嶋田繁太郎白鳥敏夫、鈴木貞一、東鄕茂德、東條英機梅津美治郎

     判  決

 本裁判所の判決は一九四八年 月 日、これを言渡した。

 

    A部―第一章

本裁判所の設立及び審理

 本裁判所は一九四三年十二月一日のカイロ宣言、一九四五年七月二十六日のポツダム宣言、一九四五年九月二日の降伏文書及び一九四五年十二月二十六日のモスコー會議に基いて、またこれらを實施するために設立された。

 カイロ宣言アメリカ合衆國大統領、中華民國國民政府主席及びグレート・ブリテン國總理大臣によつて發せられた。それには、次のように述べてある。すなわち、

 『各軍事使節ハ日本國ニ對スル將來ノ軍事行動ヲ協定セリ。

 『三大同盟國ハ海路、陸路及ビ空路二依リ其ノ野蛮ナル敵國ニ對シ假借ナキ壓迫ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ。右壓迫ハ旣ニ增大シツツアリ。

 『三大同盟國ハ日本國ノ侵略ヲ制止シ且ツ之ヲ罰スル爲メ、今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ。右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ。又領土拡大ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ。右同盟國ノ目的ハ一九一四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以來、日本國ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ日本國ヨリ剥奪スルコト、竝ニ滿洲、台灣及ビ澎湖島ノ如キ日本國ガ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ、中華民國ニ返還スルコトニ在リ。日本國ハ暴力及ビ貪慾ニ依リ日本國ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルベシ。前記三大國ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷狀態ニ留意シ、軈テ朝鮮ヲ自由且ツ獨立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス。

 『右ノ目的ヲ以テ右三同盟國ハ同盟諸國中日本國ト交戰中ナル諸國ト協調シ、日本國ノ無條件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且ツ長期ノ行動ヲ不撓不屈續行スルモノナリ。』

 ポツダム宣言(附屬書A―一)はアメリカ合衆國大統領、中華民國國民政府主席及びグレート・ブリテン國總理大臣によつて發せられ、後に、ソビエツト社會主義共和國連邦がこれに參加した。この宣言中、本件に關連のある主要な規定は次の通りである。すなわち、

 『日本國ニ對シ、今次ノ戰爭戦ヲ集結スルノ機會ヲ與フベシ。』

 『無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラレザルバ、平和、安全及び正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ吾等ハ主張スルモノナルヲ以テ、日本國國民ヲ欺瞞シ誤導シテ世界征服ノ擧ニ出デシメタル者ノ權力及ビ勢力ハ、永久ニ除去セラレザルべカラズ。』

 『「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク、又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及ビ四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ極限セラルベシ。』

 『吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セルモノヲ含厶一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ、峻嚴ナル正義ニ基キ處罰ヲ加フベシ。』

 降伏文書(附屬書A―二)は日本國天皇及び日本政府の名において、また九つの連合國の名において署名された。その中には、いろいろなことのほかに、次の布告、約定及び命令が含まれている。すなわち、

 『下名ハ茲ニ日本帝國大本營竝ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本國軍隊及ビ日本國ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合國ニ對スル無條件降伏ヲ布告ス。』

 『下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠實ニ履行スルコト、竝ニ右宣言ヲ實施スル爲メ、聯合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合國代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ發シ、且ツ斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及ビ其ノ後繼者ノ爲ニ約ス。」

 『天皇及ビ日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ、本降伏狀項ヲ實施スル爲メ適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ニ服セシメラルルモノトス。下名ハ茲ニ一切ノ官廳、陸軍及ビ海軍ノ職員ニ對シ、聯合國最高司令官ガ本降伏實施ノ爲メ適當ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任ニ基キ發セシムル一切ノ布告、命令及ビ指示ヲ遵守シ且ツ之ヲ施行スルコトヲ命ズ。』

 モスコー會議(附屬書A―三)の結果、アメリカ合衆國、グレート・ブリテン國及びソビエツト社會主義共和國連邦の各政府によつて、またこれらの各政府の間に、中華民國の贊同を得て、次のことが協定された。すなわち、

 『最高司令官ハ日本降伏條項ノ履行、同國ノ占領及ビ管理ニ關スル一切ノ命令竝ニ之ガ補充的指令ヲ發スベシ』

 右の權能に基いて、連合国最高司令官マックアーサー元帥は一九四六年 一月十九日に特別宣言書により、 『平和ニ對スル罪ヲ含ム犯罪ニ付キ訴追セラレタル個人又ハ團体員又ハ其ノ双方ノ資格ニ於ケル人々ノ審理』のために本裁判所を設置した。(附屬書A―四)。この宣言書によつて、裁判所の構成、管轄及び任務は、同日最高司令官の承認を得た裁判所條例中に規定されたところによると宣言された。本裁判所の開始に先立つて、この條例は數箇の點で修正された。(修正された條例の寫は附属書A―五にある。)

 一九四六年二月十五日、最高司令官は各連合國からそれぞれ指名された 九人の裁判官を任命する命令を發した。この命令もまた『裁判官ノ責任、權力及ビ任務ハ同裁判所條例中ニ規定セラレアリ……」と規定している。

 裁判所條例に加えられた修正の中の一により、インド及びフイリツピン國によつて指名された裁判官を任命することができるようにするため、裁判官の人數の最大限は九名から十一名に增加された。最初に任命されたアメリカ及びフランスの裁判官が辭任したので、その後任として、その後の命令によつて現在の裁判官が任命され、またインド及びフイリツピンの裁判官が任命された。

 裁判所條例の第九条(ハ)の規定に從つて、各被告は裁判の開始に先立ち、自己を代表する者として、みずから選んだ辯護人を使命した。かくて、各被告とも、アメリカ人辯護人と日本人辯護人によつて代表されている。

 一九四六年四月二十九日、裁判所によつて採用された手續規定に従つて、あらかじめ被告に渡されていた起訴狀が裁判所に提出された。

 起訴狀(附屬書A―六)は、一九二八年一月一日から一九四五年九月二日までの期間中の平和に對する罪、通例の戦争犯罪及び人道に對する罪につ
いて、二十八名の被告を訴追する五十五の訴因を擧げた長文のものである。

 それは次のように要約することができる。すなわち、

 訴因第一では、全被告について、一九二八年一月一日から一九四五年九月二日までの間に、東アジア、太平洋及びインド洋とこれに接壤する諸國及び隣接する諸島嶼とにおける軍事的、政治的及び經濟的支配を獲得しようとする日本の目的に反對する國または國々に對して、日本をして單獨または他の諸國とともに侵略戰爭を行わせるために、指導者、組織者、教唆者または共犯者として共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第二は、全被告について、右と同じ期間を通じて、日本をして遼寧吉林黒龍江及び熱河の中國諸省(滿洲)の完全な支配を獲得するために、中國に對して侵略戰爭を行わせる共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第三は、全被告について、右と同じ期間にわたつて、日本をして中國の完全な支配を獲得するために、中國に對して侵略戰爭を行わせる共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第四は、全被告について、東アジア、太平洋及びインド洋とこれに接壌する諸國及び隣接する諸島嶼とにおける完全な支配を獲得するために、日本をして單獨または他の諸國とともに合衆國、全イギリス連邦、フランス、オランダ、中國、ポルトガル、タイ、フイリツピン及びソビエツト社會主義共和國連邦に對して、侵略戰爭を行わせる共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第五は、全被告について、日獨伊がおのおのその勢力圏内において特別の支配權をもつとともに――日本の勢力圏は東アジアとインド洋にわたるものとして――これらの三國が全世界の完全な支配を取得するという目的に對して、いやしくもこれに反對するあらゆる國に對する侵略戰爭において、右の三國が相互に援助するために、ドイツ及びイタリアと共同謀議を行ったものとして訴追している。

 訴因第六ないし第十七は、全被告について、訴因中に名を擧げられた諸國に對する侵略戰爭を計畫し、準備したものとして訴追している。

 訴因第十八ないし第二十六は、白鳥を除いた全被告について、訴因中に名を挙げられた諸國に對する侵略戰爭を開始したものとして訴追している。

 訴因第二十七ないし第三十六は、全被告について、訴因中に名を擧げられた諸國に對する侵略戰爭を遂行したものとして訴追している。

 訴因第三十七は、被告中のある者について、一九〇七年十月十八日のヘーグ第三條約に違反して、合衆國、フイリツピン、全イギリス連邦、オランダ及びタイに對して不法な敵對行爲を開始することにより、これらの諸國の軍隊の人員及び一般人を殺害する共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第三十八は、右と同じ被害について、一九〇八年十一月三十日の合衆國と日本との協定、一九二一年十二月十三日のイギリス、フランス、合衆國、及び日本間の條約、一九二八年八月二十七日のパリ條約並びに一九四〇年六月十二日のタイ日本友好條約に違反して、敵對行爲を開始することにより、軍人及び一般人を殺害する共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第三十八は、右と同じ被害について、一九〇八年十一月三十日の合衆國と日本との協定、一九二一年十二月十三日のイギリス、フランス、合衆國、及び日本間の條約、一九二八年八月二十七日のパリー條約並びに一九四〇年六月十二日のタイ日本友好條約に違反して、敵對行爲を開始することにより、軍人及び一般人を殺害する共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第三十九ないし第四十三は、右と同じ被告について、一九四一年十二月七日及び八日に、眞珠湾(訴因第三十九)、コタバル(訴因第四十)、香港(訴因第四十一)、上海における米國軍艦ペトレル號上(訴因第四十二)、及びダバオ(訴因第四十三)において、殺害を行つたものとして訴追している。

 訴因第四十四は、全被告について、日本の權力内にある捕虜及び一般人を大規模に殺害する共同謀議を行つたものとして訴追している。

 訴因第四十五ないし第五十は、被告中のある者について、南京(訴因第四十五)、廣東(訴因第四十四)、漢口(訴因第四十七)、長沙(訴因第四十八)、衡陽(訴因第四十九)、及び桂林と柳州(訴因第五十)において、武裝を解除された軍人及び一般人を殺害したものとして訴追されている。

 訴因第五十一は、被告中のある者について、一九三九年ハルヒン・ゴール河地域で蒙古及びソビエツト連邦の軍隊の人員を殺害したものとして訴追している。

 訴因第五十二は、被告中のある者について、一九三八年七月及び八月ハーサン湖地域でソビエツト連邦の軍隊の人員を殺害したものとして訴追していりる。

 訴因第五十三及び第五十四は、大川と白鳥を除いた全被告について、各作戰地の日本軍指揮官、陸軍省の職員、各地方の收容所及び労務班の職員に、起訴國の軍隊、捕虜及び一般人抑留者に對して戰爭の法規及び慣例の違反行爲を頻繁にまた常習的に行うことを命じ、授權し、または許可するために、また、日本政府をして戰爭の法規慣例の遵守を確保し、その違反を防止するに適當な手段をとらせないために、共同謀議を行ったものとして訴追している。

 訴因第五十五は、右と同じ被告について、その官職によつて戰爭の法規慣例の遵守を確保し、その違反を防止するために適當な手段をとるべき法律上の義務を負つていたのに、これをすこしも顧慮しないで無視したものとして訴追している。

 起訴状には五箇の附屬書がついている。すなわち、

 附屬書Aは、訴因の基礎となつている主要な諸事項と出來事を要約している。

 附屬書Bは、條約の條項の一覽表である。

 附屬書Cは、日本が違反したといわれている誓約を明記している。

 附属書Dは、違反されたといわれている戰爭の法規及び慣例を包含している。

 附屬書Eは、被告の個人的責任といわれているものに關する諸事実の部分的な記述である。

 これらの附屬書は、(この判決の)附屬書A―6に包含されている。

 審理の途中で被告のうちの二人、すなわち松岡と永野は死亡し、大川被告は、審理を受けるに適せず、また自分を辯護することができないと宣告された。從つて、松岡と永野は起訴狀から削除された。大川に對しては、この裁判で、起訴狀に基いて審理を續けることを中止された。

 五月三日と四日に、起訴狀は公判廷において全被告の出席の上で朗讀された。それから、裁判所は被告の申立を受けるために六日朝まで休廷した。六日には、現在本裁判所で審理されている全被告が「無罪」の申立をした。

 そこで、裁判所はその年の六月三日を検察側の證據提出の開始の日と定めた。

 その間に、辯護側は、起訴狀に含まれている基礎事實を審理し決定する本裁判所の管轄權を爭う動議を提出した。一九四六年五月十七日、辯論の後に、右の動議の一切を『追つて示すべき理由に依つて』却下するという判定が言渡された。これらの理由は、本判決のこの部の第二章で、本件に關する法を論ずるにあたって、これを與えることにする。

 檢察側はその主張を一九四六年六月三日に始め、一九四七年十一月二十四日に終つた。

 辯護側の證據提出は、一九四七年二月二十四日に開始され、一九四七年一月十二日に終了した。その間に、辯護人が全被告に共通な證據を提出するについて、彼等の仕事を調整することができるように、一九四七年六月十九日から八月四日まで、休廷が許された。

 檢察側の反駁證據と辯護側の回答證據が許容され、證據の受理は一九四八年二月1日十に終つた。總計して四三三六通の法廷證が證據として受理され、四一九人の證人が法廷で證言し、七七九人の證人が供述書と宣誓口供書によって證言し、審理の(英文)記錄は四八四一二頁に及んでいる。

 檢察側の最終論告と弊害護側の最終辯論は一九四八年二月十一日に始まり、同年四月十六日に終つた。
 「爭點の迅速なる取調」と「不當に審理を遅延せしむるが如き行爲を防止する爲め嚴重なる手段」をとることを要求している裁判所條例第十二条にかんがみ、この裁判に要した期間については、いささか說明と注釋を必要とする。

 提出される前に準備することのできる證據や陳述やその他の事項を、そのときに、途中でさえぎつて通譯するという普通の通譯方法を採用したならば、不必要な遲延が引き起こされたであろうが、それを避けるために、精巧な發言聽取裝置(パブリック・アドレス・システム)が備えつけられた。この裝置によつて、できる限り、英語または日本語への同時通譯が行われた。これに加えて、必要な場合には、中國語、ロシア語及びフランス語からの、またはこれらの国語への、同時通訳が行われた。このような便宜がなかったならば、裁判はもっと遙かに長い期間にわたつていたことであろう。しかし、反對尋問や、異議についての卽席の議論や、其の他の偶然的な發言は、その進行につれて、普通の方法で、通譯しなければならなかつた。

 裁判所條例の第十三条(イ)は「本裁判所ハ證據ニ關スル專門技術的規則ニ拘束セラルルコトナシ。本裁判所は……本裁判所ニ於テ證明力アリト認ムル如何ナル證據ヲモ受理スルモノトスす……」と規定している。提出された大量の文書と口頭證據にこの規則を適用したために、 必然的に非常な時間を費やす結果になつた。その上に、起訴狀の中の起訴事實からして、直接に、一九二八年から一九四五年に至る十七年間の日本の歴史の調査が必要となつた。それに加えて、われわれの調査は、それほど詳細にではないが、それ以前の日本の歴史の研究にも及んだ。なぜならば、この研究をしなければ、日本とその指導部とのその後の行動を理解し、評價することができなかつたからである。

 起訴事實に包括されている期間は、日本の内政と外交において、強度な活動の行われた期間であった。

 國内的には、明治維新の時代に發布された憲法が、これを運營した軍人と文民との間で、重大な闘爭の主題となつていた。結局には軍部が優位を獲得し、それによつて、かれらは和戰の問題ばかりでなく、外交と内政の遂行についても、これを左右することができるようになつた。政府部内における文官側と軍部の闘爭において、議會(選擧された國民の代表者)は早くから重要ではなくなつた。文民と軍部の爭いは、文民の側では、職業的文官によって戰われたのであるが、これらの文官は、ほとんどもつぱら内閣の中の文官大臣の地位や天皇の周圍の輔弼の地位を占めていたものである。軍人と文官の間の闘爭は、長い期間にわたるものであつた。多くの事件がこの爭いの消長を示しているが、どの事件についても、檢察側と辯護側の間で、意見の一致したことは稀であつた。各事件の事實も意義も、ともに論爭の種であり、それに向つて多量の證據が提出される論題であつた。

 國内的には、さらに、起訴狀に言及されている期間は、日本が近代的工業國家への転換を完成した時期である。また、日本の急速に增加する人工のはけ口として、日本の工場のために原料を手に入れることのできる供給源として、日本の製品に対する市場として、他の諸國の國土に對する要求が增大した時期である。對外的には、この期間中に、右の要求を滿たそうとする日本の努力が行われた。この分野でも、諸事件の發生や意義について、辯護側はこれを爭つた。しかも、しばしば、爭う余地がないように思われることまで爭うというほどであつた。

 二十五人の被告がこれらの事件で演じた役割を調査しなければならなかつたが、この點でも、一歩一歩困難と戰つて進んだのであつた。

 裁判所に提出された爭點に關連する時間と場所との廣汎な範圍と、重要であつてもなくても、各事件について一々行われた論爭とのために、裁判所條例の要求したように、「迅速」に裁判が進むわけに行かなかつた。その上に、法廷で話される言葉が、いちいち、英語から日本語に、英語から日本語に、またはその反對に、通譯する必要があつたので、審理は少なくとも二倍の長さになつた。日本語と英語の間の翻譯では、西洋の一つの國語を西洋の他の國語に飜譯するときのような速さと確實さをもつて、飜譯を行うことができない。日本語から英語に、またはその反對に、逐語的に飜譯するのは、不可能なことが多い。大部分はただ意譯ができるにすぎない。しかも、兩國語の專門家の間で、正しい意譯について、しばしば意見を異にすることがある。その結果として、法廷の通譯者たちの間に、たびたぴ、どう譯してらよいかについて困難を生じた。そこで、通譯に關する爭いの問題を解決するために、裁判所は言語裁定部を設けなければならなかつた。

 これらの遲延に加えて、檢察官や證人は、冗長であつたり、關連性を欠いたりする傾向があつた。この傾向を抑制することは、最初はなかなか困難であつた。というのは、多くの場合に、念が入り過ぎたり、關連性のない質問や答辯が日本語で行われて、裁判所が英語の飜譯を聞き、それに對する異議の申立てができるようになつたときには、すでに弊害が生じたあとであり、無用の時間が空費されていたからである。ついには、この時間の空費を防ぐために、特別な規則を實施することが必要になつた。

 この目的のための主要な規則は、豫定された證人の供述書をあらかじめ提出しておくことと、反對訊問を主訊問における證據の範圍内の事項に限ることであつた。

 裁判所によつて課せられた規則は、これらの規則にせよ、その他のどの規則にせよ、嚴格に適用されたものはなかつた。裁判所は被告に對して公正であり、また諸爭點について關連性や重要性のある一切の事實を手に入れておかなければならないという最高の必要にかんがみて、ときどきは、寛容な取扱いが許された。

 提出された證據のうち、特に辯護側によつて提出されたものは、大部分が却下された。それは主として證明力がほとんどないか、全くなかつたからである。または、全く關連性がないか、非常に稀薄な關連性しかないために、裁判所の助けにならなかつたからであり、さらには、すでに受理された類似の證據を不必要に集積するものであつたからである。

 證據が受理され得る性質のものかどうかについての議論に、確かに多くの時間を費やしたのであるが、もし提出のために準備された證據をすべて裁判所が受理したとしたら、審理ははなはだしく長びいたであろう。かりにこれらの制限がなかつたならば、裁判はさらにいつそう長くなつたであろう。なぜなら、右のような制限がなければ、實際に提出されたよりも、はるかに關連性や重要性のすくない證據が提出のために準備されたと思われるからである。

 證言の多くは直接口頭でなされるか、または少なくとも證人が宣誓し、自己の供述書であることを確認し、その供述書が受理され得るものとして決定された上、その範圍内で、檢察官または辯護人がそれを朗讀することによつてなされた。證人は反対訊問を受けたが、それも異つた利害を代表する檢察官や辯護人から受けることがしばしばあり、さらに、それから、再直接訊問を受けた。

 

 

「起訴状に含まれている起訴事實を審理し、判決を下す本裁判所の管轄權に對して、辯護側が抗辯した主な理由は次の通りである。

(一)連合國は、最高司令官を通じて、『平和に對する罪』(第五條(イ))を裁判所條例に含め、これを裁判に付し得るものと指定する權能をもつていない。

(二)侵略戰爭はそれ自体として不法なものではなく、國家的政策の手段としての戰爭を放棄した一九二八年のパリー條約は、戰爭犯罪の意味を擴げてもいないし、戰爭を犯罪であるとしてもいない。

(三)戰爭は國家の行爲であり、それに對して、國際法上で個人責任はない。

(四)裁判所條例の規定は『事後』法であり、從つて不法である。

[中略] 

 一九四六年五月に、本裁判所は、この辯護側の申立てを却下し、裁判所條例の効力とそれに基く裁判所の管轄權とを確認し、この決定の理由は後に申渡すであろうと述べたが、その後に、ニユールンベルグで開かれた國際軍事裁判所は、一九六四年十月一日に、その判決を下した。同裁判所は、他のことと共に次の意見を發表した。

 『裁判所條例は、戰勝國の側で權力を恣意的に行使したものではなく、その制定の當時に存在していた國際法を表示したものである。』

 『問題は、この條約(一九二八年八月二十七日のパリー條約)の法的効果は何であつたかということである。この條約に調印し、またはこれに加わつた諸國は、政策の手段として戰爭に訴えることを將來に向つて無條件に不法であるとし、明示的にそれを放棄した。この條約に調印した後は、國家的政策の手段としての戰爭に訴える國は、どの國でも、この條約に違反するのである。本裁判所の意見では、国家的政策の手段としての戰爭を嚴肅に放棄さたことは、必然的に次の命題を含蓄するものである。その命題というのは、このような戰爭は國際法上で不法であるということ、避けることのできない、恐ろしい結果を伴うところの、このような戰爭を計畫し、遂行する者は、それをすることにおいて犯罪を行いつつあるのだということである。』

 『ある事情のもとでは、國家の代表者を保護する國際法的の原則は、國際法によつて犯罪的なものとして不法化されている行爲には、運用することができない。これらの行爲を行つた者は適當な裁判による處罰を免れるために、公職の陰にかくれることはできない。』

 『「法なければ犯罪なし」という法律格言は、主權を制限するものではなく、一般的な正義の原則である。條約や誓約を無視して、警告なしに警告なしに、隣接國を攻擊した者を處罰するのは不當であると主張することは、明らかに間違つている。なぜなら、このような事情のもとでは、攻擊者は自分が不法なことをしていることを知つているはずであり、從つて、かれを處罰することは、不當であるどころでなく、もしかれの不法行爲が罰せられないですまされるならば、それこそ不當なのである。』

 『裁判所條例は次のように明確に規定している……「被告人ガ自己ノ政府又ハ上司ノ命令ニ從ヒ行動セル事實ハ被告人ヲシテ責任ヲ免レシムルモノニアラズ。但シ刑ノ輕減ノ爲考慮スルコトヲ得。」この規定は、すべての國の法と一致している。……程度はいろいろであるが、大多數の國の刑事法の中に見られる眞の基準は、命令の存在というけとではなく、事實において心理上の選擇が可能であつたかどうかということである。』

 ニユールンベルグ裁判所の以上の意見とその意見に到着するにあたつての推論に、本裁判所は完全に同意する。これらの意見は、先に擧げたところの、辯護側の强調した理由の初めの四つに對して、完全な答えを表すものである。

 

↑JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08071307000、A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160)(国立公文書館https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307000