Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

木戸参議よりの建白書『朝鮮国処分の廟議一決せば其の任に当りたき旨申請の件』 1875.10.5

 五四 十月五日 木戸参議よりの建白書

   朝鮮国処分の廟議一決せばその任に
   当りたき旨申請の件

 長崎の電報によるに、前月二十日、我が軍艦朝鮮海において、彼が不意の砲撃に遇へり。我が艦遂に進戦し、その砲台を毀ち民屋を火し、しかして退けりと。朝鮮交際の成否において、我が政府の力を用ふること久し。今たちまちこの事に及ぶ。これ朝鮮つひに我と絶せりとなすべきか。
 朝鮮のこと国論紛々、連歳いまだやまず。昨年はすでにこれによりて政府の生変革を生じ、去春はまたこれによりて九州の騷擾を起せり。今や天下の議者必ず紛々競ひ起らんとす。政府あらかじめ一定の廟略をもってその義務を尽し、その責に任ぜずんばあるべからず。けだし去年我が小田県人および琉球藩人の横逆を受くるによりて、政府罪を台湾に問へり。いはんや今日の事、我が帝国の旗章に向ひ、故無きの暴撃を加ふるにおいてをや。それ朝鮮は台湾と異なり、我が官吏·人民現にその国にあり。捨ててこれ問はざるに付すべからず。必ず至当の処分をもって我が帝国の光栄を保ち、我が士民の安幸を努めざるべからざるは論を俟たざるべし。
 しかれども略を定みるに形勢あり。事を施すに先後順序あり。徒に世の議者の慓輕なる論議に従ひ、その流れを逐ひその波を揚ぐべからず。もし政府あらかじめ廟略を立て、その施行の順序を一定せば、これをもって臣に任ぜよ。臣慎んで微力を尽し、もって我が国のために謀ることあらんとするなり。
 そもそもそもそも先帝の季年、開国の国是を定め、これを天下に詔ぜしより、はじめて万国の交際を開き維新の初め、各国公使を京師に延見するに至り、しかも支那、朝鮮は古来我と相通ぜし国にして、また近く隣並にあり。遠洋各国、相交際するの時に至り、隣並の国、漠然、相信好せず。あに公道とすべけんや。ここにおいて朝議、路を支那·朝鮮に通ずるの策あり。臣ら実にその議を翼賛せり。己巳十二月三日に至り、臣親しく御前において支那·朝鮮使節の命を奉ぜり。その後朝鮮の事、葛藤いまだ解けず。故をもって歳月を遷延す。臣、西洋各国に使命を辱くし。帰朝するに及んで、支那すでに条約を完ふす。しかして朝鮮の交いまだ合せず。我が使臣なほ途に滞る。征韓の論起るに至りて、臣深く内治のいまだあまねからざるを憂ひ、内を先にし外を後にするの論を主張せり。かつ朝鮮また未明に征すべきの罪アラサルナリ。今すなはち暴撃を我が軍艦に加へ、明らかに我に敵せり。ここにおいてか我、内治においと未だあまねき能はずといへとも、また徒にその内を顧みその外を棄てること能はさるものあり。臣の思想もまたここにおいて一変せざることを得ざるなり。
 しかれども事に先後あり、順序あり。今、朝鮮、我が軍艦を砲擊し、我が兵すでに戦を開けり。しかれども我が釜山裏にあるものなほなほ依然たるなり。いまだもって朝鮮我に絶せりとなし。直ちに兵を加ふべからず。朝鮮の支那における、現にその正朔を奉ぜり。その交際の相親結する、明知する能はずとしへども、



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 五四 十月五日 木戶參議ヨリノ建白書

   朝鮮國處分ノ廟議一決セハ其ノ任ニ
   當リ度旨申請ノ件

長崎ノ電報ニ據ルニ。前月二十日。我カ軍艦朝鮮海ニ於テ。彼カ不意ノ砲擊ニ遇ヘリ。我カ艦遂ニ進戰シ。其砲臺ヲ毀チ民屋ヲ火シ。而シテ退ケリト。朝鮮交際ノ成否ニ於


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テ。我カ政府ノ力ヲ用フルコト久シ。今忽此事ニ及フ。是レ朝鮮終ニ我ト絕セリト爲ス可キカ。朝鮮ノ事國論紛々。連歳未止マス。昨年ハ旣ニ此ニ因リテ政府ノ變革ヲ生シ。去春ハ又此ニ因リテ九州ノ騷擾ヲ起セリ。今ヤ天下ノ議者必紛々競ヒ起ラントス。政府豫メ一定ノ廟略ヲ以テ其義務ヲ盡シ。其責ニ任セスンハアル可カラス。蓋去年我カ小田縣人及琉球藩人ノ橫逆ヲ受クルニ因リテ。政府罪ヲ臺灣ニ問ヘリ。況ヤ今日ノ事。我カ帝國ノ旗章ニ向ヒ。故無キノ暴擊ヲ加フルニ於テヲヤ。夫レ朝鮮ハ臺灣ト異ナリ。我カ官吏人民現ニ其國ニ在リ。捨テ之ヲ問ハサルニ付ス可ラス。必ス至當ノ處分ヲ以テ我カ帝國ノ光榮ヲ保チ。我カ士民ノ安幸ヲ努メサル可ラサルハ論ヲ俟タサルヘシ。然レトモ略ヲ定ムルニ形勢アリ。事ヲ施スニ先後順序アリ。徒ニ世ノ議者ノ慓輕ナル論議ニ從ヒ。其流ヲ逐ヒ其波ヲ揚ク可ラス。若シ政府豫メ廟略ヲ立テ。其施行ノ順序ヲ一定セハ。之ヲ以テ臣ニ任セヨ。臣愼テ微力ヲ盡シ。以テ我カ國ノ爲ニ謀ルコトアラントスルナリ。抑先帝ノ季年。開國ノ國是ヲ定メ。之ヲ天下ニ詔セシヨリ。始テ萬國ノ交際ヲ開キ維新ノ初。各國公使ヲ京師ニ延見スルニ至リ。而モ支那


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朝鮮ハ古來我ト相通ゼシ國ニシテ。又近ク隣並ニ在リ。遠洋各國相交際スルノ時ニ至リ。隣並ノ國漠然相信好セス。豈公道トスヘケンヤ。於是朝議路ヲ支那朝鮮ニ通スルノ策アリ。臣等實ニ其議ヲ翼贊セリ。己巳十二月三日ニ至リ。臣親ク於御前支那朝鮮使節ノ命ヲ奉セリ。其後朝鮮ノ事葛藤未解ケス。故ヲ以テ歳月ヲ遷延ス。臣西洋各國ニ使命ヲ辱クシ。皈朝スルニ及テ。支那旣ニ條約ヲ完フス。而シテ朝鮮ノ交未合セス。我カ使臣猶途ニ滯ル。征韓ノ論起ルニ至リテ。臣深ク内治ノ未洽カラサルヲ憂ヒ。内ヲ先ニシ外ヲ後ニスルノ論ヲ主張セリ。且朝鮮亦未明ニ征スヘキノ罪アラサルナリ。今則暴擊ヲ我軍艦ニ加ヘ。明ニ我ニ敵セリ。於是乎我内治ニ於テ未洽キ能ハスト雖。亦徒ニ其内ヲ顧ミ其外ヲ棄ルコト能ハサルモノアリ。臣ノ思想モ亦是ニ於テ一變セサルコトヲ得サルナリ。然レトモ事ニ先後アリ。順序アリ。今朝鮮我カ軍艦ヲ砲擊シ。我カ兵旣ニ戰ヲ開ケリ。然レトモ我カ釜山裏ニ在ルモノ猶尚依然タルナリ。未以テ朝鮮我ニ絕セリトナシ。直ニ兵ヲ加フ可ラス。朝鮮ノ支那ニ於ケル。現ニ其正朔ヲ奉セリ。其交際ノ相親結スル。明知スル能ハスト雖。其覊屬スル所ア


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ルヤ必せリ。則我カ朝鮮ノ顚末ヲ挙ケテ一タヒ之ヲ支那政府ニ問ヒ。其中保代辨ヲ求メサル可ラス。支那政府其属邦ノ義ヲ以テ。我ニ代リテ其罪ヲ誚メ。我カ帝國ニ謝スルニ至當ノ處置ヲ以テセシメハ。我亦以テ已ム可シ。若シ支那政府中保代辨スルヲ肯スシテ。之ヲ我カ帝國ノ自處辨スルニ任セハ。我乃始テ其事由ヲ朝鮮ニ詰責シ。隱當ノ處分ヲ要スヘシ。彼若シ終ニ肯セサレハ。其罪ヲ問ハサルヲ得ス。然リ而シテ用兵乃道ハ必ス之ヲ彼我ノ情形ニ視サル可ラス。則我カ會計ノ贏縮。攻戰ノ遲速。必ス其宜ヲ權リ以テ萬全ノ地ニ立タサル可ラス。是レ其先後順序ノ間。固ヨリ匆卒ノ能ク局ヲ完フスヘキ所ニ非ス。若シ朝廷臣ニ委スルニ一切ノ機宜ヲ以テシ、始終其事ニ從ハシメハ。臣當ニ駑力ヲ竭シ。必ス我カ帝國ノ光榮ヲ損スルコトハキヲ務メントス。其機變ノ生スル所。事政府素略ニ於テ大ナル關渉アルカ如キハ。固ヨリ之ヲ朝議ノ決ニ仰クヘシ。請フ臣カ前後ノ論議ヲ明ニシ。以テ臣カ請フ所ヲ納レヨ。此レ臣ノ終始國ニ報スル所以ナリ。

                 (善隣始末)

註一、右建議書ニ關シテハ「善隣始末」ニ「十月五日。參議


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木戶孝允建議シテ曰」ト記載シアリ

二、右建議書ニ關スル其ノ後ノ經過ニ就キ「岩倉公實記」ニハ「議旣ニ結ス太政大臣三條實美乃チ具視ト協議シ將サニ孝允ヲ以テ辨理大臣ニ任センコトヲ奏セントス會マ孝允腦病ヲ發シ左足痲痺シ歩行スル能ハス故ヲ以テ遂ニ之ヲ寢ム十二月九日參議黒田淸隆ヲ特命全權辨理大臣ト爲シ」云々トアリ

 

↑日本外交文書デジタルコレクション 第8巻(明治8年/1875年) 5 朝鮮江華島事件ニ関スル件 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0008/0164/index.djvu