此の日、萱野、陳中孚、岡田尚を集め、今後の謀略に関する指示を与へ、之を督励すると共に、李擇一をして福州に在る陳毅の引出策、及び杜月笙の上海帰還を画策せしむ。(1937年12月6日)
此の日、李擇一、陳中孚、萱野等と会し、今後の謀略に付き指示を与へ、其の意見をも聞く。上海に於ける平和運動は漸く熟し来り、近々其の声を揚げ得べしとの事なり。
李は近く香港に行き、宋子文等と連絡し、国民政府の其の後の動静を偵察すべしと云ふに付き、宋子文は之を利用するは可なるも、新政権には参与せしむ可からざる意を伝ふ。
陳の言によれば在漢口居正の妻、来滬、我方の意嚮を知りたしとの事に付き、大体差当たり防共、亜細亜主義の外、特に注文なき旨を告げ置きたり。尚、居正其の他、国民政府の一部には、蔣の下野を前提として日本との平和交渉に入りたき希望ある由に付き、彼等に蔣下野後、国民政府を解体し、新政権を組織するを先決要件とする旨をも伝へたり。(12月30日)
曩に香港に差遣せる岡田尚、帰来す。其の報告によれば、宋子文は蔣介石と離れて当方面政権に合流するの意、多少動きつつあるものの如く、日本にして真に支那を救済するの意を以て動くなれば、彼にも浙江財閥を掌握して国民政府と分離するも避けず、進んで我が方と此の間の接衝を試むるの意ありとの事。此の間の真意に多少の疑ひなきにあらざれば、篤と研究を重ねたる上、何分の措置を講ずるを要すと認む。
又、福建、陳毅は目下国民党部の軟禁に遭ひ進退自由ならざれば、何とかして福州の現状に処し、或は福州を離脱して後図を図らんとするの意ありと云ふ。これまた遽に信を措き難く、更に調査の要あり。(1938年11月24日)
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