Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

  極東国際軍事裁判

    判   決

       B 部
       第七章

 太  平  洋  戦  争

            JUDGMENT.  I.M.T.F.E.
            PART B, CHAPTER. Ⅶ
            Japanese Translation by
            Language Division, IMTFE

 

       B  部
  第七章
  太平洋戦争

 一九三九年九月に、ドイツとボーランド、フラン ス、イギリスとの間に戦争が始まつた。すると直ち に大島大使及び寺内大将が日本は南方に進出するのが得策であると提唱している。一九三九年の九月から以後、中国における日本の外国権益に対する態度は、ますます目立つて強硬となり、またそのころに、日本側は雲南鉄道の爆撃を始めた。一九三九年十一月に、日本の外務省は、フランスが雲南鉄道によつて軍需物資を中国に輸送するのを中止すること、及びこのような物資が輸送されないように監視するために、日本の軍事使節仏印にはいるのを許すことを要求した。南方に対する日本の侵略性をこれほど公然と示したものはない。なぜならば、フランスはこれらの物資を送る権利があつたのであり、その当時には、まだフランスの軍事力がくじかれるという徴候がなかつたからである。それにもかかわらず、フランスがヨーロッパにおける戦争に専念していることにかんがみ、日本はこのような要求をフランスに提示する力が充分にあると考えた。一九四〇年二月二日に、日本はオランダに対して要求を出したが、もしこれが受入れられたならば、オランダ領東インドの経済に関して、諸国の間で優先的な地位が日本に与えられるのであつた。一九四〇年三月に、小磯は議会の決算委員会で、経済的にアメリカ合衆国に依存しなくなるように、日本は太平洋の諸島へ進出しなければならないと述べた。

 一九四〇年五月九日に、ドイツはオランダに侵入した。日本は直ちにアメリカ合衆国、イギリス及びフランスに対して、かれらがオランダ領東インドの 現状を維持するという誓約を要求し、それを受取つた。日本もまた同じような誓約を与えた。それにもかかわらず、一九四〇年五月二十二日になるまでに、日本はドイツに対して、ドイツがオランダ領東インドにまつたく関心をもつていないとの声明を出すことを要求し、それを受取つていた、日本では、この声明は、ドイツに関する限り、オランダ領東インドとの関係において、日本に自由行動を許したものと解釈された。これは正しく解釈されたものであるということが後になつてわかつた。
 一九四〇年六月十七日に、フランスはドイツに対して休戦を申入れた。一九四〇年六月十九日に、日本は仏印を経由して中国に向けられる物資の輸送を停止すること、及び物資が全然輸送されないことを確実にするために、日本の軍事使節団を入国させることを仏印に対して重ねて要求した。一九三九年に、これらの要求をしたときには、フランスに拒絶されたのであるが、今ではフランスの立場は非常に変つており、この事実を日本は利用したのである。ここに至つて、仏印総督は同意し、日本の軍事使節は一九四〇年六月二十九日にハノイに到着した。

 当時の拓務大臣小磯は、一九四〇年六月二十四日に、ドイツ大使に、仏印とオランダ領東インドに植民地を獲得したいという日本の熱望について語り、これらの領土において、日本が起そうとしている軍事行動に対して、ドイツの態度はどうかと尋ねた。大使は、すでに一九四〇年五月二十二日に与えられところの、ドイツはオランダ領東インドに対して無関心であるとの宣言を確認した。さらに、ドイツはおそらく仏印における日本の行動に異議を立てることなく、フイリツピンとハワイに対する攻撃の威嚇によって、日本が合衆国を太平洋に牽制することを望むと述べた。ヨーロッパ戦争の間太平洋の現状を維持する協定についてのアメリカの申入れを一九四〇年七月一日に日本は拒絶した。この拒絶の理由としては、木戸と外務大臣有田との会談のときに、オランダ領東インドにおける活動をも含めて、このさい日本の活動を制限されることは得策でないからであると述べられた。日本の隣接諸国対する侵略的意図をこれほど明らかに告白したものはない。一九四〇年七月八日に、来栖と佐藤は、九カ年にわたつて日本が目指してきたのは、条約体制から解放された新しい中国をつくることであつたとリツベントロツプに語つた。こうして、九カ年の日本が繰返して行つた公式声明の虚偽を示した。一九四〇年七月十六日に、日本はオランダに対して、オランダ領東インドの日本に対する物資供給の問題を協議するため に、バタヴィアに経済使節団を送ると通告した、その同じ日に、米内内閣が辞職したが、これは軍部とその支持者の圧力によるものであつた。かれらは、ヨーロツパにおけるフランス及びオランダの崩壊とイギリスの不安とによつて、今与えられている日本の南方侵略の好機を利用するには、米内内閣はあまりにも安閑としていると考えたのである。一九四〇年七月二十二日に行われた第二次近衛内閣の登場に対して、また、日本のこの南方侵略政策を促進するために、この内閣がとつた種々の指直に対して、障害が除かれた。

  南方進出の準備
 一九四〇年の九月と十月に、内閣が採択した方針のおもな点は、東亜共栄圏の建設を促進するために、日本、満洲国及び中国から成る経済ブロツクの確立であつた。共栄圏の発展の第一段階は、仏印、オランダ領東インド、イギリス領ビルマ及び海峡植民地を含め、さし当りフイリツピンとグアムを除いて、ハワイ以西の全地域へ進出することであると決定された。完全な戦略的計画が立てられた。中国に対する代償として、中国が仏印のトンキン地方と北部ビルマを併合することを許し、それによつて、蒋介石大元帥との間の解決をもたらし、その軍隊を使用することが試みられることになつていた。軍事的と経済的の同盟の名目のもとに、仏印及びタイと保護条約を締結して、シンガポールに向つて前進するために、これらの両国に基地を獲得することが計画された。その代償として、タイは仏印の一部を約束されることになつていた。しかし、日本の侵略に抵抗する準備をタイが行うのを遅らせるために、日本とタイとの関係については、日本の軍事行動を起す用意ができ上るまでは、平穏なものと装うことが計された。オランダ領東インドの諸島における油田とその他の資源の破壊を防ぐために、オランダ領東インドに対する作戦行動を開始する前に、シンガポールを占領し、シンガポールを攻囲中に、住民に独立をとしても、それと同時に始められることになつており、どちらも起らなかつた場合には、ドイツがなんらかの実質的な軍事的成功を収めたときに、開始することになつていた。行動はドイツの軍事的計画と歩調を合わせることになつていた。

 一九四〇年十一月中に、近衛内閣は、中日戦争の解決のために、蒋介石大元帥に対して接近し始めた。 松岡は蒋介石大元帥に対するかれの申出を続け、かれがベルリンで行うことになつていた会談の結果として、それが有利に進展することを期待していた。 しかし、日本が中国の傀儡中央政府を承認したことは、大元帥との協定に至るすべての可能性を消滅させてしまった。

  タイの要求
 ヨーロツパで戦争が起るとともに、タイは一九〇四年に仏印に奪われた領土の返還の要求を、仏印に提出した。一九四〇年六月十二日に、仏印とタイとの間に不侵略条約が調印された。その条項の一つは、国境紛争問題の解決のために、委員会を任命するこ とを規定していた。一九四〇年六月十七日、フランスがドイツに休戦を求めたときに、タイは一九四〇年六月十二日の不侵略条約を批准する条件として、自己の希望に従つて国境を修正することを要求した。

 一九四〇年八月三十日に、いわゆる松岡・アンリ協定が日本とフランスとの間に締結され、これによつて、フランスは日本軍の北部仏印への進駐に同意した。一九四〇年九月二十八日に、タイから仏印当局に覚書が送付された。この覚書の中で、タイはその要求を繰返し、メコン河をタイと仏印との間の国境にすることを提案した。この覚書には、フランスが仏印に対する主権を放棄しない以上は、また放棄するときまでは、タイはラオスカンボジアにおける領土の要求を強いるようなことをしないと述べられていた。十月十一日に、フランスはこれらの要求を拒絶した。そこで、タイは国境に沿つて軍隊の集結を開始し、フランスも同じように軍隊を集結してこれに対抗した。敵対行為が間もなく起るかのように見えたが、日本が仏印の占領をその北部に制限したので、日本の支持がなくなつたタイは、その振り上げた手を打ち下すことを差控えた。一九四〇年の十月の下旬に、タイと仏印との間の国境紛争に関する近衛内閣の意向を知るために、タイは使節団を日本に派遣した。一九四〇年の九月と十月に立案された日本の計画には、日本とタイの不侵略条約に基いて秘密委員会を設立し、これに日本とタイの軍事同盟の準備をさせ、日本がシンガポールに対する軍事行動を起すとすぐに、この同盟修約に調印することにするという提案が含まれていた。そこで、一九四〇年十一月五日と二十一日の四相会議で、もしタイが日本の要求を容れるならば、タイの仏印に対する交渉を援助し、仏印をしてルアンプ

 

  極東國際軍事裁判所

    判   決

       B 部
       第七章

 太  平  洋  戰  爭

            JUDGMENT.  I.M.T.F.E.
            PART B, CHAPTER. Ⅶ
            Japanese Translation by
            Language Division, IMTFE

 

       B  部
  第七章
  太平洋戰爭

 一九三九年九月に、ドイツとボーランド、フラン ス、イギリスとの閒に戰爭が始まつた。すると直ち に大嶋大使及び寺内大將が日本は南方に進出するのが得策であると提唱している。一九三九年の九月から以後、中國における日本の外國權益に對する態度は、ますます目立つて强硬となり、またそのころに、日本側は雲南鐵道の爆擊を始めた。一九三九年十一月に、日本の外務省は、フランスが雲南鐵道によつて軍需物資を中國に輸送するのを中止すること、及びこのような物資が輸送されないように監視するために、日本の軍事使節が佛印にはいるのを許すことを要求した。南方に對する日本の侵畧性をこれほど公然と示したものはない。なぜならば、フランスはこれらの物資を送る權利があつたのであり、その當時には、まだフランスの軍事力がくじかれるという徵候がなかつたからである。それにもかかわらず、フランスがヨーロッパにおける戰爭に專念していることにかんがみ、日本はこのような要求をフランスに提示する力が充分にあると考えた。一九四〇年二月二日に、日本はオランダに對して要求を出したが、もしこれが受入れられたならば、オランダ領東インドの經濟に關して、諸國の閒で優先的な地位が日本に與えられるのであつた。一九四〇年三月に、小磯は議會の決算委員會で、經濟的にアメリカ合衆國に依存しなくなるように、日本は太平洋の諸嶋へ進出しなければならないと述べた。

 

 一九四〇年五月九日に、ドイツはオランダに侵入した。日本は直ちにアメリカ合衆國、イギリス及びフランスに對して、かれらがオランダ領東インドの 現狀を維持するという誓約を要求し、それを受取つた。日本もまた同じような誓約を與えた。それにもかかわらず、一九四〇年五月二十二日になるまでに、日本はドイツに對して、ドイツがオランダ領東インドにまつたく關心をもつていないとの聲明を出すことを要求し、それを受取つていた、日本では、この聲明は、ドイツに關する限り、オランダ領東インドとの關係において、日本に自由行動を許したものと解釋された。これは正しく解釋されたものであるということが後になつてわかつた。
 一九四〇年六月十七日に、フランスはドイツに對して休戰を申入れた。一九四〇年六月十九日に、日本は佛印を經由して中國に向けられる物資の輸送を停止すること、及び物資が全然輸送されないことを確實にするために、日本の軍事使節團を入國させることを佛印に對して重ねて要求した。一九三九年に、これらの要求をしたときには、フランスに拒絕されたのであるが、今ではフランスの立場は非常に變つており、この事實を日本は利用したのである。ここに至つて、佛印總督は同意し、日本の軍事使節は一九四〇年六月二十九日にハノイに到着した。
 當時の拓務大臣小磯は、一九四〇年六月二十四日に、ドイツ大使に、佛印とオランダ領東インドに植民地を獲得したいという日本の熱望について語り、これらの領土において、日本が起そうとしている軍

 

事行動に對して、ドイツの態度はどうかと尋ねた。大使は、すでに一九四〇年五月二十二日に與えられところの、ドイツはオランダ領東インドに對して無關心であるとの宣言を確認した。さらに、ドイツはおそらく佛印における日本の行動に異議を立てることなく、フイリツピンとハワイに對する攻擊の威嚇によって、日本が合衆國を太平洋に牽制することを望むと述べた。ヨーロッパ戰爭の閒太平洋の現狀を維持する協定についてのアメリカの申入れを一九四〇年七月一日に日本は拒絕した。この拒絕の理由としては、木戸と外務大臣有田との會談のときに、オランダ領東インドにおける活動をも含めて、このさい日本の活動を制限されることは得策でないからであると述べられた。日本の鄰接諸國對する侵畧的意圖をこれほど明らかに告白したものはない。一九四〇年七月八日に、來栖と佐藤は、九カ年にわたつて日本が目指してきたのは、條約體制から解放された新しい中國をつくることであつたとリツベントロツプに語つた。こうして、九カ年の日本が繰返して行つた公式聲明の虛僞を示した。一九四〇年七月十六日に、日本はオランダに對して、オランダ領東インドの日本に對する物資供給の問題を協議するため に、バタヴィアに經濟使節團を送ると通告した、その同じ日に、米内内閣が辭職したが、これは軍部とその支持者の壓力によるものであつた。かれらは、ヨーロツパにおけるフランス及びオランダの崩壞とイギリスの不安とによつて、今與えられている日本の南方侵畧の好機を利用するには、米内内閣はあま

 

りにも安閑としていると考えたのである。一九四〇年七月二十二日に行われた第二次近衞内閣の登場に對して、また、日本のこの南方侵畧政策を促進するために、この内閣がとつた種々の指直に對して、障害が除かれた。

 

  南方進出の準備
 一九四〇年の九月と十月に、内閣が採擇した方針のおもな點は、東亞共榮圏の建設を促進するために、日本、滿洲國及び中國から成る經濟ブロツクの確立であつた。共榮圏の發展の第一段階は、佛印、オランダ領東インド、イギリス領ビルマ及び海峽植民地を含め、さし當りフイリツピンとグアムを除いて、ハワイ以西の全地域へ進出することであると決定された。完全な戰略的計畫が立てられた。中國に對する代償として、中國が佛印のトンキン地方と北部ビルマを併合することを許し、それによつて、蔣介石

 

大元帥との間の解決をもたらし、その軍隊を使用することが試みられることになつていた。軍事的と經濟的の同盟の名目のもとに、佛印及びタイと保護條約を締結して、シンガポールに向つて前進するために、これらの兩國に基地を獲得することが計畫された。その代償として、タイは佛印の一部を約束されることになつていた。しかし、日本の侵略に抵抗する準備をタイが行うのを遲らせるために、日本とタイとの關係については、日本の軍事行動を起す用意ができ上るまでは、平穩なものと裝うことが計された。オランダ領東インドの諸島における油田とその他の資源の破壞を防ぐために、オランダ領東インドに對する作戦行動を開始する前に、シンガポールを占領し、シンガポールを攻圍中に、住民に獨立をとしても、それと同時に始められることになつており、どちらも起らなかつた場合には、ドイツがなんらかの實質的な軍事的成功を収めたときに、開始することになつていた。行動はドイツの軍事的計畫と歩調を合わせることになつていた。
 一九四〇年十一月中に、近衞内閣は、中日戰爭の解決のために、蔣介石大元帥に對して接近し始めた。 松岡は蒋介石大元帥に對するかれの申出を續け、か

 

れがベルリンで行うことになつていた會談の結果として、それが有利に進展することを期待していた。 しかし、日本が中國の傀儡中央政府を承認したことは、大元帥との協定に至るすべての可能性を消滅させてしまった。

  タイの要求
 ヨーロツパで戰爭が起るとともに、タイは一九〇四年に佛印に奪われた領土の返還の要求を、佛印に提出した。一九四〇年六月十二日に、佛印とタイとの閒に不侵略條約が調印された。その條項の一つは、國境紛爭問題の解決のために、委員會を任命することを規定していた。一九四〇年六月十七日、フランスがドイツに休戰を求めたときに、タイは一九四〇年六月十二日の不侵略條約を批准する條件として、自己の希望に從つて國境を修正することを要求した。

 

 一九四〇年八月三十日に、いわゆる松岡・アンリ協定が日本とフランスとの間に締結され、これによつて、フランスは日本軍の北部佛印への進駐に同意した。一九四〇年九月二十八日に、タイから佛印當局に覺書が送付された。この覺書の中で、タイはその要求を繰返し、メコン河をタイと佛印との間の國境にすることを提案した。この覺書には、フランスが佛印に對する主權を放棄しない以上は、また放棄するときまでは、タイはラオスカンボジアにおける領土の要求を强いるようなことをしないと述べられていた。十月十一日に、フランスはこれらの要求を拒絕した。そこで、タイは國境に沿つて軍隊の集結を開始し、フランスも同じように軍隊を集結してこれに對抗した。敵對行爲が間もなく起るかのように見えたが、日本が佛印の占領をその北部に制限したので、日本の支持がなくなつたタイは、その振り上げた手を打ち下すことを差控えた。一九四〇年の十月の下旬に、タイと佛印との間の國境紛争に關する近衞内閣の意向を知るために、タイは使節團を日本に派遣した。一九四〇年の九月と十月に立案された日本の計畫には、日本とタイの不侵略條約に基いて秘密委員會を設立し、これに日本とタイの軍事同盟の準備をさせ、日本がシンガポールに對する軍事行動を起すとすぐに、この同盟修約に調印することにするという提案が含まれていた。そこで、一九四〇年十一月五日と二十一日の四相會議で、もしタイが日本の要求を容れるならば、タイの佛印に對する交渉を援助し、佛印をしてルアンプ

 

「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08071307600、A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163)(国立公文書館