日中和平工作の渦中で
松井最高指揮官の訓戒
…翌十八日朝、南京に着いた。「同盟」の従軍記者が、あらゆる苦労をしてきたのに、私らの場合は、当時の情況からみれば全くの大名旅行であって、相済まんと思った。着く前に、今日は陸海軍の合同慰霊祭があると深堀中佐が知らせてくれたので、「ぜひ特別に参列させてもらいたい」と申し込んだ。松井最高指揮官の顔も見たかったからであった。
まず「同盟」の南京支局を訪れたが、一両日中に再開というので、「同盟」の従軍記者たちが臨時に中山路のある空家を占拠していたので、そこを訪ね、同僚たちを労おうとしたが、居合せたのは連絡員だけで、記者やカメラマンの多くは、取材のため、八方飛びまわっていて、残念ながら会えなかった。
慰霊祭定刻二時の半時間前に入場せねばならぬので、深堀報道部長とともに、急ぎ祭場の故宮飛行場へ行った。その日は曇りで、風は強くはなかったが、膚を刺すような寒さであった。夜来の小雨が雪と変じ、式場は薄化粧をしていた。参列部隊は定刻までに整列を終えつつあった。見れば、祭場の中央には東面して、白布の祭壇がしつらえられ、祭壇の上には神酒を中に、海の幸、山の幸の供物の数々が供えられ、その後方には高さ数メートルの四角の白木に「中支那方面軍陸海軍戦病没将士霊標」と認められていた。戦没した従軍記者、従軍カメラマンたちも合せ祀られていたのであった。周囲には白布を垂らした真榊が立ち並び、野戦斎場の簡素な情景の中に、森厳たるものがあった。
斎主としては、陸軍を代表して松井最高指揮官、海軍を代表して長谷川「支那方面艦隊」司令長官。両氏が定刻に喇叭の音とともに現れ、祭壇近くに着席した。一段後方に朝香中将宮、柳川中将、近藤戦隊司令官、さらに後方に各部隊首脳部将士約五百名が参列していた。式は神式に則って進められ、松井・長谷川両指揮官の祭文が厳粛に読まれ、ついで日高参事官が川越大使の弔辞を代読、両斎主の玉串奉奠があり、その間、陸海軍の喇叭手が吹き鳴らす「国の鎮め」のうちに、参列将士一斉に捧げ銃を行い、慰霊祭はいともおごそかに終った。
私はそれで終ったかと思っていると、松井最高指揮官が、つと立ち上り、朝香宮をはじめ参列者一同に対し、説教のような演説を始めた。深堀中佐も私も、何が始まったのかと、訝りながら聴いていると、「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった」という叱責のことばだ。しかも、老将軍は泣きながらも、凛として将兵らを叱っている。「何たることを、おまえたちは、してくれたのか。皇軍として、あるまじきことではないか。おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。それが、また戦病没者への供養となるであろう」云々と、切々たる訓戒のことばであった。私は、心に「松井さん、よくやったなあ」と叫び、深堀中佐を顧みて、「日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。何とかして松井大将の訓戒のニューズを世界に撒きたいのだ。ぜひとも報道部長の同意を得たい」と頼むと、深堀中佐は、「松本君、僕は大賛成だ。だが、今すぐ方面軍の参謀からOKをとってくるから、ちょっと待っていてくれ」という。
二十分ほどすると、深堀中佐が戻ってきて、「参謀は、あまり賛成しないといっている」というので、私は、「深堀中佐、このニューズの打電を許可してくれれば、報道部長として、日本のための最大の貢献になるのですよ。これを許可しないというほうが報道部長の責任になるのだと考えられないですか」と詰め寄る。深堀中佐は、しばし考えていたが、「松本君、君の考え方が正しい。参謀が何といおうとかまわない。自分は報道部長の責任において、ニューズの発表、打電を許可する」「すごい。ありがとう。虐殺、暴行の噂は、少なからず聞いてはいたが、松井大将の話を聞いてみると、現実に、ずいぶんわるいことをやったらしいではありませんか。日本軍の名誉回復の一助としたいのです。ぜひこの電報をやりましょうや」「松本君、やってくれ」。私は、深堀中佐の手をとって、握手をした。
「南京大虐殺」事件
翌十九日、私は上海に帰ってすぐ支社に出社、東京向けの発信をするとともに、英文部長の堀口(瑞典)君に、英訳してロイテル通信や各英字紙に配ってくれと頼んだ。堀口君も大賛成。その翌朝、短いながらも、その記事は、上海の『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』など各英字紙に掲載された。しかし松井最高指揮官の態度は立派であったが、松井さんの訓戒の対象となった日本軍の南京その他における最も恥ずべき暴行、虐殺、放火、死体冒涜等の事実は、たえず私の心を痛めたのであった。
松本重治
上海時代(下) ジャーナリストの回想 (中公文庫)