Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

「捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、14,777名を得たり。斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり。」「捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。」「捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す。」 山田栴二日記より 1937.12

山田栴二日記(歩兵第百三旅団長、少将)
 
   十二月八日 晴
 又従来の如き田舎道を六里、夏野鎮に出て更に常州よりの本道に出で商家村に宿営す。ますますの田舎なり、宿営力も乏し
 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる作業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸隊に与ふ、行程七里
   十二月九日 晴
 連日行程をつめ、六里強にして碑城鎮に宿営す、田舎ながら大村にして風呂に入る
   十二月十日 晴
 連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少からず
 師団命令を、昼丁度来合はせたる伊東高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る
 鎮江は遣唐使阿倍仲麻呂、僧空海の渡来せし由緒の地。金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台など足許にも寄れず
   十二月十一日 晴
 沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す。
 山と江とに挟まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ。
   十二月十二日 晴
 総出にて物資徴発なり。然るに午後一・〇〇頃、突然、歩兵第65聯隊と山砲兵第Ⅲ大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして、行李は鎮江に派遣しあり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず
 併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京騒ぎあり。
  南京攻撃
   十二月十三日 晴
 例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所 焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊 午後一時 烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す
   十二月十四日 晴
 他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
 幕府山は先遣隊により午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
 捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、上外門外の三軒屋に泊す
   十二月十五日 晴
 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
 皆殺せとのことなり
 各隊食糧なく困却す
   十二月十六日 晴
 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし、小銃五千重機軽機其他多数を得たり
   十二月十七日 晴
 晴の入城式なり
 車にて南京市街、中山陵を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る
 仙台教導学校の渡辺少佐、師団副官となり着任の途、旅団に来る
   十二月十八日 晴
 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す
   十二月十九日 晴
 捕虜仕末の為出発遅期、午前総出にて努力せしむ。
 軍、師団より補給つき日本米を食す
 《下痢す》
  移動
   十二月二十日 晴
 第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる
 午前九・〇〇ノ予定ノ所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり
 
↑偕行社編『南信戦史資料集Ⅱ』pp. 329-333