Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

【メモ】【工事中】慰安婦はどのように集められたか ─私的勧誘・職業紹介・強制動員の関係をめぐって─ 20170701 外村 大

p.1   慰安婦はどのように集められたか

─私的勧誘・職業紹介・強制動員の関係をめぐって─

             20170701 外村 大

1、研究状況と本稿の課題

 いわゆる慰安婦とされた人びとが多大な人権侵害をこうむったことは、否定できない事実である。また、慰安所の設置の企画、管理、慰安婦の募集、移送において、日本軍が主導的な役割を果たしたことは、歴史研究においては通説として認められている(残念ながら、日本の市民社会ではそれを否定するような主張も流布しているが)。

 では、慰安婦を送り出した、日本内地や朝鮮等の日本の外地=植民地における行政機構やその職員はどのような役割を果たしたのか。これについても、元慰安婦の証言のなかで、警官や役場の職員の関与をうかがわせる証言があり、さらに、慰安婦を募集する業者が活動していることについて、日本内地の警察に情報が伝えられていたこと、慰安婦の中国大陸渡航について、警察において配慮が加えられたことが明らかにされている。

 しかし、具体的な関与の様相は、依然としてほとんどわかっていないと言っていいのではないだろうか。警察や一般行政機構が、組織全体の決定をもとに慰安婦の募集に関わっていたのか、その場合、誰がどのような指揮系統のもとに何を行ったのか、その法的根拠はあったのか、否か。これらの点について、十分な回答を与えている研究は、管見のかぎりでは見当たらない。

 もっとも、各種の統制が行われていた戦時下といえども、なにもかも行政機構が指示を出すわけではない。むしろ、売買春のような「汚れた」仕事に、公然とかかわろうとはしないのが行政機構である。したがって、この問題では、売春従事者の就業に関する私的勧誘や営利職業紹介や類似事業に携わる者がどのような動きをしていたかをまず考え、それと行政機構との関係がどうであったかを検討を加える必要がある。

 これについて、論じた研究としては、尹明淑『日本の軍隊慰安制度と朝鮮人軍隊慰安婦明石書店、2003 年(特に、第 6,7 章)と、韓恵仁「総動員体制下職業紹介令と日本軍慰安婦動員―帝国日本と植民地朝鮮の差別的制度運用を中心に―」『史林』第 46 号、2013 年 10月、がある。尹明淑論文は、女性を芸妓、娼妓、酌婦等として売春を強要させる飲食店等に紹介する業者の行為と行政とのかかわり、これら業者の活動実態等について、関係法令や新聞資料、元慰安婦の証言などから論じている。さらに韓恵仁論文は、日本内地と朝鮮におけるそれぞれの関連法令の内容を比較検討し、朝鮮における規制が緩かったことを指摘している。そして、両者とも(筆者の理解するところでは)、芸妓・娼妓・酌婦等の職の紹介を行う業者と行政当局との関係は密接であり、行政当局が彼らの活動を容易に行いうる条件を作り出したことによって、朝鮮から多くの女性が慰安婦として連れていかれたとする分析を導き出している。

 両者の研究は重要な指摘、実態解明を行ったものであり、朝鮮において、芸妓・娼妓・酌婦等の職の紹介を行う業者の活動が活発であり、それが大量の慰安婦募集につながったという指摘については筆者も正しいと考える。しかし、残念ながら、問題がないわけではない。まず、両者ともに、法令についての誤解・誤読、概念の混乱があり、芸妓・娼妓・酌婦等の就業紹介をめぐる政策、制度の正確な説明がなされていない点がある。また、行政当局と芸妓・娼妓・酌婦等の就業紹介を行う業者との関係があったのは確かであるとして(そもそも

 

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営業許可の権限をもっているのであり、関係がないはずはない)行政当局が、彼らを統制し、その事業のあり方を左右するほどの指示や便宜供与を行っていたのかは、依然として明確ではない。

 そこで、こうした研究状況を踏まえて、本稿では、以下のことを課題にしたい。まず、芸妓・娼妓・酌婦等の職を紹介する業者らの活動・事業の展開の実態、日本内地・朝鮮それぞれの法令と政策、そうした活動を行う者と行政当局との関係についての事実を改めて整理する。同時にその下で、実際にどのように、芸妓・娼妓・酌婦等とされる女性の紹介(売春を強要される事業所への「身売り」)が行われたのか、日本内地と朝鮮のそれぞれについて明らかにする。そのうえで、改めて慰安婦がどのようにして集められていたのか、そこでの行政当局の関与の有無、あり方の解明を試みる。

 上記の点について具体的に述べるにあたって、用語について説明しておく。まず、芸妓・娼妓・酌婦等の職の紹介の行為、それを行う業者や個人については、口入業、紹介営業、人事紹介業、周旋業、女衒といった様々な言い方がなされている。しかし、それを取り締る警
察当局の規則では、紹介営業ないし周旋業という語が使用されている(日本内地では府県ごと、朝鮮でも道ごとに規則は異なる)。そこで以下では、当局に正式に許可されてこれらの事業を行う者を紹介周旋業と呼ぶこととする。しかし実際には無許可でそれを行う者があり、また、紹介周旋業と連絡を取り、彼等のもとに女性を連れてくる者もいた。これらの者についても、取締り法令での用語にしたがい、誘引人という語を使用する。

 職業紹介の語についても、説明を加えておく。本来の職業紹介は、求職者と求人者の間に立って雇用関係を結ぶことを反復して行うことを意味する。その意味の職業紹介には、紹介周旋業は含まれない。これは、芸妓、娼妓、酌婦は、建前上自営業として行われるケースが
あることが関係している。例えばすでに娼妓となっている女性が、別の置屋=働き場所を紹介してもらったとしても、職業紹介ではない(置屋と娼妓の関係は雇用関係ではないので)、とされていたのである。しかし、実態としては雇用関係と変わらないと考えられるので(あ
るいは奴隷的労働の強要、というのが妥当かもしれない)、必要に応じてこれも職業紹介の概念に含める。本稿のサブタイトルの職業紹介の語は、それを含めたものとして理解されたい。

2、総力戦以前の職業紹介と「身売り」

  (1)職業紹介の法制度と売春関係の事業

 売春に従事させるために女性の人身売買を行う、借金を理由に女性に売春を強要する、到底許されない人権侵害である。このことは、現在のみならず、戦前の日本の法律でも罪にあたる行為であった。しかし、“本人の意思”で(そのような体裁をとって)、行政当局の許認
可を得て、売春を行うことは、合法であったし、借金を背負って、ほかに生きてい行く上での選択肢がない女性たちが、「自分の意思」という建前で売春を続けることを、日本政府は不法としなかった。

 そして、売春に当らせるために女性を無理やり移動させる、あるいはそのことを秘匿して職を斡旋する等の話をして女性を誘い出して連れていく、といった行為も、当然、戦前の日本の法律に違反していた。

 

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 しかし、近世以来、日本では、「口入業」、「桂庵」などと呼ばれた職業を紹介する事業が行われており、そこでは、女中や各種商店の奉公人のみならず、芸者や娼婦についても紹介がなされていた。そこでは、人身売買、詐欺的な行為も行われており、これへの対策として、行政当局はすでに近代初期から若干の施策を行っていた。さらに 1920 年代に入ると、公共政策としての職業紹介所の設置と並行して、民間の職業紹介および類似行為に対する統制、取締りを本格的に行うため、体系的な制度・法令を整備していった。

 ただし、日本内地と朝鮮(およびほかの日本の植民地)では、職業紹介についての制度・政策は相違点が見られる。その点に留意しながら、1920 年代に確立した、(後述するようにそれは総力戦体制確立に伴い再編される)職業紹介にかかわる政策・制度を整理すれば、次のようである。

 日本内地については、1921 年、市町村による職業紹介所の設置と、そこで行われる職業紹介は無料で行われること、さらに市町村立の職業紹介所に対する国庫の補助、内務大臣による監督を規定した職業紹介法が公布、施行された。同法には、有料または営利目的の職業紹介所の設置は別の命令で定めるとの条文があり、これについては、1925 年に内務省令として営利職業紹介事業取締規則が公布され、翌年から施行されている。同令は、民間の職業紹介事業者が警察に届出を行って認可を受けるべきこととするとともに、誇大広告や求職者の意に反した紹介等の行為を禁じ、違反の場合は営業停止、罰金等の処分が下されることを記していた。また、雇主に依頼された者ないし雇用する本人が募集を行う行為についても、(それ以前から道府県レベルでは規則が設けられていたが、全国的に統一したものとして)1924 年に内務省令として労働者募集取締令が公布され、1925 年、これも施行されることとなった。同令も、募集者が自身の氏名住所や募集期間、募集地等を警察に届け出るべきこととともに、応募の強要、虚偽の言辞等不正な手段を用いることを禁じ、違反の場合には拘留・科料の処分を下すことを記している。

 ここで注意すべきことは、芸妓・娼妓・酌婦等についての職業紹介・就労先の周旋は、民間の営利職業紹介所は扱うことができず、また労働者募集取締規則の枠の中でもそれは行い得なかったという点である。労働者募集取締規則が対象とするのは工場労働者や炭鉱、土建工事の労働者であったし、営利職業紹介事業取締規則では、芸妓、娼妓、酌婦又はこれに類する者の周旋を行うことを禁じる条文が盛り込まれていた。また、同規則は、そうした営業との兼業、それを行う者と同居している者、家族がそうした営業を行うことについても禁じていた。同様に、労働者募集取締規則でも公布の際に内務省が出した通牒で、芸妓・娼妓・酌婦の紹介周旋を業とする者やそうした人物と同居する者の募集を許可しないことの指示があった。なお、職業紹介法では、芸妓・娼妓・酌婦やこれに類似する職業の紹介を禁じる規定はないが、市町村立の職業紹介所でこうした職種の紹介を行ったとする記録は見当たらない。

 しかし、もちろん、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋の行為は行われていたし、その業者は存在した。そして、これらの業者の許認可や統制は、日本内地全体に共通の法令ではなく、各道府県の警察部(東京府では警視庁)の手にゆだねられた。ただし、だいたいの道府県では、紹介営業取締規則、周旋業取締規則等の名前での規則が設けられ、そこでは、警察への届け出と認可を受けること、誇大ないし虚偽の広告、意に反した紹介等の禁止等の規定と、違反した場合の認可取り消し、拘留・科料等の処分が定められていた(なお、これら

 

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の規則は、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋とともに養子や結婚の斡旋、不動産の売買を行う業務を対象とするものとして出された)。

 要するに、この時期の職業紹介等では、職業紹介法の適用を受ける市町村立の職業紹介所と、内務省令の適用をうける民営の職業紹介所、労働者募集の行為と、道府県の警察の取締りのもとにある芸妓・娼妓・酌婦等の紹介周旋業という区分があったということになる。もちろん、このほかにも、事業主と個人との直接のやり取りによって、あるいは業として職業紹介を行うのではないある種の個人が仲介して、就職が成立するというケースは相当数あった。知り合いの伝手を頼って就職を依頼する、学校の先生が学生の職を世話する、貼紙、あるいは新聞広告等を見て応募して就職にこぎつけるといったことは珍しくなく、職業紹介所の利用よりもむしろ一般的であっただろう。

 

 次に朝鮮の状況を見れば、まず、1910 年代後半に日本内地からの朝鮮への労働者募集が活発化していたこともあって、すでに 1918 年に、労働者募集に関して、朝鮮総督府令として労働者募集取締規則が出されている。その内容は、日本内地の内務省令(こちらのほうが後ではあるが)とほぼ同内容である。しかし、1921 年に日本内地で出された、職業紹介法は朝鮮では施行されなかった。また、民間の職業紹介についての規制として日本内地で出された営利職業紹介令も、これは内務省令なので、朝鮮とは無関係である。ただし、京城府などいくつかの府や社会事業団体が運営する職業紹介所がこの時期、すでに存在しており、もちろん、民間において職業紹介や周旋行為を行う者がいた。

 では、これらについての規制はどうなっていたかと言えば、一部の道において、民間の職業紹介や類似行為に関する道令が出されている。それらにおいては、やはり、事業者が警察に届け出て認可をうけるべきことの規定、本人の意思に反して紹介を行うことや詐欺的言動の禁止等の条文が盛り込まれていた。

 だが、朝鮮では、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋を行う業者を特別に統制することは行われなかった。労働者募集については、1918 年に朝鮮総督府の府令として労働者募集取締規則が出されたものの、民間の営利職業紹介所を規制する法令はなかった。したがって、民間において任意に設立された事業所が特別、許可を得ずに、工場労働者や家事使用人等の職業紹介を行いながら、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、斡旋を展開することが可能だったのである。

 つまり、朝鮮では府や社会事業団体の運営する職業紹介所のほか、営利目的の民間の職業紹介・周旋を行う業者がいた。このうち、営利目的の民間の業者については、一般の職業紹介のみを行う者、芸妓・娼妓・酌婦の紹介・周旋を行う者、さらに一般の職業紹介とそうし
た行為を兼業する者がいた。そして、それらの業者については、一部の道では道令によって許認可、規制を行っていた。その他、労働者募集については、朝鮮総督府令を根拠に認可、取締りを行っていた、となる1。

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1  尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人慰安婦明石書店、2003 年、303 頁での、朝鮮のこの時期の職業紹介等の制度についての説明は、次のようである。すなわち、「『私営』の周旋業とは別途に、『府営』の職業紹介所があり、府営職業紹介所には『一般職業紹介所』と『営利職業紹介所』の二種類があった。朝鮮や台湾などの植民地での営利職業紹介事業には、日本国内と違って、『船員の職業紹介、芸娼妓酌婦及之に類似する者の職業紹介』も含まれていた」。しかし、公営の職業紹介所が営利事業を行うということは通常考えられず、尹の理解は誤りであろう。筆者が知るかぎりにおいて、「府営職業紹介所」は公益職業紹介所として、私的利益を追求する「営利職業紹介所」とは、区別されていた。
 つまり、「府営職業紹介所」とは別に民間の「営利職業紹介所」が存在していたのである(前者は公営、後者は民営という対の概念であり、日本語としてもそうであるのが自然である)。そして、府営の職業紹介所では、「一般職業紹介」と「日雇職業紹介」が実施され
ており、芸娼妓酌婦の紹介は行っていない。しかし、民間の「営利職業紹介所」では、朝鮮の場合、芸妓・娼妓・酌婦等の紹介を行う場合もあった、というのが正確な(筆者の理解する限りでは)説明となる。

 

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 以上のような法令・制度を見るとき、日本内地に比べて朝鮮のほうが、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋への規制が緩やかである、言い換えればそれを行いやすい環境にあったと言うことができる。もっとも大きな違いは、日本内地では、それを行う業者やその家族、同居者らが、女中や家事使用人、商店員、工場労働者等の一般の職業紹介はできないことになっているのに対して、朝鮮ではそれが可能とされている点である。朝鮮の民間職業紹介では、家事使用人などの売春関連以外の仕事を求めてやってきた者に対して、芸妓・娼妓・酌
婦等の仕事を勧誘することも可能であったし、遊郭置屋、売春に従事させる女性を置く飲食店等の求人情報が入りやすい状況にあったことは間違いない。また、尹明淑は、日本内地の場合、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋を行う業者の認可において、一定の財産保有
を条件としていたのに対して、朝鮮ではそれがなかったことを指摘している2。しかし、尹が述べている財産保有を条件としている日本内地の規則は、警視庁令の紹介営業取取締規則であり、これは警視庁が管轄する東京府のみに施行されるものである。そして、日本内地のほかの府県の規則で、同様の規定を設けているのは、(1924 年の調査では)神奈川県、福島県大阪府群馬県だけであり3、朝鮮でも同様の条項を設けていた道もあるので(この点は尹も指摘している)4、この点に関して朝鮮と日本内地のどちらでどのようにこの種の営
業の認可が厳しかったかの結論は得られない。

 むしろ、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋の規制についての、朝鮮と日本内地との比較で注目すべきは、日本内地の一部の府県では、管外への紹介、周旋を行う場合や、あるいは管外からやってきた業者が活動しようとする場合に、警察への届け出を義務付けていた
ことであろう5。あくまで一部の府県にとどまるにせよ、悪質な人身売買は地元の警察の監視が届かない場所に女性を送り込むことによって生じるケースがあるわけであり、それを防ぐうえではこの規定は重要であった。

 

  (2)売春に従事させられた女性たちの就業経路

 では、芸妓・娼妓・酌婦等となった女性たちは、どのようにしてその働き口を見つけたのであろうか。そうした職につく「合法的」な就業経路としては、まず、前項で述べた、警察

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2  尹明淑前掲書、302 頁。
3〔内務省社会局〕職業課「各府県紹介営業取締規則摘録」1924 年、ただし近現代資料刊
行会企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料編
5』、近現代資料刊行会、2015 年、に所収。
4  尹明淑前掲書、325 頁では、「例外」としつつ全羅北道の規則にそれがあることを記述し
ている。
5  前掲「各府県紹介営業取締規則摘録」。

 

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の認可の下にある、紹介周旋業の利用がありうる。年によって変動はあるが、例えば、1924年中、警視庁管内=東京府において紹介営業業者が扱った、求人・求職・就職の人員は、芸妓について 4827 人・3155 人・2335 人、娼妓について 2319 人・1442 人・973 人、酌婦に
ついて 1796 人・1335 人・852 人、となっている6。

 この数字は、この種の職種の就業経路としてどの程度の比率を占めていただろうか。この点について、娼妓の統計から推定してみると、まず 1924 年中の紹介周旋業の取り扱いによる娼妓就職者は 973 人である。一方、同年末時点の東京府の娼妓は 4989 人である7。では、このうち、この年に新たに東京府で娼妓となるか、娼妓としての新たな営業の場を見つけた
者はどの程度であろうか。1927 年 12 月 31 日時点の警視庁調査だと、この時点の娼妓 5734 人中、同じ妓楼に勤め始めて 1 年未満の者は 1643 人であり、全体の 3 割程度を占める。そこから 1924 年についても、3 割と考えると、実数にして 1497 人という数字が得られる8。

 そのうえで、かつ他府県からの紹介、周旋による流入と他府県への紹介、周旋による流出が同程度だと仮定すれば、東京府では、1497 人中の 973 人、つまり約 65%が、紹介周旋業者の関与で娼妓の職場を見つけたことになる。この数字を見るとき、紹介周旋業が、「売春従事者の労働市場」において果たす役割は、小さいものではなかったと考えてよいだろう。

 ただ、ここで注意すべきは、紹介周旋業を通した就業において、求職者がダイレクトに業者と接触を持つケースが多かったかどうか、ということがある。自分一人で、積極的に「身売り」希望者として、紹介・周旋業者に申し込みに行くというケースが多かったとは考えに
くい。また、この種の業者が自らの活動について大々的に宣伝していた形跡はなく、そもそも彼らによる芸妓・娼妓・酌婦の紹介、周旋に関する広告を禁じていた府県もあった9。また、紹介周旋業者の側から女性たちに芸妓・娼妓・酌婦等となるべきことを勧誘することも
一部の府県では禁じられていたし10、それを禁じていない府県や朝鮮の各道の業者においても、自分たちが直接雇用している従業員によって各地に勧誘に出かけて「求職者」を常に効率的に探しだせるわけではない。

 したがって、紹介周旋業者と、求職者やそうなりうる女性たちとの間にあって活動する者の役割が重要となる。つまり、警察の許可とは無関係の誘引人、当時の日本の新聞等で「女衒」や「もぐりの周旋人」、朝鮮語の新聞等では「ブローカー」と呼ばれる者が現実には、売春に従事させるべき女性を探し出し、しかるべきところに連れて行っていたのである。

 そして、紹介周旋業者を通さないケースにおいも、遊郭置屋・売春を行わせる女性を置いた飲食店(特殊飲食店)の経営者と「求職者」との間にたって活動する人物がいるのが通常のケースだと見るべきだろう。売春を行う事業の経営者が新聞等に広告を出すことは可能であり、すべての地域のすべての新聞がそうであるわけではないが、実際にそれは行わ

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6  警視庁『警視庁統計書』各年版。
7  警視庁『警視庁統計書 大正 13 年』1926 年。
8  草間八十雄『女給と売笑婦』汎人社、1930 年、281 頁。
9  前掲「各府県紹介営業取締規則摘録」によれば、北海道、東京府兵庫県鳥取県で禁止されている。ただし、東京府については、1927 年に警視庁令が新たに出されており、そこでは広告を禁ずる条項はない。
10  前掲「各府県紹介営業取締規則摘録」によれば、北海道、東京府新潟県香川県で禁止されている。

 

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れている。

 だが、何か働き口を得たいと考える女性のうちで、最初から、芸妓・娼妓・酌婦等の職を希望するケースはほとんどあり得ないと考えるのが自然である。また、新聞広告を常にチェックしている者もそう多くはないし11、そもそも娘を「身売り」に出さなければならないと考えているような家庭では新聞を購読する余裕はない。さらに言えば、植民地期の朝鮮では新聞購読する家庭自体がかなり珍しいと言ってよく、識字率自体もそう高くはない。したがって、紹介周旋業者を通さない「就職」(人身売買というのが本来妥当であろうが)におい
ても、その間にたって、芸妓・娼妓・酌婦等になりそうな(それを選択するほかない状況に追い込まれた)女性を見つけ出し、遊郭置屋・売春を行う飲食店等の経営者のもとに連れてくる者がいたケースが一般的であったと考えられる。つまり、許可を受けた紹介周旋業から依頼を受けずとも、誘引人は活発に活動していたのである。

  (3)誘引人の活動と「身売り」対策

 こうした誘引人たちがどれくらいいて、活動していたのかについては、詳細は不明である。

 ただし、紹介周旋業者の数が、1930 年時点で日本内地だけで 5630 事業所12、植民地については 1931 年時点の数字で 199 事業所が存在していたとされており13、それらがそれぞれ何人かの誘引人と関係していたと考えるのが自然であろうから、この数を相当数上回ると考えられる。また、冷害で困窮し借金の支払いに困っている家庭が多数あった東北地方では、一つの村に何人かの誘引人が活動していたと伝える史料もある。身売り防止の活動を行っていた、秋田県の小学校教員の藤田竹治による手記「身売り列車」で紹介されている、県内
で紹介周旋業の組合長を務めていたというK氏の証言によれば、「潜り」(=無許可で周旋を行う者を指す、つまりは本稿で言う誘引人)は「1 ケ町村、5,6 名づつは」いたとされる14。そして、このKは、誘引人たちが「需要地、供給地共々に細胞組織」を形成し、それが
「赤のそれより気のきいた組織」であるとも語ったとされる15。これは、彼らが、秘密裏に、しかしネットワークを形成して、活動している様子を言いあらわしたものである。

 では、彼らの活動は法令上の取締りの対象とならなかったのであろうか。もちろん、彼らが、甘言を用い、あるいは脅したり力で押さえつけたりして、遊郭等に連れて行ったとした

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11  谷口一三「案内広告は嘘か本当か!?」『実話雑誌』1937 年 4 月号、では、案内広告を
読むのは「暇人」としつつも、「職を得んものと毎朝の新聞を三面記事も政治欄も見ず
に、広告だけをむさぼるやういにして目を通している人等が東京中だけでも何万人といる
ことだろう」の文言がある。
12  社会部職業課「営利並芸娼妓紹介業調査資料」1932 年 1 月、ただしただし近現代資料
刊行会企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料編
5』、近現代資料刊行会、2015 年、に所収。
13  中央職業紹介事務局「本邦ニ於ケル営利職業紹介事業調査」1931 年、ただし近現代資
料刊行会企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料
編5』、近現代資料刊行会、2015 年、に所収。
14  藤田竹治「身売り列車」『婦人公論』1937 年 3 月号。藤田竹治は秋田県の小学校訓導で
あり、自分の学校の卒業生の離村状況、働き先等について詳細な調査を行っていた(木田
徹郎『東北の窮乏と身売防止』1935 年、38 頁)。
15  前掲「身売り列車」。

 

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ら、それは刑法に触れる行為である。しかし、女性やその親権者の同意のもとで、紹介周旋業者のもとに連れていく行為自体を取り締まる法令はおそらくない。それは単なる私的勧誘である。

 ただし、日本内地の各府県や朝鮮の各道の法令では、紹介周旋業者が誘引人に財物(金銭や物品)を渡すことを禁じていた。しかし、実際に金銭等の受け渡しが行われたとしても、それが外部に知られることはほぼありえない。発覚するとすれば、警察が熱心に内偵調査を
行ってその努力が実るか、仲間割れが生じて誰かが情報を警察に伝えた場合くらいであろう。

 そうであるならば、わざわざ警察から許可を受けて紹介周旋業を開業するより、勝手に誘引人として活動しているほうが、自由度も高く、有利ということにもなりかねない。実は、関係者自身もそのように考えていた。藤田によれば、前述のKは「大分仲間がやられている
ようだがよく後が続くね」という問いに対して、「却って免許取りけされりゃ仕事をするに楽」だ、と語っていたとされる。その理由は、他府県の正規の業者の募集ではないので「警察に出発届」を出さなくてもよいからであった16。確かに単なる誘引人の活動は、金銭の授受とは無関係の、少なくともそれ以前に行われるものであればあくまで私的勧誘でしかないので、「出発届」を出させる等の警察のチェックは行い得ない。

 しかし、それでも何らかの理由で、「潜り」の行為が発覚して、摘発することはありうる(実際に、前述のように、「大分仲間がやられて」いたのである)。しかし、Kの語るところによれば、発覚した場合の処罰はそう、大きな負担とはならなかった。Kによれば「40 円
や 50 円の罰金位は一人の周旋料で賄へるし、まあなんだね、今では雇ひ主が 3 回に 1 回は捕まると最初から予算に入れて出して呉れる」ということになっていたためである17。

 さらに言えば、誘引人は、むしろ、警察から許可を受けた紹介周旋業者よりも多額の金銭を得ることも出来たのである。紹介周旋業者の得る紹介料は、取締規則によって規定されていた。例えば、東京府の場合、前借金が 500 円未満の場合 1 割、1000 円未満は 9 分以下、
1500 円未満は 8 分以下、2000 円未満は 7 分以下、2000 円以上では 6 分、となっていた18。また、紹介に係る当事者間(つまり遊郭等とそこで働くことになる女性やその親)の財物の授受への関与は禁止されていた。これに対し、誘引人が直接、遊郭置屋・特殊飲食店等の経営者に女性を紹介した場合、どの程度の前借金(=人身売買の身代金)を設定するか、そ

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16 前掲「身売り列車」。秋田県の関係取締り法令である秋田県令第 58 号周旋営業取締規則
(1934 年 9 月 11 日)では「芸妓娼妓酌婦を周旋したる場合に於て其の行先地他庁府県館
内に係るときは出発前其の本籍、住所、氏名、生年月日、行先地及稼業の種類を具し所轄
警察官署又は駐在所に届出つべし」とある(帝国地方行政学会編『現行秋田県令規全集』
に収録)。これを義務付けることで、詐欺的募集や不当に高い周旋料の徴収などの防止を
狙ったと考えられる。
17 前掲「身売り列車」。紹介営業・周旋業の取り締る、各府県の規定では、罰金ではなく
科料に処せられることになっているので、正式には過料であろう。前掲の秋田県の周旋営
業取締規則でも許可を受けずに芸妓・娼妓・酌婦等の周旋を行った場合は「拘留又は科料
に処す」となっている。。
18 社会部職業課「営利並芸娼妓酌婦紹介業調査資料」1932 年、ただし近現代資料刊行会
企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料編5』、
近現代資料刊行会、2015 年、に所収。

 

p.9

のうちどの程度を自分の取り分とするかは、誘引人の交渉次第ということになる。実際に、冷害で借金に苦しむ東北地方の農村で活動して、女性の「身売り」に介在した誘引人が得た金額では、「証書」では 900 円の女性の人身売買で手数料 350 円といったケースがあったと
され、極めて多額である19。

 では、そうした誘引人の活動に対して行政当局はまったく無策だったのであろうか。日本内地の場合、少なくともまったく何等の対策も行われなかったわけではない。女性の「身売り」問題、とりわけ、それが深刻化していた東北地方については、一定の施策や住民たちの
活動が展開された。東北地方の農村ではもともとも近隣に現金収入を得る場所が少なく、さらに世界恐慌の影響と 1930 年代前半に続いた冷害による農家経済悪化を受けて、困窮した家庭での娘の身売りが増えていた。1934 年 8 月時点の警察の調査では、東北 6 県の女性の
出稼ぎ者は 6 万 7784 人、そのうち芸妓・娼妓・酌婦の数は合わせて 1 万 6673 人、さらに女給が 4284 農家の負債は、日本の東北地方の場合 1 戸当たり 1000

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28  前掲『東北の窮乏と身売防止』73~75 頁。
29  平山蘆江「島原女と天草女」『都新聞』1937 年 3 月 15 日付、は「長崎県の島原女や、熊本県の天草女は、一先ず朝鮮へ渡り、それから後、さてどこへゆこうかをきめる」とし、ウラジオストック方面に多いことを記している。
30  永井荷風著・磯田光一編『摘録断腸亭日乗』上巻、岩波文庫、1987 年、300 頁。

 

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万 3130 件、求職 4 万 4771 件、就職 1 万 9170 件であった。日本内地の場合、1936 年時点
の公益職業紹介所は、公立 657 カ所、私立 40 カ所であり、同年の取扱件数は一般職業紹介
だけで、求人 229 万 7211 件、求職 177 万 8145 件、就職 81 万 2327 件、と朝鮮に比べて
大幅に多い。
朝鮮においては歩いて行ける範囲に公益職業紹介所がある地域に住んでいる人は少なか
ったし、そもそもその、存在自体も知らなかったのが普通であろう。さらに言えば朝鮮女性
の多くが教育を受けていない(ハングルも読めない)状況にあっては職業紹介所の存在をも
し知っていたとしても利用自体、事実上不可能である。そして、人身売買がしばしば行われ
ていたことは朝鮮語紙の報道で取り上げられているが、日本帝国全体の関心事となったわ
けではない。朝鮮総督府の官僚たちの間でも、この問題についての対策の必要性が強く意識
されていた形跡はない。
(4)女性の人身売買の越境ネットワーク
こうした芸妓・娼妓・酌婦等として働かせるための女性の人身売買は、日本内地のみ、あ
るいは朝鮮域内のなかでのみで「市場」として閉じているわけではなかった。よく知られて
いるように、日本人女性のなかには、海外で売春に従事させられた「からゆきさん」と呼ば
れる人びとがいた。彼女たちが向かった先は、東南アジアの港町や満洲、シベリアなどであ
った。朝鮮人女性についても、満洲や日本内地に売られていった人びとが少なからず存在し
た。
ただし、売春に従事させられる女性の域外への移動において、日本内地と朝鮮とでは若干
の傾向の違いが見られる。それぞれの状況について、本稿の課題に関連して重要と思われる
点を説明すれば次のようである。
まず、日本人について見れば、外地・海外に売られていった人たちは、芸妓・娼妓・酌婦
等となった日本人女性のなかで一般的というほどではない。当たり前ではあるが「からゆき
さん」ばかりではなかったのである。これは日本内地の都市であればどこでも、遊郭置屋
売春を行わせる女性を置く飲食店等が多数あったためである。日本内地での芸妓・娼妓・酌
婦の数は 1936 年時点で合わせて 21 万 1476 人(芸妓 7 万 8699 人、娼妓 4 万 7078 人、酌
婦 8 万 5685 人)であり、このほか女給が 11 万 1700 人いた23。これに対して、外国在住の
芸妓・娼妓・酌婦等の日本人女性数は、1936 年 10 月 1 日現在の調査で、1 万 4677 人24、
同年末の調査で、植民地の統計では朝鮮が 4577 人(芸妓 4192 人、娼妓 1921 人、酌婦 385
人)25、台湾が 2351 人(芸妓 865 人、娼妓 836 人、酌婦 650 人)となっている26。このほ
か、民族別の数は不明であるが、樺太では、芸妓 560 人、娼妓 104 人、酌婦 958 人という
統計が確認できる27。これらから、外国・外地で売春に従事させられていた日本人女性は
1930 年代半ばでも決して少ない数ではないとも言えるが、しかし、「身売り」して売春に従
事することになる日本人女性のうちのほとんどは、外国・外地ではなく、日本内地で働いて
23 秦郁彦慰安婦と戦場の性』、新潮社、30 頁。
24 外務省調査部『海外各地在留本邦人人口統計表 昭和 11 年 10 月 1 日現在』1938 年。
25 朝鮮総督府『昭和 11 年 朝鮮総督府統計年報』1938 年。
26 台湾総督府台湾総督府統計書 第 40 回』1938 年。
27 樺太庁『昭和 11 年 樺太庁統計書』1937 年。

 

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いたことがわかる。
そもそも、娘を売りに出さなければならない親としても、あまりに遠い場所に働きに出て、
何かあった際に顔を合わせることができない、ということはおそらく不安であり、避けたい
事態である。したがって、外地や外国に娘を売るよりも、国内でできれば近県程度を娘の働
き先とすることを選好することなる。実際、青森県八戸警察署の調査によれば、1934 年中
に管内から芸妓・娼婦・酌婦・女給として自分の村を出た女性 730 人の行先は、県内 343
人、県外 387 人となっており、県外も多くは近県と東京であった。県外に向かった 387 人
のうち 16 名を除けば、北海道・岩手・秋田・宮城・東京・神奈川、つまりは日本内地のな
かにいたことが明確である(16 名については、記載がないだけであり、それ以外の日本内
地の府県である可能性がある)28。
したがって、日本人女性の場合、外地・外国行きの女性はなかなか人が集まらなかったと
考えられる。もちろん、日本内地のなかでも地域差はある。幕末明治期から「からゆきさん」
(海外で売春に従事させられる女性)を多数送り出してきた長崎県島原地方、熊本県天草地
方の場合、初めて親元から出て=売られて仕事をする(これを「親出」といった)場所が、
海外・外地であることは普通であったようである29。しかし、「島原女」「天草女」だけで、
「需要」を満たすことはできなかった。とすれば、外地・外国行きについては、なんらかの
インセンティブを付与して日本人女性を集めるほかない。実際に、1930 年代半ばの満洲
らの芸妓・娼妓・酌婦等の募集は、高給や高い前借金の設定などの「好条件」が提示されて
いる。
勤務地を満洲とする求人広告では、例えば、『都新聞』1935 年 3 月 22 日付には「月収 200
円以上」でのダンサー女給の募集、1935 年 4 月 7 日には「月収 200 円」での女給の募集の
広告がある。これら数字も異様な高額である。東京・大阪の女給を対象とした 1925 年の調
査では、月収 200 円以上を得ている者は 2604 人のうち 7 名だけ、100 円以上でも 125 人
に過ぎない。相当な高給が提示されているのである。
また、前借金についても、『都新聞』1935 年 11 月 10 日付には「前借 5000 円迄」で満洲
行きの芸妓を募集するという広告が出ている。これよりは低額であるが、永井荷風が耳にし
た、東京に飛行機でやってきて一度に 10 人程度をつれて行くという満洲の料理屋の主人の
話では、つれて行く芸妓は「上玉」(客が多くつくことが期待される女性)の場合は前借金
3000 円、「並」が 1500~1600 円とされている30。これらに記された、前借金の額は、「相
場」を大きく上回る水準である。やや時期は前になるが 1925 年の調査によれば、東京の芸
妓 6603 人の前借金は平均で 959 円 40 銭、3000 円以上の前借金を抱えているものは 38 名
だけである 。
そしてそもそも、娘を売る段階では、親はこのような多額の前借金を設定するという選択
肢をとらない。借金が多ければ多いほど、自分の娘はそのぶん、長く自由を奪われて売春に
従事させられるからである。また、農家の負債は、日本の東北地方の場合 1 戸当たり 1000
28 前掲『東北の窮乏と身売防止』73~75 頁。
29 平山蘆江「島原女と天草女」『都新聞』1937 年 3 月 15 日付、は「長崎県の島原女や、
熊本県の天草女は、一先ず朝鮮へ渡り、それから後、さてどこへゆこうかをきめる」と
し、ウラジオストック方面に多いことを記している。
30 永井荷風著・磯田光一編『摘録断腸亭日乗』上巻、岩波文庫、1987 年、300 頁。

 

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円程度であったとされるものの 、その負債をいきなりすべて返済するのでは得策ではない。通常、採用される生活戦略は、直近の完全な経済破綻を避けるためにできるだけ借金の額は少なく抑えつつ、農業経営を立て直すことをめざす、というものだろう。

 したがって、こうした多額の前借金を条件として満洲に渡る日本人女性は、初めて芸妓・娼妓・酌婦等となるのではない人びとが多かったと見るべきである。つまり、すでに、芸妓・娼妓・酌婦等となっていた者で、その生活の過程でさらに借金を増やした者が、勧誘に応じていたと推測される。実際にそうであったらしきことは、次に示す、『都新聞』1936 年 11 月 25 日付記事「遠来の人攫い 満洲の周旋人入込む」からもわかる。

 前借七、八百円で芸妓になった妓が、一と処で辛抱していればいいものを、それからそれと気が落ちつかず、二、三ヶ所を住替へで歩いているうちに借金は殖える一方、そのたんびにうまい汁を吸うのは周旋屋だけで、親許へは高々五十か六十の金が入るだけ、かう
して千五、六百から二千円の金を背負い込んでしまうと余程ずば抜けた妓でもない限り、この上、住替て元の主人にも損をかけず、親にも多少なりお小遣いを使はせやうという訳には行かず、さうした妓を狙って、昨今、頻と入り込んで来たのが、満洲方面の周旋人。まともでは玉〔芸妓となるべき女性〕がつかまらないので、席料のいらない料理屋の客になり、十七、八から二十二、三位までの芸妓を七、八人呼んで、満洲に行けば黙って二千
円や二千五百円は出す、さうして一年も辛抱していれば、スグ身請けの客がつく……等々、大□で頬を叩くような話を持ちかけるので、つい若い妓などフラフラと来て、あたし満洲へ行こうかしら…なんて了見になる。

 これに対して、朝鮮の場合、妓生はともかく、娼妓や酌婦などとなる女性たちは、最初から朝鮮外に出ていく比率が高かったと推測される。1936 年時点での朝鮮内の朝鮮人の芸妓・娼妓・酌婦は合わせて 7729 人(芸妓 4712 人、娼妓 1653 人、酌婦 1364 人)である。このほかに朝鮮には日本人等の芸妓・娼妓・酌婦もいて、そうした人びとを合計した朝鮮内の芸妓・娼妓・酌婦の数は 1 万 2307 人(芸妓 6983 人、娼妓 3575 人、酌婦 1749 人)となる。

 日本内地の同じ時期の芸妓・娼妓・酌婦は 21 万人程度であり、この時点の日本内地全体の人口が約 7000 万、朝鮮全体の人口が約 2200 万人であることを考えれば、人口規模の違いを勘案しても、朝鮮の芸妓・娼妓・酌婦数は少なかったと言える。なぜそのようであるかは、様々な原因が考えられるが、日本内地ほどに都市化が進んでいなかったこと、都市居住の労働者らの賃金自体が低く、「買春」を含む遊興を行う客が少なかったことが関係していると思われる。

 しかし、朝鮮では、この時期、負債を抱えた農家、困窮して働き口を求める人びとは相当多数に上り、しかも、工場労働や事務労働等で女性が現金収入を得るための雇用先は、極めて少なかった。そうしたなかで、朝鮮外に女性を送り出して売春に従事させるという行為が
盛んになっていたと推測される。この点について概観できる統計はまだ確認できていないが、日本内地在住朝鮮人の職業別統計では、1936 年時点で「接客業」に分類されている者が 5625 人を数えている。接客業イコール売春に従事させられる女性ではないが、そのなか

 

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に相当数、売春に従事させられている女性がいることも確かである31。また、満洲でも売春に従事させられる朝鮮人女性がしばしば見られたことは新聞や雑誌記事などから伝えられており32、1930 年の統計として中国大陸には、朝鮮人の酌婦・娼妓・私娼として、長春 35
人、奉天 155 人、ハルビン 108 人、天津 457 人、北京 32 人、青島 106 人、上海 1173 人、
漢口 37 人がいたとされている33。こうした史料を踏まえるならば、朝鮮内で売春に従事さ
せられていた朝鮮女性の数と朝鮮外での売春に従事させられていた朝鮮女性の数は、同程
度か、少なくともそう変わらない程度の数だった可能性がある。
そして、朝鮮外で売春に従事させられた朝鮮人女性については、極めて高給の条件を提示
されてやってきたとか、異常に高額の前借金が設定されているという話は、この時期には確
認できない。こうした女性が満洲で目立つようになってきた背景として語られていること
に関連して注目すべきは、相対的な“コストの安さ”である。この点について、『週刊朝日
1938 年 6 月 1 日号掲載の安藤盛「異郷情話 女挺身隊物語」は、次のように記している。
すなわち「内地から女を抱へて行くと、旅費や仕込金がかかる上、そんなに美人は手に入れ
ることができないが、鴨緑江一つ渡った北鮮へ行けば、公学校を出た完全に日本語をあやつ
る美人が安く手に入る」ので、「半島女は抱主によろこばれるやうになった」と言うのであ
る。
朝鮮人女性の場合で前借金の相場がどれくらいであったかは不明である。だが、日本人に
比べて安かったことは確かであろう。朝鮮の場合、労働者の賃金も、農家経営での収入と支
出も日本内地に比べて低額であったわけであり、経済的困窮もより少額の金額で生じるこ
ととなる。そこに付け込んで、安い前借金で「身売り」の交渉を成立させることが可能だっ
たはずである。満洲ではなく、仁川の遊郭についての調査によれば、実際に、日本人と朝鮮
人では前借金に差が存在した。日本人娼妓の前借金が 700 円から 2500 円であったのに対し
て、朝鮮人は 200 円から 700 円であったのである34。こうしたなかで、満洲でも安いコス
トで連れて来こられて売春に従事させられる朝鮮人女性が増えていったのである。
31 なお、すでに 1932 年には大阪で「朝鮮遊郭」と呼ばれる地帯が出来て、約 80 名の朝
鮮女性が売春に従事されていたとの報道があり(『大阪朝日新聞』1932 年 12 月 22 日付
「哀号! 『朝鮮遊郭』に突如営業禁止」)、また当時の在日朝鮮人社会内部でも、朝鮮人
女性を置いて売春を行う飲食店の存在が問題視されていた(『朝鮮日報』1936 年 4 月 29
日付「京阪神朝鮮人問題座談会」中の金敬中の発言)。
32 例えば、『京城日報』1915 年 11 月*日付「南満の鮮人」では、奉天長春吉林・鉄
嶺方面の朝鮮人について、鉄道工事に従事している者のほか酌婦となる者が多いことを伝
えている。また、松井真吾「娘子軍出征」『犯罪公論』1932 年 4 月号、は満洲事変直後の
奉天において「アリランの歌をきかせてくれる可愛い女の群」が日本人芸妓の競争相手に
なっていると伝えている。
33 早川紀代「海外における買売春の展開―台湾を中心に」『季刊 戦争責任研究』第 10
号。
34 吉見義明・林博史編『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店、1995 年、50 頁に紹介され
ている調査。この箇所は尹明淑の執筆によるもので、註によればこれは仁川府庁編『仁川
府史(上)』1933 年、1476 頁を典拠としている。