Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

「実は酒もあったのですが、南京からここまで来る途中に、敵兵を乗せたジャンクが無数に浮いていたのを片っ端から撃ち沈めた。敗残兵が揚子江の鯰[なまず]の餌食になるのかと思ふと、痛快で仕方がないので、勝利祝いに酒をすっかり飲み乾して仕舞いました。」 橋本金五郎『革新の必然性』「兵に拝む──序に代えて」より 1940.12.31(1937.12.13)


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[前略]

   英艦砲擊   

 かくして杭州灣奇襲部隊は諸兵相ならんで南京へ南京へと急追撃を強行した。

 この一戦で将政権をぶつ倒さうといふ意氣で晝夜となく進軍また進軍。その間にも容易ならぬ辛苦があつた。兵站輸送を待つてはゐられぬから食ふ物がない。雨が降ってひどくぬかるむ。兵も馬も車も泥田に落ちて進めない。すべてが泥人形になつても遮二無二前進せねばならぬ。折しも太湖嵐は容赦なく吹きつけて骨を刺すその慘苦、言語を絕するものだつた。

 僕が附いてゐた部隊は、蕪湖に出て揚子江岸に沿うて南京に攻め入ることになつてゐた。ところが南京陷落の二日前に突如として命令が來て、「今南京から多數の支那兵が運送船で上流方面へ退却中だから、それらの船を全部砲擊せよ」と、いふのだ。

 そこで直に蕪湖へ引き返し、その江岸の路上へ野重砲、野砲、機関銃を並べ、蜒々一里餘にわたる砲列を布いた。時あたかも蕪湖下流數千メートルのところに敗殘兵を乘せた運送船らしいもの數隻が通りかゝつたから、これに砲撃を加へた。

 その船の中に圖らずも英國軍艦があつて、これに我が砲弾の數發が命中して問題になつたといふ話であるが、皇軍としては當然の處置を取つたに過ぎない。

   鯰の餌食

 その時おもしろい事には、英艦砲擊後南京が陷るとすぐ、蕪湖の前面へ日本の驅逐艦が上つて來た。自分は直にその停船を求めると、艦長の某少佐がランチで上陸して來たから、會見して色々情報を交換した。その末に僕は少佐に向ひ、「實は今までわれ〱は食はず飲まずで弱つてゐるから、米と酒があれば少し廻して呉れんか」と、云ふと、少佐はすぐ快諾して後から持参させると言つてくれた。

 これでよし、と喜んでいると、間もなく、海軍兵が米を積んで来て呉れたが、酒はないといふ。艦長の使者として、「實は酒もあつたのですが、南京からこゝまで來る途中に、敵兵を乘せたジャンクが無數に浮いてゐたのを片つ端から擊ち沈めた。敗殘兵が揚子江の鯰の餌食になるのかと思ふと、痛快で仕方がないので、勝利祝いに酒をすつかり飲み乾して仕舞ひました。上げられないで殘念です」と、いふ口上だ。よろしい。

 實は、英艦ですら蕪湖沖を通らうとすれば砲擊されるといふので、支那の運送船は蕪湖から上へは上れない。対岸もすでに日本軍が占領してゐる。そこで南京の敗殘兵は船へ乘り込んだものの、上流へも対岸へも逃げられない。まるで大蛇が象でも呑んだように、南京と蕪湖の間の江上に敵の船が動けずに密集してゐたのを、驅逐艦の砲で擊ちまくるのだから、定めし有効かつ痛快なことであつたらうと想像し、こちらも嬉しかつた。

[中略]

   兵に拜む

 出征以来、帰還まで戦場一年七ケ月の間に種々の場面を見て來たが、あらゆる場合に共通の感慨は「兵に拜む」の一語に盡きる。

 兵は忠烈とも悲壮とも實によく働いてくれる。ひと言も不平を言はず、苦痛を訴へず、黙々として難業を遂行し、笑つて死地に就く。その心栄えの淨らかさにはたゞ頭を下げて拜む外はない。

 兵には父母あり、妻子あり、たまに家族から手紙が來ると無性に喜ぶ兵士の容子を見ては、淚を催すほどいぢらしくなる。それほど愛する家族あるに拘らず兵は、いざ戰鬪となれば、家も忘れ、命も惜しまずにやる。たゞ陛下のため、そして新東洋建設の礎として喜んで死ぬるのだ。

 ところが、内地に歸つて見ると、どうだ。

 銃後はさほど緊張して居らぬ。巷には、むしろ、戦前よりよけいに遊蕩気分が漂うてゐる。

 内政も一向にハキ〱してゐない。政治經濟機構にも大戰時らしい、改革がほどこされず、國家總力を發揮しようにも、出來ぬような仕組みのまゝになつてゐた。

 政黨は事變も知らぬ氣に醜爭を繰り返してゐる。かういふのには卽時結社解散を食らはすのが國民精神を動員する所以ではないか。

 こんなことで東亜の新秩序がどうして出來るものか。日本自らの新秩序を何一つ作り得ないで、どうして東亜新秩序が出來るだらうか。

   外交方針有りや

 外交方面を見ても、然り。

 外交の巧拙はさて措いて、まづ外交方針が有るのか無いのか、若し有りとせば對英、對獨、對露、對米の方針は何所へ向いてゐるのか、といふやうな情ない問ひからして掛からねばならぬ狀態だ。

 現下の日本にとつて眞の敵国はどれか、といふことは夙くに分つてゐる筈だ。僕は出征前から言つてゐる、飛躍日本の行く手を遮る者は英國だ、と。

 まる二年にわたる事變の各段階ごとに、英國は決して第三國ではなく、まさしく正面の敵國であることが明證された。抗日蔣政權に武器與へ、金を與へ、法幣を指示するなどの傍ら、再三再四日本へ抗議を送ったり、その他のがいこうしゅんを弄したりした皇軍の活動を制肘する正眞正銘の敵と知りつゝ、之に敵愾心が起らぬといふのはどうしたことか。

 當面の問題としても支那事變が容易に片付かないのは、端的にいへば英國蒋介石の尻押しをしてゐるからだ。ロシアの尻押しなどは高の知れたものだ。現實に、具體的に抗日政權を助け、佛蘇米を誘ひ入れて、對日包圍戰を展開しつゝある元兇は英國だ。

 支那事変解決の第一義、東亞新秩序建設の要諦は極東から英國勢力を擊攘するにある。

 こんな自明の理も知らずに、何の外交があり得るか。

   仁義道

 今後の世界は、英米佛蘇を根幹とする自由主義的民主々義國家群と日獨伊を樞軸とする全體主義國家主義的國家軍との二大陣營に分れるのは不可避の現象であり、旣に、その對立は尖鋭な事實として進行中だ。

 英佛蘇と日獨伊の對峙、自由主義連衡と全体主義連盟との對立は決して單なる對立に留まらず、食ふか食はれるか、生か死かの決戦であり、血みどろの戰ひだ。二大陣營の中間にあつて日和見をしながら甘い汁を吸へるやうな中立地帶はない。白か黑かだ。宙ぶらりんでゐる國は踏み潰されてしまふ。

 獨伊の結盟は、日本でいはゆる仁義に基いてゐる。ヒツトラーとムツソリニは口の先や紙上の約束で共同してゐるのではない。男と男の仁義によつて堅く誓ひ合つてゐるのだ。

 若し獨伊のどちらかゞ仁義外れをやれば、英佛蘇連衡の手で獨も伊も共に打ちのめされることは明白だ。この両者は嫌応なしに仁義を守つて一團となり、積極的な體當りの戦法に出るしか途がない。舊秩序に從ふか、新秩序を創り出すか、衰亡か発展か、二途択一の絕對境に立つてゐる。

 日本はすでに防共協定の名によつてこの仁義仲間に入つた。入つた以上は仁義を徹底するのが男の道であり、生きる道だ。今さら尻込みする手はない。日獨伊協定は防共に限るとか何とかしみつたれを言ふな。結盟は速かに政治、經濟、文化、軍事にわたり最高度に强化さるべきだ。

 僕は戦地から歸ると、日獨伊樞軸の强化をやるかやらぬかが重大問題になつてゐると聞いて、むしろ不思議に思つたほどである。道義的にも戰略的にも日獨伊同盟は軍事をも含めて全面的に完成されねばならぬ。

   獨伊と結べ

 歐洲では今や獨伊が立ち上がつた。不退轉の勇猛心をもつて舊秩序の破碎にとりかゝつた。英佛蘇連衡の民主々義的舊秩序維持軍と獨伊結盟の國家主義的新秩序創建軍とは、旣に火蓋を切つた。獨伊の奮起は極東における皇軍が蔣介石を前衛とする英プラス佛、蘇の抗日群に對する聖戦を遂行しつゝえるのと相呼應する史的動向だ。世界新秩序への共同戦線だ。

 我も多忙を極めつゝありとはいへ、この時にこそ能ふ限りの具體的援助を獨伊に送つて仁義を盡すべきだ。仁義外れをやればやがては滅亡の運命に遇ふのは古今東西軌を一にして社會人情の示すところではないか。

 當面の支那問題を片付けるためのみにも、抗日の元兇英とこれに附隨する佛蘇を叩き出すのに絶好のチャンスではないか。オーケーと直ぐに言ふのが仁義だ。

 日本が洞ケ峠を決め込んでゐるため、萬一獨伊が敗れるやうなことでもあれば、次は直ちに英米佛蘇連衡が全力を極東に向けて日本打倒と來ることは目に見えてゐる。仁義外れをした者がどちらへ轉んてもいゝ子になれる筈はない。萬一、獨伊が叩かれた後には第二の三国干渉が日本に來るにきまつてゐる。これを防ぎ、いな積極的に極東から悪者を擊攘するために、唯一の最上の方法は獨伊との同盟を最高度に固くして敵に當ることだ。

 

 

 

 

橋本欣五郎 著『革新の必然性』1940年12月31日発行、大日本赤誠会出版局、p.15~p.17、p.20