Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

伊藤博文と神戸 福原遊廓の開設 『福原遊廓沿革誌』より 1868

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#1

 

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#3

須田菊二著

  福原遊廓沿革誌 全

       福原貸座敷業組合事務所

おちゃらと外人

 神戸には開港の事前より既に町の名が出来ていて、神戸村には大手町、辻場町、松屋町、浜の町、中の町、西の町の六箇町、二茶屋村には広下町、東本町、西本町の三箇町、走水村には走水町という総計十箇町の町があったのである。

 そして十銭ーー淫売婦の謂いで、十銭で転んだのでその異名となり、湊川が改修されて神戸随一の熱閙[ねっとう]街新開地の歓楽境の出来る前後まで、その闇の街に跳梁し、行人の袖を曳いて木の根を枕、草の衾といった式に極めて手軽に春を売っていたーーに、惣稼[そうか]または「おちゃら」と呼ぶ娼婦があって、あるいは沖の舟へ出張って桃源の春を開帳したり、あるいは街の町家で淫売稼ぎをしていたが、この「おちゃら」には置屋に抱えられている者と所謂自前稼ぎをしている者との二種があって、その玉代[ぎょくだい]と称するものは、いずれも一夜が一分の定め、置屋に抱えられている者には、当今の娼妓同様に年期があり、その前借金[ぜんしゃくきん]は上等が三年六十両、下等が三十両というのがその相場であったという。ちなみにこの「おちゃら」こそ福原の今日をなす根元である。

 慶応三年の十月頃、開港を目当てに外国人が沢山に神戸へ上陸し、今の居留地、その当時に「広っぱ」と俗称していた土地に居宅を構える準備をしたが、それが落成するまでは内地雑居式に、相当身分と資産のある者は、その辺りの貸家を借りて住み、それらの人に扈[つ]いて来た者はそこここに二階借りや間借りをして雨露を凌いだのであるが、これらの従者の中には身持のよろしくない者がかなり多数あって、女と見れば眦[まじり]を下げ、物珍しげに、しかも煩さくその身辺に付きまとうたので、神戸の家では、女ばかりで外出する者がないようになったほど、彼らの言動は余りにも露骨であった。

 明治四十二年ハルビンで凶徒のために狙撃されて薨去[こうきょ]された伊藤博文公が、俊介と称し、今の元町四丁目で料理屋をしていた専崎[せんざき]弥五平方に寄食して、王政復古の大画策に奔走されていた時分のことであるが、外国人はこの専崎の家によく遊びに来た。そして「日本の婦人はみな美しい。御周旋たのむ」と眦[まなじり]を下げて哀願したが、誰一人として西洋人を客にしようなどいう篤志家はいなかった。

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Hirobumi_Ito_2.jpg#mw-jump-to-license

 その当時、専崎の出入りに佐野常助という顔役があって「おちゃら」を七人抱えていたので、専崎がこの常助に交渉し、お前の家のおちゃらを異人に出せば、弗[ドル]一枚を貰ってやるから、なんとか骨を折ってはくれまいか、と食らわすに利を以てした。なにがさて、弗一枚の相場が三分だった時分とて、常助はこのお客を逃したくはなかった。早速帰宅して抱えのおちゃらを集め、みなの中で異人を客にして見ようと思う者はないか、と言いつつみなの顔を見渡すと、いずれもいやーな顔をして返事すらする者がない。そこで常助は、乃公[おれ]も親方だ、お前たちに厭な稼ぎや、気に染まぬことをさす以上は、必ずそれだけの返礼はする、もしもお前たちの中で、だれか出てくれる者があったならば、その人の年期の三年を一年半にしてやろうじゃないか、年期を半分にしてやるのだ、お前たちはそれでも厭だというか、とこれまた欲で誘ったので、遂にその中の一人が、それでは私が、とこの役を買って出て、神戸における偉人相手の尖端を切ることになった。

 常助は、早速そのむねを専崎に通じ、その夜その女を異人の敵娼[あいかた]としたのであるが、無論その玉代は約束通りの弗一枚、常助は専崎へ座敷料としてその二割五分を納めたので、その後これが例となって、この入れ方は常助に、座敷料は二割五分と公定相場が極ってしまった。

 ところが、西洋人を客にしたその女が、意気揚々とその翌朝に帰って来ての報告が、異人は大層親切だとか、勤めが楽で先方が機嫌を取ってくれるとかいう予想以外の言葉だった上に、盛んに恍[のろ]けて一人で悦に入っているものだから、他の六人のおちゃらもツイ釣り込まれ、永い間を惣稼で苦しむことはない、年期が半分で済むのじゃないかと、続々異人を客にするようになり、常助は忽ち成金。

 こうした中に歳月は流れて明治元年、王政復古もなって専崎に寄食していーた伊藤俊介が兵庫県の県令となって二月の下旬、奥平野の祥福寺へ乗り込み、ここに本陣を構えて神戸を統御するのであった。

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/12/

 その当時、伊藤県令の友人で遠藤金蔵という仁が、佐野常助の隣に、元町の丹波の借家があったのを借りて住まっていたので、自然常助と親しくなり、お互いに親戚のように交際をしていたが、或る日のこと常助は、伊藤さんが県令になられてから博奕をすることも出来ないので困っているが、何んとか良い分別もないものか、と相談を持ち掛けた。この相談が福原遊廓を開設する相談となったのである。

 がしかし、遊廓と名の付くからには、常助一人では出来ないのみならず、十人の連署で願いを出さねばならぬというので、八方奔走をした末、つや徳、藤春などを始め十人の賛成連署の者を得て、明治元年の二月二十七日、福原遊廓開設の出願をしたのである。

 福原という名は、その昔、福原遷都の故事にちなんで選んだ名前である。

 

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#16

    おちやらと外人

 神には開港の事前より旣に町の名が出來てゐて、神村には大手町、辻塲町、松屋町、濱松の町、中の町、西の町の六箇町、二茶屋村には廣下町、東本町、西本町の三箇町、走水村には走水町といふ總計十箇町の町があつたのである。

 そして十錢ーー淫賣婦の謂ひで、十銭で轉んだので其の異名となり、湊川が改修されて神隨一の熱閙街新開地の歡樂境の出來る前後まで、その闇の街に跳梁し、行人の袖を曳いて木の根を枕、草の衾といつた式に極めて手輕に春を賣つていたーーに、惣稼または「おちやら」と呼ぶ娼婦があちて、或は沖の舟へ出張つて桃源の春を開帳したり、或は街の町家で淫賣稼ぎをしてゐたが、此の「おちやら」には置屋に抱江[え]られてゐる者と所謂自前稼ぎをしてゐる者との二種があつて、其の玉代と稱するものは、何れも一夜が一分の定め、置屋に抱江[え]られている者に

 

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#16

は、當今の娼妓同樣に年期があり、其の前借金は上等が三年六十両、下等が三十両といふのが其の相塲であつたといふ、因に此の「おちやら」こそ福原の今日を爲す根元である。

 慶應三年の十月頃、開港を目当てに外國人が澤山に神へ上陸し、今の居留地、その當時に「広つぱ」と俗稱してゐた土地に居宅を構へる準備をしたが、それが落成するまでは內地雑居式に、相當身分と資のある者は、其の邊りの貸家を借りて住み、それ等の人に扈[つ]いて來た者は其処此処に二階借りや間借りをして雨露を凌いだのであるが、これ等の從者の中には身持のよろしくない者が可なり多數あつて、女と見れば眦を下げ、物珍しげに、しかも煩さく其の身邊に付き纏ふたので、神の家では、女ばかりで外出をする者が無いやうになつた程、彼等の言動は餘りにも露骨であつた。

 明治四十二年哈爾賓で兇徒の爲に狙擊されて薨去された伊藤博文公が、俊介と稱し、今の元町四丁目で料理屋をしてゐた專崎彌五平方に寄食して、王政復古の大畫策に奔走されてゐた時

 

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#17

分の事であるが、外國人は此の專崎の家によく遊びに來た。そして「日本の婦人は皆美しい。御周旋たのむ」と眦を下げて哀願したが、誰一人として西洋人を客にしやうなどいふ篤志家はいなかった。

 その當時、專崎の出入に佐野常助という顔役があつて「おちやら」を七人抱江[え]ていたので、專崎が此の常助に交渉し、お前の家のおちやらを異人に出せば、弗一枚を貰つてやるから、何んとか骨を折つては呉れまいか、と食らはすに利を以てした。何が扨、弗一枚の相塲が三分だつた時分とて、常助は此のお客を逃したくはなかつた。早速帰宅して抱江[え]のおちやらを集め、皆の中で異人を客にして見やうと思ふ者は無いか、と言ひつゝ皆の顔を見渡すと、何れもいやーな顔をして返事すらする者がない。そこで常助は、乃公も親方だ、お前達に厭な稼ぎや、気に染まぬ事をさす以上は、必ずそれだけの返礼はする、若しもお前達の中で、誰か出て呉れる者があつたならば、其の人の年期の三年を一年半にしてやらうぢやないか、年期を半分にして

 

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#17

やるのだ、お前達はそれでも厭だといふか、と之亦慾で誘つたので、遂に其の中の一人が、それでは私が、と此の役を買つて出て、神に於ける偉人相手の尖端を切ることになつた。

 常助は、早速その旨を專崎に通じ、其の夜その女を異人の敵娼としたのであるが、無論その玉代は約束通りの弗一枚、常助は專崎へ座敷料として其の二割五分を納めたので、その後これが例となつて此の入れ方は常助に、座敷料は二割五分と公定相塲が極つて了つた。

 ところが、西洋人を客にした其の女が、意氣揚々と其の翌朝に帰つて来ての報告が、異人は大層親切だとか、勤めが樂で先方が機嫌を取つて呉れるとかいふ豫想以外の言葉だつた上に、盛んに恍[のろ]けて一人で悦に入つてゐるものだから、他の六人のおちやらもツイ釣り込まれ、永い間を惣稼で苦しむことはない、年期が半分で済むのぢやないかと、續々異人を客にするやうになり、常助は忽ち成金。
 かうした中に歳月は流れて明治元年、王政復古もなつて專崎に寄食してゐーた伊藤俊介が兵庫

 

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#18

縣の縣令となつて二月の下旬、奥平野の祥福寺へ乘込み、こゝに本陣を構へて神を統御するのであつた。

 その當時、伊藤縣令の友人で遠藤金藏といふ仁が、佐野常助の隣に、元町の丹波の借家があつたのを借りて住つてゐたので、自然常助と親しくなり、お互ひに親戚のやうに交際をしていたが、或る日のこと常助は、伊藤さんが県令になられてから博奕をすることも出來ないので困つてゐるが、何んとか良い分別もないものか、と相談を持ち掛けた。此の相談が福原遊廓を開設する相談となつたのである。

 が然し、遊廓と名の付くからには、常助一人では出來ないのみならず、十人の連署で願ひを出さねばならぬといふので、八方奔走をした末、つや德が、藤春などを始め十人の賛成連署の者を得て、明治元年の二月二十七日、福原遊廓開設の出願となつたのである。

 福原という名は、その昔、福原遷都の故事に因んで選んだ名前である。

 

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福原遊廓沿革誌

http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_OSON-00072