Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

娼妓解放令と福原遊廓 『福原遊廓沿革誌』より 1872.10.2

 新遊郭は移転開業以来繁昌続きであつたので、各楼主は移転新築等に投資した費用が、総て借金となつてはゐたが、此の好調が三四年も続かば、或は借金の肩脱ぎが出来るかも知れぬと北叟[ほくそ]笑みつつ、当った稼業の的を外すまいと一生懸命に精励すること一年半、明治五年十月に突如として遊女の解放令が発布された。全町は鼎の沸く騒ぎである。失望落胆、悲憤の呪詛、当時の情況を記述する前に、順序として解放令の発布せらるるに至った事情を、極めて簡単に記しておこう。


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   遊女解放令の発布顛末

 当時、廟堂に立った少壮気鋭の政治家は、順理想に向って突進するの時勢であって、欧米の思潮は漸次に入り来り、維新の政変に於て四民平等の思潮が擡頭し、明治四年には廃藩置県の大業がなり、また穢多非人の呼称廃止を始めとし、破天荒の改革が頻々として行われた時であった処へ、たまたまマリアルーズ号事件が突発し、遊女開放の大断行を見るに至った。

 明治五年六月五日、秘露[ペルー]汽船マリアルーズ号が、支那人苦力[クーリー]奴隷二百三十一名を乗せて横浜に入港した際、その一人が虐待に堪らず海に投じて逃れ、そして救われた事に端を発し、神奈川県(県令大江卓)当局は之を審議した結果、虐待の点を以て糺弾して苦力を上陸せしめた処、更に船長より苦力に向って、移民契約履行の訴訟を起したのであるが、その契約は奴隷売買であるから無効である、我国は奴隷を認めずという判決を下した。

 処が此の事件の審査中、船長側の弁護士ディケンスは

奴隷貿易は当時本国たる支那に行われて居り、又亜米利加を除きたる各国も、之を認め居るのみならず、日本でもこれ以上の奴隷売買を認めて居るではないか。

と抗弁し、証拠として、遊女年期証文の写しと、横浜病院医治報告書を提出したが、この弁護士は日本語が上手で、日本でも遊女を売買しているではないか、此の通り証拠があると之を読み上げたものである。然し判決の結果は

国内奴隷の法一国内に存する時と雖、之を輸出し之を輸入するに至りては厳禁を設けたる事屢之れあり合衆国自今五十年以前の光景之れに当れり。代言人の申立てたる約定は一種異様の国内限りの仕方なる故外国の裁判所へ如何様申立つる事ありとも之を果さしむべき者とは思われず。

と、原告敗訴の言渡しをして一と先ずこの事件は落着したが、其後この事件は秘露政府との外交問題となり、終に露帝の仲裁に依って我国の勝利に帰したのであるが、右の突き込まれた点は痛く当局者を刺戟し、当の神奈川県警では第一に

当管下在町之婦女子年季を定め遊女芸者並に宿場飯売女或は洗濯女其他種々の名目を附身売奉公に差出し候儀向後一切不相成候事。

是迄右体之奉公に差出有之分は抱主へ示談を遂げ可成丈引戻候様可致事。

右之通触示候間可得其意若相背候者有之に於ては可及吟味間其旨可相心得者也。

 壬申(明治五年)九月十七日

           神奈川県庁

と令して芸娼妓解放の第一声を放ったのである。然し、之は絶対の廃娼ではなく、自由営業者であれば之を許す趣旨であった。

   第四条

当人共抱主の手を離れ候後自分の好により更に遊女芸者いたし度きものは其旨願出候はば其始末取調候上右願指免し鑑札相渡可申事。

 但し来る十月五日限当人より可願出事。

   第五条

来る二十六日より遊女其抱主の権を以て見世を為致候儀不相成尤其当人の好により客の相手に出候儀は不苦候間揚代は当人と客との相極むべき事。
 但芸者も本文同様の義と可相心得事。

   第六条

来る二十六日より当人の好により客の相手に出候遊女芸者は揚代金等の内を以て是迄の抱主へ賄並に座敷料其外の雑費は相当に可相弁事。

   第七条

是迄遊女屋引手茶屋等のもの共遊女貸座敷渡世願出候得ば差許候来る十月五日限可願出事。

貸座敷という名称は、実に此時に始まるものであるが、神奈川県では之等の布令で所謂抜け道を作るつもりでいたけれど、中央政府の意気込みは実に猛烈で、明治五年十月二日、太政官布告二百九十五号を以て

一、人身を売買し終身又は年季を限り其主人の存意に任せ虐使致候は、人倫に背き有るまじき事に付、古来禁制の処従来年期奉公等種々の名目を以て奉公住為致、其実売買同様の所業に至り以ての外の事に付自今可為厳禁事。

一、農工商の所業習熟の為め弟子奉公為致候儀は勝手に候得共期限満七年を過ぐべからざる事
 但双方の相談を以て更に期を延るは勝手たるべき事。

一、娼妓芸妓当年季奉公人一切解放可致右に付ては貸借訴訟総て不取上候事。

右之通規定候条屹度可相守事。

と達した。続いて司法省からは更にまた厳しい布達が出た。即ち

本月二日太政官令第二百九十五号にて被仰出候次第に付左之件々可心得事。

一、人身を売買するは古来制禁之処年期奉公等種々之名目を以て其実売買同様之所業に到るに付娼妓芸妓等雇入之資本金は賍金と見做す。右により苦情を唱へ[ママ]ふるものは取糺の上其金の全額を可取揚事。

一、同上の娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて牛馬に異ならず、人より牛馬に物の返済を求むるの理なし。故に従来同上の娼妓芸妓へ貸す所の金銀並に売掛け滞金は一切債るべからざる事。

 但本月二日以来の分は此限にあらず。

一、人之子女を金談上より養女の名目に為し娼妓芸妓の所業を為さしむる者は其実際上則人身売買に付従前今後可及厳重之処置事。
右之通達有之趣触示候条此旨可相心得者也。
  壬申十月
       司法卿  江藤新平
       司法大輔 福岡孝弟

の下に、遊女芸者の解放をしたのである、従って当業者は勿論、一般世人大衆はただ驚きの目を見張るのみで、政府の真意を解することが出来ず、前掲布告中の「牛馬」という文字に基き、世俗は「牛馬のきりほどき」とか、或は単に「切りほどき」と称して、此の破天荒な布達を取り沙汰し合ったのである。即ち解放の真意義が民衆に徹底していなかった上に、政府自身としても、外交問題に刺戟されての布告だったので、政府の態度にも不徹底の譏りが免れなかったと謂うべきである。


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   遊郭取潰しから再興へ

     附、復活した福原遊郭の紋日物日

 明治十五年十月二十五日に発布された兵庫県での「遊女解放令」によれば、遊女の前借金を棒引きにすることは勿論、国許へ帰る旅費のないものには、旅費を与えて其の郷里へ帰してやれと命令されているので、お上のお役人衆は首くくりの足を引っ張る阿漕な事をなさると当業者は恨みの繰言、之は尤もなことで、営業を失ふ上に貸金は棒引きにせねばならない処から、極度の困憊と憂色に包まれ、進退その度を失ふの時、旅費支給の御沙汰である。当業者は深い淵に突き落されたのでなくして何であろうか。

 営業者は嘆願を続けた。生死の境に彷徨する重大危機とて凡ゆる手段方法を講じて嘆願と陳情を試みたが、布告の厳重は遂にその運動は徒労に帰し、しかも十日間以内に断然遊女を解放せよとの厳命に、今は詮方なく詮方なく妓楼総代藤田泰蔵は県庁に出頭し、県当局の面前で、それぞれの遊女を其の引取人に手渡したのである。斯くして不夜城を誇りし福原の新花街も、秋風落漠[→莫]、柳影凄然たる巷と変じ、各楼は固く表をとざしみち亦昨日の盛観なく、実に昨日の淵は今日の瀬となり、全福原は全く火の消へえた有様。

 藤田泰蔵は福原の取纏めを引続き勤めていたが、何とかして福原再興の実をあげんものと種々の苦心を重ね、努力を続けたところ、其の奔命は酬はれて明治六年一月一日、即ち灸明治五年二月四日に至って貸座敷渡世が公許せられ、遊郭再興の宿志は遂にとげられた。

 が然し、三月前まであって大門は既に取り壊され、懐かしの見返り柳も亦その跡をとどめず、殊に各楼主は曩に移転と新築のによって多大の負債があった上に、這般の「切りほどき」で、物質的には莫大な損害を蒙り、精神的には心労過大で、到底旧観を復興せしむる事に中々に困難な事情にあった。

 とは言え、復興の意気に燃ゆるのは我が国民性の特徴である。困難に打ち勝たんとするの気概に満ち満ちたるは大和民族のみが持つ特性である。その疲労困憊の中に処して二十軒ばかりの妓楼が、忽ち再開業したのであるが、再興遊郭が其の総てが、取潰し以前の福原のそれに見劣りするのは是非もない。

 が、揚代金や物日紋日は以前のと少しも異った処がなく、見世も大見世、中見世、小見世の差別があり、入山形に星三つが金三分、同じく星二つが金二分、同じく星一つが金一分二朱、その下が金一分という定めで、廓の紋日へ左の通りであった。

正月二日、三日、七種、十五日、十六日。三月三日、五月五日、七月七日、十五日、十六日、九月九日

右の外に十月の恵比寿講、十二月の煤払い

 

国文学研究資料館 近代書誌・近代画像データベース 『福原遊郭沿革誌』https://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/sresult

http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#37http://school.nijl.ac.jp/kindai/OSON/OSON-00072.html#42