礒竹島事略 坤
同 [元禄八/1695] 年十二月十五日、宗刑部
大輔より平田直右衛門をもって申し聞かさ
れ候ふ口上の覚
一、竹嶋 [鬱陵島] を日本人ただ今までの通り渡海いたし、朝鮮人も勝手次第に罷り渡り候ひては、とかく双方の者、入り交じり争論絶え申すまじく候ふ。殊には御法度の商売等いたし災ひをも仕出し申すべけむやと、この段いかがはしく存じ奉り候ふこと。
一、去々年、同氏対馬守方より書翰をもって申し渡し候ふ書面に重ねて、竹嶋え朝鮮人罷り越さざる様、申し渡すべきの旨、仰せられ候ふ由、書き載せ仕り置き候ふ故、今さら書面の振りを替へ候ひては、仰せ付けらるも軽々しく相聞き候ふ段、大切に存じ奉り候ふ。その上竹嶋え彼方よりも渡海いたし、漁仕り候ふ様に申し遣はし候ひては、先年朝鮮人捕へ候ふ儀、日本人の卒忽 [=粗忽?] の様に罷り成り候ふ段、いかがはしく存じ奉り候ふこと。
一、先頃書付けをもって申し上げ候ふ通り、対馬守方より申し遣はし候ふ趣、私方より書翰をもって申し渡しの使者、口上にも書面の通り上の思し召しに候ふ段、委細申し達す。かなた直ちに承け届け候ふは、もし事済み申す儀も御座あるべけむや。その上にも不伝に御座候はば、竹嶋え番人ら差置かれ候はば、朝鮮人重ねて渡海仕るまじと存じ奉り候ふこと。
一、右の通りにても相済み申さざることむつかしく、大切にも成らるべき様子に候へば、竹嶋を相捨てに成られ、双方より渡海仕らず候ふ様にはいかが御座あり候ふや、さりながら、異国の儀に候ふ故、こなたにて書簡仕り候ふ通りに相済み申すべく候ふや、斗 [=計] り難く存じ奉り候へども、むつかしくこれなく事済み候ふ様にとの御事に御座候ふ故、存じ寄りの通り申上げ候ふ。以上。
十二月十五日 宗刑部大輔
口上覚
竹嶋之儀、以前者、朝鮮國之内と相聞ヘ候得共、八十年以来日本より致渡海、漁仕来候故、此段如何様とも御分難被成候間、只今迄之通ニ日本より致渡海漁仕候様ニ可被成候間、彼國より茂、罷渡り候ハハ勝手次第と書簡を以、申遣候而者、如何可有御座候哉、私存寄之趣可申上由、委細被仰聞奉得御意候、依之、乍憚存寄之趣別紙書付差上候、不宜所御座候ハハ、被差除可致御差図被成可被下候奉願候。以上
十二月十五日
此方より挨拶之覚
書付之趣遂披見候、日本人朝鮮江入交候段者不可致候、兎角、八十年以前之通、朝鮮人不罷渡候様被申越可然与存候、公儀より被仰付候と申事無之候而者、去ゝ年對馬守方より被申越候書面之振も違候而、如何之由、尤存候得共、少々振違候共、急度無之様ニ被申越可然候、右之通候得者上之思召ニ候となとハ御無用候、又竹嶋江番人等被差置候儀ハ、遠方之小嶋故不罷成事候、其上少々番人等指置、朝鮮より大勢罷渡、此方より渡海儀不自由之場ニ而候得者、首尾茂如何候間、此段以之外、宜ケ間鋪と存候、彼嶋御捨被成候而者、彼方江返し被遣候茂同所候故是以不宜候、今一応了簡候而、書付可被差越旨申遣
一 同年十二月廿日、先日書付之儀、刑部大輔了簡儀被致候ハハ、承度由申遣候處、早速直右衛門参申候者、先頃存寄書付差出候処、御返答ニ被仰聞候旨致承知、朝鮮國江申遣候和文二通相認懸御目候、両通之内御了簡次第可申遣候、扨又、直右衛門口上書之趣書付差出候
覚
竹嶋之儀、万一事むすほをれ以後大切ニ罷成候而、両国之通用無之候共、兎角竹嶋を朝鮮国江被遣間鋪と哉、又者御用にも立不申嶋、其上両国之交もはなれ候間、其趣に随候而、御相談も可被遊儀候哉、両条之趣そと右様思召之通、承置度奉存候、其品ゝ応し書翰等、其外挨拶仕候心得ニ罷成候儀候故、御内意ひそかに奉窺候、以上
十二月廿日 宗刑部大輔使者
平田直右衛門
口上覚
一 先頃私存寄之趣申上候處御内意被仰聞、具致承知忝奉存候、依之、朝鮮國江申渡候書翰和文弐通相認、懸御目候、御覧被成、弥、御差図奉頼候、先頃懸御目候存寄之書付之通ニ仕候共、相済可申儀者不定ニ存候得共、差当存寄茂無御座候故、書付差上申候、今度、懸御目候和文之通申遣候とも相済可申儀難斗存候得共、御差圖次第申遣様子、重而可申上候、此度も大形朝鮮江差置候返翰之紙面之趣返答可仕候と存候、右之通御座候共、取次差上可申哉、如何挨拶可仕哉、此段御内意被仰聞可被下候
一 朝鮮者文國之儀候故、書面之認様ニより彼國ニも、能、承届可申と奉存候間、先日茂可申上候輪番之僧之内、巧者之人壱人臨時ニ被仰付被下候へかしと奉存候、已上
十二月廿日 宗刑部大輔
和文之案詞 和文案詞両通在之候
得共□□故一通載之
本那竹嶋江貴国之漁民罷渡、漁採仕候故、其趣同氏對馬守方より委申達、送還等御返答不承候内、同氏相果候、然處、我等儀当分役義可相勤之旨蒙仰候故、此段、重而申渡候、日本人毎年致渡海候得共、終、貴國之者罷渡候儀見及不申候処、近年度々罷渡、如何鋪存候間、弥、以前之通ニ被仰付可然存候、委細使者口上ニ申含候、不宣
月日
朝鮮和館ニ差置候人数之覚
屋鋪中之者支配仕候役 物頭
舘守役壱人
両國之間之用事承彼國
役人と申談候役 裁判役壱人
馬廻八人程
中小姓拾壱人程
歩行士弐拾五人程
醫師弐人あ
大工四人
水主百拾人程
對州之商人 町人弐拾人程
合上下六百四拾八人程
同年十二月廿四日松平伯耆守家来召寄、
伯州より竹嶋江漁民相越年来漁採仕候由
相聞候付、書付を以尋候覚
一 因州伯州江附候竹嶋者、いつの頃より両國江附属候哉、先祖領地被下候以前より之儀候哉、但其以後より之儀候哉之事
一 竹嶋者大方何程はかりの嶋候哉、人居無之候哉之事
一 竹嶋者漁採ニ人参候儀何頃より相越候哉、年々参候哉、又者折節参候哉、如何様之猟仕候哉、舟数も多参候哉之事
一 三四年以前朝鮮人参致猟候、其砌、人質ニ両人被捕候、其以前も折々ハ参候哉、終不参右之節両年打續参候哉之事
一 一両年者不相越候哉之事
一 先年参候時分者、船数何程斗、人も何程参候哉之事
一 竹嶋之外両國江附属之嶋有之候哉、是又漁採ニ両國之者参候哉之事
右之通承度候書付可被差越候、以上
右之返答 松平伯耆守
一 竹嶋者、因幡伯耆附属ニ而者無御座候、伯耆國米子町人大屋九右衛門、村川市兵衛と申者渡海漁採仕候儀、松平新太郎領國之節御奉書を以被仰付候旨承候、其以前渡海仕候儀も有之候様承候得共、其領相知不申候事
一 竹嶋廻凡八九里程有之由人居無之候事
一 竹嶋江漁採参候節者、二月三月比米子出船毎年罷越候、於彼地蚫みちの魚猟仕候、船大小弐艘参候事
一 四年以前申年、朝鮮人彼嶋江参居節、船頭共参逢候儀、其節御届申上候、翌酉年も朝鮮人参居申内、船頭共参逢、朝鮮人弐人連候而、米子江罷帰、其段茂御届申上長崎江相送申候、戌年者、逢難風、彼嶋着岸不仕段御届申上候、当年茂渡海仕候処、異国人数多見ヘ申候間、着岸不仕相帰候節、松嶋にて蚫少々取申候、右之段御届申上候事
一 申年朝鮮人参候節、船拾一艘之内六艘逢難風、、 残五艘者、彼嶋ニ留り、人数五十三人居申候、酉年者、船三艘、人四拾弐人参居申候、当年者、船枚餘両 (多カ) 人も多相見ヘ申候、着岸不仕候付分明ニ無御座候事
一 竹嶋松嶋其外両國江附属之嶋無御座候事
十二月廿五日
伯耆守江段々相尋候付、又々書付差出候覚
一 竹嶋之外松嶋与申嶋、因幡國伯耆国江附属之嶋ニ候哉之事
右、松嶋両國江附属ニ而ハ無御座候、竹嶋江渡海之筋ニ在之嶋ニ而御座候
一 竹嶋江因幡國伯耆國より道程何程有之候哉之事
因幡國より竹嶋江渡海ハ不仕候、伯耆國より船路百六拾里程有之候
一 竹嶋より朝鮮國江道程何程在之候哉之事
海上道程難知候、凡四十里余茂可在御座哉与、船頭共申候
十二月廿五日 松平伯耆守
先年松平新太郎方江伯耆國米子町人、竹嶋江
渡海御免奉書之写
従伯耆國米子、竹嶋江先年船相渡之由候、然者、如其、今度致渡海度之段、米子町人村川市兵衛、大屋甚吉申上付而、達上聞候處、不可在異儀之旨被仰出候而、被得主意、渡海之儀可被仰付候、恐々謹言
五月十六日 永井信濃守 在判
井上主計頭 同
土井大炊頭 同
酒井雅楽頭 同
松平新太郎殿
人ゝ御中
右御奉書被成下候、年暦ハ相知不申候由、伯耆守より申来候
竹嶋之儀ニ付柳沢出羽守被申聞候覚
一 宗刑部書付松平伯耆書付、昨日出羽守江渡候処、被達御耳候處、今度之書付之旨ニ候ヘ者、又、最前之旨共違候、異国江之事候間、年寄とも了簡可仕候
一 来二月刑部、御暇ニ候間、其前各相談可申事
一 出羽守了簡ニ、竹嶋之儀、對馬方江返翰迄ニ而、追而、
刑部方より土貢不申遣候而茂、苦間敷候哉、此段茂、了簡可申由被申候事
亥十二月廿六日
元禄九年丙子正月九日宗刑部大輔家老平田
直右衛門召寄、段々口上ニ申含、且又、書
付を以申渡之口上書
旧冬覚書を以被仰聞旨、各江委細申達候
一 竹嶋之儀、松平伯耆守江相尋候処、竹嶋之因幡
元禄九年丙子正月九日宗刑部大輔家老平田直右衛門、召寄段々口上ニ申含、且又、書付を以申渡之
口上書
旧冬覚書を以被仰聞旨、各江委細申達候
一 竹嶋之儀、松平伯耆守江相尋候処、竹嶋之因幡伯耆江附属与申ニ而茂無之、米子町人両人願出、松平新太郎、因幡伯耆領知之時ハ伺在之而、竹嶋江米子町人相越、猟いたし来由ニ候、然者、朝鮮国之嶋を日本江取候と申わけニも不相聞候、道程之儀承候得者、竹嶋より朝鮮江、凡四拾里余程、伯耆江者、百六拾里程在之由ニ候、朝鮮江者、各別程近候故、朝鮮國之堺欝陵嶋ニ而茂可在之哉与被存候、夫共ニ日本江取候慥成しるしも在之か、又日本人居住等仕ニ者、今更朝鮮江難遣事ニ候へ共、左様之儀茂、前々弥於無之者、此方より竹嶋之儀構無之わけニ仕、可然哉之事
一 對馬殿より朝鮮江欝陵嶋と書入候儀指除、返翰被越候様ニと被相達候処、返翰披見無之内對馬殿死去候、依之、件之書翰朝鮮国ニ差置之旨ニ候、然者、刑部殿より欝陵嶋之儀重而被申越、不及被指置苦ケ間敷哉之事
一 竹嶋、欝陵嶋之儀ニ付、兎角一通り刑部殿より書通被致度被存候哉事
右御了簡候而無遠慮可被仰聞候、以上
正月九日
右各申談、奥御右筆ニ書を候而遣之
一 同年正月十二日宗刑部大輔より平田直右衛門を以被申聞候、最前申達候趣ニ付、書付を以被申越候
口上書
竹嶋之儀、因幡伯耆ニ附属与申ニ而茂無之、伯耆より渡海仕漁採いたし候と申迄ニ而、朝鮮国江者、道程茂近、伯耆よりハ程遠候故、彼國之内ニ而茂可在之哉、其上、日本江取候慥成印茂無之、日本人居住も不仕候迄ハ、御構なきわけニも被成、苦ケ間敷哉之由御尤奉存候、左様被仰付候者、彼國ニも御誠信之別而忝可奉存候、乍然、先頃、同氏對馬守方より以書翰、委申渡置たる事ニ候故、申捨ニも難仕御座候、殊、此方之漁民渡海被差留候段、彼國江不申届候而者、如何鋪奉存候、されとも、書翰ニ而申渡候而者、急度ケ間敷罷成候間、私帰国之刻者、必、譯官差渡候条、其節、口上ニ而、申渡可然哉と奉存候、然者、譯官江申渡候口上書、別紙相認、懸御目候、存寄之段、御尋被成候故、任仰書付差上申候、以上
正月十二日
譯官江申渡候口上覚
先年同氏對馬守方より竹嶋之儀ニ付、以使者、申達候処、其節、取次之人、使者江被申聞候趣、帰国之刻、拙子江申聞候故、其趣、今度於江戸、御老中迄、御物語申上候得者、彼嶋儀、元因幡、伯耆江附属と申ニ而茂無之、日本江被取と申事ニ而茂無之、空嶋ニ候故、伯耆之者、罷渡漁採いたし候迄ニ候、然處、近年朝鮮人罷渡入交候故、以来、殃 [わざわい] を茂仕出し可申与之御事ニ付而、最前之通、對馬守方より申遣候得共、朝鮮江之道程茂近、伯耆よりハ程遠き由ニ候間、重而、此事より漁民渡海不仕候様に可被仰付との御事候間御誠信之段可被存候、已上
直右衛門口上ニ申候者、今少、宜致様可在之候へ共、異国江申遣事候故、存候侭ニ不承候、おもくれ (滞る) 候而は、思召共相違仕事、軽ク相済候様ニ思召候と推察仕候付、其趣受候而、存寄書付差存寄書付差上申候由、此方より相尋候者、此儀ニ付、朝鮮より書翰ニ而茂可承哉、直右衛門申候者、今度結構被仰付候間、御禮ニ書翰可承与奉存候、乍然、口上ニ而申渡候者、書翰不参事も可在之候、書翰差越、可然与、思召候者、此方より氣を付可申由申候
返答
書翰共被差越、令承知候、書翰之儀、何とそ承候様ニ与、存候由申遣ス
一 同年正月廿日宗刑部大輔江相尋候、先日譯官江被申越候口上案文之末ニ、朝鮮江程茂近、伯耆國より者、程遠候由ニ候間、重而、此方之漁民渡海不仕候様ニ可被仰付の御事候間、御誠信之段忝可被存候旨被相認候、あなたよりハ御誠信之段、志旨御禮可在之儀候、此方より忝可被存与被申越候段、跡々茂、此趣ニ被申越候哉、如何様之時分、左様被申越候哉、承度存候、終不被申越候者、如何ニ茂可在之候哉、其共ニ不苦訳ニ候哉、承度由申遣候
右之返答
覚 宗刑部大輔
譯官江申渡候口上書之内、御誠信之段忝可被存候と、認申候儀御為被遊候、口上ニ而ハ前々もケ様之儀譯官江者申聞候事ニ御座候、信使之刻結構ニ御馳走被仰付候段、朝鮮国ニ茂、忝可被存与申儀、度々挨拶仕候、書翰ニ茂本邦本國なとゝ申事欠字仕候儀多御座候上之儀なとハ謙退不仕、相認候例茂折々御座候、已上
一 同年正月廿三日松平伯耆守留守居、召寄相尋候処、段々書付を以、伯耆守より被申聞候
覚 松平伯耆守
一 伯耆国米子之町人大屋九右衛門、村川市兵衛船子共より外者、領国之者竹嶋江渡海仕候儀成不申候、尤、他領之者、渡海之儀、猶以、成不申候、大屋九右衛門、村川市兵衛儀者、先年より竹嶋渡海之儀御免被遊、罷越候付、外より参候儀者、決而無御座候、右之船子共竹嶋江猟ニ罷越候節、出雲國、隠岐國猟師共雇候而、米子之船子同船ニ而罷越候、人数者、年々相遣御座候、出雲国よりハ不参儀茂御座候、大形ハ出雲國より二三人隠岐国より八九人程茂雇候而罷越候由御座候
一 松嶋ハ何連之国江付候嶋ニ而茂、無御座候由承候
一 松嶋江猟ニ参候儀、竹嶋江渡海之節道筋にて御座候故、立寄猟仕候、他領より猟ニ参候儀ハ不承候、尤、出雲国、隠岐国之者ハ、米子之者共と同船ニ而参候
一 伯耆国米子より出雲国雲津迄、道程拾里程
一 出雲国雲津より隠岐国焼火山迄、道程弐拾三里程
一 隠岐国焼火山より同国福浦迄七里程
一 福浦より松嶋江八拾里程
一 松嶋より竹嶋江四拾里程
一 松嶋江伯耆国より海路百弐拾里程
一 松嶋より朝鮮国江者、八九拾里程茂御座候様承及候、已上
正月廿三日
あ
あ
礒竹島事略 坤
同年十二月十五日宗刑部大輔より平田
直右衛門を以被申聞候口上之覚
一 竹嶋を日本人唯今迄之通致渡海、朝鮮人も勝手次第ニ罷渡候而者、兎角双方之者、入交争論絶申間敷候、殊にハ御法度之商売等いたし災をも仕出可申哉と、此段如何敷奉存候事
一 去々年、同氏對馬守方より書翰を以申渡候書面ニ重而、竹嶋江朝鮮人不罷越様可申渡之旨蒙仰候由、書載仕置候故、今更書面之振を替候而者、被仰付茂軽々鋪相聞候段、大切ニ奉存候、其上竹嶋江彼方よりも致渡海、漁仕候様ニ申遣候而者、先年朝鮮人捕候儀、日本人之卒忽之様ニ罷成候段如何鋪奉存候事
一 先頃書付を以申上候通、對馬守方より申遣候趣、私方より以書翰申渡之使者口上ニ茂書面之通上之思召ニ候段委細申達、彼方直ニ承届候者、若、事済申儀茂可有御座哉、其上ニ茂不傳ニ御座候ハハ竹嶋江番人等被差置候者、朝鮮人重而、渡海仕間鋪与存奉候事
一 右之通にても相済不申事六ケ鋪、大切ニも可被成様子ニ候者、竹嶋を相捨被成、双方より渡海不仕候様ニハ如何可有御座候哉、乍然、異国之儀候故、此方ニ而書簡仕候通ニ相済可申候哉、難斗奉存候得共、六ケ鋪無之、事済候様ニとの御事ニ御座候故、存寄之通申上候、以上
十二月十五日 宗刑部大輔
口上覚
竹嶋之儀、以前者、朝鮮國之内と相聞ヘ候得共、八十年以来日本より致渡海、漁仕来候故、此段如何様とも御分難被成候間、只今迄之通ニ日本より致渡海漁仕候様ニ可被成候間、彼國より茂、罷渡り候ハハ勝手次第と書簡を以、申遣候而者、如何可有御座候哉、私存寄之趣可申上由、委細被仰聞奉得御意候、依之、乍憚存寄之趣別紙書付差上候、不宜所御座候ハハ、被差除可致御差図被成可被下候奉願候。以上
十二月十五日
此方より挨拶之覚
書付之趣遂披見候、日本人朝鮮江入交候段者不可致候、兎角、八十年以前之通、朝鮮人不罷渡候様被申越可然与存候、公儀より被仰付候と申事無之候而者、去ゝ年對馬守方より被申越候書面之振も違候而、如何之由、尤存候得共、少々振違候共、急度無之様ニ被申越可然候、右之通候得者上之思召ニ候となとハ御無用候、又竹嶋江番人等被差置候儀ハ、遠方之小嶋故不罷成事候、其上少々番人等指置、朝鮮より大勢罷渡、此方より渡海儀不自由之場ニ而候得者、首尾茂如何候間、此段以之外、宜ケ間鋪と存候、彼嶋御捨被成候而者、彼方江返し被遣候茂同所候故是以不宜候、今一応了簡候而、書付可被差越旨申遣
一 同年十二月廿日、先日書付之儀、刑部大輔了簡儀被致候ハハ、承度由申遣候處、早速直右衛門参申候者、先頃存寄書付差出候処、御返答ニ被仰聞候旨致承知、朝鮮國江申遣候和文二通相認懸御目候、両通之内御了簡次第可申遣候、扨又、直右衛門口上書之趣書付差出候
覚
竹嶋之儀、万一事むすほをれ以後大切ニ罷成候而、両国之通用無之候共、兎角竹嶋を朝鮮国江被遣間鋪と哉、又者御用にも立不申嶋、其上両国之交もはなれ候間、其趣に随候而、御相談も可被遊儀候哉、両条之趣そと右様思召之通、承置度奉存候、其品ゝ応し書翰等、其外挨拶仕候心得ニ罷成候儀候故、御内意ひそかに奉窺候、以上
十二月廿日 宗刑部大輔使者
平田直右衛門
口上覚
一 先頃私存寄之趣申上候處御内意被仰聞、具致承知忝奉存候、依之、朝鮮國江申渡候書翰和文弐通相認、懸御目候、御覧被成、弥、御差図奉頼候、先頃懸御目候存寄之書付之通ニ仕候共、相済可申儀者不定ニ存候得共、差当存寄茂無御座候故、書付差上申候、今度、懸御目候和文之通申遣候とも相済可申儀難斗存候得共、御差圖次第申遣様子、重而可申上候、此度も大形朝鮮江差置候返翰之紙面之趣返答可仕候と存候、右之通御座候共、取次差上可申哉、如何挨拶可仕哉、此段御内意被仰聞可被下候
一 朝鮮者文國之儀候故、書面之認様ニより彼國ニも、能、承届可申と奉存候間、先日茂可申上候輪番之僧之内、巧者之人壱人臨時ニ被仰付被下候へかしと奉存候、已上
十二月廿日 宗刑部大輔
和文之案詞 和文案詞両通在之候
得共□□故一通載之
本那竹嶋江貴国之漁民罷渡、漁採仕候故、其趣同氏對馬守方より委申達、送還等御返答不承候内、同氏相果候、然處、我等儀当分役義可相勤之旨蒙仰候故、此段、重而申渡候、日本人毎年致渡海候得共、終、貴國之者罷渡候儀見及不申候処、近年度々罷渡、如何鋪存候間、弥、以前之通ニ被仰付可然存候、委細使者口上ニ申含候、不宣
月日
朝鮮和館ニ差置候人数之覚
屋鋪中之者支配仕候役 物頭
舘守役壱人
両國之間之用事承彼國
役人と申談候役 裁判役壱人
馬廻八人程
中小姓拾壱人程
歩行士弐拾五人程
醫師弐人あ
大工四人
水主百拾人程
對州之商人 町人弐拾人程
合上下六百四拾八人程
同年十二月廿四日松平伯耆守家来召寄、
伯州より竹嶋江漁民相越年来漁採仕候由
相聞候付、書付を以尋候覚
一 因州伯州江附候竹嶋者、いつの頃より両國江附属候哉、先祖領地被下候以前より之儀候哉、但其以後より之儀候哉之事
一 竹嶋者大方何程はかりの嶋候哉、人居無之候哉之事
一 竹嶋者漁採ニ人参候儀何頃より相越候哉、年々参候哉、又者折節参候哉、如何様之猟仕候哉、舟数も多参候哉之事
一 三四年以前朝鮮人参致猟候、其砌、人質ニ両人被捕候、其以前も折々ハ参候哉、終不参右之節両年打續参候哉之事
一 一両年者不相越候哉之事
一 先年参候時分者、船数何程斗、人も何程参候哉之事
一 竹嶋之外両國江附属之嶋有之候哉、是又漁採ニ両國之者参候哉之事
右之通承度候書付可被差越候、以上
右之返答 松平伯耆守
一 竹嶋者、因幡伯耆附属ニ而者無御座候、伯耆國米子町人大屋九右衛門、村川市兵衛と申者渡海漁採仕候儀、松平新太郎領國之節御奉書を以被仰付候旨承候、其以前渡海仕候儀も有之候様承候得共、其領相知不申候事
一 竹嶋廻凡八九里程有之由人居無之候事
一 竹嶋江漁採参候節者、二月三月比米子出船毎年罷越候、於彼地蚫みちの魚猟仕候、船大小弐艘参候事
一 四年以前申年、朝鮮人彼嶋江参居節、船頭共参逢候儀、其節御届申上候、翌酉年も朝鮮人参居申内、船頭共参逢、朝鮮人弐人連候而、米子江罷帰、其段茂御届申上長崎江相送申候、戌年者、逢難風、彼嶋着岸不仕段御届申上候、当年茂渡海仕候処、異国人数多見ヘ申候間、着岸不仕相帰候節、松嶋にて蚫少々取申候、右之段御届申上候事
一 申年朝鮮人参候節、船拾一艘之内六艘逢難風、、 残五艘者、彼嶋ニ留り、人数五十三人居申候、酉年者、船三艘、人四拾弐人参居申候、当年者、船枚餘両 (多カ) 人も多相見ヘ申候、着岸不仕候付分明ニ無御座候事
一 竹嶋松嶋其外両國江附属之嶋無御座候事
十二月廿五日
伯耆守江段々相尋候付、又々書付差出候覚
一 竹嶋之外松嶋与申嶋、因幡國伯耆国江附属之嶋ニ候哉之事
右、松嶋両國江附属ニ而ハ無御座候、竹嶋江渡海之筋ニ在之嶋ニ而御座候
一 竹嶋江因幡國伯耆國より道程何程有之候哉之事
因幡國より竹嶋江渡海ハ不仕候、伯耆國より船路百六拾里程有之候
一 竹嶋より朝鮮國江道程何程在之候哉之事
海上道程難知候、凡四十里余茂可在御座哉与、船頭共申候
十二月廿五日 松平伯耆守
先年松平新太郎方江伯耆國米子町人、竹嶋江
渡海御免奉書之写
従伯耆國米子、竹嶋江先年船相渡之由候、然者、如其、今度致渡海度之段、米子町人村川市兵衛、大屋甚吉申上付而、達上聞候處、不可在異儀之旨被仰出候而、被得主意、渡海之儀可被仰付候、恐々謹言
五月十六日 永井信濃守 在判
井上主計頭 同
土井大炊頭 同
酒井雅楽頭 同
松平新太郎殿
人ゝ御中
右御奉書被成下候、年暦ハ相知不申候由、伯耆守より申来候
竹嶋之儀ニ付柳沢出羽守被申聞候覚
一 宗刑部書付松平伯耆書付、昨日出羽守江渡候処、被達御耳候處、今度之書付之旨ニ候ヘ者、又、最前之旨共違候、異国江之事候間、年寄とも了簡可仕候
一 来二月刑部、御暇ニ候間、其前各相談可申事
一 出羽守了簡ニ、竹嶋之儀、對馬方江返翰迄ニ而、追而、
刑部方より土貢不申遣候而茂、苦間敷候哉、此段茂、了簡可申由被申候事
亥十二月廿六日
元禄九年丙子正月九日宗刑部大輔家老平田
直右衛門召寄、段々口上ニ申含、且又、書
付を以申渡之口上書
旧冬覚書を以被仰聞旨、各江委細申達候
一 竹嶋之儀、松平伯耆守江相尋候処、竹嶋之因幡
元禄九年丙子正月九日宗刑部大輔家老平田直右衛門、召寄段々口上ニ申含、且又、書付を以申渡之
口上書
旧冬覚書を以被仰聞旨、各江委細申達候
一 竹嶋之儀、松平伯耆守江相尋候処、竹嶋之因幡伯耆江附属与申ニ而茂無之、米子町人両人願出、松平新太郎、因幡伯耆領知之時ハ伺在之而、竹嶋江米子町人相越、猟いたし来由ニ候、然者、朝鮮国之嶋を日本江取候と申わけニも不相聞候、道程之儀承候得者、竹嶋より朝鮮江、凡四拾里余程、伯耆江者、百六拾里程在之由ニ候、朝鮮江者、各別程近候故、朝鮮國之堺欝陵嶋ニ而茂可在之哉与被存候、夫共ニ日本江取候慥成しるしも在之か、又日本人居住等仕ニ者、今更朝鮮江難遣事ニ候へ共、左様之儀茂、前々弥於無之者、此方より竹嶋之儀構無之わけニ仕、可然哉之事
一 對馬殿より朝鮮江欝陵嶋と書入候儀指除、返翰被越候様ニと被相達候処、返翰披見無之内對馬殿死去候、依之、件之書翰朝鮮国ニ差置之旨ニ候、然者、刑部殿より欝陵嶋之儀重而被申越、不及被指置苦ケ間敷哉之事
一 竹嶋、欝陵嶋之儀ニ付、兎角一通り刑部殿より書通被致度被存候哉事
右御了簡候而無遠慮可被仰聞候、以上
正月九日
右各申談、奥御右筆ニ書を候而遣之
一 同年正月十二日宗刑部大輔より平田直右衛門を以被申聞候、最前申達候趣ニ付、書付を以被申越候
口上書
竹嶋之儀、因幡伯耆ニ附属与申ニ而茂無之、伯耆より渡海仕漁採いたし候と申迄ニ而、朝鮮国江者、道程茂近、伯耆よりハ程遠候故、彼國之内ニ而茂可在之哉、其上、日本江取候慥成印茂無之、日本人居住も不仕候迄ハ、御構なきわけニも被成、苦ケ間敷哉之由御尤奉存候、左様被仰付候者、彼國ニも御誠信之別而忝可奉存候、乍然、先頃、同氏對馬守方より以書翰、委申渡置たる事ニ候故、申捨ニも難仕御座候、殊、此方之漁民渡海被差留候段、彼國江不申届候而者、如何鋪奉存候、されとも、書翰ニ而申渡候而者、急度ケ間敷罷成候間、私帰国之刻者、必、譯官差渡候条、其節、口上ニ而、申渡可然哉と奉存候、然者、譯官江申渡候口上書、別紙相認、懸御目候、存寄之段、御尋被成候故、任仰書付差上申候、以上
正月十二日
譯官江申渡候口上覚
先年同氏對馬守方より竹嶋之儀ニ付、以使者、申達候処、其節、取次之人、使者江被申聞候趣、帰国之刻、拙子江申聞候故、其趣、今度於江戸、御老中迄、御物語申上候得者、彼嶋儀、元因幡、伯耆江附属と申ニ而茂無之、日本江被取と申事ニ而茂無之、空嶋ニ候故、伯耆之者、罷渡漁採いたし候迄ニ候、然處、近年朝鮮人罷渡入交候故、以来、殃 [わざわい] を茂仕出し可申与之御事ニ付而、最前之通、對馬守方より申遣候得共、朝鮮江之道程茂近、伯耆よりハ程遠き由ニ候間、重而、此事より漁民渡海不仕候様に可被仰付との御事候間御誠信之段可被存候、已上
直右衛門口上ニ申候者、今少、宜致様可在之候へ共、異国江申遣事候故、存候侭ニ不承候、おもくれ (滞る) 候而は、思召共相違仕事、軽ク相済候様ニ思召候と推察仕候付、其趣受候而、存寄書付差存寄書付差上申候由、此方より相尋候者、此儀ニ付、朝鮮より書翰ニ而茂可承哉、直右衛門申候者、今度結構被仰付候間、御禮ニ書翰可承与奉存候、乍然、口上ニ而申渡候者、書翰不参事も可在之候、書翰差越、可然与、思召候者、此方より氣を付可申由申候
返答
書翰共被差越、令承知候、書翰之儀、何とそ承候様ニ与、存候由申遣ス
一 同年正月廿日宗刑部大輔江相尋候、先日譯官江被申越候口上案文之末ニ、朝鮮江程茂近、伯耆國より者、程遠候由ニ候間、重而、此方之漁民渡海不仕候様ニ可被仰付の御事候間、御誠信之段忝可被存候旨被相認候、あなたよりハ御誠信之段、志旨御禮可在之儀候、此方より忝可被存与被申越候段、跡々茂、此趣ニ被申越候哉、如何様之時分、左様被申越候哉、承度存候、終不被申越候者、如何ニ茂可在之候哉、其共ニ不苦訳ニ候哉、承度由申遣候
右之返答
覚 宗刑部大輔
譯官江申渡候口上書之内、御誠信之段忝可被存候と、認申候儀御為被遊候、口上ニ而ハ前々もケ様之儀譯官江者申聞候事ニ御座候、信使之刻結構ニ御馳走被仰付候段、朝鮮国ニ茂、忝可被存与申儀、度々挨拶仕候、書翰ニ茂本邦本國なとゝ申事欠字仕候儀多御座候上之儀なとハ謙退不仕、相認候例茂折々御座候、已上
一 同年正月廿三日松平伯耆守留守居、召寄相尋候処、段々書付を以、伯耆守より被申聞候
覚 松平伯耆守
一 伯耆国米子之町人大屋九右衛門、村川市兵衛船子共より外者、領国之者竹嶋江渡海仕候儀成不申候、尤、他領之者、渡海之儀、猶以、成不申候、大屋九右衛門、村川市兵衛儀者、先年より竹嶋渡海之儀御免被遊、罷越候付、外より参候儀者、決而無御座候、右之船子共竹嶋江猟ニ罷越候節、出雲國、隠岐國猟師共雇候而、米子之船子同船ニ而罷越候、人数者、年々相遣御座候、出雲国よりハ不参儀茂御座候、大形ハ出雲國より二三人隠岐国より八九人程茂雇候而罷越候由御座候
一 松嶋ハ何連之国江付候嶋ニ而茂、無御座候由承候
一 松嶋江猟ニ参候儀、竹嶋江渡海之節道筋にて御座候故、立寄猟仕候、他領より猟ニ参候儀ハ不承候、尤、出雲国、隠岐国之者ハ、米子之者共と同船ニ而参候
一 伯耆国米子より出雲国雲津迄、道程拾里程
一 出雲国雲津より隠岐国焼火山迄、道程弐拾三里程
一 隠岐国焼火山より同国福浦迄七里程
一 福浦より松嶋江八拾里程
一 松嶋より竹嶋江四拾里程
一 松嶋江伯耆国より海路百弐拾里程
一 松嶋より朝鮮国江者、八九拾里程茂御座候様承及候、已上
正月廿三日
↑島根県竹島問題研究会「竹島問題に関する調査研究」第一期 最終報告書(2007 年 3 月)資料編(1)磯竹島事略・竹嶋紀事 [内田文恵]
礒竹島事略 坤