Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

櫻田武・鹿内信孝『いま明かす戦後秘史』上より 堅牢敬遠? “突撃一番”罹病率高し 1973. 11. 30

堅牢敬遠? “突撃一番”罹病率高し

櫻田 経理監督感としては、いろんな苦労があったんでしょう。

鹿内 そうなんです。会社へ行きますと、直接原価の査定はできますけど、僕がいちばん苦労したのは、間接部門の総がかり費をどういうふうな配分で、どういう比率で原価に算入していくかということです。その算定方法で全く変わってしまいますから……。

櫻田 そう、そう。間接費の割合だな。

鹿内 ええ。例えば、倉庫だとか、あるいは埠頭のトランスポーテーション(輸送機関)の施設の経費をどう見るかと言うこと。でも、日立とか王子とか、当時の大きな会社を相手に、大変大きな数字を見ながら、もねを見る修練ができたわけね。当時、ぼくが扱った会社をあとで数えてみたら三百六十社もありました。

櫻田 それは大変なことだ。

鹿内 でも、それだけのバランスシートとか、何かを全部見たわけですから……。

櫻田 いい勉強になったでしょう。

鹿内 これは今日、ぼくがいろんな経営を預かる上で大変な財産になっていると思います。

櫻田 そりゃそうでしょう。

鹿内 こんなことは、どんなに金をかけても勉強できるこっちゃない。

櫻田 そうなんだ。よほど年期を入れないと、直接費と間接費の比率なんて、そんなにポンとは……。

鹿内 ええ、出てきません。

櫻田 出るもんか(笑)。

鹿内 そういうことで、私としては此の時代に一生のなかでかけがえのない勉強をさせられたと思いますけどね。

櫻田 それは、そうでしたね。

鹿内 しかし、雑品屋ですから、そのなかには面白いこともありましてね。まさかだれも知らないとは思うんですけど、兵隊が女を買いに行くときの衛生サックね、これが需品本部の担当なんです(笑)。

櫻田 ほほう。

鹿内 そうしたら、ある日、支那派遣軍のいちばん偉い人の名前、確か畑俊六さんだったと思うけど、その人の名前で要注意の報告書が送られてきた。要するに「何月何日送付に関わる衛生用具については罹病率が非常に高い」ということなんです。

櫻田 そうですか。

鹿内 そこで、ぼくは担当の課長さんに呼びだされて「おまえ、これは非常に粗悪品らしいぞ。現地調査をして、ちゃんとしたものを送らなくちゃいかん」と注意された。そこで「それじゃ、その工場を見に行こう」と出かけて行った。ぼくは、いつまでも忘れません。東京・葛飾に国際護謨[ゴム]工業という工場がありまして、そこへ軍刀をさげて、下士官を引き連れて行ったわけだ(笑)。

 工場には、製造器具が二列に並んでいまして、ガラス棒がいっぱいついた器具がゴム液の中へスローモーションのように、ゆっくり上下している。上がってくると、澱粉粉でまぶした手で一本ずつ、こう(手をすり合わせ、たぐり寄せるようにして)取り外していくわけです。それを、こっちは厳粛な顔をして見守っている(笑)。その作業員は、大体が玉の井柳橋の花柳街の女、これに混じって女学校の生徒です。男はいない。とにかく粗悪品だというわけですから、下士官が抜き取り調査をやるわけです。

櫻田 ほう。

鹿内 検査は、どうやるのかと思っていたら、サックに水を入れるわけです。ぼくは初めてわかったんだけど、櫻田さんは一本にどれくらい水が入ると思いますか。

櫻田 そりゃ、ふくれるからね(笑)。

鹿内 一升五合入る。これには驚いた。

櫻田 そんなにか(笑)。

鹿内 ええ。持ち上げたらやぶれちゃうから駄目ですよ。だから、のたうたしておいて水を入れると一升五合入る。そうすると、粗悪品だとピンホールがあるから、水が吹きだす(笑)。

櫻田 なるほど。

鹿内 そのゴムの原液は、みんな南方からの略奪品なんです。

櫻田 当時だとそうでしょうね。

鹿内 飛行機で持ってくるわけです。製品は、小さい紙の袋に一個ずつ入れてある。緑色の袋でしたね。それで、これに名前をつけようかと、みんなで協議したら、青森の師団の出身者で澤田中尉っていうのがいまして、これが“突撃一番”とつけた(笑)。

櫻田 そうか、突撃一番か(笑)。

鹿内 まあ、そこで検査してみて、ぼくは粗悪品が出るのは少し薄すぎるんじゃないかと思った。そこで、ぼくは決断して「ゴム液から一回で抜き取るのはやめろ。二回ぐらいくぐらせろ」と、そういってやったわけです。そうしたら堅牢そのものになっちゃた(笑)

櫻田 感じが悪いわな、それじゃ(笑)。

鹿内 とにかく、それからは新しく作り直させたものを戦地へ送ってやった。そうしたら、そのうちにまた要注意の報告書がきた。「何月何日送付にかかる突撃一番は、罹病率ますます高し」と……。

櫻田 ははあ

鹿内 これはおかしい。あんなに堅牢なのを送ったのに、なぜだろうと思っていたら、あとで聞くとだれも使わないというんだ。あんまり厚くできちゃったからなんですよ(笑)。いやもう、需品本部ではいろんなことがありましたよ。この間も、昔の経理学校の仲間でつくっている若松台クラブで、こんな話をして大笑いになりましたけどね。

国際護謨工業>『週刊文春』(56年 5月21号〜 7月 2日号)のドキュメント「ニッポンの性」で、ジャーナリストの佐野真一氏が“コンドーム天国日本”の実態をユニークにレポートしている。それによると、国際護謨工業はいまの「岡本理研ゴム」の前身。創業後二年足らずの昭和十年八月、借工場から脱出して東京·葛飾区平井に五千円の資金で三百坪の土地を買い自社工場を完成。国際文具から資本を入れ、岡本ゴムから国際護謨工業に社名を変更した。昭和十六年一月に建築資材をはじめ雑貨類を調達する陸軍の需品本部が発足。コンドームなど、兵隊が使う日用品はすべてここで調達配布された。国際護謨工業は翌十七年に工場を大拡張し、軍の監督工場から管理工場に昇格して“軍需工場”の性格を見せはじめる。当時、国際護謨工業が需品本部に納めていたコンドームの数量は、月平均百万個だった。検査も厳重で週一回、需品本部から管理官がやって来て帳簿を調べ、ピンホール検査をした。百個のうち

二個ピンホールが発見されると不良品扱いだったという。

↑櫻田武・鹿内信孝『いま明かす戦後秘史』上、1973年、サンケイ出版、pp. 67~70