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【校正中】岡村寧次『陣中感想録』原文 1954.6

岡村寧次大将回想録

靖國偕行文庫 受入番号:80277 図書記号 請求記号:390,281オ、オ


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[表紙]

一切転載並公表を禁ず

(特別資料)

戦史資料其の三

    岡村寧次大将回想録

            昭和二十九年六月

            厚生省引揚援護局


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[内表紙]

一切転載並公表を禁ず

(特別資料)

戦史資料其の三

    岡村寧次大将陣中感想録

            昭和二十九年六月
            厚生省引揚援護局

【偕行社蔵書印】
        寄  平成10年9月28日

        贈  原 四郎 氏


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[編集者(原四郎?)による註記]

「註」 一、本書は昭和十三年より大東亜戦争終戦に亘り中国戦線に於て㐧十一軍司令官、北支那方面軍司令官、㐧六方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任せられた岡村寧次大将の陣中感想録[手書き挿入:を終戦後戦地に於て抜粹摘記せられたもの]であって、誤植なきを保し難いが綴込及び原文その儘の寫である。

本書中日附の下方の英字符号の意味に就ての同大将の区分は次の通りである。

A  戦場に於ける軍紀風紀

B  統帥(焼却せられあり)

  [切り貼り。下:註、欠如]

C  統御

D  死生観

E  個人所見、他人評

F  日華関係

G  共產党関係

二、岡村大将軍歴の槪要は次の通りである。

明治三七、十一 任陸軍歩兵少尉

同         補歩兵㐧一連隊補充隊附

明治三八、 四 補歩兵㐧四十九連隊附、日露戦役出征

明治四三、一二 陸軍大学校入校

大正 二、 八 補歩兵㐧一連隊中隊長

大正 四、 二 補参謀本部部員

大正 八、 七 補兵器本廠附

大正一一、 二 補歩兵㐧十四連隊大隊長

大正一二、 三 補参謀本部部員

昭和 二、 七 補歩兵㐧六連隊長

昭和 三、 八 補参謀本部課長

昭和 四、 八 補陸軍省補任課長

昭和 七、 二 補上海派遣軍参謀副長

昭和 七、 四 任陸軍少将

昭和 七、 八 補関東軍参謀副長

昭和一〇、 三 補参謀本部㐧二部長

昭和一一、 三 任陸軍中将

同         補㐧二師団長

昭和一三、 六 補㐧十一軍司令官

昭和一五、 三 補 軍事参議官

昭和一六、 四 任陸軍大将

昭和一六、 七 補北支那方面軍司令官

昭和一九、 八 補㐧六方面軍司令官

昭和一九、一一 補支那派遣軍総司令官


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【p.1→】
   昭和一三、七、一三(上海)A

 中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは従来派遣軍㐧一線は給養困難を名として俘虜の多くは之を殺するの惡弊あり、南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪强姦多数ありしことは事実なるか如し、最近湖口附近に於て捕獲せる中国将校は我等は日軍に捕へらるれは殺され、後方に退却すれは督戦者に殺さるるに由り唯頑强に抵抗するあるのみと言へりと云ふ

上海には相当多数の俘虜ありて苦役に就かしめあり、待遇必すしも適良と云ひ難し

 予は討蔣愛民(註)の標語を設けまつろはぬものは誅せるも無辜の良民には仁慈を以てするの方針を立てたるも右の如き惡習に染まりたる部下将兵の統率には今后困難すへしと思ふ、断固方針を遂行せんのみ

【p.2→】

〔註〕

中国軍の骨幹は蔣介石直系軍にして他の地方軍は戦力著しく劣る故に此蔣直系軍を討滅するを主眼とせさるへからす次ての主眼は愛民に在りとの予の定めたる標語なり

 

   昭和一三、七、一八(潛山)A

 㐧六師団長稲葉中将は公正眞率の士なり、自己師団の精神的缺陥を反省指摘して曰く「戦闘㐧一の主義に徹底し勇剛絕倫なるも掠奪强姦等の武德損傷を軽視す、団結心强きも排他心强く配属部隊に対し自己部隊と同様に遇するか如き推量に乏し云〻」と

 

   昭和一三、八、六(九江)A

 外国権益尊重は我政府の屢〻声明し軍に於ても之を下達し来りし所なるか、末[ママ]た将兵に徹底せず、九江に於ても平然として英人所有家屋に宿營せるものあり、米人所有家屋に就宿せんとする聯隊あり憲兵の【p.3→】制止により中止せり、本日英米艦長等か我承認の下に九江に上陸実視の結果、彼等の公私権益か大体維持せられあるを満足したる由なるか、憲兵の監視なかりせば其結果或は沒常識のものありしならん

 八、三記述の対外観念缺乏の一証なり

 

   昭和一三、八、三(九江)A

 本日までに予の観たる日本軍将兵の精神的缺陥概ね左の如し

(A) 掠奪、强姦等神武精神に反する者尚ほ後を絶たず

(B) 事変の性質を弁へず、俘虜、良民に対しても敵意を有し之を愛するの念に乏しき下士官兵少しとせず、予の方針たる愛民の実は挙らず

(C) 官物尊重心薄く、兵器、資材の缺損放棄多く携帯天幕は半年位にて破損、使用不可能となり防毒面は枕代用とするため久しからずしてその機能を失ふ

(D) 露營を厭い家屋に入るを欲す

【p.4→】

 (A) (B) は我国民か依然島国根性にして国際観念、対外思想に貧弱にして大陸発展の基礎性格の未完成を示すものなり、満州支那等に於ける不良邦人の徒なる優越感も之を証す又 (C) は国民性の従来よりの通弊たる公共道德の低劣なることを示すもの(二〇、十一、二一追記、島国に閉ぢ込められたる日本人は今后益〻島国根性となるべし)

 

   昭和一三、八、一八(九江)A

 本日吉本参謀長か対岸巡視の結果に依れば小池口附近に於ける台湾混成旅団(波田支隊)原田大隊は風紀紊乱し掠奪强姦少からず甚しきに至りては附近村長を集めたるとき其被服を奪ひ之を着用して强姦せし者あり又飛行場建設工事に従事中なる村長の妻娘を輪姦せしため村長憤りて飛行場建設工事に一頓挫を来せることさへあり、飛行場工事苦力賃のあたまをはねしものもあり九江に在る兵にして窃かに渡江して対岸に到り暴状を働くものもあり予の方針たる討蔣愛民の標語は到る処に揭けられあるも其実は挙らず

【p.5→】

是に於て予は参謀長と協議し九江にある憲兵全部を対岸に派遣し犯人を悉く逮捕して軍法会議に附せしめ且九江特務機関の主力をも渡江して宣撫工事の立て直しをなさしめたり

 

   昭和一三、八、二三 A

 五十嵐憲兵隊長来訪して曰く小池口に於ける上等兵以下三名の輪姦事件を取調へたる所、娘は大なる抵抗もせず、また告訴も為さざるに依り申告罪[ママ]たる强姦罪は成立せさるを以て不起訴となすへき意見を述ふ、軍法務部長も同一意見なり

予は之に対し言を励して曰く「强姦罪か申告罪なるか如きことは予も亦た之を知る、然れとも是れ平時内地に於ける場合を豫想せるものにして戦場に於ては深く省慮せさるへからず、抑も吾等軍人は神武精神に徹するを要す、神武精神は戦場に於ける軍人行為の根本たるへきものにして断して法律の上に在り、また被害者は后難を恐るるか故に銃劍の前に心ならずも申告を敢てせさるなり、憲兵は須らく被害者の心【p.6→】情を洞察して申告せしむべし、而して犯人は厳重に処分すべし」と吉本参謀長も全く同一意見なり、南京攻略以来如何に我か皇軍が愛民の德を失ひつゝあるかを知り得へく痛憤に堪へさるなり、名は聖戦と云ふも神武精神を失ひたる聖戦何処にかある、憲兵、法務官に至るまで大局的の神武精神を失しあり

追記 十五年二月予は内地に帰還し阿南陸軍次官に対し强姦罪の親告罪たるを改め戦地强姦罪(申告に関係なき)を設くへき意見を述へたるに正義の士たる阿南次官は直に同意し改正に着手すべきを約したり、その後予の北支在任時代陸軍刑法改正を見、戦地强姦罪制定せられたり、此間実に二年を要したるは驚くへき不熱心と謂ふべし

 本日予の宿舎に隣接せる丘阜に㐧九師団の部隊来り露營せるを見るに先般同し場所に宿營せる波田支隊と比較し北陸兵と南九州兵とかくも違ふものかと驚く即ち後者は戦闘には頗る勇敢なるも駐留間に於ける軍風紀不良、掠奪强姦少からす、背囊は遠く鎮江に残置したる儘、【p.7→】携帯天幕を背負袋に代用せるため破損して雨露を凌くの用を為さず、防蚊帽は大部分破損若くは放棄し去りたれは宿營は民家に入るを要し否らされば露天なり

然るに前者は出征日数は后者より大なるも軍風紀平時と大差なきまでに厳肅にして修繕の跡正しき天幕を張りて露營し營中静肅整然たること又出発の行軍も整々たること等到底前者の比に非す、指揮官の措置に由ること勿論なるも南九州と北陸との民情の差大なるを思ふ

戦場心理としては明日をも知れぬ命なれば軍風紀の厳肅を缺き幹部もまた統率厳格ならず、戦闘㐧一主義となり犯罪を犯したる者も戦功ありたりとて之を看過する惡習を生し易き一般状態なるが此間依然として森厳なる軍風紀を維持しある軍隊は寔に貴しといふべし

 

   昭和一三、八、三〇 A

 6Dは剛勇敵陣中にも轟き其将兵の態度は厳然として敬礼も正しく我国最精鋭の一つなるには相違なきも强姦罪の多きには困つたものなり

【p.8→】

稲葉師団長、牛島旅団長等も之か取締に苦心しあり兵の行衛不明の多くは我幹部の眼をのがれて附近の村へ女あさりに往きたるもの多しとのこと、また先つ放火して人を騒かせ而して婦女子を求むるなど惡辣の犯罪すらありとのことなり

同師団は三十余名の所謂慰安婦を跟随せしめあり、慰安婦の跟随などは日露戦役時代には無かりしものなり、㐧一囘上海事変の際予は軍参謀副長たりしか海軍の例に做[ママ]ひ慰安婦を設け(恐らく陣中公然之を設けたる最初ならん)、爾後强姦罪皆無となりて喜びたることありしが、今の軍隊は慰安婦を同伴して尚且つ强姦罪少からすいふ有様なり、慰安婦は㐧六師団に限りたることにはあらず、他の兵団も多くは之を用いあり

本事変勃発后間もなく満州にて聞きたる所に依れば、北支の中国古老は団匪事件に於て歐米各国軍隊の掠奪强姦暴行の限りを尽したるに反し独り我日本軍か軍紀森厳、風紀肅然として秋毫も犯すところなきを感嘆敬服せしことありしに今次事変勃発后の日本軍将兵の行動は別人【p.9→】の感ありと嗟嘆する者ありとのことなり

 

   昭和一三、九、二二 A

 憲兵報告に蚌埠に於ける中国婦人(四十才)との問答の一節あり

曰く中国兵は掠奪するも强姦せず、日本兵は掠奪せさるも强姦す可否何れにかあらん頼みとするは唯天主敎会の神父あるのみと、日華両国民提携の前途は遼遠なり宣撫工作を壊るものは日本の不良兵なり

 

   昭和一三、九、二六 A

 憲兵綜合報告に依れは刑罰の種目中最も多きは上官暴行と强姦なり而して犯人の年齢別を見るに三十三才の者最多数なり、此年輩の者は勿論旣敎育兵なれは其現役時代の軍隊敎育不適当なりとの譏を免れさるへきも、その軍を離れて旣に年久しきことにより推せは社会の罪も亦た免れさるへし、蓋し社会より召集せられて直に戦場に来たりしものな【p.10→】れば軍の罪としてよりも国民の罪としてより反省するの要あり

又甚しきに至つては惨虐行為の冩眞を家郷に送付せるもの頻〻之あるが如きは眞に狂氣の沙汰、神武の冒瀆と云ふの外無し最近来陣せる中村軍務局長の言ふ所に依れは内地郵便局にて郵便法違反として沒收せる此種寫眞は旣に数百枚に達しありと云ふ、人の知らぬ事を得意になつて言ひたかる一種の好奇心はまた国民性の一つなり、批判好き噂好きの性向も之に同じ

誤れる自由主義の浸染、国民敎育、社会敎育の根本的改善を要すへし

 

   昭和一三、九、二八 A

 戦地に於ける郵便行囊の未囘收総数四十万箇に及ひ野戦郵便の配達に困難し且新製にも至難なる旨通牒あり、郵便は陣中最大の慰藉なりと称されなから戦地各部隊の不仕末斯の如し

公共心乏しき国民性の暴露茲にも現はる

【p.11→】

   昭和一三、一〇、二 A

 将兵の言動を観察綜合し日露戦、北淸事変当時に比し精神的に低下したりと思はるる点概ね左の如し

而して将兵の全部に近き大多数は非現役にして召集后直に出征したる者なれは此事は軍隊の罪と云はんよりは寧ろ国民の罪なりと断ぜさるを得す、事実に於て刑懲罰の大部は召集者なり

(イ) 上官に対する服従心衰へたり

   (犯罪統計、言語態度、敬礼等)

(ロ) 性道德の低劣

   (强姦、慰安婦随伴)

(ハ) 公共心缺之[ママ]は元来の缺点なるが益〻甚し
   (貴重なる兵器を一寸の破損で遺棄し之を修理補修機関へ送付せさるもの多し、他隊の馬を盗むこと流行、前送恤兵品等の途中紛失多し)

(二) 幹部にして横領、收賄等の罪を犯すもの少からず

【p.12→】

(ホ) 処置面倒なりとて俘虜を殺すの悪風あり

右の原因にも色〻あるべきも個人主義自由主義の思想が悪用せられて国民道義が低下しそれが戦場にも反映したることが最大原因なりと思ふ

明治維新以来数十年にして一等国の斑に列し得たるは歐米文化の輸入も確かに其一原因には相違なきも餘りに急きたる進展に伴ひ輸入思想の弊害其我国情に適合せさる部分をも咀嚼に暇なくして之を鵜呑みにし我伝統精神の如きは棚の上に放置したるの感なきに非ず、上世我祖先が輸入文化を克く咀嚼し我伝統精神と融合せしめたるに比し大に劣れるものありと思ふ

政治道德、選挙道義を篤と呑み込ませずして選挙形式を作り普通選挙を急きたる為選挙を賣品化せし嫌なきや

性道德を重視せずして徒に戀愛の自由を賛美せさりしや、対国家道德、対家庭道德に於ては日本人は世界に冠絕するも社会道德、社会訓練に於ては大に劣れり社会的統制あり社会的秩序あり、社会的組織ある所にデモクラシーを叫ふは可ならんも是れ無くして徒らに形式的に【p.13→】デモクラシーを强調せし学者識者果して無かりしや(二〇、一一、二四再記、本項は終戦后今の内地の状況に対しても同一の感を懐かざるを得ず)

我伝統精神を唱道する者と雖も単に島国日本の優秀性を强調するのみにして日本並日本国民の缺陥を反省し八紘一宇の大眼目の下に他民族愛慈を重視して子弟を敎訓せしや否や

伝統精神、慣習、家族制度、米食、人口過剰等の我特異性を顧みること無く、一向に輸入学問に基きて政治、経済、文化を世界的に塗りつぶす傾向なかりしや

然れとも戦場にて視れば君国に対し家庭に対し郷土に対し戦友に対する道義に至りては幸に往時に比して決して低下しあらさるを認む故に躍進日本は此等輸入思想と伝統精神とを再檢討し国民敎育を改善し社会敎育を確立し国民の自肅自戒と国民道義の一大刷新とを必要なりとす

【p.14→】

   昭和一三、一〇、一〇(㐧十一軍司令部)A

 星子の兵站司令官友淸大佐の言に依れは同地附近の村長連名にて殺戮、强姦、放火、牛掠奪の四件禁止を要請し此等条件容れらるれは他の要求には凡て応すへき旨嘆願書を提出せりといふ誠に憐むへし

同方面へ憲兵を急派取調しめたる所に依れは旣に强姦約二十件ありて犯人未檢挙、偶〻强姦現行直后の者を捕へたるに其所属隊長は該犯人が歴戦者なるを理由として寛大の処置、釈放を請ひたりといふ、統率厳正ならさる幹部少からず、後方部隊、老兵部隊は殊に然り

(二〇、一一、二四追記) 当時は斯くも甚しく强姦、掠奪等行はれたり畢竟南京攻略后暴行事件の余波なり、而して予か極めて厳格に取締りたるため翌年頃よりは漸減せり、又二、三年後は南北を通し全軍此点に就ては面目を一新し事件は稀に発生せしのみ、是れか重大の原因は軍紀刷新の効果と云はんよりも寧ろ下士官兵の素質か老兵は皆無となり現役兵並若年の補充兵に改善されたるに存す、即ち前者は前に述へたる如く個人主義旺盛の時代に成【p.15→】人したるものなるに反し後者は満州事変勃発以来潛在せる神武精神か国内を風靡せる時代に成人したるものなるを以てなり

然るに物には利害は附き物にして一方に於ては満州事変を契機として軍国主義は盛んとなり民主平和の思想が低下したることは事実なり、終戦后の現在聯合軍の必要を越えたる統制指導に依り内地にてはまたも再転して軍国主義の絕滅、民主主義の彌漫を見るに至れり共產党の横行さへも公然行はれあり此風潮は一面当然のこととも思はるるか前記戦場に反映せる国民道義の変遷──日淸、日露、北淸戦時代最良、支那事変勃発時代最不良、その二、三年后稍良──に就きて深省し国民思想の急激なる変転に伴ふ余弊を発生せさらんことに政府も国民も大に留意するの要あるべし

 

   昭和一三、一一、四 A

 今日までの綜合観察に依れば三十五、六才以上の老兵は戦意必しも强からず二十七、八才以下の現役兵、補充兵は勇敢なり之か原因とし【p.16→】て予の見る所左の如し

前者は

成人時代にデモクラシー、自由主義、民主主義の流潮に浴し朝野を挙けて国際主義に堕し大陸発展など意に介せさりし時代に人と成り旣に妻子を養ひ専ら其家庭に引かれ易し

後者は

国体明徴運動以来満州事変に伴ひ日本精神に蘇み返り来れる時代に人と成り未た無妻なるか又は一、二人の児子あるも意氣旺盛なり

又非違行為の大部分が三十四、五才の者なることも右と併せ考ふへきことなり

 一両日前武昌にて某兵站自動車中隊の兵某等は閉鎖しある外国人家屋に墻を越えて浸入し家具を掠取せる事件あり同中隊長を取調へたる所によれば入城前夜屢〻訓示を与へたる由なるも尚ほ監督不十分の罪を免るること能はす

【p.17→】

国民の対外観念に乏しきこと旣述の通なるが此処にも一例を示せり

 

   昭和一三、一一、一九 A

 諸情報を綜合するに我軍将兵にして敵に捕へられ其捕虜收容所に週容せられある者相当多数に上ること確実なり多くは負傷者なるも健全者も亦少からさるが如し

俘虜の多きことも昔の戦役時代に比し異る所なるが更に思想上昔時と異ることは捕へらるるも我軍の内情等一切言明せさりしものが現時俘虜となれる者は我軍の編成、位置、指揮官等を平然と述へて法律上の所謂利敵行為を敢てする者少とせさること是なり歐米思想の浸潤を茲にも見る

 俘虜を濫りに殺す惡傾向は予の累次に亘る厳飭と云はんよりも部隊自身が弱兵の背囊や荷物を運搬せしむるの必要上大機動后の今日は俘虜を同伴する傾向に転し来れり、形而上的に覚醒せしに非すして形而下的の必要より生したるなり

【p.18→】
   昭和一三、一一、二〇 A

 漢口占領当時支那人及外国人は南京攻略時の我軍大暴虐より推察して我軍の暴行を豫期せしが案外に軍紀厳肅なりしかは民心大に安定せり然るに入城后二、三日にして㐧六師団其の他に强姦事件二、三発生し謠言次で起り 市中不安を招きたるは遺憾とする所なり

予は武漢入城に際しては極力兵力を減少し漢口に入れたるは㐧六師団の二大隊のみ又㐧六師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも一年以来の惡習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず、燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり

被害者の多くは外人宣敎師の許に遁れて再難を防きたる為是等外人より我憲兵に告訴し来り事件は世界的に喧伝せられるへし予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み改めて是等非行厳戒の旨を訓示せり

 

   昭和一三、一二、廿九日 A

 戦場に於ける公共心の缺乏、自分さへ良ければ他隊の迷惑など構は【p.19→】ぬといふ利己的風習の横行少からさるは旣に述へたるが尚ほ最近に於ける之が実例を挙くれは左の如し

(イ) 馬盗多し、馬数缺乏すれば暗夜に乗して他隊の馬を掠めるは尋常茶飯事となれり、㐧二軍司令部に在りては軍司令官宮殿下の御乗馬正副二頭もまた盗まれ厳に捜索中なるも未発見、軍紀全軍中最も厳然たる㐧九師団さへ其馬廻嶺附近より他に転戦するに際しては㐧百六師団の馬数頭を持ち去れり、甚しきに至りては兵力を以て馬監視兵を脅威して他隊の馬を强奪せるものあり

(ロ) 小包、補給糧食品等の拔き取り多し

(ハ) 通信隊は電柱に一本毎に「日本軍用」と札を揭けて以て他隊の盗用を防きあるは其例少からさればなり

(ニ) 警備体制に入りて以来各部隊は宣撫愛民の必要上自己分担区域内に於ては必要以上樹木拔採を慎しみあるも一たひ機動に依りて他隊の区域に入る場合には遠慮なく樹木を拔採し両部隊間に葛藤を生する例多し

【p.20→】

要するに戦友愛は狭義的には美事なるも広義的戦友愛には乏し、我国民性の反映なり

 

   昭和一四、三、一

 米国のラッド博士は日露戦争后来朝し華族会館に於て演説したる際日本国民か戦時に於て発揮したる特質として嘆賞すへき左の四点ありと指摘せり

1 勇氣殊に銃後の勇氣

2 戦争に対する細心の準備

3 国民全般の節制

4 敵に対する寛容の精神

右観察は当時に於ては概ね的中しあり、然るに今日は如何即ち

1 は概ね変化なきも多少の低下を認めさるを得す

2 は準備不十分

3 節制は如何かと思はる

4 此精神は大に低下せり

【p.21→】
   昭和一四、五、二〇(漢口㐧十一軍司令部)A、E

 五月十七日国民学校団体戦場訪問に来り請はるるまゝに「戦場にて観たる国民精神」として左の要旨を語る

内地にては我将兵が戦死に臨み従容として天皇陛下萬歳、日本帝国萬歳を三唱すと一般に云はるるが事実に於ては日本帝国萬歳など叫ふものは無く唯天皇陛下萬歳のみなり、平時に於ては天皇陛下萬歳も日本帝国萬歳も同しことなるが戦死の場合には必す天皇陛下萬歳のみなることを深く認識せさるへからす我将兵はいよいよ総攻撃に向ふと云ふ前日には郷土の父兄、校長さん等に最后の手紙を認め戦前の一とき試みに今何を考へありやと問はゞ郷里のことを考えありと殆んと全部は答ふ而して激戦の渦中に投すれは最早郷土もなく家もなく兵は唯上官を仰き上官は唯兵を視、夢中になつて戦ひ敢て他事を思はす而して敵弾に中りて愈〻戦死に臨むや自己に最近きもの【p.22→】の代表たる天皇陛下の萬歳を唱へ満足して死に赴くなり

右は日本人の血液に潛在せる伝統思想にして科学的理論を以ては説明し得す、国体明徴の如き理論を戦はすよりも此厳然たる一事実を再認識すれは足るなり
戦闘に於て我将兵が勇敢にして死を見る[ママ]帰するが如き精神を堅持しあることは以前の戦役時代と毫も異らず此点はあまり敎育指導せずとも心配なしと思はるる程なり

然れとも戦場に反映する国民道義に至りては遺憾ながら以前の戦役時代に比し著しく低下し来りたることを認めさるを得す掠奪强姦の犯罪は昔は殆と無かりしが今は頻〻たり、まつろはぬ者は誅しまつろう者は慈しむといふ神武以来の大精神は影を沒せんとす口には聖戦といひ八紘一宇といふも事実は神兵たるの実毫も上らず、敵は反抗する敵軍隊にして住民は我友とすへく否我友とすへきための戦なりと言はるるも此住民を虐くる行為に出つる者比〻たり

依然たる島国根性なり大陸日本たるの精神的用意なくしてまた之が【p.23→】準備敎育なくして大陸に出動し来りし将兵であり居留民であるのである

昔から云はるる公共道德の缺乏は今も尚ほ国民性の缺陥なり否な却て其程度を增加しあり以上の悪傾向は軍隊内の事なりと雖も兵の大部分は郷土より直に出征せる召集者なれば右の如きは軍隊の罪と云はんよりも国民の罪なることに注意され度し

以上の如きは抑〻如何なる原因に出つるや軽〻に判断すへからすとするも国民思想、国民敎育にたつさわる人士の大に考慮すへき問題なりと信す又我国民の美点を助長する敎導よりも寧ろ其欠点を矯正し且大陸雄飛準備の敎導が更に必要にならすやと考ふ(后略)

 

   昭和一四、五、六[ママ]

 前項に述へたると同様小学校長団(前囘は東部、今次は西部)来訪せしに由り略ほ前囘と同し説話を試みたるが唯前項美点の部分は少しく補正する所ありたり即ち左の如し

【p.24→】

(イ) 忠死の件前に同じ

(ロ) 協戮一体 将と兵と一心同体互助の精神强く現はることは平時と遙に差異あり其一例を挙くれは漢口北方長軒嶺といふ部落に在りし某部隊は郷土慰問演芸の到着を楽しみありしがこの当日の数日前附近に敵の来攻あり之か撃退に出動し戦死者四名の遺屍を携へて当日帰還し来りしところへ慰問団到着す、部隊長は右の事情を述へて一旦は慰問演芸を謝絶したるが暫して戦死者に対し生ける者に対するやうに謂つて曰く「お前達も此慰問団を待焦れていたのだから矢張行つて貰う」と即ち豫て準備せる粗末なる急造舞台にて慰問演芸を催う[ママ]したり 「永らく演芸に従事しあるも死骸の前にて之を演したるは始めてなり」と慰問団の人〻より後日涙ながらの述懐を聴きたり

【p.25→】

(ハ) 誠意に徹したる虚言は多し

出征将兵は軽傷、病院等は家郷に報せずして健全服務中なる旨を報す、家郷はまた近親の不幸等は出征者に報せず、互に虚の吐き合ひなり、尊き虚なる哉 顔容変調あり受診を勸むるも病なしと虚りて作戦目的地到達地[ママ]までは頑張る者少しとせず

右校長団にして帰国後予に礼状を寄せ感謝し来りし者僅に一名のみ

   昭和一四、六、一二

 前北平駐在AP特派員ハンソンがネーシヨン紙上に投稿せる記事の一節に

支那人が遊撃隊として戦ひ居るは国家を救ふ為に非すして彼等の村を自衛するためなり自分は昨一九三八年の末に四ケ月間北支ゲリ【p.26→】ラ隊と共に過こし何百人といふ者に何故戦ふかを訊ねたるに其答は同じタイプのもので例へば

 自分の穀倉か掠奪された

 自分の村ては女か强姦された

 牛か日本兵に掠奪された

といふが如きものなりき

若し日本軍か当初より人民の生命財產に付慎重なる注意を払つたならば戦争の全過程は変つたものとなつて居たであろう』

とあり、右の結論は全然予と同一意見なり若し我軍にして民心把握を大作戦の計画実行と同様否なそれ以上に重視して励行し来らんには事変は旣に解決の緒に就きありしやも知れすと思ふ

 予は討蔣愛民を標榜し聖戦本義に徹すへく部下を戒飭し来れるも未た狂瀾を旣倒に囘すこと能はさるを深く恥つるものなり

【p.27→】

    昭和一四、六、一六

 数日前来訪せし鹿児島県国民学校長連五名に対し前述小学校長団に対して述へたると同様のこと殊に中堅壮年者の道義の低下を申せしところ彼等は共鳴して曰く国民学校敎員に在りても大正七、八年頃風靡せしデモクラシー思想の青年て師範学校を卒業せし年輩の者共が現下敎員として最も不適当なる思想を持しありと

陸軍士官学校に於ても当時一般世態の影響にや一時軟敎育を行ひて失敗したることあり

要するに右の件は日本全般の国民思想上の問題なり

 

    昭和一四、六、三〇 A

 戦場に於ては明日をも知れぬ生命観の下に人間性の実態を暴露し従て我国民思想の反映を観察するに便なり

以前の戦役時代と現時代と戦場に於ける将兵の思想、道義に如何なる差異ありやは旣に屢〻述へたる所なるが更に要点を綜合比較すれば左の【p.28→】如し

(イ) 旧に比し優れる点

文化の水準高くなりしに由り勇敢性の外独断性の発達を見る、即ち作戦に際し機宜の動作を敢行し、戦機を看破して独断敵の一角に突入して功を奏し、地物を利用し潛行して我突撃を妨くる敵の側防機関を奪取する等下士官兵の活躍見るへきものあり此等は昔の下士官兵には極めて稀なるところなりき、統制下の自由主義の貴むへき一場面とも見るへし

(ロ) 昔時に比し劣れる点

旣述の諸点(略)

而して「不怖死」の忠誠心に到りては昔時に比し今の兵隊の方が少しく劣る感あるも大体此点は民族性の美点として変化なしと断定し得へし

然らば一体昔の兵と今の兵と何れが優れりやといふ問題に移ることとなるが具に戦陣の実相を究明して結論すれば今の兵は服従心、持久力、【p.29→】戦場内務に於て劣るも個人戦力は優秀なるを以て兵の强さに於ては大体大差なきものと思ふ、されとも勇敢性、剛毅性等の「狭義的强さ」に於ては今の兵は昔の兵に稍劣るものありと認めらる、此事は地方的性格上より見るも東北兵、九州兵は矢張比較的强いと謂へるに似たり

 

    昭和一四、七、一〇

 七月号「文芸春秋牧野伸顕伯の松濤閑談の一節に曰く

日本海海戦の済んた后国際学士院委員会会長プロフツエサー[ママ]、シユーズといふ人大喜びてやつてきて曰く『日本の日露戦争に於ける働きと云ふものは実に豫想以上にして明治天皇は実に御偉い御方なり歐米は基督敎て愛か道德観念の基になつているも今後は日露戦争の経験に依つて愛のみでは不可、愛国心、パトリオチズムといふものを少し今後の敎育に浸込ませなけれはならぬと考えさせられる併し自分は尚ほ考えるに日本はまだ封建時代より余り年数が経て居らぬから日本の文武の指導者も献身的精神か極めて旺盛なることを示され【p.30→】たが将来日本が物質的に一層の向上を見た暁には此日本人の伝統的の志氣愛国心といふものか其儘働くだろうか、物質的の進歩の為にそう云ふものが幾分鈍るのぢやなからうかと云ふやうなことも考へさせられる云〻』と

右観察の適否を現戦場に於て観るに旣に屢〻述へたるが如く志氣、愛国心の点に於ては幾分鈍つた感はあるが昔時と大差なしと認定し得るも此等德目と同等の價値を置くべき対住民道德律に於ては物質的進歩の為に(多分それか最大原因ならん)大に低下したと嘆せさるを得す

 

    昭和一四、七、一八

 去月中旬我南京総領事館に於て支配人ボーイが宴会開始の間際酒の中に毒薬を投して逃走し之か為主客に死病者を出したる事件発生せしか、該ボーイが逃走先きの上海より南京総領事に充てたる書信に「自分は永年日本総領事館に勤め親切に取扱はれ感謝しあるものなるが南京攻略戦のとき自分の家族等が强姦暴行を受け恨み骨髄に徹し当日【p.31→】日本軍司令官が来客中にあるを知りて報復せしものなり」云〻とあり

 

    昭和一四、八、二二

 神武天皇は御東征大和に入らせ給ふに際し国つ神をも天つ神と共に合祀せられ給へり先住民族に対する差別感を持たせ給はさりしことを拝察すへし又皇軍に抵抗したる饒速日命か一たひ降伏するや之を御許しになり御親兵として採用せられ給へり物部氏の先祖即是なり

神皇功后の新羅征伐や豊太閤の朝鮮役に於ける戦地民心把握の制律は聖戦本義の遵守と見るべし

中国の歴史を観るに淸の太祖は錦州招山[ママ]の役に於て大に明の大軍を破り明将洪承疇を捕へたるが誠意を以て之を説服し後大に之を用ひて利あり其他淸軍は不焚不犯不敎[ママ]の禁令に徹し政治面に於ても多くの明人を登用し民心を宣撫して王業を樹立せり

後漢光武帝前漢末の諸将を降し赤心を推して人の服中に置きしかは諸将も遂に心服して帝を補け大業を成立せしめたり

【p.32.→】

又唐の太宗は至誠以て民心を把握し王業燦として白楽天をして即不独善戦善乗時[ママ]以心感人人心帰と詠はしむるに至れり

然るに今次の事変出兵は如何、民を敵とせず聖戦なりと云ひなから民心把握に関する大経綸なく伝統の神武精神も沒却せられたり大業の成り難き宜なりと謂ふべし

 

    昭和一四、一一、二三

 忠君は日本人の信仰なるの一例、歩㐧十三聯隊 某上等兵の手記の一節に曰く「自分は何時も立哨する前必す東は何方かと見廻し暫く瞑目すると妙に心がせいせいする様だ、自分は信仰とては無いが出征約二年之を続けて来て東を拝することが信仰となつた、そして持場に立哨するときは此処が墓場だ何時も美しく潔めて置かうそう心に決めてから何時も陣地は淸潔にしてゐた云〻」と彼は其戦死に臨み氣息奄〻戦友に請ひ東を拝ませて呉れ俺は萬歳を叫ぶぞとて遂に瞑目せりと云ふ

【p.33→】
    昭和一五、一、七

 来支那人居留民悪徳例(軍に跟髄せしもの)
漢口にては勝手に支那商店を占拠し其所有者帰還に際して保存料として多額の金を捲き上け或は其金看板を隠し置き三百元を受けて返戾せし者あり

上海虹口にても勝手に支那商店に浸入占拠し一、二百円の雜作をなし所有者帰来に際し数千元の雜作料を請求せし等の不法者少からす各地にて恣に支那人住宅に入り込み家主帰来后極めて低廉なる家賃にて强制的に其儘永く居住を継続せし者あり

斯る徒輩多くして聖戦本義に徹せんとするも得へからす

 

    昭和一四、一一、一八

 新聞雑誌や内地より来訪せる人士の言を綜合するに内地に於ける社会情勢裏面概ね左の如し

(イ) 農村は一般に緊張しあるも大都市に於ては戦時的緊縮を見す

【p.34→】

百貨店、娯楽場、花柳界等は却て殷賑を極む

(ロ) 経済統制物價統制等により国民生活は相当窮屈となりしも闇取引盛にして国家よりも自己の利に汲〻たる奸商横行す

(ハ) 戦争旣に二年半を経、財界、智識階級の内部には厭戦氣分漸く盛んとなり当局の事変解決能力を疑ひノモンハン敗戦のデマと相俟つて反陸軍風潮漸く台頭し来る

(ニ) 国民の自主的結束運動は起らず国民精神動員の成果も挙らず政府が事の眞相を国民に知らしめさる為国民として協力の法無しと非難する者多し

(ホ) 歐州戦勃発后の対外政策に就て表面上は未だ白紙状態なるも裏面底流としては英米接近を可とする伝統派と蘇聯と結んで事変を解決するに努むへしとする派と独伊枢軸と合併せんと欲する派と夫〻対立しあり

(ヘ) 各界特に政界に卓越したる人物無く内外情勢の緊迫に際し之を打開すべき目途立たず政治の現在並将来を悲観する者多し

予等㐧一線人として先つ下より盛り上かる国民の総団結を切望するも【p.35→】のなるか是無くしては困つたものと思ふ

 

    昭和一五、一、一九

 満州事変以来国民の表裏言論を通観するに国民性缺陥の一つとして「批評好き」「当局者にけちをつけたがる」の弊あるを認めさるを得す而かもその批評は破壊的悲観的にして建設的のもの無し、満州建国の際の如きも前途悲観の言論批評滔〻たる有様なりしも事実立派に建設せられたるにあらずや

本月号文芸春秋の「話の屑籠」の一節に

最近海外から帰つてきた知人の話に日本位新聞や雑誌が内閣のアラ捜しをやる国は無いだらうと云つてゐた、内閣かいくら変つてもそんなに有力内閣の出現しそうもない現状ては現在の内閣を支持鞭撻して事変の解決に当る方が国策に順応する道ではないだろうか、事変中に内閣が幾度も変ることは それ自体日本の弱体を世界的にさらけ出す事ではないだらうか

とあり実に同感なり

【p.36→】
    昭和一五、一、二〇

 上海渉外係宇都宮中佐の報告に依れは最近上海に於て我兵の歐米人毆打四件に上り対米折衝に悪影響を及ほしありと漢口に於ても数日前我歩哨が些〻たる事にて日本留学出身の市政府建設局長を毆打し同局長を憤慨せしめたる事件の発生あり

右は言語の不通、風俗習慣の差異等多少斟酌すへき余地なきにあらさるも要するに我兵の国際観念の缺乏、神武精神の忘却に由るものなり㐧一囘上海事変に於ても毎日の如く上海に於て我兵の㐧三国人に対する不法事件起り我等をして日本兵は国際都市に駐屯するの資格なしと嘆せしめたることを囘想す

抑〻軍隊の外征又は邦人の海外進出に際しては何を措きても神武以来の仁慈精神、敵国人愛撫、対㐧三国人心得等を十分に敎育すること緊要なり

【p.37→】
    昭和一五、二、二五(漢口㐧十一軍司令部)

 一昨廿三日師団参謀長会同の際某参謀長の報告に「縱令戦闘上の必要に基きたりとは云へ家屋を焚きたる土地にありては其后如何に宣撫に努むるも其効無く之に反し家屋を焚かす略奪强姦など皆無宣撫愛民の行き届きたる地方に在りては敵の攻勢作戦時と雖も住民は我に対する好意を続け我必要なる物資の運搬等手伝つてくれたり而して前者の場合には敵襲に際し住民は敵に通して作戦上我に不利を来せしこと勿論なり、今更ながら軍司令官の愛民方針を遵守すへき必要を痛感せり云〻」と

 昨廿四日某兵団に到りインテリ兵の感想談を聴く其結言に曰く斯くの如く戦つた一ケ月を顧みますと実に感慨無量であります純白なる雪に浄化された兵隊の心は戦友を思ふ涙ぐましい友情のみてありました私は一兵であります兵なるが故に総てを支へてゐる一分子であると思ひます厳粛なる使命の前には尊く逞しい日本人てあると思【p.38→】ひますどんな逆境にありとも出来ぬことはない神必す吾等を助け給ふといふ自信に似た信念を植え付けられた氣が致します 辛いとか悲しいとか嬉しいとか云ふ感情は無く唯一つの任務を終へますと心の底より湧き出る微笑を禁し得ませんでした幼稚な満足感かも知れませんがこれに十分満足していましたと
 
    昭和一五、七、一二(東京)

 最近の某日東京駅にて出征兵を見送る二十数名の一団が軍歌を唱ひ萬歳を叫んで其行を壮んにする光景に接す然るに之を囲繞目撃する二、三百の民衆の態度は宛かも街頭の見世物を観るが如く唯見物するのみにして萬歳にも和せず軍歌にも加はらず眞に別世界の人間然たり、知らぬ顔の半兵衛なり、我国民性の缺陥たる公共道德社会道義の缺乏を如実に見せつけられたり

【p.39→】
    昭和一七、六、六(北京北支那方面軍司令部)

 頃日熟ら思ふに批判好き噂好きは実に日本国民性の欠陥の一つなり新聞雜誌は良い点のみ揚けあるは戦時なるが故に余儀なきことなるがそれ丈裏面に於ては事の眞相は斯〻なりとか、総理大臣の私行は斯〻だとか内地より来る旅行者の云ふ所は悉く一致しあり現地に於ても実相に通せさる者が知つたか振りに暗黒面のみ旅行者に語りて得〻たる有様なり斯くして内地のこと現地のこと悉く批判のために批判し噂は噂を生み広く伝播せられ為に国民の志氣は昂らぬといふ次㐧なり

一年此方来訪者の云ふ所は予に対し閣下には近く新京に御榮転の由と洩れ聞きたりとか南京御転任内定確実なりとか云ふ類のもの多し誠に片腹痛きことなり

批判は進歩に役立つものなるか故に批判殊に建設的批判は可なり然れとも批判せんがための批判、破壊的批判は取らさる所なり人誰か落度無からん、此国家の重大事に個人のことを一〻穿鑿するが如きは大国民の態度にあらず少しは抱容を必要とす批判にのみ傾けは対立を生す【p.40→】抱容に失すれは不公正になる大乗佛敎の平等即差別、差別即平等の理に倣ひて批判即抱容、抱容即批判の域に達せんことを必要なりと考ふ

本月廿五日毎日新聞に左の記事あり

十八春大行作戦の従軍を終へて太原に引上けるときのことある二等乗客が「さあ此列車はいつ太原へ着くかな、全く東潞線は乗つたら最后汽車任せだからね」から始まつて脱線は御手のものだとか、最后には歩いた方が早いとか云ひ出した、すると隣に雜誌を読んでゐた若い下士官が頭を上げて「そんなら歩いてお出てになつたらどうですか、この東潞線を日夜匪賊から守るために自分の戦友も死にましたし何人となく戦死者を出したことでせう、あまり悪口は云へないと思ひます」と静かに語つたそばに居た記者も内心はたと膝を打つた(中略)

悪口を言つた乗客はすぐ席から立つて「誠に相済まぬことを言ひました」と心から詫びて廻つてゐたが、その態度は実に立派だつた、汽車に乗るにも皆んな斯ういう事実を胸に秘めて感謝の氣持て乗る【p.41→】ならば旅は一段と明朗になるだらう

右と同類実例は枚挙に遑あらず

 

    昭和一九、六、六(北京北支方面軍司令部)E

 予は今次河南作戦開始后間も無く隷下に対し特に洛陽附近の古代文化を保護尊重すべきを命したるが戦后の視察に依れは洛陽城外の古蹟たる白馬寺、竜門石佛、古憤[ママ]等はみな無事なりしも洛陽城其者は敵将か我降伏勸告に応ぜず激戦を交へたる結果大破壊を蒙りありたり

 

    昭和一九、八、二五(北京北支方面軍司令部)A

 北支三年内地より来りし邦人より聞いたり新聞雜誌記事等を綜合するに今次大戦に於て暴露せられたる国民性の缺陥として指摘すべき点旣に述へたると同様なるが再言すれば左の如し

(イ) 個人道德、家族道德は立派なり最近隣組組織に基つく隣組道德も先つ立派なり然れとも依然として大衆の構成分子としての道德は【p.42→】不良なり路傍の人に対する同胞愛は頗る薄し汽車電車内等に於ける公衆道徳は不十分なり闇の横行毫も改まず、国家の存亡を前にして自利を計るに汲〻たる者多し
(ロ) 噂好き批判好きの悪弊は依然たり小磯内閣成立し一時之を謳歌したるも忽ちにして木炭車内閣、短命内閣と噂す、此内閣を極力助けて国難を打開せんとする熱意あるもの極めて稀なり
(ハ) 鍊成ということ流行するも(予の意見)、鍊成とは日本精神の再鍛錬を目的とするが如く、若し日本人にして児童時代其儘の精神思想ならんには再鍛錬の必要なき道理にて汚れたるものを洗濯することあり即ち鍊成とは思想刑務所とも云ふへくか〻ることを表面堂〻乃至は自慢らしく表白するは寧ろ恥辱なりと思ふ

 

   昭和一九、一一、一〇(漢口㐧六方面軍司令部)A、E

 予の漢口着任后隷下指揮下部隊の軍紀、風紀上の失態頗る多きを聞きしが其状態は支那事変勃発以来の通弊的非違を繰り返しあるものなる【p.43→】に由り単なる訓示にては効果少しと思ひパンフレツト式標語式の訓示を印刷配布して座右に揭け毎日読誦せしむることとせり即ち左の如し

 統集団司令官五訓

一、 撃米愛民に徹し焼く犯す殺すを三戒とせよ

二、 衛生軍紀を守れ意到らすして病むは不忠なり

三、 行衛不明は最大の恥辱なり兵器を喪い鞍傷を作るも亦恥と知れ

四、 德義は無形の戦力なり友軍部隊には情誼を尽せ

ご、 資材弾薬を愛護節用せよ、强き部隊には無駄弾なし

 

    昭和二〇、九、一八 (南京総司令官)

 環境の激変に際会して暴露せらせるる日本国民性の缺陥とも云ふへきことを此頃考へさせられる

(イ) 日本国民は統制ある軍隊と雖も環境の激変に際してはパニツクの感受性相当大なり先月十五日乃至十七日内地陸軍に於ては米軍直に上陸し来るとの謠言盛んに起りて一大パニツクとなり大本營の【p.44→】衛兵憲兵等数百名は勝手に解散し(其大部分は后日帰来す)省部各課員はあわて〻極秘機密書類を焼きたる為後日復員等の為に必要なる兵籍等までをも消失す此パニツクが如何なる範囲に及ひしやは明らかならさるも確実に其影響を受けたるは㐧六航空軍なり即ち同軍参謀は急遽各地部隊に飛んて復員解散を命したるに由り騒きは一層甚しくなり将兵は勝手に自動車を操縱して帰郷し糧食被服の大量を同時に持去りしものもあり、飛行機の部分品を盗み出せるもののもあり各部隊は自然に解散し飛行場の機能は停止せられ一部堅確なる部隊長は敢然として耺に留まりしも其耺を続くること能はず、要するに航空軍なるものは命令に基かずパニツクに基きて自然に復員するに至れり
海軍側に於ても一部此パニツクによる自然解散ありしが如し

それにつけても関東震災に於ける所謂鮮人来襲云〻の大パニツクを囘想せさるを得す、当時予は東京戒厳司令部参謀なりしが九月二、三日頃より鮮人武装蜂起来襲の謠言横浜方面に起り忽ち関東【p.45→】一面に伝播して一大パニツクとなり東京市民は全く無秩序無統制となりめいめい勝手に武装し最寄の鮮人を捕へて殺傷し街頭到る処交通遮断して拔き身の刀を提けて夜警に当るといふ状態を予は目撃せり

世田ケ谷の市民は大挙して同地野砲兵旅団長を訪問し多摩川方面に対し鮮人拒止威嚇の目的のために空砲を発射し以て人心を安んせんことを迫り旅団長は再三拒絶したるも民衆の暴動的要求に堪へす遂に空砲を空射せり、然るに世田ケ谷附近の人心は是に由りて一安心したる代りに青山方面の人心は此砲声を聞いて鮮人来襲の謠言の眞実化となり騒ぎは一層甚しくなりしなり

軍部に於ても右の外立川航空隊の連絡将校が陸軍省に出頭して八王子方面より来攻する鮮人部隊に対し防禦するため兵隊の急援を眞顔にて請求するを見たり又習志野に在りし騎兵旅団長は「旅団は市川の線に於て敵を拒止せんとす」といふ作戦命令を下達せること后に至り判明せり

【p.46→】

予は九月四日市中巡視の結果事の容易ならさるを認め意見を具申し翌五日を以て市民の所有する一切の武器を一時警察に取上する戒厳命令を見るに至れり

警視庁は市中の善良なる鮮人二百名余をトラツクに乗せて遠く群馬県方面に避難せしめたるに埼玉、群馬両県境に於て群馬県警察官は県令により鮮人の入県を極力阻止し埼玉県側は東京府よりの転送を主張し荏苒時間を費やしある間、忽ち附近の農村は排鮮人暴動を起し手に手に鋤鍬その他の兇器を携へて此等鮮人を急襲し埼玉県警察官は之を制止すること能はず、激昂したる暴民は次て敵に加担したりとて熊ケ谷警察署を包囲するに至れり当時長野県方面より東京へ転送中なりし部隊の歩兵一中隊は偶〻熊ケ谷駅に達して以上の事実を知り急き電話を以て東京戒厳司令部に急報し来りしに由り電話に出てたる予は直に同中隊長に即時下車警察署を急援すへき旨を命したり、本件(詳細省略)は事余りに重大なるに付内務省、司法省と連絡したる上暗より暗に葬ることとせり

【p.47→】

戦場に於ても我軍は戦闘に大敗せること無きを以てパニツクの実例はなきも小パニツクは屢〻其例を見たり「敵襲」云〻のパニツクが暗夜部隊を混乱に陥れたる如きことは少しとせす

(ロ) 次に今次終戦に際する居留民の淺ましき態度に就きては数限りなく見聞きする所なるか今日までに知得せる主なる事項左の如し

(A) 満州より数百の居留民南京に引揚け来り金子に困るとの事なりしに由り総領事館より計数億元の儲備券を支給せしに此等居留民は内地へ送金手続開始と聞くや銀行、郵便局に殺到せり、持つてゐながら持たぬと言ふ者淺ましき者多し

(B) 軍より約三ケ月分の糧食其他を居留民に交付せしに之を市中に賣却せし居留民あり、現に上海虹口に於ては中国人にして街頭に我陸海軍需品たること明瞭なる物品を鬻くもの少しとせすと云ふ

(C) 上海、南京の一流料理店に今尚ほ日本人の出入りする者相当あり、酔餘俗歌を高唱する故の如し、中国人中に日本人の誠意なきを【p.48→】罵るものあるは無理からぬ次㐧なり

(D) 最近上海の街頭にて傲然たる某日本人の態度を米兵に発見せられ裸にされて着用衣服を見物の中国人に頒与せられたる事例あり

(E) 在上海財界老先輩にして親日家たる周善培はその信頼せる某邦人に漏らして曰く終戦となるや日本の中小会社社長連 陸続として来訪しその会社を予の名義に書き換えて運営を継続し利益は之を折半せんと申し込む者多きも予は悉くこれを謝絶せり多年親日を標榜する予も今日ほど日本人を見下けたることなし云〻と

(F) 北京方面には邦人にして重慶側先遣の参謀、小役人等に運動して残留の耺を求め中には従来の我軍の措置を非難してまて中国人の甘心を買はんとするものあり

(G) 張家口を急遽撤退の際我公使館員は最先に脱出し而かも天津附近終結后尚ほ營業中なりし日本料理店に連夜此等館員が思[ママ]出したりとて引上居留民は大いに憤慨し形勢不利となり此等館員雲隠【p.49→】れするに至る

(H) 南京民団の相談所に来る居留民の相談事項は悉く利己一点張のことのみにして此際一銭にても損をせざる方法を相談に来るもののみなり之がため同所当局は聊か愛想をつかして誠意も乏しくなり又相談申込の居留民側は当局が不親切でありと罵り見苦しき泥仕合を演しあり

(I) 南京某妓楼主は商賣止みたりたりとて四名の妓を街に放逐し此際一食分の携行も許さず、忽ち路頭に迷いし妓等は総領事館、民団に泣付きたるもあまり相手にせられず乞食同様となるとの投書あり

(J) 航空会社南京出張員は終戦と共に会社の大型機にて家族、家具等を内地に運ふに専念し公務を怠りたり而して出張所宿舎建物を引払ふ最后の夜は痛飲放歌、借家なる家屋を破壊せり

(K) 南京居留民の一部 鉄道により上海へ引上げの際並残りの居留民全部か下関集中營へ移転の際の状況を見聞きするに公共道德は【p.50→】零にして「自己さへよければ」の態度に出つるも比〻として皆然り

 

    昭和一三、九、二七(㐧十一軍司令部)

 㐧百六師団か先般德安西方馬鞍山附近に於て優勢なる中国軍に包囲せられ悪戦苦闘し多大の損害を生したるが戦場掃除の結果に依るに孤立全滅せる我歩兵一中隊の将兵の遺骸は中国軍の手に於て武装其儘鄭重に埋葬せられ将校の軍刀も其儘納められありたり、近く我と対 戦続行中此措置に出てたる中国軍の東亜道義は敬服すべきものあり

満州事変長城戦后古北口附近に於て我歩兵㐧十七聯隊は中国軍将兵の遺骸を鄭重に葬り中国将士之墓と表示し置きたるが後年中国軍某旅長は現地に至りて其部下の遺骸に対する日本軍の好誼に感激し当時旣に内地に帰還せる歩兵㐧十七聯隊を遙々と秋田に訪ひて其好意を感謝せることあり、双方とも其行為嘆賞すへし

【p.51→】

    昭和一四、二、二〇(㐧十一軍司令部)

 十月初㐧二十七師団が箬渓附近占領の際敵郵便物を押收点檢したるに其将兵の家族知友に充てたる親書の内 容は我日本軍の状況、一死報国の覚悟等を述ぶるもの多く私事に亘るものは少かりきといふ、又今次大㐧百一師団に反攻し来りし敵将兵戦死者の遺骸に就き其家郷よりの来信を檢したるに父母が出征者を激励し国家民族の為に勇奮死に就くへきことを諭ふること我軍と異らすといふ

中国人の国家愛に就いて決して侮るへからすと考へさせらるるものあり

追記

一、「敗戦原因は結局誤られたる敎育にあり」「国民に何の欠陥もなし悪い軍閥に誤られたる也」などと云ふも事は爾く単純なるものにあらず敎育も軍閥も関係なき本質的欠陥に胚胎するなり

二、日淸戦役、日露戦争に於て我軍が東[ママ]紀森厳なりしことは英国宣敎師の「奉天三十年」に記述する所なり

【p.52→】

三、明治三十三年華北義和団事変に於て毆州諸国の軍隊か軍紀を紊して掠奪暴行至らざるなき醜態を示した間に独り我軍のみは秋毫の犯す所なく常に仁慈親愛の態度を以て中国の一般民衆に臨み彼等の衷心からの感謝をかち得たことは多くの外国人の実見に成る記述其ものが明白に立証する所なり(ウイール著淸見記[ママ]、北京落城)

四、北淸事変実見記(歐米人の手に成れる)多き中に代表的のものはB.L.Putnam Weale の Indiscreet Letters from Peking. George Lynch の The War of the Civilisations.

五、右前者の著者序に曰く、ヨーロツパの兵士等による北京掠奪の迫眞的な容赦なき描写は鉄の統制力にして一たび弛緩せんかすべての軍隊が陥る にきまつてゐる軍紀の頽敗を示すものであり(中略)軍事警察の絞架にしてすぐさま立てられない限り掠奪はそれに伴ふ凡ゆる暴行と共になほ兵士等の無上権として認められてゐることを思はずにはゐられないだらう

同しく曰く動乱の最后の一幕─全的な北京の掠奪─の描寫は、いかに【p.53→】劫掠への欲望があらゆる人間を有頂天にさせるものであるか、さうしてそれと手を組み合つて根こそぎの凌辱や殺戮の如き恐るべき行為へと人〻を駆り立てるものであるかを明確に示すものである

「右淸原陸郎訳 北京籠城下巻を読む要あり」

六、日淸戦役に於ける一例

大山㐧二軍司令官は軍紀の振肅に深く注意を払ひ、初めて遼東半島に上陸するや土民に対する略奪禁止の戒告と共に徴発心得十箇条を全軍に発し一面敵国民を綏撫する為には漢文の告諭を掲示し旅順口占領后は直に行政庁を置いて規則を発し更に施米規則を定めて窮民を救恤する等

【p.54→】

    昭和一三、七、一四(南京㐧十一軍司令部)C

 戦場に於ける人と人との折衝は㐧一印象か大切なり、平時に於ては㐧一印象か不良にても時を経るに従い互に性格を知り合い諒解を深めて却て親密になることもあるも、否な日本人間にては斯くの如き場合の方か多く且貴はれている程なるも戦場に於ては必しも然らず、それも同一司令部内、同一部隊内に於て起居を共にする間柄なれば概ね右と同一ならんも、上下各司令部耺員、他隊の者に対しては一たび会見して相ふれたる后は電話、電報や稀に会談する位なれは若し㐧一印象が不良なればそれか先入主となり容易に諒解に進み得るものに非す公務の折衝も円滑に行かさることとなる、㐧一印象は大切なりと云ふ所以なり

我等の上級司令部たる中支那派遣軍司令部主脳者が新しく動員して戦場に来れる我㐧十一軍司令部に対する心構えは右に述べたる点に於て敬服すへきものあり即ち我等上陸の㐧一歩にて戦務倥偬たる幕僚幹部の大部は予等を出迎へて「待つていました」と誠意ある態度を示し、【p.55→】「岡㐧何号」と貼紙せる自動車四輛を準備し派遣軍司令官畑大将以下に面会しても同じく誠意を以て懇切に談してくれたり

予は右の趣を直に予の部下幕僚に告け之を将来見做[→倣]うへきを命したり

 

    昭和一三、八、二五(九江㐧十一軍司令部)C、E

  部下や他人の働らきの眞相を公正に認むるということは活眼と経験とを要するものなり、昨日波田支隊より瑞昌を占領せる旨電話報告ありて、我幕僚は右に関する上司への報告案を特に予の決済を仰きしに来りしにより元来予は事務上大綱主義を秉り公文書などに筆を加えたること皆無に近きにも拘らず「波田支隊は㐧九師団の一部と協力し」と十一字加筆せしめたり、蓋し波田支隊に続いて㐧九師団か前進し一週間前より瑞昌附近の攻撃続行中にして旣に波田支隊は瑞昌附近の要点たる某東方高地並北方高地を攻略したるを以て一小城瑞昌の占領の如き問題になすに足らさるも現時の通弊として㐧一線将兵も銃後の国民も兎角都市占領を重大視し一番槍部隊などと喧伝せられ相当の影響を及ほす状況に在り、又電話直通の便ある波田支隊の報告に隣接㐧九師【p.56→】団の活動を併述して来らざるは日本軍の日露戦争以来の惡習の一つなりとも認めめ[ママ]られさるに非すと思い加之㐧九師団の担任方面のことなども考えてかく修正せしめたるものなり

 然るに後に至り果して瑞昌城は㐧九師団歩兵第三十五聯隊の一部が占領したることを確認せり

 人の働らき殊に二人以上の同一目的に対する働らきの眞相を究むるということは人の上に立つ者として必要にして且困難なることなり

 

    昭和一三、九、七(九江㐧十一軍司令部)C、E

 予は聯隊長時代以来部下運に惠まれ大故無く昇進し来りて今日に到りしが、此間統御の骨(コツ)に就て多少会得したる所ありと信す、部下が醉余の直言、その感謝の辭や或は間接に予の耳に入れる所を綜合し自惚れながら大体に於て今日まで到る処部下の信頼を贏ち得たりと確信す、

右に関して予の統御上に於ける体験を追想し尚ほ他人の言動や読書修養に依りて得たる所等を綜合し統御上必要なる性格、德目を挙けて今後の参考となさば左の如し

【p.57→】

(一) 廣量 

部下の言を容れ、其立案は細部に干渉せず

(二) 忍耐と恕

但し人事に関しては時として細部に注意を要す

(三) 誠意と熱情

感謝の念、同情思い遣り、人の和を重んず、

公私の別を明らかにす、率先苦樂を共にす

(四) 明朗闊達

(五) 決断と勇氣

(六) 対局に立つ識見

部下幕僚は事務多忙を常とするを以て大局を顧みる暇無きか常なり上に立つ者は特に此点に就て修養練磨を要す

 

    昭和一三、九、一二(九江㐧十一軍司令部)

 統御に細部干渉は禁物なることは旣に述べたるところなるが、補佐者は事務多忙なるため人情の機微に関することは細部の事と雖も統御に大影響ありといふことに思い及はさるものなり此点に関しては統御者は自ら細部なりとて指示し実行せざるへからす

【p.58】

九江に於ても左の如く旣に二、三の例を挙げ得べし

1  遺骨参拝、病院患者の見舞等補佐者の提言を待つていては時機を失すること多し自ら発言するを要す

2  糧秣收蒐補給担当者は現地に於て得たる生野菜、鷄卵等を優先的に病院患者に供給するという同情心に乏しきを指摘せり

3  出張の際必す先つ傷病者を見舞はんとする計画は補佐者の氣着かさること多し

 

    昭和一六、一二、二九(北京北支方面軍司令部)

 一方の部下の為には大に悲しむへき事か起り、他の部下の為には大に祝ふへきことがありと云うようなことが同時に同一場所に生じ悲喜交〻 至るとき如何にすへきやと一寸迷うことのあるは多数の部下を有する者の屢〻 遭遇する統率的悲哀なり、予は屢〻 斯くの如き心的場面に遭遇したるか十二月四日徐州に於ても同様のことを經験せり、

即ち嘗て三たひ予の直接部下たりし楠山少将か昨三日此徐州にて飛行【p.59】機事故の為突如陣沒し本日予は陸軍病院に到りて其英靈を拜し又是日此地に於て櫻井兵団の合同慰靈際ありて之にも列席燒香せしか抑〻此兵団は創設時中支に於て予の隷下たりまた最近は北支に於て予の直属隷下たり 其戦功赫々たるものありて今特に支那戦線を去つて遠く南方に転戦せんとす緣故深き予としては大盃を挙けて其行を壮んにさせるへからさる感情に満つ、さりとて悲しみの本日を避けて祝いを明日に延期することは予の公務上の時間之を許さす、是に於てか予は是日夜櫻井兵団の幹部を招き祖道の宴を設け「我等は暫く戦友に対する悲哀の情を忘れ大に前途を祝うへし」との挨拶をなして愉快に彼らを見送ることを得たり

 

   昭和一九、五、二八(北京北支方面軍司令部)C

情愛は人格構成の一要素にしてまた統御の根基なり部下を愛せんには深く部下の立場を察せさるへからす

 行軍后宿營に移り若し入浴の設備ある場合、その宿營の最高階級者み【p.60→】は取るものも取り敢へす速に入浴し且成し得る限り短小時間に浴し終ることは緊要なることなり宿營に着きたるときは人の来訪もあり其他色々用務のあるを常とするも面会人に暫く待たせ置き用務は後廻しとして先つ入浴すへし然らされは多数の我に従い来りし部下は一日最大の楽みたる入浴の時間を失するか或は入浴時間か著しく遅延して睡眠時間を短くするに至るへし

 以上は予か大隊長時代に体験したる所にして爾来予は此主義を厳守し来り従て早湯の癖となり概ね十分以内に一浴するの習慣となれり

 凡そ相当多数の従者部下を有するものは平戦両時を問はす右の如き心懸け肝要なりと思う

 十数年来予の観る所に依れば立派なる人格を有する将官、団隊長等にして此入浴時の心懸けに就きて無関心なる者少しとせず、末梢部下に対する思いやりの細かならざるを遺憾とす

されとも別に打合せたるにはあらさるに予の主義と全く同しく就宿后急ぎ入浴するの士を見たるときは愉快を禁じ得さる所なり

【p.61→】

   昭和一九、七、一九(北京北支方面軍司令部)C

  今次川南作戦に於て独立歩兵㐧九旅団は内地に於て編成旬日にして一ヶ月前に来支し其素質低劣、其装備不良、訓練時日短小、元来治安担当豫定のものを大作戦に参加せしむるといふ惡条件揃いにて一般に其戦績を憂慮せられありしに作戦開始以来氾水附近の対峙持久戦闘、洛陽城攻撃、陜西省境への転進、霊宝会戦等相当優良なる戦績を挙け、殊に此最後の会戦に於ては中共最優秀なる胡宗南軍の二師を攻撃し大隊長三名戦死の他多数の死傷を生したるも激闘二日遂に之を撃退す

 右の如く豫想外の戦績を見たるは色〻の原因あるへきも旅団長長嶺少将か頗る積極勇敢にして行軍は尖兵中隊に在り戦闘は常に最前線に在りて指揮せしことか㐧一の原因なりとは衆評の一致する所なり

軍隊の戦力に及ほす指揮者の人格、率先精神の影響の如何に大なるかを示す一例なり

戦のみならず一般に統御上注意すきことと思う

【p.62→】

   昭和一九、一〇、六(湖南の南岳㐧六方面軍司令部)C

部下か所命の事項を亡し果したとき、大体満足すべきときには直に賞詞を与うることを忘るべからず、信賞必罰の趣旨より云うも必要なり、当然のことの如きも部下は仕事を果したるとき、果してこれが命したる上官の表面に合せしや否やを心配するものなれば、此際直に此心配を打ち消してやることが事務的にも必要なるなり、此賞詞を忘れていたため、後日に至り始めて部下に永く心配をかけていたことがわかり大に後悔したることあり

右は戦場に於ける各軍各兵団に対する実例を一般的に記述したるものなり

 

   昭和一九、一一、廿五(湖南の南岳㐧六方面軍司令部)C、E

 統御茶話(身辺雑務と統御)

 今まで思つたことを綜合し更に此南岳に来て悟つたことを統御茶話【p.63→】として述ふること左の如し

(イ) 北支軍時代時に食后に罐詰のパインアツプル二片宛出てたるか予はたしか給仕に対し節約のため爾後一片宛にて可なる旨命したることあり今此地に来りても全く同じ場合に遭遇せしか、此処の宿舎は手狭にして階下の下士官兵の動作を察知するに易く、此等食后ノパインアツプルは主任下士官より一々予の当番卒に交付せらるるものなるを以て予か一片に改むへしと命するよりも二片備えさせ、一片のみを喫して他の一片を当番兵の役德に供するを以て統御上却て優れるものなることを発見し、干渉すること無く其儘とし且料理の家庭招待に於ては大魚は美味なりとて裏返してまで食うものに非す之を主客の從者使用人に供すべき道德不文律など思い出し彼此似た話と思う

(ロ) 浴場の当番兵は頻りに予の背を流さんと云う、予は旣に述べたる通り統御精神より早風呂主義に從いあるを以て每に之を辞退せ【p.64→】しか後には時間の余裕ありて後に続く入浴者の妨害にならざる場合は之に応しその好意に酬ゆることに努めたり、蓋し当番兵は今まで中隊長を一番偉いものとして陣中生活を送り来りしに今は陸軍大将の身辺を世話するのを光榮とし誠意を以て予に仕えんとする心境に在ることを看たるを以てなり。

(ハ) 居室、旅館等に於てスリツパ、下駄等の履物を脱きて室に入る際、之を脱き棄てゝ入室し履物を揃えることは給仕、女中等の役目に任すのか一般の習慣なり、陣中生活にては当番兵すら此給仕女中の役目に余念なきを見て聊か同情せざるを得す、一般に人々か入室の際自ら履物を揃へ出発方向に向けて置きたらんには多忙なる女中給仕の労を省き且つは日本人の公共道徳缺忙の惡習を改善することにもなるへしと思う、予は約一年前より自ら之を覚り旅行中並自室に於て之を努め来りしか尚ほ急いだ場合など之を怠りたること少からず、然るに今

此処へ出動し来り当番兵までか給仕女中の眞似をするのを見て深く恥ち之を励行することとせり

【p.65→】

 以上三点の如き微細の事にも統御の道はあるものなりと思う

 

   昭和二一、三、〇〇(南京総司令官)C

 明治四十年秋、栃木地方に日露戦後最初の特別大演習あり予備兵も召集せられ予も歩一の小隊長として之に参加す某日夜予は小哨長として㐧一線に勤務中当時の常例として夕食の最前線部隊に到着するは夜半なるを以て午后八時頃焼芋が小哨に支給せらる、兵等は是日昼間より相当激動し飢えありしによりこの甘藷の到着を喜び予の許に密集し来る、予は分隊長を集め徐ろに先つ哨所、斥候其他勤務のため目下小哨の位置に不在なる者を調査し其員数に相当する丈の甘藷を別に取除きたる上、各員に分配せしかば相当の時間を空費したり、時偶〻予備兵らしき老兵が大声を発し「貴様等は小隊長の心中がわからないのだ、遅いとか愚図しているとか云いうのは何事だ、貴様よか、歩哨や斥候に出たときかゝる部下思いの小隊長か后に居ると思つたなら心强いことでは無いか、実戦の経験者たる俺等には小隊長の至誠に感謝するば【p66→】かりだ馬鹿野郎」とどなりつけるを聞く

 昭和十二年冬㐧二師団長としてハルピン駐在中侍従武官御差遣ありて清洒を下賜せらる、之を団下各将校に御裾分けすべき案を立てゝ副官か持ち来る、当時数名の将校数ヶ月の豫定を以て重要任務を帯び国境の某地に半露營しあるものありしが副官は之に氣付かず彼等か帰任し来るとき恩賜の御酒旣に一滴も無しということを聞くに忍びさるなり仍て先つ是等差遣将校の分を優先控置せしむ、副官感動して其通りに処置せり

 作戦中花〻しき主力方面の戦況にはみな絶へす注意するも主作戦の犠牲となり一部小兵力を以て優勢の敵に対し苦戦する支作戦方面に同情し注意を怠らさる参謀は少なきものなり軍司令官として幾多の作戦中予は屢々之を参謀に注意し好結果を得たり

 以上の数例は眼前にある若しくは見易きところの部下よりも離れている部下を先つ考えること統御上必要なることを示すものなり

【p.67→】

   昭和一七、一〇、一四(北京北支方面軍司令部)D

 戦場に於ける死生観

 予は幼年生徒の末期十八、九才の頃敎程以外の書籍を読むことを禁止せられて同輩が唯孜々として学業に専念しありし頃独り人生問題死生観に煩悶し密かに是等に関する書物を耽読し結局余り得る所はなかりしか漠然なから安心立命の基底として

 (イ) 霊に生き肉に死す

 (ロ) 忠節に徹すれば死も生もなし

位の修養境に入り得たり

少尉任官間もなく小隊長として日露戦役樺太戦に出征し纔かに二囘敵弾を浴びたるが、その㐧一囘の初陣は森林内の不期戦にして比較的沈着に小隊を指揮し得たり、此際疎林内戦にて通視用意ならさりしため予は樹の切株の上に立ちて指揮せしか、その夜部下分隊長の某(満洲戦線経験者)は予を諫めて曰く年若き(当時予は数え年二十一才)小隊長殿としてはさもあるへきも本日立姿にて指揮したるは眞の勇者というへからず今后は低き姿勢にて十分地物を利用すべきなり云々と、

【p68→】

予は之を感謝せり

㐧二囘目は将校斥候として一小隊を率い谷地密林内の敵陣地に衝突し三方より俄然射撃を受け当時の任務は敵情偵察なりしを以て軽く応射して后退せしか、此際は自ら省みて多少狼狽し沈着を失したるを恥ぢたり、はじめて部下に戦死一、負傷二を生したることも痛ましく感したり

大尉時代参謀本部差遣の身分にて青島攻囲軍司令部に勤務し攻城間頻繁に弾雨を冒して攻撃作業の最前線を視察し一夜を過こしたることもありしか、当時の感想としては部下も無くまた純然たる出征者の身分も持たさるに由り何となく淋しく物足らぬ感ありて、あまり弾を恐るることは無かりしも、矢張部下を有し部下と共に群集心理によりて戦闘する者に比しては士氣の昂らさることを感したり

その後支那の各地に駐在し或は顧問となり内戦にも従軍し匪賊らしきものに逢いたることもありしか自ら省みて卑怯の振舞は皆無なりしか唯一人の日本人として他国人中にありて身の危險に遭遇したる場合は【p.69→】戦場にて多数の部下を指揮する場合に比し遙かに胆勇を具するの必要あることを痛感せり

少将時代関東軍参謀副長として㐧八師団の古北口、新開嶺の三日間に亘る陣地攻撃戦闘に参加せしとき、㐧一線聯、大隊長の位置まて進出し相当弾雨に浴したるが此際は部下を有せさりしとは云へ職務の関係もあり自らの士氣も大に昂り十分覚悟か出来ていたことを囘想す

 以上予の戦場に於ける弾雨の経験は極めて貧弱にして戦場に於ける死生観を述る資格なしと恥づる次㐧にて、中、大、聯隊長の 経歴なき者は、此問題の眞髓に触るること能はさるべし

 さはあれ、予は幸運にも出征八囘に及ひ、 たといその能務は幕僚又は高級指揮官にして前述の如き下級指揮官の経歴なしとは云え此問題に関し見聞せしところは相当豊富なりと自負するも支障なかるべし

今是に見聞を綜合するに将兵の死生観は大体に於て左の二種に別つを得るか如し

 (イ) 徹底的に死を覚悟し遺書を用意し決死一点張のもの

【p.70→】

 (ロ) 死生問題をあまり考えず唯任務達成㐧一と心得へ死も可生も可なりと比較的淡々たる心境にあるもの

戦陣訓に於ては其死生観の節に於ては槪ね(ロ)に似たる訓へ振りなるも他の節目に於ては(イ)をも要求しあり

予は読書其他の修養により今のところ右の(ロ)の心境に在り殊に多くの部下と異り予に極めて幸いにして安易なる氣持にあることは旣に大将、功一級の最上位に昇り唯現任務を忠実に達成する外に御奉公の道旣に無く死して何等惜しむべき客観的事情の皆無なること是なり

   生も死も神のまにまに戦陣は

      唯稜威こそかしこかりけれ

 

   昭和一九、八、二五(北京北支方面軍司令部)D

 河南作戦に従軍せし大陸新報記者か同紙上に隨筆を連載せしか左の一文は戦場に於ける死生観を巧みに客観せるものといふへく、その予の部下に関し予自ら指導せる作戦に関するに於て殊に予の注意を喚起せしめたり

【p.71→】

     その前日

 人間は死を嫌がる。これは人間の死の限界が未知数であると云うことにも原因するが、人間の将来に描く夢はさらに生き抜くことであり、これからこそ本当の生き方をしようとする念願を持っているからだ。そういう考へ方から見れば人間はいつでも現在の生き方に満足出来ないでいるのだ。未だ未完成であり、己に与えられた天命を果し切つていないことを自覺しているのだ。

だから若し、人間か完全に天命を果し、与えられた自分の力を出し切つて、務を果したと云う自覺を持つことができれば、その人は何時でも笑つて死ねるに違いない。私は五月廿四日洛陽城総攻擊で、名誉の戦傷を負った勇士達か、西関外に設けられた患者收容所に收容されているのを見た。鮮血にまみれたそれ等の勇士達は或は大腿部に爆創を受け、或は胸部に貫通銃創をうけその殆んどわ致命的な重症患者であつたが、誰一人として苦痛を愬えるものがゐない。それどころか更に驚いたことには、如何にも満足したような明るい顔をしていることだ【p.72→】軍人として使命を果したと確信する勇士達にとつて、死は生の限界ではなく、生の完成を自覚させているのだ。

 こういう日本の兵隊達の人生観は愈々必然的の死の座に就いたときにのみ生れて来るだけで無く、死によつてその生命が更に充実されることを自覚するときは、進んで其死に突進する高度の観念である。

 洛陽総攻撃の前日即五月廿三日私は西関外の麦畑で虎造を唸りながら縄を木に結んでいる五、六人の兵隊達を見た。私は「なにを造るんですか」と聞いてみた。「明日の攻撃に決死の突入を仰せつかりましてね。その縄梯子ですよ」と答へ、その兵隊達は明るく笑つた。私は瞬間肅然とした氣持ちになつたが、その兵隊達は、何の屈託も無さそうにまた虎造を続けていた。

 攻略成つた廿五日、西関突入路のトチカ上に、私はその兵隊達の眞新しい墓標か立つているのをみた。

 

   昭和二〇、七、一〇(南京総司令官)D

【p.73→】

 読書修養の結果を綜合するに死生観の発展に左の三段階あるものの如し

 㐧一、怖死

 㐧二、求死(不怖死)

 㐧、不求死、不怖死

 㐧一は人間の本能的欲望なるか、出征将兵の大部は日本精神に根ざして不怖死の境に達しあるものと認む、尤も某高僧も喝破せしか如く彼等将兵は一旦内地へ帰還せば其殆んど全部は元の黙阿彌に帰り怖死の境に逆戾りするなり、此事は芸術観に於ても同様なり、前線に於ける将兵の和歌、俳句等には実感、実相、実験を基底とする名歌名句の後世に伝ふへきもの少からずして其境遇に投しありしものにあらざれは到底眞似の出来ない傑作が続出せしか是等将兵も一たび帰還せば多くは元の黙阿彌にかへるなり

平凡人は㐧一段にてその人生を終はる、㐧二段の不怖死は積極消極の差異あるも、㐧三段に達せざる点に於て同一線に在り戦場に於ては求【p.74→】死し更に生き抜くとの境界に迷う者少しとせず、関ヶ原戦の直前伏見を死守したる鳥居元忠は刀折れ矢尽き部下みな玉碎を主張せしとき、今日の要は「時を得るに在り」と諭して飽くまで生き抜きて持久に努めたり又ペリュリュー島守備隊長が最后の関頭に立ち玉碎的最后出撃の意見を具申したるに対し井上師団長は師は易く生は難きも飽くまで持久出血戦を継続すべく命令したりという

軍人には幸に其行藏の基繩となるべき任務あり、任務を忠実に遂行することに依つて死生観を、超越し得るものなり

葉隠の「武士道とは死ぬことと見付けたり」其他古来武人のこれに似たる二、三の言葉は求死を最上の死生観なりと誤解せしむる点なきに非す

㐧三段は死生観の最高理想境なりと予は思惟す、されとも修養体験を積むにあらざれば此境に悟入し易からず、大西鄕(大西鄕に関する著書は旣に約十部を読破せり)の如きも月照と共に海に投ぜし時代には㐧二段階に在りしか如きもその晩年可愛岳附近突破より城山最后の場【p.75→】合に至る頃の言動を視るに、㐧三段階の絕大無辺の境に透徹しありたるを認む、流石に偉大たるを失わすというべし尚ほ大西鄕は少年時代早く旣に㐧一段を脫したるに似たり㐧一線の将兵がさしたる修養体験も無くして㐧三段階に入れるもの少からさるは此頃の特攻隊靑年の心境に就きても知らるることなるか敬服に堪えざると共に一面日本の伝統精神の尊さをも今更深く肝銘せざるを得ず

予は自ら漸く㐧三段に入りつつありと信するも彼等靑年に対し聊か忸怩たるもの無くんはあらず。蓋し彼等はまだ花の蕾にして人としての仕事の緒にもつ就かざるに反し予は旣に自己の力を十分に発揮して国家の為に働き終りたる残軀に過ぎされはなり、益〻修養せさるべからず

 以下死生観殊に㐧三段階に関する古来よりの字句を読書の綠摘より拾えば左の如し

 一、不惜身命、但(タダ)惜身命  道元禅師

 一、怖死固害道、求死亦害道  明之楊椒山

 一、愛之欲其生、悪之欲其死、

   旣欲其生又欲、其死是惑也  論語

【p.76→】

 一、聖人安死、賢人分死、常人恐死、

               佐藤一斎言志録

 

   昭和二〇、一二、一(南京総司令部)D

 予は旣述の通り永年に亘る戦場精神生活と読書修養等に依り大体死生観を決定し得たるか本夏境遇の劇変に伴い従来多分に任務に根底付けられたる死生の基本感に動揺を感し従て人間本来の道に立つて更めて死生観を確立せんと欲し座禪、読禪を始むることとせり師家なき机上禪なれば幾何の効果も無かるへきも只管打座に徹して将来を待たんとす

 

   昭和十三、七、一五(南京㐧十一軍司令部)E

 戦場に来り日尚ほ淺きもすでに㐧一線隷下兵団より将来の作戦其他に関し色〻の苦情を聞く、日露戦争以来我軍指揮官の通弊として兎角苦情文句を吐き、黙〻実行而かも企思旺盛なる指揮官は稀なり

【p.77→】

苦情を申立つるは固より其部下の為にして必しも自己の為にあらさることは諒解し得る所なり、従てかくすることか部下の信頼を得ることもあり、されども部下また之に見倣いたらんには統率は良く運はさるべし

 濫りに意見具申せず、文句を言はず、黙〻として実行するというのは予の理想とする戦場指揮者なり、予は自ら省るに大佐時代位までは幕僚勤務の大かりしことも手伝い多少前者の感ありしか爾後修養に努め師団長としては全く後者たるを得たり今は旣に軍司令官たり絕対に后者たらんと欲す、殊に增援は断じて請はさる決心なり、己に五師團を有す敵軍主力を相手せるも何ぞ懼るるにたらんや

 

   昭和一三、一二、二四(漢口㐧十一軍司令部)

 予は知らぬ間に将に将たる地位に昇り来り而かも部下と円満愉快に戦場に御奉公し得るは主として幕僚長、高級幕僚等に其人を得たるによるものにして好遇を感謝せずんはあらず此頃三宅雪嶺の「武将【p.78→】論」を読み益〻自ら修養を重ぬるの要を痛感す、此数年来予は私心の起らんとする瞬間には沒我帰一と口中に唱えて之を掃うことに努め来りしか此頃はまた統帥事務上細事に拘泥せんとせる念の起る瞬間には寛仁大度と口中に唱えてえて之を散することとし概ね其目的を達成せり

 

   昭和一四、一、一七(漢口㐧十一軍司令部)

 予は聯隊長時代以来より部下に徒労せしめさることに自ら注意し他にも之を要求しありしか去る十一日はじめて汽車にて㐧一線巡視に赴きしとき、途中小駅に堵列して予を迎ふる将兵に対し答礼の暇なくして通過し甚だ礼儀を失したることあり、是れ副官か列車の駅〻に到着せんとする直前に豫め将兵の送迎者の有無を確めて予に報告するの注意を缺きしか為なり、依て此点副官に注意を与えしか、昨十六日の汽車行の際も又〻駅素通りの徒労失礼を再演せり

此副官は素朴にして材能あり愛すべき性格を有する者なるか副官的人材にはあらさるならん、参謀長調整の考科材料にも「戦術能力良好な【p.79→】るも専属副官業務には粗漏あり然れども現軍司令官の性格上却て信愛せられつゝあり」とあり


    昭和一四、四、二一(漢口㐧十一軍司令部)F

 近来の中国青年思想動向に関し予の見る所左の如し
淸末に於いて独善化、化石化せる儒敎思想は阿片戦争以来歐米物質文明の威力の前に其権威を失し爾後輸入思想の汎濫に彷徨せしか孫文三民主義は一応封建制より資本主義制への移行期に於ける思想の混乱を統一せる観あり

然れども其后国民党は三民主義を適正に運用すること無く専ら排他的民族主義を强調して国内統一の方便となせり此間に乗し㐧三インターは巧みに日本帝国主義打倒の看板を揭けて頭を抬け来れるなり

抗日主義は国民党に於ては幾分の三民主義中の民族主義適用を見るも共產党に於ては党勢拡張の方便として最大の目途を有す

然るに支那事変以来は和平地区に於ては勿論抗戦地区に於ても徒なる【p.80→】排他的民族主義を反省し孫文の大亜細亜主義を囘顧するの傾向となれり重慶に於てすら其同盟国たる英国に氣兼することなく公然東亜民族の解放に関する論議を呈し印度に同情の態度を示すものあるに至れり抗日に徹底せる青年将校の俘虜に就て見るも傲然として抗日の主張を改めさるも事一たび東亜解放の問題に及へは即ち歐米の桎梏より脱し中国の植民地状態を復興すへしという点に於ては我に共鳴するもの比々として皆然り
要するに現代青年は排他的民族主義の旧殻より観念的に禪脱し得さるも東亜解放を意図するの方向を取りつゝあることを看取せられ当分尚ほ思想的混迷を継続すべきか

 

    昭和一四、四、二一(漢口㐧十一軍司令部)

 近衛声明以来我総合雑誌に論述せらるる東亜共同体理念の論策、対支文化方策の意見等を通観するに我国のインテリは依然として唯支那のインテリのみを対象とし其屢々支那を視察する支那通と雖も重要都【p.81→】市の新旧インテリと会談するに過きさること旧套の如し、支那国民の八〇%を擁する桃源的農民を全く無視しあるなり此無礼を前提とせる対支方策は予の賛成し得さる所なり

大正十五年駐滬武官時代予は支那研究の為帰支しありし外交官佐分利氏(歐米にのみ駐在し、はしめて支那の視察に来る、翌年駐支公使に任せられ渡支したるか間もなく帰朝、函根に於て謎の死を遂げたり)に対し屢々対支観に就て懇談したるか、予は『近代国家を金とし昔なからの支那五千年文化を銅と仮定すれは現在の支那は銅面に金粉か附着しある程度にしてこれか金メツキとなるや、しやく銅となるやは末[ママ]た断定し得さるべし、我国朝野の有識者がみな此金粉のみを相手とし銅を無視するは適当ならす』との意見を述ふる所ありたり

予は今次出征し頻繁に田舎の農村を見るの機会を得たるか其政治や戦争にあまり関心なく唯苛烈なる行政を恐るるのみなること昔時と全く異らさるものあるを見て前記の所見は約二十年后の今日も大差なきものと思う

【p.82→】

    昭和一四、五、一二(漢口㐧十一軍司令部)

 前企画院総裁にして近衛公側近の一人たる瀧正雄氏近日来訪し機密事項として述ふる所左の如し

(イ) 旧臘御前会議に際し平沼男より豫めご前に於て「長期戦に応する物資は永続し得るや」との質問を発すへき旨内報有りしかは五相会議を開きて之か答弁を議せしところ池田藏相は物資永続は引き受け難しと云う、さりとて其儘之を御前にて答うるわけにも行かさるに依り顧みて他を言うことに決し英国と親善を結びて物資を永続する方針なる旨を答うることとせり

(ロ) 再度の近衛(三原則)声明の動機は主として汪精衛工作に策応するに在り

(ハ) 物資動員計画に関し昨年は陸海の意見対立し会議の席上陸軍の横山少将は席を蹴つて去りたることさへあり池田藏相の取りなしにより陸海両相を酒杯の間に歓談せしめて解決に導きたることありしか本年に至り又〻対立し未解決なり
【p.83→】
(ニ) 物動計画の前途は楽観し得す、為に事変速決の要望暗〻裡に沸然として起り来れり陸軍に対する反感、親英論の抬頭、延いて対独伊接近殊に軍事協定にまて進むことに反対の論等も政財界に盛んとなり明治初頭の征韓論時代、日露戦役直前の征露論是非の時代を再現しつゝあり、されとも事変即決論者と雖も確たる名案を現有するものは無し(以下略)

右に対し予の意見を求められたるを以て最前線に在る予は何も知らさるも概ね左の如く述べ置きたり

(イ) 帝国か大陸に発展する以上は結局英国の勢力と衝突するを免れさるに由り親英策は永続せず、将来は英と角逐するの覚悟を要す、然れとも我国の実力上今は暫く隠忍し英国と適宜連絡して事変速決を計るを可とせん、然れども中支に於ける我商権は事変前よりは優れるものなるへからす、然らされは事変の犠牲は無意味となるべし
(ロ) 近衛声明は将来の目標を示すのみに過きすして事変解決の処理【p.84→】には何の役にも立つまじ(瀧氏は正に然りと答う)、此声明の儘また此作戦体制(警備体制)の儘長期に亘るときは我占領地域内の整理のみにても容易のことに非す、満州国は未完成なるに更に膨大なる北支中支南支の政治、経済、文化を処理するは実に大難事なり例えば大磯の別荘未完成なるに今また新に熱海の別荘を建設せんとす別荘倒れとなるの虞なきやを憂うるもの也故に此際は断然一大侵攻作戦を決行して重慶と雌雄を決するか或は一大譲歩を決心して重慶と手を握るべく極力努力するかの瀬戸際に臨みありと思考す云〻

(近衛三原則声明は政略に直接関係なき我等㐧一線人としては火事の最中に如何にして火を消すやの手段を示されずして焼跡に新築すへき家屋の設計を先つ聴くの感あり)

 

    昭和一四、五、一六(漢口㐧十一軍司令部)

 帝国の現勢上頻りに又〻南進論を唱道するものあるに似たり然れと【p.85→】も予は絕対的にはあらさるも相対的に南進論反対にして依然北守論なり即ち国の本屋の裏庭たる日本海の平和か未た確保せられすして遠く別荘を南方に設けんとする如きは本末顚倒なりと云うへし舞鶴に鎮守や要塞か尚ほ必要なる形勢に於て海南島占領を喜ふか如きは寧ろ滑稽に近しと予は思う
さわあれ北守には限りありて裏庭の隣地も限定せられあり故に将来裏庭か確保せられたる暁には南進固より可なり是れ絕対的にあらすして相対的となす所以なり

 

    昭和一五、一、一九(漢口㐧十一軍司令部)

 本日号の文芸春秋に於て菊池寛は「吉野朝と維新勤王史を通して其功業といひ言説といひ日本無双の忠臣は北畠親房卿てある」と喝破せるは正に予の持論に一致するところなり予は幼年学校生徒時代即に親房論を書きたることあり未た深く彼か事績を調査する暇無きも㐧二師団長時代霊山神社に参 拝し霊山城址を仰き北畠一家の孤忠を追慕して【p.86→】益〻その持論を强めたり

 

    昭和一五、三、一七(漢口㐧十一軍司令部)

 予は軍事参議官に転補せられ明日離陣せんとす、本日漢口に参集せし各兵団長に離任の辞を述へては落涙滂沱たり、此二十一ケ月間㐧十一軍司令官として数度の大作戦を指導し貴き体験を重ねたり人はみな予の心労を慰め呉れるも自らは格別の心労もなく一日として不快の日は無く一夜として安眠せさる日はなく九江の敵前上陸の日も朝まて安眠したりき生来の楽天観にもよるも信頼すへき幕僚を得たるか為なり唯末[ママ]た敵の抗戦企図を破摧し得すして多くの将兵を戦線に残して去るは唯一の心残りなり聖戦未息残駆独帰の心境なり前参謀長たる沼田多稼藏少将の祝電に曰く

 此戦片付くまては故郷の土を踏まじと誓ひしものを
と蓋し最もよく此時に於ける予の心中を察し得たるもの也

【p.87】
    昭和一五、三、二四(長崎港外)

 予は任官以来出征七囘を含み海外に出張せしこと十六、七囘に及ひ其帰朝に際しては公的にも私的にも何か楽しみかありしものなるか今次の帰還は楽しみどころか却て心氣爽かならざるものあり眞に後髮引かるる心地なり多数の部下を犠牲にし申訳無しとの感慨もあり末[ママ]た知らさる銃後の暗黒面に触れる厭氣もあり従来海を渡つて帰るときには大低[ママ]航海半にして頭から外地のことか離れて行つて内地のことへ移り行くのを例とせしか今囘は今や長崎港外に達しても尚ほ戦地のことか頭にこびり付いているという感情なり恐らく軍状奏上を終るまでは此感情は変わるまじと思う

 
    昭和一五、三、二六(東京)

 本日国府津を発し東京駅より宮内省差𢌞しの馬車に搭乗して参内し軍状を奏上せり、東京駅には侍従武官の御差遣、各宮家御使の御派遣出迎者多数あり

【p.88→】

宮内省御差廻しの馬車にて参内するは三囘目なり㐧一囘は昭和七年六月二十四日上海事変終結凱旋の際植田軍司令官代理に前参謀副長として随行、㐧二囘は昭和十年一月七日前関東軍司令官菱刈大将の帰還に際し前参謀副長として随行参内せしなり今囘は軍司令官として復命することなれは一入の光榮を感するも二万の陣沒者(戦死一万三千)三万七千の負傷を生せしめたる身として二重橋を渡る際には眞に断腸の想ありき軍状奏上後「此度は永々御苦労てあつた」との優諚を拝す尚ほ御紋付銀製大花瓶一、金三千円を下賜せらる
次て皇后陛下に拝謁の際は軍司令官として永々御奮闘誠に御苦労凱旋御目出度う益々自愛して御奉公する様との御言葉を拝し銀杯一、金七百円を賜はる、宮中喪のため御陪食は四月五日に賜はりたり

 

   昭和一五、三、二九(是日開院宮参謀総長殿下より賜はりし御言葉は別紙保存しあり)

 本日皇太后陛下に拝謁、御礼言上並戦歴大要言上の際「軍司令官として【p.89→】永々戦陣に奮闘し今囘目出度く帰還先日は軍状を奏上し聖上にも御満足のことと拝す陣中の勤務はさぞ苦労多かりしならん誠に御苦労でした別段病氣にも罹らざりしや(幸に健康を続けたりと奉答)それは何よりであった誠に御苦労でした」との御言葉を賜ひ別室にて酒饌を賜ひ尚ほ銀製巻煙草入れ及び金三百円を賜はる

 

   昭和一六、一二、二九(北京北支方面軍司令部)

 大陸新報の堀川記者か来訪して語る所に依れは先日上海に到り市参事会員たる岡本一策氏に面会し談偶々予のことに及ひたるか岡本氏は安東領事時代全満領事会議の際時の関東軍参謀副長岡村少将以下軍主脳者列席の席上に於て職を賭して軍の施設態度を批評攻擊したるに岡村副長は意外にも之に答えて肯定せさるを得ない点もあり直に改善すへしと云い而かも爾後着々之を実行に移したり其納諫、広量に敬服す云〻と追想談をなせりと云う

【p.90→】

右の事実は予は全く記憶に無く恐らく予としては当然のことを言ひ且行ひたる位の尋常茶飯事に過ぎさるか人の上に立つ者として正義と誠意とを以て人に接することの必要なることを今更の如く痛感したり

 

   昭和一七、七、八(北京北支那方面軍司令部)

 予は事務の経験乏しきも凡そ事務を処理するには先つ大局的に常識的に事の目的、根本を見定め是非を判ち然る后法規に照すへきものにして所謂事務に堪能なる者か法規を通暁するの余り凡て先つ法規の尺度を遵用して時に大局の観察を誤ることあるの意見を有す
之に関し数件の実例を会囘想すること左の如し

(イ) 昭和四年(或は五年?)の二月二十七日時の参謀総長鈴木荘六大将は定年万限に達するに由り同日附を以て金谷範三大将か後任に親補せらるることに内定す、二月二十日前後の頃なるか予は補任課長として二月二十七日の親補式に付内閣書記官並宮内省当局に内交渉を始めたるところ彼等は陛下には目下葉山行幸中であり【p.91→】葉山等行幸中には国務大臣任命の場合の外親補式を行わせられさる内規現存しありとて之を盾として頑として親補式省略、耺記伝達を主張す、予は之に対し抑々参謀総長軍令部長と共に軍令に於ける最高補弼者にして国務に於ける国務大臣と肩を併ふへきものなり天皇の統帥大権に関する参謀長を御自ら御任命遊はすことなれは国務大臣同様是非葉山に於て親補式を挙行せられ度く、現内規は広義的に解するを至当とすへしと二三囘毎日宮内省と内閣とを訪問して熱心に述へたるに宮内省側先つ予の意見の正当なるを認識せしか内閣側には別に政治的理由があることを発見す卽ち時の浜口民政党内閣は議会解散総選挙中にして二月二十七日は宛も選挙日に想到するに由り親補式陪席のため総理大臣の葉山に赴くことを好まさる事情あることを看破し得たり

而して当時国務大臣の序列総理大臣の次位にあるは我宇垣陸相なるにより予は内閣に対し目下地方出張中なる陸相か総理大臣に代り葉山に赴くこととし親補式を挙行すへき妥協案を提出し内閣も【p.92→】遂に同意せり、二月二十六日宇垣陸相旅行先より帰京せしに由り予は右の経緯を述へ独断葉山出張を決せることを詫びたるに陸相許諾せられ遂に葉山に於ける参謀総長親補式を行ふことを得たり

(ロ) 予か補任課長時代昭和六年九月満州事変勃発し在満の平時部隊 たる関東軍司令部、㐧二師団並㐧一独立守備隊は戦闘を開始し次て朝鮮より混成一旅団、飛行一中隊か臨時編成の上戦線に加入せらる、当時の動員(編成)条規に依れは動員(編成)部隊の耺員表を調製して之を上奏することに定められありしため補任課々員は省部動員関係各課と連繫の上右の混成旅団並非行中隊の耺員表を調製して予に提出し卽時上奏手続を取られんことを請求之に対し予は

動員条規は全軍出征の理念の下に定められたるものなるべく旣に作戦しある軍主力の耺員表は其平時部隊なるの故を以て上奏せず、增援の一部軍隊のみ耺員表を上奏するか如きは杓子定規と云ふものなりまた此上置上奏の趣旨を忖度するに作戦中の軍【p.93→】隊の将校耺氏名を豫め御左右に奉呈し置くへきものなるや明らかなるに、旣に作戦中の軍司令官以下主力部隊の分か上奏しあらさるにこれから作戦地に入らんとする一部々隊の分のみ上奏するは沒常識なりと

とて上奏を反対し且条規に拘らす平時部隊たりとも関東軍司令部㐧二師団、㐧一独立守備隊等の耺員表をも併せ調製したる上一括上奏すへしと指示せり、之に対し我課員は条規一点張なる関係各課への交渉に約一週間を費して漸く予の主張の如く一括耺員表を調製せり

(ハ) 予か㐧二師団長として哈爾賓に在りて浜江省一帯の治安粛淸に任せしとき特に他の兵団と趣を異にし一見役には立たさる如く見ゆる満洲側の治安軍、警察隊等の特長を発揮し其働き易いように仕向けてやることに努力し以て我軍の討伐活動と相俟って大に成果を上げ得たるか昭和十二年十二月寒冷期に入るや省内の匪賊の全部たる約六、七群合計約八百五十人は老嶺山脈に立籠れるの【p.94→】確報に接す、正に之を全滅すへき好機会なるも武力討伐は地形其他の関係上至難なり仍て予は其糧道を絕つて全滅に導くに決せしか、糧道の発見、糧秣移入の封鎖等は地方事情に通せさる我軍の到底克くする所にあらさるを以て指揮下に在りし満洲国治安軍両旅に若干の警察部隊を附して之に当らしめ我軍は之が後詰として其后方各地に終結協力する計画を立案せり、然るに辺僻なる老嶺山脈麓の広大なる地域に此封鎖陣を布く治安軍の補給給養は大問題にして不可能に近し我軍の糧秣を以て之に充つるには当時の関東軍司令部規定により莫大なる経費を治安部より軍司令部に支払うを要し該両旅団かこのことを治安部に申請して交渉を始むるときは其成否覚束なく成功するとするも多大の日時を要すへし、又予の感情としても平素部下の如く愛しおる両旅に対しかゝる水臭き後払補給は成し得る限り避け度く、彼我考慮の結果予は師団経理部長の意見に基き哈爾賓の倉庫に在りし糧秣の中所要量を廢品処分に附し之を治安軍両旅に贈与せり該軍所要量約三か月以上に【p.95→】相当しその士氣大に振い独力匪賊を討伐して山中奥深く遁入せしめ爾後山中に露營し匪の糧道を悉く絕ちしかは二ケ月后に至り五年間浜江省を横行せし七人の匪首は八百五十の部下を率いて悉く降伏し浜江省には匪影を沒するに至れり関東軍司令官は両旅長に賞品賞詞を贈りて其偉功を表彰せらる、後日来哈の石原軍参謀副長に対し予は前記廢品処分の専断を告け軍に於て予の責任を問はんことを申せしに同氏は匪賊全滅成功の一大原因なれは機密費の運用等にて円満に処理すへき旨を答へ却て予の労を感謝せり

(ニ) 十三年八月予か㐧十一軍司令官として九江に在りし当時隷下指揮下部隊の兵に强姦罪相当多きに拘らす(Aの一三、八、二三)申告罪なりとて不起訴処分多し予は軍法務部長並憲兵隊長に対し親告罪の規定は平時の観念に基つく吾人は神武精神を戦場に発揮すへき大使命を有す爾今悉く申告せしむへし事実銃劍を怖れて申告せさるものならんと厳重に訓戒し爾後厳罰に処せしめたり而して十五年春帰国して当局に意見を具し約二年后はしめて戦地强姦罪の【p.96→】定められたること(A一三、八、三)に述へたる通りなり

(ホ) 本年三月十五日北平西部飛行場に於いて中国側市民の我軍に寄贈せる飛行機の命名式あり此式に列し命名の衝に当るへき予は式の直前に於て本省より送付し来れる飛行機の命名書に愛国……号(北京㐧一号㐧二号㐧三号)とあり又旣に式場に整備しある各飛行機にも右同様表記せられあることを聞知し大に驚きたり蓋し陸軍省の献納飛行機に関する係員の杓子定規余りに甚しく外国人に対しても愛国㐧何号と云ふその没常識は絕対に容認し得す、我幕僚も漫然之を見送りて今式は開始せられんとするなり依て予は已むを得す

A 命名書は中国人に交付すること無く口頭を以て北京㐧一、㐧二、㐧三号と命名

B 現物標記は愛国㐧…号を直に塗り潰して単に北京㐧一、㐧二、㐧三と改むる

 こととして式を開始せり

【p.97→】

 而して本省に本件を注意し爾今外国人寄贈の飛行機は興亜㐧 号と命名するの適当なる旨意見を具申せしめ其後その通りに一般に下達せられたり
以上の例は今想出したるままを記述したるに過きす他にもかゝかる例は多数あり

要するに法規なるものは其立案当時の時代相をも考へ其后時勢の変化もあり又萬象悉く網羅し尽し得るものにあらされは之か運営に任するものは克く大局を稽へ常識判断の下に其運用の適切を期せさるへからすと思ふ

内地に於て今や官僚に対する批難益々烈しきに似たり右に述へたると同様のこと無くんは幸なり

 

   昭和十七、一〇、一四(北京北支方面軍司令部)E
 昨日愛知県津島㐧二国民学校四、男坪内亮麿といふ児童より慰問状を貰ひしか其文中(抄略)

【p.98→】

私は閣下の部下てあつた者の子です閣下か父に敎へて下さつた「正直、眞面目、元氣」の三つと我慢を加へて一心に勉强しています云〻

と十六年前予か歩兵㐧六聯隊長として名古屋に着任の日全将兵に訓示するに当り唯一言「正直、眞面目、元氣」に御奉公せよと述へたるに由りその餘りに簡単なる訓示なることも理由となりて聯隊の単語となりしことあり、当時の名古屋附近の壮丁の特性に鑑みて思いつきを述へたるに過きさるか、さるにても敎育といふものか人生二代に影響するといふことをはしめて知り其重要性を再認識せり

 

   昭和一八、一、三〇(北京北支方面軍司令部)

対立と一如

 泰西の科学文化は対立思想を基底とし東亜の道義文化は一如思想に胚胎す、大東亜の文化再建設は歐米文化侵入に由りて混乱し対立思想に迷へ る風潮を一洗して昔なからの一如に還原するに在りと信す、

【p.99→】

さはあれ一如と云えはとて思想の根底を指すものにして萬象何もかも一如を具現すると云ふにはあらす一如則差別、差別卽一如は佛敎原理の示す所なり帝国は君民一如なりと云ふも君民の別は肇国以来顕然たり死生一如といふも之を別々に考え死来れは死を迎へ生来れは生を迎ふることにしてもか可ななり

支那事変の目的は中国人と恒久の平和を結はんとするにありて対立観に基く敵人征服にはあらさるなり司馬法に謂ふ所の以戦止戦雖戦可也は現下対支作戦終局の目的に一致するものと思ふ
我国は明治以来歐米文化の移入により対立思想混入し今日は多小一如に還元の傾向にあるも尚ほ具に現状を観るとき政府と議会、官吏と民衆、軍部と民間、陸軍と海軍、政治と統帥、各省割拠等此空前の大難局に臨んて尚ほ対立思想の容易に脱却せさるものあり
日本国民は速に対立観を捨てゝ一如観に還れ!

 

   昭和十八、一、三〇(北京北支方面軍司令部)

【p.100→】

棋道一心 予は㐧三者か感心して呉れる程、可なり頻繁に前線に出張するも在燕時の日課は公務としては書類を閲し時に決裁事務あり面会者あると云ふ程度にて出務中も時間の大部は読書にて消しあり、如何に元来読書か好きなれはとて有効ともなれは読み疲れて読み続ける元氣なし是に於て夕刻より就寢まては専ら囲棋を行ふこととなる、碁を知つてよかつたと思ふ、畑大将は逢ふ毎にあなたは碁を打つから羨しいといはれるか同しく退屈慢性病に罹つて居られるためならん、老来読書力は減退せしか棋の方は十時間以上続けても疲れさるなり、速碁にてあまり考へさるためもあるならんか、従て生活も棋主読従となり来れり

瞑想も時にやる、されとも黙想すれは何を考えても知らす識らす結局戦局の前途となり同一問題を繰り返すのみ囲碁は其間何の瞑想も無く愉快に半夜を送り得ること本啚亡物我、何計輸贏と古語にある通りなり

結局消閑の目的にて囲棋を続けありしなり、是れ昨年夏頃まての心理状【p.101→】態なり

然るに其后読書修養と反省の結果、予には元来雜念の惡習慣ありて物事に一心になれぬ欠陥ありて一心になる必要を痛感して色〻一心になる工夫を講しありしか此際囲棋もまた一心になる修養法の一つとして之に臨むこととし爾後棋道一心の心境に入るを楽しむこととす勝敗は問題にあらさるも勝負事には勝つかよろしく、唯勝たさるも亦かなりとの心境にならさるへからす

近頃茶道を自己流に創めんとするも亦同し目的なり

 

  昭和一八、一、三〇(北京北支方面軍司令部)E

 観察や判断は冷静公平ならさるべからす、然れとも人情の弱点として兎角希望を頭の中に残しつゝ物事を判断し観察するの弊あり、予は多年情報勤務に従事し希望を判断に織り込ませさることに努めたることを囘想す
戦局の前途を判断する近頃の論調を観るに其多くはこの希望を織り込【p.102→】みたる判断乃至観察なり、かゝる議論なり判断なりが果して国家の為になるや否や疑無き能はず内地工業の実情など予は全く知らさるが此大戦は決して短期に勝利を得ることなどは不可能なりと思はる

 

   昭和十九、一〇、三一(㐧六方面軍、南岳)C

 昭和十二年予が㐧二師団長として哈爾賓に在りしとき、支那事変勃発し、予の隷下よりも混成一旅団を熱河、内蒙古経由蒙彊地方に派遣せしめらる、時に七月中旬にして暑熱の盛んなりしか、予は此作戦は冬に及ふは必至にして而も蒙彊地方の兵站関係を考へ冬服后送は到底期待し難しと判断し、出動将兵全部に特に冬衣袴着用を命したり、篠原旅団長以下事の意外に驚き夏服着用を懇願し、其出発直前にも将兵の意嚮を反映して旅団副官来り懇願せしが予は断乎として之を許さざりき曰く「蒙彊は標高一千米の高原にして夏涼しく冬の来るは早し、若し暑氣のため作戦行動に不便なれば一時上衣を脱せよ、冬季に入りてより冬衣袴なきを嘆するを聞くは予の忍びざる所なり哈爾賓より南満、天津、北京を経て冬衣袴の適時戦場に到着することは到底期待し得さるべし云〻」と

【p.103→】

年末旅団将兵任を終へて帰り来る。旅団長以下太原攻略前後寒氣相当烈しく冬衣着用の兵団は他に無く我等のみ幸なりき、閣下の先見に感謝すと述へたり

今囘湖南に前進するに際しても旣に十月なれは司令部一同冬服を着用するを可とすへき旨一寸副官に告けたるも副官は旣に夏服着用、先方到着后冬服に着換へることに決定せられたりとのことなりしかは强て争はず、夏衣袴にて出陣せり。湖南省は相当長く暑熱か続くへきも兵站線の不完全なること並其故障豫測等を考へすして凡ては目前の状態を基礎として物事を定めるのか人間の通弊なり

しかるに四十日雨の天候異変に依り元来不良の兵站線は益〻不良となり遂には補給交通途絕し、司令部の先発隊すらも二ヶ月を要して漢口より南岳の溪谷は夏支度にては凌き難きに至り予は頻りに前項ハルピン時代冬衣問題を囘想せり将来を持つ者は現状のみならず将来を洞察して物事を計画すへしの一例なり

【p.104→】

   昭和一九、一一、廿五(南岳㐧六方面軍司令部)E

 松井参謀総長来電に依れは二十四日予に対し左の優渥なる勅語を賜はれり

朕卿ニ委スルニ支那派遣軍統率ノ任ヲ以テス惟フニ現下ノ戦局ハ寔ニ重大ナリ卿深ク宇内ノ大勢ニ稽ヘ籌画宜シキヲ制シ愈々軍ノ威信ヲ宣揚シ以テ朕カ信倚ニ副ハンコトヲ期セヨ

奉答文左の如し

支那派遣軍統率ノ大任ヲ拝シ優渥ナル勅語ヲ賜ハリ洵ニ恐懼感激ニ堪エス粉骨砕身死力ヲ尽シテ聖旨ニ応ヘ奉ラムコトヲ期ス

余は生れてはしめて個人予に対する勅語を拝す、眞に感激の極なり、更に覚悟を新たにす、支那事変解決の転機を把り以て宸襟を安んし奉らさるへからすと心に期する所あり

【p.105→】

   昭和一九、一一、廿五 統御茶話Cに記述

 予は少とも一五年此方立腹したこと無く心配したこと無きを天に感謝せずんばあらず。

予は青壮年時暢氣なるも短気、無頓着なるも過敏なる両面矛盾性格を有し親友にあらさる予と心より接するなき一般人よりは短氣過敏と認められありたるを記憶す

然るに壮年以来大に酒を飲み酒席に於ては短気の大禁物なることを苦き体験の結果自覚して酒席にては専ら暢氣明朗を旨とするに至り飯洒以外の平常も自然にその習慣となり

支那に勤務し中国人と接触するやうになりし以来短気氣の大禁物なることを体験し中国人の言動に一々腹を立てて居ては際限なきを悟り忍耐忍恕か自然に修練せられて、短氣過敏は大に削減せられ暢氣無頓着の反面のみ残るに至れり洒と中国人は予のために恩人なりとも云ひ得【106→】へし

聯隊長時代以来部下運に恵まれ到る処優良なる補佐官を得て耺務を相当以上の成績を以て遂行し来り心配を無用とする習慣的性格ともなりたる点ありて此辺部下殊に幕下補佐者に対し感謝せずんはあらす

又天運武運に恵まれ神功あることは一つの信念とさへなれり少尉時代北鮮に於て再度海上遭難せるも微傷だも負はす爾后飛行機事故、敵弾下(極めてその機会少なきも)等に逢ひても幸にも毎に微傷だも負はす為に危険に遭遇するも常に神功を必信する習慣となれり

戦運良く大作戦常に成功することは寧ろ他人の唱ふる所なるか、寔に然り御稜威に感謝するのみ

斯くの如く危險に臨んても作戦に際しても余は眞に毫も心配せすして今日に至りしなり

戦場に於ては人の性格か露出し易きものなるか故に余の麾下参謀たりし者は克く予の性格を熟知し殊に二囘以上予の参謀を勤めたる士は此予か心配せさる点に信頼しあるか如し然るに一般人の客観は然らず、【p.107→】地位高く責任の愈〻重大となるに及ひては心配か增すへしとは無理からぬ観察にて北支在勤以来此意味の慰問辞を受けたること頗る多し

今次総司令官へ転出の留別会食席上某部長曰く

総司令に御栄転になり愈〻御心配多からん云愈〻

と傍らに在りし宮崎参謀長微笑して曰く

此閣下は心配をしたこと無いよ云愈〻

と予は唯莞爾としつ黙するのみ


    昭和二〇、五、九(南京総司令官)

 予は毫末も政治的野心無き事は自ら確信しある所にして部下の友人中にも此事を十分認識してくれる者少なからす

然るに二年程前より折り折り(ボツボツ)と予を政治的に担き上けんとする者ありて直接間接予の耳に入ることあるは遺憾なり、之に対しては毎次强く拒絕しあるも念の為其具体的事例を列記すれば左の如し

(イ) 代議士斎藤正身一派は対重慶和平の達成には重慶と最も連絡し【p.108→】易き予を局に立つるの外なしと考へ見込無き予の擁立を策劃中なり、我同期生にして代議士たる赤松寅七か時〻来燕して密告すないとあり

(ロ) 北支駐在鮮銀理事中野氏、北京飯店経營の弁護士、代議士楢崎渡氏等は時〻上京して中央政治家と内談し、予を政局担当候補に擁立しつゝあり、北京大使館の土田公使も此一味なり

(ハ) 前内務大臣安藤中将、代議士江藤源九郎、少将蜂須賀喜信等諸氏は他の同志とも語らひ予を政治の表面に立てんと劃策を準備し蜂須賀氏よりは長文の書信か予の許に達せしも予は卽座に毫末も其意無く、却て悃外の重任継続と日支事変解決に努力することか天耺なる旨謝絕の返翰を送りたり

以上の外二年程前親友小畑敏四郎より突然蹶起を促し来れるも同しく謝絕せり  (帰京后岩淵辰雄より此に関することを聴いた)

予は中将にして武臣最高の營誉たる功一級を拝受し而して部下七、八万を靖國神社に見送りたり、残驅を捧げて部下英霊の遺志を継承すへき外何の野心かあらんや

【p.109→】
   昭和二〇、八、一八(南京総司令官)

 本月十日頃より海外通信を綜合するに我国内最上層部に於て和平降伏の色あること確実にして予も意見ありて中央に具申せしか十五日正午天皇陛下親しくラヂオ放送の終戦勅語を下賜し給ひ十六日戦争行為停止の大命に接し又昨十七日突如として朝香宮鳩彦王殿下御来甯、聖旨並最后の御前会議に於ける御言葉の伝達を拝受す
聖慮の程唯々血涙を揮て承詔必謹あるのみ、嗟万事休矣
日本は突然明治維新当時の小国状態に還りたり、邦家も個人も顧みて唯夢の夢なり明治天皇の御偉業水泡に帰したるは遺憾中の最大遺憾事なり

予個人としては旣に生存の意義を失せり、百萬の大兵を無事に内地に帰還せしむるために生ける屍として残軀を叱咤せんのみ、別項旣述の如く心配といふものをしたことの無い予も此数日来は安眠も出来す邦【p.110→】家の前途を夫れから夫れへと憂慮考究せしか本十八日に至り暗夜の一燈の如く微かなから一の光明を発見して心の安定を得たるのみならず将来の目標を邦家の為に描くを得たり卽ち左の如し

明治以来日本の企図実行したる政策は其侵略に失したる面に於ては確かに反省すへき点を認めさるを得さるも其大目標たる東亜の解放は人道の見地人類進歩の大章より見ても公明正大の政策にして世界に対し公然主張すへき事に属す、而して東亜諸民族の中心として日本に代り此大業を完遂し得へき国は今や唯中国一国となれり、故に日本としては先つ中国の强化繁榮を期待するの要あり、而して以上のため沒落日本か中国に協力し得るの途は唯た技術と経験とあるのみ

右趣旨に則り自ら現段階(和平直后)に於ける対支処理要綱を立案、参謀をして補正成文化せしめて一案を得、海軍大使館側の諒解をも得中央へも之を報告せり
本要綱全文記述は之を省略するも其要領中後の終戦業務に関係する部分を挙くれは左の如し

【p.111→】

一、停戦撤兵は毅然たる氣魂と支那の繁營に協力する大乗的態度を以て行ひ是を以て将来の日華結合の基礎を確立す
一、停戦撤兵は森厳なる軍紀、鞏固なる団結の下正々堂々之を実行し此間治安を確保し対民衆愛護を旨とす自衛上已むを得さる場合は機を失せす武力を発動す

一、武装引渡は正式中央政府軍に限り統制なき地方新軍には断じて引渡せず

渝延関係には固より何等関係せさるも共產党の不法行為に対しては断乎之を排斥す

一、中国側に交付すべき武器、弾薬、軍需品等は統帥命令に基き円滑且完全に正式中央政府軍に交付し進んで中央政権の武力充実に寄与するを計る

一、在支軍用及国有諸施設資材等は一切破壊毀焼を厳禁し完全に支那側に譲渡、其復興に資す
帝国の投資による施設は成しうる限り対支賠償の一部に充当す

【p.112→】

一、在支居留民中の成るへく多数、殊に技術員は接収企業に関し中国に留まり其技能を発揮して他日の日華提携の根拠を成形するに努む(日本将兵の技術員も之に準す) 殊に交通、通信、重要事業場、工場、公共事業に於ける日系社員は一時的に退去することは事実的に不可能なるへきを以て暫く留まり漸進的に退去す

一、新に日本の技術機関並技術員を支那に進出せしむ
(以下省略)

 

   昭和二〇、九、三(南京総司令官)E
 予は今度の戦争間より終戦により次のことを痛感せり
 結局地大人多の国は大国にして强固なり中国か地大物博を誇るは形式的に見ても眞理なり蘇か独に破れさりしも中国が凡ゆる点に於て軍事的には日本に勝目なかりしに拘らす屈服することなかりしも地大人多のためなり、独にちが之に反し遂に敗北したる正に反対の条件に立つ【p.113→】を以てなり

例へは将棋に於て飛、角、金銀無くとも極めて多数の香、歩を保有し詰まんとすれば何枚でも盤を後にたして逃けれは容易には詰まさると仝しなり

英国は大国なるも世界に誇る自治国の連鎖に基調を置くものにして人多といふを得す、結局下り坂に在りといふへし将来の大国は 米、蘇にして中国も巧く行けば大国たり得へきも前途は眞に遼遠なり

日本は人多の点に於ては相当なるも地狭にして今日まての観念にては大国たり得る見込みなく一等国よりして四、五等国に沒落せる の感あり、政治経済上よりは然り、然れとも尚ほ文化、道徳、科学、技術等の部門に於ては一等国たるの見込みなしとせず、日本よ果して何処に行く嗟

 

    昭和二〇、九、九

 予は内地の実情を詳知せさるも我敗因として皮相的に観たる所を【p.114→】項目にして述ふれは左の如し

1 敵殊に米国勢力の過小評価(開戦前後宮大将並岩畔少将等は対米非戦論を主張しありたり)

2 対北方の確信無くして徒らに遠く南方へ空進展せしこと

 北守㐧一か予の持論なりき、満洲確保確保位のところにて徐ろに後図を策すへかりしものならん

3 陸海軍の対立張合ひ 其実例頗る多きも現に降伏の際にも九月二日東京湾に於ては梅津参謀総長か海軍をも含みて責任調印しあるに現地我等に対しては支那方面艦隊を降伏に関し予の指揮下に入るること無く単に事務統制といふことに指示し来る(我幕僚も事務統制なれば併列調印至当と最初は主張しありたり)然れとも予は断乎として予一人の責任、予一人の調印を以て台湾、北拂印を含む所定地域の降伏に当ることに決せり、思ふにかゝる不愉快な仕事に一人でも多く併列調印せしむる必要もなき也福田支那方面艦隊司令長官【p.115→】は古武士的風格の人にして中央の指示如何に拘らす実質的に予の指揮下に入るへしと言はれ調印式には調印せす参列のみなれは代理にてもよろしきに態々来甯式に列せられたり其高風欽仰に値すると同時に東京に於ける陸海軍の今の際に至までの確執を嘆せすんはあらす

4 我戦力の著しき消耗

5 蘇連の参戦

6 原子爆弾

7 国民道義の低下

 

   昭和二〇、九、九(南京総司令官)

 本日降伏書に調印す

去る十日以来不快なることの連続にて一時的なから其の
都度多少の衝動を受けたりしか昼夜静座黙想、修養に努め禪歌「坐禪せば四条五条の橋の上、行き交ふ人は深山木にして」を黙吟しまた子文禪師の人空法【p.116→】亦空や差別卽無差別、無差別卽差別の哲理なと考へたる結果心漸く平かとなり本日調印の瞬間も別に何等異りたる心の動きも無く嘗て戦勝后停戦協定の調印時や少尉任官はしめて俸給を受領せしときの調印と何等異らさる心境を持したり

断頭台に上るときあるも願くは此心境を持せん哉

予は十六歳にして東京陸軍幼年学校に入学せしより陸軍に奉公すること実に四十七年此間武運に恵まれ出征八囘に及ひ其㐧八囘目は戦線生活四年半其間三たひ最高司令官を奉耺せり又海外出張は歐米一囘、大陸九囘に達す、卽ち少年以来全生涯を挙けて外地に勤務し多少国家の為御役に立ちしと思ひ居りしに今や突如として悉く水泡に帰し去りぬ、顧みれは唯夢の又夢のみ

今後余生を全うするとも今更他の耺業に就くの技能と意欲とを有せす内政は元来関与せさるところ况して民間の事業をや、唯過去三十年中国に関係して聊か中国の事情に通し中国に友人も少からざるを以て若し予にして今后も国家に奉公するの途ありとせは日華関係の仕事に当【p.117→】るの外なし予の微力が邦家の大業と共に水泡に帰したるは致方無しとするも約十万の陣沒者を部下に出し其陣沒を殆んと無意義に至らしめたるの一事に至りては眞に断腸の想無くんはあらす暫くは世事を断ち只管部下英霊の囘向を營むを以て生活を送らんと欲す、中国戦沒将士の冥福をも併せ祈る積りなり

 

   昭和二〇、一〇、二(南京総司令官)E

 降伏に際し予の下したる訓示左の如し

   支那派遣軍将兵に与うる訓示

茲ニ大命ヲ奉シ武勲赫〻タル歴史ニ輝ク支那派遣軍将兵ヲ率ヰテ敵ノ軍門ニ降ラサルヲ得サルニ至ル征戦万里皇国ノ必勝ヲ信シ善戦健闘セシ麾下将兵ノ胸中ニ想到シ更ニ皇国苦難ノ前途ヲ惟ヒ萬感悲痛尽クル所ヲ知ラス
然レトモ聖断旣ニ下リ事茲ニ至ル全軍将兵宜シク如何ナル冷厳ナル事実ニ直面スルモ飽ク迄聖旨ヲ奉体激情ニ趨ルコトナク萬苦ヲ耐忍シ【p.118→】愈々森厳ナル軍紀ノ下鉄石ノ団結ヲ保持シ挙措進止一糸紊レス克ク崇高ナル皇軍最后ノ眞姿ヲ顕現スヘシ
異域瘴癘ノ間重ネテ将兵諸子ノ自愛ヲ祈リテ已マス

   昭和二十年九月九日

予は元来統帥に於ても事務に於ても大綱主義を持し大隊部下の執務に委する方針を続行し来り今や勝ち続けたる軍を提けて負けたる軍に降伏せんとするに際し百万部下の心中を洞察し言はんと欲する所多〻あるも斯くの如き環境に立つことは夢想だもせさりしことなれは適当に表現すへき言葉を見出す能はす、右訓示案は其内容、文章に於て多少不満の点あるも従来の主義と右の事情により其侭に決裁したる次㐧なり

 

   昭和一四、三、六(漢口㐧十一軍司令部)F

 最近重慶を脱出せる汪精衛の一派は和平声明を発したるか作戦上に【p.119→】は何等の影響を及ほささるは我等㐧一線人の感する所なり支那の政治は今尚ほ兵力を根底とする実力か物を言ふなり言論のみの汪精衛を樹てゝ果して和平を導き得るや否や疑問なりとす

支那軍中其団結力に於てまた其数、素質装備に於て絕対優勢なるは黄埔系にて固めたる蔣介石時純直系部隊なり、萬ゝ一旧東北系、西北系、四川系、広西系、広東系の地方雜軍か連繫協同(あり得さることなるか)したりとするも到底純直系軍には刄は立たず、共產軍は勇敢にして団結力あり且其施策は青年層の人氣を博するに値ありとするも其実力これ又絕対に純直系軍には及はず

我政府乃至は戦争指導者は汪精衛の離脱に満足し将来之を中心とし、北支、南京の臨時政府を併せて和平中国政府を樹立する企図を有する者あるか如きも、是を以て重慶蔣介石と和平妥協を計る如きは到底不可能なりと予は観察す、况して彼等の仮政府が軍事的には勿論、政治的にも重慶を圧するか如きは一場の夢なり兎も角も支那の国内に対立的政治組織を作ることか果して事変解決に役立つや否や頗る疑問とす

【p.120→】

黄埔系か絶対の中心也と考ふる予は我政府の「蔣介石を相手とせず」との近衛声明には不同意なり之を徹底的に征服すること我実力不可能なりとせば寧ろ直接之と適宜妥協するの方針も賢明なりと考ふ

一方事変の長期化に伴ひ共產軍益〻拡大せられ現下は国共提携抗日に協力しあるも元来氷炭相容れさる両党は将来抗争を再現すへく又共產党は勿論㐧三インターの支部なれは其背景たる蘇聯は日支共通の永久の敵ならすや、此点に就きても重慶との関係を再考すへき秋なりと思ふ

 

   昭和一六、一二、一六

 我国の支那通なる者の中国人に対する根本的態度に明らかに二つの異なつたものかある其一は中国人の性格に鑑み我方誠実を旨とするは馬鹿らしく善い加減に利害本意にて捌くへしと為し他の一は飽くまて誠実を以て接すれは中国人と雖遂に我を信頼し喜んて事を共にするものなりと云ふに在り而して予は後者に与す、旣往の体験はみな之を証す、【p.121→】現下中国に在る日本人は其個人なると企業なるを問はす悉く中国人に対し誠心誠意を以て八紘一宇の拠点を自己所在地に建設するに努めたらんには日華提携の基礎を確立し得へしとは予の意見にして現に之か曙光を旣に各所に散見するも予の此意見か中〻に徹底せさるを憾む

 

   昭和一七、七、一(北京北支方面軍司令部) F

 予は大陸に在る軍人軍隊は勿論邦人の個人たると団体たるとを問はす凡て自分た乃至は其在る土地か八紘一宇の基点たるへきことを主張しあり自己周囲の華人を精神的に把握し共存共栄の堅き連繫を結ひ以て共產党の工作なと一歩も進入せしめさるを理想とせさるへからす
此見地に基き今日まて一通り地方の会社、工場、鉱山等の企業場を視察したるか其周囲の農村を日本の各会社は其担任せしめられたる鉱山、工場等に優秀なる技術者、【p.122→】経営者等を派遣し生產上の成績を挙けあるも此八紘一宇拠点形成の点に於ては槪ね不成功なり蓋し内地に於て豐富なる経験を積みたる是等優秀者も大陸発展に就ての心構に於ては極めて幼稚にして無経験なればなり又その熱意にも乏し前記成功せる三者の当局者はみな満洲に於ける経験者なることを思へば日本人殊に内地にのみありし日本人の大陸発展や日華提携の成功の前途は尚ほ遼遠なるを想ふ

 

   昭和一七、六、二八(北京北四方面軍司令部)

 北京、天津、上海等には有閑階級極めて多数居住し其中には親日派を標榜し好んて日本人を接見するものまた少しとせず彼等は安居徒食しありなからなほ機会を得て何かの耺にありつき発財せんと内心希望しあるものも多くこれか為に現在局に当る者を罵りデマを飛ばし甚しきに至りては日本当局を訪問し或は遠く東京まて出掛けて眞しやかに現状を述へ当局の地位を奪つて代らんと企む者もあり

現地にある日本人の有閑階級や内地よりの旅行者は是等中国の有閑階【p123→】級の言説を聴きて事の眞相に触れたりと錯覚し自分一人て錯覚してゐる間は無事なるも之を以て政府当局を動かし、政府の対支政策を混乱せしむるに至ることあり又斯くの如きは善良なる国民同志の眞の提携には却て害を及ほすなり

 

   昭和一七、一〇、三一(北京北四方面軍司令部)F

 和平陣営に来投せる某師長の手記中に日誌関係に於て左の意味の言あり

中国人は国家の為よりも個人の為なることを重視す故に国家の敵よりも個人の敵を憎み又国家を侮辱するよりも個人を侮辱する者に対してより反感を有す歐米人は多年国家として中国に害を与へたるも彼等は個人として中国を侮辱せず然るに日本人は之に反し中国人を侮辱する者少とせす故に中国人は今尚ほ英米人に対し日本人に反感を有するなり云〻

以上は個人よりも国家を重んする日本人の尺度によりては測り知るを【p124→】得さる所なり

中国人と雖も近年民族意識の昂揚と共に必しも右の言葉の如くには非すして少くとも智識層に於ては国家を重視し来り殊に新聞其他表面言論上にてはしかりと云ふを得へきも右の日本人と中国人と根本的に異る点あるを認識せさるへからす昨年南京に於ける日支文化協会の席上広東の一中国青年文化人は喝破して曰く「日本人は思想か生活を支配し中国人は生活か思想を支配す、日本人は中国人の生活を重視せさるへからす」と

 

   昭和二〇、二、二〇(南京総司令官)F

 上海の袁良より船津辰一郎を密使として予の許に派遣し蔣介石より伝言あり予の赴甯は南京政府との関係上都合不良に付来滬せられ度との事なりしに由り二月十四日上海に於て袁良と会見す、袁の入渝せしめたる派遣者か離渝に臨み蔣介石と会談せしとき蔣介石は陳儀(予の懇友の一人)立会の下に予に対し左の如く伝言せしめたり

【p.125→】

一 中国は米国と離るることは不可能なるも中日両国の提携か大東亜の為に緊要無二なることを認識す

一 故に適時日本の為に発言するの用意を有す日本を救うものは予あるのみ、然るに日本人か予の眞意を誤りあるは遺憾なり

一 相互に行き過ぎぬ矢うに致度し

右蔣の対日眞意は本音なるへし、予もまた日支両軍の停戦を欲するも目下の情勢上所工作容易に進捗せす、何れにせよ、戦争している一方の元首が一方の総司令官に伝言するところに支那事変の特異性をみる

 

   昭和二〇、九、六

 八月十五日終戦と共に蔣委員長は全国民に対しラヂオ放送により

暴力に代ふるに暴力を以てすへからす日本との過去の抗争は水に流し日本人に対しては旧悪を思ふ勿れ、侮辱暴行を戒め大国民の態度を持すへし

と云ふ意味の訓諭を発したり其態度眞に敬服に堪えす八月十七、八日【p.126→】頃北平、上海には早くも中央系の新聞創設せられたるか其初号の社説は一齊に右蔣委員長の布告と同一主旨を掲げたり

各主要都市の要人中にも今日中日提携を以て東亜復興を計るへしと論するもの多し

上海の新市長、蔣伯誠、副市長呉紹樹もまた同一主旨の談話を発表したり上海街頭に於ても日本兵に暴行せる中国人に対し之を制止したる中国智識階級あり又接収に来りし軍人中にも技術部門に於ては日本官兵の一部に残つて貰はねはならぬと早くも洩すものあり

然れとも根强き抗日精神か報復心として対日本人暴行として現はれたるものも少しとせす

 

   昭和二〇、一〇、一(南京総司令官)

 終戦以来中国上層部の日本人に対する怨に報ゆるに德を以てするの方針は其末梢には未だ徹底せさる感あるも大体実行に移されつゝあるも街頭時に日本人に対する暴行事件あり又新聞紙は旣述の如く最初は蔣【p.127→】委員長の方針に基き対日寛大論を記載せしか其后は連日に亘り過去の日本の行動を批難しまた現在の日本の政治社会を批評し毫末も日本に対する好意を見す、接収に於ては軍関係も政経関係も日本人を残置せしめて相当の待遇の下に仕事を継続せしむるもの少からすして日華親善の基盤の一つたり得へしとさへ思はしむるものあるも裏面に於ける中国人の反日感は相当根强きものもあり、将来相当の努力を要すへし

 

   昭和二〇、一〇、一三(南京総司令官)F

 華北電〻各社は一昨十一日接収せられしか、接収員の社員に対する訓示の要点左の如し
一 中日社員は提携服務すへきこと
【p.128→】
二 日人は蔣主席の温情を感戴し安んして耺域を守るへきこと
三 今后社員は華人社員より侮辱を被りたる場合之を報告し上長は之を公正に処理すへきこと

 華北交通本社接収の場合もほぼほ右に同じ

 南京豐田自動車修理工場接収員は現状の儘仕事を継続せしめ自己も社内に同棲し日人の好遇も従来通りとなし日人は集中營に赴かしめず、依然社内に居住せしめたり

 

   昭和二〇、一〇、二二(南京総司令官)F

 九月九日正式調印に際し先方にては豫て米人側の指導に依り我方は敬礼し先方は決して答礼せざることに定めありしところ何王欽総司令は最初我等一同の敬礼に対してまた小林総参謀長の㐧一囘の書類提出に対しては答礼せざりしもその㐧二囘よりの提出に対しては思はず起立答礼をなせり、豫て敬服しある何氏の人格を偲ぶに【p.129→】足るへく此辺東洋道義は歐米人の理解し得さる所なるへし

 九月某日何総司令部より南津浦線各地視察に派遣せられたる某中将は所在日本将兵に対し演術を行ひしか其中に日本は中国に於ては敗北したるに非す、中国軍は勝ちたるには非すされとも斯ゝる詮議立ては止め吾等は過去のことを水に流し中日提携に務むへきなりと述へ将兵を感激せしめたり

 先日閻錫山は我延原参謀に対して右と同様のことを述へ又先般歩兵敎育隊の接収に任じたる中国某参謀も右某中将と同じことを述へさりと云ふ

 湯恩伯高級参謀曾少将は予は十数年来抗日の急先鋒なりしか上海進駐以来東亜の情勢を考察し急転囘して中日提携論者となれりと述懐を洩らせり

 日本の高級技術、同技術員を中国に移入せんとする意欲は大に强くなり来れり(上層階級に於て)

【p.130】
   昭和二〇、一二、二五(南京総司令官)F

 十月廿一日何総司令と懇談の際左の言あり

 貴総司令官の責任を重んする態度並貴司令部耺員の勉励により接収は順調に推移しつつあり此機会に中日提携の氣運を樹立し永く子孫の時代まで伝へ及ほす如く致し度し云〻

又予の中日提携氣運の台頭を語れるに対しては全く同意なり予は軍政部長時代以来中日提携を高唱し来れるも国内事情もあり意の如く進展せず。一方日本軍部内に於ても蔣委員長や予の眞意を諒解せさる者あり遂に両国先端をひらくに至りたるは洵に遺憾とするところなり、磯谷、喜多両武官等にも之を説き若し日本か中国に侵犯せは外国が介入し事態は容易ならさるものに進展すへしと申したることあり蘆溝橋事件の直前七月三日のことなり喜多氏か中国は親蘇政策を捨てよ、然らされは中日問題は解決せす又広田五原則を容れよと述へたるに対し予は中日相戦はば両者共に傷き結局共產党の勢力拡大すへしと申したることありしか不幸にして予の豫言は的中するに至れり

【p.131】

 十二月廿三日蔣主席と会見の際、両国は我孫文先生の遺志に基き提携に努力すへきなりとの言ありたり

 接収面にて触れたる米人の感情中には日本人の中国人と親密なるを喜はさる点あるを見る、十二月某日米国ライフ誌記者某(失念)予に会見を申込みたる際、貴下は華中、華南約八十萬の日本軍を再編成して中国軍に移すへき密約を結へりとの噂あるか眞偽如何との質問を発したり

中国提携を好まさるもの中国人にも相当多きも米国もまた然りと思ふ、此か方法其他将来考慮を要す

 重慶より来れるO氏の言(将来中日関係)

 

   昭和一三、一一、三 G

 武漢攻略後に於ける内地各層の論調を観るに長期戦より長期建設へ、東亜共同体、日満支提携等色々の論策あるも対共產党問題に考へ及ほ【p.132→】したるものあるを聞かず、支那事変勃発依頼支那共產党は抗日徹底を叫んて其政治力は逐次拡大しつゝあり、共產党結局の目的は㐧三インターの共同目的なる共產社会の樹立に在りて蘇聯の対外策と共に我東亜の最大関心問題たるは明らかなる以上、共產党の現状、国民党との関係等日本人としても最も注意すべき事の一つなり

 

   昭和一七、七、一(北京北支方面軍司令部)G

 予は中支出征当時現時代の兵か以前と異り敵に俘虜となり而かも敵の尋問に対し我軍の実相を告くることを嘆しありしか北支着任一年通観する所に依れは我兵にして他働的又は自働的に共產党に接しある者相当多数あるには一驚を喫せさるを得す、是れ又一面より見れは共產党の我に対する策動の一部成功なり

共產軍は我負傷兵逃亡兵等を捕獲したる場合には先つ旣に該軍内に在る日本先輩兵や日本通などにより人物試験をなし其到底物にならすと見透をつけたる兵は約二週間后に之を放還しあり其他の者は逐次共產【p.133】党的に敎育して我軍に対する日語日文宣伝や謀略に従事せしむ

此放還せられたる兵を投敵罪として重罰に処したる次㐧にて投敵罪の統計は実は一部にして而かも程度低き者のみを統計せるものにて多数の罪更に重き者は此統計には上らさる滑稽事を演しつゝあるなり

対共產党討伐時の敵の遺棄死体中に是等俘虜兵の屍を見ることありて我㐧一線兵は大に憤慨しあり時には再ひ我軍の俘虜となつて帰り来れる者もあり彼等に就きて共產党内我俘虜の状況を知り得る次㐧なり昭和十三年頃の俘虜の中には共產党中に於ける日本人の古株として延安の日本人専門学校の敎官たるものもありといふ、彼等は最初覚醒聯盟、今は在支日本人民反戦同盟といふ団体を組織しあり(註、後に日本解放聯盟と改む)更に在支日本共產主義同盟といふもの(確度は疑はしきも)去る六月廿三日成立大会を催し同二十五日毛沢東に送りし感謝電中に左の一節を見る

我等は現在日本統治階級か中国に対して行いつゝある所の戦争は正に不義の侵略戦争なることを認識しあると共に斯の如き戦争は之を【p.134】永遠に絕滅するの要あること及日本勤労大衆を野蠻なる天皇制及資本主義の搾取剥奪より開放するの要あることを固く信するものなり云〻

又聞く所に依れはノモンハン戦后交換帰来せる我俘虜を調査せるにその大部分は重傷を負ひ已む無く敵に敵に捕はれたるものなるも一部には進んて敵に趨れる者もあり捕はれて敵の尋問に応し眞実を告白せるは我支那戦線と同しく又交換数に関しては蘇側は容易に実数を告けず赤化に成功若しくは見込ある者は之を其本国へ送りたる形跡ありて此辺も華北の共產軍と同し行き方なり

 

    昭和二〇、九、三

 蘇連軍は停戦後も戦争行為を停止せす、華北蒙彊に対し遮二無二前進を続け我軍は戦闘を避けんかため已むなく八月卅一日張家口を居留民と共に撤退せり、張家口北方張北附近に於て我軍は屢〻軍使を派して蘇軍の不法行擊を中止すべき旨申入れたるも彼は頑として聴かず、【p.135→】或は我軍使を射擊負傷せしめ或は張家口数時間内引渡しを要求せり

我軍の撤退と共に共產軍は張家口を占領す、蘇軍と内応せること明らかなりと認む

抑も聯合国間に於て日本兵武装解除分担地域を協定し蘇軍は満州熱河省を除く)一円、北鮮を熱河蒙彊は中国蔣介石か担当することになり居るに拘らす蘇軍は張家口に進入したるに止まらす(后日熱河は蘇軍分担に改めたるも長城以南は固より然らず)

承德、古北口に於て無理矢理に我軍の武装を解除し更に長城を越えて華北に進出し石匣鎮に入り北京に迫らんとせしを以て我軍は軍使を派して頑强に之を拒止し一戦を持せさるの態度を示せしに古北口まで后退せり、廿五、六日のことなり如何に無軌道の蘇軍と雖も是以上は進出し来らざるへと思ひ居りしに八月三十一日に至り蘇蒙軍は軍は共產軍の誘導により山海関に進入し、進入前我軍に武装引渡を要求せり同地域軍は已む無く居留民の大部と共に秦皇島に引上げ若し山海関より更に前進せば実兵拒止すへき態度【p.136→】を示せり

山海関の我領事は外交官の惡い癖を発揮し外交交渉によつて居留民を必す保護すると我軍の全民撤退を頑として肯かざりしか結局残留せし官民の男子は全部拉致せられて北満方面に赴き女子約四十人は監禁せられ、蘇兵の為に悉く强姦の恥辱を受けたり

(その后蘇連軍同地を撤し共產軍か引続き占領し十一月下旬中共軍前進に伴ひ之を放棄せり)

蘇連は中蘇条約に於て中国の内政に干渉せすと誓ひしも今や共產軍と裏面的に一脈の連絡あること確実なり

 朝鮮の将来

蘇軍は対日開戦と共に急速に北鮮に進入し旣に北緯三十八度協定線以北を占拠し終れり、蘇連は久しき以前より其領土内に於て鮮人多数を赤化錬成し朝鮮民族復興委員会を組織しありしに由り今次此等委員を帯同して入鮮し旣に北鮮に於て独特の政治をはしめ協定線を封鎖せしか如し、蘇軍到着するや所在に潛伏せし共產派鮮人は赤旗を振りて之【p.137→】を歓迎せる旨の報あり、米軍は七日はしめて南鮮に進入の豫定にて先つ南鮮の整理に着手すへきも北鮮との分割状態の改善は蘇連伝統の我利無軌道より見て容易にはあらさるも重慶には多年上海に在りし金九一派の韓国仮政府あり且韓国光復軍の組織もありて若干の将兵を有し尚ほ我軍中にある朝鮮兵を将来悉く之に吸収せんことを目論見あり、金九帰鮮せは相当活動すへし

元来朝鮮併合当時之を潔しとせさる朝鮮士連は多く上海に遁れ独立再起を計画せしかその頃より旣に純粋の独立派と共產軍の支援を得たる共產独立派とに対立し前者は金九を中心とし、後者は中国共產党或は蘇連、満州等に巣を喰いたり

以上の蘇聯直接指導の復興委員会と東中国の共產派は勿論同一すへきも金九一派は断して之と合するものにあらず、米国にある独立派は大部分非共產派に属すべし
要するに北緯三十八度の境界線撤廢は容易の業にあらす然かもそれよりも更に困難なるは根强き根拠を蘇聯並中国共產党に有する共產独【p.138→】立派と米支を背景とする差当たり南鮮に発達すべき非共產政党との合同乃至提携なり

在支我軍中に在る朝鮮将兵の言動を綜合するに漠然として独立を喜ひ速に帰韓して軍の中堅たらんことを望むもの多きも一方に於て在来の日本の統治に満足し共產主義か入韓しては后害恐るへしとなすものあり又その大部将兵の言ふ所は我等は従来少しは対日反感を有しありて独立は固より喜ぶも米蘇支援の独立は希望せず寧ろ従来通り日本との関係を保ち度しといふにあり

政治思想は以上の如く渾沌として帰一するところを知らず、加ふるに米蘇両軍の占領か時間的に果た空間的に如何に継続せらるるやそれまた豫断を許さず、印度に似て更に複雑なる朝鮮か果して近代的独立国家として誕生し得るや否や大なる疑問にして東亜に於けるバルカンたるの公算頗る大なりと云ふへし

【p.139】
   昭和二〇、九、六(南京総司令官)

 蘇聯の野心と渝延関係に就て閻錫山氏の見解左の如し

(イ) 毛沢東重慶に赴けるは蘇聯が重慶に依る中国統一の承認並内政不干渉の態度を偽装するために毛の赴渝を薦めたると又毛としては重慶より再三の懇請と米ハーレイ大使斡旋により赴けるものなれは形式的には或は政治的部分合作等のことあらんも軍事を含む全面的合作は到底成立せさるものと認む(后日註、果して然り)

(ロ) 蘇聯の山海関、熱河、張北進出は冀東、蒙彊方面の共產軍に対し満洲よりの兵器等の補給基地たらしめんとするものにして共產軍の実力は更に增加するものと豫期す

(ハ) 延安は共產主義革命を企図するものなるを以て縱ひ抗日目標の消滅、平和克復后の内乱惹起に伴ふ不評判等あるも敢て革命に直進すへく蘇聯は表面重慶の中国統一を承認すと雖も過去に於ける対外蒙策と同しく二重政策を採るへし

重慶に於ける蔣毛会談により中国国内情勢の緩和か世界的に豫想せら【p.140→】るるに至りしも果して如何になるへきや(十二月初后記、両者武力抗争益〻甚しくなり内乱状態を呈するに至る)

 

   昭和二〇、一〇、一三(南京総司令官)

 満洲には百万、北鮮には十数万の我居留民滞留し屢〻掠奪に逢ひ「着のみ着のまゝ」にて食料缺乏、寒氣を迎へて餓死凍死に瀕し我軍は将兵分離、高級将校は監禁せられ一般将兵は蘇本国へまで輸送せられて强制労働に従事せしめられあるか如く実に惨憺たる情況に在るか如し

蘇軍進駐の際にも大都市の日本居留民は掠奪殺戮强姦を受けたるか如し 蘇は其占領地域との交通通信を一切遮断しあるを以て実相は不明なるも脱出者の言等を綜合すれは大隊以上の如く人道上の大問題なるを以て我政府も聯合軍司令部、万国赤十字社ローマ法王等を通し救済方努力中なるも毫も埒開かす而して我輿論は起らさるなり嗟、山海関は去る八月三十一日突如蘇軍共產軍の誘導の下に進擊し来り我【p.141→】守備隊は居留民の一部同伴秦皇島に撤退し若し尚ほ進擊を続行せは自衛のため戦すへき色を示したり此際山海関の我領事は守備隊長の勸告を頑として用ひず、一部官民と共に残留せしが、その結果官憲は監禁、居留民男子二百余は全部錦州方面に拉致せられ続いて强制労働のため北方に転送せられ女子四十余名は山海関に監禁せられ一人一人招致せられて悉く强姦せられたりと云ふ

 

   昭和二〇、一二、三〇(南京総司令官)

 共產軍は終戦となるや直に華北に於ける我軍の武装解除並南満占領に着手し前者は我の峻拒に逢ひ成功せさりしも後者は一旦は蘇聯の暗〻裡の支援の下に成功したり

終戦間もなく米国ハーレー大使の斡旋により毛沢東久〻にて入渝し蔣介石其他と会談し和平成るかに見えしも一面華北到る処国軍と共產軍のとの戦闘開始せられ、綏遠包頭方面、中部津浦線方面最も激烈なり共產軍は華北を飽くまで自己の地盤なりとし国軍の北上を阻止せんと【p.142→】して中部平漢線、中部津浦線を徹底的に破壞せり之か為我軍の集結、居留民の移動にも大影響を受けたり

平漢線北上中なりし国軍の二軍は磁県附近に於て共產軍の攻擊を受け軍長、高樹勲、馬法吾は共に俘虜となり大敗を喫したり

共產軍大跳梁のため用地確保、交通線維持等のため我軍にして来た武装解除を受けさるもの(華中、華南には十一月初まてあり)華北には相当あり就中山西の㐧一軍、山東の㐧四十三軍の如きは其殆んど全部、従来のまゝ任務を続行しあり

一方十一月初より塘沽、十二月初より青島に於いて米船による帰還輸送開始せられ米軍側は我軍の港口集結を督促するも中国側は、右の内情上之に応し得さる状態に在りて我は板挟みの苦境に在り

満洲へは東北保安司令官となりし杜聿明軍か漸く十一月末頃より陸路山海関より入満し大なる抵抗を受くることなく今や奉天に達し一方蘇軍と交渉して空路長春にも軍隊を送りつゝあるも要するに蘚側との交渉も円滑ならさる如く満洲占領は進渉は渉々しからず

【p.143→】

本日末より重慶にては政治協商会議開かれるへく又一方最近米国新任大使マーシャル元帥来任して大に中国統一に努力すへく豫期せらるるに至り一点の光明を認め得べきも、軍事的の渝延関係は容易ならさる如く看守せられ、たとひ政治的に一時円満の帰結を見世界的に表面の安心を得たりとするも将来依然として共產党問題は東亜の大問題、蘇米外交上の暗礁として永く残るへしと思ふ、况して中国共產党中には多数の邦人あり、内地にては日本共產党の再建活動あり、吾人は共產党問題を無関心にて看のかす能はさるへし

 (朝鮮共產党の思出、上海、閒島…)

【p.144】

昭和廿四年二月十七日附大島高精氏来翰の一節

 (前略)

 顧へば当時漢口に於ける最高の地位に座したまへる昭和十四年晩秋

 米国より出張せる飛田君同伴御訪ねいたし候時の一夜の淸談中

不幸にして日華交戦の現状とは云へ両国は決して長く戦うへからず一日も早く和平の日迎へて同胞として自然の姿に帰ること予の作戦本来の目的にして理想なり

と云ひ其后久しきに至る御尽瘁の事小生最もその御構想を知る一人に候節右飛田君の質問として当時日米戦の情報も伝ふる者有之、此事如何御高見承り度と申候内容に就て

斯の如きは愚の最も甚だしきもの維新開国の歴史を案ずるも萬国に卒先して大義を高唱し人道的立脚地を鞏固にして対日策の核心たらしめ着〻之を遂行して新日本の建設を推進せるは米国なり故に国民また開国の恩人として米国を遇したる事歴史の明文に見る通なり少くとも余は日米戦など全く狂氣の沙汰と観ず此意味に於て君の如き【p.145】多年米国にある者は之を㐧一義とし帰米の上日米経済立国の為活動せらるべし

と指示有之候事今にして思へば実に感無量に候

 二十四年三月十一日 小玉呑象師来訪談話の一節

 貴台北在勤時代大東亜戦争始まつて間もなく余に言ふて曰く「シンガポールか陥落したら戦争を止めなければならない、それか止める潮時である、止めるには卓越せる外交官を必要とするが今果してかゝる外交官ありや小林寿太郎氏を思ふ云々と、余は今もハツキリ憶へて居る」