判決文要旨(池田省一)
起訴状略す
検事求刑
「強制売淫の為に婦女子を連行せること」
「強制売淫」及び「強姦」なる戦争犯罪により
「死刑」
次に本軍法会議は次の諸点を考慮す。
本被告に対してはその相被告に対する判決文中に掲げられたる諸証拠材料(その要約せるものは同判決文中12頁 より31頁を参照)を読み聞かせ,提示したるも,これ等の諸証拠材料に基づき,同判決文中に既に立証されたる事実は総てそのまま,本判決分にも適用せらるるものとす(31頁 ー 35頁参照)。
他に,今此処に追及を要する問題は被告のこれ等立証せられたる事実に対する責任の有無,又,有りとせば如何なる程度の責任ありやとの点なり。
被告は1月26日及び1月31日の公判及び精神異常のため一時中断し3月24日(1948年)に再開せる公判廷における陳述の概要下記の如し。
基礎事実に掲げられ(また,21ー3ー’48に相被告に対し言及されたる判決文中に立証せられたる)「スマラン」における出来事に対し一部責任あることを認む。
被告は又,「スマラン」に在りたる幹部候補生隊(将校養成学校)に中佐の階級を以って,作戦掛教官として配属され,隊長能崎少将に直属しありたるも,44年1月頃,同じく同隊に配属せられありたる大久保大佐と話し合いたる際,「スマラン」軍慰安所に対する監督の不足から健全なる慰安婦が居らず性病が蔓延しありとの望ましからざる状況に就きての話から新たなる慰安所を開設せんとのことに意見が一致したるも,大久保は,此の際能崎少将に対し斯る状況に対する改善意見を建言せんと述べたるを以って,被告も大久保に同行して能崎の許に至りたり。
大久保は能崎に対し「スマラン」に新設する慰安所の慰安婦は抑留所より募集せんとの意見を述べ,能崎もこの計画を可としたるも,然し当時猶軍政当局の管理下にありたる抑留所より婦女を連れ出すことに対し,慰安所開設に許可を下す第十六軍司令部が果たして許可を与えるや否やの点を疑問としヰたり。
この談合の際には,関係婦人は自由意思なることを要すとの問題は全然話題に上がらざりしも之は言わずとも自明の理なりしを以ってなり。
猶,此の点に関し,11ー6ー1946付け12006/R号の尋問調書の第6問「能崎の許にて如何なる話が行はれたりや?」との問に対し之と矛盾するが如き答弁を行ひあるも之は事実ならず。之に関しては尋問官たる SHOUTEN 氏に対し異議を述べたるも(単に之のみならず其の他の点に対しても同氏には異議を申し出たり)効果はなかりき。即ち,尋問官は被告が調書に陳述した通りに記載せられあらざる箇所に対し異議を申し立つる度
に「夫は大して重要なる際にあらず」とか,「大体そのような意味なり」とか言い,又,尋問官自身も浜口某なる通訳も,被告が婦女子を連行し慰安所に入れたる際,欺瞞と暴力が使用せられたることを知らざる筈はなしとの態度を変えようとせず、更に,尋問官は上記の能崎との談話の件に関しては,欺瞞と暴力を使用して婦女子を抑留所から連行せることが,戦争の法規,慣習の違反なることを被告が知らざる筈なしと言いたるを以って被告は之に対しては,斯かることは良く知りありたり。また,然るが故に自由意志に基づく志望者に限ることは自明の理たりしを以って,その際自由意志云々の問題に関しては話題に上らざりしものなりきと答えたり。
被告は又,同調書に掲げられたる如く,東京より帰来直後に,暴力が用いられありしことを耳にせりなどとは述べたることなし。然し被告は法廷に於いては事実が明らかになると期待したるを以って,以上の如き事実がありたるにも拘らず同調書に署名を行いたるものなり。
拠って上述の能崎との話合ひは44年1月末被告の東京出発前に行われたるものなり。
また,被告は出発前の約2週間を,一般人中より十分なる慰安婦を獲得せんとして総ゆる手段を講じたるも,満足すべき結果は得られざりき。
被告は,大久保の計画に対しては,実際的の種々の困難を予測したるを以って全面的に同意したるものにはあらざりしも,然し一般人からの募集が円滑に行かざることが判りたる際,能崎少将の命にて軍司令部に提示する計画案を作成せり。
被告が出張をすることとなりたる際,その後任は岡田少佐となりたるも,彼(岡田)は本計画に対し熱心なりし大久保大佐に依り,爾後の「仕上げ」を課せられたり。被告はそれ以上本件に関与せざりしも,岡田少佐とともに「バタビヤ」へ同行はせり。而して此の際[?]岡田は軍司令部から許可を獲得することがその任務の一つなりしことは被告も知りヰたり。
「スマラン」へ帰任直後,44年3月末頃行はれたる会食席上,被告は前記の計画が実施せられつつあることを耳にせり。
被告自身は之等慰安所の何所へも行きたることはなけれども,将校「クラブ」の「レストラン」へは行きたることあり。
被告は「スマラン」へ帰任後は岡田とは会はざりしも,之は岡田が歩兵隊へ帰任しあり,岡田の任務は江副中尉が代行しありたるを以って,岡田自身からは事務引継ぎは行はざりし為りき。更に被告は帰任と同時に先任教官の職に戻り,新作戦原理(被告は東京に於て最新の教範[?]に基く作戦原理を修め来たりたり)のことにて多忙を極めたることもその一原[?]因なりき。
又被告は,慰安所が運営せられありと聞きたる後には,これに対して大なる関心は払わざりき。
慰安所に働く婦人に対し暴力が使用せられありとか,或は,志望者ならざるものがありと
の噂を被告は聞きたることなく,斯かることは本件の起訴事実を見せられたる時に時に始めて知りたり。
被告の帰任後約二週間して,慰安所の閉鎖命令が来たりたるも,之が被告をして調査を行はんとの動機を与え,江副中尉に対し関係書類の提示を命じたり。然し此の際、軍司令部からの書式の許可証は発見さられざりしも,婦女子が書きたる同意書はありたり。
然るに,之には婦女子が服務する用意ありと宣言したる仕事の性質に関しては何も書かれあらざりき。
被告はこの点に関し江副に説明を求めたるところ,江副は何等満足なる答弁を行ひ得ざりしを以って,被告は軍司令部よりの書式の許可証がなき旨を能崎に報告せり。
能崎は此の報告に対し「面白くない事件が起きた」と云いたるを以って,被告は能崎が「岡田を「バタビヤ」に送らねばなるまい」と云いたるを以て,此の確信を強めたり。
然し,2~3日後には能崎が自ら「バタビヤ」へ出向きたり。
この当時憲兵隊の勝村が被告を訪ね来たり,慰安所のこともその際話題に出たるも,その来訪の真意は明らかにはならざりき。然も被告は勝村が幹部候補生隊の他の将校及び能崎に対する情報を集めに来たりとの印象を開けたり。
被告は又大久保の計画に対する賛成者にはあらざりしも,然し婦女子を抑留所より連行し之を慰安所に入れることが ―― 仮令夫が自由意志にて行はれたにせよ ―― 人道及び国際条約違反行為なりと悟る程には本件を深く考えざりき。
「スマラン」駐屯部隊の将校団中に於ける大久保大佐は歩兵隊長,幹部候補生隊幹部の一員,更に能崎少将直接の部下中の再先任,最高級者として軍人の厚生に関する諸問題に於ては最優先権を有しヰたるを以て,大久保の発言に対しては傾聴を要したるものなるも本慰安所の件は此の大久保より出で,又,彼が之に対し熱心たりしを以て,実施せらるるに至りたるものなり。
被告は起訴状に掲げられたるが如き基礎事実に対し有責なることは否認し,又,特にその中に掲げられたる暴力行為を容認せりとの如きことは,被告は当時,現地に居らず,知ること能はざりしを以て認めることを得ざるところなり。然し乍ら,被告がその作成に当り協力したる計画の爾後の実施に於て,起訴状にあげられたるが如き結果が生じたることが明らかとなりたる現在に於ては,その結果に対し共同責任を感ずるものなり。
何となれば被告が能崎に忠告を行いたるならば,之等の結果は恐らくは起らざりしものと思はるるを以てなり。更に,「スマラン」にて起りたる本件は人道に対する過酷なる犯罪行為なることを自覚すると共に,之に対しては幹部候補生隊の幹部はその責任を負はざるべからざるものなりと思考するを以て,仮令被告は計画の実行時に不在似して,且つ,斯かる問題に対し無経験たりしとは謂え,共同責任をを感ずるもなり。
以上,被告の陳述に依り下記の2点は明確となりたり。
1.被告は「スマラン」に慰安所を開設し,抑留婦女を慰安婦とする計画の作成及びその「仕上げ」に協力し,而もその許可が十六軍司令部に申請せらるべきことを知りありたること。
2.被告は,44年1月末,東京に於ける新戦闘法に関する会議に出席の為出張したるも,同年3月末「スマラン」に帰任後,出発前計画されたるが如く慰安所が開設せられありたることを知り,又,之等慰安所には抑留所よりの婦女子が働きありたることも知り得たること。
「又,次の如き事実も明らかとなりたり。即ち,被告は「スマラン」へ帰任したる後,慰安所に関する事務所類を検査し,十六軍司令部の許可がなきこと及び婦女の同意書には業務の内容が記入しあらざることを発見せること。
被告は(然も能崎少将からは之に関しては何の言明も得られざること。
被告は又之を更に調査する手段は講じざりしこと。」
(上記「 」内5行は閉鎖命令後と混和しあるものの如し ―― 訳注)
又,「スマラン」慰安所事件の判決文52頁にも考量したる如く(日本人)自らが設けたる抑留所の非人道的な悪状況(食料,宿舎)を利用して抑留所より志望者を募集すること自体が既に道義と人道に反する行為なるも,本件の場合は夫と共に又戦争の法規慣習に対する違反行為なり。
更に「兵站係将校」をも兼務しふりたる被告は,斯かる計画を是認し,その計画作成に協力し,更に,本計画が如何に実行され,又その結果開設されたる慰安所が如何に経営せられたるやの監督を全く行はざりし事実に依り,犯罪行為に責任を負はざるべからず。
又,相被告に対する判決文に依りても明らかなる如く,之等相被告に依り犯されたる戦争犯罪行為は(皆)上記の計画よりその端を発したるものにして,被告は斯かることを予測し得ると同時に之を防止すべからざる[ママ]ものなりき。然るに被告は ーー 日本より帰還し再び職[?]務[?]に就きたる後 ーー 之等慰安所の状況を調査することを怠り,斯かる戦犯行為の継続を容認したるものなり。
被告は高級将校として和蘭人婦女子が一般的に,又,主義として日本人の慰安所に慰安婦として働く為に抑留所を離るることを欲さざること及び斯かることは欺瞞乃至暴力を用ひて始めて可能なることを当然知りヰたる筈なり。
被告は,又,本件に関係せる他の将校連と同様,完全に占領軍の権力下にに置かれたる婦女子の運命に対しては,一顧[?]の関心も払はず,又,服従を強ひられ自由を奪はれたる婦女子に対し前以て斯かる業務に関する提案を行ふことさえ念頭になかりし事実はそれ自体既に完全なる犯罪的意味を帯あり。
被告は斯かる態度を採ることに依り,本慰安所問題に関係せる指導的将校連を支配しヰたる精神に対し完全に共鳴しヰたることを証明しあり。
更に被告自身の自供に基くも,被告が慰安所関係の事務書類を検査したる際,軍司令部
の許可のなきこと及び婦女子の同意書には業務の性質が明記しあらざりしことを発見せりとの事実は,日本人は一般に俘虜,抑留者の置かれヰたる実際の悪状況を事務に依りて誤魔化し,上級当局対し実情を隠匿する傾向非常に多きことを立証すると共に,若しも被告が「兵站係将校」としての責任を痛感し,之が責務を果したりとせば ―― 能崎少将が極度に不満足な且つ回避的な答とか与えざりしとき ―― 何故に被告は実情と出来事に対し直ちに調査を行はざりしやは諒解し難きところなり。
以上考察を加へたる事実よりして,本被告も亦,72/1947(スマラン事件)本臨時軍法会議に依り判決せられたる事実が行はれたることを容認せりとの起訴事実に対し有責たらざるべからず。
次に量刑に関しては次の如く考量す。
検察官は被告に対し「死刑」を求刑せるも本会議は之に同意し得ず。即ち被告は,彼が協力して作成したる計画が実際に行はれたる際には現地にあらず,慰安所が既に開設後1ヶ月にして「スマラン」へ帰任しあり。又,すでに言渡されたる判決文にも強調せられある如く,戦犯行為に対する最も重い責任は実行者に負はさざるべからず。
しかりとは謂へ,被告は高級将校中の先任株(訳注 ―― 再先任にはあらざりしものの意)として,又,隊長能崎少将の最も主要且つ勢力ある補佐官の一人として,幹部候補生隊将校団より出たる抑留婦女を以てする慰安所の開設の機運を阻止すべき立場にありたるを以て,その罪状は大なるものあり。
被告も亦,法廷に於いて ―― 回避的答弁が一致せる限りにおいては ―― 此の点にこそ彼の責任が存在せることを良く諒解し,且つ又自覚しあり。
本軍法会議は又,被告は東京より戻りたる際,その関心と情や情力を近大戦闘に関する新指針の施行に注ぎ,且被告は日本軍将校として之に非常に大なる関心を払うさはざるべからずと考えたる点を斟酌し,15年の刑を以て至当判断す。
依 而 被 告 池 田 省 一 を
「強制売淫の為の婦女子の連行」
「売淫の強制」
「強姦」 なる戦犯行為に依り
懲 役 1 5 年 に 判 決 す。
↑https://db.wam-peace.org/koubunsho/document/mt-bc066/
262 J_J_066 資料名:判決要旨 第1被告 池田省一 簿冊:BC級(オランダ裁判)バタビア裁判69号事件 https://wam-peace.org/ianfu-koubunsho/pdf/M-PDF/J_J_066.pdf 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト https://wam-peace.org/ianfu-koubunsho/list/m-all-list.html