「一体主義」の概念について
一体主義といふ言葉は未だわが国において成熟した概念ではない。しかし、わが国今後の政治、経済、思想、文化の諸般を貫いて高く揚げらるべき新指標が、今日ほど切実に要望されている時代はまたとあるまい。しかもかかる新世代的な指標が生まるべき現実の地盤はすでに成熟しつつあることを、われわれは明確に認知し得るのである。その意味で一体主義なる表現自体には多くの異論があろうけれども、かかる指標が切実に要望される機が熟しつつあることを念頭において、ここにいわゆる「一体主義」という言葉の下に意味し、また意味づけらるべき性格について、簡単なメモを綴って見ることにする。
(一)「一体主義」といふ言葉は未だ成熟した表現ではなく、その意味でも種々なる異論があるとは思われる。しかし「一体主義」という表現自体に余り拘泥することなく、「一体主義」なる名称の下にでも表現されざるを得ない現実の政治的社会的諸状勢は、すでに充分成熟しているということを、考えて見ることがまず重要なのである。
(二) 一国家一国民の生活を指導し決定するものは一国の政治であり、しかも政治は思想によって導かれ、思想は信念において結晶するであろう。われわれはここに速やかに今日のこの危機時代の政治をリードする新思想が確立され、これによって新建設に即応する政治が強力に運営され、日本国家の生存と繁栄のために国民各自の胸に迫り来る東亜新秩序の内容が具体的に明示されねばならないのである。
(三) 思想の貧困は政治の低調を露出する。東亜の新秩序を断固として闘わざるを得ない日本は、最も強力なる政治を待望し、しかも今日最も強力なる政治は新しき認識の上にのみ結実する。そして新しき認識は思想化され、政治において闘われることによりて更に強力化され、ここに初めて新秩序を闘う日本の世界史的な導標となり能うのである。一体主義なる言葉は、この努力の一つの現れと解する時においてのみ、その重要なる意義を見出し得るであろう。(したがって、より適切なる言葉が発見さるれば、それに超したことはない)。
(四) 前述の如く、一体主義は未だ成熟した言葉ではないが、ただ、従来も幾分かかる言葉が用いられなかったというわけではない。例えば土肥原賢二氏がその代表的な例で、氏によれば、「天皇は神ながらの御躬で祭事を行されて、上御一人、現人神にあらせられる。かかるが故に、陛下は常に神として無限の御慈みを国民の上に垂れさせ給う。ここに国民が一体となって、また神として崇め、絶対の尊敬を捧げる。ここに君民一体が成り立つ所以ではないだろうか。それに日本の国民は彼の大化の改新、明治の御維新のごとく奉還的精神に一貫しているのも、その根底がここにあるのであろう。これが国体として上下が一つの体、即ち一体につつまれているのである。ところが、全体主義は平面的なるもので、われわれのいうところの一体主義は立体的である、それは上は下を視、下は上を見上げて、視るものを同じうし、下と上と向き合って離れざるところの根底がある。これを個人個人にしていへば、物心一如といふ訳で対立しない。飽くまで一つである。
ところで、この日本帝国の一体主義というものは単に日本だけに限られたところの思想ではなく、宇宙の真理に一貫した不変なものである。しかして、この一体主義には対立はなく、闘争もない。真に世界に拡むべき性質をもっている偉大なものなのである。この一体主義の発展として、まずわれわれは東亜の生命を考えねばならぬ。黄色人種は黄色人種で、黒色人種は黒色人種で、それぞれ同じ境涯、同じ特色をもつている。その境涯、特色を同じうするものが一つの団結、一つのグループ毎に一つの生命があるので、単に自分の民族のみでなく、黄色人種なり黒色人種なり、その各々の生命を盛んならしめ、その全体が各特色を発揮することを自他ともに許して、各々共通するところのものは相携えて各々共通するところの唯一の生命を盛んならしめる途をとることによって初めて団結が出来、一体となることが出来るわけで、それが共同体であり、本当の新秩序への道である。全体主義といふものは、この一体へ至る道程である。すなわち全体主義より、も一歩躍進したものが一体主義である」というのである。
(五) 一体主義に対する土肥原氏のこの説明には勿論議論の余地があるであろうが、しかし一体主義なる言葉の指示する方向に対して示唆される点があると思はれる。
(六) 一体主義といふ言葉は東亜共同体を裏付ける思想的な客観的な理念としての存在を容認し、新秩序を戦ふ日本の現実に照応する思想が、この中に具体的に結実されることを、切実な問題として要請されるのである。したがって一体主義といふ言葉は、個々の評論家等の理論と一応離れ、客観的な理念として、これを思想化し、具体化されるの努力が今後の重要な問題となってくるであろう。
(七) このように、一体主義という言葉は我国において未だ成熟した表現ではないが、今日までの理論的な経緯の中に現わにされ、明かに示された主要な性格は次の諸点において見られると思ふ。
(1) 一体主義は、一言で言えば 天皇帰一主義であり、皇道の本義に立脚した皇道の新世代的表現である。
(2) 一体主義は、東亜共同体の基礎観念として、今次事変の渦中から発見され、その発展において意義づけられるところに新しき役割がある。
(3) 一体主義は、民主主義、自由主義、共産主義とは根本的に相容れず、全体主義とはその性格において類似しながら、しかもその前提において異なる観念である。敢えていえば一体主義は、全体主義を更に日本的に止揚·発展せしめたものである。
(4) 一体主義の政治的性格は、現代資本主義社会秩序に伴う弊害、その国内政治的表現として自由主義、民主主義の行き詰まりを止揚し、これを新日本建設の新指標として世界史的な必然において把握すべきものである。
(昭和十四年七月十一日)
「一 [×体×] <體> 主義」の槪念に就て
一体主義といふ言葉は未だ我國に於て成熟した槪念ではない。然し、
我國今後の政治、經濟、思想、文化の諸般を貫いて高く揚げらるべき
新指標が今日ほど切實に要望されてゐる時代は又とあるまい。しかも
かゝる新世代的な指標が生まるべき現實の地盤はすでに成熟しつゝあ
ることを我々は明確に認知し得るのである。その意味で一体主義なる
表現自體には多くの異論があらうけれども、かゝる指標が切實に要望
される機が熟しつゝあることを念頭において、こゝに所謂「一体主義」
といふ言葉の下に意味し、また意味づけらるべき性格について、簡單
なメモを綴つて見ることにする。
(一)「一体主義」といふ言葉は未だ成熟した表現ではなく、その意味で
も種々なる異論があるとは思はれる。倂し、「一体主義」といふ表
現自體に餘り拘泥することなく、「一体主義」なる名稱の下にでも
表現されざるを得ない現實の政治的社會的諸狀勢はすでに充分成熟
して來てゐるといふことを考へて見ることがまづ重要なのである。
(二) 一國家一國民の生活を指導し決定するものは一國の政治であり、而
も政治は思想によつて導かれ、思想は信念において結晶するであら
う。われわれは茲に速かに今日のこの危機時代の政治をリードする
新思想が確立され、之によつて新建設に即応する政治が强力に運營
され、日本國家の生存と繁榮のために國民各自の胸に迫り來る東亞
新秩序の内容が具體的に明示されねばならないのである。
(三) 思想の貧困は政治の低調を露出する。東亞の新秩序を斷固として鬪
はざるを得ない日本は、最も强力なる政治を待望し、しかも今日最
も强力なる政治は新しき認識の上にのみ結實する。そして新しき認
識は思想化され、政治に於て鬪はれることによりて更に强力化され、
茲に初めて新秩序を鬪ふ日本の世界史的な導標となり能ふのである。
一体主義なる言葉はこの努力の一つの現れと解する時においてのみ
その重要なる意義を見出し得るであらう。(從つて、より適切なる
言葉が發見さるれは、それに超したことはない)。
(四) 前述の如く、一体主義は未だ成熟した言葉ではないが唯、從來も幾
分かゝる言葉が用ひられなかつたといふわけではない。例へば土肥
原賢二氏がその代表的な例で氏に依れは、
「天皇は神ながらの御躬で祭事を行されて、上御一人、現人神にあ
らせられる。か [ゝ] るが故に、陛下は常に神として無限の御慈みを國
民の上に垂れさせ給ふ。こゝに國民が一體となつて、また神として
崇め、絶対の尊敬を捧げる。こゝに君民一體が成り立つ所以ではな
いだらうか。それに日本の國民は彼の大化の改新、明治の御維新の
如く奉還的精神に一貫してゐるのも、その根底がこゝにあるのであ
らう。これが國體として上下が一つの體、卽ち一體につゝまれてゐ
るのである。ところが、全體主義は平面的なるもので、われわれの
いふところの一體主義は立體的である、それは上は下を視、下は上
を見上げて、視るものを同じうし、下と上と向き合つて離れざると
ころの根底がある。これを個人々々にしていへば、物心一如といふ
譯で對立しない。飽くまで一つである。
ところで、この日本帝國の一體主義といふものは単に日本だけに限
られたところの思想ではなく、宇宙の眞理に一貫した不變なものであ
る。而して、この一體主義には對立はなく、鬪爭もない。眞に世界に
擴むべき性質をもつてゐる偉大なものなのである。この一體主義の發
展として、まづ我々は東亞の生命を考へねばならぬ。黄色人種は黄色
人種で、黒色人種は黒色人種で、それぞれ同じ境涯、同じ特色をもつ
てゐる。その境涯、特色を同じうするものが一つの團結、一つのグル
ープ毎に一つの生命があるので、單に自分の民族のみでなく、黄色人
種なり黒色人種なり、その各々の生命を盛んならしめ、その全體が各
特色を發揮することを自他共に許して、各々共通するところのものは
相携へて各々共通するところの唯一の生命を盛んならしめる途をとる
ことによつて初めて團結が出來、一體となることが出來るわけで、そ
れが共同體であり、本當の新秩序への道である。全體主義といふもの
は、この一體へ至る道程である。卽ち全體主義より、も一歩躍進した
ものが一體主義である」と云ふのである。
(五) 一體主義に對する土肥原氏のこの說明には勿論議論の餘地があるであら
うが、しかし一體主義なる言葉の指示する方向に對して示唆される點
があると思はれる。
(六) 一體主義といふ言葉は東亜共同體を裏付ける思想的な客觀的な理念
としての存在を容認し、新秩序を戰ふ日本の現實に照應する思想が、
この中に具体的に結實されることを、切実な問題として要請されるの
である。從つて一體主義といふ言葉は、個々の評論家等の理論と一應
離れ、客觀的な理念として、之を思想化し、具體化されるの努力が今
後の重要な問題となつて來るであらう。
(七) このやうに、一體主義といふ言葉は我國に於て未だ成熟した表現で
はないが、今日までの理論的な經緯の中に現わにされ、明かに示され
た主要な性格は次の諸點において見られると思ふ。
(1) 一體主義は、一言で言へば 天皇歸一主義であり、皇道の本義に立
脚した皇道の新世代的表現である。
(2) 一體主義は、東亞共同體の基礎觀念として、今次事變の渦中から發
見され、その發展において意義づけられる所に新しき役割がある。
(3) 一體主義は、民主主義、自由主義、共產主義とは根本的に相容れず
全體主義とはその性格において類似し乍ら、而もその前提において
異る觀念である。敢ヘて云へば一體主義は、全體主義を更に日本的
に止揚發展せしめたものである。
(4) 一體主義の政治的性格は、現代資本主義 社會秩序に伴ふ弊害、その國
内政治的表現として自由主義的、民主主義の行詰りを止揚し、これ
を新日本建設の新指標として世界史的な必然に於て把握すべきもので
ある。
(昭和十四年七月十一日)
↑「一体主義の概念に就て」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15060379600、国民精神総動員(資00334100 国立公文書館)
昭和十四年四月以降
【秘】
國民精神總動員委員会
内閣官房総務課長
↑「表紙・目次」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15060379600、国民精神総動員(資00334100 国立公文書館)