甲
第十四号 七月三十一日着
七月二十一日
一、午前一時三十分着、七月二十日午後四時発、於烏山市北方消口里、将校斥候今井騎兵少尉報告
本日午後二時頃、烏山市 (国道烏山洞南方約一里半の地) において清国騎兵将校斥候四名に遭遇す (武装して連発銃を携帯せり)。この斥候の曰く、貴国大兵を水原に送る (第七中隊の行軍を云ふか)。故にわが国の将兵を率ひ振威県に来たり、なほ進んで貴国の将と面し、その理由を問はんとすと。この斥候は直ちに振威県方向に退却す。
去る十六日、水原府に来たりし斥候は、昨夜ひそかに帰還せるもののごとし。
路上の風説には、清兵来たる。二十四日を期し水原府に入るべしと。
あるいは曰く、水路、仁川に至ると。ともに信じがたし。
振威県にはこの斥候のほか少数の兵、到着しあるもののこごとし (通行人の言)。
当斥候は一部を水原に置き、本官一部をもって振威県を捜索せんとす。
一、午前六時受領、一戸少佐の報告中 本日左半大隊、幕営に移転す。大薬庫を幕営地の附近に移転す。昨日仏国、育児院に侵入したるも、やむを得ざるに出でたるにして、穏和に相済みたり。
一、午前六時五十七分、竜山より兵站監竹内中佐の報告 (電報)
兵站監部、今朝、到着す。
一、午後二時時十五分着、竹内兵站監より電報
一、午後二時四十三分発、歩兵苐十一聨隊長へ
その隊より派遣せし露梁渡場の監視兵に、現に同所に架するわが軍用電信を掩護するの任務を授くべし。
一、本日受領、七月十八日、赤痢患者表
旧患19、新患 9、計 28、治癒 3、死亡 1、後遺 24、平病 35
一、午後三時五十五分着電報。鎮海号午前出艦、仁川、支那艦なしと八重山より来報
一、午後三時四十分着、兵站軍医部長より。本日をもって兵站病院を閉院いたさせ候ふ旨、届出。
一、午後四時十五分、歩兵苐十一聨隊より。水原に行軍せる苐七中隊長福田大尉の報告を出せり (報告の要旨無事)
一、午後七時半、歩兵第二十一連隊、歩兵大尉林久実に臨津江派遣を命じ、訓令を与ふ (明二十二日出発)
一、本日午後四時会報 (摘要)
一、国歌を奏するときは直立不動の姿勢を取るべし。
二、歩哨の動作柔弱に見ゆ。行動、佇立とも今少し活溌ならしむべし。
- 一 、午後六時三十五分着、兵站監より電報
明二十二日午前三時、船出す。同時刻前、護送兵は兵站監部前に集合する様、御通じありたし (これは林大尉の中隊、臨津江に至るにつき、その糧食、弾薬および韓銭を船にて輸送するためなり)。
右につき林大尉の中隊 (第二十一連隊第二中隊) より士官の率ゆる二分隊を出すことを命ぜり。
一、午後九時着 、大本営よりの電報 (七月二十日午前六時東京発、同二十一日午後六時二十分京城着)
盛字軍の六営は今朝しんぢょうにて乗船のはず。運送船六艘は該地と太沽にあり、上陸地は大同江に違ひ [な] きがごとし。(サツ一 [→二] 十四号) 参謀総長
右 報告候也
明治廿七年七月廿二日
混成旅団長 大島義昌
参謀縂長 熾仁親王殿
甲
第十四号 七月丗一日着
七月廿一日
一 午前一時三十分着 七月廿日午後四時発扵烏山市北方消|口里將校斥候今井騎兵少尉報告
本日午後二時頃烏山市 (國道烏山洞南方約一里半ノ地) ニ|扵テ清國騎兵將校斥候四名ニ遭遇ス (武装シテ連発銃|ヲ携帶セリ) 此斥候ノ曰ク貴國大兵ヲ水原ニ送ル (苐七|中隊ノ行軍ヲ云フカ) 故ニ我國ノ將兵ヲ率ヒ振威縣ニ|来リ尚進テ貴國ノ將ト面シ其理由ヲ問ハントスト此|斥候ハ直ニ振威縣方向ニ退却ス
去ル十六日水原府ニ来リシ斥候ハ昨夜窃ニ皈還セルモノヽ|如シ
路上ノ風説ニハ清兵来ル廿四日ヲ期シ水原府ニ入ルベシト
或ハ曰ク水路仁川ニ至ルト共ニ信シ難シ
振威縣ニハ此斥候ノ外少數ノ兵到着シアルモノヽ如シ (通行人ノ言)
當斥候ハ一部ヲ水原ニ置キ本官一部ヲ以テ振威縣ヲ搜索セントス
一 午前六時受領一戸少佐ノ報告中 本日左半大隊幕営ニ|移轉ス 大薬庫ヲ幕営地ノ附近ニ移轉ス 昨日佛國育|児院ニ侵入シタルモ已ムヲ得サルニ出デタルニシテ穏和ニ相済ミタリ
一 午前六時五十七分 竜山ヨリ兵站监竹内中佐ノ報告 (電報)
兵站监部今朝到着ス
一 午後二時時十五分着 竹内兵站监ヨリ電報
一 午後二時四十三分発 歩兵苐十一聨隊長ヘ
其隊ヨリ派遣セシ露梁渡塲ノ監視兵ニ現ニ同㪽ニ架スル我軍用電信ヲ掩䕶スルノ任務ヲ授クベシ
一 本日受領 七月十八日赤痢患者表
旧患 一九、新患 九、計 二八、治癒 三、死亡 一、後遺 二四、平病 三五、
一 午後三時五十五分着電報 鎮海号午前出艦 仁川支那艦ナシト八重山ヨリ来報
一 午後三時四十分着 兵站軍醫部長ヨリ 本日ヲ以テ兵站病院ヲ閉院為致候旨届出
一 午後四時十五分 歩兵苐十一聨隊ヨリ水原ニ行軍セル苐七 中隊長福田大尉ノ報告ヲ出セリ (報告ノ要旨無事)
一 午後七時半 歩兵苐廿一聨隊 歩兵大尉林久実ニ臨津江派遣ヲ命シ 訓令ヲ與フ (明廿二日出発)
一 本日午後四時會報 (摘要)
一 國歌ヲ奏スルトキハ直立不動ノ姿勢ヲ取ルベシ
二 歩哨ノ動作柔弱ニ見ユ 行動佇立トモ今少シ活溌ナ|ラシムベシ
一 午後六時丗五分着 兵站监ヨリ電報
明廿二日午前三時舩出ス同時刻前䕶送兵ハ兵站|監部前ニ集合スル様御通シアリタシ (之レハ林大尉ノ中|隊臨津江ニ至ルニ付其糧食彈薬及韓銭ヲ舩ニテ輸送ス|ル為ナリ)
右ニ付林大尉ノ中隊 (苐廿一聨隊第二中隊) ヨリ士官ノ率ユル|二分隊ヲ出スヿヲ命セリ
一 午後九時着 大本營ヨリノ電報 (七月廿日午前六時東京發 仝廿一日午後六時廿分京城着)
盛字軍ノ六營ハ今朝シンヂョウニテ乗船ノ筈運送船
六艘ハ該地ト太沽ニ在リ上陸地ハ大同江ニ違ヒ [ナ] キカ如シ (|サツ一 [→二] 十四号) 参謀總長
右 報告候也
明治廿七年七月廿二日
混成旅団長 大島義昌
参謀縂長 熾仁親王殿
↑「第14号、7月21日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06061761500、明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」(防衛省防衛研究所)