Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

【メモ】【工事中】慰安婦はどのように集められたか ─私的勧誘・職業紹介・強制動員の関係をめぐって─ 20170701 外村 大

p.1   慰安婦はどのように集められたか

─私的勧誘・職業紹介・強制動員の関係をめぐって─

             20170701 外村 大

1、研究状況と本稿の課題

 いわゆる慰安婦とされた人びとが多大な人権侵害をこうむったことは、否定できない事実である。また、慰安所の設置の企画、管理、慰安婦の募集、移送において、日本軍が主導的な役割を果たしたことは、歴史研究においては通説として認められている(残念ながら、日本の市民社会ではそれを否定するような主張も流布しているが)。

 では、慰安婦を送り出した、日本内地や朝鮮等の日本の外地=植民地における行政機構やその職員はどのような役割を果たしたのか。これについても、元慰安婦の証言のなかで、警官や役場の職員の関与をうかがわせる証言があり、さらに、慰安婦を募集する業者が活動していることについて、日本内地の警察に情報が伝えられていたこと、慰安婦の中国大陸渡航について、警察において配慮が加えられたことが明らかにされている。

 しかし、具体的な関与の様相は、依然としてほとんどわかっていないと言っていいのではないだろうか。警察や一般行政機構が、組織全体の決定をもとに慰安婦の募集に関わっていたのか、その場合、誰がどのような指揮系統のもとに何を行ったのか、その法的根拠はあったのか、否か。これらの点について、十分な回答を与えている研究は、管見のかぎりでは見当たらない。

 もっとも、各種の統制が行われていた戦時下といえども、なにもかも行政機構が指示を出すわけではない。むしろ、売買春のような「汚れた」仕事に、公然とかかわろうとはしないのが行政機構である。したがって、この問題では、売春従事者の就業に関する私的勧誘や営利職業紹介や類似事業に携わる者がどのような動きをしていたかをまず考え、それと行政機構との関係がどうであったかを検討を加える必要がある。

 これについて、論じた研究としては、尹明淑『日本の軍隊慰安制度と朝鮮人軍隊慰安婦明石書店、2003 年(特に、第 6,7 章)と、韓恵仁「総動員体制下職業紹介令と日本軍慰安婦動員―帝国日本と植民地朝鮮の差別的制度運用を中心に―」『史林』第 46 号、2013 年 10月、がある。尹明淑論文は、女性を芸妓、娼妓、酌婦等として売春を強要させる飲食店等に紹介する業者の行為と行政とのかかわり、これら業者の活動実態等について、関係法令や新聞資料、元慰安婦の証言などから論じている。さらに韓恵仁論文は、日本内地と朝鮮におけるそれぞれの関連法令の内容を比較検討し、朝鮮における規制が緩かったことを指摘している。そして、両者とも(筆者の理解するところでは)、芸妓・娼妓・酌婦等の職の紹介を行う業者と行政当局との関係は密接であり、行政当局が彼らの活動を容易に行いうる条件を作り出したことによって、朝鮮から多くの女性が慰安婦として連れていかれたとする分析を導き出している。

 両者の研究は重要な指摘、実態解明を行ったものであり、朝鮮において、芸妓・娼妓・酌婦等の職の紹介を行う業者の活動が活発であり、それが大量の慰安婦募集につながったという指摘については筆者も正しいと考える。しかし、残念ながら、問題がないわけではない。まず、両者ともに、法令についての誤解・誤読、概念の混乱があり、芸妓・娼妓・酌婦等の就業紹介をめぐる政策、制度の正確な説明がなされていない点がある。また、行政当局と芸妓・娼妓・酌婦等の就業紹介を行う業者との関係があったのは確かであるとして(そもそも

 

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営業許可の権限をもっているのであり、関係がないはずはない)行政当局が、彼らを統制し、その事業のあり方を左右するほどの指示や便宜供与を行っていたのかは、依然として明確ではない。

 そこで、こうした研究状況を踏まえて、本稿では、以下のことを課題にしたい。まず、芸妓・娼妓・酌婦等の職を紹介する業者らの活動・事業の展開の実態、日本内地・朝鮮それぞれの法令と政策、そうした活動を行う者と行政当局との関係についての事実を改めて整理する。同時にその下で、実際にどのように、芸妓・娼妓・酌婦等とされる女性の紹介(売春を強要される事業所への「身売り」)が行われたのか、日本内地と朝鮮のそれぞれについて明らかにする。そのうえで、改めて慰安婦がどのようにして集められていたのか、そこでの行政当局の関与の有無、あり方の解明を試みる。

 上記の点について具体的に述べるにあたって、用語について説明しておく。まず、芸妓・娼妓・酌婦等の職の紹介の行為、それを行う業者や個人については、口入業、紹介営業、人事紹介業、周旋業、女衒といった様々な言い方がなされている。しかし、それを取り締る警
察当局の規則では、紹介営業ないし周旋業という語が使用されている(日本内地では府県ごと、朝鮮でも道ごとに規則は異なる)。そこで以下では、当局に正式に許可されてこれらの事業を行う者を紹介周旋業と呼ぶこととする。しかし実際には無許可でそれを行う者があり、また、紹介周旋業と連絡を取り、彼等のもとに女性を連れてくる者もいた。これらの者についても、取締り法令での用語にしたがい、誘引人という語を使用する。

 職業紹介の語についても、説明を加えておく。本来の職業紹介は、求職者と求人者の間に立って雇用関係を結ぶことを反復して行うことを意味する。その意味の職業紹介には、紹介周旋業は含まれない。これは、芸妓、娼妓、酌婦は、建前上自営業として行われるケースが
あることが関係している。例えばすでに娼妓となっている女性が、別の置屋=働き場所を紹介してもらったとしても、職業紹介ではない(置屋と娼妓の関係は雇用関係ではないので)、とされていたのである。しかし、実態としては雇用関係と変わらないと考えられるので(あ
るいは奴隷的労働の強要、というのが妥当かもしれない)、必要に応じてこれも職業紹介の概念に含める。本稿のサブタイトルの職業紹介の語は、それを含めたものとして理解されたい。

2、総力戦以前の職業紹介と「身売り」

  (1)職業紹介の法制度と売春関係の事業

 売春に従事させるために女性の人身売買を行う、借金を理由に女性に売春を強要する、到底許されない人権侵害である。このことは、現在のみならず、戦前の日本の法律でも罪にあたる行為であった。しかし、“本人の意思”で(そのような体裁をとって)、行政当局の許認
可を得て、売春を行うことは、合法であったし、借金を背負って、ほかに生きてい行く上での選択肢がない女性たちが、「自分の意思」という建前で売春を続けることを、日本政府は不法としなかった。

 そして、売春に当らせるために女性を無理やり移動させる、あるいはそのことを秘匿して職を斡旋する等の話をして女性を誘い出して連れていく、といった行為も、当然、戦前の日本の法律に違反していた。

 

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 しかし、近世以来、日本では、「口入業」、「桂庵」などと呼ばれた職業を紹介する事業が行われており、そこでは、女中や各種商店の奉公人のみならず、芸者や娼婦についても紹介がなされていた。そこでは、人身売買、詐欺的な行為も行われており、これへの対策として、行政当局はすでに近代初期から若干の施策を行っていた。さらに 1920 年代に入ると、公共政策としての職業紹介所の設置と並行して、民間の職業紹介および類似行為に対する統制、取締りを本格的に行うため、体系的な制度・法令を整備していった。

 ただし、日本内地と朝鮮(およびほかの日本の植民地)では、職業紹介についての制度・政策は相違点が見られる。その点に留意しながら、1920 年代に確立した、(後述するようにそれは総力戦体制確立に伴い再編される)職業紹介にかかわる政策・制度を整理すれば、次のようである。

 日本内地については、1921 年、市町村による職業紹介所の設置と、そこで行われる職業紹介は無料で行われること、さらに市町村立の職業紹介所に対する国庫の補助、内務大臣による監督を規定した職業紹介法が公布、施行された。同法には、有料または営利目的の職業紹介所の設置は別の命令で定めるとの条文があり、これについては、1925 年に内務省令として営利職業紹介事業取締規則が公布され、翌年から施行されている。同令は、民間の職業紹介事業者が警察に届出を行って認可を受けるべきこととするとともに、誇大広告や求職者の意に反した紹介等の行為を禁じ、違反の場合は営業停止、罰金等の処分が下されることを記していた。また、雇主に依頼された者ないし雇用する本人が募集を行う行為についても、(それ以前から道府県レベルでは規則が設けられていたが、全国的に統一したものとして)1924 年に内務省令として労働者募集取締令が公布され、1925 年、これも施行されることとなった。同令も、募集者が自身の氏名住所や募集期間、募集地等を警察に届け出るべきこととともに、応募の強要、虚偽の言辞等不正な手段を用いることを禁じ、違反の場合には拘留・科料の処分を下すことを記している。

 ここで注意すべきことは、芸妓・娼妓・酌婦等についての職業紹介・就労先の周旋は、民間の営利職業紹介所は扱うことができず、また労働者募集取締規則の枠の中でもそれは行い得なかったという点である。労働者募集取締規則が対象とするのは工場労働者や炭鉱、土建工事の労働者であったし、営利職業紹介事業取締規則では、芸妓、娼妓、酌婦又はこれに類する者の周旋を行うことを禁じる条文が盛り込まれていた。また、同規則は、そうした営業との兼業、それを行う者と同居している者、家族がそうした営業を行うことについても禁じていた。同様に、労働者募集取締規則でも公布の際に内務省が出した通牒で、芸妓・娼妓・酌婦の紹介周旋を業とする者やそうした人物と同居する者の募集を許可しないことの指示があった。なお、職業紹介法では、芸妓・娼妓・酌婦やこれに類似する職業の紹介を禁じる規定はないが、市町村立の職業紹介所でこうした職種の紹介を行ったとする記録は見当たらない。

 しかし、もちろん、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋の行為は行われていたし、その業者は存在した。そして、これらの業者の許認可や統制は、日本内地全体に共通の法令ではなく、各道府県の警察部(東京府では警視庁)の手にゆだねられた。ただし、だいたいの道府県では、紹介営業取締規則、周旋業取締規則等の名前での規則が設けられ、そこでは、警察への届け出と認可を受けること、誇大ないし虚偽の広告、意に反した紹介等の禁止等の規定と、違反した場合の認可取り消し、拘留・科料等の処分が定められていた(なお、これら

 

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の規則は、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋とともに養子や結婚の斡旋、不動産の売買を行う業務を対象とするものとして出された)。

 要するに、この時期の職業紹介等では、職業紹介法の適用を受ける市町村立の職業紹介所と、内務省令の適用をうける民営の職業紹介所、労働者募集の行為と、道府県の警察の取締りのもとにある芸妓・娼妓・酌婦等の紹介周旋業という区分があったということになる。もちろん、このほかにも、事業主と個人との直接のやり取りによって、あるいは業として職業紹介を行うのではないある種の個人が仲介して、就職が成立するというケースは相当数あった。知り合いの伝手を頼って就職を依頼する、学校の先生が学生の職を世話する、貼紙、あるいは新聞広告等を見て応募して就職にこぎつけるといったことは珍しくなく、職業紹介所の利用よりもむしろ一般的であっただろう。

 

 次に朝鮮の状況を見れば、まず、1910 年代後半に日本内地からの朝鮮への労働者募集が活発化していたこともあって、すでに 1918 年に、労働者募集に関して、朝鮮総督府令として労働者募集取締規則が出されている。その内容は、日本内地の内務省令(こちらのほうが後ではあるが)とほぼ同内容である。しかし、1921 年に日本内地で出された、職業紹介法は朝鮮では施行されなかった。また、民間の職業紹介についての規制として日本内地で出された営利職業紹介令も、これは内務省令なので、朝鮮とは無関係である。ただし、京城府などいくつかの府や社会事業団体が運営する職業紹介所がこの時期、すでに存在しており、もちろん、民間において職業紹介や周旋行為を行う者がいた。

 では、これらについての規制はどうなっていたかと言えば、一部の道において、民間の職業紹介や類似行為に関する道令が出されている。それらにおいては、やはり、事業者が警察に届け出て認可をうけるべきことの規定、本人の意思に反して紹介を行うことや詐欺的言動の禁止等の条文が盛り込まれていた。

 だが、朝鮮では、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋を行う業者を特別に統制することは行われなかった。労働者募集については、1918 年に朝鮮総督府の府令として労働者募集取締規則が出されたものの、民間の営利職業紹介所を規制する法令はなかった。したがって、民間において任意に設立された事業所が特別、許可を得ずに、工場労働者や家事使用人等の職業紹介を行いながら、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、斡旋を展開することが可能だったのである。

 つまり、朝鮮では府や社会事業団体の運営する職業紹介所のほか、営利目的の民間の職業紹介・周旋を行う業者がいた。このうち、営利目的の民間の業者については、一般の職業紹介のみを行う者、芸妓・娼妓・酌婦の紹介・周旋を行う者、さらに一般の職業紹介とそうし
た行為を兼業する者がいた。そして、それらの業者については、一部の道では道令によって許認可、規制を行っていた。その他、労働者募集については、朝鮮総督府令を根拠に認可、取締りを行っていた、となる1。

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1  尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人慰安婦明石書店、2003 年、303 頁での、朝鮮のこの時期の職業紹介等の制度についての説明は、次のようである。すなわち、「『私営』の周旋業とは別途に、『府営』の職業紹介所があり、府営職業紹介所には『一般職業紹介所』と『営利職業紹介所』の二種類があった。朝鮮や台湾などの植民地での営利職業紹介事業には、日本国内と違って、『船員の職業紹介、芸娼妓酌婦及之に類似する者の職業紹介』も含まれていた」。しかし、公営の職業紹介所が営利事業を行うということは通常考えられず、尹の理解は誤りであろう。筆者が知るかぎりにおいて、「府営職業紹介所」は公益職業紹介所として、私的利益を追求する「営利職業紹介所」とは、区別されていた。
 つまり、「府営職業紹介所」とは別に民間の「営利職業紹介所」が存在していたのである(前者は公営、後者は民営という対の概念であり、日本語としてもそうであるのが自然である)。そして、府営の職業紹介所では、「一般職業紹介」と「日雇職業紹介」が実施され
ており、芸娼妓酌婦の紹介は行っていない。しかし、民間の「営利職業紹介所」では、朝鮮の場合、芸妓・娼妓・酌婦等の紹介を行う場合もあった、というのが正確な(筆者の理解する限りでは)説明となる。

 

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 以上のような法令・制度を見るとき、日本内地に比べて朝鮮のほうが、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋への規制が緩やかである、言い換えればそれを行いやすい環境にあったと言うことができる。もっとも大きな違いは、日本内地では、それを行う業者やその家族、同居者らが、女中や家事使用人、商店員、工場労働者等の一般の職業紹介はできないことになっているのに対して、朝鮮ではそれが可能とされている点である。朝鮮の民間職業紹介では、家事使用人などの売春関連以外の仕事を求めてやってきた者に対して、芸妓・娼妓・酌
婦等の仕事を勧誘することも可能であったし、遊郭置屋、売春に従事させる女性を置く飲食店等の求人情報が入りやすい状況にあったことは間違いない。また、尹明淑は、日本内地の場合、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋を行う業者の認可において、一定の財産保有
を条件としていたのに対して、朝鮮ではそれがなかったことを指摘している2。しかし、尹が述べている財産保有を条件としている日本内地の規則は、警視庁令の紹介営業取取締規則であり、これは警視庁が管轄する東京府のみに施行されるものである。そして、日本内地のほかの府県の規則で、同様の規定を設けているのは、(1924 年の調査では)神奈川県、福島県大阪府群馬県だけであり3、朝鮮でも同様の条項を設けていた道もあるので(この点は尹も指摘している)4、この点に関して朝鮮と日本内地のどちらでどのようにこの種の営
業の認可が厳しかったかの結論は得られない。

 むしろ、芸妓・娼妓・酌婦等の職業紹介、周旋の規制についての、朝鮮と日本内地との比較で注目すべきは、日本内地の一部の府県では、管外への紹介、周旋を行う場合や、あるいは管外からやってきた業者が活動しようとする場合に、警察への届け出を義務付けていた
ことであろう5。あくまで一部の府県にとどまるにせよ、悪質な人身売買は地元の警察の監視が届かない場所に女性を送り込むことによって生じるケースがあるわけであり、それを防ぐうえではこの規定は重要であった。

 

  (2)売春に従事させられた女性たちの就業経路

 では、芸妓・娼妓・酌婦等となった女性たちは、どのようにしてその働き口を見つけたのであろうか。そうした職につく「合法的」な就業経路としては、まず、前項で述べた、警察

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2  尹明淑前掲書、302 頁。
3〔内務省社会局〕職業課「各府県紹介営業取締規則摘録」1924 年、ただし近現代資料刊
行会企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料編
5』、近現代資料刊行会、2015 年、に所収。
4  尹明淑前掲書、325 頁では、「例外」としつつ全羅北道の規則にそれがあることを記述し
ている。
5  前掲「各府県紹介営業取締規則摘録」。

 

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の認可の下にある、紹介周旋業の利用がありうる。年によって変動はあるが、例えば、1924年中、警視庁管内=東京府において紹介営業業者が扱った、求人・求職・就職の人員は、芸妓について 4827 人・3155 人・2335 人、娼妓について 2319 人・1442 人・973 人、酌婦に
ついて 1796 人・1335 人・852 人、となっている6。

 この数字は、この種の職種の就業経路としてどの程度の比率を占めていただろうか。この点について、娼妓の統計から推定してみると、まず 1924 年中の紹介周旋業の取り扱いによる娼妓就職者は 973 人である。一方、同年末時点の東京府の娼妓は 4989 人である7。では、このうち、この年に新たに東京府で娼妓となるか、娼妓としての新たな営業の場を見つけた
者はどの程度であろうか。1927 年 12 月 31 日時点の警視庁調査だと、この時点の娼妓 5734 人中、同じ妓楼に勤め始めて 1 年未満の者は 1643 人であり、全体の 3 割程度を占める。そこから 1924 年についても、3 割と考えると、実数にして 1497 人という数字が得られる8。

 そのうえで、かつ他府県からの紹介、周旋による流入と他府県への紹介、周旋による流出が同程度だと仮定すれば、東京府では、1497 人中の 973 人、つまり約 65%が、紹介周旋業者の関与で娼妓の職場を見つけたことになる。この数字を見るとき、紹介周旋業が、「売春従事者の労働市場」において果たす役割は、小さいものではなかったと考えてよいだろう。

 ただ、ここで注意すべきは、紹介周旋業を通した就業において、求職者がダイレクトに業者と接触を持つケースが多かったかどうか、ということがある。自分一人で、積極的に「身売り」希望者として、紹介・周旋業者に申し込みに行くというケースが多かったとは考えに
くい。また、この種の業者が自らの活動について大々的に宣伝していた形跡はなく、そもそも彼らによる芸妓・娼妓・酌婦の紹介、周旋に関する広告を禁じていた府県もあった9。また、紹介周旋業者の側から女性たちに芸妓・娼妓・酌婦等となるべきことを勧誘することも
一部の府県では禁じられていたし10、それを禁じていない府県や朝鮮の各道の業者においても、自分たちが直接雇用している従業員によって各地に勧誘に出かけて「求職者」を常に効率的に探しだせるわけではない。

 したがって、紹介周旋業者と、求職者やそうなりうる女性たちとの間にあって活動する者の役割が重要となる。つまり、警察の許可とは無関係の誘引人、当時の日本の新聞等で「女衒」や「もぐりの周旋人」、朝鮮語の新聞等では「ブローカー」と呼ばれる者が現実には、売春に従事させるべき女性を探し出し、しかるべきところに連れて行っていたのである。

 そして、紹介周旋業者を通さないケースにおいも、遊郭置屋・売春を行わせる女性を置いた飲食店(特殊飲食店)の経営者と「求職者」との間にたって活動する人物がいるのが通常のケースだと見るべきだろう。売春を行う事業の経営者が新聞等に広告を出すことは可能であり、すべての地域のすべての新聞がそうであるわけではないが、実際にそれは行わ

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6  警視庁『警視庁統計書』各年版。
7  警視庁『警視庁統計書 大正 13 年』1926 年。
8  草間八十雄『女給と売笑婦』汎人社、1930 年、281 頁。
9  前掲「各府県紹介営業取締規則摘録」によれば、北海道、東京府兵庫県鳥取県で禁止されている。ただし、東京府については、1927 年に警視庁令が新たに出されており、そこでは広告を禁ずる条項はない。
10  前掲「各府県紹介営業取締規則摘録」によれば、北海道、東京府新潟県香川県で禁止されている。

 

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れている。

 だが、何か働き口を得たいと考える女性のうちで、最初から、芸妓・娼妓・酌婦等の職を希望するケースはほとんどあり得ないと考えるのが自然である。また、新聞広告を常にチェックしている者もそう多くはないし11、そもそも娘を「身売り」に出さなければならないと考えているような家庭では新聞を購読する余裕はない。さらに言えば、植民地期の朝鮮では新聞購読する家庭自体がかなり珍しいと言ってよく、識字率自体もそう高くはない。したがって、紹介周旋業者を通さない「就職」(人身売買というのが本来妥当であろうが)におい
ても、その間にたって、芸妓・娼妓・酌婦等になりそうな(それを選択するほかない状況に追い込まれた)女性を見つけ出し、遊郭置屋・売春を行う飲食店等の経営者のもとに連れてくる者がいたケースが一般的であったと考えられる。つまり、許可を受けた紹介周旋業から依頼を受けずとも、誘引人は活発に活動していたのである。

  (3)誘引人の活動と「身売り」対策

 こうした誘引人たちがどれくらいいて、活動していたのかについては、詳細は不明である。

 ただし、紹介周旋業者の数が、1930 年時点で日本内地だけで 5630 事業所12、植民地については 1931 年時点の数字で 199 事業所が存在していたとされており13、それらがそれぞれ何人かの誘引人と関係していたと考えるのが自然であろうから、この数を相当数上回ると考えられる。また、冷害で困窮し借金の支払いに困っている家庭が多数あった東北地方では、一つの村に何人かの誘引人が活動していたと伝える史料もある。身売り防止の活動を行っていた、秋田県の小学校教員の藤田竹治による手記「身売り列車」で紹介されている、県内
で紹介周旋業の組合長を務めていたというK氏の証言によれば、「潜り」(=無許可で周旋を行う者を指す、つまりは本稿で言う誘引人)は「1 ケ町村、5,6 名づつは」いたとされる14。そして、このKは、誘引人たちが「需要地、供給地共々に細胞組織」を形成し、それが
「赤のそれより気のきいた組織」であるとも語ったとされる15。これは、彼らが、秘密裏に、しかしネットワークを形成して、活動している様子を言いあらわしたものである。

 では、彼らの活動は法令上の取締りの対象とならなかったのであろうか。もちろん、彼らが、甘言を用い、あるいは脅したり力で押さえつけたりして、遊郭等に連れて行ったとした

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11  谷口一三「案内広告は嘘か本当か!?」『実話雑誌』1937 年 4 月号、では、案内広告を
読むのは「暇人」としつつも、「職を得んものと毎朝の新聞を三面記事も政治欄も見ず
に、広告だけをむさぼるやういにして目を通している人等が東京中だけでも何万人といる
ことだろう」の文言がある。
12  社会部職業課「営利並芸娼妓紹介業調査資料」1932 年 1 月、ただしただし近現代資料
刊行会企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料編
5』、近現代資料刊行会、2015 年、に所収。
13  中央職業紹介事務局「本邦ニ於ケル営利職業紹介事業調査」1931 年、ただし近現代資
料刊行会企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料
編5』、近現代資料刊行会、2015 年、に所収。
14  藤田竹治「身売り列車」『婦人公論』1937 年 3 月号。藤田竹治は秋田県の小学校訓導で
あり、自分の学校の卒業生の離村状況、働き先等について詳細な調査を行っていた(木田
徹郎『東北の窮乏と身売防止』1935 年、38 頁)。
15  前掲「身売り列車」。

 

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ら、それは刑法に触れる行為である。しかし、女性やその親権者の同意のもとで、紹介周旋業者のもとに連れていく行為自体を取り締まる法令はおそらくない。それは単なる私的勧誘である。

 ただし、日本内地の各府県や朝鮮の各道の法令では、紹介周旋業者が誘引人に財物(金銭や物品)を渡すことを禁じていた。しかし、実際に金銭等の受け渡しが行われたとしても、それが外部に知られることはほぼありえない。発覚するとすれば、警察が熱心に内偵調査を
行ってその努力が実るか、仲間割れが生じて誰かが情報を警察に伝えた場合くらいであろう。

 そうであるならば、わざわざ警察から許可を受けて紹介周旋業を開業するより、勝手に誘引人として活動しているほうが、自由度も高く、有利ということにもなりかねない。実は、関係者自身もそのように考えていた。藤田によれば、前述のKは「大分仲間がやられている
ようだがよく後が続くね」という問いに対して、「却って免許取りけされりゃ仕事をするに楽」だ、と語っていたとされる。その理由は、他府県の正規の業者の募集ではないので「警察に出発届」を出さなくてもよいからであった16。確かに単なる誘引人の活動は、金銭の授受とは無関係の、少なくともそれ以前に行われるものであればあくまで私的勧誘でしかないので、「出発届」を出させる等の警察のチェックは行い得ない。

 しかし、それでも何らかの理由で、「潜り」の行為が発覚して、摘発することはありうる(実際に、前述のように、「大分仲間がやられて」いたのである)。しかし、Kの語るところによれば、発覚した場合の処罰はそう、大きな負担とはならなかった。Kによれば「40 円
や 50 円の罰金位は一人の周旋料で賄へるし、まあなんだね、今では雇ひ主が 3 回に 1 回は捕まると最初から予算に入れて出して呉れる」ということになっていたためである17。

 さらに言えば、誘引人は、むしろ、警察から許可を受けた紹介周旋業者よりも多額の金銭を得ることも出来たのである。紹介周旋業者の得る紹介料は、取締規則によって規定されていた。例えば、東京府の場合、前借金が 500 円未満の場合 1 割、1000 円未満は 9 分以下、
1500 円未満は 8 分以下、2000 円未満は 7 分以下、2000 円以上では 6 分、となっていた18。また、紹介に係る当事者間(つまり遊郭等とそこで働くことになる女性やその親)の財物の授受への関与は禁止されていた。これに対し、誘引人が直接、遊郭置屋・特殊飲食店等の経営者に女性を紹介した場合、どの程度の前借金(=人身売買の身代金)を設定するか、そ

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16 前掲「身売り列車」。秋田県の関係取締り法令である秋田県令第 58 号周旋営業取締規則
(1934 年 9 月 11 日)では「芸妓娼妓酌婦を周旋したる場合に於て其の行先地他庁府県館
内に係るときは出発前其の本籍、住所、氏名、生年月日、行先地及稼業の種類を具し所轄
警察官署又は駐在所に届出つべし」とある(帝国地方行政学会編『現行秋田県令規全集』
に収録)。これを義務付けることで、詐欺的募集や不当に高い周旋料の徴収などの防止を
狙ったと考えられる。
17 前掲「身売り列車」。紹介営業・周旋業の取り締る、各府県の規定では、罰金ではなく
科料に処せられることになっているので、正式には過料であろう。前掲の秋田県の周旋営
業取締規則でも許可を受けずに芸妓・娼妓・酌婦等の周旋を行った場合は「拘留又は科料
に処す」となっている。。
18 社会部職業課「営利並芸娼妓酌婦紹介業調査資料」1932 年、ただし近現代資料刊行会
企画編集『東京大学社会科学研究所所蔵「糸井文庫」シリーズ 文書・図書資料編5』、
近現代資料刊行会、2015 年、に所収。

 

p.9

のうちどの程度を自分の取り分とするかは、誘引人の交渉次第ということになる。実際に、冷害で借金に苦しむ東北地方の農村で活動して、女性の「身売り」に介在した誘引人が得た金額では、「証書」では 900 円の女性の人身売買で手数料 350 円といったケースがあったと
され、極めて多額である19。

 では、そうした誘引人の活動に対して行政当局はまったく無策だったのであろうか。日本内地の場合、少なくともまったく何等の対策も行われなかったわけではない。女性の「身売り」問題、とりわけ、それが深刻化していた東北地方については、一定の施策や住民たちの
活動が展開された。東北地方の農村ではもともとも近隣に現金収入を得る場所が少なく、さらに世界恐慌の影響と 1930 年代前半に続いた冷害による農家経済悪化を受けて、困窮した家庭での娘の身売りが増えていた。1934 年 8 月時点の警察の調査では、東北 6 県の女性の
出稼ぎ者は 6 万 7784 人、そのうち芸妓・娼妓・酌婦の数は合わせて 1 万 6673 人、さらに女給が 4284 農家の負債は、日本の東北地方の場合 1 戸当たり 1000

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28  前掲『東北の窮乏と身売防止』73~75 頁。
29  平山蘆江「島原女と天草女」『都新聞』1937 年 3 月 15 日付、は「長崎県の島原女や、熊本県の天草女は、一先ず朝鮮へ渡り、それから後、さてどこへゆこうかをきめる」とし、ウラジオストック方面に多いことを記している。
30  永井荷風著・磯田光一編『摘録断腸亭日乗』上巻、岩波文庫、1987 年、300 頁。

 

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万 3130 件、求職 4 万 4771 件、就職 1 万 9170 件であった。日本内地の場合、1936 年時点
の公益職業紹介所は、公立 657 カ所、私立 40 カ所であり、同年の取扱件数は一般職業紹介
だけで、求人 229 万 7211 件、求職 177 万 8145 件、就職 81 万 2327 件、と朝鮮に比べて
大幅に多い。
朝鮮においては歩いて行ける範囲に公益職業紹介所がある地域に住んでいる人は少なか
ったし、そもそもその、存在自体も知らなかったのが普通であろう。さらに言えば朝鮮女性
の多くが教育を受けていない(ハングルも読めない)状況にあっては職業紹介所の存在をも
し知っていたとしても利用自体、事実上不可能である。そして、人身売買がしばしば行われ
ていたことは朝鮮語紙の報道で取り上げられているが、日本帝国全体の関心事となったわ
けではない。朝鮮総督府の官僚たちの間でも、この問題についての対策の必要性が強く意識
されていた形跡はない。
(4)女性の人身売買の越境ネットワーク
こうした芸妓・娼妓・酌婦等として働かせるための女性の人身売買は、日本内地のみ、あ
るいは朝鮮域内のなかでのみで「市場」として閉じているわけではなかった。よく知られて
いるように、日本人女性のなかには、海外で売春に従事させられた「からゆきさん」と呼ば
れる人びとがいた。彼女たちが向かった先は、東南アジアの港町や満洲、シベリアなどであ
った。朝鮮人女性についても、満洲や日本内地に売られていった人びとが少なからず存在し
た。
ただし、売春に従事させられる女性の域外への移動において、日本内地と朝鮮とでは若干
の傾向の違いが見られる。それぞれの状況について、本稿の課題に関連して重要と思われる
点を説明すれば次のようである。
まず、日本人について見れば、外地・海外に売られていった人たちは、芸妓・娼妓・酌婦
等となった日本人女性のなかで一般的というほどではない。当たり前ではあるが「からゆき
さん」ばかりではなかったのである。これは日本内地の都市であればどこでも、遊郭置屋
売春を行わせる女性を置く飲食店等が多数あったためである。日本内地での芸妓・娼妓・酌
婦の数は 1936 年時点で合わせて 21 万 1476 人(芸妓 7 万 8699 人、娼妓 4 万 7078 人、酌
婦 8 万 5685 人)であり、このほか女給が 11 万 1700 人いた23。これに対して、外国在住の
芸妓・娼妓・酌婦等の日本人女性数は、1936 年 10 月 1 日現在の調査で、1 万 4677 人24、
同年末の調査で、植民地の統計では朝鮮が 4577 人(芸妓 4192 人、娼妓 1921 人、酌婦 385
人)25、台湾が 2351 人(芸妓 865 人、娼妓 836 人、酌婦 650 人)となっている26。このほ
か、民族別の数は不明であるが、樺太では、芸妓 560 人、娼妓 104 人、酌婦 958 人という
統計が確認できる27。これらから、外国・外地で売春に従事させられていた日本人女性は
1930 年代半ばでも決して少ない数ではないとも言えるが、しかし、「身売り」して売春に従
事することになる日本人女性のうちのほとんどは、外国・外地ではなく、日本内地で働いて
23 秦郁彦慰安婦と戦場の性』、新潮社、30 頁。
24 外務省調査部『海外各地在留本邦人人口統計表 昭和 11 年 10 月 1 日現在』1938 年。
25 朝鮮総督府『昭和 11 年 朝鮮総督府統計年報』1938 年。
26 台湾総督府台湾総督府統計書 第 40 回』1938 年。
27 樺太庁『昭和 11 年 樺太庁統計書』1937 年。

 

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いたことがわかる。
そもそも、娘を売りに出さなければならない親としても、あまりに遠い場所に働きに出て、
何かあった際に顔を合わせることができない、ということはおそらく不安であり、避けたい
事態である。したがって、外地や外国に娘を売るよりも、国内でできれば近県程度を娘の働
き先とすることを選好することなる。実際、青森県八戸警察署の調査によれば、1934 年中
に管内から芸妓・娼婦・酌婦・女給として自分の村を出た女性 730 人の行先は、県内 343
人、県外 387 人となっており、県外も多くは近県と東京であった。県外に向かった 387 人
のうち 16 名を除けば、北海道・岩手・秋田・宮城・東京・神奈川、つまりは日本内地のな
かにいたことが明確である(16 名については、記載がないだけであり、それ以外の日本内
地の府県である可能性がある)28。
したがって、日本人女性の場合、外地・外国行きの女性はなかなか人が集まらなかったと
考えられる。もちろん、日本内地のなかでも地域差はある。幕末明治期から「からゆきさん」
(海外で売春に従事させられる女性)を多数送り出してきた長崎県島原地方、熊本県天草地
方の場合、初めて親元から出て=売られて仕事をする(これを「親出」といった)場所が、
海外・外地であることは普通であったようである29。しかし、「島原女」「天草女」だけで、
「需要」を満たすことはできなかった。とすれば、外地・外国行きについては、なんらかの
インセンティブを付与して日本人女性を集めるほかない。実際に、1930 年代半ばの満洲
らの芸妓・娼妓・酌婦等の募集は、高給や高い前借金の設定などの「好条件」が提示されて
いる。
勤務地を満洲とする求人広告では、例えば、『都新聞』1935 年 3 月 22 日付には「月収 200
円以上」でのダンサー女給の募集、1935 年 4 月 7 日には「月収 200 円」での女給の募集の
広告がある。これら数字も異様な高額である。東京・大阪の女給を対象とした 1925 年の調
査では、月収 200 円以上を得ている者は 2604 人のうち 7 名だけ、100 円以上でも 125 人
に過ぎない。相当な高給が提示されているのである。
また、前借金についても、『都新聞』1935 年 11 月 10 日付には「前借 5000 円迄」で満洲
行きの芸妓を募集するという広告が出ている。これよりは低額であるが、永井荷風が耳にし
た、東京に飛行機でやってきて一度に 10 人程度をつれて行くという満洲の料理屋の主人の
話では、つれて行く芸妓は「上玉」(客が多くつくことが期待される女性)の場合は前借金
3000 円、「並」が 1500~1600 円とされている30。これらに記された、前借金の額は、「相
場」を大きく上回る水準である。やや時期は前になるが 1925 年の調査によれば、東京の芸
妓 6603 人の前借金は平均で 959 円 40 銭、3000 円以上の前借金を抱えているものは 38 名
だけである 。
そしてそもそも、娘を売る段階では、親はこのような多額の前借金を設定するという選択
肢をとらない。借金が多ければ多いほど、自分の娘はそのぶん、長く自由を奪われて売春に
従事させられるからである。また、農家の負債は、日本の東北地方の場合 1 戸当たり 1000
28 前掲『東北の窮乏と身売防止』73~75 頁。
29 平山蘆江「島原女と天草女」『都新聞』1937 年 3 月 15 日付、は「長崎県の島原女や、
熊本県の天草女は、一先ず朝鮮へ渡り、それから後、さてどこへゆこうかをきめる」と
し、ウラジオストック方面に多いことを記している。
30 永井荷風著・磯田光一編『摘録断腸亭日乗』上巻、岩波文庫、1987 年、300 頁。

 

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円程度であったとされるものの 、その負債をいきなりすべて返済するのでは得策ではない。通常、採用される生活戦略は、直近の完全な経済破綻を避けるためにできるだけ借金の額は少なく抑えつつ、農業経営を立て直すことをめざす、というものだろう。

 したがって、こうした多額の前借金を条件として満洲に渡る日本人女性は、初めて芸妓・娼妓・酌婦等となるのではない人びとが多かったと見るべきである。つまり、すでに、芸妓・娼妓・酌婦等となっていた者で、その生活の過程でさらに借金を増やした者が、勧誘に応じていたと推測される。実際にそうであったらしきことは、次に示す、『都新聞』1936 年 11 月 25 日付記事「遠来の人攫い 満洲の周旋人入込む」からもわかる。

 前借七、八百円で芸妓になった妓が、一と処で辛抱していればいいものを、それからそれと気が落ちつかず、二、三ヶ所を住替へで歩いているうちに借金は殖える一方、そのたんびにうまい汁を吸うのは周旋屋だけで、親許へは高々五十か六十の金が入るだけ、かう
して千五、六百から二千円の金を背負い込んでしまうと余程ずば抜けた妓でもない限り、この上、住替て元の主人にも損をかけず、親にも多少なりお小遣いを使はせやうという訳には行かず、さうした妓を狙って、昨今、頻と入り込んで来たのが、満洲方面の周旋人。まともでは玉〔芸妓となるべき女性〕がつかまらないので、席料のいらない料理屋の客になり、十七、八から二十二、三位までの芸妓を七、八人呼んで、満洲に行けば黙って二千
円や二千五百円は出す、さうして一年も辛抱していれば、スグ身請けの客がつく……等々、大□で頬を叩くような話を持ちかけるので、つい若い妓などフラフラと来て、あたし満洲へ行こうかしら…なんて了見になる。

 これに対して、朝鮮の場合、妓生はともかく、娼妓や酌婦などとなる女性たちは、最初から朝鮮外に出ていく比率が高かったと推測される。1936 年時点での朝鮮内の朝鮮人の芸妓・娼妓・酌婦は合わせて 7729 人(芸妓 4712 人、娼妓 1653 人、酌婦 1364 人)である。このほかに朝鮮には日本人等の芸妓・娼妓・酌婦もいて、そうした人びとを合計した朝鮮内の芸妓・娼妓・酌婦の数は 1 万 2307 人(芸妓 6983 人、娼妓 3575 人、酌婦 1749 人)となる。

 日本内地の同じ時期の芸妓・娼妓・酌婦は 21 万人程度であり、この時点の日本内地全体の人口が約 7000 万、朝鮮全体の人口が約 2200 万人であることを考えれば、人口規模の違いを勘案しても、朝鮮の芸妓・娼妓・酌婦数は少なかったと言える。なぜそのようであるかは、様々な原因が考えられるが、日本内地ほどに都市化が進んでいなかったこと、都市居住の労働者らの賃金自体が低く、「買春」を含む遊興を行う客が少なかったことが関係していると思われる。

 しかし、朝鮮では、この時期、負債を抱えた農家、困窮して働き口を求める人びとは相当多数に上り、しかも、工場労働や事務労働等で女性が現金収入を得るための雇用先は、極めて少なかった。そうしたなかで、朝鮮外に女性を送り出して売春に従事させるという行為が
盛んになっていたと推測される。この点について概観できる統計はまだ確認できていないが、日本内地在住朝鮮人の職業別統計では、1936 年時点で「接客業」に分類されている者が 5625 人を数えている。接客業イコール売春に従事させられる女性ではないが、そのなか

 

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に相当数、売春に従事させられている女性がいることも確かである31。また、満洲でも売春に従事させられる朝鮮人女性がしばしば見られたことは新聞や雑誌記事などから伝えられており32、1930 年の統計として中国大陸には、朝鮮人の酌婦・娼妓・私娼として、長春 35
人、奉天 155 人、ハルビン 108 人、天津 457 人、北京 32 人、青島 106 人、上海 1173 人、
漢口 37 人がいたとされている33。こうした史料を踏まえるならば、朝鮮内で売春に従事さ
せられていた朝鮮女性の数と朝鮮外での売春に従事させられていた朝鮮女性の数は、同程
度か、少なくともそう変わらない程度の数だった可能性がある。
そして、朝鮮外で売春に従事させられた朝鮮人女性については、極めて高給の条件を提示
されてやってきたとか、異常に高額の前借金が設定されているという話は、この時期には確
認できない。こうした女性が満洲で目立つようになってきた背景として語られていること
に関連して注目すべきは、相対的な“コストの安さ”である。この点について、『週刊朝日
1938 年 6 月 1 日号掲載の安藤盛「異郷情話 女挺身隊物語」は、次のように記している。
すなわち「内地から女を抱へて行くと、旅費や仕込金がかかる上、そんなに美人は手に入れ
ることができないが、鴨緑江一つ渡った北鮮へ行けば、公学校を出た完全に日本語をあやつ
る美人が安く手に入る」ので、「半島女は抱主によろこばれるやうになった」と言うのであ
る。
朝鮮人女性の場合で前借金の相場がどれくらいであったかは不明である。だが、日本人に
比べて安かったことは確かであろう。朝鮮の場合、労働者の賃金も、農家経営での収入と支
出も日本内地に比べて低額であったわけであり、経済的困窮もより少額の金額で生じるこ
ととなる。そこに付け込んで、安い前借金で「身売り」の交渉を成立させることが可能だっ
たはずである。満洲ではなく、仁川の遊郭についての調査によれば、実際に、日本人と朝鮮
人では前借金に差が存在した。日本人娼妓の前借金が 700 円から 2500 円であったのに対し
て、朝鮮人は 200 円から 700 円であったのである34。こうしたなかで、満洲でも安いコス
トで連れて来こられて売春に従事させられる朝鮮人女性が増えていったのである。
31 なお、すでに 1932 年には大阪で「朝鮮遊郭」と呼ばれる地帯が出来て、約 80 名の朝
鮮女性が売春に従事されていたとの報道があり(『大阪朝日新聞』1932 年 12 月 22 日付
「哀号! 『朝鮮遊郭』に突如営業禁止」)、また当時の在日朝鮮人社会内部でも、朝鮮人
女性を置いて売春を行う飲食店の存在が問題視されていた(『朝鮮日報』1936 年 4 月 29
日付「京阪神朝鮮人問題座談会」中の金敬中の発言)。
32 例えば、『京城日報』1915 年 11 月*日付「南満の鮮人」では、奉天長春吉林・鉄
嶺方面の朝鮮人について、鉄道工事に従事している者のほか酌婦となる者が多いことを伝
えている。また、松井真吾「娘子軍出征」『犯罪公論』1932 年 4 月号、は満洲事変直後の
奉天において「アリランの歌をきかせてくれる可愛い女の群」が日本人芸妓の競争相手に
なっていると伝えている。
33 早川紀代「海外における買売春の展開―台湾を中心に」『季刊 戦争責任研究』第 10
号。
34 吉見義明・林博史編『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店、1995 年、50 頁に紹介され
ている調査。この箇所は尹明淑の執筆によるもので、註によればこれは仁川府庁編『仁川
府史(上)』1933 年、1476 頁を典拠としている。

第二復員局残務処理部 開戦迄の政略戦略 其の1(1950年3月)より 考証資料第10号  1937.8.14

考證資料第十號

 

◯昭和年八月十四日午后六時發電の作戰命令

大海令第十三號
昭和十二年八月十四日
奉勅 軍令部總長 博恭王
長谷川第三艦隊司令官に命令

一、帝國は上海に派兵し同地に於ける帝國臣民を保護すると共に當面の支那軍を擊破するに決す。
青島に對しては陸軍派兵準備を整へ待機せしむ。

二、第三艦隊司令官は現任務の外 派遣軍と協力し所要の地域を確保し 同方面に於ける敵陸軍 及 中支那に於ける敵航空兵力を擊破すると共に 所要海面を制壓し必要に應じ敵艦隊を擊滅すべし。

三、第三艦隊司令官は上海方面に派遣せらるる帝國陸軍の海上護衞 及 其の一部の輸送に任ずべし。

四、細項に關しては軍令部總長をして之を指示せしむ。

 

◯八月十四日午后七時十五分發電の作戰指示

大海令第十五號
昭和十二年八月十四日
軍令部總長 博恭王
長谷川 第三艦隊司令官に指示

一、帝國陸軍上海派遣軍の編成 左の如し

上海派遣軍指令部
第三師團
第十一師團(天谷支隊缺)
其の他所要部隊

二、第三師團 及 第十一師團の各先遣隊輸送は槪ね左の要領に依るべし。

(一)第三師團先遣隊(約三千五百名)は八月十九日 乃至 二十日 熱田に於て海軍艦船に乘船進發の豫定、右艦船の乘船地入泊期日を十八日とす。

(二)第十一師團先遣隊(約四千名)は八月十九日 乃至 二十日 多度津 及 丸龜に於て海軍艦船に乘船進發の豫定。

右艦船の乘船地入泊期日を八月十八日とす。

 

↑第二復員局残務処理部 開戦迄の政略戦略 其の1(1950年3月)より

考証資料第10号

昭和12年8月14日午後6時発電の作戦命令 大海令第13号

8月14日午後7時15分発電の作戦指示 大海令第15号

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C16120625500

「自殺者(軍医)3名あり。…兵にありては更らに著るしく、不慮外傷1,000件の大部分は喧嘩争斗に起因し、上官暴行は平均毎日1件の割にて発生する状况にて、まことに寒心に堪えず。国境隊内生活の物的心的慰安厚生策に就きては抜本的対策を必要とす。」 金原節三業務日誌摘録(当時陸軍省医事課高級課員)より 1939.3.31

3月31日

1,満州事情。細見大佐状况報告。

 イ。国境の状况

 匪賊は三江、東辺に若干。共匪は昨11月頃概ね駆逐され現在は大したものなし。

 国境線不明確なるためソ連との国境事件依然頻発す。3月初旬わが騎兵1ケ小隊拉致されたる事件あり(前事件の報復のためなる如し)。

 外蒙方面は鉄路の完成と共に頓に敵兵力増大す(前線は騎兵部隊なり)。これに対するわが兵力配備はきわめて薄弱なり。

 ロ、国内軍配備状况。

 一部移駐部隊ありたる外大なる変化なし。

 小衛戍地にありては髙級軍医をして軍医部長業務を代理せしむ。

 陸軍病院

 13年度計画の病院は全部完成す。

 病院勤務力は収容力に比し稍々薄弱なるところあり。例。ハイラル病院。

 病院の種類次の如し。

 病院(36)、分院(40)、分病院(4)(前分院のありしところ)、在隊入院(40)(交通干係輸送状况等よりみて入院のため輸送する時は症状増悪必至の場合 在隊の儘入院取扱をなすもの)。

 各病院共基幹となりて働くべき中堅幹部人少のため勤務力低下しあり。すなわち、少佐大尉級に著しき欠員あり。大部は臨床経験に乏しき短現等の中少尉なり。

 少佐大尉の欠員 112名
 中少尉の過員    36〃
 差引        67〃の欠員。

このことは、東寧、密山、牡丹江、チチハル等において顕著なり。[以下引用略]

 ハ、国境守備隊の軍医勤務状况。

 国境勤務の軍医に二種あり。一は僻地の不自由を克服し苦心努力しあるもの。他は勤務に倦み転任を熱望しあるもの。前者は極く少数にして大部は后者に屬す。

自殺者(軍医)3名あり。1は7Dの中尉、神経衰弱、ピストル自殺。2は飛行15の中尉。国境守備。平常とかわらず原因不明、遺書なし。3は大尉、神経衰弱、薬物による未遂あり注意しありしに、2週間后の病院移駐の際自殺。国境守備その他軍医中戦死2ある外、伝染病患者12名、内還5名等の減耗あり。

 尚若干の事犯者あり。何れにしても国境勤務は2年を限度とし後退せしむるを要す。

 又幹部将校は1ケ月若くは2ケ月に1回の割で出張あるも、中隊附将校、軍医には出張全然なく一考を要す。

 兵にありては更らに著るしく、不慮外傷1,000件の大部分は喧嘩争斗に起因し、上官暴行は平均毎日1件の割にて発生する状况にて、まことに寒心に堪えず。国境隊内生活の物的心的慰安厚生策に就きては抜本的対策を必要とす。

 ニ、給養

 米麦混食を廃止せる部隊あり。すなわち、23Dでは七分づき、独立守備隊では胚芽米を試験的に給与しあり。これらの部隊においては兵の嗜好に適い残飯量も尠し。医学的判断に関する調査未了。

 ホ、満州国側事情。

 A.民政部保健司の状况。

 保健司においては衞生防疫を掌りあるも、現在人事に起因し内部動揺しあり。長は満人なるも日本人官吏としてK技正あり。然るに最近(13年11月)関東局よりKo某なるものが入り、この人物が策動し波紋を起しあり。この人物につきては従来より兔角の風評えり。例えば(以下省畧)、本年2月これが露顕せる等。保健司の業務がこの一人物により本来の業務の活動を殺がれあるは遺憾なり。関東軍としては本人を処分するを可とし処置せんとせしか複雑なる背后干係もあり陸軍省の指令を希望す。
 B。満赤の状况。

 理事長問題等ありしも日赤本社久我部長の盡力にて大体の大組を決定したり。

 満赤においてもH某(上記Koと同窓、満大出身)なるものあり、これが又種々策動し波紋を起しあり、このHも上記Ko以上に評判の悪しき男にて扶済會(満州皇帝下賜金100万円を基金とする団体)の利子7万円(以下省畧)。伏魔殿中の人物なり。されど本人は関東軍参謀部(以下省畧)ありてこれに取入あるのみならず、満大出身者として大學干係者、満州官吏等の支援もあり、早急にこれを排除すること困難なる状況にあり。Hが総務部長となる様なことがあれば満赤は全く軍医部の手を離るることとなるべし(以下省畧)

 へ。その他。

 

↑昭和14.3.12~14.5.30 金原節三業務日誌摘録 前編 その一のイ 当時陸軍省医事課高級課員(防衛省防衛研究所、中央/軍事行政その他/68)より

 

附録 石井極秘機関 岡村寧次の戦場体験記録から


f:id:ObladiOblako:20210322223857j:image

陸軍軍医学校の防疫研究室にて(1932年)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%9B%9B%E9%83%8E

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Shiro-ishii.jpg#mw-jump-to-license

 

 石井機関については、私は創設時から終戦後、石井四郎氏の晩年にいたるまで熟知している関係にあるので、本機関の内容史実は、永久に発表すべからざるものと思うが、念のため附録として書き残しておくことにした。

附録 石井極秘機関

 石井機関の創設については、本省では、大臣、次官、軍務局長、軍事課長、医務局長ぐらい、関東軍では小磯参謀長と[参謀副長の]私だけが知っているという極秘中の極秘とし、私だけが直接石井と密会して中央と連絡するということになっていたので、私が独り同機関の現況を知っていたのであった。しかし時日の経過に伴い、現地に秘密機関が現存しているため自然に、その所在を軍内の多くの者が知るようになった、その内容は熟知しないまでも。

 超極秘であったため、私の日記にも一切これに関しては書き留めてないので、記憶をたどって、その概要を述べることにする。

 石井四郎は千葉県の豪農の生れで、頭脳明晰の青年であったらしい。陸軍の委托学生として京都帝国大学に学んだが、石井四郎婦人は当時の京大総長の令嬢であったことからみても、最優秀の学生であったことを証するに足る。

 ときは昭和八年のある月ある日であったと思う。石井研究機関は、ハルピン東南方拉賓線の駅の近い背隠河に設置された。捕えた匪賊の収容所の隣である。機関長の石井軍医少佐には歩兵少佐の被服を着用させ、部下の軍医も階級相当の歩兵科被服を着用させ、下働きの大部分は、石井の郷村から選抜してきた青年で固め、一切の外出を禁止したので、石井はこれら青年に娯楽を与えるのに苦心していた。一ヶ月に一、二回石井は、新京の参謀副長官舎に来て必要の連絡を行った。私が差し出した菓子、果物など一切手をつけず、その代わりその全部を持ち去ったことを憶えている。

 何分モルモットの代りに、どうせ去りゆくものとは云え本物の人命を使用するのであるから、効果の挙がるのは、当然と云えば当然であった。着々と医学的の成果を挙げたがその内容は固より私はよく知らないが、終戦後石井の直接洩らしたところによれば、専売特許的の成果件数は約二百種に上るという。

 しかし、このように驚くべき成果を挙げた原因は、前述の本物試験資材の外、石井の頭脳明晰と熱意と勇気に加えるに、これを補佐した部下軍医の献身的努力に因るものと思う。

 当事者であった軍医大尉二名は、馬疽の実験其他のため殉職した。私は中央の諒解を得て、架空の戦況を設けてこの両名のため殊勲を申請したことをおぼえている。

 石井は、また極めて勇敢で、上司の許可を得て、屢々大戦闘に際し、歩兵の最前線まで進出して、戦死の有様などを撮影した。

 進級のためでもあるが、石井もときどき他の普通の軍務にも従事させられた。わたしが北支方面軍司令官時代にも、 隷下第一軍の軍医部長として山西省に来任した。 このときも本務の傍らその使命とする特別研究を行い、かずかずの成果を挙げた。特に凍傷の治療には、 C三十七度の湯に浸すのが最良の方法であるという結論を得た。これは本物の人体を使用して生かしたり、殺したり、再生させたりした貴重な体験に基づくものであった。しかし何の事実によるか知らないが、これを中央がなかなか採用しないので、私は北支軍限りにおいて、この方法を採用した。例えば討伐に行った歩兵小隊に凍傷患者が出た場合、取敢えず小隊全部の者の小便を集め、患者をこれに浴せしめて初療を完うすることができた。第二期に入り幹部が相当崩れ変形した患者でも、この方法を気ながに採用すれば全治することができた。

 戦後も石井は、多くの問題を残した。

 終戦前というよりも、私が第二師団長として昭和十二年春、ハルピンに着任したとき既にら石井機関はハルピン近郊に相当立派な建物によって存在していた。石井軍医中将は軍医学校教官をも兼務していたので、ソ軍がハルピンに迫り来るに先ち、研究資料のエキスを三個のカバンに容れて、飛行機に乗って帰京し、これを牛込戸山町の自宅に隠匿しておいた。

 終戦後、ソ米両国間に、この細菌戦の権威者たる石井の研究資料に対する激しい争奪戦が起ったのである。満洲に縁故の深いソ聯が、既に石井機関の存在を知っていたのは不思議ではないと思うが、米軍もこれを重視していたのには、その諜報の優秀性を物語るものと思う。

 終戦後のある時、占領軍司令部当局は、連絡官たる有末精三中将に対し、石井四郎軍医中将を連れて来いという。それは戦犯か、利用かと有末が質したところ、後者であるというので、有末は安心して石井を軍司令部に伴った。その後いろいろ折衝があり、石井に金子なども贈与されたこともあったが、結局、右の貴重な三箇のカバンは内容とも、悉く米本国に持ち去られた。その後米国は、押収した陸海軍の文書は大部返還してきたが、この三箇のカバンは遂に還らない。

 ソ聯側の石井に対する研究資料獲得の運動も猛烈を極めた。ソ聯将校の石井訪問は、最初は規定に従い占領軍司令部の係官が立ち会ったが、その後は深夜係官ぬきで石井を訪問する。当時石井は、自宅を以て旅館を経営していたので、来客を拒絶するわけにはゆかない。ソ聯将校は、脅したり哀願したり、資料の一部分でもよいと譲歩したり、あまり頻繁に訪問するので、石井は遂にノイローゼとなって郷里に移住したこともあった。

 米は勿論、ソも最初は、石井を戦犯に指定しなかったが、石井から何等資料を得られないと判明するやソ聯は一般の戦犯裁判から大に遅れて、昭和二十三年秋頃であったが、山田関東軍司令官等、石井機関関係者を戦犯裁判に附したのであった。

 わが医学界でも、伝染病研究所関係者を始め石井の研究を高く評価する者があり、既に結論は出ているのであるから、モルモットその他の動物で再試験して学会に公表すべしと石井を激励してくれる者もあり、石井は将来を楽しんでいたが病死したのは惜しいことであった。

 石井の直接部下であった者で、生活費を求めるため、研究資料を小出しにしていた者もあると石井は申していた。血液の決勝などその例であるという。

 

註 なお、石井ばかりではない。私の関東軍副参謀長在任のとき、某国立大学の外科担当教授二、三名が来訪し、陸軍省の諒解の下匪賊処分のとき、刀を以て首を切ったときの断面を実視したく、またとない好機であるからなるべくば、その機会を与えてくれと、窃かに頼み込まれたので、吉林の部隊に紹介したことがあった。

 

↑《明治百年史叢書》第99巻 岡村寧次大将資料 上巻 ──戦場回想篇──、1970年、原書房、p.387~p.390

 

 

「この条の(a)項に提示された手段が用いられている場合は、人身売買の犠牲者が(a)項に提示された搾取の意図に同意してもその同意は無効とする。」 「人身取引」の定義 国境を跨ぐ組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、とりわけに女性および児童の取引を防止し、抑止し、ならびに処罰するための議定書より

PROTOCOL TO PREVENT, SUPPRESS AND PUNISH TRAFFICKING IN PERSONS, ESPECIALLY WOMEN AND CHILDREN, SUPPLEMENTING THE UNITED NATIONS CNVENTION AGAINST TRANSNATIONAL ORGANIZED CRIME

国境を跨いだ組織的な犯罪に対抗する国際連合条約を補足する、人身売買、とりわけ女性と子どもの人身売買を予防、禁圧ならびに処罰するための議定書

Preamble

前文

The States Parties to this Protocol,

この議定書の締約国は、

Declaring that effective action to prevent and combat trafficking in persons, especially women and children, requires a comprehensive international approach in the countries of origin, transit and destination that includes measures to prevent such trafficking, to punish the traffickers and to protect the victims of such trafficking, including by protecting their internationally recognized human rights,

人身取引、取り分け女性と子どもの取引を予防し撲滅するための効果的な行動には、そうした取引を予防し、取引者を処罰し、国際的に認識された人権の擁護その他によりそうした取引の被害者を保護する諸方策を含んだ、発生地、経由地、目的地となる国々における包括的な国際的対処が必要であることを宣言し、

Taking into account the fact that, despite the existence of a variety of international instruments containing rules and practical measures to combat the exploitation of persons, especially women and children, there is no universal instrument that addresses all aspects of trafficking in persons,

人の搾取、とりわけ女性や子どもの搾取を撲滅するための規則や実践的な方策を盛り込んだ様々なな国際的取極めが存在するにもかかわらず、人身取引のあらゆる側面に対応する普遍的な取極めが存在しないという事実を考慮に入れ、

Concerned that, in the absence of such an instrument, persons who are vulnerable to trafficking will not be sufficiently protected,

そうした取極めが存在しないもとでは、人身取引の犠牲となりがちな人たちが満足に保護されないであろうことを懸念し、

Recalling General Assembly resolution 53/111 of 9 December 1998, in which the Assembly decided to establish an open-ended intergovernmental ad hoc committee for the purpose of elaborating a comprehensive international convention against transnational organized crime and of discussing the elaboration of, inter alia, an international instrument addressing trafficking in women and children,

国境を跨いだ組織的な犯罪に対抗する包括的な国際条約を精緻に仕上げること、就中、女性と子どもの人身取引を対象とする国際的取極めからを精緻に仕上げる議論をすることを目的として、自由に発言できる政府間特別委員会を設置することを国連総会が決定した、1998 年 12 月 9 日の総会決議 第 53 期 第 111 号を想起し、

Convinced that supplementing the United Nations Convention against Transnational Organized Crime with an international instrument for the prevention, suppression and punishment of trafficking in persons, especially women and children, will be usefull in preventing and combating that crime,

国境を跨いだ組織犯罪に対抗する国連条約を、人身取引、取り分け女性と子どもの取引の予防と抑止し、処罰のための国際的取極めで補足することは、そうした犯罪を予防し撲滅することに役立つであろうと確信して、

Have agreed as follows :

以下のことに同意した。

I. General provisions

Article 1 — Relation with the United Nations Convention against Transnational Organized Crime

1. This Protocol supplements the United Nations Convention against Transnational Organized Crime. It shall be interpreted together with the Convention.

2. The provisions of the Convention shall apply, mutatis mutandis, to this Protocol unless otherwise provided herein.

3. The offences established in accordance with article 5 of this Protocol shall be regarded as offences established in accordance with the Convention.

Article 2 — Statement of purpose

The purposes of this Protocol are:

(a) To prevent and combat tra9 December 1998fficking in persons, paying particular attention to women and children;

(b) To protect and assist the victims of such trafficking, with full respect for their human rights; and

(c) To promote cooperation among States Parties in order to meet those objectives.

Article 3 ― Use of terms

  第3条 用語法

For the purpose of this Protocol:

この議定書の意図するところでは、

(a) “Trafficing in persons” shall mean the recruitment, transportation, transfer, harbouring or receipt of persons, by means of the threat or use of force or other forms of coercion, of abduction, of fraud, of deception, of abuse of power or of a position of vulnerability or of the giving of receiving of payments or benefits to achieve the consent of a person having control over another person, for the purpose of exploitation.  Exploitation shall include, at a minimum, the exploitation of the prostitution of others or other forms of serial exploitation, forced labour or services, slavery or practices similar to slavery, servitude or the removal of organs;

(a) 「人身取引」 とは、搾取を目的とし、威力の行使やその脅しその他の形態の強要、誘拐、詐欺、瞞着、あるいは他者の去就を左右できる人の同意を得るために権力を濫用したり、弱い立場に付け入ったり、報酬や利益を授受することを手段とする、人の徴募や輸送、譲渡、隠匿、受領を意味するものとする。搾取には、最小限でも、他人に売春をさせて搾取することやその他の形態の性的搾取、あるいは労働や奉仕の強制、奴隷制奴隷制同然の慣行、隷属、臓器切除が含まれる。

(b) The consent of a victim of trafficing in persons to the intended exploitation set forth in subparagraph (a) of this article shall be irrelevant where any of means set forth in subparagraph (a) have been used.

(b) この条の (a) 項に提示された手段が用いられている場合、人身取引の犠牲者が (a) 項に提示された搾取の意図に同意しても、その同意は無効とする。

(c) Recruitment, transportation, transfer, harbouring or receipt of a child for the purpose of exploitation shall be considered “trafficking in persons” even if this does not involve any of the means set forth in subparagraph (a) of this article;

(c) 搾取の目的で子どもを徴募し、輸送し、譲渡、隠匿し、または受領することは、たとえそれがこの条の (a) 項に提示されたどの手段も伴わなくとも、「人身取引」 と見なすものとする。

(d) “Child” shall mean any person under eighteen years of age.

(d) 「子ども」 は十八歳未満の一切の人を意味するものとする。

https://www.mofa.go.jp/policy/treaty/submit/session162/agree-1.pdf

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty162_1.html

https://www.ohchr.org/en/instruments-mechanisms/instruments/protocol-prevent-suppress-and-punish-trafficking-persons

 

[外務省訳]

国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人(特に女性及び児童)の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書
(略称 国際組織犯罪防止条約人身取引議定書)

   第三条 用語

この議定書の定義上、

(a) 「人身取引」 とは、搾取の目的で、暴力その他の形態による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することを言う。搾取には少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。

(b) (a) に規定する手段が用いられた場合には、人身取引の被害者が (a) に規定する搾取に同意しているか否かを問わない。

(c) 搾取の目的で児童を獲得し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することは、(a) に規定するいずれの手段が用いられていない場合であっても、人身取引とみなされる。

(d) 「児童」 とは十八歳未満のすべての者をいう。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/treaty162_1a.pdf

【メモ】佐藤和男『南京事件と戦時国際法』

https://www.google.com/amp/s/w.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.amp

より全文転載。太字強調は引用者

 

佐藤和男氏『南京事件戦時国際法
「正論」平成13年3月号
筆者は青山学院大学名誉教授

一、問題状況
 日本陸軍支那事変初期の南京攻略戦に付随して軍民三十万人の大虐殺(中国政府の主張)を行ったという"南京事件″なるものが、日本国民の耳目を聳動させたのは、いわゆる東京裁判から以後のことである。爾来、本事件は、その真相の実証的究明とは無関係に、現実に起きたものとマスコミや教育の世界で受けとめられ、暗鬱な夢魔のごとく日本国民を悩まし続けてきた。
 東京裁判を傍聴し、国際法上理論的にも手続的にも疑問の多い同裁判が下した判決に示された"事件"の犠牲者数(十万~二十万人以上の間の異なった複数の数字が示されている)については、同裁判自体の合法性に対すると同様に、筆者は最初から強い疑念を抱かぎるを得なかったが、その数字はやがて中国共産党政府により三十万人と政治的に決定され、対日強圧政策の手段としての効用が重視されるに至った。
 国家間に紛議を惹起している問題を解明するためには、筆者は次のような考察の三階梯が不可欠と考える。(1)歴史的事実の確認、(2)法的適否の判断、(3)政治的意味の考究。(P308)
 南京事件についていえば、右の(1)として、わが国の幾多の研究者の積年の努力によって、大虐殺論はほぼ完全に否認される状況に立ち至っていると、筆者は認識する。鈴木明、田中正明両氏の先駆的研究に続き諸調査が発表され、わけても財団法人・偕行社による『南京戦史(同資料集Ⅰ・Ⅱ』(初版は平成元年、増補改訂版は平成五年の刊行)が画期的といえる実証的かつ総合的な調査成果を世に示し、これらの業績を踏まえつつ、板倉由明、東中野修道日本会議国際広報委員会等のそれぞれ特徴ある労作が公にされている。(P308-P309)
 本稿で筆者が試みるのは、右の(2)の考察であり、国際法の観点から、今日なお論議の余地ありとされている事件関連の問題点について、検討することとしたい。(P309)

二、支那事変と国際法の適用
 昭和十二年七月七日夜、盧溝橋畔の日支両軍の武力衝突に端を発した支那事変(九月二日、北支事変から改称)は、昭和十六年十二月九日に支那政府(中華民国蒋介石・国民党政権)が対日宣戦布告を行って、事変が大東亜戦争に包含されるまでの間、日支いずれの側も国際法上の正式の戦争意思(アニムス・べリゲレンディ)を表明しない「事実上の戦争」として性格づけられ、国際社会も、例えばアメリカやイギリスも、それを正規の(法律上の)戦争とは認めなかった。
 しかし、一般的に国際武力衝突を規律する規範とされている戦時国際法(交戦法規といわれる部分)が、戦争の場合と同様に同事変にも適用されることには、異論の余地がなかった。
 戦時国際法は、国際法全般の場合と当然ながら同様に、時代の進展に伴ってその内容を(比較的に急速に)変遷せしめている法体系であり、しかもその法源中の条約の持つ特殊性(締約国のみを拘束する)により、諸国が遵守すべき規範内容に差異が生じ得るものなのである。
 本稿で重要なのは、支那事変当時に日支両国が共通に遵守義務を負っていた交戦法規の実態をその最重要なものとして「陸戦ノ法規慣例二関スル条約・(同付属書)陸戦ノ法規慣例二関スル規則」が挙げられる。
 これは普通に一九〇七年ハーグ陸戦条約(規則)と呼ばれ、陸戦にかかわる交戦法規を集大成した基本法典的な性格を持つものであるが、日本は一九一二(明治四十五)年二月に、支那中華民国)は一九一七(大正六)年五月にそれぞれその当事国となっていて、支那事変当時この条約が日支両国間に適用されるものであったことは明白である。南京攻略戦に関連する法的諸問題は大体において本条約の枠内における規律対象とされている。
 後述するが、一九二九年のジュネーブ捕虜待遇条約は、当時、両国間に適用可能ではなかった。この当時、日本陸軍が交戦法規についてその遵守が基本的に肝要であると考えていたことは、昭和十二年八月五日の「交戦法規ノ適用二関スル件」と題する陸軍次官通牒(駐屯軍参謀長宛)中に見られる例えば次のような言葉から理解できる。(P309)
「日支兵干戈ノ間二相見ユルノ急追セル事態ニ直面シ全面戦争へノ移行転移必スシモ明確二判別シ難キ現状二於テ自衛上前記条約〔陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規二関スル諸条約〕ノ精神二準拠シ実情ニ即シ機ヲ失セス所要ノ措置ヲ取ルニ遺漏ナキヲ期ス」、
「帝国カ常二人類ノ平和ヲ愛好シ戦闘二伴フ惨害ヲ極力減殺センコトヲ顧念シアルモノ ナルカ故二此等ノ目的ニ副フ如ク前述条約中害敵手段ノ運用等二関シ之カ規定ヲ努メテ尊重スヘク又帝国現下ノ国策ハ努メテ日支全面戦ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルゝカ如キ言動(中略)ハ努メテ之ヲ避ケ又現地二於ケル外国人ノ生命、財産ノ保護、駐屯外国軍隊二対スル応待等ニ関シテハ勉メテ適法的二処理シ(中略)要ラサル疑惑ヲ招カサルノ用意ヲ必要トスヘシ」(P310)

三、捕虜の取扱いに関する法規
 "南京事件″では「捕虜」にかかわる諸問題が格別に重視されているので、国際法上の捕虜の取扱いについて概観しておく。
 捕虜の待遇は、近代国際法の交戦法規の中で特別の関心が払われてきたが、一八七四年のブリュッセル宣言(発効しなかった)の十二箇条が捕虜に関する法制を構想し、以後の関係条約中において具現されることになった。
 一八九九年と一九〇七年のハーグ平和会議を機に、一八九九年ハーグ第二条約と一九〇七年ハーグ第四条約(前出の陸戦条約)との双方の付属規則に、捕虜に関する十七箇条の規定が設けられ、さらに他の一九〇七年ハーグ諸条約中の若干のものにも多少の関連規定が置かれた。
 第一次世界大戦の経験を通じて右のハーグ規則十七箇条の不備と不明確性が明らかとなり、その欠陥は一九一七年、一九一八年に諸国間で結ばれた諸条約によって、一部是正された。一九二一年にジュネーブで開かれた第十回国際赤十字会議は、捕虜の取扱いに関する条約の採択を勧告し、一九二九(昭和四)年にスイス政府は、そのような条約の採択(および戦地軍隊の傷者・病者に関する一九〇六年ジュネーブ条約の改正)のために外交会議を招集して、「俘虜(捕虜)ノ待遇二閑スル条約」を同年七月に正式に採択せしめるに 至った。
 この一九二九年ジュネーブ捕虜条約は、一八九九年、一九〇七年のハーグ陸戦規則中の捕虜に関する諸規定をある程度補足し改善する意義を有していた。(P310)
 右条約は、支那事変当時、日支両国間の関係には適用されなかった。支那中華民国)は一九三六年(昭和十一)年五月に同条約に加入していたが、日本は未加入であったからである(本条約は、条約当事国である交戦国の間で拘束力を持つ)。(P310-P311)
 ちなみに、大東亜戦争が開始された直後の一九四一(昭和十六)年十二月二十七日の連合国側の問合わせに対して、日本政府は翌年一月二十九日に、未 批准の一九二九年捕虜条約の規定を準用すると回答している。準用とは「必要な変更を加えて適用する」との意味である。しかし、連合国側は、あえて準用を批准 とほぽ同義に解釈したのである。
 以上見た限りにおいても、捕虜に関する国際法上の規範の内容が時代の進展とともに変化(おおむね改善)せしめられていることが理解されよう。その規範の法源は十九世紀後半に至って慣習法から条約へと徐々に転換して成文化の道を辿ることになるのであ るが、各時代・各国家間関係に対応して現実に適用される関係法規の実体の認定に際して、厳密な注意が要求されることは、いうまでもない。
 現在では「法規認定の補助手段」として国際裁判に際しても重要視されている卓越した国際法学者の「学説」を参照する場合にも、このことは忘れられては ならないのである。例えば、わが国で比較的に良く知られていて引用されることも多い『オッペンハイム国際法論』第二巻(永きにわたり戦時国際法の専門的な解説書として高く評価されてきた) にしても、原著者L・F・L・オッペンハイムの死去(一九一九年)の後、異なる改訂責任者による改訂版として、記述内容も必要に応じた訂正を加えて継続的に刊行されており、支那事変当時の戦時国際法状況を知るために適当と考え られる第三版(一九二一年)、第四版(一九二六年)、第五版(一九三五年)は、それぞれR・F・ロックスバーグ、A・D・マックネア、H・ラウターパハトという異なる改訂者の手に成るところの、内容に変化が見られるものであることに、留意すべきであろう。
 以下、捕虜に関する実定法規の主要なものを簡略に説明する。
 まず初めに、捕虜の定義であるが、支那事変当時日支両国間に適用されるハーグ陸戦規則には、具体的に示されてはいない。ここでは、両国間に適用されなかったものの国際的な意味が少なくなかった一九二九年捕虜条約の第一条(1)が掲げている「一九〇七年ハーグ陸戦規則第一条、第二条、第三条二掲クル一切ノ者ニシテ敵二捕へラレタル者」を便宜上念頭に 置くこととする。(P311)
 右のハーグ規則三箇条は、交戦者の資格を、軍隊の構成員のみならず、(1)部下ノ為二責任ヲ負フ者其ノ頭二在ルコト、(2)遠方ヨリ認識シ得へキ固著ノ特殊 徽章ヲ有スルコト、(3)公然兵器ヲ携帯スルコト、(4)其ノ動作二付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト、の四条件を具備する場合、民兵義勇兵 団とにも認め(第一条)、敵侵入軍の接近に際して「抗敵スル為自ラ兵器ヲ操ル」群民蜂起を行う占領されていない地方の住民にも、「公然兵器ヲ携帯シ、且戦争ノ法規慣例ヲ遵守スル」ことを条件に同様に認め(第二条)、また兵力を編成する 戦闘員と非戦闘員とが両者等しく捕虜の待遇を受ける権利を有することを認めており(第三条)、交戦者としての正当な資格を有するこれらの者が、国際法が認める捕虜としての待遇を享受し得ると定めるものであった。(P312-P313)
 ハーグ陸戦規則第四条は「俘虜ハ、敵ノ政府ノ権内二属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内二属スルコトナシ」と規定するが、往昔、捕虜が捕獲者たる将兵の個々の権内に属して、彼等に生殺与奪の権を握られることがあったのである。
 「敵ニ捕へラレタル者」が交戦者としての適法の資格を欠く場合には、単なる被捕獲者に過ぎず、国際法上正当な捕虜であり得ないことは理論上明白であるが、現実の戦場でのこの点についての識別が実際上困難な場合もあり、紛糾を生ずる原因ともなり易い。
 第二次世界大戦の経験に鑑みて、一九二九年捕虜条約をさらに大幅に改善し拡大した一九四九年のジュネーブ第三条約(捕虜の待遇に関する条約)の第五条は、「本条約は、第四条に掲げる者〔捕虜の待遇を受ける資格のある者〕に対し、それらの者が 敵の権力内に陥った時から最終的に解放され、且つ送還される時までの間、適用する」、「交戦行為を行って敢の手中に陥った者が第四条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には 、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」と規定している。
 一九四九年捕虜条約は、一九二〇~三〇年代の捕虜に関する国際法規に比較して飛躍的に進歩した内容を示していて、もちろん支那事変当時の関連諸問題に直接影響を与えるものではないが、少なくとも右の第五条に見られる「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において、注目に 値しよう。(P312)
 交戦法規中捕虜関係のすべてを詳論する余地は本稿にはないが、問題の難しさを示す実例を一つ挙げておきたい。(P312-P313)
 捕虜法規がようやく慣習法の域を脱しつつあった一九〇一年、独立を日ざすフィリピン人民の部隊とアメリカ軍とが戦っていた時、アメリカ陸軍の ジェイコブ・H・スミス准将は、史上悪名高き次の命令を発した。
「捕虜は要らない。殺せ、焼け。多ければ多いほど良い。サマル島内を荒涼たる原野にしてしまえ。武器を持って手向かう者は皆殺せ、十歳以上は殺せ」。
彼は軍法会議で裁かれたが、結局、退役に追い込まれただけであった。(P313)

四、"南京事件"関連の重要法規
 戦時国際法上、戦闘に際して、正当な資格を有する交戦者は各種交戦法規の遵守を義務づけられているが、軍隊構成員または民間人が敵国に対して交戦法規に違反する行為をすれば、それは戦争犯罪と認められて、相手方の交戦国は、当該行為者を捕えた場合に処罰できるものとされてきた。
 戦争犯罪を構成する行為としては、(1)軍隊構成員による一般的交戦法規の違反行為、(2)軍隊構成員ではない個人の武力による敵対行為、 (3)間諜(スパイ)と戦時反逆、(4)剽盗(戦場をうろついて軍隊につきまとい、略奪、窃盗、負傷者の虐待・殺害、死者の所持品の剥奪などをする行為)の四種類に伝統的に大別されてきた。
 右の諸行為のうち、間諜と戦時反逆が特殊な性格を持つものであることは、留意されなければならない。両方の行為はいずれも交戦国が実行する権利を国際法上認められており、しかも相手方の交戦国がその行為者を捕えた場合にこれを処罰する権利もまた認められているのである。
 違法ではない行為が処罰されるのは、一見法理的に矛盾しているが、それらの行為の害敵手段としての有効性とそれに基づく交戦諸国の現実的要求の前に法規が譲歩したものと考えられる。
 前記四種類の戦争犯罪のうち、戦時反逆については多少の解説をしておく必要がある。それは、交戦国の権力下にある占領地、作戦地帯、その他の場所において、当該交戦国に 害を与えその敵国を利するために、私人たる敵国国民、中立国国民、または変装した敵国軍人が行う行為を指している。
 この種の有害行為は、敵国軍人が正規の軍服を着用して行う場合には戦時反逆にならないが、民間人に変装して行えば戦時反逆となる。その具体的内容はきわめて多岐にわたるが、 敵側への情報の提供、軍・軍人に対する陰謀、軍用の交通機関・資材の破壊、諸手投による公安の妨害、敵兵の蔵匿隠避、出入禁止区域への出入、強盗なども含まれている。
 戦争犯罪は、それを実行した個人が責任を問われるというのが原則であり、軍隊構成員という国家機関の行為でも、責任は国家に帰属せずに個人責任が問われるのが常である。(P313)
 各国軍隊は、軍律を制定して、戦争犯罪(一般的交戦法規違反とは特に区別して戦時反逆を取 り上げている場合もある)を処罰の対象として規定し、軍律違反者たる戦争犯罪人を、軍の審判機関(軍律法廷)を通じて処罰するのが慣例であった。(P313-P314)
 軍律法廷は純然たる司法機関ではなく、統帥権に基づく機関であって、むしろ行政機関、あるいはせいぜい準司法機関というべきものである。その行う審判は、機能的には軍事行動と把えるのが正確であり、その本来の目的は、戦争犯罪を行った敵対者の処断を通ずる威嚇によって、究極的には(占領地・作戦地帯における)自国軍隊の安全を確保することにあった。そのため、審判の手続は簡易にされ、軍罰(たいてい死刑)の執行は迅速であった。
 軍律法廷の法的根拠は、国内法上は憲法に定める統帥権に、また国際法上は軍が行使する交戦権、わけても「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」(ハーグ陸戦規則第三款)に存する。
 なお付言すれば、大東亜戦争中に正しい手続に従って厳格に実施されたわが国の軍律審判を、戦勝連合国軍(占領軍)の軍事法廷が犯罪視してその責任を追及したことは、将来に向けて重大な疑問と課題を残すものであった。
 第二次世界大戦後に締結された一九四九年ジュネーブ捕虜条約(前出)の第九十九条は「捕虜は、実行の時に効力があった抑留国の法令又は国際法によって禁止されていなかった行為については、これを裁判に付し、又はこれに刑罰を科してはならない」と、新機軸として「国際法」という言葉を加えた規定を行い、以下の諸条項において裁判手続を確定している。
 一九二九年ジュネーブ捕虜条約も第六十条以下において裁判手続について規定していたが、戦争犯罪事件に関与した他の幾つもの裁判所と同様に、アメリカ連邦最高裁判所が、第六十 条は戦争犯罪の責任を問われる捕虜に適用されるものではなく、捕虜となっている期間中に行われた犯罪のみを規定対象とするものだと主張していたことは、重要な意味を持つ。
 次に、ハーグ陸戦規則第二十三条(ハ)は「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞へル敵ヲ殺傷スルコト」を禁止し、同条 (ニ)は「助命セサルコトヲ宣言スルコト」を禁止している。
 しかし、激烈な死闘が展開される戦場では、これらの規則は必ずしも常に厳守されるとは限らない。
 『オッペンハイム国際法論』第二巻の第三版一九二一年)は「戦闘に伴う憤怒の惰が個々の戦士にこれらの規則を忘却、無視させることが多い」と嘆いているが、このまったく同一の言葉が、同書の第四版(一九二六年)にも、さらには弟六版(一九四〇年)にも、第七版(一九五二年)にさえも繰り返されている。
 学説上では、助命を拒否できる若干の場合のあることが広く認められている。(P314)
 第一は、敵軍が降伏の合図として白旗を掲げた後で戦闘行為を続けるような場合である。一般に、交戦法規は交戦国相互の信頼に基づいて成立しているので、相手方の信頼を利用してそれを裏切ることは、「背信行為」として禁止されている。具体的には、休戦や降伏をよそおって相手方を突然に攻撃すること、戦闘員が民間人の服装をして攻撃すること、赤十字記章や軍使旗を不正に使用すること、などがその代表的な ものである。(P314-P315)
 なお、優勢に敵軍を攻撃している軍隊に対して、敵軍が降伏の意思を示すペき白旗を掲げた場合、攻撃軍の指揮官は、 白旗が真に敵指揮官の降伏意思を示すものであると確信できるまでは、攻撃を続行することが法的に許されており、攻撃を停止しなければならない義務はなく、戦場における自己の安全の確保のために交戦者の主体的判断が尊重される事例となっている。
 第二に、相手側の交戦法規違反に対する戦時復仇としての助命拒否であり、相手方の助命拒否に対する復仇としての助命拒否の場合もある。
 一般に戦時復仇とは、交戦国が敵国の違法な戦争行為を止めさせるために、自らも違法な戦争行為に訴えて敵国に仕返しをすることをいう。前出『オッペンハイム国際法論』第二巻(第四版・一九二六年)は「捕虜が、敵 側の行った違法な戦争行為への復仇の対象にされ得ることには、ほとんど疑いがない」と述べている。一九二九年捕虜条約は新機軸を打ち出して、捕虜を復仇の対象とすることを 禁止した。
 第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要がある例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが知られている。
 この「軍事的必要」原則は、第二次世界大戦後の世界においてさえも完全には否認されていない。例えば、ミネソタ大学のG・フォングラーン教授は、無制限な軍事的必要主義は認めないものの、「必要」に 関する誠実な信念や確実な証拠が存在する場合には、この原則の援用や適用を容認している。
 もっとも、同教授は、極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らかにされたならば、軍事的必要を根拠にした違法行為は、戦争犯罪を構成するものになると警告している。
 わが国の戦時国際法の権威である竹本正幸教授も「予測されなかった重大な必要が生じ、戦争法規の遵守を不可能ならしめる場合もあり得る」と認めている。
 ちなみに、オッペンハイムの前記著作第三板(一九二一年)は、「敵兵を捕獲した軍隊の安全が、捕虜の継続的存在に より、死活的な重大危険にさらされる場合には、捕虜の助命を拒否できるとの規則がある」と主張している。同書第四版以降の改訂者は、同規則の存続は「信じられない」との意見を表明している。
 学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきであるというものである。す(P315)
 一般に国際武力衝突の場合に、予想もされなかった重大な軍事的必要が生起して交戦法規の遵守を不可能とする可能性は皆無とはいえず、きわめて例外的な状況において誠実にかつ慎重に援用される軍事的必要は、容認されてしかるペきであるという見解は、今日でも存在しているのである。(P315- P316)
 なお第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実は、日本国民がよく記憶するところである。(P316)

五、結論的所見
 これまでに概観した戦時国際法の関連法規に照らして、南京攻略戦での日本陸軍の行動の一部始終(詳述は割愛)を点検すると、きわめて厳しい軍事情勢の下にありながら、戦闘部隊が交戦法規の遵守に非常に慎重な考慮を払い、激戦中にも能う限りの努力をそのために払った事実が明らかにされ、筆者などむしろ深い感動を覚えざるを得ないのである。
 在支駐屯軍に交戦法規の尊重を求めた昭和十二年八月五日の陸軍次官通牒については既に見たが、南京攻略戦の開始にあたり、中支那方面軍司令官・松井石根大将が国際法顧問の斎藤良衛博士の意見を 徴して作成した「南京城攻略要領」(十二月七日、全軍に示達された)中の「注意事項」を見ても、交戦法規遵守への日本軍のなみなみならぬ決意が知られる。
その内容を略記すると、次のとおりである。
(1)将来ノ模範タルヘキ心組ヲモッテ、不法行為等絶対二無カラシムル、
(2)軍紀風紀ヲ特二厳粛ニスル、
(3)外国権益・外交機関二接近セス、中立地帯(安全区)ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点二歩哨ヲ配置ス、中山陵等ニモ立入ヲ禁ス、
(4)城内外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対二過誤ナキヲ期ス、
(5)掠奪行為ヲナシ又火ヲ失スルモノハ厳罰二処ス、多数ノ憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム。
 攻略戦展開に伴う国際法関連の問題点は幾つも指摘されているが、紙面の制約上、最も議論の喧しい二つのものに限定して考えたい。
 その一は、「安全区」に遁入・潜伏して、便衣(民間人の平服)に変装した支那兵の摘出・処断である(その具体的な人数等に関しては、『南京戦史』 三四二~三四三頁の第五表に詳しい)。
 右の安全区は、南京在住の第三国人有志が十二月初めに南京安全区国際委員会という非政府機関を設立して、南京城内の特定区域(三・八平方㌔)を難民のための中立地帯として設定し、外交ルートを通じ日本側にもその保証を求めてきたものである。(P316)
 国際法でいう中立地帯とは、交戦国間の合意に基づいて設定され、敵対行為に参加しないか、または戦闘外に置かれた非戦闘員・住民を軍隊の作戦行動の影響から保護することを目的とするものであるが、日本軍当局は、右委員会の中立性維持能力を危ぶんで、この安全区を正規の中立地帯として公式に承認することはしなかったが、軍隊の立入禁止区 域の設定という趣旨は諒として、事実上安全区の存在を尊重する-もちろん、支那軍による同様の尊重が必須の条件とされたが-ことにしたのであった。(P316-P317)
 南京城内外での激戦の結果、安全区内に遁入・潜伏する支那敗残兵の数は少なくなかった。
 一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、投降したとは認められないので、攻撃できるのである。安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもで きたのに、それをしなかったのであり、残敵掃討が諸国の軍隊にとってむしろ普通の行動であることを考えると、敗残兵と確認される限り、便衣の潜伏支那兵への攻撃は合法と考えられるが、安全区の存在とその特性を考慮に入れるならば、出入を禁止されている区域である安全区に逃げ込むことは、軍律審判の対象たるに値する戦争犯罪行為(対敵有害行為)を構成すると認められ、安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しく、彼らに正当な捕虜の資格がないことは既に歴然としている。
 兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(軍事的必要)― 軍事史研究家の原剛氏は、多数の便衣兵の集団を審判することは「現実として能力的に不可能であった」と認めている―、また市街地における一般住民の 眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる。
 その二は、戦闘中に集団で捕えられた敵兵の処断である。同じように戦闘中に捕えられながらも釈放された支那兵が多数いたことを見れば(前出『南京戦史』第五表を参照)、日本軍の側に捕えた敵兵を組織的に絶滅させる計画的な意図が無かったことは明白である。具体的な 熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。
『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるペき戦時 国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。
 支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない。(P317)

第10号 日本大使館への手紙 第11号 司法部で起きた事件に関する覚え書き 第12号 安全区内の難民宿泊所一覧 徐淑希編『南京安全区檔案』より 1937.12.18

NUMBER 10

  LETTER  TO  JAPANESE  EMBASSY※

            December 18, 1937

※Marked “For the kind attention of Mr. Kiyoshi Fukui, Second Secretary.”

    第十号

  日本大使館への手紙※

          一九三七年十二月十八日

※「二等書記官福井淳氏の御親切な対応を願って」と書き込みあり。

 

Dear sirs :

親愛なる皆様、

 

 We are very sorry to trouble you again but the sufferings and needs of the 200,000 civilians for whom we are trying to care make it urgent that we try to secure action from your military authorities to stop the present disorder among Japanese soldiers wandering through the Safety Zone.

 再び皆様のお手を煩わすことは心苦しい限りでありますが、安全区中をうろつく日本兵たちによる現在の狼藉をやめさせる措置をお国の軍当局に執って頂こうと私たちがするのは、面倒を見ようとする二十万人の非戦闘員市民の苦難と欠乏に迫られてのことであります。

 

 There is no time or space here to go into the cases that are pouring in faster than we can type them out. But last night Dr. Bates of our Committee went to the University of Nanking dormitories to sleep in order to protect the 1, 000 woman that fled there yesterday because of attacks in their homes.  He found no Gendarmerie on guard there nor at the University library building. When at 8 p.m. Mr. Fitch and Dr. Smythe took Rev. W. P. Mills to Ginling College to sleep in a house near the gate (as one of us have been doing every night since the 14th in order to protect the 3,000 women and children, yesrerday augmented to 4,000 by the panic), we were seized roughly by a searching squad and detained for over an hour.  The officer had the two women in charge of Ginling College, Miss Minnie Vautrin and Mrs. Chen, with a friend, Mrs. Twinem, lined up at the gate and kept them there in the cold and the men pushed them around roughly.  The officer insisted there were soldiers in the compound and he wanted to find them and shoot them.  Finally, he let us go home but would not let Rev. Mills stay so we do not know what happened after we left.

 私たちがタイプで打ち出すのが追い付かない速さで殺到する事例の一つひとつに立ち入る時間も紙幅もありません。しかし昨夜、当委員会のベイツ博士は金陵大学の寮に泊まりに行きました。自宅で受けた攻撃のため昨日そこへ避難してきた千人の女性たちを守るためにです。行って見るとそこも大学図書館憲兵の警護がありませんでした。午後八時にフィッチ氏とスマイズ博士がW・P・ミルズ師を金陵女子文理学院の門の近くの建物に泊まらせる(これは三千人の、昨日の恐慌のため増加して四千人の、女の人と子どもを守るために委員会からだれか一人が十四日から毎夜してきたことです)ために連れて行くと、三人は捜索隊に乱暴に取り押さえられ一時間以上も足止めされました。士官は金陵女子文理学院を担当する二人の女性、ミニー・ヴォートリン嬢とチェン夫人、そして友人のトウィネム夫人を門の前に並ばせ、寒気に曝し、男たちは彼女たちを乱暴に扱いました。士官は校庭内に兵士たちがいると主張し、見つけ出して射殺したいと言いました。とうとう士官はを帰してくれましたが、ミルズ師を残そうとしなかったので、三人が去った後に何が起こったか私たちは知りません。

 

 This combined with the marching off of the men at the Ministry of Justice on December 16 (see separate “Memorandum”), among which were several hundred civilian men to our positive knowledge and 50 of our uniformed police, had made us realize that, unless something is done to clear up this situation, the lives of all the civilian men in our Zone are at the mercy of the temperamrnt of searching captains.

 私たちが確認しているだけでも何百人という非戦闘員市民や、当委員会の制服警察官を含め、司法部に収容された男たちが十二月十六日に連行されたこと(別紙「覚え書き」参照)もこれに考え併せると、私たちは気付かずにはいられません。どうにかしてこの状況を解決しなければ、私たちの区域の一切の非戦闘員男性の命の沙汰は捜索隊長の気分次第なのです。

 

 With the panic that has been created among the woman who are now flocking by the thousands to our American institutions for protection, the men are being left more and more alone.  (For instance there were 600 people in the old Language School at Siao T’ao Yuen up till December 16.  But because so many woman were raped there on the nigbt of December 15, 400 women and children moved to Ginling College, leaving 200 men.)  These public institutional buildings were originally listed to accommodate 35,000 people; now, because of panic among the woman, this has increased to 50,000, although two buildings have been emptied of men: the Ministry of Justice and the Supreme Court.

 女たちに恐慌が広がり、今では何千何万という女たちが当区域のアメリカ施設に保護を求め群がっておりますが、この恐慌のためますます多くの男たちが独りで放置されております。(例えば小桃源にある古い外国語学校には十二月十五日まで600の人たちがいました。しかしそこで十二月十五日の夜、多くの女たちが強姦されたために、400人の女たちと子どもたちが200人の男たちを残して金陵女子文理学院に移りました。)これらの公共施設の建物は当初35,000人を収容するために登録されたのですが、女たちに広がった恐慌のため、この数は50,000に増加しました。男たちがいた司法部と最高法院という二つの建物には誰も居なくなったにもかかわらずであります。

 

 If this panic continues, not only will our housing problem become more seriouse but the food problem and the questions of finding workers will seriously increase.  This morning one of your representatives, Mr. K. Kikuchi, was at our office asking for workers for the electric light plant.  We had to reply that we could not even get our own workers out to do anything.  We are only able to keep rice and coal supplied to those large concentrations of people by Western members of our Committee and Staff driving trucks for rice and coal.  Our Food Commissioner has not dared leave his house for two days.  The second man on our Housing Commission had to see two women in his family at 23 Hankow Road raped last night at supper time by Japanese soldiers.  Our Associate Food Cimissioner, Mr. Sone (a Teological Professor), has had to convey trucks with rice and leave the 2,500 people in families at his Nanking Theological Seminary to look out for themselves.  Yesterday, in broad daylight, several women at the Seminary were raped right in the middle of a large room filled with men, women, and children!  We 22 Westerners cannot feed 200,000 Chinese civilians and protect them night and day.  That is the duty of the Japanese authorities.  If you can give them protection, we can help feed them!

 この恐慌が続けば当区域の住宅問題が深刻になるだけでなく、食糧問題や働き手を見つける困難も深刻に増大します。今朝、貴大使館の代弁者の一人であるK.キクチさんが私たちの事務所にいらっしゃり、電灯線発電所の作業員をお求めになりました。私たちは自分の所のあれこれの仕事にさえ働き手を集められないとしか答えられませんでした。私たちにできるのは米と石炭をこの密集した大人口に供給することだけです。外国人委員と職員が米と石炭を運ぶためにトラックを走らせることだけです。当委員会の食糧部長はこの二日間、自宅の外に出ようという気になれません。当委員会のの住宅部副責任者は自分の家族の女性が二人までも漢口路二十三番地の家で夕食時に日本兵に強姦されるのを目にしなければせんでした。当委員会の食糧協力委員であるソーン氏(神学教授)はここのところ毎日トラックで米を運ぶため、見張る者なく2,500人の難民家族を自分の南京神学院に置いていかなければなりませんでした。昨日、白昼公然と、神学院の何人もの女性が、男たちや女たちや子どもたちで一杯の大部屋の真っ只中で強姦されました!私たち二十二人の西洋人は二十万の中国人非戦闘員市民を給養することもできませんし、昼夜を分かたずこの人たちを守ることもできません。それは日本側当局の務めです。もしあなたたちがこの人たちを守って下さるのでしたら、私たちはこの人たちの給養に協力できるでしょう!

 

 There is another matter that is in the minds of the Japanese officers searching the Zone:  they think the place is full of “plain-clothes soldiers.”  We have notified you several times of presence of soldiers who, disarmed, entered the Zone on the afternoon of December 13.  But now we can safely assure you that there are no groups of disarmed Chinese soldiers in the Zone.  Your searching squads have cleaned out all of them and many civilians along with them.

 区域を捜索する日本兵たちが気にかけているもう一つの事柄があります。彼らはその場所が「便衣隊」で一杯だと思っております。武装解除されて十二月十三日の午後に区域に入った兵士たちが存在することを、私たちは皆様に何度もお知らせしました。しかし今や武装解除兵の集団は区域内にいないと保証しても大丈夫であります。お国の捜索隊は彼らをすっかり取り除いてしまいました。多くの民間人を巻き添えにしてであります。

 

 For the good of all concerned, we wood beg to make the following constructive suggestions:

 関係する一切の人々にとって良かれと思い、以下の建設的提案をさせていただきます。
 
 Ⅰ.Control of Soldiers.
 一、兵士の統制

 

 1. We repeat our request of yesterday for patrols of Gendarmerie for the Zone night and day.

 1. 私たちは昨日、憲兵による昼夜の区域巡視をお願いしましたが、あらためてこれをお願いします。

 

 2. In our lettor of December 16, we asked that guards be placed at entrances to the Zone to keep out wandering soldiers at night.  This has not been done.  But we hope the Japanese Army will find some way to prevent soldiers from robbing, raping and killing the civilian population, especially at night when soldiers might be confined to their barracks.

 2. 十二月十六日お手紙で私たちは夜間にうろつく兵士たちを中に入れないため区域への各入口に衛兵を立てることをお頼みしましたが、これもなされておりません。しかし非戦闘員住民に対する掠奪、強姦、殺人を兵士たちにさせない何らかの方法を日本陸軍が見付けて下さることを私たちは希望します。特に夜間は兵士たちを兵舎から出さない様にすることができるわけですから。

 

 3. Until general order can be restored among the soldiers will you please station sentries at the entrance to our 18 larger concentrations of refugees.  These sentries should be instructed to be responsible for preventing soldiers climbing over the walls of the compounds as well.  (See list of “Refugee Camps” attached.)

 3. 兵士たちの中に全般的秩序が回復されるまで、当区域の比較的大きな十八ヶ所の難民集中収容所の入り口に、よろしければ、歩哨を配置して下さい。なおこれらの歩哨には兵士たちが敷地の塀を乗り越えるのを責任を持って阻止することも言い含めるべきであります。(別添の「難民宿泊所」一覧を御覧下さい。)

 

 4. We would also respectfully request that a proclamation in Japanese be put at each of these refugee camps describing what they are and ordering Japanese soldiers not to molest poor people.

 4. さらにまた、日本語の布告をこれらの難民宿泊所の一つひとつに張り出して、それらが何であるかを説明し、日本兵たちに哀れな人々をいたぶるなと命令することもお願い申し上げます。

 

 Ⅱ.Searching.

 二、捜索

 

 1. Since our refugee camps seem to be misunderstood by captains of sesrching squads, we suggest that today we will be glad to have a high officer of the Japanese Army accompany one of our housing men to each of the 18 refugee camps and see them in daylight.

 1. 私たちの難民宿泊所は捜索隊長たちに誤解されている様でありますから、私たちは日本陸軍の高級将校が今日、当委員会の住居手配担当者たちと一緒に全十八ヶ所の難民宿泊所を廻り、白日の下にそれらを視察することをお勧めいたします。

 

 2. Since we know there are no groups of disarmed soldiers in the Zone and there has been no sniping in the Zone at any time; and since, furthermore, search of both Refugee Camps and private houses has been carried out many times and each time means robbery and rape; we would venture to suggest that the Army’s desires to prevent any former Chinese soldier’s hiding in the Zone can now be accomplished by the Gendarmeries mentioned above.

 2. 私たちの知る限り区域内には武装解除兵の集団は存在いたしませんし、これまで区域内で狙撃事件は一度もなかったわけでありますから、そして更に申し上げれば、難民宿泊所の捜索も個人宅の捜索もこれまで何回も繰り返され、毎回その実態は掠奪と強姦だったわけでありますから、思い切ってお勧めいたしますが、元兵士が区域内に隠れることを防ぐという陸軍のお望みは、今や前述の憲兵によって果たせるのではないでしょうか。

 

 3. We venture to make these suggestions because we sincerely believe that if the civilian population is left alone for two or three days, they will resume their nomal daily life in the Zone, food and fuel can be transported , shops will open, and workers will appear looking for work.  These workers can then help start the essential servies of electricity, water and telephones.

 3. 私たちがこれらの不躾なお勧めをいたしますのは、非戦闘員住民は二、三日でもそっとして置かれれば区域内で標準的な日常生活を取り戻すでしょうし、食糧と燃料は輸送できるようになり、商店は開き、労働者は仕事を探して姿を見せるでしょうことを、本当に信じているからであります。そうなればこれらの労働者たちは電気や水道、電話という欠かせない業務を再開する力になることができるのです。

 

 Ⅲ.Police that have been taken away.

 三、連れ去られた警察官

 

 Yesterday we called your attention to the fact that 50 uniformed police had been taken from the Ministry of Justice, and that 46 “volunteer police” had also been marched off.  We now must add that 40 of our uniformed police stationed at the Supreme Court were also taken.  The only stated charge against them was made at the Ministry of Justice where the Japanese officer said they had taken in soldiers after the place had been searched once , and, therefore they were to be shot.  As pointed out in the accompanying “Memorandum on the Incident at the Ministry of Justice,” Western members of our Commitee take full responsibility for having put some civilian men and women in there because they had been driven out of their places by Japanese soldiers.

 50人の制服警察官が司法部から連れ去られ、46人の「志願警察官」もまた連行された事実には、昨日御注意をお願いしましたが、最高法院に配置された40人の制服警察官も連れ去られたことを今また付け加えなければなりません。彼らへの一度きりの罪の宣告は司法部においてなされ、そのときの日本軍将校の話では、彼らはその場所[最高法院]が一度捜索された後で兵士たちを中に入れたのであり、そのため彼らは銃殺に値するとのことでした。別紙の『司法部で起きた事件に関する覚え書き』で指摘されているように、私たち委員会の外国人メンバーは全責任を持って申し上げますが、私たちは男女の非戦闘員をそこに入れたのでした。それはその人たちが日本軍兵士たちによって以前いた場所から追い出されたからであります。

 

 Yesterday, we requested that the 450 uniformed police assigned to the Zone be now organized into a new police force for the city under Japanese direction.  At the same time, we trust the above mentioned 90 uniformed pllice will be restored to their positions as policemen and that 46 volunteer police will either be returned to our office as workers, or we be informed of their whereabouts.  We have on file a complete list of the 450 uniformed police assigned to the Zone, so can help you in this process.

 区域に割り当てられた450人の警察官を日本軍指揮下の市のための新しい警察力に組織し直すことを昨日私たちはお願いしました。同時に私たちは皆様が前述の90人の制服警察官を警察官の地位に復帰させてくださり、また46人の志願警察官を労働者として当事務所に戻してくださるか、さもなくば私たちに彼らの行方を知らせてくださることと信じております。私たちは区域に割り当てられた450人の制服警察官全員の名簿を綴じて持っておりますので、皆様のこの作業に協力できます。

 

 Trusting that you will pardon our venturing to make these suggestions, and assuring you of our willingness to cooperate in every way for the welfare of the civilians in the city, I am

          Most respectfully yours,

             JOHN H.D. RABE

              Chairman

 Enclosure:

 Memorandum on Incident at Ministry of Justice

 List of Refugee Camps in Safety Zone.

 

 皆様が私たちのこれらの不躾なお勧めを容赦してくださるものと信じ、私たちが市内の非戦闘員の福祉のため如何様にも協力することに吝かでは御座いませんことを保証いたしまして、
         誰よりも皆様を尊敬する
         主席 ジョン・H・D・ラーベ

 同封資料:

 司法部で起きた事件に関する覚え書き

 安全区内の難民宿泊所一覧

 

NUMBER 11

  MEMORANDUM  ON  INCIDENT

  AT  THE  MINISTRY  OF  JUSTICE

 On the morning of December 16, a group of Japanese soldiers under an officer came to the Ministry of Justice and insisted on marching off most of the men to be shot ─ at least, that is what the officer said he was going to do with them.  He also marched out all the police after seriously manhandling the Police Captain.  There were probably 50, because that was the assignment to that station.

第11号

  司法部で起きた事件に関する覚え書き

 12月16日の朝、一人の士官が指揮する日本兵の集団が司法部に来て、男性の大半を連行して銃殺すると主張した。少なくとも士官がこれから彼らをどうするかということについて言ったのはそういうことだった。士官はまた警察隊長をひどく手荒に扱った上で警察官をみなそこから連行した。多分50人だったはずた。それがその配置の割り当て数だったからだ。

 

 Two days previously, December 14, a Japanese officer came into the Ministry of Justice and inspected the group, from which they took about 200 to 300, whom the officer claimed were soldiers, and left 330 men, whom they acknowledged to be civilians.  This first search of half of the men in the building was very carefully carried out.  The remaining half, which the officer did not inspected that day, were quartered in a separate part of the building and he promised to come back the next day, December 15, to inspect them and remove such soldiers as they might find among them.  No officer came on 15th to sort them.  But on the 16th, an officer came and declared that they had taken all the soldiers st the time of the first search on the 14th.  Because he found some solduers in this group on the 16th (including the half which had not been previously inspected), the officer declared that the police and we had put soldiers in there since the first inspection.

 2日前の12月14日には一人の日本軍の士官が司法部に入って来て集団を検索し、その中から彼が兵士であると主張するおよそ二、三百人を連れ去り、非戦闘員であると認めた330人の男性を残した。この建物のなかの男たちに対する1回目の検索はとても注意深く行われた。その日に士官が検索しなかった残る半分は建物の一定の部分に隔離して収容され、士官は翌12月15日に彼らを検索し、中に兵士が見つかればそうした兵士を取り除くと約束した。15日には彼らを仕分ける士官は誰も来なかった。しかし16日になると一人の士官がやって来て、兵士はみな14日の1回目の捜索のときに連れて行ったと言い立てた。16日の集団(以前に検索を受けたことがなかった半分を含めて)の中に幾人か兵士を見つけたからと言って、士官は警察官と当委員会が1回目の検索以降に兵士をそこに入れたと言い張った。

 

 The only persons we added to this group were a number of civilians that have been forced out of other houses by Japanese soldiers, who were taken to the Ministry of Justice by Mr. McCallum of the University Hospital and Dr. M. S. Bates of our Committee.  The fact that they found soldiers in the group on the 16th was not because the Committee had added any soldiers to the group, but because the Japanese soldiers had failed to inpect the second half of the group on the 15th as planned.

 当委員会が集団に加えた人たちは日本兵によって他の家から出ることを強いられた多数の非戦闘員だけであり、彼らは鼓楼病院のマッカラム氏と当委員会のM·S·ベイツ博士に連れられて司法部に来た人たちである。16日の集団の中に兵士が見つかった事実は、委員会が何ら兵士を集団に加えたからではなく日本兵が予定通り15日に残り半分の検索をすることを怠ったからである。

 

 This whole incident on the morning of December 16 was observed by Mr. James McCallum of the University Hospital and Mr. Charles Riggs of our Committee and associate Housing Commissioner.  During the process, the officer threatened Mr. Riggs with his sward three times and finally hit him hard over over the heart twice with his fist.  All Mr. Riggs was trying to do was to explain to the officer the situation described above in order to prevent civilians from being mistaken for former soldiers.

           LEWIS S. C. SMYTHE

               Secretary

December 18, 1937

 この12月16日の事件には鼓楼病院のジェームズ·マッカラムさんと当委員会の委員であり住宅部協力員であるチャールズ·リッグズさんが最初から最後まで居合わせた。事件の流れのなかで士官はリッグズさんを3度までも軍刀で脅し、仕舞いには胸の心臓の辺りを握り拳で2度、強く殴った。リッグズさんは非戦闘員が元兵士と間違われるのを防ぐために上述の事情を士官に説明しようとしただけだった。

         書記 ルイス·S·C·スマイズ

1937年12月18日

 

NUMBER 12

LIST OF REFUGEE CAMPS IN THE SAFETY ZONE

     as of December 17, 1937

Name of Building / Number of Refugees / Sex

  1.  Old Ministry of Communications / 10,000 or more /Families

  2.  Wutaishan Primary School / 1,640 / Families

  3.  Hankow Road Primary School / 1,000 / Families

  4.  Military College / 3,500 / Families

  5.  Nanking Language School / 200 / Men

  6.  Milhtary Chemical Shops (back of Overseas Building) / 4,000 / Families

  7.  University Middle School / 6,000─8,000 / Families

  8.  Bible Teacher's Training School / 3,000 / Families

  9.  Overseas Building / 2,500 / Families

10.  Nanking Theological Seminary / 2,500 / Families

11.  Ministry of Justice / Empty

12.  Supreme Court / Empty

13.  Sericulture Building at Univ. of Nanking / 4,000 / Families

14.  Library Building at Univ. of Nanking / 2,500 / Families

15.  German Club / 500 / Families

16.  Ginling College / 4,000 / Woman & children

17.  Law College / 500 / Families

18.  Rural Leaders Training School / 1,500 / Families

19.  Shansi Road Primary School / 1,000 / Families

20.  University of Nanking dormitories / 1,000 / Wonen & children

   Total porsons / 49,340─51,340

第12号

  安全区内の難民宿泊所一覧

   (1937年12月17日現在)

建物名 / 難民数 / 性別

  1.  交通部旧館 / 10,000人以上 / 家族

  2.  五台山小学 / 1,640人 / 家族

  3.  漢口路小学 / 1,000人 / 家族

  4.  陸軍大学 / 3,500人 / 家族

  5.  南京語学校(小桃源) / 200人 / 男子

  6.  軍用化学工場(華僑招待所) / 4,000人 / 家族

  7.  金陵大学附属中学 / 6,000人~8,000人 / 家族

  8.  聖書師資訓練学校 / 3,000人 / 家族

  9.  華僑招待所 / 2,500人 / 家族

10.  南京神学院 / 2,500人 / 家族

11.  司法部 / 無人

12.  最高法院 / 無人

13.  金陵大学蚕厰 / 4,000人 / 家族

14.  金陵大学図書館 / 2,500人 / 家族

15.  ドイツ人倶楽部 / 500人 / 家族

16.  金陵女子文理学院 / 4,000人 / 婦人·児童

17.  法学院 / 500人 / 家族

18.  農村師資訓練学校 / 1,500人 / 家族

19.  山西路小学 / 1,000人 / 家族

20.  金陵大学寮 /1,000人 / 婦人·児童

   総計 49,340人~51,340人