Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

第9師団 機密作戦日誌(上海~南京)より 1937.11.12~12.13

   11月12日 曇後雨 中新涇鎮 追擊

 本日、より追撃の電話命令あり。すなわち作命甲第52号を下達す。左追撃隊を第6師団の後方を前進せしめし理由、左のごとし。

 軍命令のごとく黄渡鎮西方地区に師団の全力を前進せしむるは、道路とクリークの関係上、追撃著しく遅滞するの懼れありしをもって、軍の了解を得、左追擊隊を先ず第6師団の後方を前進、蘇州河渡河後、師団の作戦地域内に入らしむごとくせり。

 師団主力の追撃を13日とし、第11師団の作戦地境を前進せし理由、左のごとし。

 先に師団は三江、青浦の線に追撃を具申せるも、軍は第9師団は現在地付近にその兵力を集結し追撃に使用するの意志なし。少なくも1週間は戦後の整理をなさむとのことなりしをもって、戦場掃除、隊伍の整頓、諸整理の実施中にして、12日は追撃不可能の状態にあり。

 進路を第11師団作戦地域、一部を第3師団作戦地域内を前進せしめしは前記理由によるほか、車輛部隊を有せしによる。

 

   11月13日 晴 中新涇鎮~南翔 追撃

 師団主力は午前8時、北新涇鎮出発、行進著しく遅滞し、夜、南翔西部に到着、宿営す。
 行進遅滞せし理由、左のごとし。

1.道路不良。特に橋梁は随所に破壊せられあり。

2.野戦重砲兵連隊、師団命令の厳守不十分なりしため、道路を閉塞せること。

3.各部隊、道路解放に関し無関心なるのみならず、1道路に数縦隊併進し、左図のごとき状態を呈せること。

   左 図

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4.前衛に架橋材料中隊(駄)を配属せしため、行進遅滞せしこと。

 

[書き込み]従来、馬匹の著しき損耗と支那軍の特性上、即ち陣地に拠れる支那軍は出撃することなく、また近距離にあらざれば射撃せざる等のため、大行李は小行李とともにほとんど合一し、部隊長の直接指揮に行動せしめたり。本追撃においても大行李を一団として本隊の後方より前進せしむることなく、部隊内にありて前進せしめたり。したがって行進を遅滞せしめし一原因となれり。(師団長

 

   11月15日 晴 崑山

 右追撃隊は道路、クリークの障害のため行進著しく遅滞し、倪家橋に達し宿営す。

 師団は軍命令にもとづき蘇州に向かい敵を追撃すべく処置する所あり。然るに第6師団の作戦主任、師団司令部に(崑山)来たり、敵はトーチカを有する陣地に拠り頑強に抵抗し、攻撃は極めて困難なりと通報す。

 すなわち師団は追撃を中止し、渡河攻撃の命令を下達す。

 

   11月16日 小雨 崑山

 15日夜半までに左翼隊は敵の退却に尾し河南上南北の線に進出す。

 即ち攻撃命令を取り消し、左翼隊を追撃隊とし蘇州に向かい追撃せしめ、右翼隊を崑山に集結す。

 ただし右翼隊との無線通信十分ならず、17日、漸く崑山付近に集結す。

 

   11月18日 曇 崑山

 第一線は当面の敵を撃破し、敵を急追す。

 すなわち師団は先ず蘇州に向かい敵を急追するに決し、追撃に関する命令を下達す。

 

   11月19日 雨 蘇州

 新義鎮において歩兵第18旅団長は部下の窮状を述ぶる所あり。

 参謀長すなわち即座に「困苦欠乏は全師団同一なり。単に歩兵第18旅団のみにあらず。師団は全力を挙げて追撃中にあらずや」と詰問す。

 歩兵第18旅団長すなわち「予の言はその意味にあらず。ただ旅団の実情を述べしのみ」と。

 夕刻、蘇州に入り、始めて歩兵第35連隊は夜襲後、一挙に数線の敵トーチカ陣地帯を突破し、本朝午前6時30分、すでに蘇州を占領せることを知る。

 軍との連絡不能なり。

 

   11月20日 雨 蘇州

 師団は軍所命の目標を占領せるをもって、有力なる一部をもって無錫に敵を追撃せしめ、主力は湖上機動を準備するところあり。

 参謀長は軍の意図(軍は蘇州攻略後、師団を該地に集結すとの内示あり)と師団の現状に鑑み、一部をもってする敵情捜索は実施するも、追撃隊派遣はこれを行わざるむね指示する所ありしも、作戦主任ならびに情報主任参謀は有力なる部隊をもってする追撃の必要を説き、その同意を得。

 

   11月21日 雨 蘇州

 飛行機来たり軍命令を投下す(作命甲第206号)。師団は既に処置ずみなりしをもって処置するところなし。

 午後9時、各隊副官を集め左記事項に関し注意するところあり。

1.徴発と掠奪と混同すべからず。徴発は必ず陣中要務令の規定を遵守すべし。

2.皇軍の威信を損ずるがごとき非人道的行為の絶滅。

3.その他、物資収集、残敵掃蕩、戦場掃除、衛生事項。

 この日、湖上機動計画(作命甲第81号)を立案す。

 

   11月23日 曇 蘇州

 里見部隊の連絡将校来たる。すなわちこれと協議の結果、作命甲第84号を下達し、湖上機動の準備と後方輸送を命ずる所あり。

 後方輸送を命ぜし理由、左の如し。

 師団は中新涇鎮より戦闘後の整理未完のまま追撃を続行せり。

 しかして一方、馬匹の損耗は各所に戦闘資材を残置し、これが前送には自動貨車700了解を要し、師団の戦力は著しく減耗しあり。山砲弾薬も1基数弱?を携行せるに過ぎず。兵站は全く延伸せられず補給は自力をもって上海より実施せざるべからざるの現況なり。

 すなわち爾後の作戦準備の第一は、これらの前送にありというも過言にあらず。湖上機動の実施は主として偵察の関係上、27日と予定せるをもって、力行せば25、26日は主要戦闘資材を輸送し得るの状況なりしをもってなり。


   11月24日 晴 蘇州

 作戦主任参謀は秋山支隊の湖上機動訓練視察に趣き、該地において里見部隊長と会す。

 然るに里見部隊長は、昨朝、命令を受領せるにかかわらず、何等の意見具申も行うことなく、単に湖上機動の準備に支障をきたす恐れありとの理由をもって独断的に輸送に関する任務を実行しあらず。

 作戦主任参謀は大いにその非を詰[なじ]りしも、時機すでに遅く、いかんともし難し。すなわち湖上機動終了後、全力をもって輸送に任ずべきを約す。


   11月26日 晴 望亭

 秋山支隊より無線あり、曰く、
湖上機動のための油は単に1往復半に過ぎずと。

 油の補給に関しては再三、軍に要求しありしにかかわらず、明日の湖上機動を実施せんとする今日、未だ補充しあらざるを知り、直ちに軍第一課、川上参謀に電話す。

 川上参謀は在蘇州第1碇泊場司令部より受領すべく答ふるところあり。

 すなわち在蘇州、小西参謀に電話せるも、碇泊場司令部の位置判明せず、再び川上参謀に明日まで必ず輸送する如く要求するところあり。


   11月27日 曇後雨 無錫

 この日、軍より僅少の油、補給し来たる。

 小西参謀は蘇州において極力、油を捜索せし結果、飛行場において約千鑵の油を発見、辛うじて予定のこまとく湖上機動を実施するを得たり。

 師団主力は夕刻、無錫に到着す。しかるに追撃隊は昨夕、無錫を占領せるにかかわらず、本1日を市内の掃蕩、隊伍の整頓に空費しあり。

 すなわち師団司令部は旅団司令部の前方、無錫西端に進出、宿営し、もって無言の鞭韃をなすところあり。

 

   11月28日 晴 無錫

 追撃隊は黎明、無錫出発、追撃を開始す。

 師団主力は本一日、無錫において爾後の進撃を準備す。

 その理由、左のごとし。

一、無錫以西は物資乏しく、給養に支障をきたすなるべし。これがため無錫において糧秣を収集し、これが運搬の方法を講ずるを必要とす。

二、軍、秋山支隊ならびに後方整理のため蘇州に残置せし後方主任参謀との連絡の要あり。

三、軍所命の常州に向かう追撃は主力をもってする躁急の追撃を要せず。

【1367】

  12月2日 晴 卜戈橋

[書き込み]参謀長は明3日出発を主張せるも、師団長は準備でき次第出発を命じ、侍従武官の聖旨伝達後、正午、出発せり。(師団長)

 夜、軍より天王寺に向かい追撃すべき命令あり。

 作戦主任は軍の真意を質すべく川上参謀を電話口に呼ぶ。

 第一課長、代わりて出で、初めて軍は南京に向かい追撃するを明示す。

 ここにおいて師団の作戦指導ならびに司令部における空気は著しく明朗となり、全機能を挙げて南京攻撃に邁進するに至れり。

 軍は従来、いずれの線まで進出すべきやに関し方針確立せず。一面、恐らく師団の上海戦において被りし打撃に対する親切心より、機会を捉え師団に給養と戦後の整理、戦力の回復を要する時間の余裕を与えんとせり。

 即ち中新涇鎮においては師団の三江、青浦に向かう追撃の意見具申を認可せず、第1課長は参謀長に1週ないし10日位は現在地を動くことなかるべしと述べ、追撃後も蘇州に集結を内示し、蘇州占領後は師団は蘇州に集結し、一部をもって無錫を攻略せしむるほかは当分、使用せざる見込みなるむねを告げ、さらに常州に向かう前進の場合は少なくも2週間は常州に滞在すべきを明示せり。

 かくのごとく事前に消極的意図を示せるため、師団の作戦指導にはやや溌剌たる気勢をそぎ、司令部内の空気また明朗を欠きたるものあり。特に後方勤務に支障を来せること甚大にして、その状況、左のごとし。

1.師団の中新涇鎮付近に集結するや直ちに戦場掃除、糧秣(3日分)集結積、補給、資材の前送、兵器の修理に着手せしが、急遽、追擊に変更せるため、資材の大部、戦場掃除隊等を残置し追撃するのやむなきに至り、これが集結·集積に約2週間を要し、その量、自動貨車約700両に達せり。

2.次いで師団が蘇州に集結を命ぜらるるや、将来の前進を顧慮し舟筏の収集を開始し、また後方整理を企図し、11月23日9師作命丁第63号を下達せしが、明24日、師団主力の常州付近に向かってする追撃命令を受領し、後方整理を中止せしも、一部部隊は補給点南付近にありしため、主力を崑山以東に配置し弾薬資材の前送に任じ、師団主力の給養は蘇州付近の徴発物資によれるため、駄馬輜重の前進は著しく後れたり。

3.また師団が常州付近に集結の命を受くるや、後方資材の前送は挙げて常州に向けて実施せるも、再び金壇に向かい追撃すべき命を受け、後方部隊および資材をこれに到らしむるごとく区処せり。

4.次いで天王寺、南京に追撃すべき軍の意図を知り、始めて後方整理を短期間に実施すること能わざるを判断し、南京追撃に必要最小の弾薬·糧秣を輸送するごとく輜重の運用を決定し、各部隊の残置人馬、後方機関を南京に向けて前進するごとく区処し得たり。

 蓋し当時、師団の各部隊の残置人馬·資材等は、上海、蘇州、常州、金壇間に亘り、師団の南京攻撃は3分の1の戦力を以て敢行せざるべからざるの運命に立ち到れり。

 

   12月6日 晴 萗?野鎮

 淳化鎮敵陣地に対し重点を本道北側に指向し攻撃せる理由、左の如し。

 左方平地方面はクリーク大にして攻撃困難なるのみならず、第10軍の一部は午前8時、胡教堂南方に達せるの報あり。したがって混雑を惹起するの危険あり。

 右方山岳方面は山岳概して剣峻にして、攻擊に時間を要す。

 本道北側方面は敵の陣地概して堅固なりといえども、迅速なる攻撃と戦力の発揮容易なり。

 

   12月8日 晴 萗墅鎮

 夕刻、師団は当面の敵を撃破し、一挙、南京城を屠るべく、これを急追す。

 当時、南京付近の状況は全く不明なり。

 これより先、軍より、南京城頭壁の一番乗りは直ちに大本営に電報し大元帥陛下に奏上すべきをもって、至急報告すべしとの要求あり。

 これがため各兵団·各団隊の競争心理を動かせしこと言語に絶するものあり。

 この夜、左追擊隊たる歩兵第十八旅団副官より電話あり、曰く、
35i(右追撃隊本隊)は歩兵第36連隊の直後を前進しあり、連隊長は左追擊隊の地境内を前進せるかくのごとき部隊はこれを斬り捨つべしと極度に憤慨しあり。追撃地境を厳守するごとく師団において注意せられたし」
と。当時における両追撃隊の追撃地境は淳化鎮西北約1,500m、明鎮典曲線高地~山下村南側高地~南京城東南端(中山門南方約2km)を連ぬる線とし、線上は右追撃隊にこれを含ましめあり。

 しかれども右追撃隊方面は山岳重畳、しかも岩石地多く、夜間の追撃はすこぶる困難なるものあり。したがって右追擊隊本隊の35iは自然、本道方面ニ前進し来たりしものなり。すなわち情報主任、作戦主任参謀相次いでその不心得を説く。参謀長自ら電話にかかり、さらにこれを強調し、飽くまで固執せば第二線に集結すべしと結ぶ。

 この事件はさらに歩兵第36連隊の突進に拍車をかけ、9日未明、南京城壁に到達するに至らしめたり。

 

   12月9日 晴 山下方橋

 軍第一課長より電話あり、曰く、
「たとい奪取せらるるも可なるをもって、1名たりとも城壁を占領し、日章旗を樹立せられたし」と。

 第16師団の進出遅滞しあるため、右翼隊の一部をして紫金山を占領せしむ。

 紫金山は師団作戦地域外なるも、南京直接防御線の最要点たり。南京城に於て真面目の抵抗を実施する現況において、該高地を奪取するにあらざれば師団の攻撃は極めて困難なり。いわんや第16師団の進出遅れある現況においてしかり。

 

   12月10日 晴 山下方橋

 両翼隊、就中左翼隊は終夜、城壁の占領を企図せるも、ついに奏功するに至らず。

 ここにおいて作戦主任参謀は正攻、奇襲、強襲の3方法の併用による攻撃計画案を作成せるも、第一線の状況、未だ十分明らかならざるものあり、工兵隊長の意見具申を俟って命令すべしと保留す。

 しかるに左翼隊長より夕刻、城壁占領の報告あり。

 沈痛なりし司令部の空気忽ち爆発して明朗の感激に一変す。

 すなわち直ちに軍に報告する所あり。

 軍司令官宮殿下より折り返し祝電あり。

 この夜、大坪参謀より電話あり、曰く、
「第9師団はすでに光華門を占領せるをもって、中山門を第16師団に譲られたし」と。

 第16師団との作戦地境は二堅橋、土橋鎮、辺山、南京市政府に定められあり。ただし南京市政府は軍の誤りにて、12月8日、大坪参謀、師団司令部に来たりたるとき、国民政府と訂正せり。

 したがって中山門は当然、師団の作戦地境にして、該地付近を第16師団に譲ることは地形の関係上、右翼隊の攻撃をして著しきく困難ならしむるに至る。

 ここにおいて参謀長対第1課長の電話により、中山門の中央を両師団の作戦地境と定むることに協議成立し、一段落を遂ぐるに至れり。

  攻撃計画案

   方針

師団は正攻、強襲、奇襲の方法を併用、もって城壁の占領を企図す。

   要領

1.坑道作業により城内に進入す

2.爆破、爆擊、砲擊により城門、城壁を破壊す。

3.梯類を利用し奇襲的に城壁を占領す。

   部署

1.概ね現在の部署をもって攻撃す。第一線隊長は特に城壁攀登の方法を創意し、奇襲的に城壁の占領に努む。

2.工兵隊長は一部を以て右翼隊、主力を以て左翼隊の攻擊に協力し、主として坑道ならびに爆破に任ず。

 第一線配属工兵を区処す。

 ただし第一線隊長は要求に応じ積極的にこれを援助す。

3.砲撃、爆撃に関しては別に定む。


   12月11日 晴 山下方橋

 作戦主任参謀をして連絡ならびに作戦指導のため左翼隊長の下に派遣す。

 当時、左翼隊は光華門のみの攻略に努力しあり。作戦主任は、門の両側、若干距離を隔て更に城壁を破壊するとともに城壁下に坑道を掘進し、正攻、強襲両方法により戦闘を指導するごとく要求す。

 左翼隊長は、城壁下と水濠間に余地なきも更に偵察研究すべく答ふる所あり。


   12月12日 晴 山下方橋

 右翼隊より独立重砲兵連隊の鹵獲せる南京付近空中写真を送付し来たる。

 該写真によれば中山門以西の壕は幅150m~250mにして、当時使用しありし地図と全然相違しあるを発見す。

 すなわちかくのごとき水壕を有する城壁攻撃は、十分なる準備のもとに正攻法によるにあらざれば攻撃至難なるを認め、先ず右翼隊の意向を聞く。しかるに右翼隊副官、黒須中佐は自信をもって明朝城壁を奪取すと答ふ。

 当時、紫金山、雨下台ともに我が手に期[→帰]し、昨日まで猛威を逞しうせる南京敵高射砲は全く影を潜め、全線の敵また昨日に比し活発ならず、敵は本夜、退却をなすにあらざるやとの懸念、大なるものあり。
 すなわち正攻法を保留し、右翼隊の攻撃を是認し且つ両翼隊に敵退却の徴あるむねを述べ、その機を失せざらむことを要求する所あり。

 午後3時、右翼隊より電話あり、曰く、 
「第16師団の歩兵第20連隊は黎明、中山門南側の破壊口を利用して突撃すという。師団よりしかるべく処置せられたし」と。

 作戦地境問題はすでに20日、第1課長、参謀長間に協議成立し決定済みのものなり。すなわち作戦主任参謀は軍の川上参謀に電話し、第16師団の不法を告げ善処を要望す。

   12月13日 晴 山下方橋

 午前6時、右翼隊は敵の大なる抵抗を受くることなく中山門一帯の城壁を占領す。

 第16師団は午前3時半、中山門を占領せりとの軍通報ありしも、何等の形跡なし。恐らく中山陵の誤りなりしならむ。

 これより先、後方主任参謀は、軍命令のいかんにかかわらず、一挙、揚子江の線に追撃すべしと提案し、全幕僚またこれに同意し、軍の了解を得ありしも、海軍はすでに鎮江の水中障害を除去し朔江し、第6師団は南京西方地区に進出中にして、第16師団の一部また下関に迫りつつありとの情報ありしをもって、城内飛行場西側クリークの線に追撃せしめ、右翼隊をして引き続き市内の掃蕩を実施せしめ、状況により師団主力をもって追撃し得るごとく準備する所あり。

 間もなく川上参謀より電話あり、曰く、
「敗残兵400~500軍司令部の近傍に現出せり。約1大隊の派遣を乞う」と。

 すなわち大隊長ノ率ゆる2ヶ中隊と戦車1小隊を派遣することにせり。しかるにさらに大坪参謀より、敵は3,000を下らず、後備中隊は全滅に頻しありとの通報に接す。
 すなわち右翼隊より歩兵第19連隊を抽出し、該隊長の指揮する歩兵3大隊、砲兵1大隊、工兵1小隊を急派す。

[書き込み]参謀長は性格上、個人的に歩兵第18旅団長に心好からざる点あり。反影は幸い作戦の成果には寧ろ好結果(迅速なる南京突進)として現れたるも、作戦主任の兵力部署の考案に大なる制肘を加えたるのみならず、電話等の応答において旅団長をして極めて不愉快裏に戦闘を指導するに至らしめたり。

 また追撃における参謀長の態度は極めて消極にして、作戦主任の放胆なる考案を控制し、師団長の追撃戦闘を消極に陥らしむんとせしこと一再にして止まらず。例えば崑山、蘇州間の地狭における敵陣地の強度を危惧し、任務を放棄して常熟に迂回せむとし、強硬なる作戦主任の反対を受けたるがごとき、あるいは蘇州、常州よりの追撃前進を遷遠せむとせしがごとき、これなり。(師団長)

 

【1341】

  十一月十二日

   曇後雨

   中新涇鎮

   追擊

本日 軍ヨリ追擊ノ電話命令アリ 即チ作命甲第五十二號ヲ下達ス 左追撃隊ヲ第六師團ノ後方ヲ前進セシメシ理由 左ノ如シ

軍命令ノ如ク黄渡鎮西方地區ニ師團ノ全力ヲ前進セシムルハ 道路ト「クリーク」ノ関係上 追擊 著シク遲滯スルノ懼アリシヲ以テ 軍ノ諒解ヲ得 左追擊隊ヲ先ツ第六師團ノ後方ヲ前進、蘇州河渡河後 師團ノ作戰地域内ニ入ラシム如クセリ

師團主力ノ追撃ヲ十三日トシ 第十一師團ノ作戰地境ヲ前進【1342】セシ理由 左ノ如シ

先ニ師團ハ三江、青浦ノ線ニ追擊ヲ具申セルモ 軍ハ第九師團ハ現在地附近ニ其兵力ヲ集結シ 追擊ニ使用スルノ意志ナシ 少クモ一週間ハ戰後ノ整理ヲナサムトノ事ナリシヲ以テ 戦場掃除、隊伍ノ整頓、諸整理ノ實施中ニシテ 十二日ハ追擊不可能ノ狀態ニ在リ

進路ヲ第十一師團作戰地域、一部ヲ第三師團作戰地域内ヲ前進セシメシハ前記理由ニ依ル外 車輛部隊ヲ有セシニ依ル

【1343】

  十一月十三日

   晴

   中新涇鎮~南翔

   追撃

師團主力ハ午前八時 北新涇鎮出發 行進著シク遲滯シ 夜 南翔西部ニ到著 宿營ス

行進遲滯セシ理由 左ノ如シ

一、道路不良 特ニ橋梁ハ隨所ニ破壞セラレアリ

二、野戰重砲兵聨隊 師團命令ノ嚴守 不十分ナリシ爲 道路ヲ閉塞セル事

三、各部隊 道路解放ニ関シ無関心ナルノミナラス 一道路ニ數縱隊併進シ 左圖ノ如キ狀態ヲ呈セル事

   左 圖

【1344】

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四、前衞ニ架橋材料中隊(駄)ヲ配属セシメシ爲 行進遲滯セシコト

 

[書き込み]從来 馬匹ノ著キ損耗ト支那軍ノ特性上 即チ陣地ニ據レル支那軍ハ出擊スル事ナク 又 近距離ニアラサレハ射擊セサル等ノ爲 大行李ハ小行李ト共ニ殆ト合一シ 部隊長の直接指揮ニ行動セシメタリ 本追擊ニ於テモ大行李ヲ一團トシテ本隊ノ後方ヨリ前進セシムル事ナク 部隊内ニ在リテ前進セシメタリ 從テ行進ヲチ遲滯セシメシ一原因トナレリ(師團長)

【1345】

  十一月十五日

   晴

   崑山

右追擊隊ハ道路「クリーク」ノ障碍ノ爲 行進著シク遲滯シ 倪?家橋ニ達シ宿營ス

師團ハ軍命令ニ基キ蘇州ニ向ヒ敵ヲ追擊スへク處置スル所アリ 然ルニ第六師團ノ作戰主任 師團司令部ニ(崑山)來リ 敵ハ「トーチカ」ヲ有スル陣地ニ據リ頑强ニ抵抗シ 攻擊ハ極メテ困難ナリト通報ス

即チ師團ハ追擊ヲ中止シ渡河攻擊ノ命令ヲ下達ス

【1346】[白紙]

【1347】

  十一月十六日

   小雨

   崑山

十五日夜半迄ニ左翼隊ハ敵ノ退却ニ尾シ河南上南北ノ線ニ進出ス

即チ攻擊命令ヲ取消シ 左翼隊ヲ追擊隊トシ蘇州ニ向ヒ追擊セシメ 右翼隊ヲ崑山ニ集結ス

但 右翼隊トノ無線通信十分ナラス 十七日 漸ク崑山附近ニ集結ス

【1348】[白紙]

【1349】

  十一月十八日

   曇

   崑山

第一線ハ当面ノ敵ヲ擊破シ 敵ヲ急追ス

即チ師團ハ先ツ蘇州ニ向ヒ敵ヲ急追スルニ決シ 追擊ニ関スル命令ヲ下達ス

【1350】[白紙]

【1351】

  十一月十九日

   雨

   蘇州

新義鎮ニ於テ歩兵第十八旅團長ハ部下ノ窮状ヲ述フル所アリ

参謀長 即チ即座ニ「困苦缺乏ハ全師團同一ナリ 單ニ歩兵第十八旅團ノミニ非ス、師團ハ全力ヲ擧ケテ追擊中ニ非スヤ」ト詰問ス

歩兵第十八旅團長 即チ「予ノ言ハ其意味ニ非ス 只 旅團ノ實情ヲ述ヘシノミ」ト

夕刻 蘇州ニ入リ 始メテ歩兵第三十五聨隊ハ夜襲後 一擧ニ數線ノ敵「トーチカ」陣地帶ヲ突破シ 本【1352】朝午前六時三十分 既ニ蘇州ヲ占領セルコトヲ知ル

軍トノ連絡不能ナリ

【1353】

  十一月二十日

   雨

   蘇州

師團ハ軍所命ノ目標ヲ占領セルヲ以テ 有力ナル一部ヲ以テ無錫ニ敵ヲ追擊セシメ 主力ハ湖上機動ヲ準備スル所アリ

参謀長ハ軍ノ意圖(軍ハ蘇州攻略後 師團ヲ該地ニ集結ストノ内示アリ)ト師團ノ現状ニ鑑ミ 一部ヲ以テスル敵情捜索ハ實施スルモ 追擊隊派遣ハ之ヲ行ハサル㫖 指示スル所アリシモ 作戦主任 並 情報主任参謀ハ有力ナル部隊ヲ以テスル追擊ノ必要ヲ説キ 其ノ【1354】同意ヲ得

 

【1355】
  十一月二十一日
   雨
   蘇州

飛行機 來リ軍命令ヲ投下ス(作命甲第二〇六號)師團ハ旣ニ處置スミナリシヲ以テ處置スル所ナシ

午後九時 各隊副官ヲ集メ左記事項ニ関シ注意スル所アリ

一、徴発ト掠奪ト混同スヘカラス 徴発ハ必ス陣[✕地✕]中要務令ノ規定ヲ遵守スヘシ

二、皇軍ノ威信ヲ損スルカ如キ非人道的行爲ノ絶滅

三、其他 物資蒐集 残敵掃蕩【1356】戦場掃除、衞生事項

此日 湖上機動計畫(作命甲第八十一號)ヲ立案ス

【1357】
  十一月二十三日
   曇
   蘇州

里見部隊ノ連絡將校來ル 即チ之ト協議ノ結果 作命甲第八十四號ヲ下達シ 湖上機動ノ準備ト後方輸送ヲ命スル所アリ

後方輸送ヲ命セシ理由 左ノ如シ

師團ハ中新涇鎮ヨリ戰斗後ノ整理未完ノ儘 追擊ヲ續行セリ

而シテ一方 馬匹ノ損耗ハ各所ニ戰鬪資材ヲ残置シ 之カ前送ニハ自動貨車七〇〇輛ヲ要シ 師團ノ戰力ハ著シク減耗シアリ、山砲彈藥モ一基數弱?ヲ携行セル【1358】過キス 兵站ハ全ク延[✕進✕]伸セラレス補給ハ自力ヲ以テ上海ヨリ實施セサルヘカラサルノ現況ナリ

即チ爾後ノ作戦準備ノ第一ハ之等ノ前送ニ在リト云フモ過言ニ非ス湖上機動ノ實施ハ主トシテ偵察ノ関係上 二十七日ト豫定セルヲ以テ 力行セハ二十五、二十六日ハ主要戦鬪資材ヲ輸送シ得ルノ狀況ナリシヲ以テナリ

【1359】
  十一月二十四日
   晴
   蘇州

作戰主任参謀ハ秋山支隊ノ湖上機動訓練視察ニ趣キ 該地ニ於テ里見部隊長ト會ス
然ルニ里見部隊長ハ 昨朝命令ヲ受領セルニ拘ラス 何等ノ意見具申モ行フ事ナク 單ニ湖上機動ノ準備ニ支障ヲ來ス恐アリトノ理由ヲ以テ獨断的ニ輸送ニ関スル任務ヲ實行シ非ス

作戦主任参謀ハ大ニ其非ヲ詰リシモ 時機既ニ遅ク 如何トモシ難シ 即チ湖上機動終了後 全【1360】力ヲ以テ輸送ニ任スヘキヲ約ス

【1361】
  十一月二十六日
   晴
   望亭

秋山支隊ヨリ無線アリ 曰ク

湖上機動ノ[✕油✕]爲ノ油ハ單ニ一往復半ニ過キスト

油ノ補給ニ關シテハ再三 軍ニ要求シアリシニ拘ラス 明日ノ湖上機動ヲ實施セントスル今日 未タ補充シ非[✕ス✕]サルヲ知リ 直ニ軍第一課 川上参謀ニ電話ス

川上参謀ハ在蘇州第一碇泊場司令部ヨリ受領スヘク答フル所アリ

即チ在蘇州 小西参謀ニ電話セ【1362】ルモ碇泊場司令部ノ位置 判明セス 再ヒ川上参謀ニ明日迄 必ス輸送スル如ク要求スル所アリ

 

[書き込み]師團長ハ速ニ追擊ニ移ラント[✕希望✕]主張シタルモ 参謀長ハ準備整ハサルヲ理由トシテ時間ヲ遷延シ 漸ク午前十時 出發ス(師團長)

 【1363】
  十一月二十七日
   曇後雨
   無錫

此日 軍ヨリ僅少ノ油 補給シ來ル

小西参謀ハ蘇州ニ於テ極力 油ヲ捜索セシ結果 飛行場ニ於テ約千鑵ノ[✕約✕]油ヲ発見 辛フシテ豫定ノ如ク湖上機動ヲ實施スルヲ得タリ

師團主力ハ夕刻 無錫ニ到着ス 然ルニ追擊隊ハ昨夕 無錫ヲ占領セルニ拘ラス 本一日ヲ市内ノ掃蕩 隊伍ノ整頓ニ空費シアリ

乃チ師團司令部ハ旅團司令部ノ前方 無錫西端ニ進出 宿營シ 以テ無言ノ鞭韃ヲナス所アリ

【1364】[白紙]

【1365】
  十一月二十八日
   晴
   無錫

追擊隊ハ黎明 無錫出発 追擊ヲ開始ス

師團主力ハ本一日 無錫ニ於テ爾後ノ進擊ヲ準備ス

其理由 左ノ如シ

一、無錫以西ハ物資乏シク給養ニ支障ヲ來スナルヘシ 之カ爲 無錫ニ於テ糧秣ヲ蒐集シ 之カ運搬ノ方法ヲ講スルヲ必要トス

【1366】
二、軍、秋山支隊 並 後方整理ノ爲蘇州ニ残置セシ後方主任参謀トノ連絡ノ要アリ

三、軍所命ノ常州ニ向フ追擊ハ主力ヲ以テスル躁急ノ追擊ヲ要セス

【1367】

  十二月二日
   晴
   卜戈橋

 

[書き込み]參謀長ハ明三日出發ヲ主張セルモ 師團長ハ準備出来次第出發ヲ命シ侍從武官ノ聖㫖傳達後 正午 出發セリ(師團長)

 

夜 軍ヨリ天王寺ニ向ヒ追擊スヘキ命令アリ

作戦主任ハ軍ノ眞意ヲ質スヘク川上参謀ヲ電話口ニ呼フ

第一課長代リテ出テ初メテ軍ハ南京ニ向ヒ追擊スルヲ明示ス

此處ニ於テ師團ノ作戰指導 並 司令部ニ於ケル空氣ハ著シク明朗トナリ 全機能ヲ擧ケテ南京攻擊ニ邁進スルニ至レリ

軍ハ從來 何レノ線迄進出スヘキヤニ関シ方針確立セス 一面 恐ラク【1368】師團ノ上海戰ニ於テ被リシ打擊ニ對[✕シ✕]スル親切心ヨリ機會ヲ捉ヘ師團ニ給養ト戰後ノ整理、戰力ノ囘復ヲ要スル時間ノ餘裕ヲ與ヘントセリ

即チ中新涇鎮ニ於テハ師團ノ三江、青?浦ニ向フ追擊[✕ヲ✕]ノ意見具申ヲ認可セス 第一課長ハ参謀長ニ一週乃至 十日位ハ現在地ヲ動クコトナカルヘシト述ヘ、追擊後モ蘇州ニ集結ヲ内示シ 蘇州占領後ハ師團ハ蘇州ニ集結シ 一部ヲ以テ無錫ヲ攻【1369】略セシムル外ハ當分 使用セサル見込ナル㫖ヲ告ケ、更ニ常州ニ向フ前進ノ場合ハ少クモ二週間ハ常州ニ滞在スヘキヲ明示セリ

斯クノ如ク事前ニ消極的意圖ヲ示セル爲 師團ノ作戰指導ニハ稍溌剌タル氣勢ヲ殺キ 司令部内ノ空氣 又 明朗ヲ缺キタルモノアリ 特ニ後方勤務ニ支障ヲ來セル事 甚大ニシテ 其狀況 左ノ如シ

一、師團ノ中新涇鎮附近ニ集結スルヤ直ニ戰場掃除、糧秣(三日分)集結積【1370】補給、資材ノ前送 兵器ノ修理ニ着手セシカ 急遽 追擊ニ変更セル爲 資材ノ大部、戰場掃除隊等ヲ残置シ追擊スルノ已ムナキニ至リ 之カ集結 集積ニ約二週間ヲ要シ 其量 自動貨車約七〇〇輛ニ達セリ

二、次テ師團カ蘇州ニ集結ヲ命セラルルヤ 將来ノ前進ヲ顧慮シ舟筏ノ蒐集ヲ開始シ 又 後方整理ヲ企圖シ十一月二十三日 九師作命丁第六十三號ヲ下達セシカ 明二十四日 師團主力ノ常州附近ニ向テスル追【1371】擊命令ヲ受領シ後方整理ヲ中止セシモ 一部々隊ハ補給點南附近ニ在リシ爲 主力ヲ崑山以東ニ配置シ彈藥資材ノ前送ニ任シ師團主力ノ給養ハ蘇州附近ノ徴発物資ニ依レル爲 駄馬輜重ノ前進ハ著シク後レタリ

三、又 師團カ常州附近ニ集結ノ命ヲ受クルヤ 後方資材ノ前送ハ擧テ常州ニ向テ實施セルモ再ヒ金壇ニ向ヒ追擊スヘキ命ヲ受ケ 後方部隊 及 資材ヲ之ニ到ラシムル如ク區處セリ

【1372】
四、次テ天王寺 南京ニ追擊スヘキ軍ノ意圖ヲ知リ 始メテ後方整理ヲ短期間ニ實施スルコト能ハサルヲ判断シ 南京追擊ニ必要最小ノ彈藥、糧秣ヲ輸送スル如ク輜重ノ運用ヲ決定シ 各部隊ノ残置人馬、後方機關ヲ南京ニ向テ前進スル如ク區處シ得タリ

蓋シ當時 師團ノ各部隊ノ残置人馬 資材等ハ上海、蘇州、常州、金壇間ニ亘リ 師團ノ南京攻擊ハ三分ノ一ノ戦力ヲ以テ敢行セサルヘカラサルノ運命ニ立到レリ

【1373】
  十二月六日
   晴
   萗野鎮

化鎮敵陣地ニ對シ重點ヲ本道北側ニ指向シ攻擊セル理由 左ノ如シ

左方平地方面ハ「クリーク」大ニシテ 攻擊困難ナルノミナラス 第十軍ノ一部ハ午前八時 胡教堂南方ニ達セルノ報アリ 從テ混雑ヲ惹起スルノ危険アリ

右方山岳方面ハ山岳槪シテ剣峻ニシテ 攻擊ニ時間ヲ要ス
本道北側方面ハ敵ノ陣地槪シテ堅固ナリト雖モ 迅速ナル攻擊ト戰力ノ発揮 容易ナリ

【1374】[白紙]

【1375】
  十二月八日
   晴
   萗墅鎮

夕刻 師團ハ當面ノ敵ヲ擊破シ一擧 南京城ヲ屠ルヘク之ヲ急追ス

當時 南京附近ノ狀況ハ全ク不明ナリ

之ヨリ先キ軍ヨリ 南京城頭壁ノ一番乘ハ直チニ大本營ニ電報シ 大元帥陛下ニ奏上スヘキヲ以テ 至急報告スヘシトノ要求アリ

之カ爲 各兵團 各團隊ノ競争心理ヲ動カセシ事 言語ニ絶スルモノアリ

此夜 左追擊隊タル歩兵第十八旅團副官ヨリ電話アリ 曰ク

「/35i(右追擊隊本隊)ハ歩兵第三十六聨隊ノ直後ヲ前進シアリ、聯隊長【1376】ハ左追擊隊ノ地境内ヲ前進セル斯クノ如キ部隊ハ之ヲ斬捨ツヘシト極度ニ憤慨シアリ 追擊地境ヲ嚴守スル如ク師團ニ於テ注意セラレ度シ」

ト 當時ニ於ケル兩追擊隊ノ追擊地境ハ淳化鎮西北約一五〇〇米 明鎮典 曲線髙地─山下[×方×]村南側髙地─南京城東南端(中山門南方約二粁)ヲ連ヌル線トシ 線上ハ右追擊隊ニ之ヲ含マシメアリ

然レ共 右追擊隊方面ハ山岳重疊 而モ岩石地多ク 夜間ノ追擊ハ頗ル困難ナルモノアリ 從テ右追擊隊【1377】本隊ノ/35iハ自然 本道方面ニ前進シ來タリシモノナリ 即チ情報主任、作戦主任参謀 相次テ其不心得ヲ説ク 参謀長自ラ電話ニカカリ更ニ之ヲ強調シ 飽ク迄 固執セハ第二線ニ集結スヘシト結フ

此ノ事件ハ更ニ歩兵第三十六聨隊ノ突進ニ拍車ヲ懸ケ 九日未明 南京城[内ニ×]壁ニ到達スルニ至ラシメタリ

【1378】[白紙]

【1379】
  十二月九日
   晴
   山下方桥

軍第一課長ヨリ電話アリ 曰ク

「縱ヒ奪取セラルルモ可ナルヲ以テ 一名タリトモ城壁ヲ占領シ日章旗ヲ樹立セラレ度シ」ト

第十六師團ノ進出遲滯シアル爲 右翼隊ノ一部ヲシテ紫金山ヲ占領セシム

紫金山ハ師團作戦地域外ナルモ 南京直接防御線ノ最要點タリ 南京城ニ於テ眞面目ノ抵抗ヲ實施スル現況ニ於テ 該髙地ヲ奪取スルニ非サレハ師團ノ攻擊ハ極メテ困難ナリ 况ヤ第十六師團ノ進出 遅レアル現況ニ於テ然リ

【1380】[白紙]

【1381】
  十二月十日
   晴
   山下方桥

兩翼隊 就中 左翼隊ハ終夜 城壁ノ占領ヲ企圖セルモ 遂ニ奏功スルニ至ラス

此處ニ作戰主任参謀ハ正攻 奇襲、强襲ノ三方法ノ併用ニ依ル攻擊計畫案ヲ作成セルモ 第一線ノ狀況 未タ十分明カナラサルモノアリ、工兵隊長ノ意見具申ヲ俟ツテ命令スヘシト保留ス

然ルニ左翼隊長ヨリ夕刻 城壁占領ノ報告アリ

沈痛ナリシ司令部ノ空氣ハ忽チ爆発シテ明朗ノ感激ニ一変ス
即チ直ニ軍ニ報告スル所アリ

【1382】
軍司令官宮殿下ヨリ折返シ祝電アリ

此夜 大坪参謀ヨリ電話アリ曰ク

「第九師團ハ既ニ光華門ヲ占領セルヲ以テ中山門ヲ第十六師團ニ讓ラレ度シ」ト

第十六師團トノ作戦地境ハ二堅橋、土橋鎮、邊山、南京市政府ニ定メラレアリ、但 南京市政府ハ軍ノ誤リニテ十二月八日 大坪参謀師團司令部ニ來リタル時 國民政府ト訂正セリ

從テ中山門ハ當然 師團ノ作戦地境ニシテ 該地附近ヲ苐十六師團ニ【1383】讓ルコトハ 地形ノ關係上 右翼隊ノ攻擊ヲシテ著シク困難ナラシムルニ至ル 此處ニ於テ参謀長 對 第一課長ノ電話ニヨリ 中山門ノ中央ヲ兩師團ノ作戦地境ト定ムル事ニ協議成立シ 一段落ヲ遂クルニ至レリ

 攻擊計畫案

  方針

師團ハ正攻、强襲、奇襲ノ方法ヲ併用 以テ城壁ノ占領ヲ企圖ス

  要領

一、坑道作業ニ依リ城内ニ進入ス

二、爆破、爆擊、砲擊ニ依リ城門、【1384】城壁ヲ破壞ス

三、梯類ヲ利用シ奇襲的ニ城壁ヲ占領ス

  部署

一、槪ネ現在ノ部署ヲ以テ攻擊ス 第一線隊長ハ特ニ城壁攀登ノ方法ヲ創意シ奇襲的ニ城壁ノ占領ニ努ム

二、工兵隊長ハ一部ヲ以テ右翼隊、主力ヲ以テ左翼隊ノ攻擊ニ協力シ 主トシテ坑道 並 爆破ニ任ス

第一線配属工兵ヲ區處ス

但 第一線隊長ハ要求ニ應シ積極的ニ之ヲ援助ス

三、砲擊、爆擊ニ関シテハ別ニ定ム

【1385】
  十二月十一日
   晴
   山下方桥

作戦主任参謀ヲシテ連絡 並 作戦指導ノ爲 左翼隊長ノ下ニ派遣ス

當時 左翼隊ハ光華門ノミノ攻略ニ努力シアリ 作戦主任ハ 門ノ兩側 若干距離ヲ隔テ更ニ

城壁ヲ破壞スルト共ニ 城壁下ニ坑道ヲ掘進シ 正攻、强襲 兩方法ニ依リ戦斗ヲ指導スル如ク要求ス

左翼隊長ハ 城壁下ト水濠間ニ餘地ナキモ 更ニ偵察研究スヘク答フル所アリ

【1148】
  十二月十二日
   晴
   山下方桥

右翼隊ヨリ獨立重砲兵聯隊ノ鹵獲セル南京附近空中寫眞ヲ送付シ來ル

該寫眞ニ依レハ中山門以西ノ壕ハ幅一五〇米─二五〇米ニシテ 當時使用シアリシ地圖ト全然相違シアルヲ発見ス

即チ斯クノ如キ水壕ヲ有スル城壁攻擊ハ 十分ナル準備ノ下ニ正攻法ニ依ルニアラサレハ攻擊至難ナルヲ認メ 先ツ右翼隊ノ意向ヲ聞ク 然ルニ右翼隊副官 黒須中佐ハ自信ヲ以テ 明朝 城壁ヲ奪取スト答フ

【1149】
當時 紫金山、雨下台 共ニ我手ニ期シ 昨日迄猛威ヲ逞シウセル南京敵髙射砲ハ全ク影ヲ潜メ 全線ノ敵 又 昨日ニ比シ活溌ナラス 敵ハ本夜 退却ヲナスニ非サルヤトノ懸念 大ナルモノアリ

即チ正攻法ヲ保留シ右翼隊ノ攻擊ヲ是認シ 且 兩翼隊ニ敵退却ノ徴アル旨ヲ述ヘ其機ヲ失セサラム事ヲ要求スル所アリ

午後三時 右翼隊ヨリ電話アリ 曰ク

第十六師團ノ歩兵第二十聨隊ハ黎明 中山門南側ノ破壞口ヲ利用シテ突擊スト云フ 師團ヨリ【1150】然ル可ク處置セラレ度シト

作戰地境問題ハ既ニ十日 第一課長、参謀長間ニ協議成立シ 決定済ノモノナリ 即チ作戰主任参謀ハ軍ノ川上参謀ニ電話シ 第十六師團ノ不法ヲ告ケ 善處ヲ要望ス

【1151】[白紙]

【1152】
  十二月十三日
   晴
   山下方桥

午前六時 右翼隊ハ敵ノ大ナル抵抗ヲ受クルコトナク中山門一帶ノ城壁ヲ占領ス

第十六師團ハ午前三時半 中山門ヲ占領セリトノ軍通報アリシモ 何等ノ形跡ナシ 恐ラク中山陵ノ誤ナリシナラム

之ヨリ先キ 後方主任参謀ハ軍命令ノ如何ニ拘ラス一擧 揚子江ノ線ニ追擊スヘシト提案シ 全幕僚 亦 之ニ同意シ 軍ノ了解ヲ得アリシモ 海軍ハ旣ニ鎭江ノ水中障碍ヲ除去シ朔江シ 第六師團ハ南京西方地區ニ進出中ニシテ 第十六【1153】師團ノ一部 又 下関ニ迫リツツアリトノ情報アリシヲ以テ 城内飛行場西側「クリーク」ノ線ニ追擊セシメ 右翼隊ヲシテ引續キ市内ノ掃蕩ヲ實施セシメ 狀況ニ依リ師團主力ヲ以テ追擊シ得ル如ク準備スル所アリ

間モ無ク川上参謀ヨリ電話アリ曰ク

敗残兵四~五〇〇 軍司令部ノ近傍ニ現出セリ 約一大隊ノ派遣ヲ乞フト 即チ大隊長ノ率ユル二ヶ中隊ト戰車一小隊ヲ派遣スル事ニセリ 然ルニ更ニ大坪参謀ヨリ【1154】敵ハ三〇〇〇ヲ下ラス 後備中隊ハ全滅ニ頻シアリトノ通報ニ接ス

即チ右翼隊ヨリ歩兵第十九聨隊ヲ抽出シ 該隊長ノ指揮スル歩兵三大隊、砲兵一大隊、工兵一小隊ヲ急派ス

[書き込み]参謀長ハ性格上 個人的ニ歩兵第十八旅團長ニ心好カラサル點アリ 此ノ反影ハ幸ヒ作戰ノ成果ニハ寧ロ好結果(迅速ナル南京突進)トシテ現レタルモ 作戰主任ノ兵力部署ノ考案ニ大ナル制肘ヲ加ヘタルノミナラス 電話等ノ應答ニ於テ旅團長ヲシテ極メテ不愉快裏ニ戰鬪ヲ指導スルニ至ラシメタリ

又 追擊ニ於ケル参謀長ノ態度ハ極メテ消極ニシテ 作戰主任ノ放膽ナル考案ヲ控制シ 師團長ノ追擊戰斗ヲ消極ニ陥ラシメントセシ事 一再ニシテ止マラス 例ヘハ【1155】崑山 蘇州間ノ地狭ニ於ケル敵陣地ノ强度ヲ危惧シ 任務ヲ放棄シテ常熟ニ迂回セムトシ 强硬ナル作戰主任ノ反對ヲ受ケタルカ如キ 或ハ蘇州 常州ヨリノ追擊前進ヲ遷遠セムトセシカ如キ 之ナリ
(師團長)

 

機密作戦日誌(上海~南京) 
昭和12年9月28日~12月13日
(5)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112007600 p.21-p.52

機密作戦日誌(上海~南京) 
昭和12年9月28日~12月13日
(1)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112007200 p.12-p.19,

防衛省防衛研究所 支那-支那事変上海・南京-422)